2008年3月の地平線通信

■3月の地平線通信・340号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

2月末、浜比嘉島に行った。那覇のバスセンターから県総合運動場前で降り、沖縄マラソン10キロの受付を済ます。秋に捻挫して以来初めての足ならしをここでやるのだ。電話したら安村磨作紀君が車で来てくれた。1月の報告会に飛び入り参加し、「未知との遭遇」という文章をこの通信に書いてくれた、うるま市に住む音楽家だ。

◆勝連半島を浜比嘉に向かう途中、以前から行ってみたかった勝連城(かつれんぐすく)遺跡に立ち寄る。13、4世紀に築城され、城跡は2000年11月に首里城跡などとともにユネスコの世界遺産に登録された。石垣などかなり復元が進んでいるが、城壁は海側にストン、と切れ落ちていて柵もないからのぞきこむのは勇気を要した。

◆海中道路を渡って、道の駅でコーヒーを飲む。目の前をウィンドサーフィンの男たちがすっ飛ぶのにびっくりした。あんなにスピードが出るのか。「子ども時代、浜比嘉島は海に囲まれた島だった」、と安村君。今ではここから浜比嘉島の比嘉集落に住む外間(ほかま)さんの家まで車であっという間だ。門を入ると琉球犬のゴン(ことしの地平線カレンダーを見よ)がちぎれるように尻尾を振りまくった。1年半ぶりというのによく覚えている。

◆待っていてくれた地平線仲間の晴美さんに安村君を紹介し、一緒に牧場へ。ご主人の昇さんがヤギたちの囲いで汗を流していた。「へえ、こんなに増えたんだ」と驚く。8頭ほどだったヤギは子どもが産まれ、19頭になっていた。ウコッケイ、シャモなどニワトリの仲間、そして30羽のアヒルたちがグワッ、グワッ、と啼いて迎える。

◆夜、思いがけず昇さんの長兄の「トゥシビー(生年の祝い)」に招かれた。沖縄では数えで13才、25才、37才、49才、61才、73才と年の祝いをする。盛大に祝うのは85才で、最大のお祝いは97才の「カジマヤー(風車)」。人は風車のように回転し、子どもに戻る、とされ、島をあげての祝いとなるそうだ。そのカジマヤーの祝いをした時のお祖母さま(現在も103才で健在と聞いた)の写真が飾られた部屋で61才の長兄のお祝いが始まった。各自に中身汁と刺身、ご飯のお膳が出る。中身汁は豚の臓物の吸い物で、沖縄の行事に欠かせない。やがて、三線(さんしん)の出番となった。外間夫妻は三線が縁で結ばれただけあって、見事な弾き語りをする。泡盛に酔って、よせばいいのに私もいつの間にか歌っていた。

◆翌日10キロを何とか走って牧場に戻る。驚いたのは、目の前の山を一周する道が切り開かれていたことだ。もともと道があったらしいが、ジャングル状態になっていた。大きな岩のくぼみに風葬墓がひっそり残っているのに心うたれる。そして、ああ、自分はなんて沖縄のことを知らないんだ、と何十回目かの反省をする。外間牧場でのヤギの放牧はこの山道を行く。昇さんがアコウ、ガジュマル、桑などの木に登って枝を切り落とすと、ヤギたちは下で待ち構えてむさぼるように食べる。羊と違ってヤギは実に敏捷で激しい動きをする。「ヤギを放てば、道ができる」と昇さんが言うのがわかる。

◆琉球の精神文化を残す多くの伝説に包まれたこの島にとって大きな変化は、1997年2月「浜比嘉大橋」が架かったことだ。島内道路の整備が進んで暮らしやすくなった反面、外からの人の出入りが多くなった。家並みなど昔ながらの沖縄の風景を豊かに残しているため、雑誌のグラビア撮影などによく使われるらしい。実際、そういうクルーにも出会った。

◆月曜日、長野亮之介画伯が加わり、集落の人々と「地平線会議 in 浜比嘉島」について話し合う。その経緯はこの通信で画伯に書いてもらったが、何よりも「10月25、26日」と日程が固まったことが嬉しい。今からカレンダーに「浜比嘉」と書いておいてほしい。

◆4日滞在した最後の日、ゴンとのいつもの散歩を終えてから、牧場に行く。ヤギの放牧に行くのを見送り、思いついて「あの場所」に行った。牧場の奥に、つい2、3年前、外間さんたちが掘り起こした泉がある。こんこんと水が湧き出るその小さな泉に腕ほどの太さがあるうなぎが棲息している、と聞いた。晴美さんもまだ見ていない「泉の主(ぬし)」にいつかお目にかかりたい、と何度も出かけている。

◆今回もダメだろう、と思っていたら水の中でゆらり動くものがある。なんと、いたのだ! 太い胴体の魚がゆったり身を翻して窪みに消えてゆくではないか。どうしてこんな場所に海で産まれるうなぎがいるの? ああ、ナゾに満ちた島、浜比嘉!!(江本嘉伸)


先月の報告会から

チベットの、 名もなき花のように

エミコ + スティーブ・シール

2008年2月29日(金) 新宿スポーツセンター

2年ほど前のこと、地平線通信の発送作業をしていた僕の前にシール・エミコさんという女性が現れました。どこから見ても日本人のエミコさんに僕は思わず「芸名ですか?」と聞いてしまった。僕はエミコさんについて何も知らなくて、旅のことや病気のことを教えられたときは驚きましたが、それよりも、目をキラキラさせて毎日を明るく元気に生きる姿が僕の心には強く残りました。

◆そんなエミコさんの報告会は、まずはじめに、今回で3回目の地平線報告会ということ、賀曽利隆さんに江本さんを紹介されたことなど地平線と知り合ったいきさつが話され、続いて「明日3月1日はスティーブが旅立って19年目になります」という話になり「オーストラリアから来て今はエミの『豪州人(ご主人)』です」「これ、マイ箸。これは竹、マイタケ!」(リュックから箸と奈良の自宅から用意してきた笹竹をとり出しました)とネタが披露されたあと、チベット旅行の映像へと移っていきました。

◆ラサのポタラ宮からチョモランマベースキャンプに向けて笑顔で走り出す二人。生まれて初めての5000m。荒れた道と爆風のように叩きつける風と砂に加え高山病にも苦しめられたエミコさん。「これじゃ生きていけない」。それを聞いて「死ぬって言うな」と激しく怒るスティーブ。ベースキャンプまでの道のりはとても大変で「私達は山の女神に呼ばれていないのかも? だったら行きたくない」と思うも「とにかく何も考えず前に進むしかなく、時間が止まったようだった」と言います。

◆風を受けてその場に崩れ自転車に必死にしがみつくエミコさんや風に煽られ崖から落ちそうになったスティーブさんを見ると、本当に山が追い払おうとしているように感じてしまいます。しかし、ベースキャンプに着くと風がピタリと止んで「呼ばれてないんじゃなく試されてた」と気付き、今までの辛さは消えたそうです。「辛かったけど、がんばって目標を持っていると苦境は越えられる」。こんなカッコイイ台詞、僕も言ってみたい。

◆そんな苦労をしてたどり着いたベースキャンプもエミコさんは特に行きたかったわけではなく「スティーブさんが行きたい所について行った」だけで「地図を見てもわからないから自転車のことはスティーブに全部まかせて何も言わない」。その代わり「私が作る料理は何も言わず食べてもらう」と二次会で話していました。二人は本当に仲が良く、寝るときは両手をつないで寝ているそうです。天涯独身の僕には胸をエグられる話です。

◆ベースキャンプからは東チベットを通り雲南省のシャングリラ(香格里拉)へ向かいます。エミコさんは喜んでもらおうと454枚もの写真を持って来たのに「多すぎる!!」と江本さんに一喝され、スティーブさんには「今日はエミのスライドショーだから知らないよ」と言われ直前に慌てて282枚まで減らしたそうです。しかし実はカットされておらず、途中早送りしながら全部紹介されました。チベットは二人がイメージしていた「木がなく、乾いた、コンビニも無い所」ではなく、森があり、川も流れていました。他にも、泊まった宿に「歌手のBoA」のポスターがあったり、お寺ではお坊さんが使うトイレに「ベッカムのポスター」があったりと、行ってみたら持ってたイメージとは違ったそうです。

◆道端に咲く花や、空に浮かぶ雲、そしてチベットの風景など、先ほどの過酷な映像とは違い、旅を楽しんでいるような、潤いが感じられる写真が多く、解説するエミコさんも笑顔でとても楽しそう。その横でボケるスキをうかがうスティーブさん。こんな楽しそうな二人には人が集まるようで、現地の人やサイクリスト、中国軍や巡礼者、そして工事現場のおっちゃん等も多く写っていました。

◆しかし、すべて順調というわけでもなく、標高差が激しく道も気温もアップダウンの繰り返し。10年ぶりに雨が多かったため、川のように水が流れる道路。雨に濡れたテント。食べる物は、標高が高く水が沸騰しないため、ぬるいお湯で作りベチャベチャになったマズいインスタントラーメン。瓦礫を敷きつめたような所を自転車を抱えて進むような過酷な場面もありました。スティーブさんが「世界一ヒドイ道」と言うと「2年後は舗装されて世界一いい道になるからまた来なさい」と言われたと笑っていました。

◆8時の休憩に入るまえに、持ってきた石鹸の説明がありました。エミコさんはネパールで日本人のシスターが運営している学校をサポートしようと「笑み基金」をやっていて、売り上げを寄付するために石鹸を持って来ていました。その石鹸は7年前に夫をガンで亡くされた方の手作りで「笑み基金」に共感し寄付していただいたものです。奈良のホテル御用達の高級品らしく、すぐに売り切れてしまいました。当然僕も、美肌維持のために購入しました。

◆後半も写真が続きます。シャングリラの店には「説明文が意味不明のスルメ」「袋に天然のりと書かれたアンパン」「チョコアイスの袋から出てきた黒ゴマアイス」「ネズミに見えるニセキティちゃん」の隣にあった「変なドラえもん」など面白い物が多くて気に入ったそうです。街の気に入り方が景観や食べ物でなく面白さを基準にしているところがエミコさんらしいなと思いました。

◆多すぎると怒られた写真も無事終わり、エミコさんは「自分達は冒険者じゃなく普通の人」だと話し始めました。「ただやりたいことをやってきて、やらせていただいてきた。それはとてもありがたいこと。苦しさの中から楽しさを見つけること、それが私たちの冒険です」と。そして今を大切にしている。「病気になって思うのは、この1時間や1日は亡くなった人が生きたかった1日だと思うので、考えや、していることを大切にしていきたい」。入院中は死の恐怖に引きずり込まれそうになり、不安を取り除くために、余計なものをどんどん削っていき「シンプルに生きたい」と思ったそうです。

◆病気になってかわいそうと言われるとみじめになるけど、人のせいにしないで「ガンは自分で作ったものだ」と思い、食べ物や暮らしなどいろいろ変えていったおかげで、今では病気の前より健康になったと元気に話していました。そしてやはりスティーブさんの存在。スティーブと1日でも多く一緒にいたかったから「すべてを差し出すので、スティーブと一緒にいたい」と神に祈ったそうです。「固い絆に想いをよせて語り尽くせぬスティーブとの日々」という感じでしょうか? うらやましい限りです。

◆奈良の田舎で畑仕事しながらの今の暮らしは不便だけれど、空気も水も美味しくて星が綺麗。冬はとても寒いけど、季節が感じられ、動物や虫と共存している気がする。「そんな幸せで不満が全くない生活。だから生き返ったんだと思う」。そう言ってエミコ&スティーブの報告会は終わっていきました。

◆世界一周最終章は今年の9月に出発し「大阪城にゴールしたい」と言うエミコさんに対し、スティーブは「4月1日にゴールすると連絡し、人を集めておいてゴールしない。エイプリルフールだから」とひねくれたことを言っていました。さらにスティーブは「世界一周が終わったら『大阪の堺を一周』したい」と笑わせていましたが、ちゃんと「世界二周したい」とも言っていました。エミコさんはバイクで日本一周をしたので、今度は二人で日本一周したいそうです。その時には堺一周も実現されることでしょう。僕は大阪城で真田幸村の甲冑を着て帰りを待っていようと思います。(山辺剣 熟達城めぐり人)

[報告者のふたこと]

■前半、とても緊張してしまいました。なぜかというと、今までトライしたことのないスライドショーを地平線でやってみたいとひそかに思い今回の旅で(二人が)撮影した9854枚のうち454枚をピックアップ。よろこんで持っていったのはいいもののスティーブや江本さんに(真剣に)心配され「なにか意味があって多くなったの?」と聞かれたときは(はしゃいでいた自分が)情けなくなりちゃんと答えられませんでした。報告会の1時間前にあわてて減らしましたが心はもう「どうしよう〜(泣きそう)」状態。

◆調子のおかしい私をリラックスさせようとスティーブが(必死に)ダジャレを連発。箸とささ竹まで出してきて「コレハ、マイ箸。コレ竹、マイタケ!」。可笑しくて愛しくて目頭が熱くなりました。

◆写真はミスで削除されず本番ではすべて流れることに。一番あせったのはスティーブだったかもしれません。「カモン! クイック! クイック!」パソコンのボタンを押す私のひじをスティーブは何度もつつきました。

◆二次会では賀曽利さんが「スティーブの声、聞こえてましたよ。いや〜、1000枚ぐらい見せてほしかったな〜」とビールをぐびぐび。緊張のほぐれた私たちはがぶがぶ(飲みすぎました)。旅先で会った仲間が飛んできてくれて「相変わらずのスティーブさんと、エミさんのハートと、すばらしいお仲間で楽しい会でした」と言ってくださりその言葉で救われた思いです。

◆おかげさまで『笑み基金』の石けんも120個すべてが完売し、売上げの3万円は支援先のネパールの貧困児童センターにこの手で持っていくことを約束いたします。来春20年目のゴールをめざす世界一周最終ステージの出発は9月21日。笑顔で帰ってこれるよう精いっぱいがんばります。見守ってくださった江本さん、聞いてくださったみなさま、お忙しいなか本当にありがとうございました!(エミコ・シール)

■削除したはずの写真が映し出されたときは体が凍る思いがした。これはマーフィーの法則か? 地平線の仲間だったからこそ受けいれてもらえたのだと感じている。今回は東京に向かう新幹線の中で隣あわせた人も参加してくれ、人と人が色んな縁で結ばれているのを実感した。ゴールしたらみなさんにまたお会いしたい。いい仲間と出会えたことをあらためて感謝したい。(スティーブ・シール)


地平線ポストから

[エミコさん報告に刺激されて書き上げた
カソリの『チベット4ルート走破計画』]

■2月29日のシール・エミコさんの報告会はおもしろかった。というよりも、きわめて刺激的だった。お話を聞き、数々の写真を見せてもらいながら、「あー、自分もやってみたい!」、「よーし、自分もやろう!」と思ったのはきっとぼく一人ではなかったことだろう。チョモランマのベースキャンプに向かっていく途中の5000m級の峠越えはほんとうによくがんばったねと、声をかけてあげたくなった。よくぞあの烈風に耐え、走り抜いたものだ。

◆チベットの中心、ラサから東のルートは「カソリの世界地図」の空白地帯。ヤルツァンポ川の大屈曲点は見てみたいし、チベットから雲南に入り、大理(ターリー)へ、昆明(クンミン)へと走りたくなった。谷をひとつ越えれば、イラワジからサルウィン、そしてメコンへと次々と変わっていく川の流れ。なんとも魅力的なエリアではないか。揚子江の流れにも近い。ぼくの席のすぐそばにはこのエリアのエキスパート、安東さんがいてくれたおかげで、地図を見ながら詳細な説明をも聞くことができたのは、なんともラッキーなことだった。

◆報告会が終わり、家路につく間中、体内を流れる我が血の熱さを感じつづけた。家に帰りつくと、さっそく机に中国全土図を広げ、プラニングの開始だ。その結果、すばやくも次のような4ルートでのツーリングプランをつくり上げた。[1]新疆ウイグル自治区の中心、ウルムチを出発点にシルクロードを東へ。トルファン、ハミと通り、敦煌へ。そこから青海の高原地帯を走り抜け、ラサへ。ラサからはシガツェ、サガと通り、ヤルツァンポ川最上流部のマユム峠(5260m)を越え、聖山カイラスの麓を通り、崑崙山脈の5000m級の峠を越えて崑崙山麓のカルグリックに出る。そこからはヤルカンド経由で中国最西端の町、カシュガルへ。カシュガルからは天山山脈南麓のオアシス都市、アクス、コルラと通ってウルムチに戻るというもの。[2]黄河河畔の蘭州を出発点にし、青海省の省都、西寧からゴルムドへ。そこからは[1]と同じルートでラサへ。ラサからは今度は東へ。エミコ&スティーブのルートをたどり、雲南省の大理へ。そこからは昆明へ。昆明からは貴陽、重慶、成都を通って蘭州に戻るというもの。[3]タイのバンコクを出発点にラオスから中国・雲南省に入り、昆明、大理からチベットのラサへ。[4]インドのカルカッタを出発点にネパールに入り、カトマンズからラサへ。

◆このような4つのツーリングルートをつくり上げたのだが、地図を前にプラニングしているときはまさに「至福の時」だった。エミコさ〜ん、これから先、これら4つのプラニングのうち、ひとつでも実現(ほんとうは4つもやってみたい)できたら、それはすべてエミコさんの2月29日の報告会のおかげですよ〜!!(賀曽利隆)


地平線短信

「グレートジャーニースペシャル
 日本人の来た道 ヒマラヤ〜日本15000キロ」
3月21日(金)夜9時15分〜11時37分:フジテレビ系列にて全国放送

■2005年秋からあしかけ3年のあいだ続いていた関野吉晴さんの旅がようやく終わりました。ヒマラヤの南、ネパールから日本まで人類が広がってきたルートを辿る旅でした。途中、アッサムからミャンマーへは情勢不安定のため通過できず、急遽ルートを変更。ヒマラヤの北側に回り、チベット高原にあるメコン川の水源からメコン川に沿ってインドシナ半島を縦断、その後中国を横断し、朝鮮半島から日本に到達しました。自由行動は出来ませんでしたが北朝鮮も訪れました。その旅をドキュメンタリーにして放送します。(山田和也)

■渡辺一枝さんが新たに
写真集「風の馬[ルンタ]」を発刊

(本の雑誌社)。B5版ハードカバー
モノクロ88ページ。3,150円
★刊行を記念して写真展「風の馬」が以下のように開かれる。
期間 3月19日(水)〜26日(水) 11時−19時
場所 新宿区矢来町158
   セッションハウス・ガーデン(2F)
   一枝さんの講演会が20日15時から同所地下スタジオで。
    03-3266-0461に申し込み。
    先着150名のみ。参加費1000円。


[野生動物と向き合っていくための
次世代のシステムづくりを! 兄弟マタギ最新報告]

■江本様 ご無沙汰しております。お陰さまで北海道の西興部村(にしおこっぺむら)猟区は無事4回目のシーズンを終了しました。1年前に、私と弟による「北の大地における現代のマタギ兄弟の奮闘!」というような内容で報告させて頂いた(注:07年3月地平線通信)ように、北海道北部の人口千人、面積3万haのこの小さな山村では、私たちのNPOによって鳥獣保護法の猟区制度を利用した独自の狩猟管理が実行され、村内のエゾシカを地域資源として有効活用する活動が展開されております。

◆ここでは、農林業被害を及ぼすエゾシカの個体数をコントロールしつつ、地域経済への寄与を目的として、主に本州方面のハンターを対象とした地元ハンターのガイドによるエゾシカハンティングツアーを提供しています。今シーズンにはのべ175人日(前年度比109%)の入猟があり、102頭(前年度比80%)のエゾシカが捕獲されました。ガイドハンティングは5か月の期間中で満員となりました。

◆残念ながら捕獲数が昨シーズンの2割減となりましたが、これは今冬が少雪のためシカが里に降りてこなかった結果です。西興部村猟区の活動を通して村営ホテル森夢(りむ)の宿泊含む1千万円ほどの地域への経済効果がありました。

◆この村ではもともと20年近く前から野生鹿肉加工販売や観光鹿牧場の運営など野生動物の有効活用が地元有志により進められてきました。NPOによる猟区経営もその延長になります。私たち兄弟は神奈川出身ですが、私が北海道大学でシカの研究をしていた関係で縁があって、「渡りマタギ(東北芸術工科大学田口洋美教授による)」のように同村に流れ着いたというわけです。

◆今シーズンには弟の嫁さんもめでたく狩猟免許を取得し、本邦初(?)女流ハンティングガイドを目指しています。ところで江本さんにはご報告しましたが、実は私は昨春より道内にある酪農学園大学に所属が変わりました。同大は西興部村と昨年地域総合交流協定を締結しています。その関係で、私は継続して同猟区によるエゾシカ地域管理モデルの構築を目指して、後を継いでくれた弟と連携して日々エゾシカを追っています。全国的に狩猟者が減少する一方で、野生動物被害が深刻化する中、私たち日本人が将来も野生動物と向き合っていくための次世代のシステムづくりが求められているのです。

◆西興部村猟区では同時に野生動物管理の担い手育成事業として定期的に狩猟者等を対象とした研修会を実施しています。今後は大学とNPOとが連携し、環境省等にも働きかけを行いながら、人材育成部門も発展させていきたいと思っています。 (伊吾田宏正)


《映画「puujee」高知、東京で上映会》

■昨年12月、「puujee」がモンゴルのテレビで放映され、大きな波紋を広げています。「puujee」を観てくれた若者達があまりにお金中心になってきたモンゴルの現状に疑問を抱き、伝統的な遊牧の生活の再評価を始めてきたそうです。モンゴルの放送局がそういう声を背景に今年1月、プージェーの家族を取り上げた番組を放送したと聞きました。4月、高知県と東京で上映会があります。東京での上映は久しぶりです。見逃した方はぜひこの機会にお見逃しなく。(本所稚佳江)

■昨年12月、「puujee」がモンゴルのテレビで放映され、大きな波紋を広げています。「puujee」を観てくれた若者達があまりにお金中心になってきたモンゴルの現状に疑問を抱き、伝統的な遊牧の生活の再評価を始めてきたそうです。モンゴルの放送局がそういう声を背景に今年1月、プージェーの家族を取り上げた番組を放送したと聞きました。4月、高知県と東京で上映会があります。東京での上映は久しぶりです。見逃した方はぜひこの機会にお見逃しなく。(本所稚佳江)

★「puujee」世界上映キャラバン高知上映会+関野吉晴氏・山田和也監督トーク

 イベント日時:4月20日(日)
  10:00〜吹き替え版上映
  11:50〜山田和也監督トーク
  13:00〜字幕版上映
  14:50〜関野吉晴氏・山田和也監督トークイベント
 料金:前売1,000円  当日:1,300円
 会場:高知市文化プラザかるぽーと大ホール:088-883-5011
 問合せ:puujee製作員会:03-5386-6700

★「puujee」が久しぶりに東京で上映されます。

 優れたドキュメンタリー映画を観る会 VOL.21
  遙かなる記録者への道? いのちの文化を求めて?
 4/19(土)〜4/26(土)
  モーニング&レイトショーにてドキュメンタリー映画を日替わり上映
 日時:4月24日(木)20:45〜
    (上映後、山田和也監督トークあり)
 会場:下高井戸シネマ
     世田谷区松原3-27-26 2F
 Tel:03-3328-1008
 料金:一般・学生1,300円
    前売券 1回券1,000円/5回券4,500円

★海外映画祭

3月7〜16日 テッサロニーキドキュメンタリー映画祭(ギリシャ・テッサロニーキ)公式ノミネート
4月3〜15日 フィラデルフィア映画祭(米・ペンシルバニア州)公式ノミネート


お台場ぐるぐる奮闘記

《跳人スタイルで参加して━━24時間個人の部》

[ことしも春のお台場で……]

■3月1、2日、ことしもお台場で海宝道義さん主催の恒例の「24時間チャリティラン・ウォーク」が開かれた。船の科学館の1.5キロの周回コースを潮風に吹かれて走り、歩き、走行距離に準じ参加費の中から「1キロあたり5円」を小児ガン治療・研究費に寄付する、という試み。ことしで8回目を迎えた。かっては毎年「皇居一周マラソン」を続けた実績を持つ地平線会議だ。にわかアスリートたちが全国各地から参戦した。(E)

■遡ること1年と少し前、野宿野郎編集長の加藤さんが持ってきた「24時間チャリティラン・ウォーク」のパンフレットが全ての始まりでした。「あくまでも野宿企画だ」と言い張る彼女に丸め込まれて12時間の部に参加し、走る楽しさを覚えてしまいました。それから1年間で10キロの仮装マラソンから甲州夢街道215キロ(ただし143キロでリタイア)まで様々な大会に参戦し、そしてまたこのお台場に戻ってきたのです。

◆今年は、前回の参加者である加藤さんと中山郁子さんに、最近ダイエット中の藤本亘さんも加わり、4人揃って24時間の部へのチャレンジです。しかし4人同じでは面白くないと考え、僕はねぶた祭の跳人の格好で走ることにしました。大好きなねぶたの格好で走るというのも今年見つけた楽しみのひとつで、マラソンにも一層の気合が入るのです。

◆ところが結果として、僕は30キロを過ぎた時点で走ることができなくなってしまいました。9月の甲州夢街道以来の足の痛みが再発したのです。しかし走るのは無理でも歩く分にはまだ大丈夫。そう考えたらどうしても途中でやめる気になれず、とにかくできるところまで歩き続けようと決心しました。足が悪化するのはわかっていましたが、自分自身で精一杯やったと思えなければ絶対に後悔すると思ったからです。そこから徹夜で歩いて最終的な結果は109.5キロでしたが、数字よりも自分の意地に少し驚いています。

◆歩く速度になって良かったこともあります。走っているときよりも気持ちに余裕ができ、ふと周りを見回すと、参加者みんながそれぞれのペースで活き活きと走って(歩いて)います。ハイペースで周回を重ねる人、おしゃべりをしながら走る人、走るよりもエイドにいる時間の方が長い人。一緒に参加した3人も三者三様といった感じ。

◆加藤さんは「うどんは何時頃かな」「あのハムはいつ出るかな」とエイドの食べ物のことばかり気にしながらも、全く疲れた様子を見せずに軽快に走って、最終的な結果は123キロ。その加藤さんに負けまいという闘志を燃やしながら黙々と走って同じく123キロを記録した藤本さん。「痩せれば楽勝だ」という台詞が印象的でした。郁子さんはマイペースに淡々と歩き続け、夜はしっかり6時間熟睡。決して自分のペースを乱さない貫禄で自己最高となる72キロを達成しました。

◆ただ24時間をひたすら走ったり歩いたりするという単純な行為なのに、よく観察してみるとそこにいろんな個性が現れていてとても面白いのです。派手な格好をしていたおかげか声をかけてくれる人も多く、いろいろな話を聞く機会にも恵まれました。普段はあまり接点の無い人々が、こうして走ることで何か共有できるものがあるとしたら、それはとてもすばらしいことだと感じました。前回は自分が走ることに精一杯で全く周りを見れていなかったので、今年もう一度参加して本当に良かったです。(杉山貴章)

《ランナーも 宗谷も光る 春の海 「チームいちこ」を率いて一句》

 「平均年齢65歳」いったい何の事?! 24時間お台場の船の科学館周りを走ったり、歩いたりするする三輪主将率いるメンバーの平均年齢のことなんです。何の為に? もちろん楽しいから〜。これ以上の答えは見つかりません。私は年齢を押し上げる役目ともう1つの役目、そうです、「チームいちこ」私の名前なんです。他に昔の若者、昔の乙女の計4名、走りは主将以外はダメの混合チームが出来上がりました。

◆以前、応援に行った時に一緒に歩きたいと思い三輪主将に頼みこんだのが初めで、今年で2度目のエントリー。昨年は1周1.5キロを15分で、と目標をたてましたが、今年はひそかに決意してました。そう、何よりも風景や早春の海や風や香りを肌で味うこと! 新宿歌舞伎町のすぐ近くに住む日常はとにかく音にまみれている。いつの間にか音に鈍感になっていて、電話の相手に今の音なに? と聞かれ、始めて救急車のサイレン音に気づく始末なんです。そんな日々から、夜のお台場の1.5キロにさあ出かけよう!

◆周回コースといっても、実は結構変化があります。最初は両側を植え込みに囲まれた「雑木林」。そこを抜けるとモノレールの車両が窓を光らせながら走り、その後ろの夜空に観覧車が光彩をはなちながらゆったりと回る風景が展開します。アスファルトの坂道を登り詰めすぐ左に折れると、 そこは南国ムードの棕櫚の並木道。芝生の道を選んで歩くと正面の海はビル群をバックに運河のごとくゆったりとしている。

◆たまにはひと休み、と手すりにもたれて海風に当たる。風が水音をたてています。ついでに釣り人とチョットお話をすることも。ボラ、スズキなどが良く釣れるが、なんと「食べない」とか! 美濃部元都知事在職の時から東京は水が綺麗になった話をしたが、釣り人はあまり関心を示さない。ホンダの自動車運搬船が停泊しているのを見て船会社で働いていた頃をふっと思い出した。こんな駄句ができた。「こひしくも 昔も今も 春は春」「ランナーも 宗谷も光る 春の海」「釣り人に 春風さむし 空のびく」

◆海を右手に左に折れると 初代南極観測船宗谷が赤い船体を見せている。こんなに小さい船で南極に行ったのか! ソ連のオビ号に助けてもらったニュースの写真が頭をよぎる。ついでに植村直己さんが最後に飛行機から手をふってた新聞の写真も思い出す。宗谷を右手にみて左の駐車場をくるりとまわるとエイドの人たちが見える。今年からたすきにチップを埋め込み、ゴールに来るとピー音でむかえ回数をカウントする。ハイテクで正確だが、なんだか寂しい気も。1回ごとに輪ゴムをもらい、声をかけてもらった昨年のやり方のほうが楽しかったなあ。

◆エイドに立ち寄り暖かいうどんまだぁ? まだらしいので熱い珈琲をすすって又歩く。今年はマッサージの方が来てくれていて大助かり、太ももが生ハムのようだと言われ、私の腿ハムじゃうまくなかろうと心で思う。2回り3回りでバトンタッチ。中間発表はブービーだ。浦和のおばーちゃまチームの上だ。朝になり強力な助っ人が来てくれた。

◆終わりの3時が近づいてきた。何周かそれでも歩く。ひる よる 深夜 夜明けと、何度歩いても変化に富んだ風景が楽しいコースだ。少し足が痛くなってきた。もう秒読みだ。15時になり、24時間は終った。今年のランも楽しかった。寝袋が夏用で寒かった事も忘れ拍手する。少々疲れたが、熱い風呂に入り、わが布団でぐっすり寝れる幸せをかみしめつつ来年も参加希望に燃えています。(新宿住人 関根五千子)

《メーリングリストが全国を飛び交って、 今年も盛り上がった『お台場ぐるぐる』》

■「今度のぐるぐる、どうします?」。昨年末、ねこ手(ウェブサイト「ねこからの手紙」)掲示板関係者間で、再びメールのやりとりが始まった。今や内輪では「お台場ぐるぐる」とか、あるいは単に「ぐるぐる」で通じてしまうこの大会。さっそくの応答メールはこうだった(以下、カッコ内の名前はハンドルネーム)。

◆『このお知らせ、待ってました!! 密かにセミオーダーな靴を買いに行ってました。(大阪府・さちこ・2度目)』。次なる挙手。 『トレーニングはしてませんが、やる気だけはあります。トレーニングウエアは購入済みです。(大阪府・もも・2度目)』。うむ、気合いは、伝わる。 さらに『トレーニングは全くしておりません。昨年の大会が終わった時には、しっかりトレーニングをしようと決意したはずですが、困ったことに体重は増えているようです…。(山形県・イシ・2度目)』。次いで「実は私、過去最高体重です」、「あ、わたしも」…と、過去最高体重チームすらできそうな勢い。今年ものどかなチーム結成模様であった。

◆そんなムードも後押ししてか、捻挫しているのに出る人や、去年の様子を掲示板で読んでいて、思い切って個人6時間に挑戦する人も現れた。『どれだけ歩けるかではなく、行動に出た事を、素直に喜んでいます。こういう機会はひとごとだったのに、 去年の報告で得られたものの大きさに心動かされたんです。(東京都・にんじん・初)』。メンバーからスカウトされた新顔も加わり、今年のぐるぐるには、リレーの部2チーム(5人編成)+6時間個人の部1人の、総勢11人がエントリーした。「今年は輪ゴムなし?」、「450人も参加?」、「エイドでは何が出るかな?」などとメール飛びかううち、はや前夜に。東京在住は2人のみ。ほとんどの人は用意をしたり、夜行バスで移動したりと、前日から動き出す。『ようやく帰宅しました。今から準備です。私はうさぎやのもなかがお気に入りです。頭は寝てますが、今からがんばります。(滋賀県・aya・2回目)』と、差し入れリクエストもまじえつつ、状況報告メールがぎりぎりまで飛び込んでくる。

◆当日、お台場にわらわらと集合。休憩室の一角では、夜行バス先行組がとうに腰を落ち着かせている。傍らには、持ち寄ったお土産や差し入れが。じんだん大福、じんだん饅頭、豆大福、うさぎやのどらやき、もなか、パウンドケーキ、手作り豆腐ケーキ、だだちゃ豆饅頭、鏡せんべい、オランダせんべい、麩のパイ、福だるま、きなこマシュマロ、マルセイバターサンド、坂角のせんべい、チーズケーキ…すっかり自前エイドである。冷え込みの厳しかった夜には、ガスでラーメンこしらえて、温まりもした。

◆もちろん公式エイドも見逃さない。『エイドステーションが1か所のお台場ぐるぐるは、エイドまわりに人が集まっていて、にぎやか度、なごやか度が高い!(静岡県・kaco・2回目)』。かくして、食べたらちょっと横に寄るよう時々促されるのにひるむこともなく、明かりに群がる昆虫のように、エイドに吸い寄せられるのだった。われらがチームアドバイザーもこう言った。『いくら目標を立てても、エイドを満喫しなければ、参加の意味が半減します。何が出るか。どんな状態でエイドされるか。これは案外貴重な体験です。(東京都・くるみまる・?度目)』。エイド第一主義の我々だからこそ、学べたものがきっとあるにちがいない! そんなこんなでエイドに目を光らせつつ、それぞれのペースで歩いたり、走ってみたり、思い巡らせたりしながら、今回も満喫させてもらったのだった。

◆雰囲気に乗っかって、思ったよりペースを上げられた驚きや嬉しさを感じた人もいた。2週間前に転んで膝を縫う怪我をしたのに、最終的に走ってしまった人もいたな。『意外と出来るものなんだなぁと自分でも驚いています。初参加のぐるぐるでしたが、こんなに愉しいとは想像できてませんでした。(愛知県・とし・初)』。 ◆今回参加できなかった人たちからも、メッセージをもらった。また、愛知県から遠路はるばる応援にきてくれた人たちもいた。せんべい、黒米入り玄米おにぎり(なんと米から作ったそうな)、りんごベーグル…自前エイドはさらに充実。そして終了後は手作りシチューと新鮮な羊肉を囲み乾杯! あぁ〜、今年も心と体に栄養満点な「ぐるぐる」だった。『それにしても、今回もおいしいものがたくさん食べられましたねー。楽しい仲間とにこにこ笑いながら、おいしいものを食べるって、このうえもないしあわせな時間だね。(山形県・あかねずみ・2度目)』◆終了後大阪にすぐ戻らず、数日東京をぐるぐる、その上終電降りてから迷子になってさらにぐるぐるした人がいたことを知ったのは、3日後に届いたメールから。『今回の旅は充実してとても楽しかったです。会う友達友達にぐるぐるの話をして、それこそ来年は東京マラソンにも挑戦してみようかという話になったり。類友ですね〜。(大阪府・ゆき・初)』。…今後の展開も楽しみだ。(大阪府・ねここと、中島菊代)

■追記■

このほか「個人6時間の部」には地平線仲間の坪井伸吾さん、籾山由紀さんらが出走(歩)、応援団も賑やかだった。結局、バザー収益を含め28万円が「財団法人がんの子供を守る会」に寄付された。海宝さん、静恵さん、今年もありがとう、ご苦労さまでした。なお、東京マラソンも完走、不死身の加藤千晶はいろいろな疲れが溜まったか、その後胃痛が治まらず胃カメラを飲む羽目に。深刻ではないがどうやら胃潰瘍と診断されたらしい。しばらくは静養だよっ!。(E)


[雪深かった京都の冬、バウ逝く]

■江本さん、ご無沙汰しています。今年は昨年と打って変わり、京の町は寒い日が続き、雪が舞う日が多いです。ご一緒しました京都北山も愛宕山も真っ白です。先日愛宕山から地蔵山へ、多い所では1mも雪がありラッセルして、一等三角点を掘り出してタッチしてきました(同封写真)。

◆昨秋から全国組織の「一等三角点研究会」という会の大将(カンロクは何もないのですが)になり、今年は精を出して一等三角点にタッチして歩こうと思っています。今度京都へ来られたら(途中下車でもよろしいから)府内の一等三角点の山をご案内します。

◆ところで江本さんからいただいた17/11/28付のハガキに「バウ長生きを!」と書いてもらったゴールデンのバウが2月7日、14才8か月で亡くなりました。人並みの骨拾いをして、まだ我が家におりますが、さびしい日々です。通信費同封いたしましたのでよろしく。(京都 大槻雅弘)

(バウの写真と通信費を添えて。三角点愛好家は山頂に達しても足で踏まず、必ず三角点に手でタッチする)。

永瀬忠志さん、新しい本を出版!
『リヤカーマン アンデスを越える』

(日本経済新聞出版社 1500円+税)
2007年10月から11月にかけて行なったアタカマ砂漠、アンデス山脈越えの報告を中心に地球4万キロに及ぶリヤカー旅を駆け足で振り返る一書。章ごとに「永瀬語録」も。

《風間深志 復活の旅、2時間番組に》

■昨年風間深志が挑戦した「ユーラシア横断旅」の全記録が、下記のとおり約2時間の特別番組として放映される。 「冒険家 風間深志 復活の旅 〜 大陸横断1万8000 キロの全記録」 放映日:2008年3月17日(月)21:00〜22:54 放送局:BS-i http://www.bs-i.co.jp/app/program_details/index/KDT0801400


「感動の強要し過ぎだよ!」

■昨年サッカーの試合中にアキレス腱を断裂してほぼ6ヵ月たった。5倍の難関をくぐって獲得した東京マラソンの切符。ムダにはできない。「アキレス腱を治して参加するぞ」。しかし断裂1ヶ月後に弥彦山に登ったら再断裂した。それからギプスと5万円もする装具で固定期間が2ヶ月。その間は松葉杖で走る練習をした。脇の下は擦れて血が出たが、その後は固くなった。松葉杖マラソンがあったら優勝間違いなしだった。

◆医者は「高齢なんだからゆっくりやりなさい」と言う。新日鉄釜石のラグビー選手やマラソンの中山選手を再起させた及川文寿さん(注:文寿整骨院院長)は「どんどんやりましょう〜!」。文寿さんの言にしたがって、11月末には九州の韓国岳へ登頂、12月から走り始めた。正月も箱根駅伝見物に銀座まで走った。しかしまた痛くなり1月は歩き。走れるようになったのは1月半ば。時すでに遅し。それでも「出場はするぞぉ〜」

◆号砲10分前、会場近くの関根皓博さんの家を出る。走り出した列にもぐり込む。みなさん寒さ除けの衣類やビニール袋を捨てるので、植え込みや道路はゴミだらけ。ボランティアが懸命に片づけている。さらに走り出してすぐの新宿大ガード下。人目に付かないのを幸いに、壁に向かってみなさん一斉放水。下水にはその水がドドーッと流れている。ゴミに野外トイレ、ランナーのマナーの悪さは最悪。

◆翌々日イージス艦が事故を起こすとも知らず、市ヶ谷の防衛省前では音楽隊が演奏している。道々で太鼓や音楽の応援。そう言えばこれは「東京大マラソン祭り」だそうで、沿道の町会、学校、会社などの団体が祭りをやっている。

◆日比谷から泉岳寺をすぎて品川駅前へ。ここで15km、1時間45分かかった。今日の調子ではアキレス腱はほぼ限界。都営地下鉄の駅に降りる。トイレにランナーの長い列。私はゼッケンを外して地下鉄にのり、蔵前までいく。10kmを中抜け。外に出るとランナー諸君は途切れず走ってくる。浅草雷門へ向かう通りがコース中最も景色がいい。私も再びゼッケンをつけて流れにのる。しかしペースはだいぶ速い。だいぶ前のグループなのだから当たり前だ。そこで流れからはずれ、沿道のマックに入り暖かいコーヒーを買って、縁石に座って仲間が来るのを待つ。「がんばれよ!」と親切なおじさんが言う。私にも都合があるのだが、饅頭をくれたので、走らざるを得なくなった。

◆スポンサーの日本テレビのアナウンサーがカメラや音声の人を連れて、中継をしながら走ってくる。沿道の応援にも熱が入る。「こりゃ24時間テレビか?」まさにそんな感じ。我々はお祭りのエキストラだ。水の都である東京下町の運河をわたり、豊洲を経て東雲1丁目にくる。ここが自分のゴールと決めていた。しかし写真を撮ってくれるはずの関根さんがいない。携帯に電話すると「ゆりかもめでゴール地点まで行くよ」とのこと。のこり2kmをだらだら走って東京ビッグサイトに行くと本物のマラソン大会のようなテレビ中継を徳光アナ、欽ちゃんがやっている。「感動のゴール風景です!」と。「たかがマラソン走ったぐらいで感動なんかするなよ!」と心の中で言いながら、脇に出ようとしたら、「完走おめでとう!」と前に誘導してくれる。「途中抜かしたんですが……」と言っても「すごいですね!」と高校生が完走メダルをかけてくれた。あとで聞いたら、完走率98%で、メダルが足りなくなり、遅い人は後日郵送となったそうだ。悪いコトしたなあ。

◆17日、事務局から電話がかかってきた。「20kmと25kmの記録がないのですが・・・」と。「地下鉄にのったもので!」と返事をした。3万人ものタイムを5kmごとにチェックしているのだ。すごいことだ。中抜けでも、2%の非完走者でも、30km以上走ったことで私は十分満足だった。しかしそれほど感動するほどのことではなかった。

◆いまの時代、ちょっとのことで感動を強要しすぎる。なにが「感動をありがとう」だ。感動は自分の内面でじっくり味わうものだ。それから2週間後、同じお台場でひっそりと24時間ランの大会があった。24時間200km近くも走り続けるランナーは、ほとんど身体も傾き、夢遊病のように走っている。これぐらい走ったら少しは感動してもいい。感動の安売りはお断りしよう。 (三輪主彦)


[通信費をありがとうございました]

■先月以降、通信費(2000円)を払って頂いた方々です。万一、漏れていた場合恐縮ですが、お知らせください。 米満玲/中野早苗/斎藤孝昭/松本典子/花岡正明/シール・エミコ/城山幸子/寺本和子/大槻雅弘

■先月の発送請負人

三輪主彦 関根晧博 江本嘉伸 車谷健太 村田忠彦 満州 山本千夏 落合大祐 山辺剣 ご苦労さまでした。


ドキュメンタリー番組『梅里雪山 17人の友を探して』の制作秘話

去る3月2日に関東で、『梅里雪山 17人の友を探して』というドキュメンタリー番組が放送された。同タイトルの本(山と溪谷社刊)が原作となった番組に1年間協力してきたが、その始まりは昨年1月に届いた1通のメールだった。内容は、1991年の梅里雪山の遭難と、捜索活動の話をテレビ番組にしたいというもの。正直に言うと「またか」と思った。同様の提案はこれまで何度かあったが、話を聞くだけ聞いてその後何の連絡もないことが多かった。しかし、その日本テレビディレクターのD氏は、私の家の最寄り駅まで挨拶にやって来た。今回は何か違うかもしれないと感じさせる出会いだった。

◆5月、梅里雪山の次のテーマと定めた「茶馬古道」の取材に出かけた。茶馬古道とは、かつて雲南からチベットへ何千キロにも渡って茶を運んだ道。その中央付近に梅里雪山が位置する。雲南南部を出発して1ヵ月後、梅里雪山の麓の徳欽に辿りついた。そこに、D氏の姿があった。「取材に行きます」とは聞いていたが、本当に来るとは思わなかった。山登りなどしたことのないD氏が、氷河上の遺体捜索まで取材していった。D氏は本気だった。

◆帰国後、番組制作が正式に決まったとの連絡が入る。遺族の取材や我が家への訪問など、様々な撮影が始まる。不安だった報酬の交渉も、この頃行なった。梅里雪山で儲けようとは思わないが、協力するには相応の時間がかかる。戸惑いながらも何度か話し合いをして、落ちつくべきところに落ちついた。

◆その頃、梅里雪山に関わるもう1つの出来事が決着した。私が訴訟を起こした裁判である。印刷会社に預けたフィルムが傷ついて戻ってきたのだが、会社側が非を認めないため、裁判をせざるをえなくなった。経済的損得を考えれば、こんな裁判はしない方がいい。が、その写真が人生を賭けて取りくんでいる梅里雪山であり、特に大切な1コマだったため、引き下がれなかった。1年かけて争った結果、一応の勝訴となった。直接証拠のない中、相手が傷をつけたことが認められた。が、賠償金額は低いものだった。精一杯やったが、悔しく虚しい結果だった。

◆番組は、秋にもう一度現地ロケへ行くことになる。登山隊のBC(ベースキャンプ)跡地に行くことが検討される。そのとき1つの考えが浮かんだ。遺族と一緒に行けないかということだ。遺族の数名から、BCへ行ってみたいとの希望を以前より聞いていた。が、BCへ行くには山道を1日歩かねばならないため、実現する機会は訪れなかった。今回がそのチャンスかもしれない。テレビ撮影を兼ねることは心配だったが、思いきって11組の全遺族に伺う。すると、3組4名の方から行きたいとの返事があった。

◆10月下旬、出発。最高齢は77歳。BCまで行くのは無理と思ったが、その方は歩き続けた。全員無事にBCまで辿りつき、山に向かって手を合わせた。番組では、BCについた遺族が、隊員の名を1人ずつ呼ぶ姿が描かれる。感動的な場面だ。その姿に感動するのは、17年間の遺族の思いとともに、映像が作為のない本物であることが伝わるからだろう。現地では、私たちもスタッフも次に何が起こるかわからず、必死の思いで行動した。その陰で、膨大な量のビデオが回っていた。

◆BCから降りたあと、氷河付近の村へ移動して、遺体捜索を行なった。氷河上で遺品の埋まっている位置は、氷河末端に近づいていた。末端から水流に出れば、収容は不可能になるだろう。捜索活動の終焉が、1年1年近づいていた。今回の捜索で、1つの骨のかけらが見つかった。それを遺体の出ていない家族に知らせると、DNA鑑定をして欲しいと希望された。その家族は、それまで鑑定をしなくていいと言ってきた方だ。鑑定希望の言葉を聞いて、他の遺族は安心したという。自分の家族が見つかっても、最後の1人が見つからなければ、心休まらないのだろう。

◆帰国後、DNA鑑定が始まる。しかし、結果はすぐには出なかった。遺骨の損傷が激しいためだ。番組放映日は1月27日に決まっていたが、鑑定結果を番組に入れるため、D氏は放送延期を決断する。新たな放映日を約1ヵ月後と定め、ぎりぎりまで待つことにする。2月21日、ニュース番組で12分の特集「氷河に消えた17人捜す」が全国放送。視聴率は、普段より高い10%超を記録した。しかし、鑑定結果はまだ出ない。新たな放送日は3月2日に決まった。

◆その日は、穏やかに晴れた初春の1日だった。鑑定は間に合わなかった。午後1時25分、放送開始。自分の話がでてくる度に、尻がむずがゆくなる。私も初めて映像を見る。90分の番組を見終えたとき、安堵した。事実の間違いはなく、派手な演出もない、丁寧な作りの番組だった。放送中からホームページのヒット数はどんどん上がり、感想メールが続々と届いた。そのほとんどが、感動した、内容や作りが良かったというものだった。

◆翌日、D氏からメールが届く。社内での評価が高かったそうだ。しかし、肝心の視聴率は低かった…。厳しい世界に生きる人だ。どれほどがっかりしているだろうと思ったが、意外にもD氏は潔く、すがすがしかった。この番組に関わることに、私ははじめ不安を感じていた。人の死やその後の人生を、短い時間で伝えられるのか心配だった。しかし今は、協力してよかったと胸を張って言える。遺族の方からも、評価するというコメントを頂いた。嬉しかった。

◆関東だけでの放送だったが、番組を放送する系列局が、少しでも増えてくれたらいい。D氏はメールの最後にこう書いていた。「今後も、梅里雪山を見つめていきたいと思います。(中略)私の旅もまだ終わっていないのかもしれません」。心に染みる言葉だった。(小林尚礼) February 21, 2008


[送る命と迎える命]

■大久保由美子さんとのメールのやりとりでご家族の訃報を知った。大久保さんのご家族とは彼女の結婚式で親しく話をさせてもらったことがあり、とくに優しく快活な母上のことは印象が深い。大久保さんは、自然の中の育児を中心としたブログを書き続けている。お許しを得て2月のある日の文章を全文掲載させて頂く。(E)

■新しい年が明けたばかりだというのに、なんだかもう1年くらい経ってしまったような気がする。

◆母危篤の知らせを受け、急遽山口の実家に帰ったのが1月22日。直接の原因は、抗がん剤TS-1の副作用による白血球の急激な減少(最低値200/mm3)と脱水症状だったが、12月初めにたまった腹水から癌細胞が発見され、TS-1の経口を始めた中旬から倦怠感と食欲不振に悩まされ、ほとんど寝たきりの状態になっていた。

◆今でも忘れられない。2クール目を始める1月4日の朝、なんとか椅子に座って、私が作ったハチミツを塗った食パン半切れとニンジンジュースの軽い朝食を終えたあと、手にした薬をじっと見つめていた母の姿が。全身から、(飲みたくない)という心の叫びが伝わってきたが、止めてあげることができなかった。むしろ、「辛いだろうけど、なんとか飲んでほしい」と願っていた。抗がん剤が効くことを信じていたのだ。きっと母も、家族の期待に応えるために飲んでいたのではないかと思う。

◆あのとき、「もう飲まなくてもいいよ」と言ってあげていたら。9日に大学病院を受診したとき、医師に入院を懇願していたら。最後のお正月になるかもしれないと覚悟して帰省したのに、私自身の体調不良のため最低限の食事の世話しかできず、「これからどうなるんだろう…」という母のつぶやきに応えてあげることすらできなかった。今回の帰省では、すでに話をすることはできず、過ぎたことを言っても仕方がないとわかっていても、「あのときこうしていれば…」という後悔の気持ちがつきることはない。

◆幸い近くに、在宅看護をしてくれる医者がいたため、自宅でそのまま介護生活を始めることができた。妹が作った介護日記のタイトルに、「ママが治るまでの日記」とあるように、快復を信じて始めた介護だったが、私たちも日記を読み直さないと気が付かないくらい、毎日ほんの少しずつ反応が薄れていき、2月4日、結婚40周年のルビー婚の朝、家族に見守られて静かに本当に静かに61歳の母は息を引き取った。その瞬間、思わず手を握って、「よくがんばったね!もう何も心配いらないからね」と口をついて出た。悲しみのなかにも、笑顔さえ出るくらいのすばらしい旅立ちだった。

◆最後までモルヒネを拒んだ強い母。数回だけ使ってみたが、きっとモルヒネを使うと朦朧として、私たち周りの様子がわからなくなるのがいやだったからではないかと思っている。それでも、最後まで苦しむことはなかったのが救いだ。変な話だが、久しぶりに家族全員が集まり、泣いたり笑ったり、本当に充実した2週間だった。この期間は、文字通り全身全霊で母が私たちにくれた最後のプレゼントだった。

◆それまで母の気持ちを第一に、客観的な目線で介護にあたってきたので、亡くなって初めて好きなだけ泣くことができた。気持ちが幼い頃に退行しているのか、母に抱きついて甘えたい衝動が噴出してきた。亡くなる数日前から、なぜか日に日に美しく若返っていった母が、幼い頃の母の面影と重なったからかもしれない。葬儀までの3日間、存分に触れて、泣いて、話しかけて過ごした。

◆グランマ(母がそう呼ばせていた)とウマが合ったそーすけ(注:長男・颯介)に、この体験がどんな影響を与えたかは知るよしもないが、棺を焼き場に入れた瞬間、今まで聞いたこともないような悲痛な泣き声をあげて、「グランマがいい!」(グランマに抱っこしてもらいたい)と叫んだ。ほんの一瞬のことだったが、彼なりに何かを感じたのだろう。自宅で父がしょげていると、膝に滑り込んで、「じいじ、元気出して!」と言ったりして、ときどき見せる大人びた行動にびっくりさせられた。

◆40歳で乳癌になった母は、それまでの内にこもりがちな生活を返上して、「おまけの人生だから」と好きなことをして生き生きと生き始めた。何十か国も外国へ旅行に行き、フルートを習い、武蔵美に入学して油絵を描き、教育委員を務め、競売で競り落とした土地で野菜作りをし、45歳で再発、55歳で骨に転移しても、めげることなく生を謳歌していた。そんな母がいたからこそ、私が32歳で乳癌になったときも、へこたれずにすんだのだ。生きている間は照れくさくてついに直接言うことはできなかったけれど、ママ、本当に今までありがとう。

◆母の末期癌が判明したちょうどその頃、私の身体に新しい命が宿っていた。排卵日チェッカーを使用してもなお1年以上失敗し続け、月のものが来るたびに悲しみに打ちひしがれていたのに、本当に突然ポンとできた。「このタイミングは偶然ではない」と当初から思っていたけれど、いろいろあってもなお、お腹の中で元気にはね回っている小さな命を見ると、「母の生まれ変わりに違いない」と確信めいた気持ちになってくる。早くも女の子と予想して、母にちなんだ名前を考えるのが、最近の楽しみになっている(男の子だったら、ごめんね)。 (大久保由美子)


地平線ポスト…南極便り

「しらせ」発『南極レター』No. 22 2008/03/03

[人間って、やっぱり、誰かと関わりをもって、おしゃべりをしたり、笑ったり、喧嘩したりして過ごすのがいいのかなあ……。とじこもりがちな帰国航海で感じたこと]

■みなさんこんにちは。ご無沙汰しています。前回のレターから早1か月が経過しました。船に乗っていただけの1か月でした(何度か野外観測へは出ていますが)。船旅では時が経つのは遅いのかと思っていたけれど案外そうでもありませんでした。「しらせ」での生活も折り返し地点を過ぎ残すところ2週間ほどです。

◆「しらせ」では、「越冬隊報告」という報告書を作成したり、越冬中に撮りためた写真の整理などをしています。そのほか、航海中に行う観測の手伝いなんかも少しはありますが、やっていると言えるほどの仕事ではなく、「しなければならないこと」は、正直なところほとんどありません。誰にもとがめられることなく寝たいときに寝られるし、好きなだけ本を読めるし、映画もいくらでも観られるし、飲む人はお酒も毎晩たっぷり飲んでいるようです。この潤沢な時間をどう過ごすかは自分次第です。

◆私は、まあ、がんばるわけではないけれどそれなりにいろいろやっている、かな。越冬中に(たしか)1冊も読めなかった本が、ようやく読めることがいちばんうれしいです。船が揺れ始めると、机に向かったり椅子に座ったりしているとどうしても居心地が悪くなってしまい、いちばんラクチンなベッドに転がり込みます。そうして本を読むんですが、すぐに眠くなって寝てしまいます。船旅が計画どおりいかないのは、船酔いがあることが大きそうです。私の場合は気持ち悪くなったり顔が真っ白になってしまうような船酔いではありませんが、机に向かっての作業を続けたくなくなるという意味では、軽い船酔いの一種なのかもしれません。

◆船での暮らしでいちばん気持ちいい時間は、甲板に出て運動をする時間です。天気がよく、うねりも少なければ甲板に出て走っています。30分とか40分くらいです。南極がいいのはとても涼しいのでとてもラクに走れることかな。もう、定着氷ははるか南だし、流氷もないし氷山もなく、普通の海を航行しているので、海鳥がいるくらいであんまり面白くはないけれど、クジラがいないかなあなんて探しながら、ゆっくり走っています。船の生活は行動範囲が狭く運動不足になるので、身体を動かすととても気持ちがいいです。最近では気温は0℃くらいですが、日本に帰って走るのが嫌になるとすれば、それは絶対に暑さのせいだろうと思います。

◆それから、船で暮らしていると、自分の部屋にこもって過ごす人が多いので面白くありません。自分もそうです。部屋の外に居場所があまりないので仕方ありません。人間って、やっぱり、誰かと関わりをもって、おしゃべりをしたり、笑ったり、喧嘩したりして過ごすのがいいのかなあと思います。

◆居場所を見つけるまでなんとなく過ごしづらかったのですが最近は「音楽部屋」でギターを弾いたり歌ったりするのがとてもまともで楽しい時間です。越冬中からのバンド仲間の部屋ですが、自分のやりたい曲をやって、ベースが欲しくなったら「これ弾いて」と弾いてもらったり、そのために耳コピして楽譜を作ったりして、その傍らでドラムの人はずーっと映画を観たり漫画を読んだり、構わず好きなことをしていて、でもたまには耳を傾けてああだこうだコメントしたりして。すごく普通の風景で普通の時間なんですけど、個室にこもってバラッバラになった船の生活では、そういう当たり前がとても貴重になっていたりします。

◆そして「もうやだー、つかれたー」と叫んだ後、そのまま「飲み」に入ることしばしばです。越冬中のこと、これからのこと、家族のこと、などなど、ああでもないこうでもないと話します。「そういえばあの時は」と思い出して喧嘩もします。酒がまずくなった、とふくれて帰って寝て、しばらく部屋に近寄らないと、「最近ギター聴いていないなあ、BGMがなくて仕事がはかどらないんだけど」と誘われて、ふくれっつらを直してまた弾きにいったりします。

◆越冬中は、35人の生活で、お互いに仕事での関わりもあって、気を遣わないとやっていけない面がほとんどなので、暗黙のうちに気を遣いあいながら暮らすんでしょうね。船に戻って、「仕事」自体がなくなったとき、そしてもう一緒に暮らさなくてよくなったとき、少し関係が変わったように思います。人のことばかりじゃなく私自身もそうだと思います。寂しいような仕方ないような複雑な気持ちではあるけれど、うーん、なんだろうなあ、放っておくと離れていきそうな人との距離を離さないようにする努力をやめてよかったり? 気が合うから普通にしてればお互い言いたい放題になるけどある程度は抑えてつきあっていた人が全て終わって言いたい放題になったり? こらえていた悪口も愚痴もどんどん吐き出されちゃったり?

◆まあ、遠ざかる人、近づく人、いろいろありますが、越冬隊35人、相手は選べませんからね。「渋谷のスクランブル交差点から35人任意に抽出して、ハイこれから1年、南極でこのメンバーで仲良くうまく暮らしてください」って言われるようなもので、好きな人も嫌いな人も、気のあう人も絶対に理解できない人も、絶対に逃げ出せない場所で同じ屋根の下で毎日顔を突き合わせて暮らしていかないといけない。みんな、がんばってました、きっと。そういうガンバリがはずれちゃったのが、今の状態なのかななんて、自分を含め、眺めたりしています。これがこの先帰国して数か月、数年たったらどういう関係になるんでしょうね。それはそれで楽しみです。まあ、そんなこんなで日々過ごしています。

◆さて、今後の予定ですが、3月20日、シドニーに入港します。家族に会えます。3月27日、帰国します。(QF135、18:30成田着)。成田は、前回の経験だと、ものすごーく大勢の迎えの人たちが来られていて、私達は出迎えの人たちの間を縫うように進み、その間に運よくお互い確認し合えた人とは目配せ程度に、手を振る程度に挨拶を交わせるけれども、それでおしまい、みたいな、そんな状態だったと記憶しています。最近がどうかは知りませんが、こんな状態が変わらないとすると「せっかく行ったのに会えもしなかった、話もできなかった」ということにもなりかねませんので、今行こうかどうしようか悩んでくださっている方は、どうか無理をなさらないでください。お気持ちだけいただきます。会えなくてもいいからどんなものか見てみたい、という方は、お時間が許せば是非来てください。それでは今回のレターはこのへんで。(永島祥子)


[08年10月25日(土)26日(日)、沖縄・浜比嘉島に集結しよう!!!]

その前に、「ハーリー祭」に参加しませんか?
<地平線会議@浜比嘉島・途中経過報告>

■かねて通信などでお知らせしてきました「地平線会議@浜比嘉島」の経過報告です。2月25日(月)に、開催予定地である沖縄県うるま市の浜比嘉島比嘉集落で、第2回打合せ会が行われました。手はずを整えてくれたのは、今回の拡大集会の要となる外間夫妻。妻の晴美さんは地平線会議の仲間で報告者でもあります。2年前に比嘉に嫁ぎ、現地で農場を営んでいます。この日の出席者は総勢13名。外間夫妻をはじめ、開催に協力していただきたい地元のリーダー格の方々のうち、都合のついた11名。海で働くウミンチュと呼ばれる漁師の方や、民宿の経営者など職業も様々。そして地平線から代表世話人の江本さんと、使い走り人の長野亮之介が出席しました。

◆昨年12月に外間夫妻と長野が島の方々数名と行った第1回打ち合わせは、地平線とはなんぞや?という説明をしながら地元の感触を感じつつ飲む、というささやかな会だったのですが、今回はきちんと会議の体裁を取り、実質的な始まりでした。主要な議題は、日程の決定です。浜比嘉島の基幹産業は漁業。島民はウミンチュが多く、仕事の最盛期が季節や天候によって決まります。また年間の伝統行事も多く、それが日常の生活と密接に結びついています。都市生活とは違う時間の流れや価値観が息づいている場所です。また芸能の盛んな島で、今回も地元に伝わるパーランクーなどの芸能を披露していただく予定です。

◆なるべく多くの島民の方々が参加できるよう、地元の予定を優先して検討した結果、10月25日(土曜日)、26日(日曜日)の2日間を中心に行うことにほぼ決定しました。夏の行楽シーズンを過ぎ、航空券もそう高くない時期だと思います。参加予定の方はスケジュールの確保をお願いします。

◆島の夏の行事の一つに、“ハーリー祭”があります。梅雨明けの頃、島民が伝統的な手漕ぎ漁船で競争をしてその年の豊漁祈願を込める大切な行事です。全島を挙げて大いに盛り上がるこの催事に、地平線会議もチームを出してはどうかという話が持ち上がりました。これまでも島外からの参加は有るそうです。時期は天候を見て決まるので、6月後半から7月前半の週末としかまだ判りません。一艘のメンバーは11名。足りなければ島民が手伝ってくれます。年齢・性別、制限無し。

◆一応は勝つ事が目的ですので、体力は必要です。また、それ以上に大事なのが、メンバーの息を合わせることです。そのために、事前に最低3回ぐらいは現地で集まって練習しなくてはなりません。ですから参加する人はハーリーの当日だけでなく、その前に何日か滞在することになります。たとえ勝てなくても、参加することで島へのなじみ方が違ってくるはず。秋の“地平線会議@浜比嘉”本番に向けての前夜祭と考えても良いと思います。渡航費・滞在費など一切はもちろん各自自腹ですよ。ということで、参加したいなあという方はそれとなく江本さんに表明し、心の準備をしていて下さい。詳しくはもうすこし様子が分かってきたら、追ってお知らせします。参加希望者がどのくらいいるか様子を見て、地平線会議チームを出すかどうかも含めて検討します。

◆今後まだ何回か島を訪問し、具体的な内容を詰めていく予定です。(長野亮之介)

[カクマクシャカさん!!]

◆こんばんは。毎月、盛りだくさんの通信を届けていただきありがとうございます! 前号にラッパーのカクマクシャカこと安村磨作紀くんの文章があったのでビックリしました。うわあ、会いたかったです!

◆2年前に加藤士門くん+車谷建太くん出演のライブで偶然出会い、短くお話しただけのつながりですが、とても心がきれいな人だなあ。。と印象が深い方でした。地元沖縄や東京でライブ活動をしたり、この前はイベントで坂本龍一さんや加藤登紀子さんと共演したり(加藤さんとはフジロックでも一緒に演奏!)活躍なさっています。10月の沖縄地平線で再会できるのがすごく楽しみです!(大西夏奈子)


[あとがき]

「また生まれました」浜比嘉島の晴美さんから2通もメールが飛び込んだ。これで仔ヤギは9匹に。つまりヤギだけで24頭以上になった。アヒルの子どもたちが親にくっついて行進する風景も楽しい。中には草地に産み捨てられひとりで卵から孵化したものの親がわからず、寒さで力尽きる赤ちゃんアヒルも。「美ら海牧場」は本格的な動物王国になりつつある、と3度目の訪問となる今回、実感した。ナゾの泉の主の大うなぎを含め、ここだけでも地平線会議の仲間に見てもらいたい、と強く思った。

◆浜比嘉計画には外間さん夫妻をアシストする存在として地平線イラストレーターの長野亮之介画伯と夫人の淳子さんの存在が大きい。フロントに書いた山道の開拓は山仕事を得意とする画伯が外間さんと知り合って手をつけた仕事だし、晴美さんが三線の腕を上げたのは一緒に淳子さんと修得してたからこそだった。今後も長野画伯と淳子さんにはこの企画の実行委員長としてリードしてもらいたい。

◆しかし、何よりも大事なのは浜比嘉の人々の心だと思う。島の人々に地平線会議を説明するのは難しいが、何度も出会ううちわかってもらえるような気がする。浜比嘉島に教えてもらいつつ、私たちができることを考えてみたい。

◆簡潔で力強いメールを最後に紹介する。「江本さん、『沖縄地平線』、全力投球でいきましょう!!!」3月8日、賀曽利隆からだった。世界も島も知る彼の参加は大きい。おーしっ、やるぞぉ!(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

鹿撃ちサバイバル奮闘記

  • 3月27日(木曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区立新宿スポーツセンター(03-3232-0171)

北海道に生息するエゾシカは冬場にエサを求めて数10キロにも及ぶ移動を大群で行います。その光景に魅せられてシカ研究者になったのが伊吾田(イゴタ)宏正さん(35)。大学までは関東で過ごしヒグマを研究するつもりで進んだ北大大学院時代にたまたまエゾシカの個体数調査に関ったことが人生の岐路となりました。90年代から爆発的に増え、社会問題となっているエゾシカの頭数を人為的に管理する方策を探ることがテーマとなります。

'04年から、紋別郡西興部(オコッペ)村で発足したNPO法人西興部村猟区管理協会のメインスタッフに就任。約3万haの管理猟区内でハンターをガイドし、有料で狩猟をして頂く仕事は、机上の理論とは違う多様な要素を含んでいました。今シーズンは少雪のためシカが山から下りず、昨年の8割の獲物数。自然相手の仕事は想定外の連続です。

一方で2年前から弟の順平さん夫妻が猟区のスタッフに参加。奥さんは日本初の女性ハンティングガイドを目指しています。宏正さんも昨年から道内の酪農学園大助手に就任。研究者とフィールドワーカー、二足のワラジを兼務しています。

野生動物管理の専門家が不足している日本で、今後本格的に人材育成にも取り組みたいという伊吾田さんに、今月はお話をして頂きます。環境問題と経済のリンク。その最前線の取り組みに注目です!!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)

地平線通信340/2008年3月12日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介  編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室 地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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