2月7日はロサである。チベット暦の新年で、日本の正月にあたる。夕方、信州の雪の中にいた私のケータイが鳴った。「父が、さきほど亡くなりまして……」予定を中止して帰京、各新聞社の社会部に訃報を伝えてから盛岡を目指した。
◆雫石川に面した斎場は、ひっそりしていた。通夜の客は14、5人。西川一三さんのことを地元ではほとんど知らないようだった。無理もないかもしれない。ここでは仕事一筋の暮らしで、65年前のチベット潜行のことなど口にしたことはないらしいから。
◆「8時間は仕事だけする、と決めてるんで悪いけどその間は誰とも会わない。用があるなら、5時以降にして下さい」もう20年も前のことになる。電話して最初に言われたのがこの言葉だ。そんなわけで西川さんとお会いする時は、いつも午後5時30分だった。理美容業の卸の仕事をきちんと終わらせてから「やあ」と、盛岡駅前の一杯飲み屋にあらわれる。「仕事しないと酒は全然おいしくない」が口癖で銚子2本ほどの日本酒をゆっくり飲む。休日は元旦だけ。1年で364日は仕事をしておられた。
◆外務省の外郭団体、善隣協会が開校した内モンゴルの興亜義塾に入り、1943年10月「西北潜入」の志を胸に、一歩を踏み出した。モンゴルからチベット、インド、ネパールなどその後8年に及んだ破天荒の旅は3200枚の著書「秘境西域8年の潜行(上・中・下)」に詳しい。自分の足だけで歩きぬいたその行動力は逞しく、観察は緻密でこの書はチベット方面に夢を描く旅人たちの必読書となっている。
◆仕事を休まないはずの西川さんが、私がお願いした集まりには何度か仕事を休んで来てくれた。拙著『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』の出版記念パーティー、チベットと日本の交流百年を記念するフォーラム、不肖私めの「独立の会」などだ。
◆2001年12月に実行した「百年記念フォーラム・私たちはなぜチベットをめざしたか」は、東京・青山の会場に定員のほぼ倍の500名近くが集まった。参会者の目当ては、野元甚蔵、西川一三という二人のチベット潜行者の話だった。苛酷な旅の苦労を思い出してか「チベット人は嫌いだ」とあの時発言した西川さん、89才でチベット人の新年のお祝いの日に旅立っていった。
◆冒険者の葬儀は2月10日に「友人葬」という簡素なかたちで営まれ、近隣の方々ら数十人の方々が参列した。「チベットと日本の百年の会」からの花輪も飾られた。当日になって思いがけず弔辞を頼まれ、西川さんの業績についてチベットとの関わりを含め語らせて頂いた。まったく知らなかった、という人が多く、何人もの方がいい話でした、とお礼を言いにきてくれた。西川さんにささやかな恩返しができた気がした。
◆熱気球「スターライト号」で太平洋横断に旅立ったまま消息を絶った神田道夫さんの捜索が続いている。「The Search for Japanese Balloonist Michio Kanda」の最新情報によると2月13日、ジュノーにある17区US湾岸警備隊より神田さんが最後にいたと思われるポジションから約300マイル東北の海上に漂流物を発見したとのことだ。神田さんと関係あるものかどうか不明だが湾岸警備隊は調査のために船を現地に送っているという。
◆4年前、石川直樹君と二人で挑戦した際は脱出用カプセルに入った状態で発見され、無事生還した。1月30日の離陸以来2週間も経っているのは気になるが、「へのかっぱ号」で太平洋漂流実験を敢行、生還した故斉藤実さんの例もある。何度も奇跡の生還を果たしてきた冒険者のもう一度の奇跡を祈りたい。
◆地平線会議で「地平線賞」を選考していた時期がある。神田道夫さんは、リヤカーの永瀬忠志さんらとともに第2回地平線賞の受賞者だ。1983年3月、金沢市から栃木県小川町まで303キロを2時間33分で飛行、無着陸飛行距離の日本新記録を出した。当時33才。「なんたって役場の人というのがいい。役場にいてあれをやる、そこにホレる」(選考委員のひとり、恵谷治)
◆おととしスターライト号に不安を感じてクルーを降りた安東浩正君含め、ここ数年は地平線の仲間たちが関わったこともあり、テスト飛行を含めスターライト号の離陸には何度か立ち会っている。単身挑戦した心意気に敬意を。そしてもう一度渾身の奇跡を。(江本嘉伸)
昨年6月の報告会に次いでの鷹匠・松原英俊さん(57)の報告会。前回は「沖縄の海狩り」の話が滅法面白く、松原さん本来の鷹匠の日々については時間が足りなくなってしまった。わずか8か月で再度登場をお願いしたのは、たてまえ社会の締め付けに苦闘しながらも大自然の中で動物たちと生き続ける松原さんの存在感のヒミツをもっともっと知りたい、という思いからだった。会場は予測した以上の盛況。松原さんの生き方にひかれる人たちがいかに多いか、あらためて知った。
◆「きょうの話で地平線のメンバーの人がどう受け止めてくれるかわからないんですが、私はこういうふうにしか生きてこれなかったし、こういうふうにしかできない、地平線への出入りを禁止されるかもしれないが、仕方ない」こんなふうに切り出され、会場が心なしか静まりかえる。どんな話になるのか。まずは少年時代、いかに動物好きであったか―。
◆子どもの時から動物を追う習性があった。強烈な思い出がある。青森の村の冬、中1の時、同級生が冬になると自分たちの村に真っ白なタカが飛んでくる、という。それを「シラタカ」と呼んでいる、と。野鳥の会の会員だった少年は日曜日ごとに探しにいった。ある日、上空に真っ白なタカが飛んでいる。そのまま林につっこんでった。急いで追いかけたら、30m先の木の枝に見つけた。全身真っ白。タカも少年を警戒して5秒して飛び立っていった。「それはシロハヤブサというタカでした。北海道にごく少数いるやつですね。いまでもありありと思い出す。中学の時の大事な体験だった」
◆おとなになってからのこと。ある日バイクで山道を走っていた。中型の動物が逃げる。斜面を降りて岩穴に逃げ込んだ。のぞきこんだらアナグマだった。生け捕りにしようと軍手をはめて手を伸ばしてみるとすごい勢いでかみつく。ナタを持っていたので、木を三股にして首を抑えて引きずり出そうとしたがダメ。紐の輪にクビひっかけて引きずり出し、暴れるのを押さえ込んでつかまえた。
◆カモシカ踊りの話も興味深かった。蔵王の山にテレビの女性ディレクターを案内した時、カモシカと遭遇。松原さんはすぐ踊りだした。カモシカは好奇心強い動物で、踊りが好きなんだそうだ。モンゴルのタルバガンと同じだ。「リュック背負ったまま15分も踊ってたら疲れてきて、踊り交代してくれ、とディレクターに頼んだらとたんにカモシカは興味失って山に入ってしまった」。
◆冬真っ白になる愛らしいオコジョは「オコジョのもだえ」という演技をするそうだ。獰猛で小さい割にウサギとか大きいものをつかまえる。その時、オコジョが身もだえしてみせる。ウサギが何してるんだろう、と油断する。途端飛びかかる。山鳥にも襲いかかる。空中に飛んで逃げるがオコジョはくいついて離れず、一緒に落ちてくる。
◆2年ぐらい前に武蔵美の学生と飯豊連峰に出かけた時、尾根から下った時にクマを見つけた。150キロはある巨大なクマだった。飯豊の縦走なんかどうでもよくなって、やめてクマを見ることにした。山は逃げないが、クマを観察するほうがはるかに大切という。5、6時間見ていたと思う。大阪の旅行会社に頼まれて朝日連峰のガイドをしたことがある。12人ぐらい連れて以東岳の下りにかかった時、30m先の斜面に大きなクマが草を食べていた。一行が騒ぎ出したのでクマは逃げていってしまった。無性に追いかけたくなってナタを手に追いかけた。15分ほどして登山道に戻ったら皆いなかった。旅行会社から二度と仕事はなかった。失敗もあるが、動物との遭遇が松原さんの人生でいかに価値ある出来事であるか、口調からわかる。
◆さて、そろそろ鷹匠に弟子入りの話に近づいた。最初のきっかけは、大学1年間休んで自然の中で生き物たちと暮らしたい、と岩手の北上山地で養蚕小屋を借りて住み込んだことだった。子どもたちと一緒にスズメ獲り、ウサギ獲り、岩魚を夜突いて、リスを追い、「ああ、これが私が一番やりたかったことなんだ」、と思った。
◆スズメは庇の下に夜寝ているところを梯子で登っていきなり手づかみする。ウサギは針金で輪をつくって仕掛け、リスは村のクルミの木に食べに来るのを子どもたちのひとりが木に登って追いつめる。リスはジャンプして逃げようとするところを子どもたちが下で受け止める。リスも利口で一番小さい子どものところにジャンプする。
◆こういうことがいまは全て規制されている。正反対の方向に動き出している。「子どもたちに環境保護とかエコロジーとか教えるんじゃなくて動物を追い、遊ばせることが一番」と鷹匠はここで言った。本気でやってきた人の言葉、と感じた。ここでの1年の体験がどんなに貧しくてもタカと暮らすことを決意させた。大学を終え、真室川にいた老鷹匠のところに弟子入りする。報告会の話はヤマ場に入った。
◆弟子は餌作りからはじめる。タカは生ものしか食べない。ヘビをつかまえたり、村人が飼っている犬とかネコが子を産むと貰い手がなく、川に流すことが多かったが、時に「鷹の餌に」、と持ち込まれた。子ネコはともかくおとなのネコは気性が激しいのがいて鷹が傷つけられることがある。そういう場合どうするか。犬が持ち込まれた時はどうするのか。松原さんは逐一具体的に話してくれた。ここではすべては書かないが、鷹匠修行で最も厳しい瞬間を、会場に居合わせた人たちは理解しただろう。
◆師匠はカンヌ・グランプリの「老人と鷹」で有名になった人だ。戸川幸夫さんの小説のモデルになってもいる。超一流の腕を持っていた。今もって越えられないものもある。しかし、どうしても許せない部分が見えてきてしまった。最後には衝突して家を出ることとなった。タカを手に止める訓練だけ師匠のところで学んで山小屋に移ったのである。
◆もともと誰もいない小屋でタカとふたりだけで暮らすのが一番の夢だった。近くに畑を開墾して山菜を取ったり、と黄金の日々続く。しかし、山小屋1年目も2年目の冬も1匹のネズミもつかまえられなかった。3年目の冬もダメ。師匠に教えを乞うてから結局4年以上も何もできなかった。石の上にも3年というが、5年、10年ではないのか。
◆4年半たって待望の一瞬が訪れた。「私のタカがはじめて雑木林を走るケモノを追い、急斜面でつかまえた時の、腹の底からこみ上げてきた喜び。雪の中で涙が止まらなかった。この日のために生きてきたんだ、と思った。世界中でいろいろな喜びがあるだろうが、私の喜びほど深い喜びはないのではないか、と思った」。喜びをこんなふうに表現できる人は滅多にいない。
◆底知れない感動。不思議なことに以来、次々に獲物をとらえられるようになった。秋田の乳頭山 八幡平、八甲田山などに出かけて鷹狩した。乳頭山の孫六の湯の薪小屋を1泊500円で借りて1か月住み込み、鷹狩の日々を送った。次の年は、タカとテントに泊まって狩をしたいと思った。 カマボコ型のテントの奥をタカ用に仕切ってみたが、風が強いとあおられてしまい、シートがバタバタしタカが落ち着かない。翌年、今度は雪洞を掘った。「私にとっての進化とは原始に戻る感じですね。獲れた生き物は必ず刺身で食べます。ウサギでもネズミでも。タカと一緒に狩をした獲物を食べる、それが一番幸せな瞬間」と松原は語る。
◆幸せな瞬間の陰に痛恨の体験がある。「思い上がりからタカを死なせてしまったこと。鷹匠にとって最大のミスでした」落ち込んで立ち直れなくなるほどだったが、どんなことあってもタカと生きたいという思いが勝った。新たにタカを手に入れるためのさまざまの試み。中には法を犯す行為もあったであろう。しかし、タカとともに生きたい、どう言われようとそれだけでよかった。
◆鷹匠として松原さんがひとり立ちする頃、身近な人間から攻撃の火が上がった。役場や町長、県事務所などを通して出されるさまざまな「No」。ただ耐え続けた。勝つことはできないかもしれないが負けない。「人生の戦いは何があっても負けないこと。四面楚歌。孤立無援。いまもなお闘いの中にあるけれどタカによって救われている」と言い切る松原さん。こういう人が日本にいることがどんなに大事なことか。「人間社会の法律に目もくれずけもののごとく生きたい。夢は70、80才になってもタカと雪山を歩くこと」鷹匠はこう締めくくった。皆が何かをずしり問われた。(江本嘉伸)
東京での私の2度目の報告会。どこの講演によばれても、私の話はいつも自然の中で遭遇した鳥や動物のこと、山奥で長い間鷹と生きてきた日々の体験等を語ることしかできないのだが、今回も前回と同様の話で終わるわけにはいかないだろうとは思っていた。
◆江本さんからいただいた何冊もの『地平線通信』や『地平線から』等の本を読むにつれ、地球上で様々な体験を積み、目も舌も耳もこえた実力者たちが集まる地平線報告会では、動物たちとのおもしろおかしい話だけでは到底納得しないと思い、いささかプレッシャーを感じていたのも事実である。そんなこともあり今回の報告会では、今までどこの講演でも話したことのない私が鷹匠となるための最も核になる部分を本音で話さざるを得なかったのだが、会場に来ていた参加者たちはそれをどう受け止めたのだろうか。
◆それとは別に後で聞いたところによると、 何人かの子供も参加していたらしいが、私の恐ろしげな犬や猫の話の時には両手で耳をふさいでいたという。子供たちにはただすまなくあやまるしかない。
◆江本さん、今度は子供たちを集めて「少年地平線」をやってほしい。その時には、山や海で私が出会った多くの生き物たちとの飛びっきりのまばゆいばかりの体験を子供たちに話してやろうと思う。
◆ただ大人たちは目を見開き、耳をかっぽじいて聞かなければならない。かつての山の民が厳しい自然と立ち向かう中で、動物たちとの様々なつき合い方を学んできたことを…。貧しく簡素な生活の中で培われてきた技や知恵、経験が全て否定されてよいものか。
◆今は鷹の主要な獲物である兎の数も激減し、毛皮も全く売れない時代になってしまった。私は遅れてきた人間なのだと思う。関野吉晴さんは私を「最も縄文人に近い人間」と学生たちに紹介したが、私自身は「最もけものに近い人間」と言われたい。そして私の血や肉の一部がウサギやタヌキ、 アナグマからできているのを誇りにさえ思う。
◆私が報告会の最後で話した言葉は、私の心からの叫びだ。「ただ思う。人間社会の法律や世間の常識に目もくれず、鷹と二人でけもののごとく生きたいと」。(松原英俊)
1月28日、「南米・アンデス縦断」の旅から帰ってきました。全行程は1万2500キロ。400ccのオフロードバイク、スズキDR-Z400Sで走ってきました。
◆今回の出発点はペルーの首都のリマ。「ナスカの地上絵」で知られるナスカからアンデス山脈の4000m級の峠を越え、「インカの都」クスコへ。「空中都市」のマチュピチュ遺跡を見たあと、チチカカ湖畔を通り、ボリビアへ。世界最高所の首都ラパスからボリビア高地を南下、ウユニ塩湖のウユニからアタカマ高地を越えてチリに入りました。そこはアタカマ砂漠。一木一草もない土漠が延々と続きます。アタカマ砂漠を南下し、コピアポの町を過ぎるころから緑が見え始め、やっと砂漠は尽きました。
◆チリの首都サンチャゴから太平洋側を南下。南緯40度線を越え、オソルノからアンデス山脈のプジェウエ峠を越え、アルゼンチンに入りました。南米屈指の観光地、バリローチェからさらに南下し、烈風のパタゴニアに突入。「犬が空を飛ぶ」といわれるほどですが、空を飛ぶ鳥は羽をパタパタさせるだけで、むなしくも押し戻されてしまいます。バイクは横風を受けると道路の右端を走っていても、あっというまに左端まで飛ばされてしまいます。「バイクが空を飛ぶ」ような、そんな風の強さでした。
◆憧れのマゼラン海峡をフェリーで渡り、九州よりも大きなフェゴ島に上陸。世界最南の町、南緯55度のウシュワイアに到着すると、海岸に立ちつくし、ビーグル海峡を渡る冷たい風に吹かれたのでした。真夏だというのに、町のすぐ近くまで迫る山々は雪に覆われていました。ウシュワイアからは大西洋側を北上。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスから日本に帰ってきたのです。
◆今回の「南米」は23年ぶり。1984年から85年の「南米一周」以来のものです。23年間の南米の変化をまざまざと見せつけられました。どの国も経済的に発展し、政情は安定し、治安も良くなり、じつに旅しやすい国々になっていました。チリの太平洋側を貫く国道5号は全線が高速道路に変わり、パタゴニア縦断のルートも交通量がぐっと増えていました。観光客の増加には驚かされるほどでした。ペルーでは「ナスカの地上絵」を空から見る遊覧飛行機が頻繁に飛び、人気度抜群の世界遺産のマチュピチュ遺跡には行列ができるほどでした。アルゼンチンのモレノ氷河の展望台は押すな押すなの大盛況。チリのトレッキングのメッカ、パイネ国立公園には世界中から大勢の人たちが来ていました。世界最南の町ウシュワイアは一大観光地になり、連日、港には何万トンもの豪華大型客船が入港していまし。
◆23年前の「南米一周」のときのペルーは大変でした。当時リマの治安の悪さといったらコロンビア級。「ペンション・ヤマモト」という日本人宿に泊まったのですが、宿の前に停めた車はわずか10分ほどで、4本のタイヤ、全部を盗まれてしまいました。宿の主人からは夜の町には絶対に出ないようにといわれたほどでした。その「ペンション・ヤマモト」も今はなくなっていました。
◆政情もきわめて不安定で、反政府軍の「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」と政府軍の激しい戦闘がアヤクーチョ県でつづいていました。その中を強行突破したのです。とある村で泊まったときは、政府軍の兵士に村の食堂に連れていかれ、「ここで寝るように」といわれたのです。食堂の入口にはテーブルやイスが積み上げられ、「銃撃戦になっても、絶対に動いてはいけない、頭を上げてはいけない」ときつくいわれたのが印象的でした。
◆当時の南米の経済は最悪で、とくにボリビアでは猛烈なインフレに見舞われていました。物価の上昇は何パーセントなどいうものではなく、2倍、3倍…と一気に上がっていったのです。銀行で100ドルを両替したときは唖然としました。札束がドサッと、まるで山のように積み上げられてぼくの目の前に置かれたのです。アルゼンチンもそれに近い状態で、年率何100パーセントという猛烈なインフレ。まさに経済危機のまっただ中でした。
◆今回の「アンデス縦断」を走りながら、何度となく23年前の「南米一周」を思い返しました。まるでミラクルでも見るかのように、すっかり忘却のかなたにあった「南米一周」の記憶がじつに鮮明に蘇ってくるのです。これが今回の「南米の旅」の一番の収穫といえるかもしれません。と同時に128日間で4万3400キロを走った「南米一周」が自分自身にとって、じつに価値あるもののように思われてくるのでした。(賀曽利隆)
[きりりふんどし姿の賀曽利隆!]
1985年5月の「地平線通信67号」は、まだ葉書スタイルだった。「1984年10月22日から翌85年4月7日までスズキDR250Sにまたがり男は南米大陸一周43000km.168日間を駆け抜けた。男の名は賀曽利隆…」と紹介され、地平線通信史上最強のあのイラストが全面を埋めている。ヘルメットをかぶった、ふんどし姿の男の背中には「South America」の地図。賀曽利隆が思い出す23年前の旅とは、この時のものである。『大雲海』をお持ちの方は52ページをご覧あれ。(E)
江本様。こちらは、久々にウランバートルの街中で−40℃以下というしびれる寒さの中、2頭のシェパードと仲良く暮らしております。子犬の方が、懸念していた通り、モンゴル人の飼育の仕方に愛情がなく、クル病にかかってしまったのですが、それでも元気いっぱい。獣医さんに診せたら、骨粉を処方されました。日に日にたくましく、大きくなっている感じです。1週間で子犬は2kg、親犬も4kg増。急にでぶったというよりは、本来の標準体重に戻ったようです。
◆やっぱり親子なんだなぁって思うようなしぐさで大きいのと小さいのが私の動作ひとつひとつに反応するのが面白くってw トイレトレーニングもあきらめずに続けていたら、ちょうど2週間くらい、生後4か月を迎えた日から急に粗相もなくなり、我慢することを覚え・・・と分別がついてきました。ワクチンとか寄生虫駆除の薬とか、野良犬と遊びすぎて皮膚の感染症をもらっちゃったりと、ほとんど週2回のペースでの動物病院通いでしたが、それも落ち着いてきました。
◆もうだいぶ、寒さも緩んできたので、これからは子犬も親犬も屋外での運動が重要、ということで、以前、犬の訓練所を経営していた友人のハシャー(自分で作った一軒家!と広い庭があります)に預かってもらうことにして、私はまたちょっとだけ一時帰国。それにしても、江本さん、この冬の寒さは今まで経験したことのない面白さを感じています。異常気象と騒いで暗くなることもできますが、犬の散歩をしているときに、満月の光に照らされて、自分が吐く息が凍ってダイヤモンドダストになり、自分に降りかかってくるなんて体験、ツァータン(注:モンゴル北部のトナカイ遊牧民)のところでも経験できませんでしたよ。
◆石炭の煙はほんとにひどくて、政府もウランバートル市も躍起になって大気汚染対策プロジェクトを叫んでいますが、この寒さじゃ石炭を燃料にする以外、ゲル地区の人たちが暖を取る手段はありません。そこで私たちは、ゲル地区の皆さんもストーブも寝静まる夜中の1時くらいをねらって深夜の散歩に興じます。誰もいない真っ暗な雪の上をソートンが切り裂くように走る姿はかっこいいし、その後をパタパタとくっついて転がっていくトムがまた可愛いのです。
◆新年早々の大寒波で放牧に出た人が凍死したり、メチルアルコール入りの密造酒で乾杯した直後に40人あまりの人が中毒で倒れ、15人がなくなったりと波乱万丈の幕開けでした。配給時代以来、ひさびさにアルヒ(注:モンゴル・ウォッカのこと)がまったく見当たらないお店というのを見ました。酔っ払いがいないというのはそれはそれでいいなぁ、と思ったのですがその反動で先週、解禁になった途端、酒を買い求めに押し寄せた男たち同士で文字通り、殴り合いの喧嘩。流血の惨事。そんなにまでしてアルヒがほしいか……。
◆でもアルヒを人々の生活から隔離して、解禁になった途端に、販売店も飲食サービス業も、製造業もぜーんぶ、入札許可制。酒造業ライセンスなんか、上位30業者の入札制で、最低入札額は2億トゥグルグ(2000万円!)からだっていうんだから、ちゃっかりしています。ますます拝金主義政府になっていて、お金持ちだけが勝ち組になる構造ができそうで怖いです。
◆選挙前ということで、各党の選挙資金予算発表とか、今年の選挙から国会議員の特定の割合は女性議員にする、というジェンダー平等を唱える制度のせいで立候補者同士の調整がつかず、各党大混乱という感じ。1立候補者あたり、最低でも200万円分くらいの活動資金を自前で用意した上で、党が公認する、みたいな風潮で、金持ちしか議員になれないの! という民主化の初心を忘れたか! と唖然とする説も出ています。まだ調整段階のニュースなので、最終的にどういうシステムになるかは、今の国会での話し合いで決められるようです。5月下旬くらいからいらっしゃれば、今年も総選挙ラプソディーを体験できそうです。
◆地平線会議in沖縄計画はいつ頃になりそうですか? 一応、それも予定に組み込まないといけない! それに、江本さんもぜひ、今年は若い人を引き連れて、モンゴル最高峰の元フイテン山・現イフモンゴル山にチャレンジしてください。地元の山岳会の人たち(カザフ人ですが英語がしゃべれる人もいます)にきいてみたら、Welcome!だって! おそらく世界的にも1,2位を争うであろう、15kmにわたる先史時代の壁画群やカザフ伝統のイヌワシ文化、アプローチまでを馬やらくだで行くなど、ちょっと変わった登山旅もできます。
◆今年のツァガンサル(「白い月」の意味。モンゴルのお正月)は2月8日なのですが、8日か11日に一時帰国します。今年の活動に必要な装備が増えてきちゃったり、資料を読み込んだり、勉強会に参加したり、という感じです。この前はあまりに滞在期間が長すぎて、逆に油断して江本さんにご相談もできず、ボールペンの返却もできませんでした。なので、今回はほんとに短期間でやることを集中的にやる、ということにチャレンジしてみようと思います。それでは!!(2月2日ウランバートル発 山本千夏 2頭の大わんこの写真、「アルヒなし」の店内写真を添えて)★追記:結局11日帰国
1月17日から27日まで、アメリカ・ユタ州パークシティで開かれたサンダンス映画祭に「puujee」がノミネートされ、出かけて行きました。1985年、ロバート・レッドフォードがサンダンス・インスティテュートを創設・主宰、若手・独立系映画製作者を支援する映画祭として始めたものです。ちなみに、この「サンダンス」という映画祭名は、映画『明日に向って撃て!』Butch Cassidy and theSundance Kid(ジョージ・ロイ・ヒル監督、1969年)でレッドフォードが演じた役サンダンス・キッドからきているそうです。
◆あれよあれよという間に、ほんとプージェーに引きずられるように、グローバリズムの本拠地アメリカのサンダンス映画祭まで来てしまったのです。思い返せば、去年3月に東京で開かれた地球環境映像祭で「puujee」が入賞。その時の審査員の一人がぜひ韓国映画祭に出しなさいと勧めてくださって、あわてて英語字幕を作製し、そして8月に韓国EBSインターナショナルドキュメンタリーフェスティバルで奇跡のようにグランプリをいただき、それを観たサンダンスの審査員が映画祭に紹介してくれたのです。
◆韓国は30年ぶりでしたがアメリカは25年ぶり。韓国は関野吉晴さんと山田和也監督がいっしょでしたが、今回は一人で1週間先行しなければなりませんでした。ロサンジェルスの税関でロボットのような職員に指紋と写真をとられ、税関を出たときは乗り換えの飛行機は出た後でした。
◆ソルトレイクシティから乗り合いタクシーで雪山をいくつか越えてたどり着いたパークシティは、高級スキーリゾート地。ホテルもスキーロッジですぐ近くにトレイルのコースが見えます。夜になるとライトアップされたゲレンデが美しく、粉雪がちらついています。ここで映画祭をやるのか……不安な一夜でした。
◆翌日、事務局でもらったフィルムメーカーと書かれた名札を首から提げ、何かあると「Film maker?」と呼び止められるのがうれしいやら恥ずかしいやら、これから1週間一人で3回の上映をこなし、ラジオ出演をしなければならないのです。
◆今回、「puujee」を含め、海外ドキュメンタリーコンペティション部門のファイナリストには16作品が選ばれ、期間中それぞれ5回ずつの上映がありました。最初の上映会場は、まさにロバート・レッドフォードの別荘のある美しい渓谷の中にあるサンダンスリゾートです。車で1時間かかります。小さなリフト乗り場を過ぎるとそこにはコテージ風のかわいい建物があり、中は150人ぐらい入れる会場でした。入り口にチケットを持った客が並び、入場後もスキー靴を履いた客がどんどん入ってきます。
◆私にはまったく理解できなかったのですが、サンダンス映画祭はスキーと映画を両方楽しむ映画祭なのでした。
◆「サンダンス映画祭でpuujeeを上映してもらえることに感謝します。みなさん一緒にモンゴルを旅して、プージェーに出会ってください」と挨拶をする。もちろんユタ大学の図書館に勤務するボランティアの裕子さんに通訳をお願いしました。プージェーの愛らしさは普遍的なんだと思います。HDカムでの上映は日本で観るのと比べものにならないくらいクリアーで、怒るプージェー、照れるプージェー、乙女のプージェーの表情に観客が引き込まれていくのがよくわかります。お母さんが亡くなるところでは鼻をかむ音があちこちで聞こえ、やっぱりエンディングは大きなどよめきがありました。上映後、「おめでとう」「いい映画を作ってくれてありがとう」と声をかけられました。サンダンスで上映されることがすごいことなのだとあらためて実感しました。
◆その後の上映も毎回満席。上映後のQ&Aコーナーでは質問が途切れることはありませんでしたし、街を歩いていても「puujee良かったよ!」と声をかけられることしきりでした。主な反応は、「プージェーのお父さんはどうしたの?」「映画にしたきっかけは?」「人生について考えさせられた」「プージェーの家族の団欒が幸せそうだった」。
◆もう一つの課題が、ラジオ放送への出演。番組のタイトルは「ホーストーク」で毎週1時間、馬にまつわる色々な話をするのだそうです。私はモンゴルには行ったことがないので辞退していたのですが、馬というポイントで「puujee」を観るととても新鮮だったので、お受けしました。徹夜で関野さんの本とモンゴル近代史の本を読み、もしも話につまったら、昔自分が馬に蹴られたことがあること、日本では「馬に蹴られて死んでしまえ」という諺があることを話そう。でも馬を食べる話は止めようなどと考え、ほとんど眠れませんでした。
◆約束の朝9時、ロッジの前に出てみると、女性3人と真っ白なアルパカの子供が私を待っていました。アルパカの子供って見たことあります? もうぬいぐるみのようにかわいくて毛はもちろんフカフカで、ミルクほしいとフエフエと鳴くのです。一気に私の心は和みました。ラジオ番組に出演している獣医のチャーミアンさんが歩けなかったこの子をリハビリで立派に歩けるように育てたのだそうです。ちなみに彼の名はジェット・リー。オシメをして一緒にスタジオ入りしました。パーソナリティーは横須賀育ちのジェーン、馬を使った障害児の理学療法士。通訳は中国系のチャチャ。ご主人はカウボーイ。
◆話は、関野吉晴さんのグレートジャーニーの話から映画の中の馬の出るシーン、馬泥棒、馬をプレゼントされる話、そして、モンゴルの草原は五畜(馬、牛、羊、山羊、らくだ)を飼うことで守られてきた話等。正直、あまり覚えていないのですが、モンゴル人がモンゴルの草原で生きていく以上、モンゴルの草原を大切にしてほしいという話で終わったように思います。日本はもちろん、アメリカのグローバリズムの話までできなかったのが残念です。放送後すぐにジェーンの友人から電話があり、素晴らしい放送だったとのことでホッとしました。
◆パークシティは高級リゾートで、観客はインテリやハイソサエティが多いのですが、モンゴルのことを知っている人が極めて少ないことが驚きでした。まして、アメリカのグローバリズムがモンゴルの草原を破壊しているということなど思いもよらないわけで、今後「puujee」がそういう意識を喚起してくれるとうれしいと思います。一番うれしかったのが、モンゴルから出稼ぎに来た若者が「よく作ってくれた!」と声をかけてくれたことです。彼はアメリカ滞在9年目、日本食レストランで働いていて故郷には帰っていません。
◆映画祭といえばボランティアということを韓国で知ったのですが、今回も1400名のボランティアたちが働いておりました。もらえるのはお揃いのスタッフジャケットだけですが、アメリカはもちろん海外からボランティアに参加するのだそうです。期間中、仕事を休んでフルタイムのボランティアをしながらスキーを楽しむ人も多く、コンドミニアムに無料で泊まれるのが魅力だそうです。こちらは中年のボランティアも多いので、おばさんに「プージェーは世界中に行くよ」と声をかけられて驚きました。ボランティアだけでなく、世界中の映画祭を回って働いているプロフェッショナルもいるらしく、世界の映画祭産業に非常に興味を持ちました。
◆前置きがとても長くなりましたが、受賞は逃しました。受賞作は素晴らしい作品ばかりでしたので納得です。ぜひ日本で上映してほしいものです。授賞式でグランプリ作品のプレゼンターを務めたタランティーノ監督の言葉が印象的でした。「賞なんて重要じゃない。私の“レザボアドックス”も賞はもらえなかった。ここまで来たみんなが賞賛されるべきなんだ。サンダンスは映画を愛する人のためにある」
◆実際はもっとかっこいいことを言ったはずですが英語なのでよくわかりませんが、受賞を逃したわれわれにはとてもうれしい言葉でした。その言葉を象徴するように、サンダンスを去る日、フェスティバルの後片付けをしているボランティアたちから、「congratulation!」と声をかけてもらいました。
◆「puujee」は3月にアテネの映画祭、4月にフィラデルフィアヘ行く予定です。そして、4月20日(日)はpuujee製作委員会として初めて主催する上映会を高知で行います。関野吉晴さんも参加予定です。4月24日(木)に下高井戸シネマでの上映も決まりました。よろしくお願いします。(2月12日 本所稚佳江 puujee製作委員会)
もしもし。チチカカ湖のほとりのプーノという町にいます。いま、2月10日夜の8時05分。先週のカーニバルの時はアンデスの山の中のインディオの精神世界のおどろおどろしい、でも華やかさのまったくない、モノクロの世界にいました。今年はブラジル移民百周年ということでマスコミはそっち方面に集中しているようなので、私は勿論避けてこちらに来ました。
◆プーノはチチカカ湖の浮き島に行く際の港町です。標高は3800m、富士山より高いのに、重い衣装を着てカーニバルのいろんなキャラが練り歩いている。悪魔のキャラなんて30キロはある衣装ですよ。信じられない。このあたりは、モルモットが放し飼いにされていて、ちょこちょこ走りまわってます。アルパカ、リャマと並んでプレ・インカ時代からの「家畜三点セット」。屑野菜をもらって育ってます。
◆どこからかけてるかって?今回はプレスセンターなんてないので公衆電話センターのようなところからかけてます。でも1分間しゃべっても40円ぐらいなのでご心配なく。日本だけですよ、あんなに高いのは。明日はリマに戻ります。例の発掘現場は着々と調査が進行してますよ。また、新しいことを報告できるかもしれません。とにかくものすごく複雑な構造のようです。あ、不肖私、天野博物館の「広報企画アドバイザー」を命じられました。月末までには帰ります。ではまた。(白根全 恒例のカーニバル現地電話報告)
人生にはいくつもの出会いと別れとがあって、それは旅先においても同様で、そんな出会いをきっかけにその人のことを気にかけていると、思わぬところで別の出会いとつながっていることがある。地平線会議という旅人たちのネットワークは強力な磁石のようにそんなつながりを引き寄せる作用をすることが多いのだが、帯広に住む戸川謙一さんのことを私が思い出したのも、そんな偶然からだった。
◆1990年6月、アジア横断の旅の途中、パキスタンのクエッタに立ち寄った。「クエッタは何の変哲もない高地砂漠の町だ。薬屋、パン屋はなぜか開いている。ひと回りするうちに鉄砲の絵を描いた看板が目についた。 むこうからデモの一団がやってきた。何を叫んでいるのか知らないが、シャッターを切る。とたんにデモ隊を囲む制服のひとりに睨まれた──」。私の日記にはそんなふうに書き付けてある。インドのデリーを出てから日本人にまったく会わず、ラワルピンディから33時間かけて列車でやってきたので、戸川さんとゲストハウスで初めて会ったときには嬉しかった。しかも、これから灼熱の砂漠を越え、ほとんど情報のないイランに入るのである。一緒に国境を目指すひと回り上のアニキは頼れる存在だった。(落合大祐)
★89年11月、バンコクへ。旅の期間は1年間という以外は特に行き先は決めていなかった。ネパールのポカラに滞在した後、バスでインドに入った時には3月になり、バラナシでのんびりしていたのだが、この頃からバスでの移動がつまらなくなり自転車で走ってやろうと思いつく。しかしインドではまともな自転車は手に入らないので、面倒でももう1度ネパールに戻り、購入する。
★1度バスで通った同じ道を再びバラナシに向かってゆくが、やはりバスと違って感じるものが違う。楽しくてしょうがない、やっぱり自分には走る旅が合っていると痛感する。これでテーマは決まった。とにかく西へ、ヨーロッパのいける所まで行こうと決心した。パキスタンに入り、イランに向かうため南下していくとだんだん砂漠っぽい景色になって来る。道は狭く殆んど1車線のところを車はかっ飛ばしてくるので実に怖い。
★ある日ハイエースの乗合バスに接触され大転倒した。バスはそのまま行ってしまうし、痛くてのたうちまわっていると、通りがかりの人に助けてもらい、診療所に連れて行かれたのだが、何とさっきのバスが目の前にあったという、マンガみたいな話だ。ケガはたいした事なかったが泊まってゆけということになり1日入院?した。やがてクエッタの町へ。
★ここの宿では数人の日本人に会うがそのうちの1人が落合さんだった。まだ18歳という若さと小さな体に100リットルのザック、ひと回り違いの亥年だったのが印象的な「少年」で、同じイランに向かおうとしていた。6月下旬にボーダーの町タフタンに着くがこの頃から謎の頭痛、発熱がおこり、パキスタン側の宿で寝込んでしまう。イランに入ってからもこれにはしばしば悩まされた。
★アテネからエジプトへ向かうフライトの前日、空港でゴロ寝するためキャンプ場から走り出し、オモニア広場で自転車を押しながら歩いているとオープンカフェに座っている日本人らしき1人と視線が合った。「ああっ!」と思った。迷わずに近づいて行き「あのー、賀曽利さんと違いますか?」すると「ハイッ。そうです!」と。なんてすごい人に偶然こんな所で会ってしまったのだろう。賀曽利隆さんはハスラー50での世界一周中で、これからは私の来たルートを逆にカルカッタまで行くという。
★10年後のある日、何と突然我が家に賀曽利さんがやって来た。全くのアポなしだったので鼻血が出るほど驚いた。こんどは日本一周中という事で一泊してもらい、ビールを飲みながらゆっくりと昔の旅の話や最近の事などを話す。翌朝はザーザー降りの雨だったが、「私は台風でも走ります」と、次の目的地へと向かう。本当にパワーのある人だ。賀曽利さんまたいつでもアポなしで良いので来てください。(帯広にて・戸川謙一)
◆ただ「バイク乗りの旅人」という共通項から、昨年11月の報告会レポートを戸川さんに送った。それまで賀曽利さんとそんなつながりがあるとは知らず、今度はこっちが鼻血を出す番だ。話は飛んで1996年夏の地平線会議神戸大集会のときのこと。「地平線マラソン」が開催される武庫川へ向かう阪神電車の中で、杉田晴美さんと話していると、その戸川さんが彼女とも知り合いだとわかった。これはもう、地平線会議の磁力と言うしかない。(落合)
★杉田晴美さんとは最初、青森のねぶたで騒いでいた時に出会った。バイクでロングツーリングをしている女の子だったが、その彼女と再会したのは93年。夫婦でネパールに行き、レンタルバイクで2週間程のツーリングに出た。ブッダの生誕地であるルンビニーに行った時、何やら見覚えのある顔を見かけた。あれ〜っと思い「もしかして杉田さん?」すると「あら〜!」と大騒ぎ。よくもまあ、ばったりと会えたもんだなあと。晴美ちゃん遠くなってしまったけど、またいつか会おう。(戸川)
◆1月下旬、帯広を訪ね、私と戸川さんも18年ぶりに再会した。空港に着くと、マイナス18度。廃校になった小学校の跡地で家畜の仕事をしている戸川さん一家には、雪上での焼き肉で歓待してもらった。一度生まれたつながりは、想像を超えて、世界中へ広がっていく。(落合)
あけましておめでとうございます。旧暦1月1日(新暦2月7日)は小春日和でのんびりしたいい正月でしたが、翌日昼ごろ、放していた雄ヤギ同士でけんかして一頭が不慮の死をとげてしまいました。で、無駄死にはかわいそうだから死んだヤギをさばくことにしました。この間江本さんから、「食べてあげるのも供養だよ」と言われたのを昇(注:晴美さんのだんな、浜比嘉島の外間昇さんのこと)が覚えていたのでしょう。海人(うみんちゅ。漁師のこと)がちょうど正月の宴会を港の倉庫でやっていたので、もも肉をさしみにして差し入れました。
◆翌日は朝から庭で大鍋にぶつ切りの肉と内臓を炊いて、夜はうちの庭で2日間にわたり大宴会となりました。「おじいが好きだから」と、噂を聞きつけ鍋を持ってもらいに来る島人もいました。島人たちに喜んでもらえてあいつも成仏できたことでしょう。貴重な命をありがたく頂いた初春でした。
◆さて、こうして動物たちと暮らす生活をしていると、ふと、帯広で暮らす戸川さんのことが時々思い出されます。戸川さんの帯広のおうちに遊びに行った時、羊とか犬とか動物たちをたくさん飼っていて、確か実験に使う動物を製薬会社だかに依託されて養う仕事をしていたと記憶してます。動物が大好きだから、なんだかむなしいんだよなあ、と言っていたのを、思い出すのです。
◆戸川さんとは最初は私が日本一周中、青森のねぶたでバイク仲間たちと跳ね、飲み、その後、ネパールのルンビニでバッタリ再会をし(戸川さんは新婚旅行で奥さんとツーリング中でした)、その後利尻島のバイク仲間の集まりで顔を合わせ、戸川家にご厄介になったのでした。その後は会ってないんですが、今回、江本さんから通信にあの戸川さんが登場すると聞き、懐かしくて、ぜひ一言戸川さんのことを書かせて頂きました。戸川さーん、お互い北と南で頑張りましょう!(2月13日 外間晴美)
「先日、沖縄から地平線会議に参加させていただいた沖縄の安村です。参加した感想を書いてみましたので、送りますね。またお会い出来るのを楽しみにしています」こんな挨拶とともに、うるま市在住の安村さんから以下のようなメールが届いた。自作のCDを頂いているが、安村さんはラップ音楽のつくり手である。浜比嘉島の近くにこんな若者がいてくれたとは、嬉しいことである。(E)
未知との遭遇。お話の途中から参加して、最初に感じたのはそれだった。いやはや、沖縄から来て、大都会・東京でまさか獣の話を聞けるとは思わなかった。
◆東京に来る度に会ってくれる友人と会うことになり、「そういうことなら面白いものがあるよ」と誘われたのが、“地平線会議”だった。“地平線会議”……、名前からして面白そうだ。視点の先が凄く遠い。僕の頭にはその地平線の先に、顔を出していく朝日がパッとイメージされた。二つ返事で行くと言って、友人と駅で合流した。寒い冬の街を歩く。会場も当然、都会のド真ん中だ。地平線は一向に見えそうになかったが……。
◆鷹匠の松原英俊さんが話をしていた。途中参加で鷹の危険さもよく判らないまま手探りで聞く。すると、松原さんが「鷹が餌を探す目で、私の方を見た」と言った。おお、ピラミットの頂点に立ったつもりになって、おごっている人間が、餌として見られる瞬間。どんな気持ちだろうか。僕の頭の中に、ハッキリと冷たい眼でこちらを真っ直ぐ見つめる鷹が現れた。静寂の中、ただこちらを見ている。
◆自然の中の生存競争……、弱肉強食……、知っていたものが、分かったつもりだったことが、一瞬にして解かったような気がした。松原さんの目から、その世界を覗けたような錯覚に陥る。……言葉に出来ない、感覚との遭遇。僕は未だ何も知らない……。
◆夢から覚めるように、今は沖縄でこの文章を書いている。おぼろげに、でもハッキリと覚えているのは、彼が、彼等が沖縄にやって来るということだ。しかも、僕の住むうるま市、浜比嘉島でまた会える。僕はまた導かれるように、その場所に行くだろう。新たな未知と再会するために《安村磨作紀 (やすむら・まさき)/ カクマクシャカ》
地平線会議草創期からの仲間、高知県・四万十楽舎の山田高司君から「ことしもドラゴンランやりますっ!」と電話をもらった。そうか、あれをまたやるのか。また、沈下橋を次々に渡ったりくぐったりしながら太平洋まで抜けるのか。できれば今年も行きたいぞ、四万十川、最源流から。昨年よりほんの少しハードルを高くしたいようだが、地平線会議に集まる人なら是非来てほしい!というのが本音らしい。以下、通信に間に合うよう大急ぎで概要を書いてもらった。なお、昨年4月の通信のフロントでふれたが、ドラゴンランは四万十川という川を理解するのに非常にありがたい企画である。最源流の山から太平洋まで実に変化に富んだ自然を目のあたりにすることができる。同時に、南米大陸3大河川、アフリカ、中国などの大河を下り、緑化運動に関わってきた山田高司の哲学がこめられていて面白い。その主旨を鮮明にするために設立趣意書も掲載しておく。皆さん、是非参加を!(E)
お世話になります。四万十ドラゴンラン、今年もやります。昨年のドラゴンランメンバーで「四万十ガイア自然学校」を立ち上げ中です。このメンバーで、やる予定です。四万十楽舍は共催者となります。日程は、4月26日から5月1日までの5泊6日です。今回は特別モニターツアーとして料金は四万十にちなんで40010円。そのかわり、参加者は、この四万十ドラゴンランメニューをアドバイス,宣伝してくれる猛者を優先的に選びます。詳細な企画書は追って知らせます。参加希望者は、この期間予定を入れずに待っててください。《予定している日程》
《予定している日程》
★4月26日・昼集合、四万十源流登山、せいらんの里泊
★27日・せいらん里から大正ウェル花夢まで自転車(70km)
★28日・大正ウェル花夢から四万十楽舎まで自転車(50km)
★29日・四万十楽舎から佐田の沈下橋までカヌー(25km)
★30日・佐田の沈下橋から太平洋までカヌー(20km)
★5月1日・解散式、オプションとして、サーフィン,シーカヤックあり。(2月12日四万十川発 山田高司)
、四万十ガイア自然学校は、日本の辺境、四万十川と幡多の森川海と暮らしの案内人のネットワークとする。
、四万十川は源流から海に至るまで、山々と里に囲まれた自然の風景の中を流れている。(これは、全国の長さ100km以上の川では四万十川だけ)
、四万十川の森川海と暮らしの共生風景は、21世紀の循環型社会を作る流域圏として好適。既に流域各地でその取り組みが始まっている。
、四万十川は源流から海まで川を近くにたどることができ、ドラゴンランで自然のエネルギーを心身に取り込むには絶好の体験となる。
、ドラゴン=川や自然のエネルギーの象徴。ドラゴンランは人力(徒歩,自転車,カヌー)だけで川の流れとともに下り、ドラゴンのエネルギーを取り込み命のアンテナを磨く体感行動。
、「21世紀は情報と環境の世紀」。情報の3種の神器はパソコン、携帯電話、命(心身)のアンテナ。命のアンテナは自然の中で、体感して磨くのが一番。
、四万十ドラゴンランは日本と地球のドラゴンランの絶好の入門コースになる。
、支流(黒尊川,目黒川)を使ったミニドラゴンランや子供用のドラゴンランキッズ版も考えられる。
、四万十ガイア自然学校のメンバーは各種資格を取り、客の安心感と信頼を得る。特に安全対策。
、子供、家族、退職者まで、対象者に応じたメニューをつくる。
、流域の達人のネットワークを作り連携する。
、エコツーリズム(自然体験)とグリーンツーリズム(田舎体験)のメニューを充実する。
、日本各地、地球の川でもドラゴンランをやってメンバーのスキルアップをする。このことにより、スタッフの魅力の向上につなげる。
、四万十川流域の自然環境保護に積極的に貢献する。
、メンバーは自然体験の知識、技術、経験はもとより、農林漁業の伝統文化と新技術の実践に努める。
、四万十遊びマップを作る。魅力あるホームホームページを作り、各種関係機関とリンクし、情報発信、集客を図る。
、コンパクトにまとまった、森川海と暮らしの自前のフィールドを持つことを目指す。
、メンバーは基本的に個々で自立した案内人とする。
、事務所は、好適地が見つかるまで四万十楽舍を仮の事務所とする。連絡先はメンバーの携帯電話とする。
、自然学校とガイドによって生計を立てられることを目標とする。
◆今年の三味線の弾き初めは、海宝道義さんの主催する宮古島100kmウルトラ遠足、早朝の星の瞬くなかでのスタートの合図で幕を開けた。僕はこの機会に、この島での一人旅を計画していた。そもそも歴史を遡れば、三弦楽器はインドより大陸を経てこの琉球に入り、日本本土へと渡ってきた経緯がある。熊本「ハイヤ節」〜佐渡島「佐渡おけさ」〜津軽「あいや節」という様に、人から人へ音色や調子を変えながら旅をしてきた唄もあり、かねてから琉球の唄への憧れがあった。
◆結果、津軽三味線は僕の想像を遥かに凌ぐ程に様々な宮古の人との出逢いを引き合わせてくれた。宮古高校の音楽の授業に呼ばれ、伊良部島の小学校では(人生初の)横断幕で歓迎を受け、民謡酒場は一声で満席になる。僕の演奏技術がどうのということではない。島で育った人達の99%が津軽三味線をテレビで知りながら、生の楽器による演奏に触れた事がないことに由来している。楽器を手に、三線(さんしん)との造りの違いをまじまじと観察する人、全く異なる演奏方法に感心する人。それぞれの反応が面白い。「僕はこの人達に何を伝えられるだろう?」時折そんな問いかけが顔を出す。自分が出来たのは、旅を経て感じてきた想いを、津軽で叩き込んだこの音色に精一杯込めることだけだった。目の当たりにする彼らの眼差しの輝きには、今も昔も変わらない、外の世界の唄への好奇心に満ちていた。
◆島を代表する歓喜の唄「張り水のクイチャー」を披露した。華やかな曲とばかり思い込んでいた僕に「琉球時代、260余年も島人を苦しめ続けてきた人頭税廃止の際に生まれた唄なんだ。」ある時おじさんは目に涙を溜めながら教えてくれた。それでも、なんとか弾けるようになった僕のつたない演奏でさえ、いてもたってもいられないとおじいやおばあ、小学生達が立ち上がって一斉に踊り出してくれた瞬間には、彼らとどこかで何かが繋がったような嬉しさで鳥肌がたった。皆が声を合わせる「ニノヨイサッサイ!」という掛け声は、これまで過酷な時代を生き抜いてきた宮古人の気迫が宿っているかのようだ。
◆琉球と言えども単一民族ではない。宮古島には宮古の言葉で唄われる独自の唄が沢山あり、唄い継がれてきた唄には不思議な力がある。初めて生で聴く唄の調べ・唄声に耳を澄ませてゆくと、その人の人生から始まり、幾百年の時を越えた世界に息づく島人の場面や心情までもが、感覚的に流れ込んでくる。共に唄うことで、多くの生きてゆく喜びや悲しみを共有している。こうして唄を介して人と向き合ってみると、人それぞれの背景には実は物凄く壮大な物語が広がっていることに気付かされる。それを簡単に理解できるとは思わない。ただ、限りある人生の幾度となく過ぎてゆく出逢いの場面のなかで、お互いの隔たりを越えたところで共有したり交わすべき大切なやりとりがきっとあるのだと思う。
◆ほんの40年前まで、ここにはガスも水道も無く馬車が行き来していた。その頃は皆が助け合う“ゆいまーる”の精神が暮らしに根付いていたという。この島本来の暮らしもまた、遥か遠いところからどこまでも続く旅の途上にある。「我々はどこからきたのか。どこへ行くのか。」島唄は聴く者に静かに語りかけている。今年は沖縄での地平線が待っている。皆さんの集まる輪のなかに、果たして何が浮かび上がるのだろう。(車谷建太)
兵庫県豊岡市が主催する植村直己冒険賞(第12回)は2月12日発表。 07年の受賞者は登山家、野口健さんと決まった。授賞式は6月7日。
「リヤカーマンのでっかい地球!大冒険2 アンデス山脈5000m越えに挑む」
2008年2月17日 20:00〜21:48 テレビ東京、テレビ大阪他
★植村直己冒険賞を受賞した永瀬忠志氏。昨年の夏にアマゾンのジャングルをリヤカーを引いて徒歩で制覇し、自らの“地球一周”を達成した。そんな永瀬氏が南米チリから“地球2周目”の旅に出る。地上で最も乾燥した土地といわれるアタカマ砂漠を越え、干上がった塩が行く手を阻む巨大な塩湖を横断し、標高5千mに及ぶアンデス山脈越えに挑む。(TV日刊スポーツ・コムより)
昨年夏、下北半島でビギナーズラックの写真を1枚、モノにした。研究者にくっついて、というか足手まといになりつつ『北限のサル』を追った際、サルノコシカケの上にちょこんと座るサルの姿を捉えたのだ。それをプリントして眺めていたら、ある人の顔が浮かび、そのまま絵葉書にして出した。やがて彼から返信があり、「私も30年以上狙ってきたが、撮れませんでした」とのコメントが添えられていた。
◆その人物とは、きのこ写真家の伊沢正名さんだ。十数年前までの毎秋、北関東のご自宅を会場に、きのこ狩り+料理会が開かれ、何度か私もお邪魔して愉快でスリリングな時間を過ごした。以来、すっかりご無沙汰していたけれど、絵葉書を送るにあたってネットで検索したら、今は『糞土師』を名乗り、本業よりも、野糞普及活動に専念されているらしい。
◆返事を貰って2、3週間後、その講座が都内で開かれるのを知った。行ってみると、なぜか参加者のほぼ全員が若い女性たち。何となく肩身が狭かったが、話が始まると、33年に及ぶ野糞研究の濃い内容に、我を忘れて聴き入った。とりわけ、『掘り返し実験』の報告は目からウロコだった。土中のうんこには、嫌気性、好気性の菌が次々取り付いて、1週間ほどで糞臭が消え、ドブ臭、エビ・カニ臭、スパイス臭を経て、1ヶ月もすれば無臭になるという。その経過を追ったスライドも圧巻だった。近くの木が無数の根を伸ばし、うんこを鷲掴みにしている。あるいは、そっくり蟻が占拠して巣を構え、幸せなヘンゼルとグレーテル生活を営んでいる。ネズミが棲みついたのか、クルミの実がストックされているうんこもあった。「食生活が贅沢な人間のうんこは、栄養価も高い。それは、他の生き物にとって大変なご馳走です」。そんな伊沢さんの言葉に、私は何度も頷いた。
◆消化器が弱い私は、旅先でもしばしば野糞を強いられ、そのつど、敗北感と共に罪悪感を覚えてきた。バックパッキングが広まった70年代初頭、野糞と直火(焚き火)は、「環境にダメージを与える」として、ストイックなナチュラリストから非難された。しかし、「うんこに食品添加物が残っていたとしても、そんなものは分解されてしまう」と伊沢さんは断言する。彼自身、その懸念を抱いたまま野糞を始めたが、1万回を超す経験と観察、そして菌類研究家としての知識から、そう確信するに至ったという。我々のうんこは、自然界の生き物にとって厄介物どころか、もろ手を上げて歓迎されるお宝なのだ。なのに人間は、食物を自然界から収奪しながら、うんこを大地に返さず、多量の水やエネルギーを使って処理している。その矛盾に黙っておれなくなり、彼は野糞を広めるべく立ち上がったのだった。
◆伊沢さんは、「野糞3点セット」を携行している。水を詰めた小さなボトル、非常用のオオバギボウシ、小型移植ゴテの3点だ。そこに、蚊取り線香やハッカ水が、季節オプションとして加わる。その中でも目を奪うのが、小さく畳まれたオオバギボウシの枯れ葉で、上質の薄い和紙と見紛うばかりの優雅な趣きは、和装美人のたしなみの小物かと思われた。
◆彼も、実践当初はトイレットペーパーを使っていた。けれど、うっかり以前の野糞場所を掘り返した時、うんこは跡形もなく分解しているのに、紙がそのまま残っているのを見てショックを受けたという。パルプを原料としながら、漂白剤その他の薬品処理を施された結果、ダイオキシンをも分解する、という自然界の数多(あまた)の菌ですらお手上げのシロモノになってしまったのだ。以来、伊沢さんは、木や草の葉を現地調達で使うようになった。その幾つかが会場客席でも回されたが、イチオシのウルシの枯れ葉など、ビロードのような産毛に覆われ、『シルクタッチ・Wロール』の紙も真っ青の感触だった。
◆これらの3点セットを前にした私は、「負けた!」と脱帽した。私が持ち歩いている『食後の片付け3点セット』(小型スプレー入りの水、へら、ティシュー)は、『食』のインを押さえながら、アウトに関しては全く尻抜けだった。しかも、ティシューに頼っているではないか……。
◆「自分の死後は山野に土葬してもらい、肉体を大地に還元したい」というムーブメントがあるらしい。それも悪くはないと思う。しかし、1日250gのうんこを土に戻せば、1年で約90kg、70年実行し続けると、総量は6.3トンになる。これは、体重65kgのボディ換算で96人分に相当する。もし輪廻転生があるなら、毎回、遺体を自然界に還元しても、平均寿命80年×96で、実に7680年かかる計算だ。
◆伊沢さんによると、1回につき50cm四方の土地、すなわち、年間1人当たり100平方mの地面があれば、自宅の庭でも余裕で野糞を続けることができるという。庭ナシのアパート暮らしの場合は、せめて1畳間の片隅にコンポストトイレくらい置けないか。近頃、私は真剣に考えている。[久島 弘]
江本さん、東京は、何回も雪が降っているようですね。雪景色が好きなので、残念です。私の方は、いきなり30度以上のサイゴン(こちらの人はあまりホーチミンと言いません)に来て、混沌たる雑踏に入り、アジアを満喫しています。サイゴンから、南のメコンデルタ地帯に下り、マングローブ茂る支流巡りをしてきました。
◆今月末、武田さんが出張予定のカントーでは、毒河蛇タイパンを食べて一晩中胃痛にやられました。サイゴンでは、ベトナム戦争のジャングル・ゲリラ戦地、クチ・トンネルを訪れ、40年前に毎日のように部外者的傍観者的立場で新聞テレビを見ていた後ろめたさがよみがえりました。サイゴンの後、高原都市ダラット、ビーチのニャチャン、古い町並みが残るホイヤンと周り、今フエにいます。ニャチャンでは、ビア・ホイ(ビール屋台、1リットル40円)で知り合った長期滞在しているオーストラリア人にベトナム流買い物術など多くを教わり大きな収穫でした。
◆私の旅のテーマ、市場はベトナムでは予想以上の充実です。足の踏み場も無いほど品物が並び、独特の臭気が溢れ、あちこちにベトナム座りの人達が始終なんか食べています。いろんな種類のトロピカルフルーツや野菜はとても豊富。日本で味わうものとは比べ物にならないほど濃厚な甘さのマンゴは20円ほどです。トマトもローカルプライスでゲットできれば1キロ12個が20円でした。
◆なんといっても圧巻なのが魚屋で、太った蛙がネットにすし詰めにされもぞもぞしています。客が5匹ほど選ぶと、即、魚屋のピッチリパンツお姉さんはその蛙の足を持って遠心力で頭を打ちつけて気絶させ、鋏で頭を落とし、切れ目を付けて一気に皮を剥ぎます。顎から内臓を取り出して出来上がり。ここまでが、あっという間。なかには、頭が無く皮を剥がれてもピョンピョン逃げ出すのもいたりです。動物性たんぱく質の食材が、生きて並んでいるのは冷蔵庫が無い市場では当然なんですね。
◆あと3日で正月になります。どの街も正月の準備に賑わい、子供ばかりか大人もウキウキしている様子をみていると、なんだかその盛り上がりが羨ましくなります。残念ながら、私は2週間ビザ無しで入っているため、6日にラオスへ出ます。(期限の7日は交通が止まるため)。 毎日3万歩ほど歩いて狭い路地までもぐりこんでいますが、今日は、1時間くらいシクロおじさんの収入に貢献しようかなぁと思っています。(2月4日 ベトナム・フエ発 藤原和枝)
江本さん お元気ですか? 東京外国語大学の橋本です。前回のメールから大分時間が経ってしまいました。すみません。ただ今、アルメニアの首都、イェレバンにいます。あれから、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イランと移動して来ました。トルクメニスタンは5日のトランジットビザ、イランは7日のトランジットビザだったので、それぞれゆっくり観光などもあまりできず、次の移動のことばかりを考えていたので、疲れました。
◆トルクメニスタンは、天然ガスが世界第4位の埋蔵量なだけあり、首都のアシュガバード(愛の街という意味らしいです)では立派な建物が並び、お金があるんだなぁという印象を受けました。道路もきれいに舗装され、ごみ一つ落ちていないと言っていいほど綺麗でした。人々も親切で、ウズベキスタンなど以前いた国と比べると英語話者が多く、色々助けてもらいました。イランは、…正直大変でした。イランが、人が、という前にですね、マシュハドからテヘランへ夜行バスで移動したのですが、そのバスが転落事故を起こしまして、負傷者多数、死者1名という惨事になってしまったのです。
◆私は切り傷と打撲で済んだのですが、事故現場というのは、やはり何とも言えないものがありますね……。その後テヘランでは、疲労でふらふらだったのですが、イラン人の家族から招待を受け、その家の子供たちや奥さんととても楽しい時間を過ごせました。イランの家庭料理、果物、お菓子どれもとてもおいしかったです。子供たちとも折り紙などして仲良くなって、また来ます! と再会を約束して別れたのですが、が、最後にこの家の主人からお金を騙し取られてしまい……まったく、少しでも油断するとこうなので参ってしまいますね。
◆そしてテヘランからアルメニアのイェレバンまで、バスで24時間かけてたどり着きました。イェレバンは寒くはありませんが、毎日空がどんよりしています。人々はみな濃い顔をしていて、女性は美人しかいないのでは? というほどみな美しいです。おしゃれだし。こちらでは今までとは違いモスクではなく教会巡りです。美味しいコニャックやワインも楽しみたいと思います。それでは、細かく書くときりがないのでこの辺で失礼します。(2月11日 イェレバン発 橋本恵)
みなさん、こんにちは。今日、49次隊との越冬交代を終え、1年間暮らした昭和基地を後にし、「しらせ」に戻ってきました。昭和を発つまでの心境、「しらせ」に戻ってからの心境がどんなものなのか、自分でとても興味がありましたが、すべてがどことなくひと事のような気もしてしまうほどあわただしい日々で、正直いろんな感慨に浸る余裕もなく時間に押し出されるように船に戻ってしまったという感じです。今日は朝早くから旅立ちの最後の準備をして、9時頃から越冬交代式。式が終わるとすぐにヘリポートへ移動し、あっという間に迎えのヘリコプターが来て、ものの5分たらずで「しらせ」に到着。気づいたら「しらせ」に立っていました。
◆「しらせ」に戻ったらどっと疲れが出ました。午後は私物の船室への搬入などそれなりに作業もありましたが、そういう作業をしながらも一日を通してどちらかというとぼーっと過ごしていました。夕方、どうしようもなく眠くなって30分ほど昼寝もしました。晩御飯を食べた後、なんとなく外に行きたい気持ちになって、甲板に出て歩いてきました。実は「しらせ」に戻ったといっても、今、「しらせ」は基地主要部からせいぜい2kmくらいしか離れていないところに接岸しているので、さっきまで自分たちが暮らしていた「家」は、実は目の前に見えています。でももう、よその人の「家」になりました。すごく近くにあるのに、とても遠くて足を踏み入れられない場所になりました。甲板に出て、昭和基地を外から眺めたら、そういう気持ちがどっと押し寄せてきて急にとても切なくなりました。今になってようやく感情が追いついてきたような、そんな感じがします。
◆今も、何もする気がしないのですが、こういう気持ちって本当に今だけのもので、こういう気持ちこそ、この瞬間に書き留めておかないとすぐに次の気持ちにかき消されてしまうものなので、「南極レター」を読んでいただいているみなさんに、越冬終了のご挨拶をしがてら、この気持ちを綴っておきたいと思いました。
◆今はようやく切ないし、ようやく涙も出ます。この一年は、やはりとても大変でした。楽しいこと、つらいこと、いろんなことがありました。6年前に同じように昭和基地を離れたときは、実は2月1日には帰らず、「最終便」の2月14日頃まで観測の関係で基地に残っていました。あの時は1分1秒でも長く昭和基地にとどまりたかったし、できることなら2年連続して越冬したいくらいでした。6年経った今回、2回目の越冬終了では、2月1日に船に帰りたいと思っていました。最後の数日は、早く今の任務から解放されたいと思う気持ちもありました。昨日、すべての観測に区切りをつけ、月末処理も含め伝えるべきことはすべて49次の隊員に伝えて、自分の仕事を終わらせました。
◆よくあることですが、観測機器たちは交代が間近になるといろいろとトラブルを発生させ駄々をこねます。今回もいくつかの器械でそんなこともありつつ、でも観測隊の場合は1月31日で区切りとするので、器械たちのわがままはわがままとして、1年つきあった器械たちに、昨日別れを告げました。「1年ありがとう。これからも元気で頑張れ」と。
◆6年前、最終便で「しらせ」に戻ったときには、「しらせ」はすでに北に向けて航海を開始していたので、当然「しらせ」からは昭和基地は見えませんでした。あの時は、昭和の上空で、もうこれが見納めだと泣きました。今回は、笑顔で昭和基地を出てこれたのはよかったけれど、「しらせ」に戻った今、こんなに近くに昭和基地が見えるのは、ある意味でとても残酷です。6年を経た2回目の今回、2年連続越冬はたとえしていいと言われても黙って帰ります。そんな気力は残っていないし、愛する家族が待っています。
◆前回は日本に帰って初めて、越冬生活で自分がいかに疲れているかに気づいたのですが、今回は前回の経験もあり、疲れることをわかった上で暮らしていました。実際、途中でも疲れを感じたし、近頃は確実に疲れを実感し、とにかく決められたゴールまではしっかり走りきれるようにペース配分をしていた感じです。
◆2月1日に「しらせ」に戻りたいというのは、今回は自分の中でしっかりと区切りを意識していたからだと思います。近くにあるけどとても遠くなってしまった昭和基地のそばで、今とても切ない気持ちでいる自分は、やっぱりとてつもなく南極も昭和基地も好きなんだと思います。
◆南極で過ごす一年って、いったい何なのか、よく分かりません。日本での暮らしを日常とするなら、ここでの暮らしが非日常なのは当たり前ですが、現実にここで暮らす自分たちが自分たちを見失いそうになるほど、ここで過ごす時というのは特別なものです。時の流れも、周りの景色も、生じる感情も決して説明もできなければ理解もできません。ここで暮らす自分たちですらそうなのだから、ここを知らない人たちに伝えるのも理解されるのも到底無理な話だろうと思います。
◆1回目の越冬、2回目の越冬で、いろんなことが違っていたけど「ここはとても不思議な場所です」という印象は1回目にも2回目にも共通してありました。それから、私がとてつもなくこの地を愛していることも、前回も今回も、これからもきっと変わることはありません。
◆「しらせ」がいつまでこのポイントにとどまっているかは未定ですが、今夜寝て、明日目覚めれば、今日ほどの感情は残っていないと思います。仕事を終えたと言っても、実はまだこれから「しらせ」をベースに49次隊の支援で何回か野外観測に出ます。宿泊のオペレーションも2回あります。1週間ほどは少しのんびり過ごして、次の2週間は再び野外観測で南極の自然に触れてきます。その頃にはきっとまた元気になっていることでしょう。
◆さしあたり、今の思いのたけを綴ってみました。これまでの、みなさんのご声援とサポートに、とても感謝しています。一緒に来た仲間35人全員、無事に元気に越冬交代を迎えることをいちばんの目標にしてきましたが、おかげさまで事故なく怪我なくこの日を迎えられました。帰国まであと2か月あまりありますので、全員無事に成田に降り立つまでは、「任務完了」とは言えませんが、今日、ひとつの大きな区切りを迎えられたので、みなさんにお礼の気持ちを伝えておきたいと思います。ありがとうございました。永島祥子@しらせ
[永島祥子さんと地平線会議]
永島さん、毎月、一番の楽しみだった素晴らしい「南極レター」をありがとう。毎号、歯切れのいい文章を通して南極の暮らしぶりが活き活き伝わりました。◆地平線会議が永島祥子さんと出会ったのは、シール・エミコさんが縁である。07年8月、エミコさんへのモンベルチャレンジ大賞の授賞式が東京・渋谷で行われた。スティーブとのチャリンコ旅の顛末、旅先で発症したガンとの闘いなどエミコさんという人、を紹介する役回りで私も参加した。その際、司会進行を担当していたのが、モンベル広報に在籍していた永島さんだったのである。◆はじめは経歴も何も知らなかったが、話を交わすうち京大で地球物理を専攻し、6年前に最初の南極越冬をやっていて、間もなく2度目の南極観測に派遣されると聞き驚嘆した。多忙な中を地平線報告会にも顔を出してくれて、できるだけ地平線通信に現地からの情報を発信してほしい、とお願いした。◆永島さん自身も2度目の南極ということで今回は公務に支障ない範囲で発信することを考えていたようだ。「南極レター」は彼女が自分の友人知人にあてた、少し私的なでも内容の深い、そして楽しい通信であった。これがそのまま地平線通信に毎号掲載されることは勿論、永島さんの了解済みである。添付されてくる写真を掲載できなかったのは残念だが、それは是非是非地平線報告会で披露してほしい、と思う。(江本嘉伸)
■江本さん、先日はお見舞い電話ありがとうございました。でも声がガラガラで、まともに話すことができずすみませんでしたm(_ _)m。今年はお正月から風邪で寝込んでしまい4週間ダウン。こんなに長かったのは初めてです。
◆ところでまた東京に行けるので嬉しいです! 今回は昨年5月から約半年、自転車で5000kmほど走ってきたチベット、雲南省、ラオスとタイです。標高5000mを越す高い山々、峠もたくさんあるし、寒いだろうし、私42歳、スティーブ48歳。歳は関係ないとはいわれても体力の衰えは確かに感じます。気だけでは無理で、キャンプ用品を満載した自転車でどこまで頑張れるかが私たちにとっても?クエスチョンでした。しかし「一生に一度、世界最高峰を見てみたいし!」「自転車で行きたいし!」「行けたら人生納得できると思うし!」ということでいつものように自分たち流で行くことにしました。まずは用意するものを用意し、あとは心配しない! これです。その後どうなったのかは29日にお話しさせていただくとして、実は今回の風邪でスランプに陥っていました。というのも体が弱ると→食欲もなくなり→気も失せ→心がめげてしまう→すると物事もうまくいかず→自分から低迷期に迷い込んでしまう。といった悪循環。ダメですねー。自分に元気がないので闘病中の知人から相談をうけても一緒に絶望したり、泣いたりして希望すらあげられず、そんな自分にまた落ち込んでしまう……。
◆阪神大震災で母親を亡くされた知人が「毎年1月は精神不安定に陥るんだ」というのを聞いて、私もこの時期になると心が沈むのに気づきました。夜眠ると二度と目覚めないのではないだろうかという死への恐怖、次々亡くなっていく患者さんとの会話や姿がよみがえります。きっと細胞が覚えているんでしょうね〜。だからよけい、あたり前に過ごせる今に深い幸せを感じます。
◆先日、世界を旅したいという高校生に「旅で学んだことは何ですか?」と質問をされました。勇気を出すこと、学ぶこと、耐えること、判断する力、無条件の愛、などなどたくさんありますが最も大きいのは「調和」と答えました。自然と人と自分との調和。それはどれだけ心の中から欲と嫉妬を捨てていけるかだと思っています。
◆ふだん地平線のみなさんとは冗談で笑ってばかりいるので今回は質問などがありましたらまじめに答えさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。エミコ&スティーブ(^_^)(^v^)/地球をEnjoy♪(エミコ 2月6日)
場所:日本橋三越本店7階
期間:2月21日(木)〜24日(日)10:00〜17:30
■高山は昨日から大雪。春分も旧正月も過ぎたというのに、真冬のようです。それでも、たまに射す陽は強くなって、春への期待を抱かせてくれます。そんな、春を待つ心で染めた布を見にいらしてください。スカーフやショールが中心ですが、アスコットタイ代わりに使えるものもありますよ。4日間とも会場にいます。お待ちしています。(高山発・中畑朋子 飛騨の染織家)
おかげを持ちまして完売しました。浜比嘉島でもタイヘン人気だそうでよかったです。来年もよろしく!
先月以降、通信費を支払ってくださった方々は次の通りです。通信費は1年2000円。中には数年分として10000円、5000円を払ってくれた方もおられます。万一記録漏れあればお知らせください。(地平線会議世話人一同)
河村安彦/平本明子/上延智子/福原安栄/北川文夫/久永裕子/森国興/小林寿子/横山喜久/浅井信雄/小林天心/古山里美/掛須美奈子/古川佳子/江本嘉伸/田中富代/西牟田靖/埜口保男/和田美津子/高世泉
冒険王・賀曽利隆と話していて「西川一三さんのこと、広島の新聞で読みましたよ。確か中国新聞に訃報が載っていた」と聞き、せめてよかった、と思った。通信社からちゃんと流れたのだ。◆西川一三さんの訃報は、ご家族と相談の上、一応新聞各社と通信社の社会部(あるいは担当窓口)に電話し、ファクスで概要をお知らせした。今では無名でも、ひとつの時代、身体を張って異郷を生き抜き、膨大な記録を残した人の訃報だ。自身の経験からも十分全国版で伝えられるべき、と判断した。◆朝日、読売は無視。毎日は岩手地方版。サンケイ、東京は未確認だが全国版に掲載されたらしい。地元紙の岩手日報がきちんと書いてくれ、葬祭場には新聞を見て駆けつけたという人もいた。◆訃報などどうでもいい、と思う向きもいるだろうが、人によっては大事なことだ。ことに西川さんのように、ひとつの時代を駆け抜け、著書に多くの愛読者がいる人の最終章は、簡潔でいいからしっかり伝えられるべきと思う。掲載するかしないかの判断は、当日の記者、デスクの問題になる。志のある記者が少ないのかな。◆沖縄地平線のこと、今月末、現地浜比嘉島に行き、相談してきます。(江本嘉伸)
■先月の発送請負人 江本嘉伸 森井祐介 関根皓博 藤原和枝 海宝道義 三輪主彦 安東浩正 村田忠彦 満州 山辺剣 落合大祐 松澤亮 中山郁子の各氏でした。
チベットの名も無き花のように
自転車で世界一周の旅を続けているシール・エミコさんと夫のスティーブさん。エミコさんのガンで中断したものの、奇跡の復活を果たして旅を再開。07年5月、復活後3度目のスタート地点はチベットのラサでした。 チョモランマのBC(ベースキャンプ)を目指した二人。いつものように気楽なスタートでしたが、街を過ぎたとたん、猛烈な向い風に悩まされます。「私たちはチョモランマの女神様に拒絶されてるのかもって、真剣に悩みましたよー」とエミコさん。「辛くて泣いてても、お腹が空くんですよ。食料を手に入れる為にも先にすすむしかないの。人間て結構タフだなと…。ようやくBCに辿り着いて景観がバーッと開けたとき、風がピタッと止んだの。ああ、許されたんやって、こんどは嬉し涙が止まらへんかった」。 その後、東チベット経由で雲南省のシャングリラを目指します。東チベットも高低差が厳しい。くじけそうな心を支えてくれたのは、道端に咲く名もない花でした。「こんな厳しい環境で誰にも見られなくても力強く生きてる。私もこういう風に生きたいって思いました」とエミコさん。 今月はシール夫妻にタイまでの5ヶ月の旅を報告して頂きます。「今回は、ねえ、少しはオトナになれた気がしてうれしい」というエミコさんの話、必聴必見です! |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信339/2008年2月14日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介 編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/印刷:地平線印刷局榎町分室 地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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