捻挫の後、すでに痛みは消えているが、走るのはまだ怖く珍しく慎重にしている。せめて散歩を、と新宿御苑にしばしば行く。家から四谷大木戸門まで歩いて10分。200円の入苑料を払えば、結構深い森の散歩を味わえるのだから、身近な贅沢だ。iPodの音楽を聴きながらここで軽くジョギングするのは、実は仕事が行き詰まった時の日頃の発想転換法でもある。
◆広さ58.3ha、周囲3.5kmの庭園は3つの部分から成る。プラタナス並木とバラ園が美しい「フランス式整形庭園」、ユリノキが広い芝生を囲む明るい「イギリス風景式庭園」、池の畔に茶亭を配した昔ながらの「日本庭園」の3つである。外国から来た登山家を茶亭に案内することがあるが、手軽にティー・セレモニーの片鱗を体験できるとあって喜ばれる。とくにはじめに出される和菓子が面白いらしい。
◆私にとって好きなエリアは日本庭園の奥の、あまり人が立ち入らない雑木林の周辺で、緑がもたらすひんやりした空気が実にいい。ここいらには狸が棲みついているのだが、私自身はお目にかかったことはない。イヤホンを外せば、かわりにいろいろな種類の鳥の啼き声を聴くことができる。春は桜、夏は緑陰、秋は菊と紅葉、冬は独特の森の冬景色、と四季それぞれの味わいがある新宿御苑は、人間にとって緑がいかに大事であるか教えてくれる都心の貴重なオアシスで荒木町の飲み屋街に30年も暮らしていられるのは、御苑がすぐそこにあるから、とこの際告白しておく。
◆新宿御苑が誕生したのは1906(明治39)年のことだ。昨年は誕生百年とあって、さまざまなイベントが続いたが、さかのぼれば歴史はさらに古く、1590(天正18)年に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部であったことに始まるという。
◆園内にはいくつかの池があるが、大木戸門に近い「玉藻池」がもっとも古いとされる。「玉川上水」の敷設に関係する大事な池だ。江戸時代の初期、人口は15万程度で京都(江戸初期50万人がいた)に較べてはるかに少なかった。寛永末期の1640年頃に京都に追いつき、元禄8年(1695年) には人口は85万人に達し日本一の都となった。
◆その過程で起きたのが水不足である。多摩川から水をひくための用水路建設が急遽計画された。時に1654年(承応3年)、江戸幕府にこの仕事を命じられた玉川庄右衛門、清右衛門の兄弟が、最後には私財を投げ打ち、なんと羽村町の取水口から実に43キロに及ぶ上水をわずか8か月でつくったという。「玉川上水」としたのは兄弟の名を取ったからである。「玉藻池」は、かって上水の終点であった。
◆12月最初の金曜日も御苑の植物を観察しつつ歩き続け、新宿門から外に出た。思い立って新宿駅南口から歩いて3分の至近にある細長いビルの最上階に行く。四角い盤をはさんで10数組の人たちが向かい合って対峙している。おお、長く忘れていた風景だ、と感動しつつしばし見入っていると、「おやっ、江本さん!」と声をかけられた。森井祐介さんだった。
◆かっては葉書1枚だったのに最近ではすっかり分厚くなったこの地平線通信を毎月ぎりぎりまでねばって発行できるのは、森井さんに負うところが非常に大きい。印刷の仕事を本業としていた森井さんは仕事に追われる武田力君の後を継ぎ今では「地平線レイアウト局長」として、新たな境地を開拓しつつある。
◆その森井さん、囲碁5段の打ち手でもある。腕を買われて今ではこのビルにある囲碁センターにほぼ毎日勤務している。「折角ですから、1局どうですか?」と、居合わせた同年配の打ち手を紹介され、ほぼ30年ぶりの囲碁をやることになった。ぐらぐら動く石をどのように盤上に置いたらいいのかすら忘れていたが、始めると面白かった。
◆囲碁は57才で逝った公務員の父親から手ほどきを受けた。お金がかからず、結構頭を使う遊びなので気に入ったが、山登りや取材の旅に明け暮れる日々の中でいつの間にか埋没してしまった。子ども時代に熱中した百人一首(すべてを暗記した)はじめ、そういえばお金がかからないことが遊びの原点にあったな。
◆つましい暮らしと遊びを実践している人は今でも多くいるが、さりげなくやっているのは、鷹匠、松原英俊さんだろう。師走10日の月曜日はその松原さんを囲んで、鉄砲打ちとなった服部文祥、空から森の内なる世界を知りたい、と思った多胡光純などヘンな顔ぶれが我が家に集まった。詳細は省くが翌日昼過ぎまで、飽きることなく話し続けられたことがともかくも不思議である。忘年会シーズンというのに4名とも一滴もアルコール飲料を飲まなかったのだ。
◆サザンカ、スイセン、カンツバキ、そしてバラ。新宿御苑冬のメニューである。足が完治するまでしばしお世話になるだろう。(江本嘉伸)
賀曽利隆さんが、300日3000湯の温泉地を巡る旅から帰ってきた。1日10湯のハイペースで全国各地の温泉をこなすというのは、まったく想像を絶する。こんな無茶な旅は、バイクでしかできないだろう。列車やバスの時間に縛られ、その待ち時間を楽しむバックパッカー上がりの私からすると、自由自在にバイクを操り、好きなときに好きなところへ行けるバイク乗りは理解を超える存在だ。その頂点に位置する賀曽利さんの無謀な挑戦の結果に興味を持って報告会で耳を傾けた。
◆東京・日本橋を出発した2006年11月1日は、不安で一杯だったという。2か月かけたシルクロード横断ツアーの直後で、西安を出てからくしゃみが止まらない。もともと花粉症持ちで敏感体質の賀曽利さん。それが治りきらずにスタートすることになった。体調の不安を克服することが、今回の旅のテーマのひとつでもあったようだ。1998年の年末には心臓発作に襲われ、3か月の療養を余儀なくされた。医師には原因がわからず仕舞いだったが、賀曽利さんはそれが青森へのツーリング中、八甲田で1日に10の温泉に入ったせいではないかと思っている。ハシゴ湯がいかに自分の心臓に負担をかけるか、その限界がわかった上で、今回の「1日10湯」はどうしてもやりたかったことでもあった。
◆サハラ砂漠縦断から、世界一周、六大陸周遊へ。賀曽利さんは20代の大半を世界中を走ることに費やした。それが30間近になって、厚い壁が立ち塞がった。「命をかけて世界中を旅してきた自分が何だったんだろうと、急にむなしい気分になった。そのとき、はたと目が行ったのが日本だった」。最初にアフリカから帰ったとき、観文研(日本観光文化研究所)を訪れ、「どこからでもかかってきなさい」の三輪主彦さんや仲間たちと原稿や写真の腕を競ったのが原点になった。
◆「20歳のときは、日本という国をすごくバカにしていた。なぜアフリカへ行くのか聞かれるたびに、こんな狭いところいられるかって答えて、鼻息を荒くしてアフリカに飛び出していった。30代で初めて日本一周をして、『日本は広い』って思った。北海道から鹿児島(この時は沖縄には行かなかった)、亜寒帯から亜熱帯まで、構造線に沿って果てしなく続く山並み。それまでの自分がいかに日本を知らなかったか‥‥」。その日本を観る目も観文研で培われたようだ。「世界一周やサハラ縦断はわかりやすいが、『日本一周』となると、さて、どこから手をつけたらいいのか。すぐできることを考えたら、『温泉』と『峠』になった。峠は山と違い、人が越える道がないと峠にならない。日本には至るところに峠がある。同様に日本ほど温泉の多いところはない。だからこれからは『全峠制覇』『全湯制覇』だ、と」。それが1975年のこと。
◆ちなみに峠のほうは現在約1600峠だが、これは賀曽利さんの影響を受けて峠巡りを始めた主婦ライダーの“もんがぁ〜里美”こと古山里美さんがいつのまにか追い越してしまい、1700峠近くを極めている。もっとも全国の峠も3000近くあるというから、「全峠制覇」の先はまだ長い。
◆「全湯制覇」を目指す温泉の数え方は、湯船の数ではなく、温泉地の数が基本だ。草津温泉にはいくつも共同浴場があるが、それをいくらハシゴしても「1湯」。また、何度通っても「1湯」としか数えない。300日の出発前までに1721湯。ここ数年は年100〜200回入っても、新たに20〜30しか追加されず、「全湯」にはほど遠い状況。1975年に思い立ったときには楽勝だと思っていたのが、一生かかっても無理に思えてきた。
◆それが、ブログにも「K氏」として登場する昭文社の編集者、桑原和浩さんのアイデアで一転する。「賀曽利さん、この際、まとめて温泉に入りませんか」。この「悪魔のささやき」から「100日1000湯」の企画が上がり、賀曽利さんも急遽3か月強のスケジュールをすべてキャンセルして備えたが、あえなく没に。
◆昭文社は温泉がらみの商品をかなりの数出していて、売れ筋のひとつになっている。名所旧跡と違い、温泉は実際に入らないと良し悪しがわからない。それで「100日1000湯」を考えたが、パンチが弱かった。それまでの賀曽利さんが入湯したのが1700湯ぐらい。日本には3000湯ぐらいあるんだよね、と話しているうちに、じゃあやろう、ということになった。賀曽利さんの宣言をケータイのカメラで録画して、取締役を説得した。「3000というのは全部の温泉の数。地図の昭文社、温泉の昭文社として、やるべきじゃないですか」。それで進めよう、ということになった。(昭文社制作本部・桑原和浩さん)
◆スタートから3000湯まで1年がかりのプロジェクトだが、365日ではなく、「300日」としたのには訳がある。スポンサーが負担するのは、3000湯にかかる費用実費のみ。一家の主、その間にも少しでも稼がないとならない。そこで、全行程を8つのパートに分け、合間に10日ずつ神奈川の自宅に戻って、その間に溜まった原稿を片付けることにした。但し、それがこなせたのは気力の充実していた最初の2、3回だけで、あとはとてもそれどころではなかったようだが‥‥。
◆ともあれ、11月21日には関東編20日間に続いて、甲信編の旅に突入していった。本来冬の雪道ツーリングは大好きなのに、今回の温泉めぐりの旅はつらかった。冬の夕暮れは早いが、それでも夜9時、10時まで寒風をついて走る。「温泉で体が最高潮に火照っているのが、氷点下の外に飛び出していった瞬間、体がバリバリ音を立てて収縮していく。血管がキューンと縮まっていく。それでまた温泉に入って2、3分すると体の芯まで暖まる。芯までホッカホカになった状態で外に出ると、バイクに乗った瞬間にまたキューン。それを1日十何回も繰り返す……」。
◆春は春で花粉が天敵。くしゃみ10連発、鼻水タラタラ。走っているうちはそれが止まらないが、それが温泉に入ったとたんに和らぎ、楽になる。何という温泉の効能。梅雨が明けると今度は猛暑だ。本州東部編の後半、8月上旬に山形県に入ったときには村山盆地で38度。そんな中で賀曽利さんは湯温が高い温泉ばかりを回っていた。「湯疲れして、とにかくつらかった。腰が立たない。バイクにしがみつくような感じで走り出すわけです。頭もフラフラ。よく事故が起きなかったと思う。本当に真似しないでください。危ないです」。
◆今回の日本一周は、4台の携帯を駆使してリアルタイムでインターネット上のブログにその行動が伝えられている。それを元に賀曽利さんを追いかける「カソリキャッチャー」が、彼の旅を盛り上げている。
◆大島に行く船で賀曽利さんを見つけたが、レンタバイクを借りているあいだに見失ってしまい、伝言も伝わらず、島内にいた6時間、一度も賀曽利さんに会うことができなかった。ことごとく勘が外れてしまい、最後に会ったのが岡田港。賀曽利さんは既に帰路の船上に。この「薄情者!」と叫んだ。こんなことをやっているのは人間のようで人間じゃないと思った。やはり「温泉行者」だと思う。(uzakiyoさん)
◆1湯ほぼ30分。湯船につかっているあいだにも、完全防水のCASIOケータイを駆使し、写真とコメントで「速報」を発信していく。同浴の客と「湯中談義」が盛り上がれば、時間を気にせずに付き合う。会話に知らない温泉の名前が出てくるとしめたものだ。1日10湯のペースで温泉をハシゴしていくが、パンクなどトラブルに遭ったり、目的の温泉が閉館していたりすると、5湯、6湯ということもある。数を稼げる日はできるだけ多くの温泉地を回る。今回の旅以前にも東北で1日18湯、九州で17湯とハシゴ湯をしたことがあったが、賀曽利さんにとっては「20湯」が大きな壁だった。それが5月22日、鹿児島県霧島から天降川沿いの温泉群で1日20湯を達成。「本当に嬉しかった。わけもなく『オレはやったゾー!』と有頂天でした」。その勢いで東北へ。今回の最多記録は知る人ぞ知る温泉密集地帯の津軽平野で27湯だった。
◆「湯上がり速報」のほか、毎晩1日分約30枚の写真を選び、原稿用紙10枚の原稿を書いて送る。大変なのはケータイの電波が弱いときだ。いつもなら10分程度で済むのが、7時間かかったこともあった。しわよせは睡眠時間に及ぶのだが、そこは「眠りの天才」カソリ。夜、布団に入れるのは3、4時間しかないが、どこでも眠れる。名付けて、10分寝、5分寝、1分寝。最短は信号待ちの「3秒寝」‥‥。枕は雨具でもコーラの瓶でも何でも良い。眠くなったピークをとらえて眠り、決めた時間ぴったりに起きる。「これ以上の快楽はない。目覚めた瞬間、すべてが光輝いて見える。隣にどんな嫌な奴がいようと、許してしまう」。カソリ温泉教の神髄はここにある。全国各地、行く先々で訪ねた家に「民泊」した観文研所長の宮本常一さんに対し、賀曽利さんの「3秒寝」のルーツには20代からの1000夜を超える野宿体験がある。どんなところでも寝られる。そして、危険の予兆をとらえてその瞬間に目覚める。凡人が失ってしまった野生の能力を、賀曽利さんは取り戻したように見える。そうして、今年10月31日、とうとうゴールの日本橋に戻ってきた。入った温泉の数、3063湯。もちろん前人未到の「記録」である。
◆賀曽利さんは、今回の約1年間の途中で還暦を迎えた。赤いちゃんちゃんこ、ならぬTシャツを着ているのはそのためだが、その誕生日まで、60歳になるのがものすごく嫌だったという。「冗談じゃないと思った」。北海道に渡った9月1日、函館でカソリキャッチャー2人から、60本のローソクがついたバースデーケーキ、そしてこのTシャツをもらった。「この2点セットで急に『還暦』が輝いて見えた。よーし、やってやろうじゃないかと思った」。還暦というのは、暦が戻る、ということ。賀曽利さんにとっては旅人生の始まりだった20歳に戻るような感じがしたという。「いま思うと視野が狭くて、肩に力が入っていた。世間知らずで、すぐ疲れちゃってた。いま競争したら、いまのカソリのほうがはるかに行ける。無駄な力を使わなくても済むようになったからね。もう20歳のカソリはぶっとばした。それが偽らざる気持ち。あと10年はぶっとばし続けられるゾー」。冒険王カソリ、恐るべし。
◆報告会の直後、12月2日から今度は賀曽利さん、南米に旅立った。リマから南下して、ウシュワイアで新年を迎え、1月末までかかる旅。賀曽利さんにとって22年ぶりの南米。来月の報告者、白根全さんから「この20年で相当変わっている」と聞かされ、その変化を楽しんで見てきたいと応じた。身近な温泉旅も賀曽利さんにかかれば、とんでもない「冒険」に昇華してしまう。「走る 浸かる 効く」のカソリ、「がんばるゾー」とまた南米に飛び出していった。(落合大祐)
日頃なかなか参加できなかったけど、今回の報告者は賀曽利さんと聞けば、これはゼヒとも参加したい! 会社の休みを調整し、使い道のないiPodを売り払って資金を調達。最後に一番大切で難関?のカミさんを説得して、なんとか参加のメドを立てる事ができたのです。本来ならば久しぶりの東京なので、ゆっくりと見物しようかなと思っていると、最悪な事に翌日は仕事が!! 結局バス使用の日帰り0泊2日の強行軍での参加となりました。確か以前の四万十でもこうだったような……?◆とりあえず東京行きの一番安い高速バスに乗って、イザ出発! ところが運の悪い事に乗ってたバスが静岡付近で故障して立ち往生? なんとか代車に乗り換えて、約3時間遅れでようやく東京に辿り着いたのでした。友人と合流し、そのまま今回の会場へ一直線。江本さんはじめ懐かしい面々との再会を喜びながら、賀曽利さんの到着を待ちます。でも開始時間が近づいているというのに、一向に賀曽利さんが現れません。
◆江本さんが「しまった。通信なんて見るヒマなかっただろうから、もしかすると前の会場に行っちまったんじゃないかな?」と言っていたのに思わず納得していると、ひょっこり賀曽利さんが登場! 熱い抱擁を交わし合って、久しぶりの再会を喜び合いました。さあ、お待ちかねの報告会が始まりました。今回は賀曽利さんの意向で、写真のスライド表示無しで進めていくとの事。前半は300日3000湯に至るまでの様々なエピソードからのお話です。すでにそこから賀曽利さんのマシンガントークが大炸裂していますが、聞いていても少しも疲れません。それどころか、どんどん賀曽利さんの話の渦の中に吸い込まれていくかのような、そんな心地よさの中、あっという間に前半が終了!
◆少しの休憩のあと、いよいよ本題の後半戦に突入、今回の旅のお話へ。旅の裏話や、寒さや花粉症・真夏の暑さ等に悩まされ苦労した事。そうした苦労でも旅の糧に変えていける、苦労を苦労のままで終わらせていないと感じさせるのは、賀曽利トークの成せる技なのでしょうか? ハラハラしながらもとても楽しく話が進んでいきます。また僅かの時間で確実に睡眠時間を確保でき、通常の睡眠不足を補う方法については、僕も野宿を経験した中で何度も実践していますが、賀曽利さんのように『停車中の5分寝』については、さすがにまだやってません。3秒爆睡モードも現時点では10秒かかる僕は、まだまだ『カソリック』を極めるまでには至っていないと実感しました。
◆そして今回の旅をサポートしてくれたネット読者の方々の紹介へと、話が進んでいきます。そんな中の一人として僕も壇上に紹介頂いたのですが、他の皆さんと比べればほんの僅かなお力添えしかできずに、とても恐縮でした。少しだけだけれど賀曽利さんの旅を応援できた、それだけでも僕は十分に嬉しかったんですよ。賀曽利さんはどんな人にも感謝の気持ちを忘れず、笑顔で接してくれます。そんな所からも賀曽利さんの心の広さが判り、そこを慕ってたくさんの人が集ってくるのだと思います。決して雲の上の存在ではなく、身近な偉人、それが賀曽利さんなのです。
◆最後に次回の南米旅の紹介へ。次回と言っても出発はなんと明後日の12月2日! ホッと息つく間もなく次の旅に全力を注げるパワーがまだまだ衰えていないとは!それよりも仕事とはいえ、奥さんをどうやって納得させたの? 還暦を迎え、普通の人なら『新たな人生の始まり』なんて言っている所でも、賀曽利さんにとっては『毎日が新たな人生の始まり』と言った所でしょうか? 追い越したい、追い越せない……、まだまだ僕はかないませんねぇ。
◆時間が経つのも忘れてしまうかのような報告会も終わり、さあお楽しみの2次会へ。『成都』の料理、おいしかったですよ! ギョーザもボリュームたっぷりで大満足の夕食でした。賀曽利さんは一足早く帰宅の途につくそうです。恒例の『万歳三唱』でお見送りです。いってらっしゃい、賀曽利さん! 僕も夜行バスの時間が迫ってきたので、宴の席を離れる事にしました。江本さんをはじめ皆さんにお礼を述べて、友人2人と新宿西口側のバス乗り場へ。定刻より少し遅れてバスは名古屋へと出発したのでした。夜風を切って走るバスのカーテンを上げると、夜空に煌くは『オリオン座』。ああっ、賀曽利さんもこのオリオン座を眺めながら、旅の眠りに就くのかなあ? ……って今度の旅は南半球だから、オリオン座は見れないか〜!? (愛知県住民・ワニーこと鰐淵渉 296回報告者)
先月の報告会には大勢のみなさまに来ていただき、ほんとうにありがとうございました。京都から駆けつけてくれた帰山さんのように、遠方から来てくださった方々も何人かいました。今回の「300日3000湯」の「日本一周」では100人近くの人たちが、日本各地で「カソリ捕獲作戦」に参加しましたが、成功した人のみならず、失敗に終わった人たちも多くいました。そんな方々も先月の報告会に来てくれました。そのうちの何人かの方々にひとことずつ話してもらいましたが、それがすごくよかったと思っています。
◆「もんがぁ〜さん」は第1日目に早朝の東京・日本橋から夕暮れの奥武蔵・大野峠まで同行してくれました。「uzakiyoさん」は東京港・竹芝桟橋から一緒の船で伊豆大島に渡ったのですが、大島でのカソリの捕獲に失敗…。その悔しさ、無念さを語ってくれました。「ワニーさん」は、ひと晩泊まった名古屋の温泉ホテルまで来てくれたのですが、通勤途中でぼくが出てくるまでは待てずに、バイクに名古屋周辺のB級グルメの数々とメモを残していってくれました。「ヤキソバン鈴木」さんは山梨・石和温泉の日帰り湯に、「300日3000湯」のブログの速報を見て来てくれました。「いまさん」はゴール直前の10月27日、台風直撃の勝浦温泉のキャンプ場でおこなわれた「3000湯の夕べ」に来てくれ、翌朝、濁流の川で一緒に「渓流浴」をしたときのことを話してくれました。このように、「300日3000湯」の「日本一周」では大勢のみなさん方に出会った訳ですが、みなさん方からもらったパワーが自分の大きな支えになりました。
◆昭文社の「K氏」こと桑原さんも来てくれました。うれしいことに家族連れでした。「300日3000湯」の舞台裏の話に興味深そうに聞き入っているみなさんが多かったように思います。最初は「100日1000湯計画」だったこと、超アナログ人間のカソリに4台の携帯とパソコンを持たせたこと、700万の取材費を丼勘定でポンと出してくれたこと…など、ぼくが聞いていてもおもしろかったです。
◆桑原さんとの出会いは10何年も前のこと。まさに異色の人で前職の警視庁から飛び込みで昭文社に入社した熱血漢。熱き血の「九州男児」で「バイク文化の向上を!」が10何年来、変わらない桑原さんのポリシーなのです。そんな桑原さんと一緒になって、ライダーなら誰もが使っているロードマップ『ツーリングマップル』を立ち上げたのです。「地図に個性を!」。それがそのときの一番のコンセプトでした。今回の「300日3000湯」はその延長線上にあるともいえます。
◆『地平線通信』の報告会の案内はいつものように長野画伯の労作ですが、タイトルは「ハタチのカソリをぶっとばせ!」でした。なぜ、そうなのか、報告会に来てくださったみなさんはわかったかと思いますが、今回の旅の途中で「還暦」を迎えたのです。それまでは自分が60になることがいやでたまらなかったのですが、実際に「還暦」を迎え、「まあ、いいか…」で気持ちを切り替えると、体内に新たなパワーが湧き上がってくるようでした。還暦といえば「暦」が戻るわけですから、ぼくはそのとき思ったのです。自分が戻るのはあのとき、「20歳の旅立ち」のときしかない!と。そう思いつくと20歳のカソリに真っ向からの力勝負で立ち向かっていきたくなったのです。
◆ということで今日、これから、「南米・アンデス縦断」に出発します。20歳に戻った「還暦パワー」でアンデスの4000メートル級の峠を越え、烈風のパタゴニアを走り抜け、マゼラン海峡を渡ってフェゴ島の世界最南の町、ウシュワイアを目指します。ビーグル海峡を吹き抜ける南緯55度の風に吹かれてきます。(12月2日南米へ出発の朝 賀曽利隆)
石川(直樹)君が千駄木で写真展をやっているので見に行き、会社の経費で一緒に飯を食った。私は『岳人』という山岳雑誌の契約社員をやっている。石川君はリレー連載の筆者なので、たまにはそんなことも可能なのだ。そこで話が盛り上がり、その週末に石川君が、私が世話になっている狩猟集団の狩りを見学に来た。
◆大物猟を始めて3シーズン目になる。狙いの獲物はイノシシ、熊、鹿だ。生息数の関係上捕れるのは、鹿、イノシシ、熊の順である(私が世話になっている地区は今シーズンのクマ猟は自粛)。単独でケモノを捕れるようになるというのが目先の目標で、狩猟を登山の食料調達に応用するというのが最終目標だ。狩猟のイロハを教わるために、山梨県の山村の狩猟集団に加えてもらった。仲間と行うのは巻き狩りである。ケモノがいる場所にめぼしを付けて、そこを包囲するように待ち伏せする人(タツマ)を配置し、犬をかけてケモノを追い出して、仕留めるというスタイルだ。
◆石川君が見に来た先週(12月1日)も、巻き狩りを行なった。土曜日だったので人が集まらず、待ち伏せのタツマは2人(地元では鉄砲の数から2丁と数える)、犬カケ(勢子)が1人、犬が3頭である。少人数でも囲みやすく、有望な寝屋(ケモノの寝場所)がある場所に狙いを定め、犬をかけることになった。小さな山の西側から犬を入れ、東側のコルと沢にタツマを張るという作戦だ。人が足りないので、石川君にもひとつのタツマに入ってもらうことにした。
◆「ケモノが来たら、大声出して騒げば、気取(ケド)って、他のタツマにかかるから」と地元の大先輩・テルさんが鉄砲を持たない石川君に説明している。「鉄砲の代わりにカメラを持っているような奴のところに来るぞ」と私もひと言。配置につき、犬が放される。そうそう毎回、首尾よく事が運ぶわけではない。
◆狩猟というモノは、一般的には誤解されていることが多い。気の優しいベジタリアンである鹿や、かわいいウリボウの親であるイノシシ、ぬいぐるみのような熊さんを鉄砲で撃ち殺すのが狩猟だと思われているのだ。それはそれで間違いではないのだが、単なるいじめや虐殺をイメージするとだいぶ違う。狩猟は複雑で難しく、奥の深い文化なのだ。成功率もそれほど高くなく、毎回犬が上手く獣を追い出すわけではない。いまも、犬がまったく反応しない可能性だってある。そうなれば、せっかく来てくれた石川君にとっては時間の無駄だし、我々のメンツもつぶれてしまう。
◆なんてことを考えていると、犬が山の上で鳴き始めた。なにか、ケモノがいたようだ。いつものコースでケモノが逃げてくれば、まずテルさんの前を通り、そこで撃ち漏らしたら、私のところに来る。獲物は獣道を逃げてくる。よく使う獣道というのはあるが、山の中には獣道が交錯していて、最終的にどれを通るかはわからない。犬がかかったケモノはいつものコースを取らずに、まっすぐ斜面を降りているようだ。このあたりで犬カケから「犬がケモノを起こして鳴いているぞ」という無線が入った。ようやく今、山頂に着き、事態を遅れて把握したようだ。
◆私とテルさんはすでに犬がケモノを起こしたことも、今日のコースがいつもと違うこともわかっている。だが、しゃべると獲物に気取られる可能性があるので、犬カケの無線には答えない。 斜面をまっすぐ下りるコースに乗ったケモノは、私の下のタツマに入った石川君のところに向かっていた。笑い話が本当のことになりそうだ。周囲3キロ、直径1キロくらいの小さな山なので、犬も獣もすぐそこだ。鹿なら、まあ、石川君を驚かしてそのまま駆けていくだろう。大きなイノシシだったらちょっと心配だが、もうどうしようもない。
◆そのとき石川君のとぼけた無線が飛んできた。「近くで、犬が鳴いてます」。ナイス。かなりナイスだ。ぼけ具合も最高。すでに私のところにも、犬の鈴音とそれに先行するようにヤブをばさばさと走るケモノの足音が聞こえている。石川君には聞こえないのか? どちらにせよ、石川君がしゃべったのを気取ったのか、最初から方向を変えるつもりだったのか、無線を境に、ケモノが私の方に向かって方向を転換し、沢を登りはじめたような感じだった。
◆実は先週もこの同じタツマに入った。そのときも犬は首尾よく雄鹿を追い出してくれたのだが、私は撃ち漏らしてしまった。ケモノが逃げてきた道順は逆だが、ルートはだいたいわかっている。どうやら私の出番だ。先週鹿が出てきたところに向けて銃を構えて、撃つ瞬間を待った。
◆ケモノがヤブの中を動く音が近づいてくる。その奥に犬の鈴が聞こえる。犬には鈴を付けてある。タツマの衆がケモノと犬を間違って撃たないためにだ。そして、ケモノの足音が私の正面40メートルほどに来た。だが、ケモノの姿は見えなかった。「?」と思って、銃に付けていた顔を上げた。すぐに斜め上から「ばさばさばさ」という音が聞こえてきた。「上?」と思って振り向いたときには、小さな雌鹿が斜面を登っていた。あわてて鉄砲を向けて、一発。鹿は走っている。だめだ、当たる気がしない。それでも次弾を送り込んでもう一発発射した。当たった気配はなかった。鹿に向かって走った。鹿は植林の中を逃げていく。追いつくわけもない。無線で仲間が、なにかをしゃべっている。銃が鳴ったので、首尾を確かめようとしているようだ。
◆「犬を捕まえろ、犬を」と私が外したことを悟ったテルさんが無線に叫んでいる。ケモノに包囲網を切られると、犬はその獣を追ってどこまでもいってしまう。そうなると犬を回収するために、かなりの労力が必要になるのだ。私は鹿が逃げたところまで駆け上がり、鹿の足跡で犬を待った。犬はすぐに来た。だが私の手元をすり抜けて鹿の匂いを追っていってしまった。すごいフェイントで、とても捕まえられない。人間は愚鈍だということを思い知らされた。
◆仲間に状況を伝えると、鹿の動きを想像して、車で回り込むとのことだった。石川君が、下のタツマから上がってきた。私は片手で拝むようにして「わるい」と謝った。「服部さんが撃ったんですか」「二発撃って、外した」「すごい緊張感でしたね」興奮冷めやらぬという感じで石川君が言った。「止まっていれば(仕留めていれば)完璧だったけどな。ちょっと遠かった。当たる気がしなかった……」
◆今年で3シーズン目になるが、私はまだ獣を2つしか仕留めたことがない。最初が雄鹿、2頭目が雌鹿だ(昨シーズンから雌鹿の狩猟も解禁されている)。それでも、最初のシーズンは獣に向かって銃を撃ったのは一回だけ(はずれ)だったことを考えれば、進歩したのだろう。今シーズンに入って1か月、ケモノを目撃して銃を撃ったのは4回目になる。銃の安全装置を確認し、足下に落ちているショットシェル(空薬莢)を拾った。「あげる」と言って石川君に渡す。本当はメインゲストである鹿さんにその中身を受け取って欲しかったのだが、フラれてしまったので、サブゲストに空薬莢だけでもあげておこう。
◆地平線の仲間は田口洋美先生や松原英俊さんなどの話を聞いているので、狩猟に関しての抵抗はないようだ。石川君も、なにか感じるところがあって、山梨まで来てくれたようだし、解体を見るまでは通いたいといっている。長野亮之介さんも銃と狩猟の免許を取るとかいっていたけどどうなったのだろう。角幡(唯介)君も、1回取材したいらしい。彼は長い旅ができないので、「もうアサヒなんか辞……」などがほざいていたが、果たして? 同じ山梨の田中君・千恵ちゃんも落ち着いたら狩猟をやりたいといっていた。ラフカイとウルフィーならかなり使える犬になるはずだ。田中君はともかく、ラフカイたちとは仲良くしておいてソンはないだろう。
◆となると、それでなくても人材不足に悩む山村を、地平線の仲間が鉄砲片手に徘徊する日も近いのだろうか。地平線会議・狩猟支部? すぐにたくさん獲物を仕留めるようになって、肉の消費を報告会に来る仲間に頼むことになるかもしれない。お楽しみに。サバイバル登山家が狩猟に至る経緯と一頭目の鹿に関しては、みすず書房の機関誌「月刊みすず11月号」に簡単に書いたので、詳しく知りたい人はそちらを読んでください。(300円)
12月1日、アメリカのサンダンス映画祭に「puujee」がノミネートされたことが正式に発表されました。実は、かなり前からメールで通知が来ていたのですが、正式発表前に口外するなという厳しいお達しがあり、私たちもそれを口にするとぬか喜びになりそうな気がして、我が家でもあまり話題にしていませんでした。それが1か月以上も続いたものですから、喜びの実感があまりないまま、その日は、山田(注:「puujee」監督の山田和也さん。本所さんの夫君)と共に網走市へ出かけました。網走では、北方民族博物館の主催で「puujee」を上映してもらったのですが、今回はその報告ではなく、講談師の神田山陽さんの話を書きたいと思います。
◆神田山陽さんは網走の出身ですが、最近になって住民票を故郷に戻し、東京と北海道、半々の生活をしています。地方がどんどん疲弊していく中、網走も例外ではありません。そんな故郷の姿にいてもたってもいられなくなった山陽さんはある決心をしました。地元の小学校1年生に入学したのです。その理由を聞くと、「歳を取るとやっぱり故郷に住みたいじゃないですか。でもこの町にはいい医者も弁護士もいないので老後が心配なんです。だったら今の小学生を応援して医者や弁護士になって故郷に戻ってくるように力を貸せばいいんじゃないか、故郷の良さを教えられればいいんじゃないかと思って。要するに自分のためなんですけどね」
◆冗談交じりにそう言う山陽さんですが、本心は、網走の未来を考えた場合、50年後にこの世にいない同年代の人と網走の未来の話をしても、話が架空のものになってしまう。今50歳の人と網走を考えるより、確実に次の時代を生きる今6歳の子供たちと共に網走の未来を考えていく方がいいと考えたそうです。残念ながら学校に入学許可は出してもらえませんでしたが、町の教育長が積極的に動いてくれて聴講生として実現しました。その教育長は校長をしていた時、子供がわーと寄ってくるような校長先生だったそうです。山陽さんは、現在使っていない農業普及センターを借りて住み、そこを子供たちの基地にすべく図書館を作ったり、自転車やカヌーを置き、子供たちが自由に遊べるスペースを作るそうです。もちろん、講談も教えるんでしょうが。
◆東藻琴小学校創立100年の記念式典で、紋付袴姿の山陽さんは、過去100年の話ではなく未来の100年を語りましょうと話しました。それは「俺はこの町で生きていくんだ」という彼の宣言であり、とても感動的でした。そして、その後に演じた講談が素晴らしかった。演目は「徂徠豆腐」。なんだ生意気な芸人が……という雰囲気を来賓の中に感じなかったわけではありません。でもそんな来賓のおじいさんたちも講談に涙を流していました。いろんな意味で「芸」ってすごいと思いました。
◆山陽さんが故郷にベースを移すきっかけになったのは、文化交流士として1年間留学していたイタリアでの生活だそうです。そこで地元の産物を誇らしげに自慢する人々にたくさん出会ったそうです。地元のものが一番おいしいと思っているからほとんど地元のものしか食べない。だから地方の経済が安定している。そんな簡単なことが日本では行われません。
◆旅って不思議ですね、出会いって不思議です。これが、地平線のみなさんにご報告したかった話です。そうそう、いつも無口な同級生の女の子が、給食当番の時に山陽さんのお椀に多めに春雨を入れてくれた時は、こうやって恋が始まっちゃうのかなって言っていました。最後に、たくさんの方からサンダンス映画祭ノミネートのお祝いメールをいただきました。ありがとうございます。1月17日からの映画祭、楽しんでこようと思っています。(puujee製作委員会 本所稚佳江)
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韓国EBS国際映画祭グランプリに続き、映画「puujee」がアメリカのサンダンス映画祭にノミネートされた。サンダンス映画祭とは、毎年1月にアメリカのユタ州パーク・シティで開催されているインディーズ映画(独立系映画)の世界最大の映画祭で、「puujee」は海外ドキュメンタリー部門で受賞対象作品16本の中に選ばれた。日本から選ばれた映画は、「めがね」(脚本・監督 荻生直子)と2本のみ。2008年1月17日から27日まで、ワールドプレミア81作品を含む、計121本の長編映画がバーク・シティで上映される。今年の応募総数は、長編映画2051作品、ドキュメンタリー映画1573作品と史上最多という。
★「こんなに大きな映画祭にノミネートされるなんて、夢のようです。勿論映画祭がゴールではありません。アメリカの人たちにプージェーの家族のこと、今モンゴルで起こっていること、グローバリズムの片隅で人知れず起こっている様々な悲劇を知っていただく機会になればいいと思っています。映画祭には多くの興行エージェントが参加するそうです。常識的なエージェントと出会って、アメリカでプージェーが公開できるよう頑張って行きたいと思います」(ノミネート発表直後のプロデューサー、本所さんの感想)
その昔、地平線会議が活動を始めたころ、私は広大無辺な南米大陸を漂っていました。パタゴニアの荒野を彷徨い、アンデスの氷壁を攀り、アマゾンの密林に迷い、多様で過激で懐の深い大陸に身も心も浸り切っていました。行く先々で、出会う人ごとに、日本のせせこましい社会とは全く違う文脈に触れては、得もいわれぬ快感を満喫したものです。なかでも、ペルーにやたら長居を決め込んでしまったのは、やはり余りにも強烈なキャラがそろっていたからでしょうか。
●ローリング・ストーンズのミック・ジャガー相手にギター弾きながら唄っちゃった板前氏やら、雑誌の連載原稿が書けずに缶詰で苦しんでいた開高健氏にコXXンを差し入れていた某・ドン氏、飲み始めたら確実に店の酒が一本も無くなるまで飲み続けるという伝説のカメラマン氏などなど、人材には事欠かないすさまじく濃厚な場で、めくるめくひとときを過ごしたのでした。某・O氏はその大元締め的な存在で、多い時には自宅に居候の山男が20人以上もたむろし、山岳会や探検部の合宿所と化していました。若かりし日のドクトル関野氏や、後日ペルー・アンデスを登りにきた田部井・北村ペアとばったり会ったのもO氏宅。現在に至るまで、リマでの宿泊先を提供していただいています。そうそう、そういえば正体不明の「シゲさん」なる怪しいおババに接近遭遇したのも、80年代初頭のリマでのことでしたな。
●さて、某・E本氏がいつぞや通信で、必然の出会いうんぬんということを書いていたように記憶しています。ペルーでのさまざまな出会い、なかでも天野博物館の創設者である天野芳太郎氏との出会いは、まさに必然だったのでしょう。通りすがりの人間を温かく受け入れてくださり、偉大なるアンデス諸文明の扉を少しだけ開けて見せていただいた気がします。現場に立つ高揚感や、未知の領域に踏み入る興奮、発見がもたらす感動といったものを、天野氏から直接うかがえたのは生涯の財産だと思っています(日本に戻ったあと、地平線会議と出会ったのもこれまた必然だったのでしょうか)。
●その天野博物館が主体となって、新発見のピラミッド型神殿状遺構を学際的に調査するプロジェクトが、この夏から本格的に始動しました。日本と同様、地震国でもあるペルーで、地震やエル・ニーニョ(洪水)などの自然災害が文明に与える影響や、それに対応する古代人の建築構造上の叡智を明らかにする壮大な計画です。地質や耐震工学、地球物理学、文化人類学、考古学などの専門家が現地シクラス遺跡に集まり、それぞれの専門分野での調査に取り掛かろうとしていた矢先、ペルー中部海岸地域を震源とするマグネチュード8の大地震が発生。犠牲者595名、被災者総数32万人、全半壊家屋数5万2000戸を数える、未曾有の大惨事となりました。幸い被害のなかった関係者一同で胸を撫で下ろしつつも、これは天野芳太郎氏からの天啓ではなかろうかと語り合ったものでした。
●ペルーからはもはや逃れられない運命になってしまったようですが、ペルーだけではなく、ラテンアメリカ全体が今や熱い時代をむかえて燃えています。たとえば軍事政権だった時代、キューバ革命の英雄チェ・ゲバラのTシャツを着て外を歩き回るのは自殺行為でした。たかがTシャツ1枚で行方不明になったまま、2度と戻ってこなかったという例が実際にあったのです。それが、今やファッションとして大手を振って認められただけではなく、ラディカルな意思表示として社会の中に再登場しています。アメリカ離れと左傾化が顕著かつ大胆に進行し、ベネズエラのチャベス大統領をはじめ懲りない面々が大活躍。キューバのカストロ氏も病の床から正面切ってグローバリズム批判を連発し、いまだ存在感を示しています。
●同時に進行しているのは、中国や韓国の圧倒的なプレゼンスでしょう。ジャパン・パッシングとか言って騒いでいるうちに、現実はジャパン・ナッシング! 世界遺産人気ナンバーワンの空中都市マチュピチュ遺跡は、いまや中国人や韓国人観光客の団体に占拠されつつあります。かつてブラジルのサンパウロで日本人街と呼ばれていたリベルダージ地区も、日系人はみな日本に出稼ぎに行ってしまい、中国・韓国勢力に占領されている状態です。フジモリ問題などで日本が自閉的足踏みをしている間に、ラテン世界はとてつもなくダイナミックに進行しているのですな。
●てなわけで、チベットとモンゴルだけが世界ではないぜと、ラテン世界の片隅からこっそり叫んだりする今日この頃。カーニバル評論家としては、愛と情熱のラテン世界だけではなく、世知辛くて、乗りの悪い、ださいラテンの日常を広く知らしむるべく、鋭意努力する所存であります。(ZZZ−全)
雲霧林、森と共に生きる先住民族、ナワット族の森林農法、トセパン組合、ひとつひとつの言葉がじんじん心に響きます。
フェアトレードを実践してきたウィンドファームの、第一回エコツアーに早速参加を申込み、一足先にメキシコ入りをしました。十八世紀に大量の銀を産出していたグアナハトで、銀山の坑道跡を見学したり、街の地下道を歩いたり、世界遺産の町でフェスバルに出合ったりしてました。エコツアーの皆さんがメキシコ到着のその日は、早々とホテルに移動し、その夜メンバーを迎えます。
まずメキシコ市ではティオティワカン遺跡を見学、夜はホテルで生物学者のパトリシアさんのオリエンテーション、森林農法とトセパン組合の森を守り、森をつくる活動についてレクチャーをうけ、気分は一気にトセパンです。
翌日メキシコ市を出発、トセパンに向かいました。プエブロ市をすぎ北東部のクエツァランの町をすぎ、ここから先はもう店がないという坂道で車が一時停車しました。店先に立っていた農夫に声をかけます。
アメリカンインデアンかと間違えし人
彼もインデヘナ ハポンを知らず
以前国連の「先住民年」がありました。その時アメリカインデアンと交流があったのでしょうか、スペイン語のハポン(日本人)にぴんと来てない様子。中南米では山村に住む女性で、スペイン語を話す人はほんとに少ない。インデヘナはここの先住民です。
トセパンの熱帯の夜を訪ね来て
霧わく森に コーヒー香る
トセパン組合に着いて、森に入る小路、登り道にコテージが点在してます。森の木で組合が作った宿舎。さあ、今夜から森の住人です。
森の中両手で掘りしやわき土
そっと坐らす オロピオの苗
トセパン三十周年の記念イベントは、すべて手づくり。組合の人たちの喜びが胸をうちます。私たちは一人ひとり各グループに案内され、苗を植えました。オロピオは高木種、大きくなると梢の実を鳥たちが、下の実を人間がたべるのだそうです。再訪を約束しました。
シケイロスと交遊語るメンデスの
画廊のパーテイ さつま芋あり
メンデスさんの画廊には大きな壁画がいっぱい。トセパンの人たちの楽しそうな作業の壁画がひときわ輝いていました。
組合員の家を訪問、シナモンのワークショップも受けました。驚いたのは大洞窟の見学です。なんと組合は水源を確保するためこの大洞窟を入手したそうです。このままではやがて観光スポットになり、今の自然は守れないと。将来のために決断して確保した、先見の明と実行力、凄い、大したもんです。
「トセパン」というのはナワットの言葉で「団結」という意味。しかもこの団結は協力や分かち合いです。日曜市の見物に街に来て、トセパン銀行を見学しました。山から出てくる組合員のために、日曜も開いているトセパン銀行はさすがです。
雲霧林子ども杣人湧き出でて
日曜市の 賑わいつづく
日曜市は朝から終日、驟雨がきて人が散ってまた続きます。教会までの露店もいっぱい、教会も教会前の広場も人でいっぱいです。
素やきつぼふたつ重ねし養蜂の
酸味もありし トセパンの味
ここの蜂は小柄で黒茶色、さされても害はないそうです。酸味というのも面白いですね。毎日が楽しく、私も味わい深い酸味を頂きました。ここに着いてからおあいできた組合のリーダー、皆から信頼されているアルバロさんを、トセパン銀行で見つけたので、一気に 「トセパン銀行を、組合員でない人も利用できるのは素晴しいですね。海外に働きに出た人達が家族に送金するのに、どんなに助かることでしょう。トセパンの活動はいつも地域の人達と連帯している。本当に立派ですね」と話しかけると
「いやーここはメキシコ。メキシコ流にやっていますよ」
あっさりした返事が返ってきました。四〜五人の組合員からスタートして今日まで、封建制の強いところで大変な苦労だったでしょう。本音は
『一歩一歩ですよ。持続可能なエコ的くらしも、人縁も地縁もスローが似合います。ゆっくり滞在して下さい』
まさにトセパンの蜂蜜でした。
森に生きるくらし、その共同組合を生み育ててきたアルバロ。彼に魅せられとび込んできたレオ、彼の目はいつもくりくり輝いています。この生命の光を見る喜び、森の中で彼らと一緒の生活、喜びにふるえる魂を毎日感じていました。
《我交じり合う故に我あり》
この喜びは、森に生きる先住民のトセパン組合活動が、世の中を変える、新しい世界はもう始まっているという確かな手応えです。(金井重)
今年2月のある晴れた日、2歳になったばかりの息子と一緒に、青空自主保育会の活動を見学した日から、私の子育ては一変した。青空自主保育とは、園舎を持たず、日々変化する自然の中で、親が主体となって会を運営する保育スタイルのこと。具体的には、専任保育者と数名の親当番が子どもたちと一緒に里山に入り、子どもが子どもたちの世界でとことん遊びきることができるよう、見守りに徹するのだ。
◆活動のベースとなる西鎌倉の里山の自然に、一目惚れした私。けれど、年を取ってからの子どもは想像していた以上に可愛く、それはスポイルしてしまいそうになるほどで、入会を決めた当時は、まだ話すこともできない幼児にリスクのある山道を歩かせることや、子どもを他人に預けることが不安でたまらなかった。
◆春から週2回の活動が始まってみると、里山は、公道や公園に比べたら、ずっと安全であることがわかってきた。擦り傷や切り傷は絶えないけど、大怪我の可能性はかぎりなく低い。スズメバチや毒蛇、雷など、自然に存在するリスクは、むしろ子どもや親の生きる力をはぐくんでくれる存在。親の立場に立つと忘れそうになるそんなことを再確認させられた。
◆小川や海で素っ裸になって泥や砂まみれになったり、みんなで勢いよく放尿したり、その辺の自然物をいろいろなものに見立てたり、クワの実やムカゴなどの自然の恵みをほおばったり、大人でも登るのが大変な崖で子どもたちが助け合ったりしているのを見ると、感動で目頭が熱くなることもしばしば。一方、自主保育の方針である「引率者は、口はつぐんで手はうしろ」を実践することは、ことのほか難しく、子どもたちとの接し方については葛藤の連続だ。危険な場所で先頭争いをしたり突き飛ばしたりもするし、男の子がみんな持ち歩こうとする棒の先が目に当たりそうになるときだってある。どこまで見守るかの線引きは、容易には決めがたい。
◆親当番に入るたびに、透き通った子どもたちの瞳に映る大人として振る舞いを意識させられ、成長させられているのは親の方だと痛感する。いままで、過酷な自然から学んだことが、何よりも生きる糧となっていたが、そこに、幼い頃育てられてきたような身近な自然と、子どもたちとのかかわりという要素が加わることによって、もう一度最初から生き直しているような気がしている。その後に立ち現れてくるステージとは、いったいどんなものだろう?◆せっかく専業主婦にあやかれる身なのだから、しばらくは手間も時間も大いにかかる青空自主保育にどっぷり浸かって、子どもたちと一緒に育ち合いたい。青空保育に興味を持った方がいたら、ぜひ12月24日(月)午前10:30から教育テレビで再放送される「里山保育が子どもを変える」をご覧ください。撮影対象の保育園が山に入るのは年間60日ですが(私たちの会の5歳児はなんと180日!)、青空保育の雰囲気は伝わると思います。また、もっと具体的に知りたい方は、拙親バカ育児ブログ(http://blog.livedoor.jp/climbery1/)のカテゴリー「保育」をごらんいただければ、その実態がつまびらかになるかと思います。(大久保由美子 240回報告者)
ブラジルで日本語を教え、帰国して早半年。私は、目を真っ赤にして勉強したり、あるいは、ぼんやり呆けたりを繰り返し、ようやく受験シーズンを終えました。先日、桜美林大学院の言語教育専攻日本語教育専修というところに合格しました。4月からです。筆記試験はグダグダでした(過去問と傾向が違っており、愕然としました……)が、面接で救われたと言えましょう。ありがたいことです。発表までの数日は、何をしていても、合否のことばかり頭にちらつきました。
◆授業が平日の夜間と土曜日にまとめられているので、平日の昼間は働けます。体力的にも時間的にも厳しいので、非常勤の仕事を探します。「日本語教育だけの世界」にひきこもらないよう、色々な経験を積みたいと思っています。皆さん、アルバイトなどお探しの時にはお声がけください。研究のため(「日本語が母語ではない日本語教師の成長について」が研究テーマになる予定)、在学中に1回はブラジルに行くことになるでしょう。学費、そして旅費。稼がなければなりません。がんばらなければなりません。
◆私は、何をするにも大勢の人に宣言してから始めるスタイルです。たとえ落ちたにしても、恥ずかしいことをした訳じゃないんだからいいじゃないの、という開き直りです。でも落ちたら、イヤですけどね。受験生の間、地平線の皆さんには大変励まして頂きました。他の友人たちにも勉強の面で随分助けてもらいました。情けないですが、一人じゃ受からなかった!と言い切れます。いやあ、人に恵まれました。みなさん、ありがとうございました。今後とも、よろしくご指導くださいますようお願い致します。(後田聡子)
■鹿島サポーターの皆さんおめでとうございます。9連勝での逆転優勝は見事でしたね。特に前節の埼玉スタジアムでのレッズ戦勝利は、サポーターとして最高の気分を味わえたことでしょう。本当に羨ましいです。優勝を逃した浦和サポーターの皆さんには掛ける言葉もありません ◆が、2007年は浦和の年であったことは間違いありません。アジアチャンピオンズリーグの優勝は、日本のサッカーの力をアジアに示すことが出来ました。真っ赤に染まった6万人のレッズサポーターが応援する姿をテレビを通じて見、そして聞いたアジア中の人々は、仕事しか興味がないと思っていた日本人がこんなにも熱烈に自分たちのクラブを応援する光景に接して、考えを改めたことでしょう。90分間止むことのない応援のコールと手拍子はどこのサポーターも真似することは出来ない浦和だけのものです。是非世界クラブ選手権ではACミランと戦ってレッズサポーターの応援の凄さを世界中に知らしめて欲しいものです。
◆昨年昇格したヴァンフォーレ甲府はJ2降格が決定しましたが、短いパスをつないで走り回る攻撃的なスタイルはとても魅力がありました。資金が乏しく選手に恵まれないためチーム力を維持し続けることは困難でしょうが、甲府のサポーターはヴァンフォーレを応援することの楽しさに気づいてしまったのですから、J2に落ちてもサポートは続いていく事でしょう。自らのチームを応援する事の楽しさが最終節の一日で29万人を超える人々を各地のスタジアムに集めた最大の理由だと思っています。
◆最終節の日、私と実千代は長居でJ1昇格の可能性がなくなったセレッソ大阪対J2首位の東京ヴェルディの試合を観戦しました。2点を先制されながらも同点に追いついたセレッソの選手たちの戦いぶりは拍手を送るに値するものでした。試合後のセレモニーでは今年序盤から体調不良で欠場し続けた森島選手が姿を現した事に対し、本当に多くの観客から温かい声援と拍手が送られスタジアム全体がとても良い雰囲気になりました。これにより我が家の今季Jリーグ観戦も気分良く終えることが出来ました。
◆元日の天皇杯決勝から見始めて年末までに今年も49試合を観戦する事になるでしょう。毎週のサッカー観戦に実千代は時に文句を言いながらも毎試合良く付き合ってくれています。 他にしなくてはならない事は山ほどありそうですが、いつも試合開始の1時間前にはスタジアムに到着して選手が登場するのを待っています。試合への期待感に気持ちが高まってくるこの時間こそが私の一番の楽しみのようです。(大阪・岸本佳則)
■今、ブリスベンの少し南にあるサニーバンクという街の中華街の中華料理屋で皿洗いです。中華が食える!!!!!!!!!!!! 時給は安いけど、とはいえ日本よりは高くって、でも物価も高いし、総合的に考えればまぁ、あまりよくないんだけど、でも楽しいです。◆ポッサムというでかいネズミみたいなやつが、勝手に私のテントに入ってきて食パンをかじっていくこともなくなると思うと少し寂しいですが、これが都会生活ってやつなんですよね。シェアハウスで週105ドル払ってます。都会でも、コウモリはでかいし、スーパーにカンガルーミートが売ってます。帰国は1月9日、アラスカには1月16日出国決定です。では、一報まで。(12月8日 在オーストラリア 本多有香マッシャー)
今年もまたまたフェスタをやります。ギャラリーには新作、「ポリーポルタン」もスタンバイし、ここでしか手に入らない雑貨「木のお家シリーズも並んでいます。薪ストーブもどかんと真ん中に鎮座して、arumitoy総出で皆様をお迎えいたします。皆様のお越しをお待ちしております。
■期間 12月19日(水)〜25日(火)
■場所 京都府木津川市加茂町岡崎下八反田1 アトリエarumitoy(JRK関西線 加茂駅徒歩15分)地図 http://www.arumitoy.net/map.htm 電話 0774-34-0625 ■時間 11時〜18時 土日祝もオープンです(多胡歩未)
★ポリーポルタンのナゾ★
作者によると、「ポリー(poly)とは、名詞や形容詞につけて、多〜、複〜というように“多くの”の意味。ポルタン(poltern)はドイツ語で、騒ぐ、がたがた音を立てる、大騒ぎして祝う、という意味。くるくる回ると木と木がぶつかり合ってかたかたと鳴る、うんとにぎやかなおもちゃらしい。ともかくHPをのぞいてみて。あるみはタイヘンな天才だよ。(E)
沖縄本島中部東海岸から太平洋に突き出た半島、勝連半島(与勝半島とも)の東方5キロに浜比嘉(はまひが)島があります。周囲7キロのこの小さな島のことは、お嫁にいった地平線仲間、外間(ほかま)晴美さんの「浜比嘉島通信」でご存知の方も多いと思います。
◆かねてから沖縄で地平線会議をやりたい、と言い続けてきましたが、2008年のうちにいよいよ実行したい、と考えます。場所は、まさにその島、浜比嘉島で。島の人たちも私たちの計画を受け入れてくれる雰囲気で、12月はじめ、那覇マラソンを走った長野亮之介画伯が浜比嘉島を訪れた折、いろいろ話を聞いてくれました。
◆期日、プログラム(島人と私たち双方にとって内容のあるものにしたい)など詳細は島の皆さんの意向を聞きつつ、年明けとともに煮詰めたい、と考えています。当初4、5月頃を考えていたのですが、お天気、島の仕事、行事などを考えると、「6、7月あたりのほうが良い」とのことでした(10、11月あたりもあり、かもしれません)。
◆ともかく皆さんの声も聞きつつ、固まった内容は随時お伝えしていきます。できるだけ安い航空便が使えるよう配慮するつもりです。これまで関心を持ちながらまだ沖縄へ行く機会のなかった人たちの参加をとりわけ熱望しています。(地平線会議)
★★左のことを念頭に、2008年地平線カレンダーのお知らせです!★★
2008年の地平線カレンダーは、なんとなんと、その「浜比嘉島」をテーマとした異色の内容となります。
浜比嘉島って、どんな島なのか。どんな産業があり、どんな人たちが暮らしているのか、ゴンはどんなわんこなのか、地平線イラストレーター、長野画伯の入魂の作品にどうかご期待ください。
◆ ◆ ◆
●判型は去年と同じA5判(横21cm×縦14.8cm)。2ヵ月が1枚のカレンダーに なっていて、それに表紙を付けた全7枚組です。頒布価格は1部あたり500円。 送料は8部まで80円、16部まで160円(それ以上はご相談ください)。
●地平線のウェブサイト(http://www.chiheisen.net/)からお申し込みいただけま す。専用のメールアドレス(calender08@chiheisen.net)を設けましたので、 ウェブサイトのページから「申込書」をコピー&ペーストしてメールソフトに 貼り込み、必要事項を記入してご送付ください。葉書での申し込みも受け付け ています(〒167-0041 東京都杉並区善福寺4-5-12 丸山方「地平線カレン ダー・2008係」)
●お支払いは、郵便振替で。カレンダー到着後でけっこうで す。いきなりご送金いただくのではなく、かならず先にメールや葉書などで申 し込んでください。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・ プロダクトハウス」
先月以降、以下の方々から通信費(1年2000円)を頂きました。ありがとうございました。
また、金井重さんからは報告会で売った自著の収益10500円をそっくり地平線会議に寄付していただいたことを感謝とともに報告します。
(12月12日 地平線会議世話人一同)
櫻井恭比古/菅原強/原健次/小長谷由之/松澤亮/野地耕治/渡辺泰栄/片山忍/中島恭子
森井祐介 関根皓博 三輪主彦 藤原和枝 車谷建太 村田忠雄 満州 後田聡子 鈴木博子 坪井伸吾 坪井友子 落合大祐 深谷幸代 白根全 シール・エミコ 江本嘉伸 久島弘 杉山貴章 山本千夏 妹尾和子 山辺剣(21名も来てくれました。ありがとう!)
「三丁目の夕日」の映画を見て、「そうだよ、こんな時代だったんだよなあ!」と感慨にふけって、帰宅したら「瀬戸内海の島と町」宮本常一写真図録という本が送られていた。地平線の報告者でもある森本孝(地平線三たかしの1人・他は岡村隆、賀曽利隆)さんが苦労をして作った本だった。
◆宮本常一さんは晩年、故郷の周防大島(山口県)で地元人材の育成をめざした「郷土大学」を開く準備をしていたが道半ばで亡くなられた。宮本先生の著書、蔵書、写真、遺品は地元の周防大島文化交流センターに寄贈された。しかしご多分に漏れずここの財政は大変な状況で、運営には献身的なボランティア精神が必要だった。ある大学の先生職をけっ飛ばして、再び貧乏暮らしにもどった森本さんはこのセンターの運営に関わってきた。そのセンターで出版した本である。
◆今回の本は瀬戸内の島と町の風景写真がメインだが、よくもまあこれだけ三丁目の夕日のような、何げない写真をとり続けていたのだなあと感心する。11月の報告者賀曽利隆は写真の枚数では宮本常一を越えたぞ!と豪語していたが、まだまだ足下にもおよばない。解説を佐野眞一、伊藤幸司、佐田尾信作、森本孝さんたちが書いている。これもなかなかすごい。ぜひ手にとって見てもらいたいと思って、ここに投稿しました。
◆定価1800円。「みずのわ出版」神戸市中央区旗塚通3-3-22-403 電話078-242-1610(FAX兼用) E-mail mizunowa@osk2.3web.ne.jp URLhttp://www.mizunowa.com(三輪主彦)
みなさん、こんにちは。昭和基地は11/23に白夜に入りました。夜もずっと明るい上に、気温が上がって夜が寝苦しくて仕方ありません。実は極夜より白夜の方が不眠に陥りやすいのかな、なんて感じている今日この頃です。さて、ライギョダマシという魚の話はどこかでしましたっけ? 48次隊では、ライギョダマシというナンキョクカジカ科の魚を狙って、4月からずっと釣りを続けてきました。観測隊が釣り上げた中では、体長131cm、26kgというのが最大の記録です。
◆4月に始めて以降、いろんな苦労がありました。ドリルが壊れたり、氷が硬すぎて穴あけに苦労したり。。そして、ずっとほぼ坊主でした。1度だけ、660mの深海からウニとヒトデが釣れたことがありました。けれども先日、ついに、ライギョダマシを釣り上げました。11月14日の夜のことでした。
◆釣り上げた魚は115cm、19kg。記録には及びませんでしたが、思いもよらぬ大物にとても驚きました。ずっと坊主できていたので、「まさかかかるとは」というのが本音です。それにしてもうれしかったなぁ。
◆過去の漁協係の記録を見ると、ライギョを釣り上げたというのはほとんど12月の日付なので、どんなにがんばっても冬に釣るのは難しいのかもしれません。夏になった途端に手ごたえがありました。100cmを超える大物を釣り上げてしまったので、次はそんなに簡単には釣れないだろうと思っていたのに、昨日(11/27)、2匹目を釣り上げることができました。今度は88cm、8kgでした。
◆前の魚よりは小さいとはいえ、十分大きいです。今度のはだいぶ弱っていたので、糸を巻き上げるときにぜんぜん「引き」がありませんでした。水面まで上がってきてようやく、釣れていることがわかった次第です。最初に釣れた魚は冷凍保存して日本に持ち帰ることになったけれど、昨日釣り上げた魚は今日おいしくいただきました。そしてこれがまた、すっごいすっごいすっごいすっごいおいしいのです。脂がとっぷりと乗っています。乗りすぎているくらいです。獲れたばかりの生魚を食すなんて、1年ぶりでした。ちょうど一年前の11/28に日本を出てきましたから。それでは、何枚か写真を添付します。私の釣り歴は浅いけれど、ここ南極でこんな大物を釣り上げることができて、一生の記念になりました。(永島祥子@昭和基地)
(見事なライギョダマシを抱えた永島さんの写真は、いつか報告会で見せていただくことにします。=E)
■シール・エミコさんの『いのちのペダル・チベット編』(関東一円では放送済み)が、MBS毎日放送(関西圏のみ)で放映される予定です。
★12月23日(日)深夜25:00〜25:30(正確には、24日01:00〜01:30)
地平線通信の制作は短時間勝負である。ぎりぎりになって届く原稿が多いのと、一気呵成につくる勢いのようなものを大事にしているからでもある。で、気がつくと、うとうとしている。用意周到にやっているつもりでも最後は睡眠時間を削っての作業になるためだ。そんな中で10数ページの冊子が出来上がると、今月もひと仕事やったな、という気分になる。三輪、森井、関根さんたちが印刷を終えた頃、発送作業に駆けつける時は、だから少しふわふわしています。
◆「携帯もパソコンもテレビもなかったのにどうしてあんなに楽しかったのだろう」──最近話題の映画「ALWAYS 3丁目の夕日」のキャッチコピーである。映画そのもの(続編はまだ見ていない)はほろりとさせられ、まずまずの出来なのだが、「古き良き昭和」という言葉に「涙を流したい、と考えている人々」を取り込もうとする「魂胆」が見えて私は素直に感動できなかった。
◆別な話として、「ここには私たちが忘れていた何かがある」「貧しいけれど子どもたちの目はキラキラ輝いていた」「物質的には恵まれているが私たちはあの貧しい人たちより幸せといえるだろうか」旅をしてきた人のこの種類のせりふに違和感を覚える人は私だけではないと思う。こういう言葉を使うのはやめよう、と何度かお節介にも書いたことがある。
◆「古き良き昭和」というノスタルジックな言い方も、現状打破をしない姿勢が見えて好きでない。
◆現状を良くするために小さくても行動することが大事と思う。(江本嘉伸)
ラテン・アメリカ5000年の孤独
日本列島がジョーモン時代の頃、世界には四大文明(エジプト、メソポタミア、黄河、インダス)がおこりました。現代文明はすべてこの4つの偉大な文明がルーツです……というジョーシキをくつがえす発見が昨春ペルーでありました。沿岸部チャンカイ谷から約五千年前の神殿遺跡が見つかったのです。中国四千年よりまだ古い、そのラス・シクラス遺跡発見の現場にいち早く駆けつけたのが白根全さん。25年以上前からペルーをはじめ南米に通い続けるカーニバル評論家です。 「この四半世紀でものすごく変化した面がある一方で、数百年変わらない生活も併存している。ラテン世界のその幅が、さらに広がった瞬間を見た臨場感がすげえんだよ」と全さん。以来プロジェクトチームの記録員として関わり続けています。 『新大陸の発見』以降つくられてきた現代ラテン・アメリカ。そのカオス文化のコアを探るカギの一つがカーニバルだと全さんは言います。「典型的な例として、ハイチとキューバのカーニバルが面白い」という白根さんをお招きし、シクラスからカーニバルまで、ラテン・アメリカの孤独を探る報告会です。お見逃しなく! |
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郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が120円かかります)
地平線通信337/2007年12月12日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/ イラスト:長野亮之介 編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/編集協力:横内宏美 印刷:地平線印刷局榎町分室 地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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