ランニングの季節だ。地平線会議で「皇居一周マラソン(5キロ)」をやっていた時期がある。オートバイにのみうつつを抜かしているかに見えた賀曽利隆の発案で、カソリ自身は、当時私が書いた『鏡の国のランニング』(窓社)を読んで思い立った、と書いている(地平線通信113号)。
◆1989年4月15日の第1回から93年4月10日まで計19回もやっている。地平線データブック『DAS』にはそのすべてが記録されていて、第1回大会には22名が参加、私は3位、永遠のライバル三輪は4位、カソリ自身は7位となっている。1位を長野の職場から参じたひょろ長い体の花岡正明という男が取った。花岡は5キロ大会の都度転勤先から駆けつけ19回のうちなんと11回も優勝、ついに一度も私は彼に勝てなかった。
◆10月末日、いまは新潟のどこかにいる憎き花岡氏から突然メールが来た。「山古志・小千谷の今年最後の闘牛が今度の土日にあります。11月4日曜日昼からです」。厄介な仕事でもがき苦しんでいた私は、即座に「行く!」と決心した。手がけていることがうまくいかない時は、何でもやってやろう。
◆上越新幹線の「浦佐」という駅で降り、田中角栄の像を見上げてから花岡君の車でまず3年前の中越地震の被災現場を何箇所か見せてもらった。長野亮之介画伯の北大の同級生である彼は、目下この地で雪崩・地すべりの研究センターの長をしている。道路は復旧しているが、旧山古志村を中心に至るところ震度7の強烈な地震の爪跡が生々しく残っていた。
◆震災4日後、土石に埋もれた車の中から2才の男の子が車内から抱き上げられた瞬間はテレビ中継されたため、今も脳裏に刻まれている。「ここから優太ちゃんが救出されたんです」と、その地すべり現場を教えられ、よくぞこんな中から見つけたものだ、と感嘆した。強烈な地すべりですべては岩石に覆われ、ヘリコプターから岩の間に車らしきものがちらり見えたのが幼児の命を救ったきっかけだったようだ。
◆当時、隔絶された村から牛たちの救出が話題となった。山古志と隣の小千谷では昔から闘牛の伝統がある。手塩にかけて育てた牛たちを救うために大型ヘリが活躍した。闘牛はここでは「牛の角突き」という。それが復活した。
◆小千谷市小栗山にある「牛の角突き会場」近くの駐車場から歩き出すとでかい雄牛がうずくまっていた。体重は?と聞いたら「今は1100キロだね。もともと1200キロあったが、少し落ちた」うへぇ!驚いた。キロホッキョクグマやヒグマが大きい野性と思っていたが、それでも500キロぐらいだ。日本の牛はそんなにでかいのか。「東昇北斗」という名だった。入場料(1000円席と2000円席がある)を払い、無料のおしるこを頂きながら開会を待つ。やがて取り組みが始まった。最初は「家康」と「秀吉」の対戦だ。3才同士でなんとどちらも戦意なく、顔見あわせただけでさよなら。角突きにはならなかったが、進行役の説明がユーモラスで場内は沸いた。
◆やがてやる気満々の年長の牛たちが登場し、角をぶつけあい、押し合い、本来の肉弾戦が始まった。1トンの巨体がぶつかるのだから迫力がある。チベットでヤクの雄同士が闘う場に居合わせたことがあるが、本気になったらここの闘いのほうが激しそうだ。どうやって勝敗を決めるのか少し緊張気味に見ていると、合図とともに双方の勢子が牛の後ろ足に綱をかけ、引き離した。山古志、小千谷では最後まで戦わせず、全試合引き分けるのである。だから勢子が20名以上も割って入る。牛を傷つけないために、というが深い伝統があるのだろう。ここまで来てなんだが、本心は血を見たくないのでこちらは安心した。
◆全取り組み16番。先ほど見た東昇北斗は後半戦に登場した。解説されて知ったが、彼は沖縄で『東昇皇龍』の名でチャンピオンになった(平成14年)牛で、ここで改名して再デビューしたらしい。堂々たる体躯だが、戦い自体は最初から引き気味であっさり後退してしまう。実は最後の沖縄での戦いで痛い目にあったばかり、という。それにしてもどうして大きいのか、前に座っていた(鹿児島から来たそう)人に聞くと「南部で育てたからでしょう」という。あ、そうであったか。
◆宮本常一さんが所長をつとめた観文研では「あるくみるきく」という魅力的な冊子を毎月出していた。その178号(1981年12月号)に「南部牛のふるさと」という特集がある。須藤護さん(現竜谷大教授)が書いたもので冒頭「なぜ越後山中に南部地方の牛がいるのだろう……」と、山古志村に岩手県の南部牛がいる驚きからはじめている。宮本先生いわく、鉄を運ぶ荷駄用の牛がはるばる南部から野宿しながらこの地に連れてこられ、そのまま残った、というのである。須藤さんたちは『ふるさと山古志に生きる 村の財産を生かす宮本常一の提案』(農文協)という本をことし出した。そこにも角突き牛の伝統についてページをさいている。
◆沖縄はじめ島の闘牛との違いも興味深い。ランニング仲間に図らずも牛について学ぶ機会をもらった晩秋であった。(江本嘉伸)
2004年に300回を迎えた地平線報告会で風間さんのビデオレターが流れた。覚えておいでの方も多いのではないか。本来、風間さんは報告者として登場するはずだった。だがその年、22年ぶりにパリ・ダカール・ラリーに挑戦し、レース前に大事故に遭い、病院のベッドから動けない状態だったのだ。ビデオレターの中の風間さんの左足の周りには、輝く銀色の輪が3つ(当初は7つあったという)等間隔に並び、そこからいくつものワイヤーが出て、風間さんの足に突き刺さっていた。この治療法をイリザロフ法という(詳しくは後述)。本当に痛そうで気の毒で、そして怖くて、強烈だった。
◆今回、当時の撮影者である進行役の丸山純さんはそのビデオを短くまとめて会場に流してくれた。それから風間さんが登場した。風間さんは杖をついていた。私は自分で意外に思うほどショックだった。怪我をするとはそういうことなのだ。元通りにはならない可能性。風間さんは杖をついて前に出て「あのビデオのときより太ってしまった。趣味の山登りや渓流釣りに行けなくなりましたから」と話し始めた。1年ほどの入院生活を振り返って「軽い欝だったと思う。精神的に弱っていて、すぐに泣けた」。そして「病気をしないと健康のありがたみは分からない、1回ダウンして思い知ったからこそ言えることがある」ときっぱり言った。
◆風間さんは、バイクに乗る冒険家だ。1982年には賀曽利さんとパリ・ダカに日本人初出場(バイクでは)。大怪我で途中リタイアした賀曽利さんの分も踏ん張り、総合18位という快挙を成し遂げる。1985年エベレストに挑み、バイクで高度6000メートル到達という世界記録を樹立。1987年にはバイクによる史上初の北極点到達に成功する。その一方、体験を通して自然と調和する地域と人を実現しようと、仲間と共に、1988年から自然塾『地球元気村』を主宰し、村長を務める。風間さんいわく「かつては頂点主義だった」とか。バイクを押してでもガンガン進む、そういう乗り方だった。
◆22年ぶりのパリ・ダカで風間さんはアフリカステージのスタート地点に行く時に、大型トラックと衝突した。足が滅茶苦茶になった。モロッコの病院で縫合し、パリの病院にヘリコプターで運ばれた。パリの医者は素晴らしかったが、入院費は1日15万円!主治医に「日本の医療はすごいんだ」と力説して、早く帰国することにした。ところが帰国するには、完全に寝た姿勢で移動することが最低条件。つまりは医療搬送だ。さあこれにはエールフランスで500万円かかる。風間さんは「貧乏人は辛い。帰るに帰れない、いるにいられない、健康じゃないから逃げることも出来ない」と苦笑い。泣く泣く500万払って帰国した。
◆しかし最初の病院では治療が難航し、膝の皿を失った。日本の医療に対する不信感が強まった。新たな病院を探し、現在の主治医である松下隆医師と出会う。10か月苦しんだ足の向きが1週間で治ってしまった。「もし最初から松下医師にかかっていれば、今頃は走っていたかもしれないよ」とは切ないセリフだ。風間さんは、病院や医師による医療の格差に驚き、松下医師も格差があることを認める。「骨接ぎ、二の次」という言葉が残るように、特に日本の整形外科(外傷治療)の医療としての取り組みは、欧米に比べ遅れているのだ。松下医師は、運動器(骨や関節など)と外傷治療の大切さを身をもって知る風間さんに、このことを多くの人に伝えて欲しいと願う。
◆こうして風間さんは運動器の障害や病気に苦しむ人たちを解放したいというWHOの「運動器の10年」キャンペーンに賛同。世界の人々に運動器の大切さをアピールしようと、ロシアのウラジオストクからポルトガルのロカ岬までの18000キロをスクーターで走破することに。松下医師はこのキャンペーンの日本委員会の委員長だったのだ。なんて幸運な出会い。風間さんによると「松下先生の子分」となるらしい竹中医師もイルクーツクで合流し、スクーター旅仲間となる。
◆賀曽利さんがするような長旅を「ちょっと羨ましく思う気持ちもあった」と風間さん。キャンペーンのために各地の病院等に立ち寄りながらの52日間である。主たる目的地として3つ挙げられた。1つ目はイリザロフ法の中心地800床を有するロシアのイリザロフ・センター、2つ目は外傷センターが最も発達しているというドイツ。ドイツと日本の交通事故死亡率の差はかなり大きいとのこと。そして3つ目は事故直後にフランスで入院していた病院だ。
◆ここで旅の様子をまとめたビデオが流される。タイヤも含め何も改造していない大型スクーターで、東京−京都間の距離を毎日走り続けた。バランスを崩しても、地面をけって支えることは出来ないのだ。泥だらけのダートを進む風間さんの姿に、会場から思わず声があがる。だが転ばない。さすがに風間さんだ。シベリア横断道路が出来たというのでこの道を選んだのに、アスファルトではなく凸凹の悪路だったそうだ。イリザロフ・センターでは、合唱と花束で大歓迎されていた。患者さんは皆、風間さんと同じ銀輪をつけて、治療やリハビリに励んでいる。風間さんは「仲間」に会って、また笑顔になった。
◆続いて写真を見る。広い景色だ。世界を知っているような気がしたが、空も大陸もでかいなあ。道の振動、風をきるのを体で感じて進むのはいいなあ。たかだか太陽が沈むだけ、雲が流れるだけで素晴らしくて、旅するのが嬉しいよ。風間さんの話が写真にのる。草原に木が一本、泥だらけの道を行くバイク。もしかしなくても、地平線に関わる皆さんなら、こういう気持ちが分かるかも?日常でもきれいな景色に出会うことはあるけれど、旅先で見るあの太陽の、あの雲の、あの何とかのトキメキ。別物だ。あー、いいもの見た! という心が躍るような感じが、この旅で風間さんの中に生まれたと知って嬉しかった。
◆風間さんは自然についてさらに熱く語る。白樺の木がずっと続くこと、寒い土地なのに赤松まであったこと。鳥も動物もあんまりいなくて、草原が広がっていること。これは、毛皮やマントにするために全部獲っちゃったんじゃないか、というのが風間さんの説だ。ただ、草原になっているのは、徹底的に木を切って、シベリア鉄道の枕木にしたからだそうだ。それをしたのは残留日本軍だったと後で聞かされたという。
◆ホテルの前で拳銃を持った3人組に遭い、その日の宿がなくなったとき、偶然出会った牧場主の家に泊めてもらったり、バイカル湖畔では、年代物のバイクに乗った家族と出会ったり。写真の中の風間さんはいつもガハハと笑っている。声まで聞こえてきそうだ。あちこちで励まされ、キャンペーンのバッジを配り、西へ向かう。
◆休憩の後はイルクーツクから風間さんと共にスクーターに乗った竹中信之医師がマイクを握る。キャンペーンCMに続き、写真を見せながらお話。なんと15年間バイクに乗っていなかったのに、モトクロスレースのような道を、いきなり長距離駆け抜けたとは。大型トラックとすれ違う写真など、見ているほうが恐ろしい。交通事故が多発し、多くの検問が迎える道のりを竹中医師は行く。そして同行者として風間さんの姿を紹介。ロシア語が話せないのに、ロシア人のバイクレーサーと楽しげに話し合っている? 風間さんの写真や、ドイツにあるきれいでゆったりした病室に「こんなところに入院したい」と言った風間さんのエピソードには、会場から笑い声が起こった。
◆横断隊は2000m級の山越えをしながら、さらに西へ。フランスでの主治医は完治とは言いがたい風間さんの足の状態を見て、寂しそうな顔をしたという。お互いにとって切ない瞬間だったろうと思う。52日間の旅の最終地点は、ポルトガルのロカ岬。「ここに陸尽き、海はじまる」の石碑で有名な場所だ。VIP用の白バイに先導され、日本大使や日本人会の子どもたちに称えられる中、ゴール。「私にとっては大冒険でしたが、風間さんにとってはロングランだったのでは」と総括された。この後、風間さんから、竹中医師は昔オフロードのライダーでかなりの腕前だったこと、今回の旅でも「俺より上手いんじゃないか」と思ったことが披露された。
◆竹中医師は風間さんに施されたイリザロフ法についても丁寧な説明をされた。あの銀輪を使った治療法のことだ。これまでは、感染などにより骨の中で炎症が起きたとき、それが体中に広まらないように、足や手を切断した。しかしイリザロフ法では、足や手ではなく、骨の中の炎症が起きている一部分を切り取り、その空白になった箇所に新たな骨が伸びてくるまで、銀輪とワイヤーでやぐらを組んで周囲の骨を固定する。骨は1日に1ミリ伸びるから、待っていれば、いずれはくっつくという思いもよらない治療法だ。
◆竹中医師は「医師のゴールと、患者さんのゴールのイメージが違うと患者さんは悲しみを覚える」と語る。これは真理だろう。医師は、このレベルまで治れば成功と思うかもしれないが、患者にとっては元通りになることだけが成功だ。治療当初から「ゴールは何か」について、両者の意識のすり合わせをすることが、重要になるだろう。さらに、竹中医師は外傷における初期治療の大切さを説明し、日本にも大怪我に対応する外傷センターが必要だと力説された。早く日本のイリザロフ・センターが出来るといい。
◆来年以降も、風間さんの旅は続くようだ。アフリカ、オーストラリア、北南米からスカンジナビア半島を抜けてジュネーブへなど2010年まで毎年、走りながらの「運動器の10年」キャンペーンである。会場は驚きながらも、盛大な拍手につつまれた。この後、河田真智子さんから「娘の夏帆からです」という一言を添えて花束が贈られた。脳障害をもつ夏帆ちゃんは、お母さんと多くの人の愛情を受けて、この7月に20歳を迎えられたという。おめでとうございます。花束を手に、風間さんも嬉しそうに、河田さん親子の話を語ってくれた。
◆いい男と別れたり、色んな試験に落ちたりすると、私はもうダメよ気分で一杯になり、大変苦しい。苦しくてその時はそれしか考えられない。ぐちゃぐちゃともがき苦しんで、自分でも、もういい加減にしとけ、となる時期が来て立ち直る、を繰り返してきた気がする。風間さんのお話を身近なもののように聞けたのは、苦しみの程度は違えども、理解可能な心の話だったからだろうか。オートバイ冒険家の話は、心身ともに傷ついた人の話だったと思う。しかし笑顔の風間さんは、強者である。「怪我すると、心も傷つくんだよ」と語る人は優しくて強い。道が険しくとも、立ち上がり、前へ進む。これからも、ずっとずっと良い旅を!(後田聡子)
「地平線会議」ーこれで何度目になるのか忘れたが、この夏に行って来た「ユーラシア大陸18000kmバイク横断」の報告会に出かけた。場所は新宿のスポーツセンター、雨の降る金曜日。会場となった二階の大会議室には僕の予想よりもずっと多くの、多分有に100名を越える「旅」の愛好家たちが集まった。このような旅好きの人たちを前にして、旅の報告をするというのは簡単なようでいてなかなか難しいものがある。
◆旅が一体どのようなものだったのか?は多くの人から興味の持たれるところだが「こんな旅でした」と言ったところでその価値観は人それぞれであるから恐ろしい、また手前味噌であってもまずい…、と色々な気を使うのだが、大切なのは「自分がどれくらい楽しく&没頭できる旅だったか?」を報告すればみんなはきっと喜んでくれるだろう。
◆そんな思いからはじまった報告会、動く映像と写真で美しいシベリアの自然や、竹中先生にも加勢してもらってロシアとドイツとフランスなどの高度な外傷医療に取り組むあちらの病院の様子、そして知られざるウクライナの美人の話し? で、最後はロカ岬の18000kmを走りきったゴールの感動的瞬間について報告させていただいた。恐れていた旅人達の反応は、意外にもこの会議に医師の登場は珍しかったらしく竹中医師の話には皆強い関心を寄せて聞き入っていてくれたし、僕のただのシベリアの上空を流れていた雲を見て思った「デッカい空と大地」の一言(ただ唸っただけ)にガッツン!と手応えの有る強い反応を感じたのだったが、う〜ん流石にここに集まった人たち、相当の『旅オタク』と見た。
◆そして、最後の最後を締める江本地平線会議代表、「出来れば買うように!」と云って薦めてくれた僕の持って行った本は全部売れるし、なんだかこの集団、江本学長率いる「旅の大学院」のようにも見えるのだった。二次会の中華、目茶旨かったです。ごちそうさまでした。(風間深志拝)
今、大自然のシベリアから大航海時代の香り残るポルトガルのロカ岬まで到達しユーラシア大陸横断は終わった。僕にとっては、15年間のブランクのあるバイクにまたがったユーラシア大陸横断は大冒険だ。1日400〜600キロを走行し続けた。シベリアでは100キロ近くも悪路が続くこともあった。過酷な走行の末にたどり着いた見知らぬ町、その町に到着してから宿を探すことが大変だった。
◆やっと宿にたどり着いてもお湯ばかりか水も出なかったこともあった。ぬかるみの悪路をのたうつように穴をさけて走るトレーラーをすり抜けながら我ながらよく走ったと思う。僕は、いつも何事もその気さえあれば何とかなると信じている。いつもボスの松下隆教授から「できないと言うな!」と鍛えられたおかげで、何事にも挑戦的にやることが日常となっている。
◆そして何事へも手を抜かない性格のおかげで今回の旅の困難を乗り越えることができた。今回の旅では実に様々な人と出会い、様々な国や地方を通過してここまでやってきた。最も素敵で危険な乗り物「バイク」に乗ってここまでやってきた。旅の途中のある朝、バイクにまたがるとマジェスティが馬に思えてきた。その後その感覚は日増しに強くなった。正直に言うと学生時代は、仲間と一緒にエンデューロレースに真剣に取り組んでいたのに、医者になって毎日のように入院してくる多くのバイク事故の患者を診て、何となく危険だと思いバイクには乗らなくなった。
◆そんなバイクと15年ぶりの再会。新たなバイク人生は、エンデューロ野郎にはあこがれの風間深志隊長を師匠に迎えて再スタートした。やっぱり風間師匠との15年ぶりのロングツーリングは、毎日どの瞬間も発見で、素晴らしく、楽しく、そして深かった。バイクに乗っているとエンジンの音、アクセルのレスポンス、ブレーキの手応え、ハンドルへの路面情報、すべてがダイレクトで自然にビンビンと伝わってきた。たとえば、走っていて急に外気がひんやりしたら必ず雨が降った。道路に迷って困ってる様子も言葉なしに外国のバイク仲間に直接伝わった。自然と人間と機械のインターフェースが絶妙のバランスで調和したのがバイクだ。もちろん安全に走行することに越したことはない。
◆でも万が一、事故を起こしたら、とかく日本では、怪我したやつが悪いになりがち。でも、そうかもしれないけれど大怪我したらあの病院にいけば、一番いいよっと患者に言ってもらえる外傷専門病院が日本にも一つほしいですね。(竹中信之)
「那覇のただいまの気温は30度でございます」。10月25日、仙台から沖縄に向かう飛行機の機内に流れるアナウンスにはいつものことながら驚かされる。山形の月山では初雪が降り、朝晩はストーブが必要だというのにさすがに亜熱帯の島とは天と地ほどの差がある。今年も慶良間諸島の座間味島で魚やタコをとってサバイバル生活をするのが目的だが、私が沖縄の島々に通うようになったのは、8年ほど前「超割」という破格の安い航空券の存在を知ったからだ。通常は仙台から沖縄は46000円ほどが1万円というのだからこれは行かない手はない。しかも遠ければ遠いほどもうけた気分になるのは貧乏性のなせるわざか。それまでも夏になるとキャンプ道具とヤスを持って日本海や房総半島、伊豆半島の海に潜っていたが、沖縄とりわけ座間味、渡嘉敷、阿嘉島等慶良間の海に潜るようになってからは一瞬にしてその虜になった。
◆まぶしいほど青い海の中には様々な形のサンゴ礁が広がり、赤や青、黄色の鮮やかな色の魚たちが群れをなして泳いでいた。私は少年のように夢中になって魚たちを追いかけ、ハタやベラ、チョウチョウウオ、ハギ等の小魚から大きなタコやアオブダイまで様々な種類の魚をヤスでねらい捕まえるようになった。しかし泳いでいる魚をヤスで簡単に捕まえられるわけではない。ヤスが届きそうな距離まで近づくと、魚たちも危険を感じてすばやく身をひるがえして逃げ去るのだ。だからヤスで捕まえることのできる魚は、警戒心が少なくゆっくり泳ぐハナミノカサゴやフグの仲間、サンゴ礁に住みついているハタやベラ等の小魚が中心となる。
◆そして数年前、やはり座間味で魚を追いかけていた私を近くの岩場の上から見ていた陽に焼けた島の娘が「ヤスよりも見釣りで釣ったほうがとれますよ」と声をかけてくれた。このときシュノーケルで泳ぎながら手から針と糸を垂らしソーセージを餌に、まさに魚を見ながら釣る方法があるのを初めて知った。そのおかげで沖縄の高級魚のハマフエフキ(52センチ)の大物なども釣ることができたのだが、大きい魚がかかったときの直接手に伝わる衝撃は激しく、すごい力とスピードで縦横に暴れまわる相手とまるで格闘でもしている気分になる。沖縄の海は、それまで山の世界しか知らなかった私を新しい世界へと導いてくれた。
◆さて、今回の島での生活はまる1週間。米もラーメンも持たず、ビスケットや果物等の嗜好品と調味料だけのシンプルな生活。海岸近くの林の中にテントを張り、毎日海に潜ってヤスや見釣りで魚を追いかけた。以前は小さい魚を手当たりしだい捕まえていたが、最近はおいしい魚だけを選んでとる余裕もでてきた。ハナアイゴ、イシミーバイ、ハリセンボン等刺身にしても塩焼きにしてもとてもうまい魚だが、ハマチに似た体形をしたハナアイゴは背ビレ胸ビレに強烈な毒の棘を持っている。そのため針にかかるとその猛毒の背ビレをビンビンに立てて暴れまわり、こちらはいつもビクビクの闘いが続く。島のおばあからも「刺されるとひどいことになるよ」と注意されていたのにうかつにも針からはずす時やさばく時に指を刺され、腕全体にズギンズギンはくる激しい痛みは何時間も続いたりした。
◆島での2日目、見釣りをしていた私の近くにクロダイに似た魚が泳いでいるのに気がついた。今まで何度もこの海に潜っているが初めて見る魚だ。慎重にその魚の前に餌を垂らそうとするが、チョウチョウウオやスズメダイの小魚に先に餌をとられてしまう。その魚も警戒心が強いのか餌のまわりを泳ぐだけでなかなか食いつこうとしない。何度もその繰り返しだったがついに食いついた。
◆その瞬間強い引きが手に伝わり、右に左に激しく暴れまわる。私は腕を竿のようにしならせながら、糸を切られないようにハラハラした気持で泳ぎまわる。しばらくの間海中で暴れまわっていたが、ようやく疲れたのかついにおとなしくなったところで、そのまま100m離れた浜まで泳いでいってバレないように慎重に引き上げた。それは32センチ位のイスズミという魚だった。その日の夕方初めて食べたイスズミの刺身は期待にたがわず身がしまり、タイに近いような味でとてもおいしかった。その後もイスズミは2度針にかかったが、1度は浜に上げる寸前で逃げられ、2度目は35センチほどある大きいヤツで糸を切られてしまい、イスズミとの闘いは1勝2敗に終わった。沖縄の海には、何度きても私のまだ知らない生き物との驚きと興奮の出会いがある。
◆島で過ごす最後の日の夕暮れ、魚だけの夕食を終え、誰もいない白いサンゴの浜で裸で寝そべる私に、慶良間の海を渡ってきた潮風がやさしく吹きつける。それは泳いだ後の汗ばんだ肌にたとえようもないほど心地よく、いつまでもこの風に吹かれていたいと痛切に願った。沖縄の島々への狩りの旅は当分終わりそうもない。(松原英俊)
多胡です。前年に引き続き「紅葉列島空の旅」無事に飛び切りました。空撮地は尾瀬国立公園、上高地国立公園、日光国立公園、そして最後は箱根国立公園。今回の旅は標高1000mから2000mという山岳地帯を彩る紅葉空間を目指して飛びました。全ての撮影地を飛び終え、生中継も終えたところで通信用の原稿を書くチャンスをいただきました、一言書きます。
◆率直な感想は4カ所の紅葉は同じく山岳高所に存在するのですが、尾瀬では湿原を彩る草紅葉、上高地では森林限界に根ざす紅葉、奥日光では男性的なバキッとしたコントラストの高い紅葉、そして箱根では淡く穏やかで優しさに心を許せるような紅葉と、その土地土地でここまで紅葉表現が違ってくるのかということ体感し、紅葉美の奥深さと日本の自然が持ち合わせる繊細さに改めて感じ入りました。
◆皆様はもっと紅葉の話を聞きたいのではと思うのですが、京都を出発してから約60日に渡る紅葉空間を飛ぶ旅が終わり、僕は今、実はマタギ衆に会いたいのです。正直、僕はマタギに関する詳細な知識は持ち合わせていませんが、直感的にそう思ったのです。紅葉をテーマに旅をしましたが、紅葉が存在する空間を眺め続けると、日本の森、日本の自然のことをもっと知りたくなったのです。ただ、今の日本の自然がおかれている現状を知るには、職業として森に関わっているというレベルの話ではなく、生きていくために森と関わっている人の話を聞くことが必要なんじゃないか、そんな気持ちが大きくなったのです。
◆人が森と関わりを持ち、お互いがバランスのとれた状況、人が森に生かされている、もしくは人が森と生きて行くことのできる状況とはこんなものだという物差しを知った上でないと、今、巷にあふれる自然保護活動や環境異変などにどうして本気で実行可能な自分の態度を示せるだろうか、というのが今回の撮影でズッシリと感じたことです。そのようなことをひもとき始めると、僕の気持ちの中で、現在もっとも森に近い人はマタギではないのかと勝手に想定し、一日でも行動をご一緒できたらと思うのです。
◆今回の空撮ではプロ用ハイビジョンカメラを初めて投入しました。それは、二度と飛べない場所かもしれない、さらに、記録映像として後世に残すならば現存する最高スペックで行うべきじゃないかとの思いからです。そして上空で撮った映像は編集抜きで地元の人と一緒に見ることを全てのロケで行いました。未編集映像を見てもらうことはとても勇気のいることです。でも編集してしまったら格好つけ映像になってしまい、自分目線による空間しか紹介していないとの思いで未編集にこだわりました。結果、意外なところに(映像としてはカットされる部分に)多くの発見がありました。そのなかのエピソードを一つ。
◆尾瀬、奥日光にはシカが増殖しています。そのシカが湿原の草木を食べないように実は一帯はネットが張り巡らされてます。それでも上空から見たら意外にもシカが気持ち良さそうに湿原を闊歩してます。ありのままの自然とはこういうことじゃないかとじっくりとその様子を空より僕は眺めました。シカがこのように今までとは違った場所に繁殖しだしたのは温暖化の影響もあると聞きますが、人が森で生きて行けなくなるように仕組まれた3つの法律のせいだと聞いています。政府が取ったマタギや鷹匠を代表とする森に生きる人々の活動を排除した方針が、森のバランスを崩し、現在の状況に陥っていると。
◆そのことをどれだけの人が知っているだろうか。ここの話はきっと“鷹匠 松原英俊氏”の報告にもつながる部分の話かもしれません。この問題をつき始めると到底私程度の知識では手に負えることではなくなり、また僕自身の意見を求められたとき、データに基づいた説明をすることは今の所不可能です。だったら、こんな話を展開するなという話にもなりかねませんが、ただ僕は、人が見ることの出来ない視点から、感じたこと、起こっていることをしっかりと目玉開いて感じ取り、それはなんなんだということを自分自身のなかで納得させていきたいのです。
◆大地で起きていることを知り、その理解を上空にて空間サイズで深める。空間で大地を把握し、その理解を地上で掘り下げる。主なる活動は写真と映像ですが、映像美のみを探求するではなく、現実を撮らえたい。その部分の表現をどこまで追いこむことが出来るか。残念ながら、このことはテーマが異なり当番組では追い込めてません。今は自分の活動を先につなげる為のステップであるとし、そのステップの中で自身の目線が研ぎ澄まされている、そんな気もしています。いずれにしても課題は課題です。
◆最後になりましたが、番組案内です。多胡主演番組「天空の旅人 紅葉列島空の旅 第二章」(仮)11月23日、午前8時35分からの1時間。NHK総合(今回は全国区です)。 2007年の関東甲信越の紅葉を空からご覧になっていただけたら幸いです。(11月11日 AirPhotographer 多胡光純 やっとお家へ帰れるぜい!イェイ!)
帰国したら6冊の『地平線通信』が届いていた。「あ〜6ヵ月たったんだ」と時の流れを実感した。今回の「復活旅3」は5月にチベット入りし、雲南省からラオス、タイへと約5000kmの自転車旅。先日奈良の半自給自足の生活に戻ったが、山岳民族のような暮らしぶりにまだ旅の気分が抜けていない(笑)。
◆「今回はどうだった?」会う人会う人に旅の様子をきかれ、「うん、険しかったけど深い旅だった。しんどかった」と正直に答える。さすがに、標高5200mチョモランマベースキャンプ(以下BC)までの道のりは過酷だったし、逆風に押いやられ「チョモランマの女神に呼ばれてないんじゃないか?」と気落ちもした。それほど厳しかった!しかし幸せな出会いもあった。BCの手前の登り、ものすごい向かい風を自転車押して歩いていた時、突然車が止まったのだ。「辰野さん(=モンベル社長)とシーナ(=ご主人の椎名誠さん)から聞いてました!がんばって!」なんと渡辺一枝さんだった。嬉しかった。元気が出た。
◆4WDで2日かかる650kmの道のりを自転車で半月。厳しくも美しい世界最高峰チョモランマをこの眼で見ることができその瞬間、いままでの苦しみが消えたほど。神々しい!神秘的!というのはこういうことをいうのかもしれないとただただ圧倒された。ラサに戻ってつぎは雲南省の香格里拉(シャングリラ)という町をめざした。また、そこまでの1700kmがハードで「こりゃ地獄に続いてるのでは?」と泣きそうになった。
◆どんな道だったのかというと下りが連続(!)で30km、上りも連続で40km(!)、そんな感じ。標高も4000mから5000m級でそんな峠を10数個(も)越え、空気の薄さには慣れるどころか気が狂いそうになった(笑)。集落もあまりない。つまり食料もそう簡単には手にはいらず荷物を満載。右も左も断崖絶壁で眼下が300mも下にあるところもあり、高所恐怖症でない私とて足がガクガク。おまけに(!)今年は雨期が長く、落石がはげしく、その石をさけて走るのはなんともゲーム感覚だった(といまなら笑える)。
◆「前に進むしか助からないんじゃないか?」というところまで追いつめられたが5週間ふんばり、でもその分自然のすばらしさに感動。18年の世界一周の中でも5つの指に入るハードなルートだったが来れてよかった。チベット旅に関しては事前に安東浩正さんにアドバイスをもらってはいたけど、想像を絶した現実に彼はいつもニタニタやさしく笑っているがこれを真冬に行っちゃうんだからやっぱりモンスター? あらためて尊敬した。
◆そのあとは雲南省からラオス、タイ、標高2000〜3000mの山岳部では民家も点在し食料も手にはいり、そこでは民族の人たちとの交流を楽しんだ。チベットのあとは楽勝に感じる!?
◆そんなチベット旅の前半が先月8日、『NEWS23』の特集で全国に放送された。(私たちはタイにいた)。帰国後、友人が待ってました!とばかりに電話をくれ、「見たぞテレビ!頑張ったな!でもギャラもらって旅してるなんてうらやましいぞ!」といわれガクッ。「出演料は一円も出ていません。(有名な)亀田兄弟じゃあるまいしー」と笑って答えたら、「うそ!?(とかなり驚いた様子で)でもテレビ見た人たちはみんな君らがお金たんまりもらって旅してると思ってるよ!」と。「そうなんだ……(ちょっとショックかも)」。言葉がなくなった。
◆メディア関係の仕事をしている友人は興味津々に質問を続ける。「ずっと取材班がついてきてたの?」。「ううん、半月ぐらい。取材班といっても日本から来るのはディレクターさん一人だけだよ。現地で現地の人を雇って取材班を組むから」。ディレクター氏と私たちの間に「伝えたい」という気持ちと信頼関係が成り立っていなかったらこのドキュメンタリーはできていなかった。そしてなぜ取材に協力してるかを友人に話すことになってしまった。
◆幼いころ父が一家心中を図ったこと。暴力から逃れるため母が幼い私たちを連れ大阪に逃げてきたこと。転校をくり返し、関西弁がしゃべられないからというだけでいじめられ、「東京弁しゃべんな!腐る!」の一言で本当にしゃべらない子になってしまったこと。(笑)思春期にはちょっとグレた。「君ほど悲惨ではなかったけどボクも苦労をしたよ」とスティーブがあっけらかんとして笑う。傷ついてきた分、誰かにやさしくしてあげたいから。だから強くなりたい。苦労した分、誰かと笑いあいたいから。誰かに救われたように、私たちも誰かを救いたい。夢や希望をもってくれたなら、人生のエッセンスになれば、転機になればそれがうれしい。みんなにお役目があるとしたらそれが私たちのお役目であり、せめてできる恩返しだから。
◆もらった電話で友人と久しぶりに2時間もしゃべってしまった。「常識」って、イコール「その人の経験」だから、わかってくれたらいいけれどな。とにかく、このチベット旅で感じたことは、「今回の人生は短い!一心に生きよう!」。スティーブはチベット高原を走りながらこんなことを考えていたらしい。「未来はドリーム、今はリアリティー、過去はメモリー。一瞬一瞬、この風のようにいいメモリーをつくっていこう!」(シール・エミコ)
「モンゴルでビジネスすることも立派な冒険」とは冒険家・安東浩正君の言葉。モンゴルで起業5周年にして、強く実感。冒険だからこそ、危機は乗り切らなくちゃ。社会主義崩壊から15年以上たっても、モンゴル国の政治経済は混迷中、試行錯誤の段階。二転三転複雑な制度に音をあげて、お役所仕事をモンゴル人に任せていた私はドツボにはまりました。
◆預金通帳の利息を記帳するというから預けたら、そのまま通帳を取り上げられて預金凍結。会社の車も鍵を持っていかれて使えず、さらに、領収書の支出分は廃棄され、収入分は実際の4倍以上に偽造と巧妙に財務の書類をいじくられ、国税局や警察に訴えられたくなくば、一等地にある会社名義の不動産とお前名義の預金をよこせ、とモンゴル側共同経営者たちに恐喝されて、青天の霹靂の大ピンチなのです。
◆モンゴルでは外国人がモンゴル人相手の訴訟で勝つ事は皆無に等しく、泣き寝入りかモンゴルから撤退するらしい。その通説がホントかどうか、人生賭けて検証するため、弁護士を雇ってただいま係争中。彼らは2年ほど前から私を陥れる準備を始めていたみたいで、まさか、弁護士雇って、真っ向から闘いを挑んでくるとは思っていなかったみたい。彼らの行為は恐喝に詐欺。これらはモンゴルでだって決して軽い罪ではありません。お金も時間もかかるとはいえ、モンゴル人弁護士をたてたことで、光が見えてきました。
◆今、私はモンゴルに試されているのです。信頼していたモンゴル人の計画的な企みが露見した当初は、精神も肉体もショックでボロボロのズタズタ。もうモンゴルに見切りをつけて、日本でやり直そう、と思い詰めた私をモンゴルに引き止めてくれたのは愛犬の存在です。私にどんな事情があるにせよ、モンゴルをあきらめたら、彼との別れが必然なのです。4年前には1万円足らずだったシェパードの子犬が、今や最低でも4万円。訓練済みの成犬だと、5万円以上。誘拐事件も多発し、シェパードの相場が上がるご時世です。
◆気立てのいい犬だから、引き取り先はいくらでもあります。4年前、「シェパードはかっこいい」という理由だけで、「性格が獰猛で臆病、落ち着きがない、噛みグセがある」警察犬不適格の子犬をタダ同然で買ったのが私の共同経営者。飼育期間3か月で面倒見切れなくなった彼に「番犬をあげるよ」と押し付けられたのが私。人でも物でも噛みつく、ヒステリックに吠えたてる、「地獄耳」という意味のモンゴル語「ソートン」という名の耳デカ性ワル犬。それでも1週間、いつも一緒にいて、彼に話しかけているうちに家族の絆が生まれました。初めて飼うことになった犬。しつけの仕方も自己流。ソートン無しの暮らしは考えられないくらいに馴染んだ頃には、子犬の頃の彼を知る人が仰天するくらいの名犬に成長してました。愛は駄犬を救うのです。
◆さて、上記事情で会社活動ストップを余儀なくされた今年の夏、私は子作りに挑戦。私ではなく、ソートンの、ですよ。いつかはソートンと死別する日がくる。ソートンの子供を残したいなぁと思っていたら、メスのシェパードを飼っている日本人女性がお隣の新築アパートに引っ越してきました。一緒に散歩しているうちに、「この子たち、相性いいね。」と飼い主同士も意気投合。愛犬の「幸せ家族計画」スタートです。メスシェパードのジェリーは生後9か月のやんちゃ娘。気が強く、すばしこくて、我がまま。ソートンは完全に恐妻犬に。精神的なショックで自宅療養中だった私が、2頭の世話をすることになりました。
◆犬の発情期って凄まじい!メスの発情期=生理中なので、アパートの床、血だらけ。ソートンの興奮状態もあんた、誰?って感じ。そのくせ、ちっとも命中しない。ちがーう!そこじゃなーい!!モンゴル人の友達が「だらしないなぁ。手伝ってやるよ」と介添え。ソートン、人間の手で暴発。「やられたー」と犬も人間もびちょびちょ。「モンゴル犬なら今頃、4匹ははらませている」などと罵られ、ソートンいじける。連日「ケダモノのごとく」がんばっているうちに偶然、うまく合体できた時は、2頭ともキョトンとしてました!そのまま20分くらい合体。終わってから2頭ともぽわーっ。
◆9月23日に母子ともに健康で2匹生まれたのですが、そのうち1匹は発育悪く死亡。残った子犬を私が引き取る約束が、ジェリーの飼い主が、日本に帰国することになり、愛犬をモンゴル人にはまかせたくないからなんとかしてーと頼られちゃった。いきなりシェパードをファミリー飼育することに。私が一時帰国中で、我が家に居候中のモンゴル人が2頭の大型犬が近所迷惑になると困ると心配するので、家主の私が戻るまでジェリーはひとまず友達に里親を頼みました。来年からは、賑やかになるなぁ。
◆犬のためにモンゴル暮らしは本末転倒だけど、「また戻ってくるから」と言うまで、旅支度のカバンにしがみついて離さないソートンを私は裏切れない。健全かつ対等にモンゴル人とのビジネス紛争を解決できる前例となれるよう、扶養犬家族とともに、私、まだまだがんばります。(山本千夏)
(早く戻ってやって!千夏さん、それにしても9か月で?=E)
11月最初の連休、雨日に挟まれた晴天に恵まれてプチ遠出をした。勝沼ヌーボー飲み放題試飲会付き紅葉の西沢渓谷歩きを企画してくれたのはバイクor自転車をやってる蔦谷とも子さんと情報誌記者二年目の新垣亜美さん。トレッキング装備の中高年が断然多い土曜朝の中央線立川駅に、銀マットを背負ってやや浮いた野宿常連6名が集合した。快速、普通を乗り継いで勝沼ブドウ郷駅に着いたのは腹環境が整った昼過ぎ。ピクニック仕様で試飲会を楽しんだ後、街道沿いのスーパーで野宿流ほうとう鍋用食材を調達し、勝沼ぶどう郷駅にてSTB(ステーション・ビバーグ)設営。
◆暗くなって人気の去った駅横公園は、もうこれ以上はないだろう!絶好地。高台にある駅からは遮るもの無く夜景が広がり、美味しい地下水は好きなだけ。そして、なんと暖房便座トイレが完備。シャワーなんか在ったひにゃー5つ星野宿として異論がある者はいないはず。
◆闇鍋にうつったところで自宅の畑から引き抜いてきた新鮮野菜とりんご持参の地元山梨名誉県人、植村直己冒険賞の超ど級ランナー中山嘉太郎さんが参加。地平線最近メンバーに彼の偉業をインタビュー形式で引き出しているとーーなんと!「あの時の!!」っと言うのは、冊子「野宿野郎5号」の表紙を飾り、最近地平線にも顔を出している世界放浪旅人、通称大将こと、丸山寛君。
◆二人は、中山さんがシルクロードを走破した、トータル約200日、9400キロの最終地点イスタンブールにゴールしたその安宿で会っていたという。着の身着のままの中山さんに旅仲間置き土産のあたたかいジャケットの権利を譲ったのがこの丸山君だという。驚く仲間を尻目に結構冷静な当事者二人。劇的再会にしては、あまりにも色気が無かったからかも知れません……帰宅した中山さん以外は、翌日始発起きにて西沢渓谷に直行、これまた日本の秋を堪能した一日でした。(藤原和枝)
(あの滝野沢優子さんが居合わせた安宿に大将さんもいたのかあ!それが野宿で再会とはすごい!!、と思うが、淡々としていた、というのもわかりますね、二人のキャラでは。=E)
ようやく日本語を打てるところに来ました。今、私はバンダバーグって街にいます。キャンプサイトでテント生活です。農場には中古で買った自転車で50分かけて通っています。最近雨が多くて、私のテントは洪水です。いきなりやって来たのでやっぱり思うようには行かず、結局日本で働くのと同じ位かもしれません。とりあえず、韓国人たちと楽しくやってます。
◆それでも頑張れば日給1万円以上はいきます。ダメな日は6千円程度……。韓国人はみんなやさしくて(特に男性)、助けられています。実は、このトマトピッキングの仕事を始めるにあたって、紹介してくれた人がくれた電話番号が、私が欲しかった番号ではなく、なんだか分からないうちに間違って韓国人の仲間に混じってしまったのです。
◆ここでの最初の仕事は、マシーンでのトマトのピッキングで、チームワークでやるものなので韓国語の通じない私にはしんどかったです。私以外はみんな韓国人なんですから。で、7日で首になりました(笑)。その次の日から、普通にバケツでのピッキングを始めています。大雨が降ってきましたが、自転車でこれから帰ります。とほほ。また連絡します!!(11月7日 本多有香)
(再来年のユーコン・クエスト再挑戦目指してわざわざ南の国へ出かけて資金稼ぎ中。目下トマトの収穫の仕事をしつつテント暮らしの日々のようだが、あくまで自力で好きな犬ぞりをやろうとする姿勢はさすが!=E)
江本様 ご無沙汰しております。ヒマラヤ遠征で「チョ・オユー」(標高8201メートル)に2007年10月4日午前9時10分、登頂成功しました。ろう者としては世界で初めての8000メートル峰登頂と思います。今回は、チョモランマ(エベレスト)に行く前に、8000mの峰に経験する目的での登山です。チョ・オユーは8,000m峰の中では、比較的登りやすく、また危険度の低い山。アドベンチャーガイズの公募登山隊(大蔵喜福隊長)に参加しました。
◆ネパールのカトマンズからチベットのラサまでは飛行機で、それから、ラサからチョ・オユーへは陸路を行きます。高度順化は順調でしたが、9月なってもモンスーン期が終わらず、しばらくは悪天候に。登山調整日があと5日しかなくなり、心細くなりましたが、10/1から運が良く5日間好天が続き、登頂する事が出来ました。内心無酸素登頂を目指したのですが、初めて8000m峰なので、隊長から酸素使用した方がいいと言われて、やむを得ず7200mから酸素を使用しました。そのおかげかC3からの約4時間、予想以上に楽々と短時間で頂上に達する事が出来ました。晴れて、しかし、強風なので、寒かったけど、エベレストやローツェが見えて、感動しました。
◆シェルパは無酸素で登っていますが、約10歩登った後、しばらく休憩しなければならない。当方は歩くより待つの方が多いと感じました。一緒に登ったサーダーのプルバ・チリ・シェルパは、8,000mの峰に10回ぐらい登頂している。凄いなあと思いました。
◆ろう者として多分初めての登頂成功がうれしかった。聴覚障害者のヒマラヤ登山の難しさは勿論あります。その前に、聴覚障害といっても、難聴者、ろう者、ろうあ者、話を喋れるか喋れないか、電話で聞けるか聞けないか等、個人差が大きいことを是非知ってほしいです。私のように生まれた時から耳が聞こえない人と元は健聴者でしたが、病気が原因で聞こえなくなった人等、色んな人がいます。先天性難聴は言葉は耳に入らず、途中から耳が聞こえなくなった人より文章を書くのが苦手な人が多い。又は、学校教育の影響もあります。
◆突然、聞こえなくなった人は、それまに習得した健聴者並みの言葉の能力が残り、話すことが出来ます。このように聴覚障害者といってもハンディの差が大きいのです。運動能力テスト「閉眼片足立ち」をやると、聴覚障害者は「10秒以下」の人が多い。平衡感覚は健聴者より劣るのです。三半規管の問題があると考えられています。だからリッジを歩く時、バランスを取るのが難しくて、とても怖いんです。
◆公募登山隊に参加した時、重要なのは健聴者に対してのコミュニケーションです。まず、口を大きくゆっくり話す。どうしても読み取れない場合は、筆談しましたが、時間がかかる。かといって口話だけでは「タバコ」と「たまご」では口形が似ているので、読み取りの違いが起きる。こうした勘違いやすれ違いが何回もありました。やはり、口話のみの限界があります。
◆ろう者同士は日本手話でコミュニケーションしているので、意志が通じ合います。私の場合は、補聴器を付けてくると会話の音が聞こえますが、「あ」「さ」「は」の発音の区別が出来ない。いろいろなタイプがあって、人によっては小さい時からの厳しい教育によって補聴器を付けて、会話内容を聞く事が出来ます。私は主言語(0歳〜)が日本手話で、日本語は副言語です。だから文章を書くのが苦手ですが、健聴者に対して、筆談する時も意思を通じ合うのが難しい。手話通訳者がいれば、スムーズにコミュニケーションが可能です。
◆山では周りの情報が耳に入ってこないので目で見るしかない。隊員が集まって歓談する時、会話内容が知りたくても分からない。情報が入ってこない場は退屈かストレスでした。また、ろう者は雪崩、落石、風の音等、素早く判断しなければならない時、対応が出来ない。ほかにもいくつか問題があります。登攀中に厳しい環境(雪、強風、寒気など)の中では筆談が出来ないし、酸素マスクをつけると、口話を読む事が出来ません。
◆ベストは手話コミュニケーションです。手話のメリットは、音がない世界(海のダイビング等)でも意志が通じ合えること。さらに身振り、手振りもありますが、それ以外はないんです。登攀中に素早く判断しなければならない時、だから厳しいです。私が夢中で登っている時、向こうから大声をかけられても気がつかない。もし、落石や雪崩が起きたらとても危険です。2人以上でザイルに繋がっていた場合、トップがセカンドに確保の合図をする時、顔が見えないことがあります。だから事前にザイルでの合図方法を相談しなければなりません。トランシーバーで会話することが出来ず、緊急時の連絡やリーダーの指示等、登山活動になくてはならない重要なコミュニケーションができないのです。ろう者同士は携帯メールでやりとりします。もし、ろう者が単独登頂した時でもベースキャンプに連絡出来ません。
◆私は登山ガイドになりたかったけど、色々問題があります。万一、相手が遭難した時、携帯電話等でコミュニケーションしなければなりませんがそれができないのですから。もともと社会的弱者である聴覚障害者は職業選択の範囲が狭く、困っています。会社員は昇進できず、いつも下の方で勤務してる人が多い。音を聞くためには補聴器を付けます。バイク用ヘルメットを被ると、補聴器が耳に当たる為に痛い。又はピーピー音が出て、使い物にならない。それと同じように登山ヘルメットや目出し帽子やジャケットフードを被ると、ピーピー音が出てしまうんです。なので補聴器の電源スイッチをOFFにしています。登る時、呼吸、アイゼン等、音がない世界です。補聴器の性能を引き出すのは、何も被らないのが一番良いです。
◆チョ・オユー頂上で補聴器電源ONスイッチして、初めて音を聞きました。メーカー指定は空気電池使用ですが、5000m以上になると効果がなくなる可能性があるので、酸化銀電池を利用しました。8000mの音の世界には感動しました。あの、ソロクライマーの山野井さんのように挑戦するなら、健聴者より10倍以上配慮しなければならないと思います。
◆世界の登攀記録に詳しいカトマンズ住在のジャーナリスト、エリザベス・ホーリー女史に問い合わせましたが、聴覚障害者に関わるその手の記録は取っていないので分からないそうです。ネパール観光省にも記録そのものがないとのことです。過去、チョモランマには全盲の登頂者がおられますが、その時は介護人が必要でしたね。全盲は目が見えなくても、健聴者とコミュニケーションが出来る。ろう者はそれと逆ですね。見えるけどコミュニケーションできない。ハンディは同じだと思う。ろう者でも、安全を第一に考えながら、健聴者の同行者と共に登るようにする。
◆次回(来年の春)は、ろうあの身で挑戦することの難しさをチョモランマ登頂を目指します。自信を持って頑張りたい。体力向上の為に、登山トレーニングを続行する。でも、確かにお金がかかります。ご協力をお願い致します(田村聡)
ここ数日、家の裏山も急ぎ足で秋の彩りを深めています。今朝は大霜となり、辺り一面真っ白な世界となりました。村中では秋の仕事にせわしなく、寒くなる前に必要な作業に慌ただしい雰囲気が漂っています。自家用味噌の豆を乾かし、畑のハウスを壊したり、庭の雪囲い、収穫したキノコや木の実(クリ、トチ、クルミ)を天日で干したり、あちこちの玄関や庭先には『ムシロ』が広げられています。
◆家のじいちゃん(義父77歳)も山が大好きで、秋の声が聞こえてくると、朝5時前には家を飛び出し、裏山から奥山へ続く獣道を、次から次へとっておきの木を目指して山を駆けめぐっています。今年は猛暑だったせいか?雑キノコと言われる多様なキノコには出会えないものの、毎年のように現れるマイタケやナメコカノシタを見つけ、背負い籠に『てんこ盛り』採ってきています。収穫されたモノは、ばあちゃん(義母72歳)の手によって塩漬けや天日干しになり、来年まで食べられるように大事に保存されます。
◆そんな秋の行いをじっくりと眺めながら、これからの季節へと気持ちを引き締めています。四国生まれの私が、初めて伊南村に出会ったのは14年前。東京のNPOから村の秋イベントにスタッフとして関わり紅葉に目を奪われながら山小屋での数日間を過ごしました。地元の元気な村人たちとの交流は刺激的でもあり、最初の印象は『東北の山間地には元気な人が暮らしてるな』『紅葉が綺麗だな』といった感じでしたが……まさか移住するとは。それから6年後の秋、この地に移り住み、今年は8度目の白い世界を迎えます。
◆昨日、息子と伊南川沿いを散歩しながら、紅葉で赤くなった桜の葉っぱを拾い『10年以上も前、この葉っぱの朱色に感動していたなぁ』と初めてこの村へ来た時のことを思い出していました。そして、目の前にいる息子の顔を眺めていると、不思議と身近な人や自然に対して感謝の気持ちがこみ上げていました。家の人たちは、秋になり黄金色に輝く田んぼを眺めながら、収穫の季節を喜び、同時にやってくる厳しく冷たい冬に対する不安を心に抱いています。私も移住したころには秋の風景に日々感動していました。が、今は村人の抱く秋の寂しさもわかるようになってきたように思います。
◆ちょっぴり重くなった息子を抱きかかえ、裏山の紅葉や、家の前を流れる伊南川、夜空に輝く月を眺めながら、この秋は今までと少し違う感覚で身近な自然を感じています。息子にとっては、初めての雪、冷たい冬です。彼は雪をどんな風に見つめるのでしょう。生まれて初めての感動を私も一緒に味わってみたいと思います。毎年やってくるこの季節、不安だけでなく小さな楽しみも心に抱きながら白い世界を迎えてみたいと思います。(10月末 大霜の朝を迎えた日に 酒井富美)
追伸:実は、友人のお姉様の協力もあって『田吾作』のホームページが出来ました。これまで私が撮りためていた四季折々の風景や、田吾作おすすめの「ばあちゃんの手料理」写真などをアップしています。どうぞ、ご覧になって下さい。ホームページは http://tagosaku-ina.com/index.htmlです。
98年2月に結婚したと同時に『バイクで日本一周』、というか、『各県につき自分で5つのポイントを決め、それが終了したらその県は制覇したとして終了』という、『日本全県制覇の旅』をスタートさせた。そのポイントは、郷土食、温泉、山、峠、岬、一般的な観光地など、自分の独断で決めたもので、何でもOKというものだ。かなり分割して進めていて、約10年近くたった現在でも、九州北部がいくつか残ったままなので、これを一気に終わらせようと、10月30日の午前中に市の胃ガン検診が終わったその足で出発し、1か月のツーリングにやってきた。
◆ダンナとのラブラブツーリングもいいけど、一人でのソロツーリングも、やっぱりやめられない。この先どう進むか、今晩はどこで野宿しようかなどを、すべて自分一人の考えだけで決めていいのだから、そのワクワク感といったら! さて、まずは福岡で残っているポイント『志賀島(しかのしま)』へ。砂州の上に道路が造られ、陸続きになっている島だ。ここでは平成17年にできた温泉に入った。この旅を始めてからこの温泉が254湯目。賀曽利さんの300日で3000湯というペースとは段違いに少なすぎ。でも、越えた峠は現在1680。こちらはひょっとして、賀曽利さんを越えているかな?
◆それから、その日の晩のおかずにと、志賀島名物のアジの天日干しを直売店で買ったら、笑顔の素敵なお姉さんがおまけで小さめのみりん干しのアジを1枚つけてくれた。こういうのって、かなり嬉しい。その翌日は雨だったので、ポイントとは全然関係ない熊本城を見学した。今年で築城400年。ちょうど菊花展が開催されていた。各建物に詰めているおっちゃん達がとっても親切だったのも印象深かった。3階までしか見学できないところを、他の観光客がいない今ならと、私に5階まで上がりな、と言ってくれたり、おにぎりをくれたり…。
◆そして雨の熊本城の翌日の今日はすんごい快晴だったので、福岡のポイントである『平尾台』へ。ここは日本三大カルストのひとつであり、その中にある千仏鍾乳洞は、日本ケイビング協会が日本一だと激賞したそうな。とにかく雲一つない青空で、カルストの景色は最高に素敵! 千仏鍾乳洞は、冷たい水の中に足を浸しながらの見学で、ちょっとしたアドベンチャー気分が楽しめた。ここには他にもいくつか鍾乳洞が見学できたのだが、とある鍾乳洞のおっちゃんが、ちょっとセクハラおやじだったのには参った。
◆「一人? 彼氏はいないの?」と聞かれたので「これでも結婚して、夫がいるんですよ」と答えたのにもかかわらず、「手ぐらい握ってもいいよね」と唐突にきた。何じゃ、このおっちゃんは!と思ったが、そこは笑顔でやんわりとかわした。その後も、そんな類のことをいくつか言われたが、それらも次々とサラリとかわした。まあ、時にはこんなこともありますが、今日のように天気がいい中を走るってだけで、ホント幸せを感じます。ライダーの特権ですね。明日も天気がいいので、福岡のポイントの一つである『英彦山(ひこさん)』へ登ってきます。まだ旅は続きますが、11月30日の賀曽利さんがお話をされる地平線会議までには帰宅しま〜す!(神奈川の節約主婦ライダー 古山里美)
金井 重 様
お元気で傘寿をお迎えになり、おめでとうございます。また、地平線通信を通してのお手紙ありがたく拝見しました。メキシコご出発前の気忙しい時にもかかわらずご丁寧なお言葉恐縮に存じます。
先年地平線会議の皆様が私の米寿と長寿のお祝いをして下さった折り、金井様も同席してくださいましたね。私のつたない体験を聞いてくださったことが世界中を駆けて行動しておられる皆様にとっていささかなりともご参考になり得たとすればありがたいことと存じます。
さて金井様が仰言るとおり私は今年90才になり、年が明けて3月には91才ですが顧みますと老後の生活は極めて平々凡々なものでしたが、金井様の50才以降のご活動(137か国訪問)を知り、唯々驚くばかり、同時に心からの敬意を感じました。年令上体力的にも精神的にも常人のできることではありません。
今回のメキシコ訪問で138か国になりますね。これまでに訪れた国々での会話などどうしていらしたのですか?
私なりに想像させて頂きますと金井様は何か国の「ことば」はお話しになられたことでしょうが、その他の国々の「ことば」は……私は金井様の「まごころ」が相手方に通じたものと信じています。
1939年、私のチベット潜行に際し、多田等観先生が仰言ったことの中で、どこに行っても真心で接しなさい、たとえ「ことば」の通わない未開地域の人々でも「まごころ」は必ず通ずる。と諭されましたが、金井様の場合はまさにこの通り実行されたものと思います。
何卒今後もご健康には十分ご留意され、無理をなさらず、更に米寿、卒寿、白寿、上寿とご精進なさるよう薩摩半島の南の果てからお祈りします。
11月7日 野元 甚蔵
注:多田等観=西本願寺の大谷光瑞によりチベットに派遣された学僧。1913年から10年にわたりセラ大僧院でチベット仏教を修行。ダライ・ラマ13世との親交は有名。
地平線報告会3次会野宿が一周年を向かえた。たった4人で始まった近くの公園での野宿も、毎月10人以上で一度も休むことなく続いている。先月も台風の雨にもかかわらず、15人ほど集まり、もはや野宿は雨にも負けないことが証明された。党では各地のねぶた祭りに参加したり、登山や沢登りや洞窟やランニングや紅葉などなど、ほとんど毎週末のように遊びに出かけているのだな。そこで今月の耳より野宿情報をご紹介。11月16日〜18日に幕張メッセでの「サイクルモード」に、シール・エミコ&スティーブがやってくる予定。野宿党では17日夜に幕張のどこかで野宿し、日曜にサイクリングの予定。★参加希望者は安東まで。。
★もうひとつ12月1日(土)、7月の地平線報告者「アフリカ自転車縦断娘」山崎美緒の主催する世界エイズデーイベント「コグウェイ」。赤を基調にしたサイクリストが東京中を走り訴える自転車イベント。昨年のHIV感染者数1358人の参加を目指しているので、野宿党員も前日11月30日の地平線報告会野宿の後、そのまま参加の予定。野宿はちょっと……という人も、地平線仲間もたくさん参加すると思うので、当日いっしょに走りましょう。詳細は www.cog-way.com。以上、野宿党企画部企画課よりお知らせでした! (安東浩正、カトマンズよりEメールにて)
★ ★ ★
■エミコさんから<トークショー>は17日(土)の12:00からと決まりました、と連絡。詳しくはhttp://www.cyclemode.net/index.html)を。
■また、11月24日はインテックス大阪で、どちらも同様の<トークショー>が行われる、とのこと。「会場には16〜18日、24、25日の全期間『サイクルスポーツ』のブースにいます。愛車も展示中!」
★なお、先月の報告会当日、安東君の長男誕生。名は龍之介。「来たるべき宇宙時代に向けて、ガンダムのパイロットになってもらう予定」だそうです。おめでとう。(E)
※メールアドレスは、検索ロボット対策のため伏せてあります。メールを送る場合は“”の部分をクリックしてください(web版編集担当者)
★1信:こんにちは。東京外国語大学のウルドゥー語専攻の橋本 恵です。3月の発表の時はお世話になりました。この度、10月30日の神戸発の船で旅立ちました。上海、北京と行きまして、西安からシルクロードを西に進み、トルコを目指します。インドとパキスタンにも行く予定です。旅は5か月の予定で、初の長期一人旅です。各都市間をバスや列車で移動しながら、各都市の土を踏み、土地のご飯を食べ、たくさんの人と話をしてきたいと思います。憧れの中央アジア、大好きな南アジアをたっぷり楽しんできます!(橋本 恵 11月8日)
★2信:旅に出てもう2週間がたちました。中国は面白いです。中国の赤ちゃんはお尻の割れたズボンをはいていたり、皆ぺ、ぺ、とつばを吐いていたり……。つばを吐くのは、多分空気が「sooooooooooo bad」だからでしょう。私も北京で喉をやられました。しかも、2008年北京オリンピックのため、いたるところが工事中です。でも街はだいぶきれいでした。中国人とは筆談でコミュニケーションをとっています。なので、1日を通してあまりしゃべっていません。でも少しずつ料理の注文とかできるようになりました。中国は麺がおいしいです。沢山種類があります。北京で食べたジャージャー麺とか西安のツーショー麺とか。西安は毎日曇っています。ムスリム用のお店も多く、いろいろ挑戦して食べています。明日、兵馬俑博物館に行きます。(11月13日)
お久しぶりです。片山忍です。11月21日に湯島天神で挙式することになりました。新郎44歳、新婦44歳、足して88歳、フルムーンまで後一歩、参列の親族も最高年齢88歳、という超高齢社会を体現している、ささやかな会をひらきます。とかいうと、「え?誰が」「え?なにが起こった?」「なんのネタ?」という反応が返ってくる訳ですが、えっと、生きていればいろんなこともあるもんで、残り物には福がある、という諺が正しいかどうか証明するためかどうか、こんな私と結婚しよう、という物好きが現れたわけであります。
◆まあ、なにがどうなるかわからないので、一応式が終わってからご報告してもいいかな〜とも思っていたのですが、独身最後に書き込むのもまた一興か、と思い、みなさまにお知らせいたします。相方は…雪山に登ったことも無く、馬に乗ったことも無く、スキーは人生で2回か3回くらい、海外旅行と言えば仕事で行った中国1回となんちゃって彼女もどきと行ったフィリピン1回(その後ふられたらしい)、ぞうきんをしぼらせれば手の皮をむく、というやつです。大丈夫かしら、私。
◆ついでに、12月に起業するとかで、1月から定収入がなく、つまり、金目当ての結婚でもないし、子供ができたわけでもない。私の仕事は綿々とリクエストがきているので、食いはぐれたわけでもないし、借金のかたでもないし、う〜〜ん、なんで結婚するんだろう。まあ、ペーパーワークでもなんでもなく、「けっこん」してパワーがお互い欲しかった、というのがシンプルな動機です。新居は筑波。2Kで井戸水で6畳の畑付き。烏骨鶏を飼って卵をとろうと画策中。食うや食わずの生活になると思われるので、米や味噌のお祝い歓迎。ということで、お知らせでした。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。 (11月14日 片山忍拝)(232回報告者 長距離馬走り人、地の果てガイド)
みなさん、こんにちは。前回のNo.17からひと月以上経ってしまいました。今日は、くたばっています。そんな日にレターを書いてみるのもいいかなと思って筆をとりました。やっと、地圏の春の沿岸旅行が終わりました。8月から始めて3ヶ月間、準備期間を含めると足掛け4ヶ月間の仕事でした。なんとか、無事に終えることができ、今はとてもホッとしています。
◆私が48次隊に参加した理由のひとつが、「野外活動の安全面でのサポート」だったので、(でもこれはある人から内々に依頼されただけで、公には私はそれがために来ているわけではありません。)個人的には「ひとつの山場を越えたな」と、一息入れてもいいような気持ちになっています。今月は、10/5-11、10/17-19、10/20-21と12日間は野外にいました。今日が22日なので半分以上です。昭和基地でのスタンバイも含めると、17日間になります。
◆リーダーとしての判断にも行動にもさすがに慣れました。今思うと、昨夏(2006年12月)はずいぶん悩んでいたなあと思います。勝手な行動をする人も中にはいて、腹が立ったり悲しくなったり情けなくなったりやめたくなったり、いろいろありました。今後のことを考え、ともに行動している人たちへの(悪)影響を懸念して、思い切って切り捨てちゃった人もいました。まあでも、声を荒げたのは夏の間だけで、越冬に入ってからは、「対、人」に関してはそれほど苦労せずにすみました。たぶん、周りも私のやり方を受け入れた(というかあきらめた?)のだろうし、私もどこか割り切ってしまった部分があって、悩むことも少なくなりました。
◆リーダーとしての自分のやり方がいいとか悪いとかは分かりません。こういう立場に立ったのは、この南極行動が恐らく初めてだし、どこかで訓練されたわけではないし、いきなりぶっつけ本番で、場所が場所なだけにそれなりのリスクがあるし、メンバーのほとんどは自分より年上だし、隊長や設営主任や観測主任や野外主任などの役職も立場も上の人たちの上に立たねばならないこともあるし……まあでもそういうこともあまり気にならなくなりました。というか、皆さんよく文句も言わずに私なんかについてきてくれたなあと思います。皆さん、とてもおおらかです。感謝しなくてはなりません。いい訓練をさせてもらいました、という感じです。
◆でも決して好きでやっていたわけではないので(人の後ろにくっついている方がどれだけ気楽かしれません)、今回ようやく失業の機会を与えられ、喜んで失業したいと思う今日この頃なのです。これまでもそうですが、野外が続き、気を抜けない間はずっと気を張っています。朝も4時起き、5時起きが続きます。でも、少し間が空くとか、今回のように、ついに全てが終わったときなんかは、思う存分気を抜くことにしています。そういうオンとオフの切り替えにも慣れたのか、全てが終わったわりに、今日はわりと元気だなと思います。
◆元気とは言っても社会的行動をとるエネルギーは完全に枯渇してしまっています。こういう日に私がとる行動としては、「何事もがんばらない。眠くなったら寝る。昼間でもぐうぐう寝る。人とはほとんどしゃべらない。部屋の外にもほとんど出ない。ご飯もあんまり食べない。お酒は飲む気にならないので飲まない。やりたいと思ったことしかしない。」という感じです。疲労度によって回復まで1日ですむか、2日かかるか、といったところですね。最低限のエネルギーしか使わずにぐうぐう寝ていると確実に体重が減ります。気持ちいいくらいです。
◆今日はブリザードで外出注意令が出ていたのでこうして部屋にひきこもるには最適な日でした。グッドタイミングブリザードでした。明日も引き続き風が強い予報が出ているので、もう少しひきこもりになろうと思っています。2日休めば相当元気になるでしょう。越冬に入ってからこうやって休むのは3回目か4回目です。越冬って、忙しいんですねー(笑)。では、また、ぐうたらしようと思います。ぐうたら日和のぐうたらレターでした。★最後にお知らせです。エイ出版社「自転車生活」Vol.11、10/26発売です。今月も「永島祥子の南極だより」を掲載していただいています。連載も5回目まできました。よろしかったらご覧ください。それではまた。(永島祥子@昭和基地)
10月31日22時40分、「300日3000湯」の全行程を終え、東京・日本橋にゴールしました。1年をかけた「温泉めぐりの日本一周」。「関東編」、「甲州・信州編」、「本州西部編」、「四国編」、「九州編」、「本州東部編」、「北海道編」、「伊豆諸島編」と、全部で8パートに分けての「日本一周」でしたが、296日間で6万4719キロを走り、3063湯の温泉(温泉地)に入ってきました。
◆昨年の11月1日に同じ東京・日本橋を出発したときは、おおいなる不安をかかえての旅立ちでした。ほんとうに3000湯の温泉に入れるだろうか…という不安もありましたが、それ以上に自分の体(とくに心臓)がもつだろうか…という不安の方がはるかに大きかったのです。50代に突入してすぐに心臓発作に見舞われ、江本さんにもずいぶんと心配をいただきましたが、温泉のはしご湯というのは心臓への負担がきわめて大きいのは体験上、よ〜くわかっていました。それでもやってみたかったのです。まさに勝負でした。
◆一番の難関は真冬。バイクでの温泉めぐりなので、顔面は凍傷にやられ、ひどい顔になってしまいました。温泉につかり、火照った体で氷点下の中を走り出すと、まさに体の急速冷凍で最大限に開いた血管が一気に縮み、心臓もキューンと音をたてて縮んでいくかのようでした。それを1日何回も繰り返すのです。おまけに雪道やアイスバーンとの闘い。冬を乗り切ったときは、「心臓はこれでもう大丈夫だな」といった確信をもちました。
◆春になると今度は花粉症との猛烈な闘い…。杉花粉舞う中をバイクで突っ走る訳ですから、ただでさえひどい症状なのに、よけいひどくなってしまいます。くしゃみ連発、鼻みずジュルジュル。でも今年の花粉症は温泉に救われました。温泉の湯につかっている間だけは症状がきわめて軽くなるのです。
◆真夏の温泉めぐりも辛いものでした。山形盆地では38度という猛暑の中、連続して高温湯の温泉に入ったのですが、すっかり湯あたりし、足腰が立たず、それでも次の温泉へとバイクにしがみつくように乗っていました。
◆こうして「1日10湯」を目標にして温泉に入りつづけたのですが、最高は1日27湯。その記録は日本一の「温泉大国」津軽で達成しました。3000湯目は新潟県の広田温泉。10月20日のことでした。このときばかりは「ほんとうによくやったよね」と自分で自分をほめてあげたい気分になりました。
◆ぼくが「温泉めぐり」を始めたのは30年以上前の1975年2月のこと。20代の大半を費やして世界を駆けめぐった反動とでもいいましょうか、無性に日本をまわりたくなったのです。どのようにして日本をまわろうか…と考えたときに思いついたのが「峠」と「温泉」。日本は世界の冠たる「峠大国」であり、「温泉大国」。そんな峠と温泉を通して日本を見てみたかったのです。日本の全峠を踏破しよう、日本の全温泉を湯破しようと、若き日のカソリ、熱い気分で「峠越え」と「温泉めぐり」を始めたのです。
◆しかし…、日本は想像していた以上に広い国でした。もっと、もっと簡単にできると思っていた全峠踏破、全温泉湯破…。「300日3000湯」に出発するまでに入った温泉は1721湯(峠の方は1600余峠)。それは日本の全湯制覇にはほど遠いものでした。「よーし、それならば、この際、一気に!」。それが「300日3000湯」にかりたてられた一番の理由なのです。
◆「300日3000湯」を終えても、まだまだ「温泉めぐり」はつづきます。これからはまた、先の1721湯に1湯づつ加えながら日本の全湯制覇を目指していこうと思ってます。ということで、この1年、「地平線会議」の報告会にもすっかりご無沙汰です。今月30日の報告会ではみなさんとおおいに語りあえることを期待しています。
◆報告会の翌々日、12月2日には南米に向けて出発します。ペルーのリマをスタートし、バイクでアンデス山脈沿いに南下。パタゴニアを走り抜け、マゼラン海峡を渡り、ビーグル海峡に面した世界最南の町、南緯55度のウシュワイアを目指します。南米は20余年ぶり。1984年〜85年の4万3000キロの「南米一周」以来となります。今回のコースの大半は前回とだぶるので、その間の変化を見られるものと期待しています。「生涯旅人!」。これがモットーです。エンドレスのゴールに向かってカソリ、走りつづけます!!(賀曽利隆)
「300日3000湯」(資料編)
★一番寒かった日 1月16日 志賀高原(長野)-12度
★一番暑かった日 8月2日 山形盆地(山形)38度
★一番おいしかった食べ物 野積温泉「のぞみ温泉旅館」(新潟)の食事 (夕食)紅ズワイ、ノドグロの焼き魚、ブリ、タイ、甘エビ、サケの刺身(食材はすべて地のもの)(朝食)サンマの塩焼き、イカ刺し、タイのあら汁(これらは宿のご主人がご馳走してくれた)
★一番おいしかった酒 上野温泉「名月荘」(新潟)で飲んだ地酒「鶴齢」。一緒に泊まったJ子さんと2人で一升瓶を空にした。
★一番嬉しかったこと 5月22日、鹿児島で「1日20湯」を達成したこと。「1日20湯」は大きな壁だった。その後、東北では1日20湯、21湯、23湯、27湯を達成!
★一番走った日 4月4日 ゆの里温泉(和歌山)→天神の湯(静岡)673キロ この日は紀伊半島、志摩半島の温泉をめぐり、最後は伊勢ICから高速で静岡ICへ
★平均睡眠時間 3〜4時間 毎日ブログに原稿を送っていたので。昼間、眠くなると「5分寝」「10分寝」「15分寝」をした。
★かかった費用 約700万円 300泊弱の温泉宿の宿泊費、3000湯弱の温泉入浴費、食費、ガソリン代、高速代など。
皆さんこんにちは。車谷建太です。8月の江本さんのモンゴル報告会で、赤ちゃんを抱きながら美しい歌声を披露し、見事に華を添えてくれた三枝彩子さん。あの時会場にいらした方は、きっとオルティンドーという唄の持つ迫力、そして彼女の歌声から流れるモンゴルの壮大なイメージを感じたことと思います。
◆この度、11月26日に彼女をはじめ、女性ボーカリストの出演陣で構成された『紙の月』というイベントが行われます。僕も三味線でオルティンドーの伴奏に初挑戦する事になっています。どんなライブになるか、いまから楽しみです。お時間のある方、興味のある方は、この機会に是非とも足を運んで頂けたらと思います。
◆11/26(月) ―ROSA 7TH ANNIVERSARY―『紙の月』
http://deplog.cocolog-nifty.com/@池袋LIVE INN ROSA TEL 03-5956-3463
〒171-0021 東京都豊島区西池袋1-37-12 ロサ会館B2F
OPEN/START 19:00/19:30 ADV/DOOR /2000/2500(+1order)
★出演★
19:30〜19:50◎8bit(オープニングゲスト)
20:00〜20:40■三枝彩子(オルティンドー)+向島ゆり子(バイオリン)+藤乃家舞(べース)+車谷建太(津軽三味線) http://blog.livedoor.jp/urtynduu/
20:50〜21:30■薄花葉っぱ(京都)
21:40〜22:20■石橋英子×アチコ
先月以降、以下の方々から通信費(1年2000円。2年分、あるいはカンパを含む、という方もいます)を頂きました。ありがとうございました。(11月14日 地平線会議世話人一同)
石原卓也/妹尾和子/横山喜久/島田利嗣/李容林/大蔵喜福/藤本亘/渡辺一枝/中込幸子/新野彰典
金井重さんの便りにこたえるかたちで、開聞岳の麓におられる野元甚蔵さんがついに原稿を書いてくれた。陸軍特務機関の任務で太平洋戦争以前の1939年5月、チベットの農村に潜入、1年半を過ごした人だ。当時22才。「特務機関」「情報員」などでイメージする言葉とはまったく飛び離れた、おだやかな人格者で長く地元山川町の教育委員をやっておられた。
◆今でも1年に1度お邪魔するが、常に自然体で、謙虚で、優しくて、こういう人こそ150歳まで元気でいてほしい、と思う。どんなチベット体験をしたのか、ダライ・ラマとの鹿児島での「再会」で何を語ったか、など関心をもたれた向きは2001年に刊行された著書『チベット潜行1939』(悠々社 3300円)を是非手にとってみてほしい。少々高くても何かを得る、と思うから。
◆今回もぎっしりの通信となった。いろいろな立場、世代の人がそれぞれのテーマで書いてくれるのがありがたい。この通信に書くのは緊張する、という声をよく聞く。気楽なメールの文章も歓迎だが、たまに多少あらたまって書くこともいいのでは、と思う。
◆別に編集を志してきたわけでもないのに、いい原稿が届くと、素晴らしいご馳走にありついた気持ちになる。文章のうまい、ヘタではなくほんとうを書いてくれてるかどうか、が私にとっては一番の関心事です。書いてくれた皆さん、心からありがとう!!(江本嘉伸)
■先月の発送請負人 森井祐介 関根皓博 関根五千子 後田聡子 村田忠彦 車谷建太 藤原和枝 山辺剣 江本嘉伸 松澤亮 李容林 満州
右図のように、都立戸山公園内の「新宿スポーツセンター」内、2階大会議室です。早足で10分、ゆっくり歩くと15分ほどかかるかもしれません。2次会は21時30分頃から明治通りと早稲田通りが交差する馬場口交差点の明治通りに面した四川料理店「成都」(高田馬場1-4-21 3205-0068)2階で開く予定です。
ハタチのカソリをぶっとばせ!
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通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が100円かかります)
地平線通信336/2007年11月15日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/ イラスト:長野亮之介
編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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