夏 が来れば山を思う。子ども時代は栄養失調気味でひ弱だった。小学校の6年を通じ「徒競走3位以内入賞」の悲願はついに達成できなかった。野球も“バンザイ・バック”して敵の凡フライをホームランにしてしまうレベル。サッカーは蹴るたびに足が痛く、遠くまでライナーで蹴りこむなど別の動物のやることに思えた。中学生で神奈川県が主催した丹沢表尾根縦走に参加して、山では人並みには行動できそうだ、と少し自信がついたが山登りに打ち込むまでには至らなかった。高校では文芸部に入ったものの、当時の表現レベルは運動能力同様低かったため、女子高との合評会でこてんぱんにやられてしまい、つくづく人生に嫌気がさした。
◆大学に入ってロシア語を専攻した夏のある日、構内の片隅の掘っ立て小屋を訪ね、そのまま山岳部に入った。すぐ夏山合宿だ、と言われ、四谷の「たかはし」で月賦で靴を作った。シュラーフはアメ横で米軍の放出品を買い、子どもひとりが入りそうな「超特大」のキスリングを新宿の「山幸」で買った。この3点が個人装備の基本で、ピッケルは山岳部のものを借りた。山用に着るものなどなく、古い白いシャツを2枚、黒い学生ズボン、防風衣のヤッケ(木綿の)、軍手がすべてだった。
◆そんないでたちで剣沢の雪渓を攀じ、滑落止めの訓練をやるのだから、やらせる先輩たちは豪胆とも言えた。あっという間にぐしょ濡れになり、ガタガタ歯の根があわず震える18才に同情のかけらもなく、急な斜面でのグリセード特訓に怖じけづくと、「これができなきゃ帰れねえぞ!」としばくのだった。
◆槍穂に向けて縦走に入ると、体重と同じ45キロのキスリングの重さがこたえた。でかい圧力釜を詰め込んで背負っているのでバランスが悪い。左腕が次第にしびれはじめ、ついにはダラン、と下がってしまった。おいおい、新人がこんなになってるのにいいのかよ、と内心思ったが、なんとなく自己責任っぽい雰囲気があって、あまり言えないのだった。左腕のザック麻痺は軽い後遺症として残り、後に氷壁のクライミングなどでしばしば急に脱力するという怖い体験をした。
◆けれども、よほどうまがあったのか、山での日々はそれまでとは違う自分を発見する大いなる試練の場となった。自然の中で自分を鍛えることの楽しさをはじめて知ったのかもしれない。1959年7月24日(ほぼ半世紀前だ!)の日記。「長次郎雪渓へ全員で向かう。半ばつめた頃、雨降りはじめ、次第に強くなる。グリセードで引き返す。ほうほうのていでテントへ。雨ますます強く、いまや豪雨。テントに浸水。高所からの水が流れ集まって一時奔流の中のテントと化す。Y裸で奮闘。皆大笑い」
◆山岳部の監督を当時、小沢重男さん(東京外語大名誉教授)がつとめていた。「モンゴル秘史」の研究者として世界的に知られ、いまも国際モンゴル学会の会長の要職におられる。小沢さんの縁でモンゴルの山に登る計画が進んでいた。飲み会では必ず「蒙古放浪歌」がうたわれ、若僧の私も「心猛くも鬼神ならず…」と、大陸を彷徨う旅人の気分で声をあわせた。計画は何度か挫折があり、実現したのは1968年になってからだった。私は仕事の都合で参加できず、いつか遊牧民のモンゴルへ、と心に誓った。
◆1987年になって初めて訪れた社会主義モンゴルは、今思えば不思議なほど閉ざされていた。第一、行き着くまでがタイヘンなのである。まずモスクワに飛び、そこからノボシビルスクというシベリアの都市を経由し、とんでもない遠回りの末、ウランバートルにたどり着いた。その後もハバロフスク−イルクーツク経由の航空便、北京から1泊、時には2泊しながらの国際寝台列車旅と、モンゴルにはいろいろなルートでお邪魔してきた。経由するソ連、中国の変貌ぶりを目撃できたのもおもしろかった。
◆世界が突然変わり、成田−ウランバートル直行便が週3便も飛び、朝青龍や白鵬が頻繁に帰郷できる時代となった。そしてことし2007年はなぜか「モンゴルにおける日本年」だ。48年前剣沢で私を鍛えた山岳部のリーダーたちが「外語山岳部ゆかりのモンゴルにできるだけ大勢で行こう」と発案した。いくつになろうと、山を教えてくれた先輩の言うことは聞くものだ。私がコーディネーターをつとめることになった。
◆モンゴル核心部、アルハンガイ県の大自然の山と湖を訪ねようという計画である。私を含め12名のメンバーのうち2名は68年のハルヒラー登山隊のメンバーだ。70才を越える先輩が大半で私などこの中ではまだ若僧だ。現地ではいろいろ駈けずりまわることになるだろうが、それもまた、よし。
◆ひ弱な私を多少は強靭にしてくれた山登り。モンゴルとの最初の接点も18才の山岳部時代だった。そんなわけでまたまた草の国に行ってきます!! 出発は本日8月11日午後。(江本嘉伸)
今日こそ早く行くのだ、と思っていたくせに案の定遅刻気味、慌てて会場へと到着し席に着いた私の目にまず映ったのは、あーでもないこーでもないとパソコンとにらめっこ中のステキなおじさま方でした。どうやらスクリーンに写真を表示できないという問題が発生していたようで、隊長の三輪さんは「ただ今、地平線会議の知能が集結してます。我こそはと言う人は出てきて」とアナウンス。私は時間どおりにはけっして始まらない、このおおらかな報告会の雰囲気が好きです、遅刻を免れたから云うんじゃなくって、ほんと。
◆そんなトラブルの中、動じもせず、堂々と立っている美緒さん、すごいなあ。「久しぶりのアフリカ」「そして若い女性です(なんと24才!)」と(そんな感じに)長野さんに紹介されて美緒さんの話が始まりました。まずは自己紹介。仕事(高校生の修学旅行の引率)で数日前まで行っていたというケニアの話を少し、それから遡って子供のころの話。「ごく普通の子供でした」という美緒さんだけど、普通なのか、どうなのか。
◆小学生の時なりたいものは「大スター」、わりと目立ちたがりで中高と生徒会長をやり、中学生の時の夢は「V6の三宅健と結婚すること」、高校では洋楽にはまり、今度は「ハンソン」のテイダー(男前です)との結婚を決意。それならば英語をと勉強したところ、ぐんぐん成績があがり、大阪外語大を受験することに。しかし受験直前、「英語じゃ面白くないんじゃないか?」と思い、「もっとマニアックなことをやった方が好いのでは(その方がハンソンも興味を持ってくれるのでは)?」と、先生に相談。マイナーな言語はインドネシア・スウェーデン・スワヒリ語の3つ、その中でも「これはありえんでー、アフリカは遠いでー」と教えられた為、「じゃあやったろ!」とスワヒリ語を専攻することにしたのだそう。
◆大学でも普通の女子大生だったと強調する美緒さん、「このままじゃいけない」とも漠然と思っており、大学2年の時、友人についてタンザニアへ行ったことがアフリカ自転車横断5000キロの旅へのきっかけに。現地ではまず「みんな本当にスワヒリ語を話している!」とびっくり。貧しいけれど明るい人たちに「なんで笑ってんのやろ?」と衝撃を受け、「もっとアフリカを見たい」と感じ、それから熱心に勉強し始めた。3年の時に行ったケニアで乗ったバスの窓から流れゆく景色を見て、ここを自転車で旅したら面白いんじゃないか、もっとアフリカを知れるんじゃないか、と思ったそう。
◆しかし、普段通学などで自転車に乗ってはいたが、パンク修理もしたことのない「できない子」だったという美緒さん。ここからの行動力が、すごい。まずは情報をと、世界一周したミキハウスの坂本達さんの講演会に行き「アフリカを自転車で走りたい」と相談したり、埜口保男さんにも手紙を出した。自分の行動範囲を広げようと出かけて行っては「いろんな人に夢を話しました」。9割はやめとけと云われるけれど、それに対して、「じゃあこうしよう、じゃあこうしよう、と私の旅は出来上がった」と云う。なんとパワフル。
◆それから自転車に慣れるため夏休みに仙台へと1000キロ走ってみただけでなく、体力作りに山へ登って毎日「千本ノック」ならぬ「千本素振り」トレーニング。何でも食べられなければ苦労するかもしれないと、「きゅうり嫌い」の克服(今では「もろきゅう」もどんとこいらしい)など、いろいろやってます。
◆そしていよいよ大学を1年間休学。しかしまだまだ反対する人は多く、「せっかく行くならみんなに見送ってほしい」と思った美緒さん、実績を作る為、まずは日本一周をすることに。しかしお金がない。かかるのは食費と宿代なので、その頃BSE問題で大変だった「吉野家」に目をつけ、「(1)私の旅に対しての情熱(2)旅の計画書 (3)豚丼がいかにスバラシイか」を切々と手紙につづった。そして女子大生が書いたと判るようにかわいらしい封筒に入れ、社長宛てに送ったのだそう。その甲斐あってか、めでたく「日本一周中、豚丼食べ放題権」を手に! 宿代も友人、友人の友人、友人の友人の友人……と、泊めてもらうことで節約し、結局、6000キロを2ヶ月5万円で走りきることが出来たそうだから、すごい。
◆その頃には反対する人もだいぶ減っていた、と美緒さん。それでも不安で、「何で行くんやろ?」「何のメリットが?」「一人は危険すぎるんじゃ?」。悩めば悩むほど、判らなくなった。そんな時思い出したのは、最初の「アフリカに行きたい、見たい」という気持ちだったという。
◆ついには「足の骨を折っても行かせたくない」と大反対していたお母さんも見送ってくれ、出発。まずはゴール予定地ケープタウンに降り立った。安全の為、出来うる限りのことをしようと、自分が走る道を予め見ておくことにしたのだ。バスでスタート地点のナイロビに向かっていると、「早く走りたい」という気持ちがこみ上げてきて、これで大丈夫、と思ったそう。
◆頭脳結集の成果(??)好調なパソコンとスクリーンも大活躍。写真を交えながらアフリカの旅は進みます。まずは動物や食べ物の写真。著書『マンゴーと丸坊主』(幻冬舎)にちなんでか、市場につまれているマンゴーの写真も。「アフリカでマンゴーは至る所で食べられる」んだそう。そうだったのかー。
◆一方の「丸坊主」の写真もばっちり。「これが衝撃的写真です」と紹介されたのは、誕生日プレゼントに自転車代をくれたおじいちゃんが「マンテンバイク代」と封筒に書いた為、「満点号」と命名された愛車・グレートジャーニーに(いろんな人の思いを乗せて。実家池田市の旗も)またがり、同じくアフリカを旅行中だった友人に「アイドルっぽく撮ってもらった」、という坊主頭の美緒さんの写真。とってもお似合いで、坊主フェチの私は嬉々としちゃいました。
◆実はこの坊主頭、将来床屋になりたいというミュージシャン(んん??)にスタート直前「ベリーショート」と注文し、切ってもらったところ、なぜだか刈上げられてしまったんだそう。でも「伸びきるまで日本には帰れない!」とこれからの旅に気合が入った、と転んでもタダでは起きません。
◆他には、テント泊の時、男と見えるよう鼻の下にパーティーグッズの胸毛をつける「付けひげ作戦」決行中の美緒さんの写真も。幸いに役立つ機会はなかったけれども、強盗対策にバックを開けたら虫のおもちゃが!「虫作戦」、ブーブークッションをテントの前に置いて驚かせ!「ブーブー作戦」なども考案。「明るい気持ちを持つことで、悪いものが寄ってこないのでは?」と考えた美緒さん、武器になるようなものは一切持っていかず、人に聞かれると「私の武器はフレンドシップだ!」と答えていたそう。
◆多かったのが子供たちの写真。タンザニアでは雨が降っても楽しそうな子供たちを見て、「考え方一つだ」と気づいたそう。到着した村でまずどんなところかと一周すると人だかりが出来、暇な子供はぞろぞろとついて来る。日本と云ったら、カンフーまたは空手で、「いたずらしたらアチョーやでー」となんちゃってカンフーを披露すると喜んでくれた(り、いたずら防止になったり)、と美緒さん。
◆マラウイでは足がパンパンに腫れてしまい、病院に行くと陽気なお医者さんに麻酔なしで切開され、コップ一杯の膿が。まさかそんなことになるとは、という驚きとありえない痛みで叫んだ美緒さん、宿で不安になり泣いていたところ、気遣ってくれたのが15才くらいの男の子、マブト君。おしゃべりの相手をしてくれたり、洗濯をしてくれたり。いろんな人に心配してもらって、励ましてもらって、温かい村に10日間ほど療養したら「スタートの日の景色は違かった」と云う。これまで走れたことが有難いことだと実感でき、今まで感謝してなかったんじゃないかな? と思ったそう。「このケガがなかったら自分一人で走ったってえらそーなことを思っちゃったかも」とも。
◆ジンバブエで再会したタンザニア人に大阪で再々会した「ミラクル」や、泊めてもらった人について結婚式にお邪魔したり、警察署にも泊めてもらったり、マラリアになって超ハイテンションになったり、道中(も帰国後も)盛りだくさん! そんなこんなで(適当でスミマセン……)、ついに南アフリカに。写真では髪も随分伸び、時間の経過がよく判るのでした。ゴールのケープタウン・喜望峰に到着したとき、本当にすべてのものがキラキラと輝いて見え、「こんな世界ってあるんやー」と思った。それから日本に帰って、「ただいまー」って言える場所が、人がいるって本当に有難い、と実感したんだそう。
◆「最後に私が大事にしている3つのことを話したいと思います」との前置きで始まった最後の話。「それは(1)感謝をする (2)強い思いを持つ (3)楽しむということです」とのこと。すぐ忘れてしまうけど、感謝をしたい。それから、まずは一歩踏み出すことが大事だと気付いたんだそう。そしてどんな状況になってもネタにする気構えで、せっかく生きてるんだから楽しまなければもったいない、と(結婚式の挨拶ならぬ旅行の見送りの言葉に使えるのではないかっ、などと私なぞはついついメモっちゃいました)。
◆会場からの質問もたくさん。「何かスワヒリ語を話して!」のリクエストに自己紹介を披露してくれた美緒さん。「沖縄の言葉に似ている!?」との感想があちこちで。それから「走った8か国の中にはスワヒリ語が通じない国もあったけどどうだった?」の質問には、初め疎外感を感じても、「いってまえ」精神でなんとかした、とのこと。言葉が通じても通じなくても、その国の感じ方、受け取る印象に、変わりはなかったそうです。
◆今後の話では、「1年か2年後には自転車・世界一周に出発したい、いつか地元の池田市に戻ってそこを幸せにしたい」と云う美緒さん。同性として女の人がおっきなことをしているのを、しようとしているのを、聞くのは、とても嬉しい。しかし、なんとしっかりされていることか。私は美緒さんがゆくゆく池田市の市長になっていても驚かないと思う、と思った報告会なのでした。うーん、すごいぞっ。(1週間青森に逃亡し江本さんに怒られる夢を見た、加藤千晶:『野宿野郎』編集長)
『地平線会議』、その名前を初めて目にしたのはアフリカ旅行前の情報収集中、埜口保男氏の本でした。どうやら自転車や旅だけではなく、多方面からすごい人達が集まる会のようや。世の中にはすごい人たちがたくさんいるもんやなぁ。と全く他人事でした。
◆昨年、都内で開催されたシール・エミコさんの報告会にて、江本さんと出会いました。翌日電話をいただき、「きみおもしろいから、うちの会議で話してみない?」うちの会議って、地平線会議で !? おもしろいからって、私 !? そんなそんな恐れ多い。……。いや、しかしこれはかなり光栄です、ぜひ !! とはお答えしたものの、社会人一年生てんてこまいだった私はなかなか落ち着けずあっという間に一年が過ぎてしまっていました。
◆あぁもう一度チャンスを…と思っていた今年6月。「じゃあ来月」!!!!!!!! ついに、今回の機会をいただくこととなりました。2時間半もたっぷり時間をいただき何を話そうか緊張と興奮で迎えた報告会。
◆しかし前に立つと導かれるようにどんどん言葉が出てきました。なんとも不思議な空気。そしてあっという間に時間が経ち、気づいた頃には2次会の中華料理屋にいた(んなアホな)というほど流れる夢のような時間でした。全く遠い土地だったアフリカを、自分の足で自転車こいで感じてみることで、ぐっと身近になりました。「すごい人達が集うエライ会らしい」と他人事だった地平線会議も、自分の足で訪れその空気を感じると、ぐっと身近になりました。
◆きっと世界のどんな他人事も、自ら動いて感じることでどんどん近くに感じられるのかもしれません。じゃあ、世界中が近くなるのもそう遠い話ちゃうんや。そう思わずにはいられません。今回貴重な機会をくださった江本さんをはじめとする大先輩方、報告書のイラストに富士額まで描写してくださった長野さん、暑い中会場まで足を運んでくださった皆様、ウェブや報告書でご覧いただいた皆様。そして私の25年間(注:報告会後の7月31日が誕生日だった)の人生で出会ってくれた大切なすべての人達。今の自分があること、そしてまだまだちっぽけでひよっこな自分自身の未来に感謝の思いでいっぱいです。ありがとうございます。そしてこれからもよろしくお願いします。(山崎美緒)
方眼紙の罫線がはいったノートのような紙に手書きの6枚の手紙が8月はじめ届いた。中はふくらんでいて封筒の表書きには「Cookies」と書かれている。空飛ぶ写真家、多胡光純と木のおもちゃ作家、歩未夫妻からだった。私信だが地平線のみんなに馴染みの多い二人なので「夏便り」として披露させてもらう。(E)
川下りを始めて14日目です。お元気ですかね? ユーコンは暑かったり、寒かったり、忙しいです。出発地点のテスリン川から500km流れてきました。ドーソンの手前280km地点でキャンプしています。広い中州に上陸したので、今日は移動せず、ダンナさんはエンジンのチェックをするそうです。まだ飛んでいませんが、今日の夕方(と言っても10:00PMくらい)もしかしたら飛べるかも!
◆順風満帆のように聞こえるかもしれませんが、楽しくなってきたのはここ2〜3日です。3日前にカーマックスという最初の町に着きました。出発地点から350km航下しましたが、私達はそこまで、18フィートのカヌーに440kgの荷物(人間を含む)を乗せて、ただ運搬していたようなものです。必要なものを持ってきたら、あんなにも大荷物だったという訳です。すべて必要最小限のものばかりだったのですが……。船は今にも沈みそうで、まだまだ水量の多いこの時期では、少しの風も波もおそろしいものでした。風にあおられあわや「沈」か!? ということもありました。「何を降ろすか」という会議で、結局、タンデム用品一式を日本に送り返すことにしました。すなわち、今回私は飛ばないということ。まあ、また次があるさっ、ということで。
◆私には、この旅が終わって、日本に帰って、おそらく2007年は一瞬で終わるであろう時、「楽しかったね」だけで終わらせない為に、やらねばならないことがたくさんあるようです。だからのんきに飛んでいる場合ではないかもしれないですね。そんな訳で、もう一度身の回りの荷物の見直しを図り、70kgの減量に成功しました。フネの吃水線もぐんと上がり、精神的にもとても楽になりました。1日終わった後の疲れ方が違います。今では風も波も怖くないし、むしろ揺れて楽しいぐらいです。
◆最大の難所、「ファイブ・フィンガーズ・ラピッド」も無事に通過です。ダンナさんによると、今回で3回目だけど、今までで一番ひどい波だったようです。Class5だとか。私はただもう言われた通りにパドルをし、波を叩き、気分は荒波と戦う海賊のようでした。船ごとトランポリンに乗ったかのように何度もはね上がり、水を受け、下着までびっしょりでしたが、今となってはスリリングで楽しかった気がします。ここでも減量効果です。
◆それにしても、こんなことをもう10年以上もやっている人と一緒に旅をするのはとても頼もしいです。私には心配のしどころもよく分かっていないので、能天気に楽しむだけです。3〜4日に一度ぐらいの割合で焼きあがる名物のたごパン(オーブンでは上手く焼けないらしい……)は、何度食べても飽きないおいしさだし、私はユーコンクッキーなるものを漂流中に考案しました。今日は停滞なので、ダンナさんはパンを焼き、奥さんはクッキーを焼いています。10日ぶりに着いた町(カーマックス)では、厚い肉を焼き、肉汁をゴゾウロップにしみ込ませ、目を見合わせてほおばりました。水面に浮かぶカモを見ての第一声は「かわいい」ではなく「美味しそう!」になってしまいました。ま、毎日おいしいものを食べていますが……、それなりに。
◆カーマックスを過ぎてから、クマやムースも見かけるようになりました。ムースのオスは実に格好良い! いつか仲良くなって、「その角ちょうだい」と言ってみるつもり。
◆流れの速い岸で、上陸に失敗し、夫婦生き別れになりそうになったこともあったけど(雨も降っていて最悪だった)、ノンストレスで気分上々です。では、また。 あるみ。
■7月19日 21日目昨日、ドーソンに着きました。明日こそはドーソンだ!と思ってから、実に4日後のことです。14日、ドーソンから80km手前でキャンプをしました。明日はドーソンだ! 町だ! 文明だ! と勇んでいました。しかし、よく見ると、とても広い中州だったので、チャンスだとばかりに翌日は停滞して飛びに備えることにしました。パンを焼いて、クッキーを焼いて、いざ夕日に向かってテイクオフ成功かと思いきや、上空でエンジンが止まり、ものの4分で降りてきました。原因究明の為その翌日も停滞。とりあえずメドをつけて、さらに翌日、やっとドーソンへ向かって出発しました。私達は2馬力のキッカーを付けています(旅の目的は漕ぐことにあらずということで)。停滞ばかりしているのでパドラーよりも遅いのですが、80kmくらいなら1日で着ける距離です。bニころがいざ出発してみると、今度はキッカーの調子もおかしく、オイルがリークし、エンジンがかかりません。私達は突然パドラーとなってしまいました。カヌーなんて初めての私も80kmしっかり漕がないといけないハメになりました。その日は結局50km漕いでギブアップ。そして翌日、つまり昨日、残りの30kmを走破し無事ドーソンに着きました。そんな訳で4日もかかってしまったのです。これからキッカーの修理に町へ行き、空飛びエンジンの最終チェックをして、すべて順調にいけば、アラスカへ突入します。ま、いろいろありますね。
◆最近になって、日ざしがかなりきつくなり暑いです。あまりの暑さに川(水温8〜10℃)にとび込んだり、航下の途中で見つけたクリーク(手を洗うだけで、しびれるぐらい冷たい)に頭ごとつっ込んだりして体を冷やしています。それがたまらなく気持ちいいです。私ってば、すっかりワイルドテイストになってしまいました。このままどんどん味つけが濃くなって、ダンナさんみたいになってしまったら、どうしよう……なんて思うこのごろ。次はアラスカからお便りできるといいな(ここを出発できればの話)。ではまた。 あるみ。
■ユーコンクッキー同封します。ボロボロになっていないといいな。ご賞味ください。7月20日 ドーソンより あるみ
★堅くて、風味がよくて、おいしかった。驚きました。(E)■江本さんへ
多胡です。日本はまだ梅雨ときいています。いかがお過ごしでしょうか。
◆旅の顛末は歩未さんの手紙にしたためられている通りです。なんとかこなしている感です。そこで思う所をひとつふたつ書きます。
◆出発前、事故(編注:なんと高速道のETC出口ゲートで追突される不運な事故に遭遇。負傷にめげず予定通りユーコンへ旅立った)などありましたが、出国して良かったと思います。ストレスのない自然の中で、首は順調と言えます。少々重たい荷をかつぐと嫌な疲れがきますが。
◆次に「飛び」についてですが、カメラもビデオも自前なのだから、ガシガシ飛びに行け、撮りに行け、旅しろ、と目が覚めたように思い直し、言い聞かせています。机上や企画会議ウンヌンと日本でコネコネ考えあぐねているより、現地で目にするすばらしい風景に向かい飛びこめと、これもまた今まで積み上げてきた自分なりの旅を追及する流れの中で、大きくやっていきたいです。映像の仕事、コマーシャルの仕事を含めいろいろな仕事をこれからもやっていきます。ただ、間に多くの人が介在してしまうと、事の本質がつかめないばかりか、面白くないのです。自分主体でやっていきたい、自分の手に負える、把握できる所でガシガシやっていきたいと思います。自分の企画を元に実行した行動が、自分の歴史となり、次なる挑戦へつながる気がします。
◆こんなことをカヌーに揺られながら考えていると、自分自身のスキルアップとハードウェアの選択をより厳しく追求しなくてはならないという思いに行き当たります。僕の旅にとって重要なモーターパラグライダーとそのトランスポート手段。それは車だったり、船外機だったり、ATVだったり、スノーモービルだったり。それら全てを扱うことはもちろん、修理メンテナンスできることが、旅とフライトの成功を握っているのです。
◆今回は船外機が壊れました。飛び、ロケーションを求め旅をすることと同時に、これらのことをどうやってやりくりするか、どこかで修行するかなど、次なる大きな旅に出る前に対策しなくてはいけないと思っています。やりたいことは、モーターパラグライダーをトラックに積み込んでの「世界一周空の旅」。じっくりじっくりひとつひとつの国を飛んでいきたいです。その実現に向け自分を磨くことにします。
◆最後になりますが、歩未さんに僕のフィールドに来てもらい、見てもらい、嬉しかったということと、タフな旅にもかかわらずスンナリとこなしてしまう彼女の順応力には驚きを感じてます。僕が一人で旅しているとすぐに栄養過多になり、「口内炎」などができますが、今回は目下好調です。これも歩未さんのおかげです。旅を終わったらサービスしなくちゃいけません。これからも時折お互いのフィールドにふれさせてもらうことで感性の洗濯をできたら楽しいだろうなと思います。(エア・フォトグラファー 多胡光純)
ブラジルのレシフェという地方都市で、2年間日本語教師をしてきた。6月末に帰国し、7月の通信発送のお手伝いに行った。ブランクがあって報告会に行くのは、何となく思い切りがいるので、とりあえず発送という裏作業から入ろうという気もあった。そういえば大学3年の夏、初めて地平線に関わったのも発送だった。バックパッカーという言葉を知ったばかりの頃、本当にものすごい勇気を出して参加したのだった。それから毎月、受付と二次会の会計をする裏方になった。当時、私は猫をかぶっておとなしく微笑んでいた、と思う。だが「話を聞くばかりじゃどうしようもない、自分も行動する人になりましょう」という気持ちはあった。
◆大学を卒業して就職したが、2年で辞めて中南米を8か月かけて縦断した。帰って働いた。東アフリカを3か月旅行した。帰って働いた。また外へ? しかし、ずっとこんな生き方じゃまずいだろう、という思いがあった。どう考えても王道を外れている自分に自信を持てなかった。したいことをしている、というのは紛れもないことだったが、「それだけでいいのか、この先どうするのか」と言われたら、返す言葉はなかった。
◆旅ではなく海外で働いてみようか、というのは久しぶりに新鮮で緊張に満ちた考えだった。通信教育で勉強して日本語教育能力検定試験に合格していたのを生かし、JICAの日系社会青年ボランティアとしての派遣が決まった。緑色の外交官パスポートを手にした時、「私は、しがないバックパッカーなんですよ。いいんですか」と思った。
◆レシフェの空港では、受け入れ側の6人がバラの花束に満面の笑みで待っていてくれた。2年間、日系社会には、衣食住すべての面に気を配ってもらい、がっちり守られて過ごせた。元気でいるか、寂しくしていないかと、あちこちで娘のように世話してもらった。皆がほめ上手で「聡子先生は明るくていい先生だ。来てくれてよかった」としょっちゅう言ってくれた。
◆学校内で、私はこれまでの人生ではありえなかったほど権力者だった。「日本から来たJICAの人」だから。旅をしていた頃を思うと笑えるくらいのギャップである。私はボランティアレベルでしか日本語を教えた経験がなかった。だが、ここでは生徒だけでなく、現地教師への指導も必要だった。まず周りの信頼を得なければ、何を言っても信用してもらえないだろう。ボロが出ないよう毎日勉強した。日本語関係のHPや文法書、指導書を読み込み、知識を増やし授業で実践した。そのせいか、単に笑顔を振りまいたせいか、8人ほどの現地教師も80人前後の生徒も、受け入れてくれた。
◆私はのんきに暮らしてはいたが、「友達」であることより「先生」であることを優先した。ある時、自分と同世代の現地教師がきちんと授業準備をしてこないということが続いた。毎週さわやかに「忙しかったから。ごめん!」で終わらせる。たまになら許せても、毎回だと脱力する。しかし突き放せない。手伝って準備しないと、かわいそうなのは生徒である。ごめんという相手は私ではなく生徒であるべきだ。教師としてすべきことをしていない相手に指導するのは当然だ、という思いはあった。だが、私には明確な上司もおらず、注意してくれる人がいない。どう対処すべきか、と悩むのと同時に、自分が暴君のようになっていないか、自分の考えを押し付けているだけではないのかという心配もあった。
◆そんな時、日本の母から差し入れ小包が届いた。中には地平線通信も数通入っていた。やるなあ母さん!と思った。さて、皆さんならここで通信を読みますか。私は、読めなかった。この学校のために尽くそうと決め、生徒や現地教師も受け入れてくれているものの、肝心の指導がうまくいかない。ブラジルまで来て、ぐちゃぐちゃと、ああああ何だかなあ状態。こういうときは、私には通信は不向きだ。やる気に満ちた通信の内容は、ますます自分に駄目出しをしているように思えるのだ。日本にいて、ああこの先どうしよう状態の時も通信は読めなかった。
◆しかし常夏の地で日々を過ごすうち、精神的に弱ることは以前より少なくなった。「2年で帰る人」として、他人事の揉め事などを見ていると、不思議なほど何事にも片がついていく。前出の現地教師の問題も、ずっと言っていればいずれ分かるだろう、ということにして、考えすぎないようにした。考えるべきは相手で、私じゃないでしょ。私は出来ることはしているし。それで地平線通信は楽しく読んだ。こんなことが何回かあり、ずいぶん楽観的な人間になった気がする。
◆こうして2年間、自分の思うままに過ごしてきた私に、レシフェの人々はとても優しかった。修了式では、泣きながら熱いハグとほっぺたへのキスが、おおげさでなく何十人と続いた。レシフェを出る日、空港には20人以上の老若男女が集まってくれた。最後の最後まで手紙やプレゼント、バラの花束をもらい、ハグをしてキスをして、泣いて泣いて。
◆2年ぶりに行った地平線も、優しかった。発送作業で新しい友達が出来たのも、報告会の日、メールで近況報告をしていた皆さんと話せたのも本当に嬉しかった。二次会でも多くの人と話せた。驚いたことには、猛者ぞろいの地平線の中でさえ、私は肩の力を抜いて楽しめるようになっていた。初参加から9年経ってようやく得た境地だ。これまで、どれだけ肩肘張っていたのやら。いつまた通信を読むことさえ出来ないような落ち込み期が来るかは分からないが、しばらくはこのままでいたい。毎月、報告会に行くつもりです。(後田聡子 )
この間の台風4号すごかった! 沖縄で生まれ育った人にとってはたいしたことないかもしれないですが、沖縄に移り住んで2年目、ナイチャー嫁の台風体験記を書いてみます。
◆さすが沖縄の人達は慣れていて台風が来るとなるとあちこちで台風対策を始めます。うみんちゅ(漁師)は、船を陸に上げてしっかり固定します。港には一艘もなくなりうちの前の道路には船がずらりと並びました。私達は牧場でヤギ小屋の補強、雨対策、餌の草刈り、風で飛びそうなものをしまったり固定したり。台風がくると潮風で葉が茶色になって落ちてしまうため、ヤギの好きな葉はなるべく刈っておかなくてはなりません。家では庭の片付け、雨漏り対策などなど。そうこうしているうちに風がだんだん強くなってきて、海はものすごいしけてきました。
◆去年は沖縄本島直撃はひとつもなかったのに、今年は7月に入りすぐにきた台風が大当たり。きっと那覇とかの街中で、アパートとかに住んでいたらそんなインパクト強くなかったかもしれないけど、ここは浜比嘉島。本島と橋がつながっているとはいえ離島で、ヤギ、アヒル、犬などの動物たちを飼い、住んでる家は海のそばのおんぼろ(良く言えば古民家)。リビングは庭、トイレは外という、ネパールのバッティそのものの、もろに自然とそのまんま向き合う生活をしているとなると、930hPaのまんま来る台風はまさに体当たり状態!
◆それに今回の台風は暴風雨圏が広く、丸一日以上暴風雨の中。ピーク時の風速はなんと風速60m。外には一歩も出られません。休みなく襲って来る突風、海が荒れ狂っている音、そして家のあちこちの雨漏りに緊張の連続。怖くて何も手につきません。やることなくて暇なんだから三線でも弾くか、なんて気も起こりません。何度か家がみしみしいったり下からふわっと浮きそうになります。この家大丈夫かなあと不安になり、持ち出すものはと考えましたが、こんな暴風の中逃げることなんかとうてい無理。停電でろうそくの灯りを見つめ、ラジオに耳を傾け膝を抱えてじっとしているしかありません。
◆一番困ったのがトイレです。外にあるので風と雨が少しでも弱くなった時を見計らい駆けていくのですが、トイレを出ようとする頃にはもう外は土砂降り。これからどんどん激しくなるのにどうしようと思ったらダンナはペットボトルで簡易トイレを作成、「これがあれば大丈夫さあ」と自慢気。私のも作ってくれました。気圧計はどんどん下がっていき、ラジオは那覇が「目」に入った模様と伝えました。牧場はうちから1キロほどの山の中。ヤギたちが心配ですがとても出かけられないので、いっそ「目」に入ってくれたらその隙に、と思い待機しましたがなかなか風は弱まらず。そのうち風向きが東風から南風に変わり、ますます雨風が強くなってきました。
◆昨晩から軒下にもぐっていた琉球犬のゴンが、風向きが変わったとたんに出てきて縁側の上に上がり「助けてくれぇ」とサッシ越しに立ち上がり顔を近づけるので、ダンナはずぶ濡れになりながらゴンをシャワー室の中に連れていきました。そのあとです、ツリーデッキを作ってあった庭の大きながじゅまるの枝がだんだん下がってきているみたい、どうしたのかなあと思ったら、どうやらこちら側に倒れてきているようです。おいおい……。
◆2日目の午後、ようやく雨が小降りになってきました。まだ風は強くうなりをあげていますが外に出てみました。周りの高い木は枝がぼきぼき折れて見通しがよくなってました。庭のがじゅまるは無惨にもツリーデッキもろとも根っこから倒れてしまっていて、一部が屋根にかかり瓦が数枚割れていました。隣の敷地のカヤック置き場にあったプレハブ小屋が、なんとごろりとひっくり返り奥の家の敷地に転がっていました!
◆牧場に行ってみると、風景はだいぶ変わっていました。木々は折れうっそうとしていたジャングルは随分と見通しがよくなってました。小屋は補強の甲斐あって無事。ヤギたちはおなかがすいていたみたいで私達の足音を聞いたとたん怒涛のエサくれコールのめえめえ攻撃。ところがえさを入れていたケージ(大人4人でも重たくて持てない鋼鉄製)が飛ばされ林の中に転がっていて、やっと扉をこじ開け中の草を引っ張り出しましたが、濡れているのでかわいそうでした(ヤギは濡れたり地面に落ちた草は食べない)。でもはぐはぐ食べてました。小屋の中も結構濡れてました。雨がかなり吹き込んだのでしょう。
◆ひとつ嬉しいことがありました。1か月前に家出していた島ヤギのオスが放浪を終え帰ってきていました! 近寄ると膝に顔をすりすり。よっぽど台風怖かったのね。他のみんなも怖い思いをしただろうなあと思うと一匹づつなでてあげました。アヒルたちは平気な顔して水たまりで水浴び。ニワトリも元気に走り回っていました。台風が去ったあとは後片付けにあちこち大忙し。沖縄は「ゆいまーる」といって助け合い精神があるので、あっという間に片付いてしまいます。うちの‘がじゅまる’はユニックを持っている島の人が起こしてくれて、元通り。潮風でいっせいに葉が落ちた木々はもう若芽が吹いて青々としています。あと2週間もすれば元通りでしょう。
◆さあ、まだまだ台風シーズン。次の台風に備えなくては。では暑い日が続きますがまたや〜さい! 心配して連絡下さったみなさんありがとうございました!(浜比嘉島にて 外間晴美)
屋久島へ向かう道中手にした機内誌に、絵本作家の五味太郎氏がケニアの紀行文を寄せていました。それは、サバンナの風を、においを、動物たちのことを「ずうっと前から知っている」と同時に、やはり初めて出会うものだとも認識しているところから始まり、作家として散々見てきている実際の対象ではない「昔から知っているもの」を描いた結果、描いたものが自分にとって初めて見るそれならば嬉しい、と続き、そして、旅そのものに慣れることはなく、飽きるほど長くやっていても今日という日は初めてで、それは「そう慣れているとは言いにくい日常と同じだ」と結んでありました。とらえ違いをしているかもしれませんが、その文を読んで、私なりに思い当たるところがありました。
◆いろんな物事は経験に比例して身に付いていくものですが、同時に経験値というものは、自分を押し出すための(時に大事な)思い込みであるところも多分にあると思われます。私なんて、20年近くやっている仕事も未だ毎日たどたどしいですし。細胞だって毎日生まれ変わっているそうですし。昨日と同じ今日なんてありえないのですし……。ですから、今回で32回目の屋久島行きも、やはり新鮮です。「懐かしい新しさ」に出会う日々に、決して慣れることはありません。
◆屋久島に到着した日の夕方は、同じ集落の別の家に引っ越す友人の人海戦術的引っ越しをちょっとだけ手伝いがてら、新居を見てきました。昭和48年築の木の家で、あまり高価なものではないとのことですが、ところどころ屋久杉も使われています。屋久島の古い家がそうであるように、風通しをよくするため山側に面して建てられています。ふすまで仕切られる田の字間取りの畳の部屋、大きな押し入れ、音開きの仏壇スペース、なぜか畳の廊下、たくさんの引き出し。雨戸の上に並ぶ小さな窓ガラスは明かり取りでしょうか。台風で閉め切っても採光されそうです。荷物を少し運んでから、ふすまが外され広々とした畳の上に座ってビールを飲んでいると、なんだか懐かしい気持ちになりました。もうすぐ1歳になる息子さんは、きっとこの家のいろんな木目や、畳の感触に親しみながら大きくなるのでしょう。自分の子どもの頃に重ねあわせながら、そんな郷愁感のようなものが湧いたりもしました。
◆夜はまた別のお宅にお呼ばれして、夕食をごちそうになりました。夫人のおいしい手料理をご夫婦、息子さん、親戚の方と一緒に囲みました。翌日夜はお祭りの打ち上げ花火を見に。友人たちとごはんを食べていたら遅くなり、車で走っていると前方で花火が打ち上がりました。帰り道では、種子島からの打ち上げ花火も遠くに見ました。また翌日、部屋を借してくれている人に教えてもらった川へ泳ぎに。ひとり緑色の淵を泳ぐ爽快さと心もとなさ。そんな風に前半は過ごしていました。
◆いつもより少し長めに滞在できる夏。今回は9日間です。ここ3年ほどはネイチャーガイドの会社にお願いして、エコツアーの後ろにくっつかせてもらったりもしています。数年思い続けている「つながりを実感する力」についてヒントをもらうための試みですが、いざ始まると、お客さんのサポートすらままならず、ともかく一緒に楽しむ以外術無く終わってしまいます。ガイドという仕事の多面性と奥深さを感じさせられます。
◆昨日はヤクスギランド、今日は沢登りに行ってきました。お世話になっているそのネイチャーガイド会社のボスが雑誌のインタビューに答えて曰く、ガイドの仕事を通して伝えたいことは「人」と「自然」ではなく、「人も、その営みも、すべからく自然である」ということ。そんな言葉も思い出しながら過ごしています。明日は宮之浦岳日帰りツアーに参加させてもらいます。きっとまた余裕なく過ぎていくのかもしれません。それでも新しい何かを感じられる予感はします。
◆台風4号が通過した後から雨が戻ってきた屋久島は、今日も降ったり晴れたりとめまぐるしく、またすっかり潤いの島に戻ったようです。空では入道雲とうろこ雲がせめぎあっています。明日は午前4時30分に事務所に集合です。寝坊しないようにしなきゃ。(8月8日 屋久島病のねこ)最後に、かつて書いた詩を。
きみに会える また会える
いつかのきみに
知りもしないきみに
忘れてしまったきみに
よみがえってしまったきみに
あの人としてのきみに
二十億光年離れてたきみに
7千年前のきみに
会える
会える
会える
そしてきみは
いつかのぼくに
知りもしないぼくに
忘れてしまったぼくに
よみがえったぼくに
百億光年離れてたぼくに
7千年前のぼくに
会える
会える
会える
未来へ
なつかしいあしたへ
「夏休み直前企画」として、豊島区立西巣鴨小学校の課外授業に、相方・加藤士門氏と共に行って参りました。体育館に輪になって座るみんなの真ん中に拍手で迎えられ、3、4時限目(図工の時間)の6年生の授業はスタートしました。
◆「音」を感じる。毎日は「音」でつながっている。という今回のテーマ。殆どのみんなが三味線を間近で見るのは初めてで、「この楽器がどんな動物から出来ているか?」というクイズには一斉に手が挙がり、「サメ!」「ラクダ!」など様々な珍回答が殺到(正解は皮=犬、津軽三味線は猫ではありません。バチ=亀の甲羅+水牛の角)。士門氏による動物のお話(象やクジラがどんな風に音を使って気持ちを伝え合っているか)の後、現地録音の森のCDを流すと、体育館は日常の空間から森へと早変わり。二人で屋久島の旅で受け取ったイメージから作った曲をエピソードを交えて演奏し、さらにこの楽器のふる里、津軽という土地に生まれた唄を聞いてもらいました。
◆初めて出逢う音への熱心な眼差しがひしと伝わる緊張感が、演奏する僕等を一番心地の良いところへと誘ってくれるのでした。和太鼓・リコーダー・ハーモニカ……。「決めごと」の何もない自由なセッションが突然始まり、みんな戸惑いながらも楽しんでいました。最後にみんなで静かに目を閉じて耳を澄まし、士門氏の「これが世界で一番大きな音だよ」の言葉で授業は締めくくられました。
◆僕は始終、小さな聴衆達の元気な笑顔や拍手や握手(最高のおもてなし)にしびれっ放しでありました。それはまるで大いなる交流と言えるもので、身近なようでいてなかなか触れ合う機会の少なかった彼等と僕等は出逢い、音を通じて一緒になって自然や動物に想いを馳せる豊かな時間を共有できた喜びは、とても新鮮なものでした。後日、受け取った当日の絵日記にはそれぞれが感じ取ったイメージが広い世界となって描かれていて、またひとつ新しいステージを垣間見た想いがしたのでありました。
◆5月の通信で告知させて頂いた、N響と三味線のコラボレーションのお話、先方の事情により流れてしまいました。先月の報告会での山崎美緒さんの「チャンスは身の回りに溢れている」という言葉が心に滲みました。いつでも、目を凝らせば新しいステージが見えてくる。今回の挑戦を次に活かしてゆけたらと思います。また、面白い企画があれば、お知らせします。(車谷建太 津軽三味線弾き)
酷暑には激辛カレーがいい、という。思い立って辛口には定評のある孤高の冒険家、田中幹也にレシピを書くように頼んだ。素早くかえってきた内容はいちいち胸にグサ、でほとんど自分のことを言われているのかと腹が立ったが、頼んだ手前、仕方がない。すべて田中幹也の独断と偏見なので都合の悪い向きは無視するように。(E)
現役時代にさえなかった人ほど、後年に武勇伝を語る。武勇伝とは、失敗談を成功談に変えてしまう特殊なジャンルの文学。
周囲の評価が判断基準の人ほど、周囲から評価されていない。周囲の評価が判断基準の人ほど、利用しやすい。
歳だからできないと言っている人は、若いころに何も成していない。若いからできないと言っている人は、適齢期がきてもやらない。人の可能性は、20代までに何をなしたかで決まる。
才能ない人は、飲んだ席でのみやる気をしめす。才能ある人は、窮地に陥ってはじめてやる気をしめす。
才能ある人は、歳とともに賢くなる。才能ない人は、歳とともにダメになる。
なんとかなると言っている人ほど、危機に直面するとパニックになる。なんとかなったということは、どうってことないこと。
やればできると言う人は、やれば誰でもできることしか成していない。
ノウハウを聞きにくる人は、たいていやらない。ノウハウを詳しく訊く人ほど、やってもうまくできない。
勉強していない人ほど、薀蓄を傾ける。勉強している人ほど、無知を装う。
才能ある人が、謙遜すると謙虚になる。才能ない人が、謙遜すると見栄になる。
少し知識があると、部外者のように的確な判断ができなくなる。深い知識があると、視野が狭くなり客観的な判断ができなくなる。
実力のない人ほど、教えたがる。教えないとできない人は、教えても結局できない。
自信満々の人ほど実力が伴わない。自信や誇りを持つと、可能性はそこで終わる。
地平線通信、地球を渡る風がそっと同封されているようで、 毎月ちょっと嬉しい気分で封を開けます。久しぶりに江本さんからの電話。「そうだ、今回は優美さんが書いてごらん」と直感で指名され、数日間はもうドキドキしていました。名高い探検家たちが表現している地平線通信に一体どんなことを書けばいいんだろう、と。ほんの小さな歩みですが、私なりに書いてみました。私が江本さんから頂いた宝物。その言葉から始めたいと思います。
◆「戸高くんと君は違うのだから、あなたはあなたの考えることや感じていくことを大切にしなくては」。かれこれ12年前、結婚後すぐ、ヒマラヤ登山がどんなものなのかも知らず、ブロードピークの縦走登山に同行する26歳若妻の私に江本さんが告げてくれた言葉。ヒマラヤに向けて一心に走っていた時期に結婚するなんて、おいトダカ(注:登山家、戸高雅史さん)大丈夫か!と誰しもが思ったことだろう。私も自分がパキスタンの高地に行くなんて、想像もつかないことだった。それから6年間、パキスタン、ネパール、チベットと単独登攀にこだわる夫と共にヒマラヤに通うようになった。
◆私は高地の人々の暮らしに触れること、大自然のいのちにすっぽりと包まれて過ごすベースキャンプ生活が楽しみだった。そして、途中現地の子どもたちに、村を案内してもらったり、彼らと遊べることがうれしかった。登山に意識を集中している夫にはいつも心に壁があるようで、またその領域を侵したら、一緒には行かれないと思う孤独感があった。
◆だから出会う子どもたちとの一期一会を大切に私なりの旅を進めていきたいと願った。言葉が通じなくとも、鬼ごっこや、大きな手鏡持参で似顔絵屋を開き、子どもたちの好奇心と交流する。互いの気持ちが通じ会い、バイバイと手を振って別れる瞬間に訪れるさわやかな気持ち。媚びない、その笑顔と出会えたことがうれしくて、車内に戻りほっと一息ついて、空と雲を眺めて移動する時間が心地よかった。
◆02年、トダカが体調を崩したことで毎年通っていたヒマラヤ行きを休止。クライミングのトレーニングに適していた湯河原の住居から、標高の高く涼しい山梨・山中湖に移住した。それまで続けてきた野外教育の仕事は宿泊が絡むので引退し、専業で子育てすることに。初めて体験する普通の暮らしとも言えた。社会に身を置いてみて、役場や病院のやり取りの事務的な運びの中に、人としてあたたかい気持ちで仕事をしている人が少ない現実が悲しかった。乳児サークルもどうも馴染めない。
◆日々の生活や子育てから逃げたがっている母たちがなんて多いことだろう。友人がひとりもいない地で、私自身も、仕事の充実感や大きな目標を達成する登山中心の緊張した生活に戻りたかった。自分という存在がなくなってしまったような閉塞感に落ち込んだ。けれども、考えた。自分の選んだ現実を社会や家庭に責任転換するのではなく、主体的に子と育つ時間を創造していこう。「いかに楽しむか」を提案しよう……。
◆森があり、自由に焚き火のできる施設をお借りして、遊びの会を始めた。春なら山菜を採りに山に行く。夏は山中湖にカヌーを出して本格的な水遊び。秋は焚き火。冬は除雪の入らない林道へ、子どもをソリに乗せて雪遊びに出かける。アイゼンがあれば歩きやすいと、軽アイゼンを装着して遊ぶ母たちってなかなかいないかもしれない。富士山に雪がつけば、親子でマイソリ持参の大そり大会。そこはまるでアラスカのディナリだ。大人がみんな、「ここは日本じゃないよね!」と遊びの新鮮さに夢中になった。
◆『風ん子』と名づけた私と仲間たちの活動は、「からだと心を解放できる自然」にこだわった。自分がしてみたいことを、同じ立場の者同志でフォローし合いながら、実現していく。母になる前に、それぞれの人が構築してきた世界を存分に表現してもらった。例えば、青春時代の大半を演劇にかけてきた母親には、ひとり芝居を演じてもらった。いつも一緒に遊んでいる人がまるで別人のように語りかけ、仲間たちを芝居の世界に惹きこんでいく。その真剣さ。1年に1度のその舞台には、彼女が演劇人として在った過去と今を結んで深く共感する時間が流れる。
◆小さな頃から集団適応を強いられてきた世代の私たちにとって、社会的な枠組みにとらわれず自分の心を大切にすることは意外に難しい。けれど、母たちがかつての自分のスキルを使い、活き活きと自分を生きられる場になった時、なにかが変わる。特別なことができる必要はない。その人が限りなく、その人らしくあればいい。良い母親を演じるのではなく、私が私であることをよろこんでいる傍らに、育ちたがっている小さな人がいる。人として本能的な気持ちよさ、安心して遊べる場があれば、子どもも大人も感性を育み、自らに働いている力(いのち)を信じていくことができるのではないだろうか。
◆毎日ヘトヘトになるまで遊んだ。「こんなに遊んだことはこれまでなかった」という母たち。子どもと一緒に、もう一度、自身が子どもをやり直している。木の葉と光がたわむれる美しさに、かけがえのない瞬間を感じとれるようになった。それを言葉にして伝え合える仲間ができたことはしあわせなことだと思う。私がヒマラヤで体験してきた世界が、いま日々の中にある。「あなたはあなたを生きているか」という12年前の問いの深さを改めて感じている。(戸高優美)
■ラサの昨日の最高気温は25℃を超えたらしい。年々暑くなっているような気がする。湿っぽくないのが幸いだが、雨の量が増えた上、降る時期が読めなくなってきている。まもなくラサの夏祭り、ショトゥン祭(ヨーグルト祭)を迎えるが、そのメインイベントは、デプン寺の巨大な刺繍タンカ(仏画)のご開帳だ。もともと年に一度、陽の光にさらすために行なうのであるから雨が降っては困る。実際ショトゥン祭当日に雨に降られるのは珍しいのだが、これはご利益とかいう話ではなく、旧暦と天候が合っていたからだろう。しかし、昨年は大雨に降られて、ご開帳がかなり遅れた。今年も天気がぐずつきがちで、これを書いている今現在も激しい雨が降っている。農家も大麦の刈りとり時期にだいぶ迷ったそうだ。旅行会社のツアーのお客さんをご案内する身としては先が思いやられる。
■気候が狂ったのは中国人のせいである――と多くのチベット人は都市伝説的に確信している。この「中国人」というのは、移住してきた漢民族のことだ。私はそこまでシンプルには考えられないが、ラサ近郊の牧草地がいつのまにか舗装され、背の高いマンションがずらりと並ぶ新しい街がいくつもできているのを見るにつけ、チベット人に賛成したくもなる。あちこちで鉱山採掘を盛んにやっているのも、チベット人にはキモチ悪く映っている。
■こうした激しい変化の象徴といえるのが、昨年開通した青海チベット鉄道(青蔵鉄道)だ。日本でも今年の正月にNHKスペシャルが絶賛調で紹介したこともあり、鉄道でラサを訪れるツアーは大人気となっている。かくいう私も『天空列車――青蔵鉄道で行くチベット』(集英社インターナショナル)という本を書かせていただき、ブームの片棒を担いでいる最中だ。
■天空列車(阪急交通社の登録商標)に乗っているのは観光客だけではない。青海省西寧とラサを結ぶ列車には、青海省・四川省・甘粛省からのチベット人巡礼者が多く「安くて便利で楽になった」と喜んでいたし、旧正月明けの四川省成都からの列車は、チベットの道路や建物の工事現場に住み込んで働く出稼ぎの漢族農民たちでいっぱいだった。ラサから広州へ向かう列車は帰省する若い人民解放軍兵士たちを満載していたし、客車とは別に貨物列車も毎日大量の物資をチベットに運び、(たぶん)地下資源を運び去っていく。
■といった余計なことを考えず、置きざりにされた資材やズタズタに切り裂かれた草原を見なかったことにしておけば、車窓からの風景は感動的に美しい。チルー(カモシカ)やキャン(ノロバ)も線路のすぐ近くまで遊びにきてくれる。これが酸素も気圧も気温も快適に保たれた車内でゆったりしながら楽しめるのだ。せっかく完成したのだから、車両や風景がキレイなうちに乗っておいたほうがいいかもしれない。機関車はGE製、客車はボンバルディア製だが、篠田節子氏が『山と渓谷』誌に書いていたように、吸入式トイレが逆噴射するといった「事件」が、すでに起こったりもしている。
■青蔵鉄道も開通したことだし、チベット(自治区)は外国人に対してようやくオープンになったかと思いきや、実際はまったく逆。許可証発行のシステムやバスでの旅への規制など、なんだかますます面倒くさくなっている。北京五輪を前に、変なことが起こっては困るからだろう。とはいえ、ホームページがブラックリストに入って中国から見えなくなって久しい私のような者もこうしてラサにいられるぐらいであるから、どなたさまも安心してお越しいただきたい!(ラサ9日発 長田幸康)
シャングリラよりニイハオマーヽ(^。^)ノ? 雲南はただいま雨期の真っ只中! 2か月のチベット旅も(無事に)終え、中休み中です。いや〜、それにしてもチベット東部のカム地方、安東さんに聞いてはいましたが自転車で越えるのは大変な作業でした(おまけに彼は冬!)
◆原風景の中を走りながら色々感じました。いまも生かされていることへの実感と感謝。苦しい毎日でしたがその中でしか見られない無限の世界は、年齢と病を超えたさらなる挑戦になりました。これからは雲南を南下しラオス、18年ぶりのタイに向かいます。
◆ただ走るだけの旅には魅力を感じていません。傷ついてきた分、私はやさしい人になりたいと願ってきました。強くなると人にもやさしくなれるから。自由車で魂を磨く旅、つづけてゆきます。エミコ&スティーブ(^_^)(^v^)/地球をEnjoy♪(ブログ http://www.yaesu-net.co.jp/emiko/ )
追伸=江本さーん! チョモランマに向かう途中、渡辺一枝さんにお会いしましたよー。とーってもステキな方でした♪♪♪
この角を曲がると、既に知っている風景がある気がする。初めて訪ねたモンゴルのウランバートルは、旧ソ連の面影を残すウズベキスタンのタシュケント、または、ベトナムのハノイの街角に、そして、香りは人の活気を感じさせるタイのバンコクやインドのニューデリーに似ていて、「既に知っている」錯覚を起こさせる不思議な場所だった。
◆旅から刺激を得たいと考えている旅行者の自分にとっては、知っている「ような」場所というのはなんだか寂しい気がしないでもない。世界の街角が均一化されているのか、それとも自分の経験がそれなりに積みあがってしまったためか。おそらく脳の中で両方がせめぎあいそんな感覚を生んだのだろう。
◆ホテルやレストランや商店を見れば、ウランバートルが多くの旅行者たちの要望にしっかり応えてきたということ、また、地元の人々もそれを享受してきたことがわかる。建設中の建物が町中にあふれ、スフバートル広場近くのひときわ大きなビルはヒルトンホテルだという。民主化されてからまだ15年程しか経っていないとは、ちょっと想像できない。92年当時は、物資が不足し、各家庭では配給券を持ち列を作って食料を手に入れたというから、まさに社会主義から民主主義へと移行する過去20年は大きな変動の時期であったのだろう。
◆ところで、今回の旅はモンゴルの西域、ロシアとカザフスタンの三国の国境に位置するモンゴル最高峰であるフィティン峰(4374m)登山を目的としてやってきた。ホームページでたまたま見つけた地元エージェントの公募に申し込み、現地で私のほかアメリカ人のクライアント3人と、登攀ガイド、ウルギーの地元ガイド、コック、運転手と落ち合う。登攀ガイドは、なんと2006年にモンゴルと中国のチョモランマ合同登山隊で隊長を務めたガンガマーという女性だった。去年大統領をこのフィティン峰へ北稜から登頂させた立役者でもある。
◆年齢を聞いても秘密といって教えてくれないが、私よりも少し若いくらいだろう。ガンガマーはほとんど英語が通じず、私は英語と日本語で、アメリカ人は英語で、ガンガマーはモンゴル語で「ザイルいっぱい!」「確保して!」とかいいながら行動したが、不思議にコミュニケーションが取れる。感心したのはガンガマーのリーダーシップだ。ひとりひとりを良く観察し、臆することなく少ない英単語とゼスチャーを駆使して指示を出す。その日のルートとそれぞれの調子を見てザイルの編成を細かく変えるし、隊をまとめて前へ進める推進力は見事だった。
◆ときに「Go,Go,Go」などとザイルが足りなくなっても一方的に指示するのは参ったが、そのうち私たちは私たちで「ザイルはずしてカラビナ通して行こう」とか「雪庇がありそうだから山側を巻こう」とか、状況に合わせて行動できるのも面白かった。
◆ある夜、ガンガマーが小さな頃の話をしてくれた。6歳から中学生の頃まで300頭のヒツジの面倒を任されて育ったということを聞き、なるほど、グループをとりまとめる能力はまるで遊牧の少女のようだなあ、と納得しうれしかった。
◆出発前、江本さんからは「モンゴルの山は簡単だから心配ないよ」といわれ、私自身も気軽な気分だったが、なかなかどうして、今までに経験したことのない氷河の悪さには驚いた。ずたずたに裂かれた氷河を飛び越えたり、ときに、腹ばいになって通過したり。氷河の処理の仕方を今回ほど学んだことはない。同じ時期に、モンゴルの氷河調査隊がBCに来ていたが、彼らは「氷河は1年に5メートルも後退していることがわかった」と言い、ガンガマーも「去年よりも、氷河の状態がずっと悪くなってて危ない」と言う。
◆それに加えて、エリア的な天気の悪さもあった。地元ガイドによれば、フィティン峰周辺は独自の気流の流れがあり天候のパターンが読みにくいと言う。連日の雨と雪が続き、停滞続きで登頂は無理かな、と思っていたときに、たまたま好天が巡ってきてくれた。二転三転した挙句に、今まであまり登られていない、岩と雪の南東稜から登頂し落石の多い南壁から下った。山は逃げない、と思ってきたけれど、こんな状況が続けば山は逃げるのかもしれない。登れるときに登っておかないと、などと思ったりした。
◆会社員として給料をもらいつつ、有給の範囲とはいえ、長めの夏休みをもらっての海外登山をはじめたのが9年前。当時の上司たちは「有給は働く側の権利だし、あなたの場合はメセナのような意味あるから」と私にとっては都合の良い誤解とともに快く休みをやりくりしてくれた。それにしても経験そのものに社会的な意義を見出せる価値観を持つ企業人は日本にどれほどいるだろう。行動する側にとってみれば、山での時間は2週間が1年や2年にも匹敵するほど濃密に感じるものだ。二人はすでに定年退職をしてしまったが、未だにまわりから「夏休みに山に行く人」として扱われている。ありがたいことである。(恩田真砂美)
風間深志さん(56)がユーラシア大陸約18000キロを大型スクーターで走破、8月8日、帰国した。2004年の「パリ―ダカール・ラリー」の事故から3年、6月15日、主治医の一人、帝京大学医学部付属病院医師の竹中信之さんと、富山・伏木港を出発。ロシア・ウラジオストクから52日をかけてポルトガル・ロカ岬に到達した。
20代のときはフル装備でアンデスの峠をさんざん越えたのに、単発なのに4000mの峠がこんなに疲れるとは年のせいかしら。ふもとの町エバーグリーンからMt.エバンス山頂まで2200m→4200mの60kmに6時間もかかってしまった。今年のコマ切れ世界一周コロラド編走行中。(コロラドの絵葉書で氏名不詳氏から。多分、あの埜口保男氏であろう)
ごぶさたしています。お変わりありませんか?念願の四国一周自転車旅行をしてきました。春に紀伊半島を縦断し、1日100km走れたので今回は1日150kmいけるだろうと甘くみていました。ところがこの暑さ、150kmを走るには10〜12時間行動(休憩を含めて)が必要でした。それに登り坂! 車やオートバイでは何でもない所ですが、自転車は自分の足ですから、ぞっとさせられます。家に帰り着くまで車がこわくて緊張し続けました。日本は広くよいところがたくさんあります。自分の足(人力)でそれらをこの目でたしかめたくなりました。ご自愛ください。
急坂に雨降り行方の不安増す
紀泉国境鍋谷峠(7月21日)
経巡りて四国の高嶺石鎚の
頂に立つ七日目にして(7月27日)
(8月5日 スケッチ入り絵葉書 宇都木慎一)
3月に出版した「この大地に命 与えられし者たちへ」(清流出版)は、人間社会の混乱と歪みに焦点を当てた本です。
◆今回は一転して、動物や植物を中心にした自然界がテーマです。自然界では、一見まったく違った存在にも見える生命が、互いに関係する中で循環を作り出し、最終的には地球という生命体を形づくっています。繊細で巧妙な地球のバランス。助け、助けられる関係の中で循環する生命。しかし、それが今危機を迎えようとしているのも事実なのです。
◆人間の姿がまったく出てこない本。けれども、この本を読み終えると、そこに浮かび上がるのはまぎれもなく人間の姿であるはずです。前回の本の最後の写真を、今回の本では最初の写真として掲載しました。つまりまったく別な2冊の本ですが、実は作者である私の中ではつながっていて、それを皆様にも感じていただきたいと願っています。
◆表紙写真はケニアで撮影したアフリカゾウの写真です。このゾウの目をよく見ると涙を流しているのですが、象牙を狙う人間によって友が殺害されることへの怒りと悔しさがその涙に出ているようにも、私は感じていました。
◆さて、3年近くかかった本の作成過程では、動物・植物に詳しい妻と、何度も話しいを繰り返しました。妻とダイアローグを続ける中で、私自身、地球的な視点を持つことができ、掲載した言葉も研ぎ澄ませることができたのだと思っています。本書が出る直前、突発した病気により妻は逝去いたしましたが、彼女の思いを私なりにあらゆる表現活動を通じて受け継いでゆきたいと思っています。
◆妻のことを書いた文章は「DAYS JAPAN 8月号/7月20日発売」に、私・桃井和馬との連名で掲載。また、「風の旅人 28号/10月1日発売」から3回連載で「妻との最後の10日間」を掲載予定です。(桃井和馬)
先日は貴重な本を沢山送ってもらいありがとうございます。また報告会では泊めてもらったりごちそうになったりで、あらためてお礼を申し上げます。私の方はあいかわらず猛禽類調査のあいまに山に行ったり、海へ行ったりしてヤスで魚を突いたり、ウニやサザエ等採ったりしています。
◆地平線報告会は、いつも私にとっても興味深い内容なので、都合さえつけばこれからも聞きに行きたいと思っています。なお私の次回の報告会は仕事の予定さえなければ、冬の1月でも2月でも3月でもいつでも構いません。またお会いできるのを楽しみにしています。(鶴岡発はがきで 松原英俊)
みなさんこんにちは。
前回のレターから、あっという間に一ヶ月が過ぎてしまいました。最初にお知らせです。8月25日(土)、エイ出版社「自転車生活」Vol.10が発売されます。「永島祥子の南極だより」も連載No.4まできました。よろしかったら店頭ででもご覧ください。6月からモンベルのホームページに「南極通信」というページができ、毎週そこに記事をあげるようになってから、「文章を書く」仕事に日常的に「おなかいっぱい」になるようになってしまいました。そうしたら、今までより、「そろそろ南極レターを書こうかな」と思うタイミングが遅れがちになってきたような感じです。実は今回はある人に背中を押してもらってようやく書き始めることができました。背中を押してもらってよかったです。ありがとうございました。
◆さて、今日の話題は何にしようかしら。これまでの「南極レター」を振り返ってみたら、野外の話題がとても多いですね。というか、ほとんどですね。モンベルのホームページを書いていても思うんですけど、私の目はほとんど外に向いているみたいです。身体もほとんど外にあります。「野外活動記録」というノートを個人的につけているのですが、数えてみたら昨年12月に南極に来て以降、これまでに野外で活動した回数は、45オペレーション、延べ70日です。4日に1日は外に出ている計算ですね。我ながら、「とてもよろしい」。
◆野外好き、といえば、先週末はそういえばキャンプをしていました。観測隊は、ピラミッドテントという、ピラミッドの形をしたテントを使っています。傘をさす感じで、4本のポールを開いてあげれば完成です。大きさは、たたんだ状態で、長さ280cm、幅30cm、高さ30cmです。重量は14kgです。こんなに大きくて重いテントは、モンベル社員としてはある意味目を見張るものがあるのですが、観測隊はずーっと昔からこれを使ってきています。何もここまで大きくて重いものを使わなくたって、もっと他にいいものがあるじゃないかと思わなくもないですが、これはこれで、観測隊の「歴史」とか「伝統」という味わいがあって、個人的には結構好きです。
◆今は8月ですが、南極では8月が1年で最も寒い月です。そんな時にどうしてキャンプなんてやることになったかと言うと、南極で是非テントに泊まってみたいという人たちがいたからです。彼らを越冬開始早々からたきつけていたのは私ですけれど。口を開けば遊びの話ばかりしていて、「テント泊とかどう?」とか、「自転車で西オングル(隣の島)のテレメ小屋(宙空部門の小屋)に泊まりに行きたくない?」とか、「あの島のあの斜面に、冬になるといい雪がついて、ここらじゃあ一番いい斜面になるよ」とか、「凧作って凧揚げしたくない?」とか、「あそこの池に行って、カーリングやろうよ。カーリングは何で作るのがいいかなあ」とか……言い出したらきりがないですね(笑)。
◆まあ、そんなわけで、ちょっと遊びに行ってしまったわけです。だって、私たちの週休2日は今月までしかないんです。しかも、「冬日課」で「週休2日」というのは、極夜を含む前後4ヶ月、太陽の出ている時間が短い(あるいは全く出ない)時期に設定されているので、「冬日課」期間で外で遊べるくらいの明るさがそこそこの時間確保できる時期というと、本当に限られてしまうんです。こんないいところに来て部屋の中でぼけっとしてるのはもったいないですからね。
◆参加者みんな、とても楽しかったようです。灯油コンロに火をつけるだけでも、使ったことのない人にとってはうまくつけられればうれしいものです。テントを張るのも、圧力鍋でご飯を炊くのも、気温-15℃の夜を寒くなく過ごすことも、全部そうです。私たちがこんな時期にキャンプに行くと言ったら、「お勧めできないなあ。楽しいわけないじゃん」と言う人がいました。でも、私は思うんですけど、「面白いはずがない」と決めつけるのもいいけど、やってみてから言ったら?と思います。実際、私たち、やってみて、とても楽しかったです。私たちがとても楽しそうに帰ったから、「次は参加したいなあ」という人もいました。やったね。
◆太陽が戻ってきたら、外に向く活力が一気に増した感じがします。同じ外での活動でも、極夜前より今の方が疲れない気がします。日に日に日が短くなる時期と、日に日に日が長くなる時期とではこんなに違うのかなあと思います。これから10月くらいまで、野外観測でとても忙しくなります。もう、10月までのスケジュールをすべて立て、支援者もほぼ決めました。全員が一度は一緒に野外へ出られるよう、旅行の回数と支援者の人数を何とか調整したつもりです。私が企画した旅行は3ヶ月間で8個。そのうちの一つは今週無事に終わりました。残り7個、ひとつひとつ安全にこなしていきたいと思います。そして、bワだ露岩域へ行ったことのない越冬の仲間達に、昭和基地では見られない南極の大自然を感じてほしいと思います。
◆結局今回も野外の話でしたね。基地での話題として、最近のマイブームの「雪上車整備」も紹介したかったですけど、長くなるので今回はこのへんにします。次号も楽しみにしていてください。(永島祥子@昭和基地 2007/08/10)
これは賀曽利隆のブログの一部である。昨年11月1日バイクで日本橋を出発し、毎日平均10湯ずつ温泉に入りながら日本全国を走り回るというなんともまあバカな計画を現在もまだ実行中だ。この日は出発以来202日目、温泉がひしめく青森に入り、18日には1日30湯という大目標にあわや到達しようかというところまでヒートアップした。1日の行動時間は12時間ほどだから、30湯入るためには1温泉の制限時間24分ということになる。◆これは風呂に入っている時間ではなく、ブーツや服を脱いで湯船につかって、飛び出して汗を拭いて再び服を着てバイクに跨って次の温泉まで走り、ブーツを脱ぐまでの時間である。昼食やトイレ休憩の時間は入っていない。残念ながらこの日は目標には達せず27湯止まりだったが、それでも184kmも走り、その間に27湯にも入ったのだ。誰か道案内の人がいるわけではない。地図で調べて行っても休業中だったり定休日だったりする。朝早くや夜中にやっているわけではないから時間も限られている。
◆温泉は癒しの場、かけ流しの湯船につかって、汗を流してさてビールというのが正道である。ちゃぽんとつかってさっと出ていくなんてのは温泉界の外道である。しかし彼は「肌が張っていれば、指でピンとはねれば水滴なんてとんで行くんで、手ぬぐいなんかいらないんですよ」とふき取る時間さえも惜しんでとんで行く。
◆もう20年以上も前、すでにその頃はバイクのカソリから、峠越えのカソリ、食文化のカソリ、さらに温泉のカソリという境地に入っていたのだが、「一緒に温泉に行きましょうよ」と誘われた。観文研の山崎さん、西山さんと私の4人で箱根に向かった。「今日は箱根7湯にはいりましょう」と言われて「バカ言うな、温泉は1日一つで十分だ」と西山さんは反論したが、「カソリ流温泉の入り方はこれですよ!」と言われついて行かざるを得なくなった。私は「それなら箱根駅伝コースを走りながら7湯に入るよ!」と対抗した覚えがある。あの頃から温泉のカソリは数が目標だったのだ。「1日30湯はギネスブックに載るよ」という人もいるが、そんなアホな記録なんかあるわけない。
◆温泉・バイクに加えて毎日写真入りのブログの更新をしている ( http://naviblog.mapple.net/3000onsen/ )。 毎日ではなく毎湯ごとに送っているのかもしれない。パソコンやブログとは縁遠い原始人かと思っていたが、なんと携帯でもブログを更新し、宿に着くとコメントに返事も書いている。サッカーのサウジ戦も見ていたらしく「う〜ん、悔しい…。」とも書いている。その量は平均で写真16枚、文章4000字にもなる。この地平線通信の見開き分の文章と写真入りのページを202日間毎日休みなく作っているのだ。
◆手書き原稿の頃も書く速さはものすごく、伊勢原から新宿までの小田急線のなかで立ったまま原稿用紙10枚ぐらいはお手のものだった。もっとも「カソリ文字」を判読するのは特殊技能が必要だったが……。パソコン、携帯に変わってもその速さと分量は変わっていない……。待てよ、平均10湯にしても、200km走って温泉に入ってご飯を食べてブログを書いていたら睡眠時間はどれだけあるのだろう。
◆まったくの連続ではなく、300日を8ステージに分けており、1ステージは50日ほどの単位になっている。ステージの合間には1週間ほどの自宅暮らしが入っている。その間に連載の原稿も書きまくり、旅費を捻出している。休養どころか逆に忙しくなっている。この通信が届く頃は東北編を終了して自宅に戻っているだろうが、電話をしてはいけない。彼の人付き合いのよさは誰しも認めるところで、もし電話をしたらすぐに出てきて終電までつき合う。その時間が睡眠時間を削ることになるのはわかっているので、最終ステージが終わるまではそばに寄らないようにしている。
◆1年間に300日も家を空けて遊び回るなんてことは人生においてもごくまれなことだろうとふつうの人は思うが、鉄人カソリは20歳の旅立ちからズーッとこの生活を続けているのだ。先日私は賀曽利の旅の距離と日数を数えてみた。彼は実に克明に走った距離と日数を記録している。この40年間で地球28周、今回の温泉旅は入っていないので、60歳までにたぶん30周になる。旅の空の日数は16年半になりそうだ。
前頁の表の内訳は以下のとおりである。1968年アフリカ一周を皮切りに、6大陸をバイクで駆けめぐる。「世界一周」の途中ではバイクでサハラ砂漠を縦断。「六大陸周遊」。78年「日本一周」。82年「パリ―ダカール・ラリー」。84年〜85年「南米一周」。87年〜88年「サハラ砂漠往復縦断」。89年「日本一周」。 90年「世界一周」。 92年〜93年「インドシナ一周」。94年「タクラマカン砂漠一周」。96年「オーストラリア二周」。77年「モンゴル3000km」。99年第3回目の「日本一周」と「チベット横断」。 2000年「サハリン縦断」&「韓国一周」。01年史上初のソウル発の「北朝鮮ツーリング」。02年「ユーラシア大陸横断」。03年「中国・北朝鮮国境走破」中朝国境の長白山に立つ。04年「中国・ロシア国境走破」中国最東端と最北端に立つ。05年13度目となる「サハラ砂漠縦断」と「韓国縦断」。06年日本〜イスタンブールまで「シルクロード走破」。そして今回の日本一周300日3000湯。
賀曽利隆氏の走行記録 | ||||||
年代 | 走行距離 | 地球何周 | 日数 | 何年 | ||
日本国内 | 世界各地 | 日本国内 | 世界各地 | |||
20代 | 0km | 315,000km | 7.9周 | 236日 | 1,722日 | 5.4年 |
30代 | 69,728km | 58,425km | 3.2周 | 773日 | 363日 | 3.1年 |
40代 | 208,199km | 136,000km | 8.6周 | 832日 | 549日 | 3.8年 |
50代 | 269,563km | 65,159km | 8.4周 | 972日 | 297日 | 3.5年 |
合計 | 547,490km | 574,584km | 28.0周 | 2,813日 | 2,931日 | 15.7年 |
毎日のブログをみて、カソリがどこの温泉にいるかをキャッチしようという企画が進行している。最高のカソリキャッチャーは5回だそうだ。あるいは雪が深くてカソリが入れなかった温泉だけを見つけて入っている人もいる。こういう人達を「カソリック教徒」という。まさに教祖カソリをあがめ奉る宗教団体だ。という私も多少は布教活動の一翼を担っているのだが……。教祖さまは半分終わった段階で日本の温泉ベストスリーを決めている。
◆第1位は静岡の吉原温泉という。こんな温泉私は知らないが、その理由は単純だ。「この日の第4湯目の吉原温泉『かつら館』は混浴ではないが、『男湯』の湯を落としてしまったので、『女湯』なら入れるという。○○さんは『カソリさんとならいい』といって混浴とあいなった。カソリ、もう有頂天。色白の○○さんの天性の美肌が温泉に磨かれてさらに輝きを増す」何という客観性のなさ。まあ教祖さまというのはこういうものだ。それでもカソリック教徒の数は年々増えているという。
◆10月末でこのアホな企画は終わるそうだ。その後はゆっくり飲もうかなと思ったら、「その後はすぐに南米ですよ」。生涯旅人を標榜しているカソリはまだ当分バイクを降りそうにもない。「宮本常一を超えるのはオレだゾー!」と叫んでいたとき、「そりゃムリだ!」と思ったが、移動距離と日数は確かに超えた。もしかすると中身でも恩師を超えるのではないかと思いはじめた。(三輪主彦)
時刻は14時50分。温度計の数字が「32」から「33」にひとつ上がった。と、そこへ道路元標の前で待つ私たちの目の前に、黄色いバイクが向かってこようとする。大きく手を振って合図をした。賀曽利さん、本州東部編の旅を終え、久々に東京への帰還である。ここまで4万7915km。「300日3000湯」の旅はきょうで224日目。きょうも4湯を足し、最後の足立区「保木間の湯じゃぽん」で2388湯。予定をはるかに上回るペースだ。
◆ヘルメットを脱いだ賀曽利さんの顔は真っ黒に日焼けしていた。グローブにスーツ、完全防備なのが気の毒なぐらい暑そうだが、これには訳があった。後輪がまったく溝のないほど磨り減ってしまい、バースト寸前。いつ転倒してもいいように身構えているのだ。そのために当初明日の予定だった日本橋への帰還を1日早めたそうだ。
◆サポートする昭文社のスタッフほか、「カソリウォッチャー」の出迎えを受ける賀曽利さん。やけにその顔がにやけていると思えば、あの色白の○○さんの姿もその中にあった。○○さんは仕事の休みを利用してきょうの午前中に越谷温泉「湯の華」で賀曽利さんをキャッチ、そのまま追いかけてきたのだそう。
◆タイヤ交換を急ぐ賀曽利さんは、さらに驚くべき一言を叫んで渋滞の中に消えた。「こうなったら4000湯を目指すゾー!」(にわか賀曽利ウォッチャー・落合大祐)
地平線報告会は、ここ数年新宿区榎町地域センターを借りて行っていますが来月9月は新たな場所で行います(ずっと同じ場所で続けるか様子を見て決めます)。新しい会場は高田馬場駅から歩いて10分の新宿区立新宿スポーツセンターです。戸山公園の緑地に囲まれた環境のいいセンターで、報告会場は2階の「大会議室」。
★新宿スポーツセンターの所在地は以下の通りです。
住所 〒169-0072 東京都新宿区大久保3-5-1
電話 03-3232-0171
http://www.shinjuku-spocen.com/index.html
。
「大会議室」は120名は入れる会場で、机つきです。
★9月の報告会は20日の木曜日、緑に囲まれたこのスポーツセンターで行います。
どうして20日なのか。
この日は我らが旅人、金井重さんの80才の誕生日。重さんを囲んで傘寿の祝いを兼ねた特別報告会にする予定なんです。どんな内容になるか、楽しみにしていてください。多くの方の参加を待っています。
■ちなみに、最近頂いた金井重さんのはがきから。
地平線7月号拝受。大変お世話になりました。○○のもと弱卒なし。編集のうまさもさることながら整理のうまさも大したもんです。家人(70代女)に見せたら私のにはふれず全体の内容がどれもすごいわねーとびっくり。私としては世の中は広いんだよ、どうだわかったかという気分。年令、職業を問わず誰でもびっくりする内容の読みやすい通信が毎月届くのは天からのおくりものでしょう。
月ごとの天地のリズムで行く人の
道すじ届く地平線から (金井重)
地平線ポスト宛先
〒173-0023
東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〒160-0007
東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)
■先月の発送請負人 森井祐介 関根皓博 三輪主彦 後田聡子(ブラジルから帰国したばかり) 鈴木博子(月末またもアメリカのトレイル・ランレースに出走) 車谷建太 片岡恭子 江本嘉伸(大事そうに羊肉を抱えて) 妹尾和子
ああ、今回もすごい展開だった。私の出発がきょう11日と決まっていたので、原稿締め切りを5日においてみたのだが、そう簡単にはいかず。何よりも肝心の報告会レポーターが青森のねぶたに逃亡したまま消息を絶つという非常事態が発生してしまった。遅れます、ともなんとも言ってこないのだ。「逃亡していたかとうです」のメールが入ったのが8日。なんとか間に合ったからよかったものの、一時は自分で書くか、と悲壮な覚悟も。
◆ほっとしたのもつかの間、今度は“常連”の『南極レター』が来ない。初めて南極なしで行くか、と諦めかけたが、いや、と考えなおし南極に催促メール。そしたらきのう10日になって飛び込んできましたよ、『南極レター』、ふう。でもよかった。永島さんに感謝。
◆恒例の夏便り(誰が決めた?)とあって、書き手も賑やかな布陣となり、ついに地平線通信史上最高の18ページに。どれも読ませる内容で、書いてくれた皆さんの思いがありがたかった。
◆最近よく聞く言葉。「編集長も大変だけど、これだけの文章を短時間に配するレイアウトの人もすごいですねえ」。その通りで、森井祐介さんのスピーディーでセンス溢れる仕事があるからこそ、こういう通信を届けることができる。すごいです、森井さん。
◆それから18ページをこうして80円でも送れるようになったのは、メール便に変えたから。その仕事をほとんど一手引き受けしてくれている藤原和枝さんにも感謝! カソリック教布教のため、締め切りを最もしっかり守った三輪さん、ありがとう。
◆原稿が多い、字が小さくて読めない、という声もあちこちから聞こえています。でも、しばらくいろいろやってみたいのでご理解を。なお、ここ3か月、宛名に「様」の敬称が略されてました。失礼しました。(江本嘉伸)
草原とアンテナ
地平線会議代表世話人の江本嘉伸さんがはじめてモンゴルを訪れたのは'87年5月。まだ社会主義人民共和国の時代でした。資本主義と情報の波に翻弄される前の牧歌的な草原の光景を思い出すと「遊牧と社会主義はどこか相性がよかったのかも」と江本さん。無血革命を経て'90年から共和国となったモンゴルは「ガラガラと変わって」いきました。 日本の4倍の国土に260万の人口。その4割100万が首都ウランバートルに集中。都市は物欲のるつぼとなって、人々があこがれる第一の国はアメリカです。太陽電池が普及し、今や草原の牧民でもTVがあたりまえ。首都から800キロ離れた山中でもケータイが通じるようになっています。広大な国土に眠る埋蔵資源を求め、カナダ、オーストリアをはじめ各国企業も進出しています。 今月は、初訪問以来定期的にモンゴルを訪れ、8/27に27回目の訪モから帰国予定の江本さんに、モンゴルの“たった今”を語っていただきます。元駐モ大使の花田公麿さんもゲストに駆けつけて頂く予定です。乞御期待! |
地平線通信 333 /2007年8月15日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/
編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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