「人生なんて、ほんの一瞬なんだ。少しほかのことに追われていたらもう5年もこの国に来ていないのだから」次第に高度を下げるOM502便の窓に顔をくっつけるようにしながら、心でつぶやいた。6月9日。確か26度目になるモンゴルだが、かくも長き不在は初めてだ。さあ、私は何を見るだろう。
◆予想通り車が溢れかえる道路状況だ。20年前はウランバートルの中央郵便局の交差点に1機しかなかった信号機が今では、どこにでもある。どうしたって走れない渋滞なのに、クラクションをビービー鳴らす運転手が多いので町中は賑やかなことこの上ない。
◆驚いたのは、市の中心部から遠くない地域にできつつあるビバリーヒルズもどき高級住宅街だ。ガードマンに守られて誰が住むのか、というような瀟洒なマンション、戸建住宅が並んでいる。きれいな家々が並ぶのはいいが、都市計画はかなり乱暴だ。「計画なんてまったくない。道路にだって建ててしまいますから」と友人のひとりは言った。
◆大通りをまたぐ巨大な横断幕が目についた。携帯電話を手にした新横綱の白鵬が故郷の父親、モンゴル相撲の横綱ムンフバトと話している図で、携帯電話会社のPRだ。馬を使った伝達はじめ通信手段を何よりも大切にしてきた遊牧国家で携帯電話がどれくらい普及しているか、は今回の旅の最大関心事である。首都では少なくとも私の友人たちは全員が携帯電話を持っていた。私も長年の友人、運転手のダンビさんの娘さんのふるいのを貸してもらった。それがなんと便利だったことか。ふるい知人たちと、携帯電話のおかげで苦労なく連絡をとりあうことができたのだ。
◆ところで、ついに東西ともモンゴル力士が横綱を張ることになった日本の大相撲人気はどうなんだろう。大相撲がモンゴルのテレビで中継されるようになった当初は中継が始まると通りから人がいなくなる、と言われるほどだった。白鵬が念願の横綱になってさぞや、と勝手に想像していたが、意外にクールだった。「いまは以前よりファンは減っています。というよりいい取り組みだけ見る、という人が増えた」と相撲通のひとりは言う。新横綱の白鵬についても「日本の女性と結婚したことで人気が落ちた」そうである。モンゴル相撲の強い血を望むファンをがっかりさせたのだとか。
◆15年前、ブフ(モンゴル相撲)の日本流出は、市場経済に走り始めたモンゴルの象徴的な動きだった。そのことを当時自分がいた新聞に1ページの特集で書いたことがある。皆、どうやって外貨を得られるのか、が最大の関心事で何よりも「関取になったら大統領の1000倍の給料がもらえる」という表現がわかりやすかったのだ。その後ODAバブルの時期を経て実業の分野で新興リッチが誕生し、今や石炭、ウラン、金といった地下資源の争奪戦が外資も絡んで複雑に進行する国となった。
◆ウランバートルから西へ車を走らせると、あっという間に草の香りに包まれた。運転席のダンビさんがニヤッ、としながら言う。「エルフニー ジャルガル エスギー へール(男の幸せはひとり草原にあること) 」ふたりで旅をする時、私たちはよくこの言葉を言い合って幸せになった。今も草原への懐かしさがこみ上げてくる。なんといういい香りの風だ。
◆あちこち回って一晩、遊牧民のゲルにテントを張った。朝、テントを開けると目の前にアルスラン(獅子の意)が座っていた。きのう私たちの車に吠え掛かった3才の、一見獰猛な黒い雄犬。しかし、私とビスケットを分かち合った後はもう古い友人の雰囲気である。遠くの囲いで長男のバヤルバト、三男のバヤンムンフは羊たちと格闘している。群れの中からねらいを定めた羊をつかまえて押さえつけ、尻のあたりに手を入れている。
◆糞の堆積に足をとられないように注意しながら近づいてみてわかった。尻のまわりの、糞尿で汚れてしまった毛を鋏で切り取っているのだった。このままにしておいては不潔だし、毛の質が落ちる。兄弟は1頭ずつ尻をチェックし、必要とみれば抱え込んで素早く鋏を走らせる。その精悍な目と体の動きに感動する。
◆バヤルバトの妻、ペルレーマーは母牛の乳にとりすがっていた子牛を引き離し、桶を置いて搾乳を始めた。ウランバートルの親戚から預けられた少女がペレルマーの隣に座り、彼女の仕事ぶりを真似つつ乳を搾る。9月まで3か月の長い夏休みが始まっている。町の少年少女たちはしばしば遊牧民のゲルに預けられ、草原の仕事を覚えるのだ。
◆夕食後の一休みの時間、何かが鳴った。ペレルマーの携帯電話にメールが届いたのだ。ソーラー電池でテレビも見られる。実は、一家の娘はオーストラリアにいて、時折携帯で話すと言う。町も草原もそれぞれの意味での大変貌を確認した5年ぶりの“里帰り”だった。(江本嘉伸)
午後8時45分。報告会終了まであと15分。突然、地平線会議代表世話人の江本さんが報告者の松原英俊さん(57才)に提案した─「松原さん、何か月かしたら報告会もう1回やりましょう!」
◆うーん、確かにそうだ。報告者の松原さんは日本最後の鷹匠なのに、30分の記録映画の上映を除いては、その時刻になるまで鷹匠の話がほとんど出てこなかったからだ。鷹匠にまつわる話を聞きたい。この会場の思いを江本さんは代弁した。とはいえ、松原さんの話を退屈そうに聞く人は一人もいなかった。それどころか、誰もが、ときに抱腹絶倒しながら話に引き込まれていた。松原さんの生き方の根本は「自然と一体になって生きる」こと。私たちは、「松原英俊の生き方」を堪能していた。
◆1950年5月、青森県生まれ。小さい頃からとにかく動物好き。小学6年生で早くも日本野鳥の会に入会したほど(当時の青森支部最年少)だ。中学校のときはアオダイショウを捕まえペットにした。1969年、慶応大学入学。野鳥の会サークルに入部するが、すぐに退部。自分のペースでゆっくりと鳥を見たかったから。単独登山を始める。
◆大学3年生になったら、サウジアラビアのラクダ単独横断をと決め、バイトで資金を貯めていた。だが、1年間の休学願いを出したあとドンデン返しが起こる。サウジアラビア大使館から許可されたビザはわずかに3日間だった。そこで松原さんは、その一年間を岩手県の寒村で過ごすことにした。農作業を手伝いながら、ときにブタのコエダメに落ちたり、子どもたちとコウモリや魚を捕まえる毎日は楽しかった。そして決めた─「どんなに貧しくてもいい。自然と一体になって生きよう」。そうして選んだ仕事が鷹匠だった。
◆卒業後、当時の最後の鷹匠山形県のKさんの元を訪れ弟子入りを志願。しかし、Kさんは「今は鷹匠で食える時代ではない」と弟子入りを拒否。確かに、今を例にすれば、苦労して取ったウサギだって、その皮は一枚たったの50円。「でも、食う、食えないは関係ない。私は鷹匠という生き方をしたかった。鷹匠は冬場に限られる仕事である以上、それ以外の季節を農業でも土方でもやれば、鷹匠はできるとの自信がありました」。そう思ったら引かない。近くの小学校の軒下に野宿しながら、断られても断られても弟子入り志願を繰り返し、とうとう7度目の訪問で「たとえ弟子にしてくれなくても、ここで野宿して、毎日通って技術を盗みます!」と宣言した。これでようやくKさんは折れた。
◆だが、師匠Kさんやその家族との人間関係に悩み抜き、Kさんの農作業を朝から晩まで手伝いヘトヘトになってからようやく鷹匠の修行は夜に始まるなど、その毎日は肉体と精神をすり減らした。そして1年後、独立。短い修行だったのは、一つにはKさんがもう80歳近いため、山に入っての実地訓練を望めなかったことだ。鷹匠の基本だけを教わり、クマカタの「寒太」を手に入れ、松原さんは一人、人里と隔絶された山小屋に住み込む。山小屋に電気ガス水道は一切なし。夜はローソクだけ。風呂はドラム缶の五右衛門風呂。年収は夏の土方仕事で貯めた24万円。だが「タカと二人だけで暮らせるのは至上の喜びでした」。
◆以上は、私の取材を少し補足して書いた。松原さんが8時45分まで話したことは、簡単に書けば「動物を自分で獲って食う話」だ。その動物が生きているかどうかのジャンルは関係ない。食うのである。だが、私たちが話に引き込まれたのは、そこに松原さんの何にも左右されない生き方が明確に現れていたからだ。ともあれ、話を紹介しよう。
◆CASE1 ヘビ・・中学生のときにアオダイショウを捕まえ飼っていたほどヘビも好き。それは、東京の下宿生活でも変わらなかった。登山中にヘビを捕まえては捌いて食料にした。そのうち「ゲテモノ屋に売れば金になるかな」と下宿にヘビを数匹持ち帰りダンボールで飼っていた。「でも、ヘビがダンボールから逃げるんです。ところが、真夏の暑い夜なんか、裸で寝ている私の体を這ってくれると涼しいんです、はい」。凄い大学生だ。話はこれで終わらない。ヘビはダンボールだけではなく松原さんの部屋から逃げて、下宿中が大騒ぎになった。
◆CASE2 ネコ・・冒頭、「嫌悪感を催すかもしれませんが…」と前置きしたのは、この猫の話のせいかも。大学時代の新聞配達をしていて、交通事故死した猫を発見。損傷の少ない遺体に「きれいな死体だ。これをカラスに食われるのはもったいない」→「食えるのでは…」→「食おう」。早速、下宿備え付けのフライパンで、ネコ炒めを開始。そこに下宿のおばさんが…。「何の肉?」「…」「ヤギの肉?」「…」「あんた、まさか人間の…」。さすがに告白した─「車ではねられたネコです」。すると、おばさん、「戦争中は、ネズミも犬も食ったからね」と、ネコ肉に、ネギを炒め生姜と砂糖を絡めてくれた。おばさんの勝ち!
◆CASE3 セマルハコガメ・・鷹匠は冬場に限られる仕事。それ以外の季節はアルバイトの時を除いて、米と調味料だけをもって各地の山や海で、自給自足のサバイバルキャンプを行っている。報告会の数日前にも、西表島の南端のキャンプ場で10日間、魚やタコをヤスで突いて食べていた。そしてカメを捕まえると、天然記念物のセマルハコガメだった。初めは箱に入れて見るだけで満足していたが、そのうち「食べてみたいな…」。だが一方で「天然記念物はさすがに…」。天使と悪魔の両方の囁きにその実行を決められず「一晩中悩みました」。類は友を呼ぶ。松原さんの背中を押したのは、キャンプ場に1ヶ月も泊まっているおじさんだ─「あのカメ、うまいよ」。よし! 翌朝決行だ。だが、そういうタイミングに限って、親切な誰かが箱の中のカメを逃がしていた…。
◆CASE4 ハブ・・何年か前、沖縄で交通事故死したハブを捕まえた。長さ1メートル半。見ているうちに、「ああ、食べたいな…」。誘惑に勝てず、死骸を紙袋に入れて手荷物で帰りの飛行機に持ち込んだ。山形の自宅で食べるためだ。だが、予想外の問題が。死臭が機内に漂い始めたのだ。「さすがにまずい。処分しなければ」。で、死骸をトイレで流すことに。だが、いざその時になると「せめて皮だけは」。機内のトイレでヘビの皮を剥いだ人間は史上初か。
◆CASE5 一石二鳥・・あるとき、アオダイショウが子ウサギを飲み込んでいるのに遭遇。だが大きい胴体は飲み込めなかったので、そのおこぼれをタカの餌にもらい、ついでにアオダイショウも捕まえた。「これが一石二鳥です」。
◆CASE6 ラ○チ○ウ・・立山を登山中、何気に石を投げたら天然記念物ラ○チ○ウに当たって死なせてしまった。「私は野鳥の会の会員なので、見つかったら大変とその場に埋めようとしました」。でも…「もったいない。食えるんじゃ…」。リュックに放り込み、人気のない場所で食べた。「野性味あってうまいです」。
◆CASE7 クロダイ・・3年前、飛島で大きな鳥が海面でバタバタ羽ばたいて飛び立たない。猛禽類のミサゴで、松原さんと目が合うと逃げていった。見ると、その足に何も掴んでいないので「獲物が残っているはず」と松原さんは、海に入った。捕まえたのは47センチのクロダイ。さっそく刺身に。「うまいです。これが漁夫の利です」。
◆一つだけ補足したい。松原さんは山小屋時代、米と即席麺と缶詰、調味料以外、すべてを自給していた。山小屋脇に畑を作り、山菜やキノコを採り、水すら沢から汲んで確保していた。ただ自然の恵みだけを頼りに生きてきた人が、自然の恵みである動物を食べるのはごく当然のことだ。「自然と一体となって生きたい」。こう決めたとき、選択肢の一つにマタギもあったが、鷹匠に決めたのは、「鉄砲という文明の利器を使うより、生き物であるタカと狩りをしたかった」から。そこまで腹をくくっていた。
◆報告会の最後で、松原さんはようやく28才の冬、修行から4年半経って、初めての獲物を手にした話をしてくれた。「私は狩りは素人なので、3年間獲物はゼロでした。でもあの日(79年2月13日)、クマタカの加無号(かぶごう)が私の腕から離れて飛んでいきました。雪の急斜面をウサギが走っていて、加無号はウサギに追いつくと、翼を広げて被いかぶさり爪をかけ、そのまま暴れるウサギと一緒にもつれて斜面を滑っていきました。そして、ギャーギャーというウサギの断末魔が聞こえたんです。弟子入り前からずっと、自分の腕から飛んでいったタカが獲物を手にする光景だけを毎日何百回も考え、4年半、どんなに辛い目に遭っても、一度も鷹匠を諦めることも、違う仕事を考えたこともありませんでした。そして、夢に描いてきた光景が現実のものになると、腹の底から爆発するような喜びが湧き起こり、ただ泣いていました。あのときの喜びは、世界中のどんな喜びよりも大きかったと思います」。
◆鷹匠になって33年。57才になった松原さんにはたった一つの夢がある。「この先老いぼれても、タカをこの腕に乗せて雪山を一歩一歩、歩いていきたい」。そしてこう言った。「私は、法を犯しても自分の夢を貫きます!」
◆法を犯しているかどうかここでは書かないが、一つだけ言えるのは、松原さんならば法を犯しても許されることだ。なぜなら、非日常的行為としてサバイバル行動をする私たちとは違い、松原さんは日常生活がサバイバルそのものだからだ。23才で決めた「自然と一体となって生きる」スタイルを、山形県の山のなか、松原さんはただ貫いている。自身も自然の一部である松原さんは、自然のなかでどう自由に行動してもいいと思う。松原さんが法を犯しているのではなく、松原さんの自由を奪う法律がおかしい。(注:現在クマタカやイヌワシに関する法規制が敷かれ、鷹狩りが困難な状況に追いこまれつつある)
◆それらの詳細も含め、今度は鷹匠に絞った話を是非聞きたい。ただ、11月から3月までは鷹の訓練と狩りのシーズンなので、報告会パート2は、来春以降になるかもしれないが、是非、多くの方に来ていただきたい。(樫田秀樹)
報告会と二次会が終わったあと、厚かましくも江本さんのお宅におじゃまし、夜食に江本さん手作りのシチューや煮物、それにモンゴルのヒツジのモモ肉や沖縄のパッションフルーツまでも腹一杯ごちそうになりました。
◆翌日は、その満腹の腹をかかえて八ヶ岳登山に出発し、北八ツから南へと縦走していく私を待ち受けていたのは、亜高山に生息する多くの動植物たちでした。標高2000mを越える登山道のかたわらでは、私の大好きなイワカガミや白い花が清楚なゴゼンタチバナが咲き、上空には日本一高速で飛ぶハリオアマツバメが舞い、「ガァーガァー」としわがれ声で鳴くホシガラスや私のリュックの上に乗ってきたほっぺたの赤いウソ、又木にたれさがるサルオガセを嘴一杯にくわえて巣作りにはげんでいたヒガラ等、多くの野鳥が様々な表情を見せてくれました。
◆さらに縦走2日目、夏沢峠に建つ山小屋「やまびこ山荘」に泊まった時は、私のように山に棲んでいてもめったに見られない夜行性のモモンガや珍獣ヤマネが、小屋の中の本棚の上に出てきて、わずか1mの距離でそのかわいらしい姿を見ることができたのです。そしてさらに幸運なことには、夕暮れ時窓近くのオオシラビソの木に狩りの名手テンまでもがその優美な姿を現わし、餌台のヒマワリの種を無心に食べ続け、やがて満腹すると近くの水入れから水を飲み、それから悠然と身をひるがえして木を駆け下り、暗闇の中へと消えていきました。その姿は今もありありと私の脳裏にやきついています。テンのもつ俊敏でしなやか、かつ獲物に対して獰猛な性質は私の憧れであるのかもしれません。
◆翌日は雨風が強く、主峰の赤岳までの縦走はできませんでしたが、それ以上に多くの鳥や動物に出会え、報告会のおかげでとても素晴しい山旅ができました。ありがとうございます。
■江本様 こんばんは。29日は貴重なお話を聞かせていただくことができ、参加してよかったとしみじみと振り返りながら帰宅しました。松原さんのお話はとても面白く、そして深く重みのある言葉が胸にズシリときました。
◆「夢を追う」と口にすることはたやすく、本気で夢を追うことは、簡単にできるものではないと分かっていたつもりでした。それを強い思いを持って言い切り、実行し続ける松原さんは本当にスゴイ人だなと、かっこいい生き方だなと思いました。そして、夢を追うとは、全力で生きることなんだと見せつけられました。松原さんが最後のメッセージで残した「忍耐」は、私に足りないもののひとつだと自覚しています。迷いなく生きているようにみえる松原さんのお話を聞いて、たくさんのことを感じ、勉強させていただきました。松原さん第2弾、大期待して待っております。
◆私は12日から1週間、早めの夏休みでフランスへ旅行してきます。こんなユーロ高の時に行くのも、パリに知り合いがいて、1週間泊まらせてもらえるからなのです。今年いっぱいで帰国するというので、急遽行くことに決めました。
◆実は、私にとって初のヨーロッパ上陸です。風邪と咳が長引いているのが気がかりですが、歴史ある建築物&美術館などを堪能してこようと思っています。それでは、またお会いできるのを楽しみにしております!(和田真貴子 7月3日)
■江本さん、この前の地平線すごくよかったです! ほんと! 松原さんすごいです! また是非やっていただきたいと切望します!
◆monoマガジンでインタビューを受けました。もしよかったら立ち読みで覗いてみてください。モノ・マガジン NO.565 7/2発売 http://www.monomaga.net/wpp/shop/ProductDetail.aspx?sku=565
◆今月末にはアメリカでまたレースに出てきます。地平線にはいけませんが、楽しんで走ってきたいと思います。(7月2日 山岳トレイル・ランナー 鈴木博子)
地平線の報告者が西表島帰りの鷹匠の松原さんだったので、興味あって行ってきた。毎年沖縄など南の島でテントを張って遊ぶ(米と調味料だけ持って)そうで、まずはつい最近行ってきた西表島での話から始まって、次に鷹匠になるまでの話とかがあって、あとは生き物を観察したり食べたりした話がずーと続いて、みんなでげらげら笑ってたのに、最後の最後にすごくかっこよく締めくくってくれて、展開のギャップも手伝って、心がしんとなった。
話が進む合間に、ホワイトボードには
『見釣り ハマフエフキ52cm』
『ハヤブサの首落とし』
『ミサゴ→クロダイ(漁夫の利)』
『ソデイカ 1m35cm×13kg』
と、書かれてゆき、なんだかおかしかった。
島でのサバイバルな遊びの様子をまとめるだけでも、きっと興味深い本が何冊もできるだろう。だれか作ってくれないかなぁ。それとも笑って断るかな、松原さん。
翌日からはザック背負ってひとり、八ヶ岳に向かわれた。今もまだ山で『観察』されてるのかしらん。(中島菊代 HP「ねこからの手紙」 http://www.neko-te.net/ の内「日々の戯言(たわごと)」7月2日付け)
早いもので北米を走ってから2年が過ぎた。陽射しを遮るものが何もない小麦畑の中にやっと見つけた小屋で、意識を失って倒れていたのは2年前のいまごろだった。北米横断ランはロスーNY間を自分の足のみで繋いだときに物理的には終わった。でも僕にはもうひとつすべきことがあり、それが終わらないとこの旅を完結できなかった。
◆すべきこととはかって徒歩で北米を横断、南米を縦断した池田拓君に借りたキーホルダーを返しにいくことだった。僕は旅に出る前に山形県の酒田市に彼をたずね、ご両親から遺品をひとつ借りた。そう、彼はもうこの世にはいない。15年前に事故で亡くなっている。
◆酒田市では池田さんに北米ランの話を聞いてもらいたいのと、夜行バスの料金ぐらいは稼いでやろうという姑息な計算で講演会を企画。地平線の知り合いである飯野昭司さんに会場を探してもらい曜日は5月20日と決めた。その旨を父である池田昭ニさんに連絡すると、その日は拓の命日なので前後は親戚が来ていけない、との返事。うかつだった。しかし偶然にしてはなにか不自然な偶然である。
◆講演の前日に酒田に入った僕は出迎えてくれた飯野さんと車で山形県立公園の「眺海の森」へと向かった。そこには拓君の友達たちが彼をしのんで立てたブロンズ像がある。車中で飯野さんに「秋田の友達が鳥海山は秋田のものだ。あそこだけ県境が曲がっているのはズルイと言ってたよ」と言うと、仏様のように温厚な飯野さんがムッとして、「鳥海山は山形県です」と短く言葉をきった。飯野さんは職場での席替えで窓から鳥海山が見えなくなったと愚痴るほど鳥海山が好きなのだ。
◆車はほどなく「眺海の森」につき、僕は拓君のブロンズ像の前で北米ランの結果を報告した。やっと終わった。すっと肩の荷がおりた気がした。「もういいんですか? 坪井さん」その問いに頷くと、飯野さんは「池田君の碑も見にいってみませんか」と言った。碑とはかってNHKの新日本紀行「息子からの手紙」で池田さん夫婦が、ここなら鳥海山も見えるし寂しくないだろう、と言いながら崖に置いていたものだ。ところが飯野さんは行こうと誘っておきながら、碑がどこにあるか知らないという。あの角度で鳥海山が見えるのは多分経が蔵です。そんな勘だけで山中から碑を見つけられるのだろうか?
◆車止めから登りはじめるとすぐに下山してくる5、6人のグループと出会った。ピッケルを持ったリーダーに「今から登るんですか? けっこう時間かかりますよ」と忠告され、ズシッ、と気分が重くなる。その場から40分ほどで崖に突きだした大岩に出た。新緑の山々が見渡せる気持ちのいい場所だ。どこかで見たことがあると思ったら、TVの中の景色によく似ている。「飯野さん、ここじゃない?」「うーん、でも鳥海山はここからじゃ見えないんですよね」。どうだろう、と二人ですみずみまで探すが、ない。ダメかー、とまた登山道へと戻る。それからさらに40分で山頂に出た。山頂には展望台があり、登ると正面に雪を抱いた鳥海山の勇姿が現れた。神々しい霊気を感じる。僕の故郷の山々は親しみを感じる山だったが、この山にそんな馴々しさは許されない気がする。
◆神聖な気分に浸っていると前回酒田に来たとき、池田さんに「坪井さんは本当に運がいい。こんなにきれいに山が見えるの今年になって、まだ5回目です」と言われたのを思いだした。あれっ、だけど前々回に来たときも見えたぞ。つまり僕はかなりついているんだ、そう自分に言いきかせ、展望台の下で碑を探してみる。でもここにもない。グルリと周囲を見渡すと西側の稜線沿いに下っていく道の先に、またもや見覚えのある崖がある。今度こそ、と思ったが行ってみると、やはり碑はない。その先のその先の崖も探したが、どうしても見つからない。これ以上進むと今度は帰るのが大変になる。
◆残念だけどそろそろ引き返そうか、そう二人で相談していると前方の崖の上でガサガサッと音が。顔を上げるとなんとカモシカだ。「飯野さん!、あれ」。しかし飯野さんが見たときには、その姿は音だけを残し消えていた。「あそこまで行ってみましょう」「ええ」。行ってダメなら帰ろうという気になった。そしてカモシカが居た場所に立つと、寒気がするような崖の縁に「二十六年の生涯をひたむきに生きた勇者 池田拓 此処に眠る」と書かれた碑があった。こんな偶然ってあるだろうか。まるでこの場に呼ばれたようだった。
◆東京に帰ってから、この顛末は池田さんに報告する義務があるような気になって手紙を書いた。すると池田さんからすぐに電話があり、今ある碑は最近置かれたものと知った。あの碑は何度も雪に流され、長い間あそこに無かったそうだ。「拓は坪井さんに会いたかったんですよ」その一言に受話器を持ったまま泣いてしまった。仮にこの世にノいなくても縁のある人とは何度でも出会えるのだ。(坪井伸吾 7月7日)
★編注:池田拓(たく)さんは、子ども時代は4年を腎臓病で病床で過ごす。青年となって「若いうちしかやれないことを」と、建築現場で200万円を稼ぎ、1988年秋出発、9か月がかりで北米大陸徒歩横断を、さらに1年8か月かけてやはり歩いて南米大陸縦断の夢を果たし91年秋帰国。森林生態学を学ぶため建築現場で労働中の92年5月、落下してきた鉄材の直撃を受け、亡くなった。享年26才。父昭二さんは鳥海山の自然保護運動を長く続けている。
「江本さん、6月29日のスピーカー、松原さんの素敵なこと。ほれぼれしました。さて、私はおかげ様で無事帰国しました。一緒に行った65才の男性は特別機で帰国し、まだ入院中です。3〜4か月かかるそうです」。
金井重(しげ)さんからこんなメモと恒例の旅歌(たびうた)盛りだくさんの「しげ通信No.5 No.6」が送られてきた。読むうちに驚いた。重さんの旅のメンバーが、テロに巻き込まれたんだ。
地平線通信5月号で重さんはこう書いた。「目下、こりずに次なるスタディー・ツァー、アフガンをねらっています。6月8日出発、カブールで現地NGOの人に会い、2か所の難民キャンプを訪ねバーミヤンにまわる15日間の旅です。カブールの国立美術館では「子供たちのユーレイ展」をやる予定です。小さなNPO法人が企画しているもので、その趣旨にひかれて参加を希望したわけね」。
その旅のさ中、テロが起き、同行メンバー2人が巻き添えに。バーミヤン行きはならなかったが、無事帰ってよかったです、重さん。(江本)
6月9日
ざわざわと 右往左往す人ごみの
ここは自治区ぞ 国境の地霊
朝早くイスラマバードを出発していよいよカイバル峠のふもと、街道の両側には店がびっしり。日用品と並んで商品の銃、大・小さまざまが吊り下っています。この地方の部族は昔から力が強く政府も彼らの自治を大目にみてきました。私は何と三度目。念願のカイバル峠ごえでした。初めてペシャワールの町に着いたのが、二〇年前です。峠の道が手にとるように見えます。この峠をこえて行きたい、強いあこがれにその後もここまできていますが毎回許可が出ませんでした。勿論現在も危ないという情報だけですが、とにかく国境をこえることができました。
みどり色 岩はむ川を さかのぼり
ヒンズークシュの ふところに入る
峠道はアフガンに入ってますます佳境、広かったカブール川も川幅が狭まり流れは急に、水は清流になり山々が迫ってきます。カブールまでの中間地点ジャララバードで休憩、お茶になりました。広い店内に、ああなつかしいマスードの写真。お店の人も「そうだ、マスードだよ」とやさしい顔に。暗くならないうちカブールのゲスト・ハウスに着きました。ここで働いている欧州人(国連関係etc)が大勢泊まっています。
6月10日
ぼこぼこと 土盛りの乾く あちこちに
みどりの小旗 風にもだえる
今日はまずアシアナ(地元のNGO)を訪問。代表者と職員と交流のあと、事務所と併設の子どもの銀行や板金の技術教室や音楽の実習などを見学、そのあとナショナルギャラリイを表敬訪問、17日からキャンプの子どもたちの絵や写真を展示する会場を見せて頂きました。そして夕方、市内を一望にする山に向いました。ドーム型の廟の裏は市民の墓地が一列にぼこぼこ並んでいます。土葬なのです。ところどころに建ててあるみどりの小旗は戦死者の喪章。
6月11日
陽にこげし 古戦車粛(しゅく)と 五〜六〇
外人部隊の 肌焼く兵士
今日はいよいよ第一回の国内避難民キャンプの子どもたちの学校訪問です。ここのキャンプはもと兵舎、すぐ前を鉄線が区切り古い戦車が並んでいます。市の中心から離れていますし映写機の関係で子どもたちを待たせてしまいました。教室は男子と女子の二教室です。それぞれの教室で明日にのびたことをおわびし、もと兵舎の大きな部屋に二家族ずつシェアしている家庭を訪問しました。帰りは市内を通らず、カレーズの流れに濃みどりの谷地を回って夜にもどりました。
6月12日
基地内の 難民の住む もと兵舎
鎮入者みる 子らの 目まぶし
わくわくと おのが採寸 並び待つ
子らの額に ぶつぶつと汗
6月13日
ひとりひとりの子どもたちの足の寸法をはかり翌日子どもたちに渡します。子どもを並ばせる、採寸する、紙に書いて渡す、控をとる。これがなかなかの大事業。熱いですよ。男女ははっきり分かれて作業を進めます。小さい子は男のような女の子や(上の子のお下りやその他で)女の子のような男の子もいて大混乱もあったりしました。自分の靴が貰えるのは子どもにとってとても嬉しい大事件です。
映写前 大人しく座す 女子組の
熱気こもる窓 ふさぎし室に
大拍手わく 少年も幼きも
チータの疾走 ペンギンの群れ
テレビのない難民キャンプの子どもたちです。NGOの作ったファンタジー映像に、教室はふだんの倍くらいの子どもたちでふくれあがっています。そして母親にだかれて乳をのむ動物たちに、息をつめて一体化しています。彼らの興奮がジーンときました。
6月14日
橋わたる うずまく人ごみ バザールの
客引き 物乞 流れゆうゆう
バザールはどこも同じです。イランも戦前のイラクも。ここは川からこっちという立地がユニーク。ぶつかりあいながら店をのぞき買物をし流れていくバザールの熱気の楽しさ。説明は要りません。人間の生気がムンムンしています。
上に上に 山肌かくす べったりと
土レンガの家 乾き焼けり
単に貧民街と呼ぶのは乱暴すぎます。いまカブールの人口は誰にもわからない。カレーズのように空爆誤爆で、難民が国に帰ってきても農村が破壊されとても住めない。とりあえずカブールならなんとか仕事も探せるか。こうしてどんどんふくれ上がっているのだそうです。
6月15日
キャンプ出て 彼女の家とシェアする
となりの家も 父なし家庭
美術展の いのち短し 横断幕
きけ盗人よ せめて会期後に
二週間の休暇は無理でやっと一週間の休暇をとって参加した現役の三名が昨日帰国しました。17日からの展覧会のための横断幕がたった一日でなくなりました。なんという悲しさ。せめて今期後ならまだしも。
6月16日
ビルの上 カイザルの顔 かい性なく
無法の市街 黙し眺むる
宿でみる 今日この街の 自爆テロ
映像鮮明 ファシー語なれど
とうとう今朝自爆テロがあり、一般市民が亡くなりました。なんということでしょう。
6月17日
露天並び 人も車も 同じ街
われらの先発 テロと出合うとは
ケイタイの 小さき丸さよ 見つめ合い
病院よりの返事 待ちに待つ
私たちのチームは二班に分かれ、先発隊は今日オープニングのナショナルアートギャラリイに向かいました。そして自爆テロの巻き添えにあってしまいました。(6/17)
注:この日、以下のようなテロ事件が発生し、車で先発、不運にも現場を通りかかったしげさんの仲間が巻き添えで重傷を負った。ケータイ電話の連絡でしげさんたちは動かず、無事だった。
=【カブール17日共同】アフガニスタンの首都カブールの警察本部前で17日朝(日本時間同日午後)、警察のバスを狙った爆弾テロがあり、内務省によると、警官ら35人以上が死亡、30人以上が負傷した。在アフガン日本大使館によると、近くを車で通り掛かった日本人男女2人が負傷し、男性が重傷のもよう。女性は軽傷で、いずれも病院で手当てを受けた。旧政権タリバンの報道官は自爆攻撃を行ったと述べ、犯行を認めた。 同大使館によると、2人は60代の男性と50代の女性で、東京の特定非営利活動法人(NPO法人)の関係者。=
6月18日
この国を 空路で出ると きまりし日
一日ジージー となる扇風機をきく
6月19日
入院の ホータイ暑き 手と握手
昨日の瞬時 まさにアフガン
6月20日
退院せし 運転手語る 車の前
走る男あり 爆発せしと
心配をおかけいたしました。おかげ様で22日皆無事に帰国いたしました。
アラスカ大学に勤めだして10年あまり、会議では背広も着て偉そうに見えることもありますが、本当にそれだけしていたら、あっという間に給料が出なくなるアメリカのアカデミック社会。その私の実態といえば、蚊やアブに悩まされるツンドラかタイガ(針葉樹林)の森か、厳冬の荒野での泥水仕事というものです。
◆“泥水”と言ったのは、夏でも1m下は凍っている永久凍土をボーリングする時に、削りかすを取り除くため水を使います。これをやると機械も人間も解けた凍土と水でネロネロになってしまいます。仮にやらなくても掘ったそばから地下水が出てくると、やっぱりネロネロになってしまいます。海辺では、高濃度の塩水が凍土から出てくるため、摂氏マイナス20度ぐらいでも体についたドロ水が凍らずずぶ濡れになることもあります。最近は温暖化問題などで暖かい永久凍土(摂氏0度に近い融解寸前の永久凍土)を掘ることが増えて、ますます、ずぶ濡れネロネロになる今日この頃です。
◆先日、あるユーコン河沿いの村の校長先生に“なんで博士にもなってこんな汚い仕事をしているんだい?”と訪ねられました。確かにこんな汚い仕事だから、最近は学生もあまりきたがりません。“穴を掘る”って言うことは、私にとって“知的欲求の肉体的表現”なのだからまあ、情熱がある限り、掘り続けるのでしょう。来年は、バロー沖でダイビングしての海底ボーリングや6000m級の高地ボーリングなどの計画もあり、新しいボーリングシステムの開発に胸が熱くなっているところです。
◆さて、今日は、近況報告をかねて、テーマをユーコン河にしたいと思っています。ユーコン河はご承知の通り、日本全土の2倍以上の流域面積を持ち、全長3700kmあまり、世界有数の大河と言っても反対する人はまずいないでしょう。北極圏の大河(オビ、レナ、マッケンジーなど)が、みな北に向かって流れているのに対し、ユーコンはちょっと変わっています。東から西に流れているため、流域のほとんどがタイガ帯で永久凍土の南限と一致しています。
◆永久凍土の南限ということは、この先気候が少しでも暖かくなれば、あっという間に解けてなくなってしまう地帯ということです。永久凍土が解けるといろいろな弊害が予想されますが、最も重要な点に水のバランスが変わることです。突き詰めて言えば、ユーコン河の流出パターンが変わるということです。そこで3年前からユーコン河流域に地温測定ステーションを設けて、ユーコン河の水質を監視するネットワークを作っています。また、仮に凍土が解けたとしても20年や50年は平気でかかるので、この長期戦用の人材を子供たちに任せるため、学校で一緒に観測する体制作りをしています。
◆要は学校へ行って、穴を掘り、子供たちと一緒に測器を入れて、うんちくを聞いてもらって来るという一連の作業を繰り返している訳です。今のところ、ユーコン河流域の学校にはすべて設置しようと考えていますが、並行して、ほかの北極圏の村でもはじめました。そんなことで先日、日本経由でモンゴルへ行き、また今夏はシベリアとグリーンランドでも穴を掘る予定です。
◆50あまりあるユーコン河の村を効率よく、ボーリングして回るのは、どうしたらいいか?多分夏にボート、カヌーで、川下りついでに穴掘り!なんて言う意見が出てくると思います。確かに楽しそうだし、実際来年は一部そうするつもりです。しかし、ここで“夏休み”という大問題を見逃せません。アメリカの学校は5月中旬から8月まで休みなのです。この時期に村に行って、永久凍土だ!気候変動だ!なんて言っても誰も来ませんし、村に先生もいません。アラスカの短い夏が丸ごと使えないのです。
◆そこで、日も長くなってきたこの3月、スノーモビルでユーコン河口まで1300kmの穴掘り旅行に行って来た訳です移動に使ったのはスノーモビルですが、多分ここの読者の多くは、人曳きソリや自転車、犬ぞりの方が楽しいと思われると思います。しかし、目的が“効率よく村を回り”、“1トン以上のボーリング機材を運ぶ”となるとどうでしょう?ご承知の通りスノーモビルも燃費は悪いし、万能選手ではありません。今回は、それに輪をかけて実験旅行をしてみました。
◆最近やっと量産が始まった4ストロークのスノーマシンでの試乗です。4ストロークは、従来の2ストロークマシンに比べ、燃費がいい、空気が汚れないなどの利点もありますが、重い、セルスタートだけの発進など問題もたくさんあります。しかし、誰よりも早く、寒冷地でどんな問題があるのか?今後長期旅行に使用可能か?知りたいのも本音です。まあ、遭難(氷を破って河に落ちる)したら、4ストロークマシンを使ったからだと新聞にたたかれるのを承知で出かけてみました。
◆小さい川なら落ちても濡れるだけですが、大河は正直かなり怖いです。結局、これは無事通過できましたが、今春は、例外的に寒い春で、スタート直後数日は、摂氏マイナス40度の日が続き、スノーモビルが動かない、ボーリングの削りかすがすぐに凍りついて、なかなか掘れないなど泣かされました。その他、ユーコン河のエスキモー村落とインディアン村落の境界地域は、風も強く、“雪が全くない”人々の行き来もない地帯があり、スノーモビルをサンドバギーとしてつかうはめになりました。多分こういった自然の要塞がモンゴロイドの侵入以後、部族間の境界として働いていたのでしょう。来春もまた残り20あまりの新しい村と既に穴を掘った村の再訪を兼ねて、ボーリング旅行に出る予定です。詳しくは www.uaf.edu/permafrost をご覧ください。(吉川謙二 7月9日フェアバンクス発)
昨秋仕事を辞め、時間のあるうちにとアラスカに行って来た。「月山依存症」と称し、いつもは月山にばかり通いつめているが、なんだかんだとアラスカ行きは13回目。勤め人時代は、1週間から10日がやっとだったが、今回は19日間だ。
◆最初の1週間をアンカレジの知人(アラスカ大学の教授。12年前プリビロフ諸島で知り合った鳥好きの女性)と行動。アラスカに行くよと連絡した途端、彼女が(勝手に)予約してくれた高額(とっても!)な日帰りツアーで、アンカレジから100マイルほどのリダウト・ベイに行ったが、帰りにハプニングが。
◆その瞬間、時差ぼけで睡魔に襲われていたため、寝ていて気づかなかったが、知人に膝をぐわしっとつかまれて起きた。みんな顔をひきつらせている。そして妙に静か。フロート機のエンジンが止まったのだ。すぐに事態をさとったが、下は海だし、フロート機だし、不時着しても大丈夫だろうと、けっこうのんきなわたくし。10秒程度でエンジン再始動して、不時着の経験はせずにすんでしまいました。
◆深夜から朝6時まで通行止めになる道路を通って帰らなくてはならないのに、鳥を探して寄り道しすぎ、ぎりぎりに通過したら、通った直後にゲートが閉まり、まさに間一髪!というのもありました。白夜なので、「暗くなるから帰ろう」というのがないアラスカの夏。ついつい遅くまで行動しすぎて、外食も買い物もできず、リンゴとトレイル・ミックスでしのいだり。でも、そんなのが楽しい。
◆デナリでは、テント5泊。ワンダーレイクまでの往復のバスでは、グリズリー、カリブー、ムース、ライチョウやイヌワシなどに会えたが、距離がある。案外おもしろかったのは、公園入り口付近のトレイル。Horseshoe Lake trailという短いトレイルで、湖の中に入って、首までとっぷりとつけて水草を食べるムースを発見。水に顔つっこんでいる間に前進し、顔が出たら静止、を繰り返して接近。木の陰に隠れてじっくり観察。ざっばぁっと水から顔を出すと、水が顔からしたたり、大迫力でした。鳥を見ながら、そーっと正規のトレイルに戻ると、ビーバー発見。すぐ近くの岸におばあさんが2人いるが、全くビーバーに気づいていない。動物は、自分に関心のない人にはあまり警戒心を抱かないので、なにくわぬ感じで、すぐそばをすいすいと泳いでいました。
◆珍しい動物ではないが、探すとなかなか会えないヤマアラシにも会えた。道路を渡ろうとするヤマアラシに、「危ないよ、車にひかれるからだめ」と話しかけ、車がとぎれて無事に反対側に渡るまで至近距離から見届けた。ヤマアラシは話しかけると「ん?」と不思議そうな顔できょろきょろし、ちょっとの間、道路わきの森に戻るが、また道路に出てくる。話しかけるたび、顔をあげてきょろきょろするヤマアラシ。目が悪いので、ほんの5mのところにじっとしている私がよくわからないのだろう。でも、話しかけると、理解したかのように、とことこと一時森に戻る。野生の生き物を擬人化しちゃいけないのだが、なんとなく心が通じたと思いたい出来事だった。
◆ジュノーでは、ホステルに中島さんという日本人男性がいた。東南アラスカを1か月旅されているとのこと。山梨の方と聞き、唯一知っている山梨在住の田中さん・ちえぞうさんを思い出す。山梨といったって広いんだからね、と思いつつも、「狼犬飼ってるご夫婦なんて、知らないですよね?」などと聞いてみた。すると「友達ですよ。住むところ決まるまでしばらく家に泊まってたんですよ」って。山梨県は狭かった(笑)。ジュノー3日目の午後、中島さんにカヤックに誘っていただいた。レンタルカヤックをメンデンホール氷河の湖に運んでもらって、氷河に迫ろうというもの。しっぽぶんぶん振って行きますとも!と返事。2人艇カヤックを借りて、氷河湖に漕ぎ出し、わずかな岩の隙間につっこんで上陸。蒼い蒼い氷の洞窟を発見。この旅で一番思い出に残る、信じられないくらいに美しい空間でした。この蒼に会わせてくれた中島さんに感謝!
◆ホステルはインターネットを自由に使えるが、日本語が読めない。それでも「屋久島病のねこ」こと中島菊代さんのHP掲示板では、私のために英文で書きこみしてくださる方がいて、地平線報告会の話題が読めたりするのだった。ねこさんやマッシャー有香が報告会会場に来ていたとは!会いたかったなぁ。
◆さて、山梨に引っ越した田中さん、ちえぞうさんのお宅に遊びに行くー!と話をしてから既に半年。できれば新居のリフォーム手伝ってなんて言われていたのに…すみません。今からでも引越し蕎麦持ってけば泊めてくれますか?(「月山依存症のあかねずみ」こと 網谷由美子 山形発7月9日)
★(ざっばぁ、と水から顔を出したムース(ヘラジカ)や感動的な蒼氷の洞窟の写真は網谷さんのHP http://akanezumi.exblog.jp/ で見られます。
■江本さん、地平線のみなさま。暑中お見舞い申し上げます。先月末、故郷の四国徳島から東北の南会津(伊南)へ息子と長旅(飛行機、電車、新幹線、車を乗り継いで8時間余り)を経て辿り着きました。
◆暑い暑い徳島から、朝晩はまだ肌寒さの残る伊南へ心身共に大きな移住となりました。最初は違和感も感じながらの日々でしたが、伊南の自然の力も借りながら少しずつ慣れてきたように思います。
◆今年は『伊南川の鮎釣り』解禁も例年より1週間ほど早く、今週末(14日)となっています!家(民宿)も賑わいを目前に大忙しの時期がやってきました。大切な短い夏を今年は一人増えたメンバーで楽しく充実させたいと思っています。
◆息子(健太郎)もスクスク成長していて抱きかかえると腕にずっしり重さを感じる程(6キロあまり)になりました。皆さまもお元気にお過ごし下さい。この夏の避暑に伊南方面へお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さいね。(肌寒い南会津から 7月9日 酒井富美)
三年間は、小説に没頭していた。久々のノンフィクションは郊外を走るマラソンから観衆の見守るトラック競技に戻った心境だ。
「身震いするようですね」
『中国「犯罪源流」を往く』(講談社、1500円)の初校を目にした編集者の第一声だった。「一線を越えたかな……」。この時私は、初めての中国の旅を思い浮かべた。
30数年前、北京空港。27才の私は工作員を待っていた。米中接近直後とはいえ、依然としてベトナムと戦争を続けるアメリカを帝国主義と批判している中国政府の工作員は、私の手荷物のなかでアメリカ製の万年筆とフィルムに顔を背け、アメリカ製のタバコをあわててピース缶に詰め替えたことを覚えている。北京から列車で一番遠くへ行くウルムチ行きは片道72時間。三日間の車中、戦前の早稲田で日本語を学んだ老工作員の話に、初めて共産主義に触れる緊張感で、私は体を強張らせた。
「資本家というのは貧困を解消する方法を、紙幣を印刷することしか頭にない」
と老工作員は、資本主義は糞の役にも立たないと、「貧困から民を救うこと」こそ共産党の基本中の基本の考え方だと、切り出した。
「貧困のことを考えてみよう」地球には全人類を養うだけの土地と資源がある。余分の土地や食糧、資源があるわけではない、と老工作員は言う。人は自分に与えられた仕事をやり、それで食糧や賃金を得るのが人間の生き方だと……。
「誰かが、一人前以上に土地や食糧、資源を奪ったとしたら、どうなる?」
「足りない人が出てくる」末っ子の私は、子供の頃自分の分が少ないと駄々をこねた。「分配に不公平があってはならんのだよ」老工作員は、富は平等に分配すべきだと力説した。
「そもそも土地は誰のものだ」「そこに汗水を垂らし、働く者のものか……」「書類に記されている者のものか……」。
老工作員は、「土地とは汗水流し、土地を耕し小便や糞を肥料にして作物を作る農民のものだ」と、力を込めて言った。
「労働者が工場を所有すべきだ。農民の土地を資本家は一握りの金持ちのためにゴルフコースに作り変えたがる」。私は、「富める者」と「貧しい者」、つまり格差の社会をこの時初めて知った。
「富める者が減ると、貧しい者が増えるのだ」かつてはたった一人の皇帝が富を独り占めしていたから、民衆は貧しかった。
━━富める者が増えれば、貧しい者を救えるのか。
だが文革という権力を振りかざす共産党は、かつての皇帝のような存在なのではないか。私は、老工作員に反論した。「長風(くどい)」。老工作員は、私が話すと長い話に疲れて怒鳴った。
あれから中国社会は未曾有の経済発展を遂げた。民衆は貧困から救われたのか? 30数年ぶりに、私は同じ取材コースをたどった。「文明の前に森があり、文明の後に砂漠がある」。列車で隣り合わせた中国人が、「風が吹くと、黄塵万丈(こうじんばんじょう)といわれる黄砂が降ってくる」と、列車の窓を閉めた。「爆食中国が地球を食い尽くす」と、私は皮肉を込めて呟いた。
中国各地で日本人駐在員が密かに叫ぶ、「BOKY」を聞いた。「バカヤロー、お前が、来て、やってみろ」本社の日本人幹部と現地の中国人に挟まれた中間管理職は、言いたくても言えない現場の悲鳴をこの四文字に飲み込む。
━━日本人のカネに群がる中国人、カネにモノ言わせる日本人。どっちが悪いのか。
三年ぶりのノンフィクション『中国「犯罪源流」を往く』は三部構成になっている。第一部の「中国人が抱く“黄金の夢”」は、現代の奴隷労働といわれる研修・実習生現場の「格差ではない落差」の“悪夢”の報告である。第二部は「来日中国人犯罪の黒幕」、実行犯を陰で動かすホントのワルである。日本人の嫌がる「3K職場」から日本人との分業化が進んだ「犯罪の3K現場」へ。「命よりカネ」のケモノ道へと迷い込んだ黒幕を故郷の島へ追い詰めた。第三部「臓器移植をめぐる“ドナーの虚実”」は、死刑囚の臓器をカネで買い漁る日本人と、ドナー収容所に閉じ込められた地下教会の会員の、不実な関係の謎を追った。
「度を越した取材」、「一線を越えた行動」は、日本社会が直面する現実に目を瞑ることが出来なかったこと、見過ごしてはいけない使命感、さらに同世代の日本人として中国の独走に無言の圧力をかける必要に迫られた。明日の日本を、中国の農民に丸投げしてもいいのか。「明日枯れる花にも、水を遣る心」。悪銭苦闘の現場で、私はこのことを思い知らされた。(森田靖郎)
みなさん、こんにちは。今日は連絡だけします。☆モンベルのホームページに「南極通信」のコーナーができました。
http://www.montbell.jp/generalpage/index.php?general_id=10☆エイ出版社 「自転車生活」 Vol.9 本日6月26日発売されました。「永島祥子の南極だより」連載No.3が掲載されています。ゆっくりできるだろうと思っていた極夜ですが、そうはいかないみたいです。また少し落ち着いてからレターを書きます。(永島祥子@昭和基地)
みなさんこんにちは。7月に入りました。あと4日で太陽が戻ってきます。今日は、少し前の話になりますが、ミッドウィンター祭の話をします。こちらでは、6月下旬に、南極での越冬中の最大のお祭りミッドウィンターフェスティバルを行いました。昭和基地では、6月22日の冬至の前後の約ひと月半が極夜(太陽の昇らない期間)です。太陽が昇らないと、不眠症に陥ったりイライラしたりします。この極夜を乗り切るために、冬至の頃、盛大なお祭りをします。お祭りをして、パーッと騒ぐだけでなく、お祭りに向けて皆で協力して準備をすることで、極夜に増えがちな喧嘩や諍いを避けられるとも聞きます。
◆今年のミッドウィンター祭は、35名の隊員のうち19名が実行委員に立候補して祭を作りあげました。委員でない隊員も、映画を作ったり企画を一緒に考えたりしていました。準備はそれなりに大変だったけれど、祭はとても楽しく、思い出に残るものでした。天候はあいにくで、祭の直前に最大級のブリザードが来て、たくさんの物が壊れました。
◆最初の2日はその対応に追われて、企画したイベントどころではなかったけれど、それでも皆、不平ひとつ言わず、「それじゃあさあ、屋根の雪かきを何かのイベントにして得点をつけられるように考えようよ」とバーでお酒を飲みながら話したりして、状況に応じてとても柔軟に対処・変更できました。結局、露天風呂以外、外での企画はひとつもできなかったけれど、結果としてとても楽しいお祭りになりました。
◆私は、総合司会を頼まれたので、開会式、表彰式、閉会式では(それなりの衣装を着て)司会をやりました。他にも、室内ゲームで「巨大風船大爆発ゲーム」というゼスチャーゲームの企画運営をしました。ゲームのルールや、ポイントの争い方や、会場設営、問題作りまで、全部やります。ふくらみ続ける風船の下でボタンを押しながら(ボタンを離すと風船が割れてしまいます)ゼスチャーを解読し、解読できたら風船の下から脱出できるというゲームです。
◆チームの中で風船が割れるまでに何問回答できるかを争います。気象観測に使っている風船を膨らませて割るようにしたのだけれども、どれくらい膨らんだら割れるかなど、事前に何度か実験しました。問題は回答者には見えないように、大型テレビ画面に映し出し、PCから操作しました。照明も雰囲気を出すように工夫したし、風船の中には紙ふぶき、小麦粉、胡椒を入れて、当たり風船、はずれ風船も作りました。
◆ミッドウィンターは学園祭を大人になってからもう一回やるような感じです。飲食の係もやりました。普段から調理場にはよく出入りしているので、飲食係は絶対やりたいと思っていました。仏コース料理と懐石料理の2晩のディナーがありましたが、私は懐石の方のサービスを務めました。「らしく」することはとても大切なので、衣裳部屋から着物を探し出して、着物でサービスしました。入口でみんなをお出迎えして、自作のお品書きを手渡し、案内するところからちゃんとやりました。みんなも喜んでくれました。
◆着物も、きれいなものもあったけど、あえて賄いっぽい色にしました。着物を着ると気持ちがしゃきっとするので好きです。露天風呂もとても気持ちよかったです。今まででいちばん大きな風呂を作る!と建築の隊員が張り切っていて、私も穴掘りの段階から何度か手伝いました。できあがったものは、20人は軽く入れたし、がんばれば多分全員でも入れるくらいの大きさでした。
◆私にとっては南極で初めての露天風呂だったので、入れてとてもうれしかったです。それでは、ミッドウィンターの写真を何枚か添付します。(今回は、全部自分が写っています。写真は他の隊員からいただきました。)日本では49次隊の隊員室も開かれ、先々週くらいからは次の夏のオペレーションの調整なども始まっています。調達参考意見や持ち帰り物資の準備なども始まっていて、これからいよいよ忙しくなります。来週には泊りがけの野外にも出ます。というわけで、次のレターはいつになることやら?ですが、またレターを送ります。楽しみにしていてくださいね。(永島祥子@昭和基地)
《今回も写真は編集長が代表して鑑賞しました。ありがとう!=E》
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松原英俊さんの報告会、多くの人から感動した、よかった、と感想をもらった。『サバイバル登山家』(みすず書房 なんと8刷りである)を書いた服部文祥君の感想は「負けました」だった。
◆「自分が体験したことしか話さない」とことわりつつ最後まで聴き手たちをひきこんだ松原さん。日本にこういう人がいることを、そして地平線会議の仲間に忌憚なく話してくれたことに感謝する。今回は時間不足で質問も受け付けられなかった。報告会レポートにあるように聞きたい内容がまだまだあるので再度の登場をお願いし、快諾を得た。
◆2週間足らずの短い滞在だったが、モンゴル、さすがに濃い時間だった。固定電話の時代を経ずにいきなり携帯電話を手に入れた草原のモンゴル人のことが中でも印象に残る。そしてチンギス・ハーンへの過剰な思い入れと新たな経済システムに対応できず家畜を手放す貧しい人々のことも。
◆最終日、突如エンフバヤル大統領が会う、ということになって1時間歓談した。詳細は別にするが登山や冒険に関する話も出たので思いがけず地平線会議のことも説明するはめに。名刺が「地平線会議代表世話人」となっているせいでもあるが、一国の元首に地平線会議を宣伝してしまったか、と複雑に感無量なのだった。
◆モンゴルには8月また行く予定だ。沖縄計画もあるし、家族のこともあるし(6月から退院した母と同居が始まった)穏やかでいて日々波乱万丈なのである。(江本嘉伸)
満点バイク・アフリカ行
語学を志して大阪外語大に進んだ山崎美緒さん(24)が専攻したのは、アフリカ地域文化学でした。「高校の進路指導で、先生が『一番ありえない』といったのがアフリカ。それで俄然好奇心が湧いて」と美緒さん。スワヒリ語を学び、アフリカへの興味が増すにつれ、自分の目でかの地を見たい気持ちが募ったのは自然の流れでした。 せっかくなら、点ではなく線でつながる旅をしたい。それなら自転車で、と思い立った美緒さんは、まずリハーサルに日本一周を計画。はじめてのツーリングに、吉野家と大塚製薬のスポンサーを得て、2ヶ月で完遂します。そして'04年8月〜'05年1月に念願のアフリカへ。満点号と名づけたマウンテンバイクで走った5000キロ。ケニア〜南アフリカの間8ヶ国歴訪の旅でした。 あらかじめ走行予定コースをバスで下見した上、女性一人旅のリスクを軽減しようと、ジンバブエの床屋でベリーショートを頼んだら、なんと丸坊主に。おかげで(?)危険な目にも遭わずに旅を続けられました。感染症にかかり、麻酔なしで足の切開手術をしたマラウイでは、言葉もあまり通じないのに心をつくして世話をしてくれた宿の人達の善意に心打たれたことも。 旅の顛末を「マンゴーと丸坊主」という本にまとめた山崎さんのアフリカ紀行のお話をお楽しみに。 |
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地平線通信332/2007年7月11日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/
編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/
編集協力:横内宏美
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