桃井和馬です。最初に妻、桃井(岸田)綾子の前夜式、ならびに告別式に参列してくださった方々、また、メールやお花などで励ましてくださった方々に心からのお礼を申し上げます。享年41歳。死因は、5月9日、会社にて突然発症した「くも膜下出血」でした。
◆大学の後輩だった彼女とは、学生時代から「伝える」ことの意味について、それだけでなく哲学、宗教、世界のこと、地球のことを時間を忘れて話し合う仲でした。 大学時代から海外に行くことを目標にしており、私が選ばれたイギリス探検協会主催プロジェクト「オペレーション・ローリー」に、彼女も応募。1993年頃のことです。日本の選考会では、登山家で、地平線メンバーでもある増島達夫氏のグループに入っていたそうです。
◆大学卒業後は、私が所属していたアジアプレスに、彼女も入りました。取材テーマはHIV/AIDS問題。特に、当時エイズが流行し始めていたタイとインドを繰り返し訪れ、取材を続けたのです。その中でも印象的なのが、彼女が取材していたインド・ムンバイ(旧ボンベイ)のカマティプラ地区です。90年代前半、たぶん世界で最も密集した売春街で、団地状のビルのどの部屋でも、売春がおこなわれていました。そんな場所を取材した彼女は、帰国するたびに、女の人が客をとっている間、家族は部屋の外で料理していることや、様々な性感染症が蔓延していることを話し、そうした「命と直結した現場」に足を踏み入れると、「安易な気持ちで写真を撮ることはできない」と繰り返していました。ちなみに乱読気味に本をむさぼった妻ですが、特に好きだった著者は、隆慶一郎、京極夏彦、宮本常一など。精密に描かれた「かつての日本」に、現代の社会が失ってしまったものを見つけていたのでしょう。
◆私たちが結婚したのは16年前。それから5年後にひとり娘が誕生。子育てが始まったことで、物理的に海外取材に出られなくなった彼女は、また、夫婦そろってフリーの立場でいることに経済的な不安を覚え、会社勤めを決心。働き始めたのは「ディスカバリー・チャンネル」というドキュメント専門チャンネル。その傘下にある「アニマル・プラネット」というチャンネルで、できあがった日本語訳の最終チェックを続けたのです。それまで人間世界の混乱を見続けた彼女の目には、動物世界は不思議で、興味深いものでした。毎日の帰宅は遅く、帰ってきては、その日に見た番組の内容を目を輝かせながら話してくれました。私自身、妻が新しい道を見つけることができたことを、嬉しく感じていました。と、こうして彼女との思い出を書いていると、まったく取り留めがなくなってしまいます。理由は、彼女とのことがあまりに新鮮で、私自身が消化しきれていないから…。
◆5月9日の朝も、普段通り私と娘が彼女を見送りました。昼頃には、夕食の準備のことで彼女とメールもしていました。そんな生活が、夜の8時にかかってきた一本の電話で突然、終止符を打ったのです。私が病院に駆けつけた時に、すでに彼女の瞳孔はほぼ開ききっていました。CT画像でも、大脳がパンパンに腫れ上がり、ゆっくりと脳死状態に向かっている様子が確認できました。その時点で積極的な処置ができないほどの病状を迎えていました。医師によると「瞳孔は開いてもあと1ミリ」。そして、10日目に息を引き取ったのです。不誠実を嫌い、卑しさを嗤い、人と人の関係を大切にし、志に生きた女性。彼女は、また私の仕事の最大の理解者であり、私の文章の最初の読者でもありました。
◆ 妻は「人間は自然界の一部」との信念を持っていた女性でしたから、私自身、今は彼女の死を従容と受け入れなくてはいけないのでしょう。死後、彼女の鞄から日記が出てきました。一文を紹介します。(2001年 35歳から36歳)「私がやらなくてはいけないこと。何が何でも自分で見て聞いて写真を撮らせてもらって、受け入れてもらった人たちをベースにエイズの本を書くこと。それは絶対。それから希生(娘)に、母親の生き方、仕事、考え方をきちんと見せる。正面からいつでも希生と向かい合い、受け入れること。母親として恥じない生き方を貫く。私がやりたいこと。長編の物語を書く。読者が本を読んで心が温まり、力づけられ、ホッとし、考えさせられ、厳粛な気持ちになり、いろんな意味で心が揺さぶられるような本を書く。これさえできたら、いつ死んでもいい。でも、これができないうちは、いつまでも死ねない」(桃井和馬)
地平線報告会はいつも18時半より少し遅れて始まるのだが、報告者はときには一番乗りで会場にやってきて、だいたいは緊張した面持ちで司会の紹介を待っている。ところが今夜は違った。定刻になっても報告者が来ない。会場では山辺剣さん、中山郁子さんを始め、何人もの若者が雨の中、ザックを背負ってきて、挨拶を交わしているのが目立つ。安東浩正党首率いる「野宿党」が、「3次会」と称して近くの公園で野宿の後、「富士山野宿」を計画しているのだった。他にも京都、長野など各地から関野さんの話を聞こうと、人が集まって来ている。15分ほど経過して関野さんがようやく到着、報告会は始まった。今回の南方ルートの旅で初めてデジタルカメラを使った関野さん。地平線報告会はその画像を見せる最初の場となったのだが、写真の整理とどうスクリーンに映すのか、写真家の野町和嘉さんに教えてもらっていて遅刻したという。なんとなく探検家を身近に感じる話だ。
◆地球表面の約70%は水で占められている。本来、水中を行動する能力を持たないヒトが、歩いて移動することができる陸地は残る30%弱しかない。しかも緯度や海流により気候は大きく変わり、あるいは高度差の大きい山脈群が存在する。目の前に立ちはだかる困難を乗り越えるため、ヒトは狩猟の技術を発達させ、農耕の方法を学んだ。
◆アフリカを起源として採集生活のために生活の場を拡げていき、もっとも長い旅をして南米最南端にたどり着いたヒトの移住の足跡を逆にたどったのが1993年から始まった関野さんの「グレートジャーニー」で、話はその旅の途中から、分かれ道のように始まる。「グレートジャーニーは人類がどこから来たのかという探求の旅。その中で自分がどこから来たのか、日本人ってどういう人なんだろうかということに関心を持ち始めていた」。それが、「新グレートジャーニー・日本人の来た道」につながる。
◆シベリアから間宮海峡を渡って、あるいは中国から朝鮮半島を通って、南から島々を航海して、「日本人がやってきた道は1本に絞りきれない。いろんなところから来た」。だから新グレートジャーニーは、いくつものルートを、線をたどるのではなく面として捉える旅になった。ヒトの拡散は、ひとつのルートであったわけではなく、様々なベクトル、速度を持って同時に多方向に進んでいった。ドクトル関野はホワイトボードにアフリカ大陸とユーラシア大陸とを描き(説明がなければ、ただの2つの楕円にしか見えないのだが)、語る。
◆「ホモサピエンスは10万年前から15万年前に、アフリカで生まれたわけですけれども、そこからヨーロッパ、アラビア半島を目指す、ユーラシア大陸を進むというふうに、移動の仕方は様々で、しかもいろんなルートで進んで行った。東へ向かった人たちは、ヒマラヤにぶつかって、その南側へ行った人たちが多かったと思われる。ただ、珍しい人というか、勇敢な人というか、馬鹿な人というか、ヒマラヤの北側に行った人がいた。相当苦労しただろうけれど」。
◆同じ緯度で東進すれば気候がほとんど変わらないから衣食住の習慣も変えなくて済むが、ヒマラヤのような山脈越えに遭遇すれば話は別だ。ましてや北上して極北に至り、ベーリング海峡を渡った人たちはいったい何を考えていたのだろう。「サルの仲間がいちばん北上したのは下北半島。せいぜい北緯40度ぐらいしか行っていない。人間だけがそれを超えてしまったのは大変なこと。もうひとつ革命的なのは動物のミルクを飲むことで、これは他のどの動物もやらない」。
◆家畜のミルクを飲むことが、植物食から肉食に変わって行った人々を壊血病から救ったのだとモンゴルで関野さんは推理した。壊血病を防ぐビタミンCはミルクそのものにはほとんどないが、馬乳酒とその微生物の働きでビタミンCが摂れるのだ。「お茶が入ってきて、ビタミンの補給源は増えた」。後年、発酵食や毛皮の加工など、ヒトの拡散にはこうした発明と工夫が欠かせなかった。「人間というのは、追い込まれるとすごい。何とか生きる方法を探す。そうして新しい文化を作っていく」。
◆報告は具体的な行動に入る。シベリアから間宮海峡、宗谷海峡を渡って北海道に到る北方ルートの旅を2005年に終え、続いて南方ルートにとりかかった関野さん。出発はネパールのカトマンズだ。相変わらず全行程、自分の脚力、腕力だけに頼る旅。まずはカトマンズから東進して、ブータンを自転車で縦断した。「非常に気持ちのいい旅だった。標高200メートルから、富士山より少し高いぐらいのところまで、毎日上って下りて上って下りて。上りだけを足すと、1万メートルを超えていました。一番気持ちよかったのは、3000メートルから4時間かけて600メートルへ下ったこと。何しろ自転車を漕がないでいい。上りは上りでいいんだけれども、やっぱり下りは気持ちいい」。
◆インド、アッサムに入り、ミャンマーに抜けようとした関野さんに、難問が。「アッサムは許可が出たと思うんですが、マニプール州(州都はインパール)の治安が悪い。それで許可が下りない。なおかつミャンマー側もダメ。それで去年の春はインドとミャンマーの中を観光旅行して、これからどうしようかな、と」。ヒントになったのが、ヒマラヤにぶつかって、温暖な南側ではなく北麓をたどったヒトの足跡だった。チベットを通って東に向かった人たちがいたことは、様々な調査と研究で判っているのだという。新グレートジャーニー南ルートの撮影スタッフとして関野さんを追い続けている山田和也監督の事前調査と勧めもあった。
◆「去年夏より青海省からチベットに入って、雲南省に抜けて、ラオスに入って、カンボジア国境まで。高度差はあるけれど、極北に向かった人たちに比べれば困難ではない」。インダス、ガンジス、メナム、メコン、長江、黄河といくつもの名だたる大河が、チベット高原を水源として、ヒマラヤの北側からインド洋、太平洋に流れ出ている。中でも南北に流れていて変化に富む国際河川、メコン河を関野さんは選び、その水源から「第二の南方ルート」の旅を始めた。今年の2月にはラオスに入り、カヌーと自転車とで縦長のラオスを縦断した。「カンボジアのイミグレの人に、また来るからね、と話をして、帰ってきました」。
◆メコン水源近くで日本人医師を頼って遊牧民のテントにやってきた巨肢症の13歳の少女とその治療の顛末、4年に1度行われるインドの聖なる祭「クンバ・メーラー」に集まった500万人の裸のサドゥ(ヒンズー教の修行者)たちの話など、それだけで報告会ができそうなエピソードがいくつも繰り出される。
◆そして、写真が素晴らしい。日本を思わせる雲南の棚田、勇壮で知られる東チベットのカムパの正装、高原では貴重な燃料となる家畜の糞、携帯電話を使う遊牧民、「道路だと痛いから」花畑を五体倒地する可憐なチベットの少女、モン族の少年、聖なる巡礼地であり、悲劇の雪峰でもある梅里雪山、朝もやに包まれるラオスの古都ルアンプラバーン、ガンガーに花を流すバラナシーの少女、得度式のために着飾って化粧し象に乗るミャンマーの男の子…。400枚以上というスチルイメージが、関野さんのパソコンから、次々と無造作にスクリーンに映し出された。
◆いつも不思議に思っていたのは、関野さんの写真には笑顔の少年少女が多いことだ。その笑顔は作り笑いではなく、屈託のない自然な笑みだ。本当は喜怒哀楽すべてを記録に残したい。時には泣き崩れる被写体もある。でも28ミリのレンズを構えて、相手の近くまで歩み寄って、「なんでそんなに暗い顔してるの?」と聞くだけで、不思議にみんな笑顔になってしまうのだという。私にとっては「関野マジック」としか思えない。
◆ラオスは日本人にとってあまりなじみのないインドシナの農業国だが、資本主義の荒波から離れ、経済発展が遅れている分、昔から続く素朴な生活が見られる国でもある。今年のラオスの旅で、関野さんは砂金堀りをしている人たちに出会った。「一生懸命掘れば、いくらでも掘れるのに、指輪を買いたいとか、そういう欲はあるはずなんだけど、一つ手に入れれば満足しまって、掘るのをやめてしまう。日本人や中国人が行ったら、きっと全部掘り尽くしてしまうだろう。でもそうはしない」。その姿が、かつてヒマラヤの麓にとどまった人々と、北上して極北を目指した人々の分かれ目を想起させる。
◆「中国でも人民公社が解体されたとき家畜を平等に分配したはずなのに、いまでは遊牧民の中でもお金持ちの人とそうではない人というように格差が生まれている。何でこんなことが起きているのか。労働意欲の差というか、モノがない状態の人というのはそれに慣れてしまって、それでいいやということになる。一方、豊かな人々はより豊かな生活を追い求める」。それが拡散した人類の中でも、住み着いた人々と、より遠くへ移り住んだ人々との違いになったのではないか、もちろん好奇心や向上心が原動力になって動いて行った人もいるだろう。だがそれだけでなく、悪い環境とわかっていても移らざるを得なかった人たちもいるのではないか、と関野さんは考えるのだ。
◆深くはそう考え、浅くはそれが心配になる。素朴な味わいを残す国、ラオスの対岸は、経済発展著しいタイだ。テレビの放送はタイの番組ばかり。いろんな情報が入ってくる。携帯電話のCMが流れれば、それが欲しくなるのは自然なことだ。便利さの弊害はあるが、もはや止めきれない流れだ。「プージェーの母親も、携帯を持っていれば、医者を呼べたかもしれない」。遠くを想い、近くを考える。関野さんの両眼は、本当に自由自在に古代から現代、未来までを見通しているように思えてならない。
◆1980年、第8回の報告会以来、336回を数える地平線報告会の過去のリストの中でも、何度も出てくるのが関野さんの名前。「冒険王」賀曽利隆さんとデッドヒートを繰り広げている。私にとって関野さんは長らく近付き難い「伝説」の人で、それは「グレートジャーニー」とそれに続く旅のためにいつも日本にいないからなのだった。2004年の地平線会議300か月記念フォーラムのときも、ステージに上がってもらうことは叶わなかった。関野さんはその頃、シベリアを自転車で走っていた。それだけに今夜はこんなに直球勝負の話をする人だったんだと再発見した思いだった。そんな関野さんは報告会の最後に、おずおずと切り出した。「いつもシゲさんにOKと言っていただけると、その晩はよく眠れる。今回はいかがでしたか?」。そう問いかけるドクトルに、金井重さんは大きなハナマルを出してくれた。(落合大祐)
◆グレートジャーニーの旅から一時帰国してくるたびに、関野吉晴は「逞しく」なっていた。足かけ十年、体を動かし続けて厳しい旅の途上にあったのだから、体躯の充実は当然の結果だったろう。優男(やさおとこ)の印象は変わらぬながら、年ごとに手足の筋肉が盛り上がり、日焼け雪焼け潮焼けした肌には張りが出て、眼光も炯々としてくるのが、そばで見るとよくわかった。
◆だが、帰国のたびに「また逞しくなった」と私が感じたのは、決して体躯や体力のことではない。精神力などというものでもない。それは関野の「眼力」や「洞察力」を含むトータルな「知力」への印象であった。雪原を駆け、砂漠を越え、海河を漕ぎ、その合間には多くの時間を自然の中で暮らす人々と交わって歩を進めてきた関野の頭には、常に「我々は何処から来たのか」「我々は何処へ行くのか」という命題が宿っていたが、その考察が深まり広がる様子がリアルタイムで見て取れたのである。
◆単に印象だけでなく、それを如実に納得させられたのが、帰国時に繰り返された多くの識者との「対話」の席上だった。関野の求めに応じ、あるいは相手の求めに応じて、写真集や雑誌に収録するため多くの「対談」が組まれたが、その一部に同席し、あるいは記事を読んでいくと、関野の関心領域が広がる一方、それらを見渡す「視点」が次第に高まっていくのが理解できた。
◆船戸与一や池澤夏樹、西木正明、島田雅彦、熊谷達也、椎名誠らの作家たち、中村桂子や伊沢紘生、河合雅雄、石毛直道、馬場悠男、諏訪元、古市剛史、山本紀夫、稲村哲也、赤坂憲雄らの生命科学・動物学・人類学・民族学分野の学者たち、さらにはノーベル平和賞のリゴベルタ・メンチュや、アイヌ文化研究の萱野茂、ミュージシャンの宮沢和史、噺家の春風亭昇太、映画監督の龍村仁、それにわが恵谷治も混じる対話相手の陣容は、それだけで関野がいまいる「世界」の広がりを表している。しかし、その内容を読めば、関野が「地表の現象」を追うだけでなく、自身の「知の世界」をも押し広げ、創り出す探検に邁進してきたのだということが、誰にでも、ある感動を伴って納得できるだろう。
◆それらの対談がこのほど、時系列に従って編集され、一冊の本にまとまって出版された。版元の私が言うと宣伝めいて恐縮なのだが、これは間違いなく関野吉晴を知るための必読書である。人類の過去から未来へ思いを馳せ、その考察を地球規模の地面とそこに住む人々の個々の暮らしの事例から、実際の足と目を使って深めていく関野の旅の営みは、これまでにない形の「哲人」あるいは「智者」がつくられていく営みでもある。その過程が実感的に読みとれる『関野吉晴対談集』(東海教育研究所刊・本体2400円)を、地平線会議の仲間として、ぜひ皆さんにお薦めしたい。(問い合わせ=電話03-3227-3700まで)
昨年からデジタルカメラを使うようになった。すぐに自分の思うように撮れているかわかる。暗い所で増感ができるので、ストロボをほとんど使わないで済む。夜の撮影も楽になった。三脚も使う頻度が減った。これらのメリットのある反面、何枚でも撮れ、納得できなかったら、その場で消せる。そのためにフィルム撮影と比べて緊張感が緩む。また長旅をしてちゃんと撮れているかどうか確認を待っている時のワクワク感、ちゃんと映っているポジを見るときの喜びが失せてしまった、などの欠点もある。画質、保存など様々な分らない点があるが、デジタルに大きくシフトしている。
◆先日の報告会ではRAWで撮っていたデータをプロジェクターで映し出すために、JPEGに変換しなければならないのだが、最初のデジタル指南役の桃井和馬は不幸の直後でそれどころではないと思い、写真界の大御所野町和嘉、榎並悦子夫妻に指南を頼んだ。2時間かかりっきりで、やっと400枚を変換できたが、整理する時間もなく、そのまま報告会会場へ飛んで行った。やはり400枚は多すぎたし、未整理だったので、来てくださった方々にはご迷惑をかけた。デジタル写真を自由に扱えるよう精進したいと思うが、道は遠いようだ。(関野吉晴)
あの二人がいよいよ挙式かぁ。緊張しながら6月3日を迎えた。大阪を出た時は小雨模様だった空も羽田に着くと快晴。世界七大陸最高峰登頂最年少記録達成(当時)の山田淳さんとフルート奏者の横山蘭子さん。そんな二人の出会いはなぜかJAZZ研究会だったらしい。その時から7年。
◆披露宴はまさに二人らしい演出と構成だった。お色直しで登場した新郎の姿は…オレンジの防寒服のエベレスト登頂仕様。会場が沸きあがった。その後の新婦生演奏時には、ピアノを3か月練習したけど弾き語りは無理でしたという話を交えながら(笑)淳さんの新婦へ手紙の朗読もあり、幸せな空気に包まれた時間はあっという間に過ぎていった。
◆2人とは淳氏の関西講演会を企画した事が縁で、それ以来何かと一緒に楽しい時間を過ごしている。淳氏はクライミングの師匠であったり、蘭子さんともども美味しいもの巡りの友だったりもする。キリマンジャロにも同行してもらった。彼は大学を卒業後、外資系コンサルティング会社で昼夜問わずの仕事ぶり。一方蘭子さんは演奏会や中学・高校の吹奏楽部で指導をしたり、最近では話題の「のだめカンタービレ」で、フルート奏者としてSオケ団員でドラマデビューも果たし視聴率UPに大貢献! そんな可憐な彼女も昨年キリマンジャロ登頂に成功。そして今夢中になっているのはクライミングだという。音を奏でるが如く華麗な攻めぶりに淳氏が惚れ直したのは言うまでもない。倖多かれ!(村松直美)
★5月最後の土曜日昼前、NHKの屋久島の番組に突如見慣れた顔が登場。手際よいガイドぶりを発揮した。おお、頑張ってるやんけ。というわけで、「のの」こと野々山富雄さんに書いてもらった。(E)
■屋久島は、梅雨に突入したようです。降れば大雨で、昨日も縄文杉行は中止となりました。せっかくいらしたお客さんには申し訳ないけど、何かあった時のことを考えるとやむをえません。
◆この島に移り住んで早12年。ネイチャーガイドという仕事を本格的に始めて10年になります。お蔭様で屋久島人気は好調でガイドで生活出来る様になりました。屋久島ガイドとしては中堅以上、縄文杉への登山回数としても1200回以上の、おそらく上位5本の指には入っているだろうと思います。別に偉くも凄くもなんともありませんが。まあ、山登ってメシ喰えるわけですから、本当に有り難いことです。
◆誤解なさっている方も多いのですが、屋久島ではガイドをつけることは義務ではありません。またガイド自体に国家資格はありません。「今日からガイド」と手を挙げれば、誰でもガイドに成れるんです。無論、その人の能力、経験や知識、体力等が雇う側から問われるのは当然ですが、基本的に誰でも屋久島のガイドになれます。
◆「そりゃ、ねーだろ」と現在、資格認定制度は検討されています。お客さんにとっても長く屋久島の森を歩いたガイドと、経験未熟な人ではその印象も変わるでしょう。現在、屋久島のガイドは海やカヌー等を含め、150人以上はいると言われています。日本で6番目くらいの大きさの島で、それだけのガイドが生業を出来る。屋久島の山、海、森、川、世界遺産にも登録される自然があってこそ、でしょうね。
◆ただ、正直なところ、ちょっとガイド過剰かな、という気はします。たぶん、今後、ガイドは絞られていくでしょうね。絞られていいと思います。どのガイドに当たったかによって屋久島の印象は変わってくるのですから。そして自分がその「良いガイド」になればいいんです。
◆屋久島は「霧島屋久国立公園」の一部です。霧島国立公園は昭和8年に、日本で初めて制定された国立公園のひとつで、屋久島は昭和39年にそこに編入され、さらにその約30年後、1993年に世界遺産に登録されました。当時、世界遺産記念に何かイベントがあるかと、マスコミがドッと集まったけど、なーんにもなかったそうです。役場に「世界遺産おめでとう」という垂れ幕があっただけ。屋久島の人が世界遺産というものを知らなかった。というか、日本人自体が世界遺産を知りませんでしたね。
◆世界遺産という概念は実は1970年代からありました。ところが日本人は文化とか歴史、自然に対する思いがあまりに薄かった。やっと92年に条約に調印し、93年から発効。実は偉そうに言ってるオレも、93年当時はアフリカに1年いたので、世界遺産の話、まったく知りませんでした。でもそれからは、世界遺産、ブームになりましたね。「日本遺産」という週刊誌もある。それどころか九州限定のテレビ番組「九州遺産」という番組もある! なんでも作ればいいのか、とは思いますが、自然、文化、歴史を大切にしようという気持ちはいいことですよね。
◆そんな中で、屋久島のガイドとしての役割ってものすごく重要じゃないか、と思います。この島でも様々な問題が出てきています。ゴミや、し尿問題、またこんな最果ての島でも中国からの黄砂、それによって起こる光化学スモッグもあるんです。酸性雨だって。そんな状況を、ただ自然が美しい、というだけじゃなく、様々な問題も見て、感じて、考えてもらって。それが屋久島のネイチャーガイドの役割じゃないか、と、痛感しています。
◆ある意味、オレは、オレ達は、すごく面白い位置にあるんじゃないかと、思ってます。大変なことはいっぱいあるけど、オレ達がしていること、考えていることが、これからの日本の、いや、世界のエコツアーというもののひとつの指針になるんじゃないか。失敗も含め、パイオニアに成りえる。その場にいられる喜びと感謝を持ちながら、屋久島でガイドを続けていきたいです。
◆駒澤大学の探検部から始まり、アフリカで怪獣探しをしたり、中国長江を下ったり、砂漠化防止のプロジェクトをしたりと、したい放題の我が人生。ネイチャーガイドという天職にも巡り会え、本当に幸せな男だなあ、と思います。それ以上は望んじゃいけん、と思うけど、今後、生活、変わるかも、しれません。(野々山富雄 6月3日屋久島発)
江本さんへ☆彡チベットに入り1ヶ月がたちました。第1ステージのラサ〜海抜5200mチョモランマ・ベースキャンプまでの650kmも無事完遂し、第2ステージの準備にはいっております。つぎも山岳ダート(距離1500km、1ヶ月間を予定)と非常にハードなルートになりそうですが、チベット少数民族と、大いなる自然、深い仏法にふれながら、心身を鍛えてゆきたいと思っております。
◆人生には無駄な時間や労力は一切存在しません。費やした分、かいた汗の分だけ心の豊かさへと変わっている気がします。これからもどんどんチャレンジをつづけ、たくさんのみなさんに伝えてゆきたいと思っております。応援をよろしくお願いいたします。(6月7日 シール・エミコ ラサ発)
http://www.yaesu-net.co.jp/emiko/3月下旬、青空に誘われて、いつもの月山に出かけた。さて、今日はどこまで行こうかと思案しながら、とりあえず沢方向に向かうと、大きなわかんの足跡発見。これは鷹匠さんに違いない(鷹匠さんは、自分で作った特製の二重わかんをはき、雪べらを杖代わりに歩く)。友人にふざけて「鷹匠さんの足跡発見。追跡する。」なんてメールし、わくわくしながら雪の上の足跡をたどる。それほど出発時間に差がなかったらしく、30分ほどで追いついた。ブナ林を行く鷹匠さんとクマタカ、何度見てもかっこいいです。
◆声をかけ、同行してよいかどうか伺うと快諾していただき、同行。鷹の気が散らないように5、6メートル離れて静かにお供。その少し前にも鷹狩同行の約束していたのだが、風が強かったため、車の中で2時間待機するも風弱まらず、鷹は置いて人間だけで下見トレッキングして終了していた。鷹狩の訓練には何度か同行させていただいているが、かなり天候に左右されるため、鷹を連れて歩いても、据えて歩くだけで飛ばさないということもあった。今回は快晴無風。あとはウサギが出てくれれば…尾根筋をウサギを探しながら歩く。ざくざくと雪を蹴る音だけの静かな世界。ふいに鷹匠さんの足が止まり、背中に緊張感が。どうやらウサギを見つけたようだ。鷹を放したが、ウサギがブッシュに駆け込み、ウサギを見失った鷹は対岸の木に止まった。まだウサギは近くにいるので、鷹匠さんが斜面を駆け下り、追い出すことに。私は斜面の上からウサギと鷹双方の動きを監視。鷹匠さんに驚いて飛び出したウサギに鷹が急降下で突っ込み、捕らえた! 雪の急斜面上のことで、ウサギもろとも10メートルほど滑り落ちて木の根元で止まった。まだウサギを掴んでいる。「捕らえた!」と叫んで私も斜面を滑りおり、鷹匠さんの後を追ったが、鷹が掴んだ位置がウサギのお尻寄りだったため、ウサギが弱らず、逃げられてしまった。ああ、残念。成功したと思ったのに…押さえ込んでいた地点に行くと、ひとつかみ白い毛の塊が残っていた。失敗はしたものの、ウサギに突っ込み、ウサギもろともに斜面を滑り落ちていった鷹の狩りは、迫力満点で鳥肌たつ瞬間だった。その後も何度かウサギが出たが、位置関係が悪かったりして、実際に突っ込んだのはこれ1回きりだった。でも、森を行く鷹匠と鷹の後ろをついて歩くだけで、自分まで狩りをしている気分になり、いつもの森も違った感覚で歩くことができた。鷹匠さんは、とてもおもしろい人で、いつもびっくりするような話で楽しませてくれる。普段はにこにこ、とってもとっつきやすい方だ。しかし、鷹を連れて狩りの体勢に入ると、すっと空気が変わる。鷹だけでなく、鷹匠さんも野生の生き物のようなのだ。不用意に近づいてはいけないような気がして、息をひそめてついていく。野生のクマタカやイヌワシを見ているときのように、わくわくどきどきし、かっこよさにほれぼれしてしまう。いつものおしゃべりな松原さんではなく、「鷹匠」という稀有な生き物になる時間。いつか狩りが成功した場面に遭遇できたらいいな、と思いつつ、その血湧き肉踊る瞬間は、鷹と鷹匠さんだけの世界で、邪魔してはいけないような気もする。(山形市 網谷由美子)
京都の南の端くれで2人で暮らすようになってからもう1年が経ちます。私のアトリエと、その隣の自宅と、そのまた隣のダンナどんのエンジンピットですべて事済んでしまう私たちの生活は、退屈どころか日々楽しく新鮮で困ります。
◆昔々、聖武天皇の時代に都が置かれていたというこの町は路地が迷路のようで、散歩をするたびに知らない場所へ誘ってくれたり、廃墟のような社寺をあちこちに見つけさせてくれたり。日々、自分の見ている世界がなんと平べったいものかと思わせられる環境なのであります。
◆だからといって、ここで完結している場合でもないので、先日は久々に報告会へ出かけたのです。ほぼ1年ぶりでしたがなんとまあ、知らないカオの多いこと! 会いたかったあの人にもこの人にも会えず、でもしっかり重さんとは握手して。地平線は同窓会じゃないんだから!とは思ってみてもやはり私にとっては知ったカオに出会うのもまた楽しみの一つと言えましょう。
◆それでも学ぶべき事が多いのは地平線の醍醐味でありまして、念願だった関野さんのお話にはアトラスを持参すれば良かった…と悔やみながらも、貧しさの中にあるモノのお話に自分が救われた気がしたり、2次会では久島さんを捕まえて、なんでそんなに肌つやがいいのか問いつめてみたり、野宿野郎の加藤さんと仲良くなってもらったりと一石で5、6羽捕獲し大漁旗を掲げて、再び田舎っぺぇの生活に戻りました。
◆新茶の摘み取りも終わって、そろそろ遅い田植えが始まります。アトリエの中に舞い込んでくるツバメに余所で巣作りをしてもらうよう説得したと思ったら、かえるがゲロゲロ鳴き始め、そろそろ夏です。この夏はダンナどんのフィールド、いざカナダへ! 約2か月間、ユーコン川を行ける所まで下ります。カヌーに空飛び道具一切合切を詰め込んで、タンデムだってやっちゃいます。
◆もちろん出発前には厳しい合宿だってやるんだそうです。(←ここだけナゼか他人事…)とにかく、私にとっては全く新しい世界に何が見えるでしょうか。何を感じるでしょうか。五感が研ぎ澄まされ、未知の刺激に出会えるのが色んな意味で大いに楽しみです。諸手続の為、6〜7年前に取得した2人のパスポートを出してきて、当時出会っていなくてホントによかったなぁ〜とお互いにつくづく思う結婚1年目の夫婦なのです。(多胡歩未 京都発)
◆1999年に本州と四国を結ぶ3本目のルートが完成した。神戸鳴門ルート、児島坂出ルートは鉄道、高速道路専用で人は通ることはできないが、この尾道今治ルートだけは「人の道」が付けられたので、本州のチャリンコ族やランナー、ウォーカーらは「自分の足で四国に行ける!」と喜んだ。ウルトラランナーの神様と言われる海宝さんは、瀬戸内海の絶景をランナーに見せようとこの年「しまなみ海道100kmウルトラ遠足(とおあし)」を企画した。瀬戸の人情に触れ、景色を楽しむにはただ突っ走るだけの短距離のフルマラソンではムリなのだ。似たような企画は他にもあったが、今まで残ったというより、さらに人気が高まっているのはこの遠足だけで、今年も1000人以上がエントリーした。海宝さんがランナーの視点で運営しているのが好感の理由だ。
◆私は3年ぶり、5回目の参加のつもりでトレーニングを積んできた。しかし直前に痛風が再発。糾励魂(SEKI根さん推奨の貼り薬)を貼ったが、足指の付け根はふだんの1.5倍に腫れている。さらにテーピングをムリに剥がしたら皮膚が破れた。切符は買ってあったので、我が奥さんと一緒にしまなみ海道橋巡りのつもりで福山に来た。が受付にランナー達が集まっているのを見たら頭は一挙にカソリ化して「行くゾー」という気になった。6月2日午前5時、福山城をスタート、そこから尾道までまず20kmを走る。痛い右足をかばったら、反対の左足の付け根と膝下に激痛が走る。まあ左右同痛になったのでバランスがとれて快調になり、尾道大橋を越えて、いよいよ「しまなみ海道」に入る。向島ではアメリカ・シベリア横断走をした貝畑さんがスイカを用意してご接待してくれる。およそ5kmおきにエイドがあり、おにぎり、バナナ、うどん、塩羊羹、生ジュース、スイカなどなど用意されている。毎年これを楽しみにしているランナーも多く、他の大会との違いがみえる。
◆向島から2階建ての因島大橋へ昇る。橋の下を大型船が通るのでレインボーブリッジや明石海峡大橋のようにはるか高いところに道路がつけられている。歩く我々にとってはほとんど登山だ。鉄道を通す予定だった1階は歩行者自転車専用になっている。因島からの生口橋への上りも長い。「高いところに昇ると遠くが見える。それは地球が丸いからだ」と哲人アリストテレスは言った。我ら鉄人は「景色なんかどうでもいい、フェリーの方がよかったのに」などと地元の人のことも考えずに勝手なことを言う。長距離マラソンは仲間とそんな話ができるのがいい。瀬戸田の平山郁夫美術館の2km手前が中間点。スタート時に預けた荷物が先回りしている。靴と靴下をとり替えて、ユンケルを飲む。ドーピングになるかなあ?
◆中間点まで6時間かかったが、まだ11時。ゴール閉鎖の時間まで10時間もある。残り50kmだから時速5kmで歩けば十分たどり着く。両足同痛だが、痛みは慣れてきた。多田羅大橋を渡り大三島へ、最初にできた大三島橋をわたると伯方島。70km地点のエイドはおねえさんが「東京からきたミワさんで〜す」と放送してくれるので、つい走ってしまう。昨年E本さんはおねえさんの魅力に負けたが※、私はまだ行けるぞ!と伯方・大島大橋に登る。大島の峠越えはきつい。3歩進んで2呼吸、まるで高齢者エベレスト登山並の呼吸になる。峠を越えてバラ園に下る道は、前は快調に飛ばしたが、今は1歩ごとに脳天にまで痛みがはしるので走れない。
◆カメラマンのSEKI根さんとわが奥さんが吉海バラ園で待っていると携帯で伝えてくるので行かざるを得ない。ランナー達はみな携帯で連絡を取り合っている。ついつい便利なものには負けてしまう。アメリカ大陸の横断走をしたSHIMO島さんが「私たちは飼い犬の遊びみたいなもの、NAKA山さんの単独シルクロード走は餌に飢えた野良犬の走り」と形容していた。至れり尽くせりのしまなみ遠足はまさに飼い犬のじゃれ合いかもしれない。
◆最後の来島海峡にかかる4.5kmの巨大橋には圧倒される。橋の下の港からフェリーでゴールに向かう我が奥さんが「もういいから一緒に行こうよ!」と誘ってくれた。何年ぶりかのやさしいお言葉だったが、飼い犬だって時には野良犬にもどりたくなる。四国上陸をフェリーと競争することにした。来島第3大橋の終点、四国の第一歩の糸山公園に6時についた。フェリーはまだ海の上、勝ったぞ!と叫んだら、一緒にいた人が「ゴールまでまだ8kmもあるよ」という。また飼い犬に戻ってトコトコあるく。お城は工事中で1km先の繊維センターの体育館が今年のゴール。福山の城から100km先の今治城を目ざしたつもりだったので、ゴールの感激はちょっと薄れた。テーピングを解いて指をみたら、傷口はほとんど塞がり、腫れは1.2倍までひいていた。長時間の運動で新陳代謝が促されて、身体回復力は野生動物並になっていたのかもしれない。(三輪主彦)
※編集者注:E本は、5回もしまなみ海道100キロに出走しているが、おねえさんの魅力に負けたことはなく、いずれも見事完走している。唯一70キロでリタイアしたのは昨年1月の宮古島100キロで、この時は42キロ地点でエイドの美しいおねえさんに「ロシア語の歌をうたわなければ通過させません」と強要され、「カチューシャ」をうたったため体力を消耗し、あと30キロの地点で大事をとって棄権したものである。
今年度から千葉県職員の健康診断でも腹囲測定が義務づけられたようで、先日受けてきた同僚が腹をむき出しにさせられ測定されたと話していた。男性85cm、女性90cmを目安に、これを超えた人には生活習慣病(ちなみに今は成人病とはいいません)にかかりやすいので注意しましょう、もっと大きな人には生活改善指導もしましょうということらしい。
◆ただしこの同僚の話によれば、単に腹が出ているだけなら気にもしなかったが、いざ腹を出して、しかも数値で表されるのには大いなる抵抗を感じたというから、メタボリックシンドロームの予防には腹囲値を知ることよりも、測定という行為によって生じる精神的苦痛を与える方が、大きな効果が得られるのかも知れない。ちなみにひっかかりそうな人は例外なく息を吸い上げて腹を引っ込ませるため、保健師から「息を吐いてください」とことごとくさげすまされていたという。
◆なぜ太るのかといえば、これはエネルギーのインがアウトよりも大きいからである。したがってやせたかったら、インを減らすかアウトを増やせばいいだけの話なのだが、これが悩む人には難しいらしい。メタボリックシンドローム一直線の人ほど、駅で階段よりもエスカレーターに流れていく傾向が強いという風景を見かけるだけでも理解できる。エネルギーを計算する際には、インとしての糖分と炭水化物は4キロカロリー/g(以下キロカロリーを省略)、脂肪は9/gとし、アウトは仕事中を150/時、起きているが何もしないときを100/時、睡眠中を50/時とすれば分りやすい。それぞれ8時間とすればこれで一日2400となる。それしか動かないにもかかわらず一日2500摂取すれば100の過多となり、この余剰は11gの脂肪量として体内に置き換えられ蓄積されて、そのような生活を1年続ければ体重もまた積もり積もって4kg増加する、ということになる。
◆一方のエネルギー消化値は、各資料を平均してみると自転車の場合、時速20kmのペースで走ったときに400という数字をベースにした比例関係にあるようだ。つまり100km走れば、5時間かかろうが4時間で抜けようが、それだけでもほぼ2000は消化するというわけだ。連日移動するサイクリストがいかに食べようとも太らない理由がここにあり、自転車がメタボリックシンドローム問題の解決策として注目を浴びるようになった所以でもある。
◆ところで7月末、今年もまた行きつけの自転車屋が、未明の2時に千葉をスタートし、たどるルートは自由、0時31分発の急行「能登」に輪行(自転車をパッキングして鉄道などに乗せること)できるよう到着さえすればよい、というルールでの千葉−直江津ランを実施する。参加者はそれぞれ5人程度のグループ単位に分れ、ゴールに設定された直江津駅前の居酒屋へと東京湾から日本海へ疾走していくのだが、要はこの店の生ビールのためだけに北へと走っているようなものである。
◆もっともその味を充分に味わいたかったら、20時間以内の到着という関門をクリアしなければならない。わいわい騒ぎながらのんびりと日本海の珍味に舌づつみが打てるのは午後10時30分の到着まで、遅れるほどにその楽しみ時間は減り、21時間を越えてしまうと宴会に参加できないまま輪行するはめに追い込まれ、22時間台になると一緒に帰ることすらできないという状況に陥ってしまう。
◆なにしろ、もっとも単純な高崎、碓氷峠、長野、妙高高原経由でさえ360km、330kmと短くても前橋、草津、飯山コースをたどれば、雲の上の2172m渋峠を越えなければならない日本列島横断路である。ところがそのようなサバイバルイベントでありながら、参加者はなぜか年々増えて、このところ40人超で推移している。年齢層もまた未成年から還暦超えと多岐にわたり、5人ほどの女性も混じるほど盛況である。
◆それだけの距離を移動するのだから、この日のエネルギー消費量たるや生半可ではない。20時間以上も走らされるのだから、かるく1万キロカロリーは突破する。むろんメシでしか動かない自転車だから、インもまた増えるものの、それとて倍にしたところで5000もの消費超過である。これを補うためには550gの脂肪を燃焼しなければならず、したがってその分の脂肪が体内から消滅していくことになる。年がら年中そんなことばかりしているのだから、自転車の愛好家がメタボリックシンドロームに陥ることはない。
◆19歳の夏、北の果て宗谷を目指したことに始まった自転車人生も早30年が過ぎた。つまらぬ学生生活を打開するため、北海道を目指して世田谷の寮をスタートしてからというもの、刻まれた轍は年々蓄積されて32万kmを超えた。中心距離間を38万4400kmとすれば月面まであと6万km、2013年中には到着できそうだ。 (埜口保男)
夢と言うか、寝言と言うか、一人の人間の吐いた無責任な戯言(たわごと)がいつの間にか一人歩きをして、時にはとんでもないところまで膨らんでしまうこともある。
◆去年の春のことだ。退院を間近に控えた僕に医師が聞いた。「退院したら、どこかまた走るんですか?」。パリダカの事故(2004年1月)以来、2年間の入退院で左膝の膝蓋骨(お皿のこと)を失い、足首も含めた膝の可動域はようやく90度を確保する程度で、筋力も著しく低下させてしまった僕にとって、バイクなど乗れるものかどうか、乗れたとしても昔のようなハードな極地旅行など考えにくいものになっていた。
◆にもかかわらず、飛び出た言葉は我ながら呆れるものだった。「はい、今度は今までは出来なかったもっと広い平面とか、線で結ぶ、壮大な旅行型冒険を考えています。そうですね、ユーラシア大陸横断!」。口から出任せのように出てしまった“ユーラシア大陸”という言葉。ここまではただの「戯言」である。ところが、先生はこう言ったのだ。「ほう? それならロシアのクルガンという所に行って、今回の入院で風間さんが足に付けたイリザロフの創外固定を世界で最初に考えたロシア最大のイリザロフセンター(病院)に寄ってみたらいい。そこにはイリザロフを付けた患者さんが千人はいますよ。なんなら僕もご一緒しましょうか?」
◆冗談まじりのようで、なんだか急に現実味を帯びた話になった。そうか。そういう考え方もあるんだ。そういう付帯目的を持ちながら、ユーラシアの最西端のポルトガルのロカ岬に至るというのも面白そうではないか。
◆実は、フランスの病院から日本の病院に転院してこのかた、ずっと僕の胸の内に秘められていた“課題”がある。「期待外れの日本の外傷医療」という現実だ。解り易くいえば「なんだよ、日本の医療ってこんなもんかよ?」という僕の体験を伴うやり場のない憤りである。これに対して、日本で2つ目に入院した東京の某(帝京)大学付属病院の整形外科の総大将・松下隆教授はこともなげに言った。「そうなんです、明らかに外傷という観点から言えば10年、いや30年は遅れてるかも知れません。今回の貴重な経験で知り得た風間さんの医療に関する様々な意見を社会に大声で報告し、問題意識と関心を集め、日本も一日も早い先進国並みの医療環境を整えていかなくては」
◆そして松下さんは具体的な病院の建設計画の夢も語ってくれたのだ。このような場合、医者はとぼけた顔をしながら「まぁ、我々も努力はしてるんですがね…」などと、偉そうな顔をしながら大抵ははぐらかすのが相場と決まっている。なのに、この教授は現実を認め、そこから医療を変えようとしている。はっきり言ってエライ! 日本にもこんな「志」の高い医師がいるのだと思うととても嬉しくなった。
◆かくして計画は一気に具体化した。ライダーである僕がユーラシア大陸を横断しつつ、医師である先生たちと世界的な病院3箇所を訪問する。名づけて「WHO運動器の10年キャンペーン・ユーラシア横断隊」(運動器とは、骨、関節、筋肉、腱、神経など体を支えたり動かしたりする器官の総称です)。具体的には6月15日に富山県高岡市伏木港を発ち、ウラジオストクからロシア、ウクライナ、ポーランド、ドイツ、オーストリア、スイス、フランス、スペイン各国を通り、最後にユーラシア大陸最西端のポルトガルのロカ岬まで18,000キロを走破する。
◆その間、ロシア最大の整形外科病院であるイリザロフセンター(クルガン州)、世界の最先端の医療設備・技術を誇るドイツの病院、ムルナウ外傷センター、僕が入院し初期治療を受けた世界的に定評のあるフランス・パリのピティエサルペトリエール病院を医師の先生たちと訪れる。
◆今回の旅のプライオリティーを正直に言うと、一番はなんと言っても世界で最もでっかいユーラシアの大陸をバイクで完走したい。二番目に完治しない足の無念を、世の中の外傷医療のボトムアップのために貢献すれば、少しは気が晴れる。バイクに乗ること自体は、今年のゴールデンウィークでBAJA1000マイル(カリフォルニア)を転ばずに気持ち良く走れ、乗ってしまえば少しは昔のようにハイスピードで走れる事がわかったので、今は事故前よりバイクが好きになった気がしている。
◆怪我の功名、転んでもタダでは起きない根性。今回の旅を機会に僕は今年から4年がかりで地球を一周したいと思っている。今年のユーラシア大陸、来年は密かにずっと思っていたトラックによる(自分で運転し、後ろの荷台に障害者をいっぱい乗せて)アフリカ大陸の縦断、そして再来年は自転車でのオーストラリア大陸横断(左足に喝を入れる)、最後はまたバイクで南北のアメリカ大陸を縦断して終わり。なんだか嬉しい4年間になりそうだ。
◆失うものあれば、得るものもありだ。今の僕は3年間の寝ていた気分が久々に起きて、足が50%ダウンした分、気力は昔の150%に浮上した気分。普段はまったく足の悪いのも忘れ、歩行中以外まったく昔の自分に戻っている。元気は身体的不自由とはまったく関係なしだ。来週の出発を前に、まだ何にも準備していない。まったく旅を舐めてるとしかいいようがない。心の中で「何かあったって、死にゃしねぇ、向うところに人、町、ありだ」と思っている。沢山の人と、町と風景との出会いに期待いっぱいだ。こんな旅はいままでした事が無いから…。では行って来まーす! 帰ったら報告会でいっぱい良い話をしますね。(風間深志)
アイゼン。こんなトゲトゲを装備する日が来ようとは。買ったはいいが、3次会の公園で、装備の点検中に初めて袋から出し、使う事もないかと、そのままリュックに入れ眠りについた。予想通り天気予報が外れ、朝から良く晴れた。安東浩正隊長以下、ラジオ体操で体をほぐし、食料の買い出しを済ませ、車に分乗し、いよいよ出陣。今回は、富士山五合目で野宿するついでに、近所の富士風穴を探索。さらに富士山頂まで登ってやろうという「ついで」が「メイン」を喰った作戦である。
◆午後3時頃、富士風穴に到着。洞窟探検家、松澤亮氏の案内で中へと進む。風穴の中はヒンヤリして暗い。その暗〜い洞窟をヨボヨボ進むワシとは違い、皆はズンズン進んでいく。よく見ると他の人のヘッドランプはLED仕様で明るく輝いてるのに、ワシの電球ランプは暗〜く寂しいのであった。
◆天井から垂れるツララや床から生える氷を見ながら進んで行くと、終点らしき所に着いた。「やれやれ」、一息ついていると「ここから奥に行きます」と人一人這って入れるほどの小さな穴を指して松澤さんが言った。這いつくばって進むと道はさらに続き、穴が下へと伸びている。交代で降りて行き、全員が洞窟最深部を制覇することが出来た(最深部は金銀財宝など無く、ただの行き止まりだった)。帰り道、凍った床が滑りなかなか登れない場所では、野宿党らしく協力して登るようなことはなく、互いの足を引っ張り合う泥沼の地獄絵図が展開された。コツを掴むと凍った斜面も登れるもので、怖くなくなり滑り台のように滑って遊んだ。松澤さん、風穴案内ありがとうございました。
◆メインイベント「野宿」のため富士山五合目へと移動する。ここで田中幹也さんが合流。安東さんや幹也さんと富士山に登れるなんて、すごくラッキーだ!! 五合目の駐車場にシートを敷き、鍋を食べながらしばし御歓談。今宵も中山郁子さんら女子部の元気さが断然目立った。風が吹き始め明日も早いし、そろそろ寝よう。ワタクシごときヘタレは強風を避け建物の陰で寝ましたが、豪傑安東さんは強風吹き荒れる中「シュラフに入れば同じだよ」と謎のメッセージを残しそのまま朝まで寝てしまった。
◆翌朝トロトロ準備したため、今朝来た登山客より遅れて出発。せっかくの野宿が…。さらに朝食の「火鍋」で体調を崩す人も現れ、この隊を率いる安東さんと幹也さんは相当苦労すると確信した。「12時までに頂上に着かないと下山」、そう決めて六合目、七合目と順調に登って行った野宿隊に雪渓の前で大問題が発生。11人中7人がアイゼンの付け方を知らなかったのである!! ワシも見よう見まねで付けたら前後逆で安東さんを困らせた。ピッケルのギザギザ部分を「緊急時木を切るのですか?」と聞くとあきれ顔で笑われた。
◆全員で安東さんと幹也さんに雪上訓練を受けて再出発。慣れないアイゼンを付け雪の上を休み休み登っていく野宿隊。七・五合目で休憩中、先頭を行く幹也さんに安東さんが「休憩ばかりしていると12時登頂は無理。こんなに天気のいい富士山は滅多にないし、皆登頂したがっているから、休憩の数を減らしていこう」と提案したが、「このペースで行かないと皆ついて来れないからしょうがない」と二人の意見が対立した。ものすごい実績を持つ二人が素人集団のために真剣に議論してくれている姿には感動を覚えた。
◆協議の結果「登頂予定を12時半に延長。八合目まで全員で行き、そこから希望者のみ山頂を目指す」ことになった。そして八合目。安東隊長が「登頂をやめて残る人は手をあげてください」と言った時、ワシは迷わず手をあげようと思った。「体力の限界!!」と心の中で叫んでいた。
◆しかし、今回の戦況を地平線通信に書くことになっていたし、タカちゃん(三橋孝子さん)や加藤(千晶)さんら女子が行くのに降参はできない。普段する運動と言えばマウスをクリックする程度のワシが、この先登れるか心配だったが、それを率いる隊長はもっと心配だったと思う。頂上を目指すのは、安東隊長、初アイゼンのタカちゃん、加藤さん、藤川さん、ワシ、そして元山岳部の藤本さんの6人。こりゃぁ大変だぁ。下山する人達と共に八合目に残った幹也さん。ここまで引率ありがとうございました。水と食料の餞別をもらい八合目を出発すると急に風が強くなり何度か飛ばされそうになった。「死ぬのはイヤじゃ」と必死にピッケルを突き刺した。ピッケルやアイゼンがこんなに頼りになるとは。ガスが迫り突風が吹くと怖いが、天気も良く青空と澄んだ空気が気持ち良かった。頂上を見上げると湧き出したガスが挑発的に揺れていた。挑発に乗る体力もない僕は、下を向いて前の人の足跡を追った。足跡がなかったら自分で地図を見てルート確認せねばならず大変だったと思う。バテてるが体調は良く九合目を過ぎた辺りで「頂上まで行けるかも」と思ったら、藤本亘さんが体調を崩し脱落した。
◆油断大敵、そこからは少し先に見える鳥居を目指し無心で登った。鳥居をくぐって「ゴォーール!!」と思いきや「実は奥の鳥居が頂上なんだ〜♪」とオチャメな隊長にスカされつつ12時40分、野宿党の5人は本当の鳥居に着き登頂を果たした。時間が無いので写真を撮ってすぐに下山。帰りは教わった「尻セード」で頂上から一気に七合目付近まで滑り降りた。富士山の斜面を滑ったあのスピード、迫力、快感は一生忘れられないものになった。これを野宿党の恒例行事にしたら面白いな、と思ったワタクシであります。(野宿党藩士 山辺剣)
みなさん、こんにちは。最初に連絡です。いまさらなんですが、5/2に発売された「ソトコト」6月号に私が出ています。http://www.sotokoto.net/top.html「世界のエコセレブ101人」という特集記事です。プロフィールだけです。エコセレブ???という突っ込みはカンベンしてくださいね。
◆今日、もし晴れれば、最後の太陽を拝むことになります。明日(31日)から極夜です。太陽が地平線の上まで出てきてくれません。次に太陽が顔を出すのは7月13日になります。でも実際は、蜃気楼で見えないはずの太陽が見えることもあるので、31日以降も太陽の姿を見る機会があるような気がします。
◆先日、転がる太陽の写真撮影に挑戦しました。撮影する間隔を本当にきっちりとらないと、等間隔な転がる太陽にならないのですね。初日は練習のつもりで撮り、「時間間隔をきっちり!」ということを学んだので翌日にリベンジを試みたのですが、翌日は雲が出てしまい途中までしか撮れませんでした。極夜明けに機会があったらまた挑戦したいと思います。失敗作ですが、初日の成果を添付します。
◆天気の悪かった4月とは打って変わって、5月は好天に恵まれました。おかげで野外活動も順調にこなせました。上旬の5〜7日には、48次隊では初の宿泊旅行(S16合同オペレーション)がありました。気象測器・地震計・GPSのメンテナンス、橇の引き出し、車両移動、ルート整備などの作業を行いました。私もリーダーとして参加しました。8人の大所帯だったこと、オペレーションが決まったのが出発の1週間前で準備期間が短かったこと、48次初の内陸オペ、48次初の宿泊オペ、ということで、それなりの緊張を強いられました。最初の宿泊オペレーションを成功させておかないと、極地研究所内に組織されている観測隊の後方支援チームから指導を受けたり行動に制限を加えられる可能性もないとは言えません。
◆また、初めて南極へ来た隊員にとっては、宿泊のオペレーションをどのように組織し、どんな準備をして計画を遂行したらいいのかということも全く未知なわけですから、48次隊の宿泊旅行の基準を作るという意味でも、きっちりやらなければならないオペレーションでした。このようなことを頭の中で考えていたので、オペレーションの日程が決まった翌日には全員を招集し、第1回の打ち合わせを行いました。食糧、通信、装備、観測、気象、車両、機械、環境保全などの担当を割り振り、準備期間が短いので食糧担当にはすぐに調理隊員の所へ行かせました。その後も出発までに2回集まって、準備状況の確認や全員作業の打ち合わせ、期間中の行動計画などを練りました。
◆結果的に天候にも恵まれ、予定していたことを予定通りの期間内に全てまっとうすることができました。メンバーひとりひとりが素晴らしい集中力と気合で各自の仕事をこなしていたおかげで、予定していた仕事が完遂できただけでなく、参加者全員でプラスアルファの楽しい思い出を作れたことが何より嬉しいです。その成果は、写真でお楽しみください。説明は最後に書きます。
◆せっかく南極に来ても、あまり野外へ出たがらない隊員も中にはいます。食わず嫌いな場合もあるし、基地に居ることが一番安全だから出たくないと言う人もいます。もっともな意見ですね。今回のオペレーションにも、できればどこへも行きたくない若者が1人参加していました。けれどもそんな彼も、行動期間中、いつも楽しそうに過ごしていたし、「どう?」と聞くと、「いやあ、来てよかった。面白いなあ」と言いました。いろいろよかったけど、その言葉もとても嬉しかったです。
◆全員無事に昭和基地に帰投した日は、これでゆっくり寝られると思ったのに、いろんなことを考えてしまって、疲れているのにうまく眠れませんでした。翌日になってようやく心底ほっとして、よく寝られるようになりました。S16オペレーションが終われば、極夜が明けるまではこういう大きなオペレーションはありません。最近は野外のプレッシャーから解放されてとても気楽に毎日を過ごしています。
◆さて、5月はオーロラにも恵まれました。中旬には素晴らしいオーロラが3夜連続で現れました。気温は高い日(-10℃くらい)も低い日(-20℃くらい)もありましたが、いずれも風が弱かったおかげで…がんばれました。オーロラが出れば宙空部門の隊員が「出たよ」と教えてくれます。全館放送は23時までですが、それ以降でも無線で教えてくれるので、私はいつも枕元に無線を置き、スイッチを入れて寝ています。
◆「出ました」の声に、速攻で起き出して身支度を整え、「出たら何時でもいいから絶対に起こせ!」と言われている調理隊員を起こしてから撮影ポイントに向かいます。調理隊員は見るのが専門で、私は写真を撮るのが専門です。撮り出せば、たいてい2時間くらいは撮っています。寒さの限界がくるか、カメラのバッテリーが切れるかするまで撮っています。そうすると、おなかがすいてくるんですね〜(笑)。ある時、「あー、お腹すいてきた。カップラーメン食べたくなってきた」と、ぽろっと言ってしまったが最後、それ以降、“オーロラが出れば調理隊員とカップラーメンがついてくる”という図式ができあがってしまっています…。
◆それではオーロラの写真も添付します。最後にS16でのプラスアルファ…について、です。まずは写真を見てください。私たちの後ろに写っているのはSM100という、雪上車の中でも一番大きな雪上車です。内陸旅行に使われる車で重量もあるので、ほとんど南極大陸上に置いてあります。昭和基地まで持ってくるのは整備のためか持ち帰りのためくらいです。この車が、私たちのS16オペレーションの時に、S16に大集結していました。12台もありました。これは実は結構すごいことでした。内陸旅行に出ていたり、整備のために日本に帰国していたり、とっつき岬という海岸地域まで下ろされていたりで、一箇所に12台も集結したことは、これまでにはありませんでした。
◆ですので、これはどうしてもやらねばならないということで、S16にデポしていたSM100をすべて立ち上げ、番号順に並べて記念撮影をしました。写真中央に写っている青いダウンを来た青年が、雪上車を作っている大原鉄工所から来ている隊員です。私たちのオペレーションの帰路に、このうちの2台はとっつき岬までおろしましたから、12台集結はやはりこのときが最初で最後でした。各自の仕事を必死で終わらせて、14時を目標にSM100集結写真とデモンストレーション走行のビデオ撮影のためにみんなで集まりました。この頃は日没が15時でしたので、14時からというと、日没との闘いでした。それはそれは必死にやりました。でも、本当にすごかったし、本当に楽しかった!
◆おかげで、その後の車の立ち下げや、翌日昭和基地に帰るための準備などは、暗い中、車両のライトを照らしながらするはめになりました。けれどもこのときの喜びは忘れられません。この日の夕食で、今回のオペレーションに関して、参加者全員が「仕事も予定以上にできた」「本当によかった」「満足した」と上機嫌でした。最高の思い出ができました。今回はこれくらいにします。また書きます。次号も楽しみにしていてください。(永島祥子@昭和基地)
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桃井君が初めて地平線に来たのは、彼が大学生の時だった。その後オペレーション・ローリーで帆船に乗り組み、大西洋を横断したが、後に妻となる綾子さんもローリー参加を志願していたとは知らなかった。当時、参加希望者は恵谷治、伊藤幸司、増島達夫ら地平線の仲間をリーダーとするいくつものグループに分かれて合宿し、技と力を磨いたと記憶する。
◆「シャッター音の囁き」(同文書院)という綾子さんの本を訃報の直後に読んだ。副題は「女性ドキュメンタリー写真家10人の視線と生き方」。10人の女性写真家のインタビューをまとめた作品で、人としてのいたみをシャッター音の囁きから感じ取ってほしい、という感性にうたれた(「野宿野郎」の加藤千晶嬢も「『シャッター音の囁き』、とても好きな本でした」とメールをくれた)。
◆日々、喜び、悲しみ、そして生と死がある。母の退院と重なって山田淳・蘭子夫妻のめでたい宴に参じることはできなかったが、実はもうひとつ、カップルにサプライズがあったことを付記しておく。
◆南極通信、毎回楽しみにしているが、素晴らしい写真をここに披露できないことをお詫びしたい。永島祥子さん、オーロラをはじめ、じつにいい写真を撮っているのです。
◆これを書いている6月8日午後、電話が鳴った。「こんにちは、吉川です」。どこかで聞いた声だ。えっ? アラスカの吉川君? いま、どこにいるの? 「東京にいるんですよ。モンゴルに家族で仕事がらみで行った帰り、子供の日本語教育のため1か月だけ休みをとって」。えっ? モンゴルから来たの? それは仕事? 「ええ。例の永久凍土の研究の関係で。モンゴルにもいい研究対象があって」
◆「ほう。それは是非話を聞きたいな。でも困ったな、明日から私がモンゴルに行くんだよ」。そんなわけで、出かけます。吉川謙二君との顛末はそのうちにまた。(江本嘉伸)
ウノメタカノメ交遊紀
山形県庄内地方で鷹匠を生業としている松原英俊さんは、この数年、毎年一度は沖縄の島で野宿をします。普段と違う環境で自給自足の生活を楽しむのが目的です。「子供の頃から、海でも山でも、エモノを追うのが好き」という松原さん。自然の中ではいつも目と耳を働かせているから、動物達との珍しい出会いも数多く経験してきました。 例えば、或る日帰省した青森で、実家の犬と海岸を散歩していると、海に机のようなモノが浮いているのに気がつきます。近寄ってみると巨大なイカでした。スミを吐き、抵抗するイカと格闘していると、S猟犬でもないフツーの飼犬のツレが海に飛びこんできて手伝ってくれ、ようやく引きあげたそうです。ソデイカという珍しい種で、どんなスシ屋のネタよりうまかったとか。 今月は恒例の沖縄旅から帰ったばかりの松原さんにおいで頂き、様々な生き物との出会いを語って頂きます。そして鷹匠という生き方の喜怒哀楽についてもお話しいただきます。必聴必見! |
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地平線通信331/2007年6月13日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井祐介/イラスト:長野亮之介/
編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/
印刷:地平線印刷局榎町分室
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発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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