2007年5月の地平線通信

■4月の地平線通信・330号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

グレートジャーニー(日本人の来た道)南方ルートに時間がかかっている。2005年の夏、宗谷海峡をシーカヤックで渡り、北方ルートを終えた。その年の秋から早速南方ルートを走り始めた。ヒマラヤの南山麓カトマンズを自転車に跨って、出発した。インド・西ベンガル北部を通り、ブータンを西から東に縦断して、アッサムに抜けた。そこからが難関だった。

◆第二次大戦中、日本軍が進出したインパールのあるマニプール州は治安が悪く、通過許可が下りなかった。国境を越えても、東側のミャンマーもやはり治安悪化が原因で国境通過の許可を出してくれなかった。かつてモンゴル=中国、エジプト=スーダンの国境で足踏みをした。しかし粘って許可申請を続け、なんとかパスした。逆にコロンビア=パナマ国境のダリエン地峡は治安はめちゃくちゃ悪いが、特別の許可は必要なかった。アメリカ新大陸では国境越えに待ったをかける政府はなかったが、ユーラシア、アフリカでは国境通過が難関となる。インド=ミャンマー国境を渡るには、高野秀行や吉田敏浩のように密出入国するか、時期を見て、長い時間をかけて許可申請を続けるほかない。

◆南ルートはこの後インドシナに向かった後、中国を北上して朝鮮半島に入る予定だった。その道筋はほぼ照葉樹林帯に沿っていた。どうしようかと迷ったが、山田和也の勧めで、ヒマラヤの北の山麓を通ることにした。ヒトがヒマラヤ山脈にぶつかった時、通常は温暖な南麓を進むだろう。しかし極北に進出したヒトと同じように、チベットに進出した物好きもいたはずだ。北村昌之らの農大メコン下降隊と同じルートを辿ることにした。しかしカヌーは一部、おもに自転車を使っての移動となった。

◆昨年の夏に青海省にある、水源のラサ・ゴンマ山に登り、氷河の割れ目から泉のように湧いてくる水源を見た。その後、カヌー、徒歩、馬、自転車を使って、今年2月にやっとラオスに着いた。12月にもう一度青海省に戻りチベット人たちに診療活動をし、凍ったメコン水源を見た。梅里雪山の巡礼に行ったり、インドのアラバードにヒンズー教徒の集まる大きな巡礼祭クンブ・メーラに行ったりで、行程はなかなかはかどらない。

◆今年の2月から4月の1か月半、ラオスを旅した。インドシナ半島の北部、タイとベトナムに挟まれた本州と同じくらいの広さの農業国だ。社会主義国でもあるこの国の大動脈であるメコン川をカヌーで下り、陸路を自転車で移動し、中国国境からカンボジア国境まで南下した。そして、ラオス北部、メコンの支流ウ川流域で、カナ村という焼き畑でもち米を作っている人たちの村に滞在して、得度式(少年の短期出家の儀式)に同席し、正月は村人と共に暮らした。

◆40度前後の急斜面に焼き畑を作る。畑を焼く時、生姜の株を植える時に村人に同行したが、ズルズルと滑る急斜面に肝を冷やした。ここではそんな土地しか利用できないのだ。焼き畑のほかに魚をとり、森からキノコ、筍、木の実、野草をとり、ブタ、ニワトリ、水牛を飼っている。時には狩猟もし、交易もして生きている。もち米で作った焼酎をよく飲み、ワイワイ、ガヤガヤと楽しそうだが、働き者でもある。好き好んでこの地に住み始めたわけではない。強者に追われ、戦乱を逃れてこの地にやって来た。

◆弱い者が追われ、逃げ惑ううちにかろうじて生きていける住処を見つけ、知恵と工夫で「住めば都」にしたきた例を他の地域でもいくつか見てきた。エチオピア南部では強い牛飼い異民族に追われたコエグ族はツェツェバエがいて、牛飼い民族が住めないオモ川河岸に「住めば都」を発見した。南米最南端まで追われたヤマナ族は身体的に寒冷適応し、冷たい海に潜って海獣や魚介類を取って生きてきた。水田稲作技術をもつ渡来人も春秋戦国時代の中国の戦乱に嫌気をさし、あるいは戦乱を逃れて縄文時代後期に日本にやって来た。

◆このように他の野生動物と同じように、人類も弱者でも何とかしてニッチ(注:niche 生態的地位)を見つけ、そこを「住めば都」にしてきた。決して強者だけが生き残ったわけではない。アフリカで生まれた人類が地球全体に広がり、適応していけたのも、好奇心や冒険心だけが原動力になったのではない。住みやすいところでは人口が増える。他所からも人が流入してくる。そうして押し出された弱者がフロンティアを求めて拡散していった。新しい土地での創意工夫、新しい文化の形成がこれだけの人類の文化の多様性を産み、人類は繁栄できたのだろう。(関野吉晴)


先月の報告会から

本能のプラグ

広瀬敏通

2007年4月28日 榎町地域センター

 「こんばんは!」。元気な挨拶から始められた4月の報告者は、現在約3000校あると言われる自然学校の最初の1校、ホールアース自然学校代表の広瀬敏通さん。あるいは、動物と生きるエキスパート(ヤギでも豚でも、アーミーナイフ1本で解体してしまう)広瀬さん。または『バードコール』(鳥とのコミュニケーションツール)考案者の、もしくは、羊の毛刈りチャンピオンの、はたまた洞窟探検家であり気球乗りの…とにかくいくつもの顔を持つ広瀬さんから、「他の人があまり知らない広瀬を紹介したいと思っています」と言われ、興味津々。おりしも連休初日、遠方者含め、平日にはなかなか参加できない人たちも加わって、会場に静かな期待が満ちた。

◆東京は吉祥寺、焼き鳥屋の裏手で生まれ育った広瀬少年、幼い頃から鶏をつぶすところを目の当たりにし、近所の動物園に自分専用の『入口』を作って猿山の猿を全て覚え、池で釣った亀の甲羅に彫刻刀で自分の名前を彫るような(なんと、その亀に大人になってから水族館で再会した)子どもだった。また、走る車の前をすんでのところで横切る遊びをしていて本当にはねられてしまったり、電車を止めることができるか線路でとおせんぼしてみたりと、血を見ることが好きな子どもでもあった。スライドには、友達の間で大きなスズメバチを手にしている『ハチ少年』。キャプションは“自然学校的生き方”。教室で椅子に座るルールがわからず、しょっちゅう外に出てハチを捕まえては戻ってくる広瀬少年を、先生は「よく捕ってきたね」とほめてくれた。―今の広瀬さんのベースが少年時代にあることは明白である。

◆次の写真はギターを持った若者=どうもご本人。1969年、新宿西口地下広場で繰り広げられた反戦フォークの集会で撮影され、新聞に載ったもの。当時18歳。高校生の頃から京大の新聞部に通うなど『反逆の日々』を送り、ベトナム戦争の報道には「人間としてだまっていられない」と、反戦運動にも参加した。大学生の時に特攻隊生き残りの教授を通してインド哲学に触れ、学費を返してもらって興味赴くままインドへ旅立った。

◆スライドには“1971年 南インドカルナータカ州 障害児、孤児の村を作る”。広瀬さんの今に直接つながる、色濃い日々のプロローグだ。降り立ったカルカッタに集まるヒッピーたちに違和感を感じ、南下して日本の新聞でも紹介されていた町作りを手伝う。だがある日、放り込まれた紙つぶてを広げてみると『外国人は出て行け』と書かれてあった。地元から完全に浮いていることに気付き、そこを出る決意をした。そうしてボロボロで辿り着いたのがカルナータカ州の、夕陽の美しい村だった。言葉はまったく通じない。さまざまなものを指差しては、現地語を教えてもらった。2か月半で話せるようになり、6か月で読み書きができるようになった。そして2年半後村を去る時には、日本語がうまく出てこなかったそうだ。

◆その地で障害児が暮らせる村作りの計画があり、参加を名乗り出た。身体に障害を持った子どもたちが笑顔でカメラを見つめている。先天的にハンデを負う他、物乞いに有利なよう、誘拐され、手足を切断されてしまった子どもたちも多い(!)。その子らに教育と経済的な自立をもたらすため、故マハトマ・ガンディーが発案したのがインド各地の村作りだった。だが、計画は宙に浮き、実践には至っていなかった。

◆続いてキャプションは“兄弟たちと暮らし始める”。見渡す限り何にもない、40エーカーの荒地が広がる。村人に教えられた場所を掘りに掘り、4.5mのところで甘い水が出た。それまで湿地帯の上を覆う水で喉を潤していた村の、唯一の水源となった。そして家も建てる。木材は貴重なので、石や土、牛糞を使う。その間数か月は野宿。食事はヒエ団子2個(子どもたちは1個)を、カレー(ちょっと辛みのある塩味のお湯)と共に1日2回食べた。何か月食べ続けても飽きない。「たくさんあるから飽きるのであって…」と広瀬さんは言った。

◆こんなタイトルもあった。“車道は牛車みち 自動車も電気も無い世界”。想像してみるその世界は、決して暗いイメージではなかった。5年後に訪れた懐かしい我が家は増築されていて、人3人と牛2頭が住んでいた。広瀬さんが寝る時後ろ足を枕にしたら朝まで動かない牛の賢さ、優しさ、現地語で『なまけもの』や『こそどろ』(取っておいた大事な小麦を食べてしまった)と呼ばれる、同居の牛たちや愛らしい子どもたちの話、時に飢えに見舞われる完全自給自足の中、「なんて野菜ってうまいんだろう」と思ったことなど、生活に根ざしたエピソードも興味深く聞いた。子どもたちのハンデは、言わば自分が言葉を話せないのと同じようなもので、少しも気にならなかった。寝たきりの人はひとりもいない。全てを子どもたち自身で補い合っていた。笑顔が輝いていた。

◆しかし、インドの生活に終わりがやってくる。アメリカの平和部隊の退去を機に、外国人ボランティアはすべて国外退去することになったのだ。村人たちが嘆願書を出してくれたが、聞き入れられることはなかった。広瀬さん24歳。ずっとこの地で暮らすつもりだった。

◆一旦帰国してからも旅は続け、約4年後の1978年、シルクロードを旅する。中国西域で中断し、アフガニスタン・バーミアンで長期滞在した。破壊前の大仏の写真や、大仏の頭部から見下ろすバーミアン谷の美しい写真を見せてもらった。「当時、仁義を重んじる人々だったのが、戦争により変わってしまった」と話された。旅の終着点となったインド、ネパールでの写真は、人間の大腿骨の笛と、イルカの解体シーン。勧められるまま、ビタミン源であるイルカの生血を飲んだ。

◆日本に戻ってすぐにカンボジア難民支援のNGOを立ち上げ、現地へ飛んだ。腐った泥水を見て井戸を掘り、竹の家で作った『子どもの家』を運営した。日本からモンテッソーリ教育法(イタリアで考案された幼児教育法)の教材を持ち込んだが、差し迫る問題は井戸や救援。加えて、現場にいると「クメール人の子どもはクメール人が育ったようにやるのがいい」と思うようになった(その結果、自ら立ち上げたNGOをクビになってしまうのだが)。そんな中、子どもたちをケアするのに、絵画を取り入れた。色鉛筆で画用紙に描かれるのは、やはり戦争の絵。特に広瀬さんが衝撃を受けたのは、『竹やりで突く人=本人、木に縛られ突かれる人=本人の父、見ている人々、穴にいる人々=殺された人々』が配された絵だった。ポル・ポトにより徹底洗脳された子どもたちは、殺人マシーンと化す。説明を受け、窓の外で(親を殺しておきながら)楽しげに石まわしをして遊ぶ子どもたちに憤りすら覚えた広瀬さんだったが、諭された。「この少年は食べて寝て殺す日々からやっとこの難民キャンプで遊びと笑いを獲得した。今ようやく人間として一人前になっていく過程を取り戻しているのに、それを怒ることができるか?」。この体験も、子どもたちに遊びを提供する今の仕事につながっていくのだろう。

◆その後、デング熱に罹りながらも政府派遣としてキャンプに復帰し(当時日本政府は人を出さないという批判があり、広瀬さんは格好の人材だった)、医療チームのコーディネーターや事務所長として活躍した。

◆1981年、30歳で帰国。ゲームに熱中する大人たちや外に出ない子どもたち。10年ぶりに日本と向き合い、その急激な変化に驚かされた。今までの暮らしと同じく地平線を望めるところが気に入り、縁もゆかりもなかった富士山麓に居を構えた。土地を開拓し、自給自足の牧場経営を始めた。家畜を飼い、30種類の野菜を育て、体験プログラムも行なった。いつしか静岡で『もう一度行きたい観光施設』のNo.1になり、観光バスが来るようになった。意に染まなかった広瀬さんは、5年で牧場をたたんだ。30人のスタッフのうち、3人がついてきた。今や年間約8万人が利用し、25周年を迎えた『ホールアース(=The Whole Earth=ひとつの地球)自然学校』の幕開けだった。まず始めたのは子ども向けキャンプ。インドやカンボジアの子どもたちと過ごした日々で得たメッセージを届けたかった。

◆「アイデア浮かんだら即実行できるのはオレにとっていいこと」の言葉通り、ホールアース自然学校も、広瀬さん同様さまざまな顔を持つ。災害支援もそのひとつだ。阪神大震災を機に、災害時には現地に向かい、救援活動をしている。広瀬さん自身、『国際緊急援助隊』(災害発生→24時間で羽田集合→+24時間で現地到着のシステムを持つ。現外務省所管)の創設メンバーであるが、自然学校で身につけたコミュニケーション能力や対人理解能力、野外技術などが、災害現場で驚くほど役立つという。

◆自然学校が生まれ、世界中に増え続けている背景に、環境の悪化がある。自然を活用する暮らしなら、自然学校はいらない。「本当は自然学校なんて、ないほうがいい」とさえ言う。全員が加害者であり、被害者である環境問題解決の糸口には技術革新、制度の整備、意識変化が挙げられるが、中でも誰もが楽しめる自然体験は意識変化を促し易く、環境教育の入り口となる。事実体験者が環境を考慮する実践者となっている例が多いとのこと。こうして自然学校は社会企業体としての役割を担っている。また、日本から集落が消えつつある状況についても言及された。かつて、山や谷の多い日本では人々は歩き、住みやすいところに村を作った。しかし、今は山を削り、谷を埋めて 車のための道にする。頻発する崩落に対する巨額の維持費が段々とまかなえなくなり、崩れゆく村に歩ける場所はなくなって、人々は出て行く…。

◆冒頭で広瀬さんは「自然学校をひとりでも多くの人にやってもらいたい」と提案した。「自分のできるサイズで、例えば『**さんちの自然学校』でいい。自然を身近に感じる生活ができれば、日本はもっと良くなる」と。

◆インドへの旅立ちから36年。今の思いを「始めたらやめない。凹んでも、次に浮かんだ時補修できる。やめないことが力になる」と結んで、まだまだ聞きたかった話は終了した。質問の場では気球の話が出て、風になる心地良さと共に「少なくとも冒険者を罵倒する社会にはなってほしくない」と語った。あと、「いつの間にご結婚を?」という質問も出たが、スペースの都合上詳細は参加者の特典にとどめたい。

◆植村直己さんに野外学校設立の夢があったように、湧き上がる情熱に正直に生きてきた広瀬さんの今の着地点は、いろんな顔を生かせる、あるいは統合できる、最も自然な場所なのかもしれない。そしてこれからもまた、とどまることなく新たな流れを創り出してくれるに違いない。(中島菊代)


地平線会議報告会に参加して

広瀬敏通

 とくに『冒険』と思って生きてきたわけではない。ところが人の一生なんて後から思えば冒険活劇の連続だ。それほどこの世は面白い。面白すぎて引きこもる人もいるが。

 そんな『生き方』の在りようを『冒険』というワードで切り取って眺め返してみよう、というのが今回のコンセプトだった。だいたい日ごろ、自分の目線は能天気に前ばかりに向いていて、足元といってもせいぜいつま先程度しか見ていない。それが双眼鏡を持ってずっと自分の後方まで見返してみたのは新鮮だった。それも結構、俯瞰的に自分の歩みを見た感じだ。本人は今もけっこう常識的で、ノーマルだと信じ込んでいたのだが、今更だが、ずいぶん変わった奴だったんだな。                    

 ところで、『冒険』の脇をずっと歩きながら地平線会議に出たのは今回が初めてだった。興味津々ながら、なかなか機会がなかったのだが、江本さんがそのきっかけを作ってくれた。

 某△○協会のように30年もずっと同じメンバーが仲良くやってる、(それもいいが)平均年齢70余歳と思いきや、なんと、わが国の冒険界は新陳代謝が活発で続々若いホープが生まれているということに驚いた。そう言えば江本さんのオーラが随分柔らかいのも新鮮な驚きだった。考えてみれば『冒険』が硬く、ひび割れていたのでは言語矛盾となる。

 『冒険』の類似語で『探検』という言葉もある。探検部出身者が地平線会議には多いのだろう。ぼくは山岳部だった。自然学校のプログラムでは『探険』という言葉をよく使う。

 『探検』と『探険』。ぼくは子どもたちに、いや、おとなにも『探険』をしてほしいと強く思う。『探検』が専門的な色彩の濃い調査行動とすれば、『探険』は好奇心を原動力とした冒険的な行為だ。専門性よりも柔らかい感性があれば『探険家』になれる。子どもたちが子どもで在る間に日々『探険』をすることを覚えれば、なんて楽しい生き方を身につけられるだろうかと思う。


地平線ポストから

[誰かの物語の上を旅する
   ──檜枝岐(ひのえまた)歌舞伎の舞台を見て考えたこと]

 尾瀬の玄関口として知られる福島県檜枝岐村。もともと平家の落人が隠れ住んだ里と言われるこの村に5月12日、江戸時代から伝わる奉納歌舞伎の取材で行った。

◆午後5時半。鎮守神社境内に立つ舞台が整うと、舞台清めの「寿式三番叟」が始まった。演ずるのは千葉之家花駒座。小学2年生の児童から80代のお年寄りまでの村民約30人で構成され、学業や仕事の側ら稽古に励んでいる。檜枝岐歌舞伎には現在11演目が残され、忘れないように毎回2幕ずつ順に上演されるという。

◆観客席には、舞台から神社へ続く石段がそのまま使われていて、いまだ肌寒い山村の春空の下、満員の観客の間を時おり風が吹き抜ける。夜が深まるにつれ、ライトアップした歌舞伎舞台が闇の中に浮かび上がってくる。かつての農民たちは、こんな風に唯一の娯楽としての歌舞伎を楽しんでいたのではないか、そんな風に思わせる泥臭さがいい。

◆平成の大合併の波に乗らなかった市町村の中でも、檜枝岐村は比較的安定した自治体だ。村の観光協会が作るパンフレットには“山上の楽園”と謳われている。人口わずか628人。流行の秘境といえば聞こえはいいが、冬期は雪に閉ざされ、「陸の孤島」感が残るのは否めない。コメができず、必然的に「観光」が村の主な収入源になってきた。件の歌舞伎も今では村おこしの一つともとらえられている。

◆福島に引っ越してきた昨年の4月以降、県内の多くの市町村を訪れた。今回のように半ば無理やり仕事にこじつけて出掛けたことも度々ある。“やったもん勝ち”の精神は地平線会議で学んだ。なかでも奥会津に強く惹かれたが、同時に奥会津の多くの地域で深刻な過疎・高齢化の問題を抱えている事実にも直面した。

◆どうも東京から見るのと、地方から見るのとでは日本は違って見えるようだ、と気づいたのはどの時点からだったか。教科書で学んで知ったのではない、実際にその土地に暮らしてみて肌で感じたものこそが自分の目線に幅を持たせる。東京にいたときのように仕事を進めようとして衝突し、「郷に入っては郷に従う」との教えを痛感した日もあった。転勤のおかげで一時期でも地方に暮らせたのは幸運なことだった。

◆海外に出ることばかりを考えていた学生時代には、ほとんど思いもよらなかったが、長く遠くに行くことだけが旅ではなかった。ここに住む誰かの話を聞き、その人の(あるいは他の誰かの)人生に思いを馳せること。それを言葉に置き換えること。今はそれが毎日の旅だ。(いや、格闘かもしれない。)

◆取材相手を主役にして仕事を進める日々の中で、久しぶりに参加した先月の報告会。「ここにはいつでも主役になれる人たちがたくさんいる」と、改めて感動した。皆、自分が主体となって動いている人たちばかりだった。毎月の通信と一緒に無言のメッセージが届く気がしてしまうのは、そのせいかもしれない。「それでキミは一体何をしているんだ?」と。

◆地平線を歩く旅人とはフィールドが異なるが、私も私の旅を突き詰めてみたい。誰かの物語の上を旅する、今もその旅の途上にいる。(菊地由美子)

[吉野川と伊南川──故郷・徳島で吾が子を腕に思う]

 江本さん、地平線のみなさん、こんにちは。大変ご無沙汰しておりました。さて、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、私は4月14日の土曜日の午後8時33分に男の子を出産し、現在、実家の徳島にて不慣れな育児に奮闘中です。2月末、暖冬の奥会津を後にして、徳島に帰省しました。生まれ故郷での妊婦生活から出産という体験を通して様々なことを思い巡らせています。

◆私の生まれ育った徳島市は、吉野川の河口域に位置していて、車で5分も行けば、川から海へとつながる風景を見ることができます。学生時代は、夕暮れ時に空が赤くなってくると、河川敷まで夕日を追っかけて、よく自転車をとばしていきました。奥会津での暮らしを始めて丸6年が過ぎますが、冬の雪に囲まれた暮らしを体験していると、改めて1年を通して海や山の幸に恵まれている四国の自然を豊かだと思います。今回は出産というタイミングでしたが、実家で迎える早春から初夏を満喫させてもらってます。

◆育児をしながら、これまでの旅や経験をふと思い出すこともあります。夜泣きで何度も起こされて、浅い眠りに入ろうとした時は、なぜか?10数年前、ミクロネシアへ行くためにグアム空港内で仮眠していたことを思い出して懐かしくなり「あ〜空港の中も、ひんやりとしていてバスタオルを布団変わりに寝ていたなぁ」とか。毎朝4時半ごろ起きて授乳しながら窓の外に広がる景色を眺めていると、オーストラリアの砂漠で見た朝焼けや、子どもたちとキャンプをしている時に迎えた朝の空気を思い出します。そういえば、実家で早朝の景色を見ることなんて今まで殆どなかった…(いつも夢の中でした)。

◆色々なことを思い出しながら、今は育児という旅の途中にいるようなそんな気持ちを抱いています。故郷に帰省して、懐かしい風景を眺めながら思うことは、自分はこの場所に生まれて育ち、そして大学進学を機に海を越えて上京し、少しずつ多様な外の世界を見てきたんだなと。鮭が産卵にもとの川に戻ってきたように、私も今、吉野川という大切な故郷の水源のある場所に戻ってきています。これから暮らす場所は、伊南川という恵みが目の前に流れているところです。息子は、家の前にある川を眺め、流れる音を聴き、水に触れて何かを感じながら成長していくでしょう。いつか大きくなった時に、その川と海はつながっていて、そしてそれは世界につながっているということを実感してもらいたいと思っています。

◆奥会津に戻り、川の流れを見つめながら、私もこの先に続く旅に思いを馳せたいと思います。徳島・眉山(びざん)の見える全面窓の部屋から 酒井富美(ちなみに、息子の名前は『健太郎』になりました!)

《休日地平線、よかった!》−社会人2年生の現場から

■こんにちは!お久しぶりです。去年の春に「就職しました」報告をしてから早1年、気づいたら後輩もでき、社会人2年生になっていました。会社は転職サイトを運営していて、私はインターネット上の求人広告を書いています。この1年何をやっていたのか報告がてら、すこし仕事の紹介をしますね。

◆営業が企業(広告主)に取材してきた情報をもとに、掲載原稿を作っています。数千字のスペースがあるので、折込広告やフリー雑誌よりもかなり詳細な情報を載せられるんですよ。広告なので「その会社でその仕事をすること」を魅力的に書くのはもちろんですが、入社した人がすぐに辞めてしまわないように厳しい面もきちんと伝えるようにしてます。最近書いた職種は不動産の営業、高級外車の営業、機械設計、社長秘書、物流管理、トラック運転手、事務、経営幹部候補、システムエンジニア、居酒屋店長、青果市場のセリ担当、テレビ番組のAD、葬儀担当など。会社も、ちいさな町工場から大手、ベンチャー、外資系までいろいろです。

◆私がいるのは少人数の地方拠点なので、担当分野もなくなんでも書きます。入社前は「自分がやったことのない仕事について書けるのか?」と不安でしたが、実際に働いている人の話を聞いたりしてなんとかやっています。不人気職種もありますが、そこで働いている人には何か理由があるはず。それを調べたり想像するのが面白くもあり、難しいところです。地平線のみなさんのように世界をまたにかけた冒険ではありませんが、身近なところでいろんな世界を発見し、楽しんでいます。いろんな人や生活を知ることができる、お得な仕事です。

◆ベンチャーなので毎日忙しく、自分の時間をいかに確保するかが目下の課題。GWが終って会社に行ったら、タイト締切り案件がドカン。結局、今日まで会社に4連泊しました。ホンキで辞めたくなりましたが、さっき新しいプロジェクトに参加させてもらえることが分かって、今はわくわくしています。どうも、懲りない性格みたいです。

◆そんな感じで平日はバタバタしているので、1年間報告会に行けなかったのです。でも、先月の地平線会議は土曜日だったので久々に参加できました。同じように休みだからこそ来れたというなつかしい顔もたくさん。江本さん、またぜひ休日報告会やってください!曜日や時間がすこし違うだけでも、また違う地平線が見えてくるでしょうね。寝袋を抱えている人が多いな〜と思ったら、編集長こと千晶さん率いる「野宿党」ができたんですね。ワンゲル時代を思い出し、飛び入り参加しちゃいました。東京のど真ん中の公園で寝ました。鍋隊長の安東さんは寝床にハンモック状の遊具の上を選び、地面からの冷えを防いでいました。さすがです。

◆朝はご近所の方たちと一緒にラジオ体操をして、解散。思いがけず、体験型地平線を楽しめました。本当に久々にふらっと行ったので、忘れられちゃってるかなーとか、みなさん変わってるかなーと、少し心配でもありました。でも、来る者拒まずの地平線。1年前と変わらない時間を過すことができました。昔の自分を知っていてくれる人がいるって、なんだかうれしいですね。普段から、道を歩きながら「家のドアの数だけ家族のドラマがあるんだなあとか「あの窓を開けるのはどんな人なんだろう」とか、考えます。もっともっと、いろんな人や世界と出会いたいです。また、地平線にあそびに行きますね。それでは、また!(新垣亜美)

『調理と料理』━━とりとめのない話

 先月の報告会、広瀬敏通さんの話には、いつの間にか身を乗り出して聴き入ってしまった。現場で培われたチカラの、その確かさを改めて痛感させられた。実は、広瀬さんには20数年前に会っている。けれど、何かの小さな記事の駆け足取材で、これほど豊かな体験の持ち主だとは知る由もなく、ヒツジの話だけ聞いて帰ってきた。ご馳走に気付かず、水だけ飲んで出てきたレストランを期せずして再訪し、今回は心行くまで食事を楽しんだ、そんな気分がした。

◆しかし、こんな幸運はレアなケースだ。逆にチャンスを逃すことの方が多く、中でも、「へのかっぱ号」で漂流実験を繰り返した斎藤実さんなど、悔やんでも悔やみ切れない。秩父のお店(当時喫茶店をやっていた)を訪ねた時はご不在で、帰宅後に電話を戴き、「また、行きます」と言いながら、それっきりになってしまった。晩年、交通事故防止の映画製作に取り組んだ斎藤さんは、「事故の大半は、見込み違いが原因だ」と確信したという。しかし当時の私は、「そんなの当たり前じゃないの?」と、その意味を軽く捉えていた。それが人間と云う生き物の本質に係る、重大な真理を語っていることに思い至ったのは、ずーっと後のことだった。じかにお目に掛かって、その話をしたかった。

◆余談になるが、私は長年、「ビンボー人にとって最適の料理法は何か?」を細々と追求している。そして、「クッキングとは、『調理』と『料理』という正反対の作業の集合体である」と考えるようになった。食材、とりわけ野菜や豆類、肉・魚介類などの、最適の加熱ポイントは驚くほど狭い。ものによると、15秒オーバーしただけで味はガタ落ちになる。ベストポイントで調理すれば、個々の食材本来の持ち味が100%引き出され、誰がやっても同じ美味しさになるこの作業は、職人仕事そのものだ。一方、料理の料理たるゆえんは、素材同士を組み合わせ、新しい味を創出する点にある。その答えは無数で、むしろアーチストの仕事に近い。調理が、一発勝負で修正の効かない水彩画、もしくは引き算の世界だとすれば、料理は、重ね塗りが可能な油絵の、足し算の世界と言ってよい。念を押すまでもなく、確かな調理の基礎の上にのみ、料理という家は建つ。

◆ちょうど、そんな事を考えていた頃だ。『見えない隣人 小説・中国人犯罪』を上梓したばかりの、ノンフィクション作家・森田靖郎さんの報告会が開かれた。そこで聴いた、「フィクションでしか語れない真実がある」との言葉(勘違いだったらゴメンナサイ)は、少なからず私を当惑させた。あくまでも、事実は事実、フィクションはフィクションではないか。私は、フリーライターを生業にしている。取材して記事にする。そこで一番気を使うのは、対象を、いかに忠実・正確に読み手に伝えるかだ。文章化、という作業には、「鶏の声は『コケコッコ』だろうか、それとも『カッカ・ドゥードゥルドゥー』が近いだろうか」という悩みが付きまとう。

◆それだけに、自由に絵を描ける小説や映画の世界は羨ましく、多少のヤッカミも手伝って、「森田さん、そっちへ行っちゃったの?」と少々ショックでもあった。けれど、『見えない隣人』を読んでいて、ふと思った。ノンフィクションを「調理」に、小説を「料理」に置き換えれば、両者はピタリと重なるのではなかろうか。素材を知り抜いた上で、それらを組み合わせ、より大きな表現力を駆使して一つの世界を描く。水彩画が描く真実もあれば、油彩にしか描けない世界もあり、それもまた真実だ。森田さんの言葉を、私はそのように解釈した。

◆車の運転に限らず、私たちの行動は全て、何らかの「見込み」や「判断」に基づいて行われる。それらの大半は意識すらなされないが、事故って初めて、「こんな筈じゃなかった」とその存在に気付く。思考だって同じだ。常識を覆されて初めて、自分が微々たる知識でものごとを捉えていたことを知る。私たちは、曇りのない目やオープンな心で物事を捉えたい、と願う。しかし、それは不可能だ。思考や認識という意識の活動、言い換えれば、「我思う。故に我あり」という人間の本質自体が、過去の経験や知識の上に成り立っているからである。「知覚する」ということは、鶏の声をコケコッコと聞くことに他ならず、その瞬間、生(き)のままの世界は消えてしまう。

◆優れた行動者は、実は、それらを無意識の内に理解しているのではないか。自分がいま、何を前提とし、何を見込んで行動しているのか。それを常に把握し、一瞬たりとも疑うことを疎かにせず動ける人ではなかろうか。それが『鋭い嗅覚』の正体であり、新たな発見をも引き寄せる。職人気質のクールな目と、芸術家肌の物事に囚われない心。ここでもまた、行動者に必要なのは、相反するこの2つの要素ではないか。そんなことをつらつら考えながら、引篭り症の私は、部屋で一人、愛用の鍋を磨いている。(久島弘)

「学生たちのひとこと、良かった!」
   ━━しげさん、旅の近況━━

 今月も地平線通信(注:4月号)、いいですねー。 とくに学生のみなさん。  「ひっくり返りそうになった町田さん、それが普通なのよ」(びっくりしない人はいない)  「今夜の出来事はまさに運命的な出会いだった下岡さん、君もか」(みんなそうなのよ)  嬉しいですね。報告会も良かったけど、編集のねらいも良かったですね。学生たちに一言ずつ書いてもらったのがとてもいい。先生に一極集中するのではなくて皆が自分の言葉で書いていました。現役の学生にこのインパクト。地平線は永遠です。

 さて私の場合、老兵は消え去るのみ、かな(2次会までつきあう)。フルコースは無理しないでいつもメインディッシュだけです。それでも地球は回る。循環はとても大切です。  去年ピースボート(ケニア−喜望峰−アルゼンチン−チリ−太平洋−イースター島のコース)から戻って、スタディーツァーで大阪の学生たちとカンボジアに行きました(その時「最後の狩人」の絵本を10冊用意して寄贈してきました)。現地解散のあと3週間カンボジアとベトナムをマイペースで歩いたのですが、ハノイでオートバイに追突され、現地で4針縫って帰国しました。  女の寿命は86才ですが、健康寿命は77才です。いまどきの日本ではこの間に大なり小なり老化が現れ、病院に行く。ここでは過重医療で死ねない老人になる。またまたねたきりが憎い。平均寿命が伸びる。江戸や明治のように死にどきにどう死ねるか、これが難題です。  ほどほどのところで本人が、とても山には住めないが市井に住む山姥ぞよと自覚し(生前葬などもいいでしょう)ラストステージの旅をゆくなどもあります。   「欲しがりません、勝つまでは」の少女時代、父や兄の招集・戦死という悲しみがありました。でも家の中に爆弾がふってくる、姉妹たちが巻き込まれるということはありませんでした。こちらから攻める側だったのです。  今や泥沼となったイラク、アフガンは銃後どころか日常的に水は止まり、弾が飛び込んでくる、家が焼かれ子供も大人もまきぞえになる。人々はどんな人生を生きているのでしょう。

 生きぬきし 銃後の守り いまおもう       銃後なき日日の イラクアフガン

 目下、こりずに次なるスタディー・ツァー、アフガンをねらっています。6月8日出発、カブールで現地NGOの人に会い、2か所の難民キャンプを訪ねバーミヤンにまわる15日間の旅です。カブールの国立美術館では「子供たちのユーレイ展」をやる予定です。小さなNPO法人が企画しているもので、その趣旨にひかれて参加を希望したわけね。イラク、アフガンなど戦火の中で子供たちが描いた「いま最も怖いもの」の絵。渡されたペンと紙に子供たちが描いた幽霊、それは子供たちの内なる原風景です。  スタディー・ツァーにこだわるのはピースボートの後遺症です。4月号の四万十ドラゴンに重なるところあり、です。なにしろ半世紀違いの若者たちと一緒でしたから。そして自分も楽しみながら私と社会の接点となるスタディー・ツァーなら、と。 

 山桜の時期、旧友たちと智恵子の安達太良に出かけました。そこで一首。

 安達太良の さえずりをきく 山の湯の     さえずりやまぬ 女の傘寿      (金井重)

[ついに富士山野宿決行へ!!]

■こんにちは。最近メーリングリストまで安東党首が立ちあげてくださり、ますます調子に乗ってきました、野宿党なのであります(党首の「野宿党ニュース」は必読ですっ。3次会野宿に参加するともれなく、イヤでも、メーリングリストに参加させられるそうなので、みなさまぜひぜひ野宿しましょう!)。

◆さて、4月の報告会のあとの3次会野宿では、終電をのがして戻ってこられた鈴木博子さん(しめしめ)、結婚式帰りに参加し礼服にダンボール箱をかぶり寝てしまったダンボールマン1号(これぞ野宿!)、などなど新しい参加者さんも増え、総勢11人ととっても盛況でした。じ、じつは、この3次会野宿、ただ野宿しているだけではなかったのでありますっ。水面下、日本最高地点での冒険野宿についての安東党首・田中幹也両氏による発案(そして党員への懐柔工作)なども行われていたのであります。えっへん。

◆まあいろいろありまして、なんとなんと5月の報告会の翌日と翌々日(26・27日)、3次会野宿明け、我ら野宿党・富士山一派は「富士山野宿」を粛々と決行することに相成りました。安東党首は初め、シールエミコさんとスティーブさんのチベットの高地訓練をかねた本格的富士山山頂野宿を考えていたのだけれど、日程の関係で叶わなかったそうです。その口惜しさ(?!)を、党首という権力を使い野宿党で晴らすことを考えられたのでしょうか。

◆そしてなんといっても富士山エキスパートの幹也さん。幹也さんが冬季富士山に足繁く登られているお話などは、みなが何度も伺っておりました。そして「だれでも登れるよー。行こうよー」というお言葉も。しかし12月でも長袖Tシャツ一枚で野宿してしまう、幹也さんです。ほんとうだろうか……半信半疑の党員でありました。でも、面白そうなんだもの。春の訪れとともに、あっさりと「行きたいな〜」と、機運は熟したのであります。

◆しかしわたしたちの大半は、公園野宿しかしない軟弱者です。身の丈に合わせてもらい、頂上野宿はまたの機会におあずけ。6合目で野宿、そして恒例の闇鍋、頂上には翌日登れたら登ろうという、お手軽プランに変更。折角ならと、「野宿じゃない、僕は夜あそび党だ!」と言い張っている洞窟専門家・松澤亮さんを取り込み、富士風穴探検もしたいではないか、などと党首のスバラシイプランは膨らんでいる模様です。

◆「野宿党は軟派路線を歩みます!」。安東党首のこの力強い宣誓に、みなさん、ついて行こうじゃありませんかっ! ということで、参加希望者さんは党首までご一報を。今ならまだ、間に合うかもしれませんようー。(野宿党広報・かとう)

★以下は、そのメーリング・リストで披露された田中幹也流登山術。内容はハードだが、絵文字も書けるのか、田中幹也(E)

■極寒カナダ中央平原の旅より帰国してはや1カ月。都内の花見野宿にはじまり、一人で雪の富士山、近郊の岩場でボルダー(クライミング)、屋久島へ、そして九州本土へ…。それはさておき、5月26日(土)〜27日(日)の富士山野宿、いまから楽しみや(^‐^)v

 ところで雪の富士登山を前に不安をかかえる人も少なくないはず。でも諦めないでほしい。不安解消のための、すぐに役立つアドバイスをしたい。

━━準備は?
 二つある。あれこれ考えすぎないこと。余計な思考は、恐怖感を増大させ安心感を減少させる。緻密に計算するとたいていのことはできなくなる。もう一つは、準備しないこと。情報はいっさい入れない。情報には脚色、誇張、歪曲がつきもの。情報を入れたぶんだけ実像からは遠ざかる。〈完璧に準備しても安全と成功の保証はない〉

━━装備は?
 最低限身を守るものであればこと足りる。危険度は増すが、より自然の本質にせまる最良の方法である。危機に瀕すると五感はより研ぎ澄まされる。日常では眠っている潜在能力が威力を発揮する。ネパールの山岳民族はサンダルで雪の5千mの峠を越える。極寒の夜もボロ布一枚だけで岩陰でごろ寝する。生き様こそ最良の装備に思える。〈完璧な装備で身を固めても生き残れる保証はない〉

━━登山の技術・体力はどうやって習得?
 現場で必要な技術は、机上では学べない。現場で身につけるしかない。昼さがりの大教室で講義を聴くとしぜんに眠くなるように、自然の猛威に触れれば雪山登山の技術はしぜんと身につく。〈完璧な技術・体力を身につけたところで災いに遭遇しない保証はない〉

[耳を澄ませば━━8度目の津軽の旅から]

■僕はいま津軽は弘前に来ています。毎年、5月3、4日に開催される津軽三味線全国大会への参加と、今年8月に控えているN響コンサートの練習を兼ねて、師匠の渋谷和生氏(92〜94年に三連覇を成し遂げている地元の名手です)の自宅兼民謡酒場(弘前市内の「あいや」というお店です)に2週間程居候させて頂いています。

◆初めてこの地を訪れたのは8年前。もともと、ふるさとに強い憧れを抱いていた僕は日本の各地を旅していました。白神山地の懐にある宿泊所を手伝いながら、森の素晴らしさやマタギの生活に触れ、この街に降りて来た際に当時師匠がいたお店で地酒を呑みながら、旅心に浸っていた頃が懐かしいです。

◆その後、三味線の音色に自分の旅と重なるものを感じ、その楽器を手にモンゴルの遊牧民を尋ねたりしてゆくうちに、人の暮らしの根底に流れているものをより深く見続けてゆきたいという想いが強くなっていきました。

◆ご縁があって、師匠に手ほどきを受けるようになり4度目の春を迎えています。弘前に足を運び、津軽弁(ようやく、最近聞き取れる様になってきました)に触れるにつれ、郷土料理に舌鼓を打つにつれ、田んぼに映る雪を被った岩木山や花をつけ始めたりんごの木の見え方が少しずつ変わってきました。お店に来る常連さんとの交流によって、この街の様々な人生を垣間見ることが出来るのです。

◆今年は桜の満開と連休がぴたりと重なり、弘前城公園内の大会会場には大勢の観衆が詰め掛けました。桜の巨木の前でその見事な枝振りに見とれていると、いまここにいる自分の人生の不思議さを感じます。たまたま手にした楽器が、自分とこの場所を強く結びつけているのですから。この大会はプロへの登竜門と呼ばれる程で、参加者のレベルは年々上がっています(約300名の内の9割が青森県外からの参加です)。我々「和三弦会」は団体戦で2004〜5年に二連覇を果たしているのですが、今年の結果は3位。個人戦では残念ながら入賞まで至りませんでしたが、自分なりにイメージして打ち込んだ分、それだけの発見がありました。この大会は自分にとって、一年前の自分と出会える貴重な瞬間なのです。

◆この時期は猫の手も借りたい毎日で、朝一番の仕入れでは魚市場で大間のマグロをはじめ、近海を泳ぐ顔ぶれに挨拶をし、昼間は駅前や公園内に設置された舞台(地元の方々による唄・三味線・笛・太鼓・手踊りと素晴らしいのですが、聴衆のなかに若者が少ないのは少し寂しく思います)に立ち、お店は連日連夜の大盛況でたくさんの人の笑顔に出会える幸せでやりがいのある日々を送っています。時折、地元の年輩の方が来て、弾き手と聞き手をとりまく空気が変わることがあります。師匠の指先から紡ぎ出された音色が聞き手の心に流れ込み、ある人は少年時代に田んぼで手押し車を押した時のことを想い、ある人は日々刻々と表情を変えてゆく岩木山に想いを馳せ、ある人は厳冬期に地面から舞い上がる地吹雪を噛み締めているかのようにして、目を閉じて深く頷いたり、涙を流す方も少なくありません。僕はそこに津軽の唄の大きさを感じます。一般的に津軽三味線の技術やパフォーマンスが注目されている向きがありますが、それ以前に本来、唄というものはその地で真剣に生きている人間が培ってきた魂そのものであり、同じ場所で生きるもの同士が共有できる切実なものだということを痛感します。「津軽弁が喋られねば、三味線ッコの匂り(かまり)はでねぇ。」と年輩のお客さんにはよく指摘されます。毎回、師匠の隣で音を奏でる際に、その流れのなかに入れるかどうかという感覚こそが自分にとっての挑戦です。

◆この土地の唄の深みを感じれば感じる程に、同じ地平線で繋がっている様々な人の暮らしと共にある唄を想い、この世界がいかに広いかという実感が湧き上がってくるのです。唄が生まれるところには、唄が生きています。これからも、出逢う景色や場面に、唄やことばに息づくその土地を生きる人々の心の情景を重ねて旅を続けながら、その先にある暮らしの大切なヒントを掴めたらと思います。喩え、時代の流れと共に暮らしが変わろうとも、辺りを取り巻く自然や過ぎてゆく季節には必ず唄があるということ。「時々耳を澄ませながら、しっかりと歩んでいきなさい。」毎回少しずつ、そんな気持ちを津軽の人達から手渡して貰えているような気がしています。

◆さて、8月の弘前はねぷた祭りが有名ですが、その為に参加できない師匠の代理としてN響コンサートに一人で参加することになっています!エベレストの登頂アタック隊員に選ばれた心境です。技術面の不安こそありますが、演奏者というよりも自分自身としてそのステージに立ち、そこからなにが見えるのか見てみたい。いまはただそう想っています。応援の程、宜しくお願い致します!(車谷建太 津軽三味線弾き) 

[ユーコン・クエスト2007年顛末] 

2月のユーコン・クエストに出走、中間点で棄権した本多有香さんの手記をお届けする。昨年まで世話になった親方から意見の食い違いで離れ、一時はレース参加も難しい状況に追い込まれたが、フェアバンクス在住の舟津圭三夫妻に紹介されてビル・コッターというマッシャーの犬を急遽借りての出走だった。(E)

◆2月10日、今年はホワイトホース(カナダ)で最下位から2番目の27番でのスタートでした。トレーニングは気温が低すぎたりしてできない日も多く結局10回走っただけ、しかもそのうち8回はビルと2チームで一緒に行った為、自分と犬との信頼関係が十分築けたとは思えないままの少し不安な挑戦でした。その上借金を抱えています。不安要素だらけです。でも、レース中にもっと犬たちと仲良くなって信頼関係を強くできるんじゃないのか、なんとかなるはずだ、と前向きに考えることにしました。

◆こんな私を心配して今年も本当にたくさんの日本人の方々が応援してくれました。特に自分の食料のフードドロップを西山さんが色々と工夫して作ってくれたのは本当にありがたかったです。そして、スタート前にわざわざ応援に駆けつけてくださったカナダ在住の日本人の皆さんと話せて、物凄く嬉しかったです。

◆最初のチェックポイント(ブラバーン)に着く前に一度キャンプした時、スノーフックがあまり効かず変だなぁ?とは思っていましたが、徐々に変形してきて、全然効かない折れ曲がったそれに気づいたのはチェックポイントに着く少し前でした。幸いもう一つ持っていたのですが、トレイルはソフトな雪で、『スノーフック2個でもなんとかチームを停めていられる位』が現状でした。ルール上交換する事ができない為、仕方なくそれを使い続けることになりましたが、チームを停めるのにどうすればいいのかかなり不安でした。

◆悪い予感は的中し、ブラバーンを去ってすぐにリーダー(先頭の犬たち)が道を誤った為にできた絡まりを直そうとチームを停めたとき、事件は起こりました。もちろんスノーフックは一つしかないと同様だったので、いつ外れるか解らないので保険をかけて橇を横に倒しておきました。リーダーとポイント(スウィング)ドッグ(前から2番目の犬たち)のラインの絡まりを直し終わって、真ん中にいたジュエルの絡まりを直そうとした時に、唯一の支えだったまともなスノーフックが外れ、ジュエルのすぐ後ろの犬の下半身に突き飛ばされた私は橇を持てないまま橇が勝手に立ち上がり、あっという間に湖の中を物凄い勢いで走り出しました。一生懸命走っても走っても、犬たちがみるみる小さくなっていきました。

◆途中で優しいブレント(マッシャー)がきて、私を橇に乗せてくれて一緒にチームを探しましたが、一向に見つかりませんでした。ようやく見つかった時には、ジュエルはもう冷たくなっていました。信じられませんでした。どうしたら良いのか解りませんでした。その日はものすごくいい天気で、気温も−20度と絶好の犬橇日和だったのに、私にできたのはただ泣き叫ぶ事だけでした。

◆後から来たクエスト経験豊富なフランクが「死んだ犬を積んで行くにはここからは相当ハードなトレイルで、まだ後50マイルもあるから、前のチェックポイントに戻るかクエストボランティアに頼んで輸送を頼む方が良いよ」と助言してくれました。ブレントは落ち込んだ私を心配して、私に付き合って一緒に前のチェックポイントに戻るといってくれましたが、彼もレース中なのでこれ以上迷惑を掛けられないし、第一戻ったとしても逆走すると細く険しいこのトレイルでは他のマッシャーに迷惑が掛かると思ったし、それにタフィーというオス犬の調子が良くなさそうに見えたので、ビルのでかい犬を2匹も橇に積んで走るのは不可能だと思え、ブレントにお礼を言って先に行くように告げ、私はクエストボランティアの飛行機にジュエルを乗せてもらう事にしました。

◆私はレースなんかもう棄権する気だったというよりも、犬橇自体をもう辞めるつもりでした。ジュエルを手渡した後、私は自分のチームの前で、わーわー泣きました。まだパイロットがそこにいる事さえ気づかなかったのです。本当に、大声で、泣き叫びました。もう、自分が嫌で嫌でたまらなかったのです。

◆パイロットが戻ってきて、ゆっくりと、諭すように何度も私に「今はショックでレースをどうでもいいと思っているんだろうけど、自分でチェックポイントに持って行ったほうがいい!ペナルティーで失格になるかもしれないよ?」と言い出しました。私は犬橇を辞める気だったので、そんな事はどうでもいいと思っていましたが、考えてみれば次のチェックポイント(カーマックス)に着くまで後50マイルは犬橇をしなければならないのです。犬橇をここですぐに辞める事は不可能なのです。それならせめて最後まで責任を持ってジュエルを私の手で運んであげようという気になってきました。そうしろ、そうしろ、というパイロットの言葉に、私は「ハイ」と答えていました。

◆予想通りタフィーが走れなくなり、私の橇には2匹の犬が乗り、持ちきれなくなった荷物を後ろから来たマッシャーのグレッグに持ってもらい、そして彼に励まされながら一緒に進みました。タフィーは嫌がり何度も橇から出ようと試みるので、彼のでかい頭を押えながらハードなトレイルを進みました。なんとかたどり着いたそこでは、レースマーシャルのマイクが便宜を図ってマスコミから遠ざかる場所に私を導いてくれました。

◆ビルに謝罪してこれからどうすればいいのか聞くと、彼は「今は他の犬の世話だけを考えろ、重い荷を運んで走ってきて犬たちは疲れているだろう?彼らを幸せにしてあげろ。このまま進むんだ!棄権するな!」と泣き声で言ってくれました。一番辛いのは自分の犬を失ったビルと奥さんのステフィーだろうに、私の事を中心に考えてくれている言葉にまた泣けました。私は何度も何度も本当に続けるべきなのか?私にできるのか?と聞き直しましたが、彼は「君ならできる、僕のために走ってくれ」と言いました。私は逃げないで続ける決心をしました。

◆マッケイブクリークで休憩し、次のチェックポイントのペリー・クロッシングまで順調に進みました。チェックポイントで会うたびに、ビルはいつも私を優しく応援してくれます。天気は快晴で、みんな調子もよくいい感じで進んでいきました。ドッグドロップのスチュワートリバーに着く前に、リーダーのマグシーの様子が少しおかしいので見てみると、手首を痛めているようでした。スレッドバッグの中にマグシーを入れて若いウドローを代わりのリーダーとしてタコマの隣につけて出発すると、ウドローはあまり行きたがらず、仕方ないので気の強いグリズリーをつけるとタコマと喧嘩を始めました。

◆グリズリーはオスの大事な所が凍傷になっていたので、そこをカバーする洋服を着せていましたが、柔らかめのウンコをするたびに洋服の間に入り、それがタマタマと擦れて痛かったせいで本調子の走りができなかった事もあってリーダーとしては使わないでおく事にしました。ただ、あまりリーダーがいないチームなので「多分リーダーができる」と言われていたスープラや「レースが好きじゃないから使えないかも」と言われていたエミリーを無理やりつけたりして、マグシー抜きのチームはかなり苦労してようやくスチュワートリバーに着きました。

◆ここで、獣医がマグシーの足首はたいした事が無いからマッサージすれば大丈夫だと言うので、休憩時間を予定よりかなり多くとりマッサージをいっぱいして早朝出発する事にしました。ボランティアの作ってくれたテントで休んでいると先に行ったはずのグレッグが午前2時ごろ道に迷って戻ってきました。私とボブ、カイラはグレッグの話でトレイルが判り難い事を知り、空が明るくなってから行った方がいい、とそれぞれの理由もあり一緒に行動しました。

◆出発すると最初は調子よく進んでいましたが、やっぱりマグシーが不調を訴えてきました。カイラが私を後ろから追い越した時に、追いかけて良いかと聞いたら、いいと言ってくれたので、リーダーを変えてマグシーを休ませ、ウドローに追わせて走りました。凍った湖を嫌がったり、登りの坂道を休みたがったりと、前のチームでは特に力を入れてした厳しいトレイルでの訓練が足りていない感じがしたし、自分でもっと訓練がしたかったと、悔しいけれど薄っぺらな関係があらわになった気がしました。

◆氷の湖に出る度止まってしまうリーダーでは、カイラを追う事さえもかないません。結局私はひとりで行く事になりました。そして、何でこんなにみんな走りたがらず後ろばかり気になりだしたんだろう?と思っていたら、エミリーが発情していた事がわかったのです。リーダーのウドローはとにかくエミリーが気になってスピードが落ちました。エミリーのすぐ前の若いオス犬ルークはすきさえあればすぐ後ろに行こうと必死だし、グリズリーは勝手に「俺の女だ」状態で喧嘩を吹っかけ始めます。これじゃ駄目だとエミリーとスープラ(両方メス)をリーダーにつけたら、今度はエミリーが走らずに「カモン、坊や」と誘いだすのです。止まってしまうと、必ずクインがブーティースを脱ぎ始めます。色々と犬の位置を変えてみましたが、喧嘩っ早い犬や後ろが好きな犬、エミリーを嫌いなメス犬、それぞれ特徴があってあちらを立てればこちらが立たず、まるでパズルのようでした。

◆収拾がつかなくなったチームに、その場にしゃがみこみたくなる気持ちをなんとか抑えて、エミリーをスレッドバッグに入れて、マグシーをリーダーにつけて足をマッサージしつつ進みました。しばらくの間休めたマグシーは少し調子を上げ、そこからようやくチームが走り始めました。九十九折に続く山道を、マグシーとタコマがチームを引っ張って登っていきます。私も一緒に橇を押しながら走ります。ソリの中ではエミリーが涼しい顔でこっちを見ています。

◆あっという間に予定していた走行時間になってしまいます。どう考えても後2回はキャンプしないと次のチェックポイント(ドーソンシティー)に着きません。餌はもう無く、スナックさえあと2袋でした。私はスナックをさらに半分に手斧で切って、ごまかしごまかし与えて進みました。「これだけ?もっともっと!」と犬たちが訴えますが、どうしようもありません。

◆キャンプで私ができたのは、誰かのチームがキャンプした場所でそのチームの藁をそのまま使って泊まり、こぼしたり残したらしい餌を拾い集め与える事でした。病気がうつるかもしれないし、食べなれていない餌なら下痢になりやすいし、なにより自分で考えた栄養バランスの餌を与えたいから普通はやらない事です。ただあの時は、こうするより他になかったのです。

◆遅くて心配された私をドーソンからスノーマシーンが探しに来てくれて、大丈夫だと言ったのにチェックポイントまで先導してくれました。私より先に行ったグレッグがまた道に迷い、スチュワートリバーへもう一度向かってしまった事で、ボランティアも神経質になっていたようです。

◆チェックポイントにようやく着いた時、踊りだしたくなっちゃうくらいみんな歓迎してくれてびっくりしました。なつかしい知り合いのコア(ドーソン在住のマッシャー)の顔もありました。ずっと私を待っていたビルはホッとしていました。私はずっと笑顔でした。ドーソンに着けて本当に嬉しかったんです。だって、犬たちはもうみんなガリガリに痩せてしまっていたのですから。

◆キャンプサイトに行き、ビルの作ってくれた藁をふんだんに使った犬用テントでいっぱい餌を食べて幸せそうに寝ている犬たちを見て、私はようやく安心しました。ビルと、泊まる場所を提供してくれたお宅に行きご飯を食べシャワーを浴びて、まず寝よう、落ち着いてから今後について話しあおう、と話しました。久しぶりのベッドはふかふかで快適でしたが、何度も途中で目が覚めて、色々と考えました。

◆私とビルの出した結論は、レースを棄権することでした。今年優勝したランス・マッキーが目茶苦茶速く、一位との差が開き過ぎた今、気温の低くなるここからのトレイルをこのまま進んでもチェックポイントは閉まってしまうから危険だし、36時間の休みでマグシーの足が完治するかどうか疑問だし、この信頼関係でイーグルサミットを越えられるのかも疑問で、そしてなによりも犬たちがガリガリに痩せこけている…。これ以外にはどうしようもない、正しい選択でした。

◆これから借金を返済するために日本で働きます。今回学んだ事、反省すべき事、私がこれから一生忘れる事は無いだろう背負った痛み…。まだ人間のできていない私ですが、今は、本当にたくさんの心優しい人に叱られ励まされして、ようやくフラフラと立ち上がった感じです。資金的に来年の挑戦は無理ですが、また必ずクエストに出てそして幸せな犬たちと一緒に今度こそ完走したいと思っています。優しいビルとステフィーは「うちでハンドラーになってもいいよ、戻っておいで」と言ってくれていますが、来年の予定でさえまだ決まっていません。こんな未熟者の私を応援してくださった皆様に、心から感謝しています。本当にありがとうございました。(本多有香)

『南極レター』 No. 11
「野外活動の日々」

 みなさんこんにちは。今日から5月。昭和基地は今日から8月までの4か月間は冬日課になります。朝食が7時から8時になり、週休2日になります。前回レターを送った4月10日以降、何をやっていたかなあと振り返ってみたら、やっぱり多かったのは野外活動でした。15日、21日、22日、24日、26日、28日、30日と野外に出ました。そこで今日は、「野外活動」の話をします。

◆最近は日の出が9時頃、日の入が15時半頃ですので、昼間外で活動できる時間がずいぶん短くなりました。このまま毎日10分ずつくらい昼の時間が短くなって、5月31日には日が昇らなくなります。私は野外に出るときはほとんどリーダーとして行くので朝は6時に起きます。そして、まず気象をチェックします。基地内のwebで風速、気温、気圧の推移を確認します。さらに気象棟に電話して、最新の天気予報を聞きます。そして、行くか行かないかを決めます。

◆私はいつもひとりでさっさと決断をしてしまいますが、人に相談しながら決めたり、しばらく様子を見てメンバーをスタンバイさせたりなど、リーダーにより様々なようです。私の場合は、急を要するようなオペレーションは基本的に持たないことと、さっさと決めないと調理や通信に迷惑をかけるし、オペレーションに参加する支援者を拘束してしまうので、朝食前には決断してしまうように心がけています。

◆行くと決まると、7時に朝食を食べ、最近だと8時頃から、あらかじめ決めておいた役割に沿って、各自、準備を始めます。食糧担当は調理の人を手伝ってお弁当を用意し、飲み物やおやつも準備します。その他、観測、装備、通信、医療などの担当を割り振っていますので、観測器材や非常用装備、無線機、医薬品などを準備して車両まで運びます。車両は、主にスノーモービルを使ってきましたが、ここ最近ようやく雪上車が使えるようになりました。海氷が発達し、雪上車の重量に耐える厚さまで成長したからです。と言ってもまだ十分でなく、SM30という小型の雪上車を主に使っています。

◆最近は気温も低くなってきたので、人に対しても機械的にも、スノーモービルは厳しくなってきました。それでも、スノーモービルは雪上車に比べて、車両の立ち上げも移動速度も速いので機動性に富むというメリットがあります。雪上車を使う場合には、エンジンをかけてまずは暖機し、そのあと慣らし運転と言って、雪上車の足回りをほぐしてあげる作業があり、出発できる状態になるまでに1時間はかかります。

◆スノーモービルはエンジンさえかかれば即出発できます。ただ、スノーモービルの立ち上げの早さは完全に気温に依存します。-10℃程度なら15分くらいでエンジンがかかりますが、-18℃以下になると、「立ち上げまで1時間だな」と覚悟を決めます。昭和基地のスノーモービルはくたびれたものが多く、現在まともに使えるのは2台しかありません。1台はスターターセルが壊れているので、スターターロープで完全手動で立ち上げねばなりません。もう1台はセルが生きているので、セルとロープを併用しながらかけています。

◆最初はコチコチでロープも引けません。ようやくウィン!と引けるようになるまですごく頑張って、人間もスノーモービルも休みながら何度も何度も何度も何度もロープを引っ張っていると、3、40分経とうとする頃、ようやく、ブル・・・ブルブルとエンジンがかかる気配を見せくれます。「お、少しはやる気になったか」とようやく思います。それから更に休み休ませながらがんばっていると、ある時突然エンジンがかかります。そしたら逃さずスロットルレバーを微妙に調整してやって、せっかくかかったエンジンが切れてしまわないようにつきっきりで調整します。気を抜くとすぐにまたやる気を失って切れてしまうし、もう大丈夫かなと思って、他の準備をしようとスノーモービルから離れると、エンジンが切れてしまったりします。もう本当にやっかいです。機械ってたいていそうですけど、声をかけたり愛情を持って接してあげないと機嫌をそこねます。昭和基地のスノーモービルも、十分すぎるほどみんなから愛されてるはずなんですが、甘やかしすぎなのかもしれませんね、たいていいつもぐずっています。まあでも、こんな寒い中、そりゃあ動くの嫌だろうなあと思うので、よくがんばってくれていると思います。

◆そんな感じで、野外に出る前には一苦労あります。というかむしろここで苦労の大半は終わってしまいます。一旦出発してしまえば、あとは予定の行動をこなしていきます。目的地まで行って観測をすることもあるし、前回お話したルート工作をすることもあります。ルートの修正や氷厚の再測定などもあります。雪上車だと時速10km/h以下でしか動けませんが、スノーモービルだと時速20km/hくらいまでは出せるので(それぞれ、車両のもつ能力としてはもっともっと上です)動き出せばスノーモービルの方が断然早いです。でも断然寒いです。だから最近は、気象条件と昼間の長さと相談しながら車両を選択しています。

◆野外から帰ってくると、給油をして、足回りの除雪を行って、荷物を片付け、みんなでお弁当箱を洗って終了です。最後に事務的な手続きですが、活動報告を基地内のwebにアップします。そして夕食後のミーティングでパーティーのリーダーが海氷状況や危険のポイント、活動内容などを全員に報告します。

◆今日の話はこれでおしまい。野外活動の話というより、半分以上は車両の話になってしまいました。こちらはこれからどんどん暗い季節になるので、是非日本からも明るい景色や話題を送ってくださいね。それではまた。(永島祥子 5月1日)


■第1回「海うさぎ」チャリティ講演会のお知らせ■

 島旅写真家、河田真智子さんが昨年7月に立ち上げた「海うさぎ」(最重度障害児・者サポートネットワーク目黒)を支援するチャリティ講演会が地平線仲間である冒険家、坪井伸吾さんを招いて開かれます。

▼日時 5月20日(日)14時−16時
▼場所 目黒区中根1-10-17 みどりが丘ふくしかん 3723-1470
▼参加費 大人1000円 子供300円
▼冒険家 坪井伸吾『アマゾン川5000キロ イカダの旅』
▼問い合わせ先 03-3723-8267 榊原方(19時−21時が、のぞましい)

★以下、河田さんのメッセージから。
《最重度というのは経管栄養チューブや、吸引などの医療的ケアを必要とする障害児・者のことをさしています。このボーダーラインの下になりますと生活上に必要な、「緊急介護」や「ヘルパー派遣」などの制度がほとんど使いにくくなり、通える施設にも限りがあり、障害のある子のほとんどの介護が母親一人の肩に掛かる生活をしていくことになっている現状です(母親は床上1メートル以上の世界を見られないような生活をしています)。夏帆はこのボーダーラインのギリギリを綱渡りしながら19年間、生きてきました。このライン以下だった時期、トイレットぺーパーを買いに行くことも出来なかった生活も体験して来ました。障害児の母親だけが固まって活動するには「力に限りがある」、重度の障害児・者をサポートするシステムを作ってゆくこと、というのは高校入試の時に校長先生に言っていただいた 『宿題』でした。最重度の障害児・者を抱えていれば、家から出にくい生活をしていて、運動もしていきにくいのが現状です。活動の主は、インターネットを使い、年に2回くらい、実際に集まる活動をしていきたいと思っています。地元目黒を中心に活動していきますが、それを参考に最重度障害児・者の置かれる状況を知ってもらい、応援してもらう活動にしていきたいと思います。他の地域でもリンクしていただけるといいな、と思っています。


第18回『ブナ林と狩人の会:マタギサミット』

 6月30日、田口洋美さんが主催する「マタギサミット」が初めて東京で開かれます。

◆開催日時:6月30日午後1時集合(午後1時15分開場)
◆集合場所・会場:東京大学農学部弥生講堂一条ホール(文京区弥生1-1-1 東京大学農学部内:03-5841-8205)
◆応募締切:6月10日
◆応募先:東北芸術工科大学東北文化研究センター(〒990-9530 山形県山形市上桜田3-4-5 TEL023-627-2168 FAX:023-627-2155
◆一般の参加希望は、氏名、住所、電話番号、性別、年齢、宿泊の有無、懇親会への参加の有無を書き添え田口さん宛で。
◆経費:マタギサミット:入場無料
 懇親会会費4000円 宿泊+懇親会会費:10000円


■6月2、3日・森林療法のワークショップと講演会■

 地平線会議のイラストレーター、長野亮之介が代表を務める森林ボランティアグループ「五反舎」による、1泊2日の研修会。場所は「高尾青年の家」。 注目を集める「森林療法」と「山仕事」の関連を、実習と講義を通して探る試み。講師は農大准教授の上原巌さん。テーマは「山踏み 〜癒しに続く森の道〜」詳しくはhttp://www004.upp.so-net.ne.jp/fish22/gotansha2005.html


■カフェ『チームシェルパ』の土曜の夕べ■

 八ヶ岳山麓のわがカフェ『チームシェルパ』では、2か月に1度のペースで土曜日の夜にトークショーを開催しています。星空の下で旅人たちが焚き火を囲み、炭火の料理を肴に生ビールや酒を飲んで語らい、そして森や広場にテントを張って泊まるパーティーです。規模は小さいけれど、地平線会議の1次会と2次会(「北京」)と3次会(公園の野宿)を合わせたような、ゆるいイベントといえるかも!? 第1回のトークショーはホストである僕が担当しましたが、今後はユニークな旅仲間たちに登場してもらおうと考えています。第2回は6月16日に開催予定。詳細はうちのホームページをごらんください。老若男女を問わず、みなさんの参加をお待ちしてます。http://www.eps4.comlink.ne.jp/~sherpa/(八ヶ岳在住のバックパッカー/斉藤政喜)


ごめんなさい。

《品行方正楽団の演奏会中止のお知らせ》

品行方正楽団

…というわけで、地平線通信前号にて告知させていただきました品行方正楽団春の宴は、誠に勝手ながら諸事情により中止になってしまいました。皆さま、大変申し訳ございません!もう、なんていい加減なんだっ!とあきれつつも、新規メンバーも増えて新たなスタートをきった2007年初夏です。ばんざーい!さあ練習だー!…ところでみんな東京にいなーい!( > < ) そんなこんなで演奏会の予定だった19日には奇跡の全員集合で特訓に励みます!次回の突発的演奏会に向けて…!皆さま、これに懲りずに品行方正楽団を今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。(楽団長・大西夏奈子)


地平線ポスト宛先

〒173-0023
東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〒160-0007
東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)


先月の発送請負人(海宝亭のおかげてこんなに大勢が! 3月の報告者だった麻田先生と学生たちも来てくれました)森井祐介、関根晧博、関根五千子、尾方康子、櫻井恭比古、藤原和枝、海宝道義、車谷建太、岸本実千代、麻田豊、村上明香、松澤亮、三上智津子、江本嘉伸、鈴木博子、村田忠彦、相澤満弘、橋本恵、田中幹也、中山郁子、山辺剣、埜口保男、李容林、籾山由紀


[あとがき]

黄河源流域に有名な「星宿海」がある。モンゴル語では「オドン・タラ(星の草原)」、標高4000mの池塘群に満天の星がうつる草原という意 味で、「黄河は星宿から出づ(博物誌)」と書かれ、河源として広く知られた。素晴らしい名だし、大いなる期待をもって現地に出かけたのはもう20年あまり前になる。実際には池塘群は干上がっていて、星をうつす美しい草原のイメージではなかったが、その地に立ったことで満たされた。

◆奈良県明日香村平田の小さな古墳から極彩色の壁画が発見されたのは1972年3月21日のことだ。飛鳥ブーム、考古学ブームを巻き起こしたこの古墳と壁画はあまりに人気になって近寄りにくかったが、つい先日、5月の連休のあと、飛鳥の地を歩く機会があって念願の高松塚古墳壁画を目のあたりにすることができた。

◆もちろん、古墳そのものは保護されていて見ることはできない。原寸、原色のまま忠実に再現したものを近くの「壁画館」で展示しているのである。有名な「玄武(げんぶ。亀と蛇がからむ動物図)」や7、8世紀当時の衣装をしのばせる4人の女子像など興味深かったが、中でも天の星たちを配した「星宿」の図に足が止まった。

◆天井のほぼ中央に天極五星があり、まわりを「北方七宿」「南方七宿」「西方七宿」「東方七宿」という星群が囲んでいる図。うーん、黄河へ行く前に学んでおくべきだった、と今更ながら思った。身近な旅も大事だ、と菊地由美子さんが今号の通信で書いている通りなのである。

◆原稿を書いてくれた皆さん、ありがとう。きっかけを見つけてどなたも挑戦してください。通信費支払ってくださった方々のリスト、後でまとめて掲載させていただくのでご了承を。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

住めればミヤコだ! グレートジャーニー南方ルート

  • 5月25日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「'05年秋にスタートした“グレートジャーニー・日本人の来た道”南方ルート編は、ヒマラヤ南麓を通る道筋を想定していました。けれど、政治や治安状況の影響で、やむをえず北麓に変更し、メコン川に沿って南下中です。「人類がヒマラヤにぶつかった時、わざわざ北側を行くかなと疑問だったけど、歩いてみたら案外行ける」と関野吉晴さん。

チベット高原からインドシナまで急激に環境を変えるメコン流域は民族・文化的にも多様で面白い場所でした。「ヒトがこれだけ地球上のあらゆるところに拡散したのは、好奇心のせいだけじゃない。悪い環境と分かっていても、仕方なくそこに行かざるを得なかった者達‥‥いろんな意味での“弱者”の行動がカギなのかも」と関野さんは考えています。

今月はラオスから帰国したばかりの関野さんの登場です。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が100円かかります)

地平線通信330/2007年5月18日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/
イラスト:長野亮之介/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方


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