雨の中、雨具をまとって源流部の流れを見ながら歩く。普段は寡黙な14才の中学2年生、ルンルンがまた尋ねる。「あと何キロですか?」突然見知らぬおとなの中に放り込まれて身の置き場がなかったのだろう、きのうはずっと食堂に備え付けのマンガばかり読んでいた。おい、少しは楽しめよ、と心の中でつぶやきつつ、そうだなあ、もう4キロもないんじゃないかな、と元気づける言い方をする。
◆四万十川に久々に来ている。地平線発足当時からの友人、山田高司たち四万十楽舎が企画した「四万十ドラゴンラン」に参加したのだ。初日のきのう3月26日は中学生から71才のシニアまでいろいろな立場の19名の参加者と不入山(いらずやま)という源流の山(標高1336m)の1000m地点にある「源流点」まで登った。そこをスタート地点に太平洋まで196キロを人力で下ろうという企画なのである。2日目のこの日は上流部分の20キロを歩いて下るのだが、あいにくの雨模様。濡れる菜の花が美しかった。
◆3日目、4日目は自転車で96キロをかせぐ。私はルンルンやギターで自作の歌をうたう男子高校生、ユーミンと同じグループで先頭を行く。四万十の水の色が支流と合流するたび変化するのがおもしろい。ゆっくり川沿いを進むために見えるものが多い。四万十は驚くほど鋭角に蛇行しつつ海に向かっている流れである。そして、増水すると沈むように設計されている沈下橋。「高樋の沈下橋」をのぞむ川べりには「告 この川汚す者、打ち首獄門に処す」と墨書された木の看板が立っていた。流域には高知県が保存認定した47の沈下橋と10ほどの同じ形の橋がある。
◆自転車旅のゴールは、懐かしい四万十楽舎だ。廃校となった小学校を活用した施設でちょうど4年前、四万十川の河川敷で「地平線会議イン四万十川」をやった時各地から駆けつけた40人の宿となった。あの時は「校長室」に寝たが、今回はルンルンたちと「4年生教室」。なんだかいいなあ、こういうの。
◆ここから河口まで38キロは、2日に分けてカヌーで行く。ほとんど初体験の私はスタートする前、バトル操作を間違えてありゃバランス崩したぞ?と思った瞬間、くるりと艇が回転して気づけば水の中にいた。いち早く「沈」してしまったのであった。「えも〜んがひっくりかえった!」と大声で宣伝するやたらに元気な女子大生もいて、少しばかり目立った。沈したら大事なのは「水のかい出し」だ。素早く艇を逆さまにして水を出す。
◆濡れたまま四万十の流れに漕ぎ出した。大丈夫、なんとかなりそうだ。春のおだやかな緑の中を幼いアメンボのように20艇のカヌーがゆっくり進む。私も他の仲間もまだぎこちなく、急流に乗り出す時には緊張する。なんだか寒いし冷えるし。「江本さん、左がおかしいよ」パドルの扱いを山田師匠に教えてもらい、沈下橋をいくつもくぐるうち、少しずつ調子に乗ってきた。おお、ルンルンなんかずっと先頭を行っているではないか。
◆現金なものでカヌーさばきに慣れてくると、世界でこんなにいい旅はないぞ、と思えてくる。岸辺の花や緑を眺めながら、清流を進むなんという贅沢!そうか。これに犬を乗せて旅するのが粋(いき)というやつなんだな、と勝手に感心したりする。途中川べりのテントで一泊。最初のキャンプ地では寝袋を枕と思い込んで毛布だけで寒さに震えたルンルン(気づかずに悪かった!)ももうしっかり袋にくるまっている。
◆3月31日、最後の沈下橋を過ごすと川幅は広がってきた。リーダーたちに見守られて少々勢いの強い「瀬」を乗り切ると、やがて地平線会議をやった旧中村市(現四万十市)の広い川原に出る。海に向かってどんどん川は大きくなっていき、ついに砂浜が見えてきた。おうおう、太平洋まで来たのだ。歓声を上げて若モンたちはカヌーから水に飛び込んだり、仲間を艇ごとひっくり返したり。
◆毎日、行動の後、四万十をテーマにしたレクチャーを聞くのも楽しみだったが最後4月1日は太平洋を見渡す高台で「砂浜美術館」の館長の話。遠い島から漂着した物たちの物語が面白かった。私はこの席で山田高司とスタッフたちへの感謝をこめて、ふるい葉書を読み上げた。「今年のパタゴニア地方は異常高温 氷河の溶解激しくコース予定のRio Paineが増水、パイネ山群一周の際この川を渡れず、いかだを作って下ろうとしたのですが、枯れた木では浮かず結局2度も泳ぐはめになりました」日付は「30.1.1981 Rio Gallegos」。山田君が21才の時にくれたもので、地球温暖化をこの時彼が目撃していることに驚く。19才で知り合った山田君と30年後、こうして四万十に遊んだのである。(江本嘉伸)
◆早めに報告会会場に着くと、東京外国語大学ウルドゥー語劇団の座長・麻田豊助教授(4月から准教授)と団員である8人の語科生の皆さんがミーティングに集中しているところだった。カラフルなシャルワール・カミーズという民族衣装(膝丈くらいまである綿のざっくりしたワンピースとズボン)を着ていて、独特のエスニックな雰囲気をかもし出している。打ち合わせを終えた皆さんは横一列にずらりと並び、中央の麻田先生からマイクをバトンにリレー形式で報告が始まった。まずは聞きなれない“語劇”ということばの説明から。これは外国語で演じる劇のことで、毎年11月の外語祭の伝統イベントになっている(1年生は各国の料理店を開き、上級生は専攻語で語劇を披露する)。つまりウルドゥー語科生はウルドゥー語で劇をするのだが、麻田先生は「やっぱり、現地でもやっちゃいたい!」と考えた。ネイティブにどこまでアピールできるのか??
◆2002年に第1回パキスタン公演に挑んだときはウルドゥー戯曲を演目にしたが、“印パドサ回り計画”が始まった2005年は戦後60年目の年。以前から先生が気になっていた木山事務所という劇団によるミュージカル「はだしのゲン」を演目候補としてクラスで提案してみると、それまでと違いすんなり受け入れられ、結果的に故地インド含め印パ両国で現地公演する計画へと発展することになった。厳しい世界情勢の渦中で核保有国となった隣国同士の印パ、そこへヒロシマを日本人が持って行く。2007年は印日交流年。重なった偶然は、大きなうねりとなってさらなる追い風となったのかもしれない。
◆「はだしのゲン」は広島で被爆した漫画家・中沢啓治氏の自伝的マンガ。原爆で、燃えさかる家の下敷きになった父と姉と弟を失った6歳の少年ゲンが、生き残った母や兄とたくましく生きていく姿を描くロングセラーだ。プロの劇団から「ゲンを演じるにあたり追体験をしなければならない」とアドバイスをもらい、ウルドゥー語劇団一座は日本人として真剣に原爆のことを考えてこなかったことを痛感した。それからは原爆関係の本を集めて読み、「原爆の図」丸木美術館を訪れ、映画を観て、原爆詩とも出会い、そこにある気持ちを汲み取り近づこうとがむしゃらな毎日だった。オリジナル版の公演ビデオをすりきれるほど何度も見たが、実際にやると全く上手くいかなかった。慣れない外国語による演劇、原爆という簡単ではないテーマ、海外での公演、何もかもが未知なる挑戦。そうしているうちに3月にはインド側とメールで主催依頼や会場選定の折衝が始まり、語科内ではオーディションにて配役が決定。まずは日本語のみで台本を読み合わせて感情とセリフを徹底的に頭と身体にたたきこんだ。夏が近づきメディアで原爆の特番が例年になく組まれる頃、ようやく本気で外国語で演じる覚悟ができたという。
◆ここで報告者は主人公ゲンを熱演した一座の団長・石井由実子さんに交替。「ヒロシマを追体験しようと頑張ってきたけど、実感がうすいこともあった」。日本人で生まれ育ちながらもヒロシマについてほとんど何も知らない自分たちを知り、夏には有志7人で広島を訪問。それがきっかけで新聞に取材されたが、掲載記事では語劇を行うことよりも反核・平和活動がテーマの中心に。ヒロシマのものをやろうとするとどうしてもメディアでは「反核」が前面に出てしまい、自分たちとのスタンスの違いを感じた。ヒロシマを背負って日本人として外国へ出向くが、根っこにある目的はあくまで文化交流だった。また、壮絶な人生を生き抜いてきた語り部の山岡ミチコさんからは「あなたたちにはひもじさはわからないはず」と言われた。「どれも重たいことば。私たちって何もわかっていなかったんだ…」と石井さん。実際に原爆に遭った被爆者たちと出会いによって全身でビンビンと感じるものがあった。同時に、いくら聞いても、知ろうとすればするほどに、体験しない者にはわかりえない壁もあった。私たちが印パで伝えていいのだろうか?と、演じる自分に無責任さを感じて悩んだ時期もあったが、「このままでは風化してしまうんよ。あなたたちが伝えていかないと。お願い、伝えて!」広島で口を揃えて告げられたその言葉でふんぎりがつく。
◆ここで報告者は竜吉・誠二役の町田優子さんと照明担当の相澤満弘君に交替、舞台裏の秘話公開!結団式後、それぞれが役の研究に没頭し、体力作りもスタートした。4、5月はひたすら日本語で台本を読み合わせ、早朝ランニングでは学校2周(=3キロ)を走り、6月中旬にはウルドゥー語の台本がついに完成。団員の私生活調査を実施してスケジュールを組み7月には立ち稽古を開始。学生が一気に海外に逃亡する夏休みも朝9時から夜7時まで特訓!「やるなら学芸会ではいけない!」と麻田座長。並行して99種類192個という膨大な量の小道具を、アイデアを出し合いさまざまな人の協力を得て全て手作りした。その一部を紹介すると、紙粘土製のさつまいも、新聞紙で作った頭蓋骨、ゲンの母親が劇中で出産する赤ちゃん・友子、唯一の大道具である障子…。これらを公演毎に梱包し、スーツケースにぴっちり詰め込む。始めはこれだけでくたくたになったというほど、とても丁寧に作業を行う皆さん。何度も繰り返して使われてきた道具もこんなに愛情を注がれて嬉しかっただろう。ユニフォーム代わりにお揃いのTシャツを作り、いよいよ気合は満ちていった!
◆ここからはゲンの父親役の下岡拓也君が登場。夏を迎え稽古にも熱が入り、オリジナル版ミュージカルの制作者がやって来て演技を見てくれた。「熱意が伝わってきていいけど、技術はだめだなあ!」と、お辞儀の仕方や立ち位置をその場でどんどん変えていく。例えば母親の出産シーン。ふろしきで母親の身体を隠していた元の演出は、(ふろしきの代わりに)芋虫のようにうごめく死体の山(人が演じる)で覆いつくされ、母親を隠すのと同時に生死が生々しく混在する状況を示す強烈な効果を出した。次第に演劇の素人だったチームの意識はぐんぐんと高まっていき、「腹の底から、語劇を演じてみたい…!」と、下岡君も湧き上がる思いに自分の変化を感じていた。出発直前、男の子役を演じる男女4人のメンバーはばっさりとベリーショートに断髪式!下岡君は85キロの体重を65キロに!プロ根性!語劇団一座は、大学や周囲からのカンパ資金とアルバイトで貯めた自己負担金を手に、ついにインドへと旅立った。麻田先生は言う。「ゲンを演じることで印パへ“核を捨てろ〜!”と言う気は全くなかった。ただ、日本製品であふれている国に肝心の日本人の顔が見えなくて…。日本人の顔を見せたかった!」
◆ここで原爆孤児・隆太役の境倫子さんにより劇の筋書きが明かされる。面白いのが麦穂が揺れるシーン。原爆投下前、風に揺れる麦を見ながらゲンは弟とどうやって食べようかはしゃぐのだが、骨抜きになったようにくねる人の身体で表現される麦穂は、何かのメッセージを発しているような不思議な後味が残る。原爆投下のシーンでは、会場を暗転してハロゲンライトの強烈な光と爆音を出し、会場が一体となって「ピカ!」と感じるように工夫した。不気味で目が離せないのがヤケドでただれた人たちの「幽霊の行列」シーン。真っ赤な背景に影絵の黒い人たちがそぞろ歩く光景は、黒いストッキングを手先につけて垂れ下がる皮膚を表現。印象的なフィナーレシーンは静かな灯篭流しの景色。浴衣姿の出演者たちが、「静かに歩いてつかァさい」(作詩:水野潤一)の朗読の中、鮮やかな灯篭をゆるり流すのだ。幅のある布を上手から下手に渡し、それをひっぱることで川の流れを作り出し、灯篭は見事に流れていく。
◆ここで休憩が入り、すかさず輪になるメンバーとこの日のために作った報告会用台本に修正を加える座長。時間が全然足りないらしい。休憩もそこそこに、次は相澤君と、姉・英子と夏江二役をこなした丸尾紫野さんが2005年インド公演の報告をしてくれた。公演地はラクナウからスタートしてインド全土にわたる10都市。パキスタン公演ではカラチ含め3都市。そして2007年のインド公演ではデリー含め4都市。街によって観客の反応が全然違ったそうだ。ラクナウでは緊張で足の震えが止まらず初演前夜にホテルの外で発声練習をしていたらうるさいと上から砂をかけられ、上演中にはカメラのフラッシュと携帯電話の鳴り止まない音に驚いた。チャンディーガルでは突然停電して音も光もないまま劇を進行し、モハーリーでは汗だくになる暑さで意識が朦朧となり、標高2206mのシムラーでは反対に寒さと酸欠に苦しんで、アリーガルでは男子学生たちの野次にいらいらしながら演じ、ボーパールでは駅に着いた途端に街をあげての熱烈な歓迎を受けた。
◆字幕・スライド担当の村上明香さんは、現地のパブリシティについて報告。2005〜7年の計3回の印パ公演でなんと合計155本の現地新聞記事に取り上げられ、テレビ・ラジオにも出演。メディアの反応が大きかった背景には、公演前に現地で行った記者会見の影響が大きいという。「印パではとにかくアピールしなきゃ。謙虚さは向こうでは何にもならない」と座長談。「今回の海外公演の目的の一つ、印パに平和の架け橋をかけることは少なからず果たせたと思った」という村上さん。現地のいくつかの取材記事に、核戦争をストップする責任は核保有国の印パが持っている、と書かれていた。
◆予想外にたくさんの人々を巻き込み長期にわたる大プロジェクトへと発展した中、3回の海外公演中メンバー変更はほとんどなかったという。石井団長は「(ゲン役が)決まってからは嬉しかった。ずっと出られるし、研究した」とはきはき話す。麻田先生曰く「今回だけは日本人が日本の何かを持っていかなければならず、本気にならざるをえなかった。日本人としてやれること、それを受け入れてくれたインドとパキスタンには、本当に感謝しています」。
◆さあ、一座の今後のスケジュールが大変気になるところ!でも、メンバーの本職は大学生。卒業組、自主留年組、就職組、卒論執筆組、インド留学組とそれぞれの進路へ一歩を踏み出し、学生と劇団員の二束のわらじで頑張ってきた語劇団もついに卒業を迎える。「もう終わり。現実的に考えてできないんです」と麻田先生はきっぱり。現時点での再結成はないとのお返事だったものの、一度でいいから生で観てみたいなあ…!(大西夏奈子)
私たちはこの記念すべき334回目の地平線報告会に向け、綿密な台本を用意して報告の準備を万端に整えていた(つもりだった)。しかし残念ながらマイクを握ると思わず話しすぎるメンバーが数名おり、時間切れとなって実際の報告に入りきらなかった部分が多数残ってしまった。今回「消えた25分」の再現をする機会を頂いたので、現地は観客のアンケート、日本は新聞報道を通して各国の反応を探ってみることにしたい。
◆初めてのインド公演では481人分の声が回収された。このアンケート、回収率が非常にまちまちでデータの精度にやや問題ありだが、一つの参考としてご紹介したい。まずは観劇者のデータだが、男性7割に女性3割、過半数が20代以下(最高89歳、最低8歳)で母語はヒンディー3.5割、ウルドゥー1割という結果であった。その他の母語話者も3割はいたが、ゲンが語る平易なウルドゥーはほぼ理解できたようだ。全体評価はexcellent 6割、good 2割という大変喜ばしい結果であった。
◆コメント欄では悪い点としてウルドゥーの発音、発声や滑舌の悪さが多く指摘された。しかし何故かアンケートの批判の数と観客の観劇態度の悪さは正比例するのである。演劇は役者と裏方だけでなく、観客も一緒になってつくる物なのだと実感した。逆に良い点としてもウルドゥー語は挙げられ、他にはミーム(パントマイム)の動き、演出、表現方法が良いという意見が目立った。ミームでは人が麦を表すなど、やや前衛的なしぐさも含まれたためインド人の感性にはまるかどうかが不安であったが、多くの人には理解し、かつ受け入れてもらえたようだ。麦が登場するといつも観客が何かを話し合うひそひそ声が聞こえたものだった。
◆「涙が溢れた」「世界中でTVに流したい」「核は二度と使われてはならない」……これらも全てインド人観客による感想だ。手紙ほどの文章を書いてくれた人もいた。手ごたえがまるで分からず最初は不安でたまらなかったが、こんな風に感じてくれた人もいたのだ。インド公演ではやや便乗ぎみだったアンケートだったが、パキスタンでは自分たちでアンケートを作成した。ペグシル(よく工事現場で使われる使いきり小型鉛筆とでもいいましょうか)も日本で4000本購入し、各自分担してパキスタンに持って行った。パキスタン全公演では1853枚のアンケートを回収した。
◆アンケートではインドと同様の身体検査の他、私たちのしゃべったウルドゥーについてと、劇自体についての評価をそれぞれ4段階でしてもらった。正直なところ、はるばる日本から劇を持ってきた私たちに多少は甘めの採点を期待したものだったが、ウルドゥーについての結果を見ると結構ガチンコで評価している人が少なくない状態で、私達学生なのになあ、と思わずにはいられなかった。しかし逆を言えば私達一人一人をウルドゥーの使い手として、正当に評価してくれたことであり、それは恐縮ながら若干のプロ意識が芽生えてきていたウルドゥー語劇団としてはうれしいことである。つまり、私たちは「子供の遊び」では終わらなかったのである。
◆劇についての評価はexcellentが全会場で80%と、とってもうれしい結果だった。パキスタン人が私達の劇から何を感じ取ったか、なんて正直なところわからないし、私達は「反戦」や「反核」を訴えているわけではないので、そういう面で伝わったのかどうか自信がなかった。でも劇が終わった後、私達の手を取って「すごくよかった!」と言ってくれたことや、アンケートのコメント欄に熱いメッセージが寄せられているのを読むと、ちゃんと伝わってたのかな、と思った。それに今思えば劇が終わるのを待つまでもなく、劇中あんなに静かに、真剣に、涙を流しながら観てくれたのだから、もうそれだけで十分、「伝わった」ことになるかな、と。
◆最後に日本の新聞の反応であるが、私たちの新聞デビューは2005年、広島訪問を取材した中国新聞の記事であった。その後インド公演を終え帰国すると、大学のPR活動として「ゲン」が取り上げられることになった。凱旋公演の前に急遽、行うことになったパキスタン人ジャーナリストを前にした特別公演のときには共同通信と朝日新聞が取材に訪れ、この共同の記事は各地で報道された。
◆2006年のパキスタン公演時は、団員が郷里の新聞社に連絡を取って、取材を要請した。稽古の合間を縫って団員は取材を受け、宮崎日日新聞、静岡新聞、中日新聞(浜松・遠州版に2度)、徳島新聞(2度)に「本県出身の○○さんが」という記事が掲載された。公演前も、現地でも、帰国後も取材を受けた。帰国後、文教新聞にもパキスタン公演の様子が掲載され、3回の海外公演のうち、ドサらしく売り込んだ結果として最も取材を多く受けた印象がある。印パの新聞でちやほやされてきた我々一座であるが、結果として日本でも新聞界を多少騒がせたのである。(相澤満弘、橋本恵、町田優子)
報告者となってくれた8人全員に「互いに相談せず、見せ合わず」を条件に書いてもらった。以下、到着順に掲載する。(E)
報告会に出るという知らせを受けるまで、地平線会議の存在を全く知らなかった私。HPを見たら、世界の色んな地名が目に飛び込んできた。なんだかおもしろい人たちの集まりみたいだ。渡航前は、稽古や準備に追われ、報告会について話が進んだのは、帰国してから。2年前に「ゲン」に出会ってから、3回の印パ公演をするにあたり、自分の生活を「ゲン」に捧げてきたといっても過言でないほど、私たちにとって「ゲン」は大きな存在であった。と同時に、最後のインド公演から帰国したあとは、「ゲン」中心の生活を抜け出し、自分の将来について動き出し始める時間が始まっていた。
◆そんな中、報告会2日前=帰国後2週間ぶりに、報告会の準備にメンバーが集まった。写真、新聞記事、映像などの資料は、これまで手元に貯めてきたものばかりだが、それをもとに話をするというのは初めて。客観的に自分たちの活動を振り返る機会なんて、今までなかった。過去の写真や映像を見ながら、苦労話・笑い話がとまらず、話し合い進まず。報告会は、発表しきれないくらい、伝えたいことだらけだった。「ゲン」を通して、公演をやり遂げる大変さと、それと引き換えに得られるものの大きさを知った。今まで自分たちのやってきたことが人に認められるって、ありがたいことだと思う。中華を食べながら、皆さんに刺激を受け、これからもっと人生をおもしろく彩る覚悟を決めました!!(石井由実子 他の皆の原稿を読むのが楽しみです♪)
運命というものは奇妙なもので、この文を書いているのもどんな因果でこうなったものだろうか。この2年間、僕の運命は狂いっぱなしである。18歳のとき、この大学に入学したてのころ、こんな姿が想像できたであろうか。運命は加速し、そして思わぬ方向へ僕を導いていった。今回、地平線会議からお声がかかったとき、ぜひとも報告会に参加したいと思った。
◆僕たちのやってきたことが認められた、話題にしてくれた、と嬉しくなったからだ。そして、僕たちの活動を見ていた人たちはどんな人たちだろう。是非とも会ってお話がしたいと思った。僕たちの報告を聞いていた地平線会議のメンバーの方々はとても真剣に僕たちの話に耳を傾けていた。これは2年半劇をやってきて日本で初めてその成果が表れた瞬間だった。正直、このように劇のことを堂々と話す機会がいままでなかったため、終わったときの気持ちは嬉しさと爽快感であふれていた。
◆そして、打ち上げ。周りにいた人たちは想像以上のアブノーマル集団だった。しかし、そこに悪い意味は微塵もない。そこにいたのはいつまでも夢を追い続ける格好いい大人たちだった。いつか、僕もこのような人になりたい、周りから「すごい」といわれる人になりたい、ほろ酔い気分でそう思っていた。この夜の出来事はまさに運命的な出会いだった。この経験は僕の人生の大きな支えとなるだろう。地平線会議の方々、本当にありがとうございました。(下岡拓也)
緊張した。どんなことでもいい、堅苦しくする必要はないと言われても、会場にいらしたのはなんとも経験豊かすぎる、魅力的な人ばかりで、我々のしてきたことはどのような評価を受けるのだろうか、と不安になった。「君たちは素晴らしい経験をしてきた」。そう言ってもらえて今は、ただ嬉しい。ただ、それだけだ。
◆発表者としてやって来た学生が7名、どんなことを話すかトピックを決めてから担当を割りふった。後になって気付いたのだが、我々がしてきたことは、実は2時間半ではとても語りつくすことができないということだ。2年をかけて繰り広げられたドサ回りの海外公演の詳細は、ぜひ2年かけても話したい。そんな気分になった。
◆マイクを持ってしばらくすると緊張は薄れていって、話したいことが次々とあふれていった。その結果、話しすぎ、時間超過し、他の団員からお咎めを受ける破目になった。「先生の悪口なんか書いてくださいよー」と某氏に話しかけられた。つまらない話だが、結論から言えば、先生には心から感謝している。見ればわかるが、先生こそ只者ではない。先生があってできた海外公演、この場を借りて「ありがとうございました」と言いたい。そして今回この会議で話す機会をくださった皆様、参加してくださった皆様にも感謝を。思い出の箱にしまいこむには、あまりに散乱しすぎた記憶の粉々しい欠片を少しは整理できた、という気分だ。ありがとうございました。(相澤満弘)
地平線の皆様とお会いする機会に恵まれた自分はとことん運が良いなぁと感じています。最初は(会議後に野宿をされるなんてまさか思わなかったので)「皆さん何て荷物が大きい!」と驚きましたが、二度目には皆様の経歴を聞いて驚き、ひっくり返りそうになりました。あの夜以来、また頂いた「地平線から」を開くたび、自分の常識や価値観について深く考えさせられる毎日です。大学を出て就職し、社会に溶け込み、世間と波風立てずに一生を終えることを果たして幸せと呼べるのか、ますます分からなくなりました。
◆餃子をごちそうになりながら江本さんに「今持っている熱い気持ちだとか、自分なりの尺度を社会に出て働きだしてからもずっと持ち続けることこそ大切だが、それが難しい」というようなことを言われ、そんなはずないと思いたい反面きっとそうなのだろうと思う気持ちもありました。思ったことはただ「今という時間の大切さ」です。皆様の顔を思い出すたび、少なくともやりたくないことをし続けて人生を磨耗させるのだけは嫌だと思わされます。やりたいことをしている人の顔、言葉は普通の人のものとは違っていてとても不思議に感じました。人生に迷う大学5年目の春です。最後に、報告会に参加させていただいて本当にありがとうございました。(町田優子)
「地平線会議」に参加する前、「地平線会議に出られる! それも報告者として!」と心躍る反面、私達の活動はここで発表するには何か違うのではないか、もっとバイクで世界一周とか、野宿、秘境探検などの野性味溢れる、ダイナミックな活動でないといけないのでは、と心配していました。私達は実際にインドとパキスタン両国で語劇をやりましたが、毎回割とちゃんとした宿に宿泊していましたし、移動なんてバス借り切って、という所もあったし…、と。
◆しかしそれは私の大きな勘違いでした。聞きに来てくれた方々はみな、別にサバイバルな話なんて私達に求めてなくて、ただ語劇の海外公演ということに興味を持って聞いてくれているのが分かりました。それに私達も応えようとしていい報告ができたような気がします。それこそ印パでの語劇公演と同じ感じです。向こうでは観客からあまりに良すぎるといっていいくらいの反応が返ってきて、私達はそれに手応えを感じながら、バネにして頑張りました。
◆今回の報告会では私も発表者側のはずなのに、DVDや写真を見ていると思い出がひとつひとつ蘇り、物凄く懐かしかったり少し恥ずかしかったりで、あの頃は若かったなあ、とほんの2年前のことなのに感慨にふけっていました。会議に参加したことで報告する、という目的とは別に私達も自分達のこれまでの軌跡を改めて認識できました。ウルドゥー語劇団の最後の区切りとしては最高の機会に恵まれたと思います。ありがとうございました。(橋本恵)
地平線会議への参加のお話をいただいたとき、興味を持つとともに、不安を感じた。印・パよりもむしろ、自国である日本の関係者から理解を得る難しさを経験していたからだ。
◆しかし実際は熱心に耳を傾けてくださった。それぞれの方が、世界や日本全国を舞台に、斬新で、素敵なことに挑戦していた。私の中の世界が広がった気がした。
◆入学当時、初めて自分たちの代の語劇について耳にした。いつもの大学内での公演ではなく、なんと、インドで公演というではないか!これはやるしかない!全学年から志願者を募ってオーディションが行われた。湧き上がる感情の全てを込めて演じ、幸運にも希望した役に抜擢された。原爆孤児でガキ大将の5歳の少年の役である。
◆モデルとなった劇団のビデオを最初に観たとき、子供の役をやりたいと思った。広島に行ってから、その想いは強まった。語劇を通して核開発を批判するよりも、子供たちの愛らしさ、無邪気さ、日常のなかでの家族のささやかな幸せをめいっぱい演じることで、大切なものが奪われる悲痛さを、自分の家族や大切な人たちに重ねて感じて欲しかった。国でも政治でもなく、自分たち自身に重ねて。
◆どこまで共感してもらえたのかはわからないが、たくさんの涙を見た。熱心に話を聞きに来る人たちがいた。
◆振り返れば、ずっと語劇に関わってきた。夏休みも語劇1本だった。大学生活=語劇と言ってもいいほどだ。でも、やってよかったと思える。語劇は私を大きく変えてくれた。度胸がついたし、世界を身近にした。印・パの人々や学生たちと交流し、「皆同じだ!」こんな当たり前のことに気づかされて驚いた。「印・パに架け橋を架ける」。今回の語劇の目標。私の目標は「世界に架け橋を架ける」こと。そのヒントを見つけたような気がした。(境倫子)
正直に告白します。最初にこの地平線会議のお話を先生から聞いた時、「これから就活だっていうのに、いったいどこに時間があるっていうんだ!」って思いました。しかし、なぜだかどうも気になって仕方がない。日本の冒険者って何よ!? しかもHPに載っている麻田先生のあのイラストっ!! もう参加するしかないでしょ。参加するに決まってるじゃない! ということで、私、丸尾紫野21歳おうし座のAB型は、いつのまにか参加することになっていました。
◆とは言っても、人前で話すのって苦手なんです、実は。劇は決められた台詞があるから暗記すればいいけど。しかも私の役割は、インドの各地の公演状況。相手にわかりやすく、おもしろく、臨場感もって話さなきゃならない。「どーすんの!? どーすんの!?」とライ○カードのCMのオダ○リジョーのような心境のまま、迎えた本番当日…。実は、何を言ったのか覚えてないんです。緊張してて。皆さん、私は上手く発表できたんでしょうか…? とりあえず、ギョーザをむさぼるように食べながら皆さんとお話した時には、どうやら楽しんで頂けたようだ、と勝手に納得していました。まぁ、過ぎたことは気にしない。
◆参加して感じたのは、「世界も広いけど、日本も広かった」ってことです。野宿野郎の皆さんを始め、世界各地を旅している方々。南アジアを旅してきた私は他の人より視野は広いだろうと自負していましたが、私なんてまだまだでした。すみません。修行し直します。最後にこんな貴重な会に参加させて頂き、しかもおいしい中華までご馳走になり、本当にありがとうございました!!逞しくなって、またこの会に挑みたいです。(丸尾紫野)
「ham aam nahiN haiN(我々は普通じゃないの)」というのが、我が語劇団の座長である麻田先生の口癖。私もそう思う。だってそうでなければ、毎年のようにインド・パキスタンに行ってウルドゥー語劇をやろう、なんて誰が考えただろうか。しかし、そのおかげでこんな特別な経験が出来たのだから、自分が「普通」じゃなかったことに感謝している。私はパキスタンに留学していた経験もあるが、今回のような体験は、留学では得られないものだった。留学の場合、私達が教わる役。そして今回は、私達が現地で伝える役である。彼らにいろいろ教わった恩返しに、今度はこちらが何かを伝えることができたなら、これ以上に嬉しいことはない。
◆今回、地平線会議に呼んでいただき初めて、私達のこの体験談を語る機会を得た。とにかく、語っても語りつくせない思い出の山。発表用になんとか内容をまとめたけれど、何を入れて何を省こうか、本当に難しかった。そして、会議中にも互いの発表を聞きながら、「あー、こんなこともあったよね」と思い出に浸った。こうしてまとめ、発表してみて、この経験が自分の中で本当に大きい存在となっていることを、改めて実感した。そして嬉しかったのが、ここにも「普通じゃない(なんて言ったら怒られるかな?)」、素敵な人びとがたくさん集まっていたこと。この場でこの報告が出来たことを、誇りに思う。(村上明香)
追伸:(江本の質問に答えて) すみません、役割を書くのを忘れていました。私は今回、スタッフとして参加しました。字幕・スライド係りでした。劇の途中、ヒロシマの様子をスライド投影したり、日本語の歌の歌詞の英語字幕を投影しました。その他、もう一人の留学経験者(残念ながら、今回は会議に参加しませんでした)と一緒に、インド滞在中の語劇団の雑用も(笑)。飲み水の調達とか、ホテル・空港のチェックイン、現地人ドライバーとのやりとりとか、電話番とか。先生には「僕の秘書」と呼ばれていました。
由緒ある地平線会議での報告。聴衆の視線と呼吸が違う。冒険や探検を求める人たちの中にいるだけで、僕たちも何か冒険をしたきたような気分になった。真の文化交流をするために海外で芝居をしてきた、これも一種の冒険だったのか?
◆2005年、インドで11公演。06年、パキスタンで10公演。07年、再びインドで7公演。冷房装置のない大講堂から州立の立派なホールまで、会場はさまざま。ずぶの素人がよくやれたものだ。
◆目的はふたつ。ひとつは、僕たちのウルドゥー語がはたして現地のネイティブの人たちの耳と心を揺さぶることができるか否かを検証すること。もうひとつは、同時代を生きる彼らに日本人の顔を見せ、日本人のアイデンティティーとメンタリティーを提示すること。外国語と演劇とメッセージをどう融合させるか、それが課題。「ヒロシマ」は格好の題材で、結果、核保有国として対立する印パ両国に被爆国である日本の出来事を訴え、平和のメッセージを伝えることになった。
◆異文化の中で、文化交流のあり方を模索する旅だった。恥を知る世代に属す僕に言わせると、日本の若者は恥知らずで怖いものなしだ。これがいい。日本で恥知らずは通用しないが、外の世界では恥知らずでないとサバイバルできない。そんな彼らを、印パへ連れて行きたいと思った。
◆ウルドゥー語での熱情あふれる名演。その演技と声が、観客の心を打つ。終わったあとの拍手喝采。共感し合えた実感。ここまで来るのに、僕は印パと30年以上も付き合わなければならなかった。一朝一夕に出来ることではない。となると、僕も冒険者かな? なら、地平線会議での報告も納得がいく。(麻田豊)
朝まだき、山の端に陽が差し始めている。谷間のヒノキの幼樹に樹氷のように張り付いた霜は、まだ溶けない。山道を登って行くと、たれこめた靄の上に出る。山間をのたうつ竜のような靄の帯がみおろせ、いたる所に水蒸気が小さな渦を巻きながら山すそを這い登って来る。あの下に四万十川が流れている。川面をおおう朝霧は四万十川の名物で、うまい米と上質の茶を人々にもたらしてくれる。陽が差し始めた樹間に座り、焚き火で暖を取りながらノコの歯をとぎ、今日の枝打ちの仕事が始まる。
◆1998年の4月から、四万十川の中流域、十和村(現四万十町)に移り住み森林組合の山仕事と炭焼きの修行をした。わずかばかりの田んぼと畑も作り、川漁も習い自給自足的生活だった。そうしながらナイル源流のルワンダに毎年一ヶ月は通い現地で木を植える人たちの支援を続けた。いつかナイルを下る時のグランド整備のつもりだった。
◆四万十川は、その20年前(1978年)農大探検部1年生の時、夏の活動で、源頭の不入山(いらずやま)から太平洋まで、ラフトボートで下った。仲間たちは、その水のきれいさ、魚の多さ、人情の暖かさに感動していたが、当時この川は全国的にほとんど知られていない川であった。その後、日本で人気1の川になるとは思いもよらなかった。僕の育った高知県南西部の森川海は生き物が豊富で四万十川は普通の川だった。その後、日本中、世界中の川をカヌーやラフトボートで旅した。そこから垣間見た森林破壊(毎年、日本の面積の4割の森林が消えている。FAO報告)・砂漠化(毎年、四国と九州をあわせた面積600万haが砂漠化している。UNEP報告)のすさまじさに驚かされた。
◆1990年代は、NGO緑のサヘルに参加して、アフリカ、チャドでの砂漠化防止のための植林活動に心血を注いだ。世界一周河川行の第一段として始めたパンアフリカ河川行はナイル川上流の政情不安で中断したままだった。その間に、川の水源の森作りをやろうと思った。地球を遊ぶにもグランド整備ができていないでは、遊ぶに遊べないではないかと考えた。木を植えて遊ぼうと思った。
◆1992年、ブラジルで人類はやっと地球環境サミットを開いた。その時のキーワードは「持続可能な開発」と、「Think globally Act locally(地球規模で考えて、地域レベルで活動しよう)」であった。しかし、どう見ても、北側先進国の実情は「Eat globally Waste locally(地球を食いつぶしながら地域は廃棄物もつれ)」。世界65億人がそうなれば地球は8個要るといわれるほどだ。
◆日本は世界有数の森林国(国土の68%)でありながら、世界一の木材輸入国。世界での森林保全や開発援助をしても、自国での飽食生活の見直しをしなければ、自己矛盾に陥る。自国の森の管理も利用もできなくては片手落ちだ。こんなことをアフリカで現地の人と一緒に植林しながら考えていた。四万十川は、全長196km。高知県西南部を流れる四国で最長の河川。人の暮らしと山間の流れが調和した「日本最後の清流」として有名になったが、昔を知る人の間では、「かつての水の透明度も魚の量もこんなものではなかった」とか「四万十川は死んだ」という人までいるほど、汚れが目立ち始めている。特に昭和30年代からの拡大造林で植えたスギ、ヒノキの手入れ不足で、山からの土壌流出がひどい。
◆それでも、流域市町村では官民財学が協働して、この清流と共生できる生活圏作りを始めている。その動きが盛んに始められたのが1990年代半ば。ちょうど僕がいい川と森のあるところをベースにしたいと考えていた時期に重なる。「とうとう山にこもるか」とか「ついに田舎に引き上げるか」と言う友人もいたが、志は違っていた。たまたま母港にしたい適地が田舎の近くにあっただけのこと。
◆地球環境サミットを受けて、持続可能な森林経営のための国際緑のネットワークの日本における2つのモデルのうちの1つに四万十川流域森林計画区が選ばれている。それを選考した委員の何人かに知り合いがいて「四万十川に行け」とアドバイスされた。僕は山仕事の現状を知りたかったので、まず山仕事から四万十に入門した。山仕事は厳しく楽しかった。2001年からは(社)西土佐環境・文化センター四万十楽舎に誘われて副楽長専務理事として、地元の子供や観光客に森川の体験指導をしてきた。子供たちには、遊び心8割まじめさ2割がちょうどいいバランスと話し、大切なことは知り続けること、感じ尽くすこと、考え抜くこと、遣り通すこと、これが命を生きるために大切なことと伝えてきた。
◆知ることは楽しいこと、感じることは楽しいこと、考えることは楽しいこと、それを伝えることはもっと楽しいこと。今年3月26日から4月1日まで約20人の参加者で四万十ドラゴンランをやった。徒歩と自転車とカヌーの人力だけで四万十川全流を下った。河口で太平洋を見たときの参加者の感動はすばらしかった。このことは参加してくれた江本さんほかの報告にゆだねたい。今回は僕の地球体験のスタートラインだった四万十川の体感の感動を伝えられて本当に楽しかった。
◆21世紀は環境と情報の世紀といわれる。情報時代の3種の神器を考えた。パソコン、携帯電話はすぐに思いついた。もう1つ忘れてならないものがある。命のアンテナだ。心身の6感のアンテナが健康で敏感でなければ、ただの記号情報は危ない道具だ。四万十ドラゴンランの参加者全員の目の輝きは源流から河口にかけてどんどん増した。心身の命のアンテナを磨いてもらうことが今回の目的だった。それを最後の挨拶で伝えた。
◆四万十ドラゴンランの終わった2日後の4月3日、僕は49歳になった。森を育て川を楽しむこと、このたった2つが僕のライフワークだ。1985年初めてアフリカの大地を踏んで以来20年間、アフリカにいない年はなかった。述べ10年はアフリカで暮した。昨年、母の大病で20年ぶりにアフリカには行けなかった。人生折り返し点をやっと回ったところ、遊ぶネタは泉のように湧いてくる。まだまだ遊び足りない。さあ次は何して遊ぼうか。 (山田高司)
■人気モン「えも〜ん」こと 江本さま ドラゴンラン、お疲れさまでした。私は一昨日、徳島県の海陽町に走りついて、夜行普通列車「ムーンライトながら」で今朝、東京へ戻ってきたところです。途中、高松で香川大学の学生、梅ちゃんに会ってきました。覚えていますか、ほら、あのゴールの河口で泳いだ姉妹の妹です。香大の相棒のクエちゃんは所属ゼミが決定する日ということで残念ながら会えませんでしたが、キュートなメールをくれました。いやあ、最近、あの年頃の女の子たちがかわいくて仕方ない。私も年を取りました(笑+汗)…… あ、梅から、「江本さん、あのシチュー作りの夜(四万十町のキャンプ場)は眠たかったですぅ」とのこと。梅とクエに「おい、花嫁!」って包丁さばきをご指導されたこと、もちろん覚えていらっしゃいますよね?(いくぶんロレツは怪しげでしたが。)
◆楽しかったですねえ。江本さんに「くまさんにとって、この体験はいろんな旅の中でどんな位置付けになるの?」と聞かれましたが、その答えは、まずはこの一言です。いいイベントでした。連れ立って歩く→隊列を組んで自転車で走る→それぞれの力や体調に応じてカヌーを漕ぐ、という順番もよかった。
◆去年の暮れ、山田君から「こういうイベントをするんだけど、どこかの雑誌で紹介してもらえない?」という電話が来たとき、雑誌云々はそっちのけで、すぐに出てみたい、と思いました。ただ、仕事の関係で全行程の参加は無理そうだったので、「ボランティアスタッフ」という形にしてもらったしだいです(結局、月末にかかる仕事を首になって、初日遅刻だけで最後まで参加できましたが。嬉しいような、切ないような……)。
◆10年ほど前、高松で自転車と道を考えるシンポジウムがあり、パネラーとして呼ばれたついでに2週間のツーリングをしました。四国はそれ以来になります。そのときも四万十川を、時間をかけて走ったんですよ。須崎から新庄川をさかのぼって源流地帯に入り、今回とは違う支流の梼原川を下って大正で本流に出ました。江川崎では日本一周中に出会ったサイクリング仲間と7、8年ぶりの再会、また、当時ちょうど山田君が「緑のサヘル」を辞めて中村に戻ってきていたので訪ねていき、お姉さんのお宅に泊めていただきながらカヌーにも乗せてもらいました。四万十川の流れに沿って過ごした数日間、星だけが明かりの河原キャンプで、たった一人、カジカのきれいな声にふるえ、良心市で買ったミョウガとキュウリだけのおかずをこの世で最上の料理と感じた日々……いやあ、あれもまた、楽しかったものです。
◆が、今回は、別格の楽しさがありましたね。14歳の、ちょっと独走ぎみの少年から、71歳の、遠慮がちで、でも故郷の山河への熱い思いを持った元教師のおんちゃんまで、よくもまあ、あんなメンバーがそろったものですよね。それだけの幅のある人々を吸い寄せるほどの、夢のある企画を立てた、山田高司という人に、まずは感服しました。そして、年齢も考え方もアウトドア経験の程度も全然違う人たちが、「寒い」「つらい」「めんどくさい」なんて(ほとんど)言わずに、ハードな1週間を乗り切ったこと。美味しくごはんを食べ続けたこと。
◆「ああ、こういう人たちなら、どんな災害のときでも、一緒に乗り越えられるに違いない」と思ってしまいましたよ。大げさなようだけど、このイベントには「いい社会」を作るヒントまでも隠れていたような気がします。「楽しくて手ごたえのある夢(源流から河口まで、自力で下り通そう)を掲げる指揮者(=山田高司)」と、「指揮に従いながらも、自分の目と頭で先を見られるスタッフ陣」、そして「どんな状況においても、夢を遠望して、奮い立てる(負けず嫌いでアウトドア好きな)人びと」。いやあ、こんな船で漂流したいものです。
◆私は元々、集団の中で過ごすのが苦手。20年ほど前に「会社を辞めて自転車で日本一周」なんていうものをしたのも、じつはこのあたりに大きな原因があったような気がしているくらいです。「集団が苦手」の前提には、「集団」VS.「私」という対立関係があります。でも、ドラゴンランには、最初から出来上がった集団がなかった。「この集まりはみんなで作っている」と、誰もが実感できた場だったのではないでしょうか。参加者はもちろん、スタッフも、いい意味での「寄せ集め」だったとのことです。ただ、人選は確かですし、みんな熱い思いは共通していましたから、毎日毎日の行動を通して、その直後に行うミーティングで軌道修正をしていく、という作業工程は、本当に真剣勝負で、見事なものでした。私はミュージシャンたちの「ジャムセッション」みたいだと喩えてみたんですよ。
◆競走じゃないのもよかったですね。14歳のルンルンくんが、一番それを実感していたのではないでしょうか。彼はカヌーの初日、常に前へ前へと出て、一人旅をしていましたが、カヌー二日目の後半になって、「昼飯食べ過ぎた」と言ってペースを落としました。本当に体調が悪かったのかもしれませんが、私にはそれが「先へ急いでいく必要はないんだ」と納得した姿に見えてしまった……。ゴールイン後のパーティーでは、ルンルン、ほんとに力の抜けた、いい顔してたんですよ。
◆4月1日、昼に参加者たちを中村駅で見送ったその夜、私はスタッフたちの打ち上げに参加させてもらい、翌朝から自分の自転車旅行を始めました。でも、お遍路さんたちと行き合う道々、ペダルを踏みながら、ドラゴンランを反芻してしまうんです。楽しかったな、うん、面白かったよ、と。それはなぜだろうと考えて、イベント5泊目のキャンプ場で聞いた、大西秀次郎さん(スタッフ・愛媛大非常勤講師)の講座を思い出しました。あちこちでたくさんの支流を集める四万十川は、ほどほどの生活排水が流れ込んでも、上流から下流へとどんどん水量を増していくので、汚染がひどくなることはない。……そんな内容でよかったですか?◆1週間も同じメンバーと顔を合わせ続けながら、まったく飽きることなく、日を追うごとに一人ずつの顔がよく見えてきて好きになれたのは、四万十のそんな川の姿をいつも間近にできたおかげもあったのでしょう。「何考えているんだか、よくわからない」若モンの、思わぬ優しさや寛大さが見えたり、「元気・元気」なスタッフが、本当は人知れず泣きたい思いを克服してきていることを知ったり……。
◆1週間という旅の期間は、そんな人間関係の変化をじっくり受け止めるには、ちょうどいい長さでした。「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますが、真ん中の日くらいにみんなの洗濯物が混じってしまったのも、「同じ乾燥機でパンツを乾かした仲」になれてよかった。あれが最初の方だったら、みんなの反応も違っていたのではないでしょうか。それから、支流を集めるように、後半にいくにつれ新しい応援スタッフが増えていったのも、いい影響が出たと思います。
◆宿やキャンプ場の人たちのサポート態勢も絶妙でした。もちろん、山田君始め、関係スタッフの日ごろのお付き合いの賜物なのでしょうけれど。源流地域ではほんの短いものだった沈下橋が、いちばん下流にある佐田ではあんなに長くなったように、ドラゴンランに架けられた応援の橋が、どんどん延びていったように思えました。
◆それから、ちょっと照れますが、江本さんとこの旅をご一緒できたことにも感謝しております。江本さんも、私宛ての色紙に書いてくださいましたが、大学探検部や山岳部出身でなく、学術的な調査や人のためになるような旅をしてきたわけでもない私が、旅からの帰還先を求め、地平線会議にたどり着いて19年。これまでは、個人的な旅の思いを本に書くことでしか他者と分け合えませんでしたが、やっと、江本さん、いえ、えも〜んとは共有できる思い出を作れたわけです。すぐに忘れてかまいませんが、四万十川を見たら、ついでに私のことも思い出してもらえたら嬉しいです。(4月6日 ドラゴンラン・応援スタッフのくま、こと熊沢正子)
江本さん 四万十ドラゴンお疲れ様でした。とっても楽しい時間を過ごすことができました。あんなゆったりした時間が日本にも流れていることを知り、安心しました。体力的な部分ではもっと追い込んでやりたいところでしたが、十分に満足できた旅になりました。どこまでもどこまでも自然が続き、人工物が少ない。ありのままの地球の姿に魅せられ、惚れました。
◆あの光景を思い出すと、今でも心があたたかくなり、癒されます。今後辛い時なんかあの緑と清らかな水と山々を思い出すのだろうと思います。四万十、いや四国大好きです!また再訪するでしょう。(鈴木博子)
2004年の地平線会議300か月記念フォーラムで誕生した「品行方正楽団」。今年も年に一度の貴重な(?)演奏会を行います。題して、「竹早山荘カーニバル」。清里(山梨県北杜市)の広大な敷地内に立つ静かな宿泊施設の中で、賑やかなチャンプルー音楽をお届けします。
◆品行方正楽団は、地平線会議の仲間なら誰でも参加可能な音楽団。プロのケーナ演奏家の長岡竜介さんを中心に、今年も新たな楽団員が加わりました。今年のメンバーは、長岡竜介(ケーナ奏者・第122回報告者)、長岡典子(長岡夫人・ピアノ奏者)、大西夏奈子(外大モンゴル語科OG・和太鼓)、白根全(カーニバル評論家・第93回報告以来、報告会多数・パーカッション)、車谷健太(第325回報告会で応援演奏・津軽三味線演奏者)、張替鷹介(第145回報告者張替純二氏子息・バイオリン)、長野亮之介(第29回報告者・和太鼓)の7名です。
◆ケーナにピアノ、三味線、バイオリンに和太鼓、パーカッションって、どんな音楽なのか…目撃してみませんか? フォルクローレを始め、メンバー自薦の音楽をアンサンブルで演奏します。大黒柱の長岡夫妻の演奏時間もたっぷり。フォルクローレの豊富な知識と実践に裏打ちされた軽妙なおしゃべり。そして息子の祥太郎君(1歳)の絶妙な泣き声を交えた演奏(?)をお楽しみ下さい。天気が良ければ、昼間はバードウォッチング、春の花ウォッチング。夜は星見も楽しめます。(文責・長野亮之介)
日時:2007年5月19日(土曜日)午後3時頃から約2時間
場所:竹早山荘(山梨県北杜市高根町清里学校寮区)(清里駅から徒歩20分)
料金:6000円(一泊自炊、演奏会つき)
問い合わせ:
Air-Photographer の多胡です。桜の季節は過ぎ去り新緑の季節に向かう中、皆様いかがお過ごしでしょうか。近況報告とご案内です。京都に暮らしはじめ早一年が経とうとしてます。フライトエリアやトレーニングジム、そしてモーターパラグライダーのメンテナンスに使う念願のピットなど生活環境は整いました。京都のこの地で頑張っていくんだ、自分の家が好きだなと思える日々を迎えることができました。とはいえ、環境の中にも一つだけ何ともならないモノがあります。
◆それは毎月東京で行われる地平線会議と京都との距離です。物理的に隔てたのは自分でありますが、毎月毎月、あらゆる分野でご活躍される方の語りに生で触れることのできる環境はただただうらやましい。語りは自分の心に新しい風と挑戦する力を知らぬ間に吹き込んでくれる気がします。京都で暮らす僕らにとっては毎月送られてくる通信をどちらが先に読むかはかなり重要な案件となってます。東京近辺に暮らす人、うらやまし!
◆さて、話はさかのぼりますが昨年秋、日本の秋を空からとらえる試み「天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」を通信でアナウンスさせていただきました。今回は紅葉に引き続き、日本の春を空からとらえる挑戦を3月下旬より4月中旬に渡り行いました。「天空の旅人 桜を飛ぶ」(仮称)と銘うち、瀬戸内は「しまなみ海道」、奈良は「吉野」、滋賀は「琵琶湖」に咲く桜に表現空間を求めました。桜を飛んだ感想を少し話させて頂きますと、桜の撮影は難しく、そして桜の撮影に完成はないというのが第一に言えることです。
◆たとえば、刻々と登る太陽の高さに比例し変化する桜の色味だったり、山の裾野から山頂に向け約一月をかけて山桜が咲きあがっていく吉野ではどのタイミングが吉野の桜と言い切り撮りきるか。もたもたしていると一陣の風とともに散りさる潔さをも持ち合わせる桜。天気図をにらみ、地面の温度と気流の流れに神経をとがらせ桜空間に飛び込んでいく撮影の日々ではありましたが、無事に飛び終え放映も決まりました。NHK BS-hi 4月29日22時15分から45分間。NHK総合5月20日早朝3時(再放送)からとなります。難しい時間帯でありますが、ご覧になって頂けたら幸いです。桜が終わり、カナダに向けて準備準備準備、嬉!(4月16日 多胡光純)
江本さんへ☆彡いよいよ…というか旅人生22年目にしてようやく行きたかったチベットへと出発いたします♪江本さんが私の入院先に著書『能海寛 チベットに消えた旅人』(求龍堂)を持ってきてくださったのが2001年4月17日。今日は2007年4月17日。ちょうど6年。その間、強く思いつづけていたことがあります。
それは「死ぬかもしれない。だから命をかけて癌を直し、退院できたら必ずチベットへ行こう!」でした。 江本さんと、本の主人公である能海寛さんに生きる希望を与えられたのでした。 今回は海抜5200mの峠越えもあり「今の私にできるのかしら?」なんてちょっぴし不安ですが行けるところまでペダルを踏んでみたいと思っております。だってヒマラヤの景色をこの目で見たいんだも〜ん♪ルートはネパールとチベットとの国境コダリからラサ、中国雲南〜香港の約5000km。
旅に当たっては自転車仲間の安東浩正さん(『チベットの白き道』山と渓谷社)が情報やアドバイスをしてくださり、「これで飲茶でも」と現地通貨のお餞別までいただきました。胸が熱くなりました。出発は5月8日関西空港からです。で、翌日はラサです。そこで何を見、どんな旅になるのかは今はまったく想像がつきません。ただ、頭だけではなく、耳だけではない確かな手ごたえをつかんで半年後、日本に戻ってきたいと思っております。 実は…。荷物準備どころかまだ原稿書きに追われている毎日で、旅の心配をしている余裕などまったくありません。反対にいいのかもしれません。なんて…(笑)
旅先からは日記や写真をブログに更新してゆきます。http://www.yaesu-net.co.jp/emiko/ ではでは元気に行って参りますので、みなさん、ブログでお会いいたしましょう〜♪ 4月17日朝 エミコ&スティーブより(^_^)(^v^)/
昨日ラオスから戻りました。ラオスはベトナムとタイに挟まれた細長い国ですが、真中にメコン川が流れています。中国国境からカンボジア国境までカヌーと自転車で移動しました。その途中、メコンの支流の流域の村で得度式を見せてもらい、正月(インドシナの正月は4月)を迎えました。
◆ラオスはアジアの最貧国の一つ、人々はよく働きますが、時には思いきり酒を飲み、ばか騒ぎをします。穏やかでゆったりとした人々でした。今回の旅は三年前から始めた、初期日本人のやってきたルートをたどる新グレートジャーニーの南ルートの一部です。いい旅をしてきて体調はいいのですが、頭の中は少々熱帯ボケです。(4月16日 関野吉晴)
11日間だけだが、3月にマレーシア・ボルネオ島サラワク州の熱帯林を旅した。サラワク訪問は今回で20回目。1989年の初訪問から18年かかったことになる。今回の滞在は、最初の4日間の私用を除き、連れ合いの雅子と2歳の息子の航太が一緒だったという、親子初の海外旅行だった。
◆サラワクでは、他の用事が終わると、時間が許す限りK村に滞在することにしている。僕がK村に行くのは、今の日本ではなかなか見られなくなった真っ当な人間社会があるからだ。そこには、赤ん坊もいる、子どももいる、年寄りもいる、おじさん・おばさんもいる、障害者もいる。対して、福祉とかボランティアとか施しとかの概念はない。「ありがとう」という単語も存在しない。住むのはロングハウスと呼ばれる大きな長屋だ。この空間で、みなが空気のように当たり前に一緒に生きるだけで、人はこんなにも豊かに生きられることを僕は教えられた。
◆ところが今回、子どもにとってはハードな移動を強いてきたにもかかわらず(四駆での凸凹道路の移動で吐いたこともある)、村は、ほんの4家族がいるだけのモヌケの殻状態だった。例年より早く陸稲の収穫が終わってしまい、農閑期に入った人々は、街の肉親宅に、出稼ぎに、他村へと散っていたのだ。
◆それでも、みなで一緒に飯を食べ、村の子どもと遊び、年寄りには抱っこされ、航太はなかなか楽しそうだったが、5年前にここを訪れた連れ合いにすれば、あの賑わいを覚えているだけに寂しさを感じたようだ。しかし、これでサラワクは終わらない。なぜなら、街の中にも森があるからだ。
◆村に2泊した後、ミリという人口6〜7万人ほどの街に向かった。ここに、いつも居候させてもらうK村出身の銀行員のW一家がいる。Wが住む住宅街には、K村出身者が毎年のように家を求め、今では10家族近くが集まっている。仲間と一緒に暮らすために。Wの家には、隣近所の村出身者が我が家のように入っては床にゴロンと寝転がり(コメディアン「はにわ」のヒット曲「佐賀県」にも「家に帰ったら、隣のおばさんが下着姿で寝ていた」とあるがその世界だ)、年配の女性たちがトランプで賭け事に興じ、子どもたちはどこかに勝手に遊びにいき、夜になるとWが大量の缶ビールで村の出身者たちと真夜中まで飲み明かし、脇では煙草をふかしながら極めてマイペースでギターを弾く女性がいる。
◆そこには、航太を積極的に可愛がる人もいれば、微笑むだけの人もいる。航太はこの雰囲気になじんだ。Wは私たちに奥の部屋で寝ろと薦めてくれたが、航太は、そこで寝ようとせず、「コウちゃん、アッチのお部屋行くの」と、10人以上がワイワイガヤガヤ雑談する大部屋に行きたがった。そして実際、そのなかでスヤスヤと寝た。いつも誰かがそばにいるその安心感。
◆その光景に、初めてサラワクに来た頃を思い出す。僕は、当初、村ではオボンさんという女性の家で居候をしていた。徹底して優しい人だった。食事の誘いはもちろん、腰を痛めたとき、「横になって」と腰をもんでくれたり、日本に帰ると言ったら、お母さんと2人で数日がかりで農作業用の日笠を編んでプレゼントしてくれたりと、一介の日本人になぜここまでと思うほど優しかった。そして、その優しさは、たった一度きり、ほんの数日しか滞在しない外国人にも同様だった。
◆オボンさん夫妻、8人の子ども、親戚など、いつも10数人での雑魚寝に、僕はいつも安らぎを覚えて眠りに入った。だが、オボンさんの夫が教師だったため、他村への異動を機に会えなくなってしまったのだ。ところが今回、住宅地で15年ぶりにオボンさんに再会したのである。聞けば、3年前に夫が急死し、村人が多く住むこの住宅地に息子と共に暮らし始めたのだ。
◆村では、オボンさんは、村の子どもを誰彼となく抱っこしていた。今回も、オボンさんは航太を我が子のように抱っこし、あやし、おかゆをあげてくれた。航太もなんの抵抗もなくオボンさんに甘えていた。村の子どもは、こうやって、隣近所にも育てられる。オボンさんも8人の子を育てているが、森のなかでは子育ての苦労は存在しない。そういう社会は、大人にとっても幸せな社会だ。
◆みなが日常的に寄り添い、楽しみ、ゆったりと生きる。木がない街のなかでも森はある。村出身者は街のなかで森を作ったのだ。今回、雅子は、村よりも街での体験が心に沁みたようだ。また来よう。とはいえ、やはり11日間では、自分の用事と、幼子を連れての旅の両立は余裕がなさ過ぎた。次回はもう少しゆったりとした日程でと考えている。そして、2015年までには訪問30回を予定しています。サラワク。行きたい場所は無限にあります。(樫田秀樹)
■ご無沙汰をしております。3月23日の地平線会議に、初めて顔を出させていただいた、下関出身の西野旅峰(りょお)です。様々な方が様々な活動をされている環境に接し、あの東京行きは本当に良かったと思っています。僕の情熱が一段と熱を帯びました。
◆さて、これからの夢は自転車による世界一周です。少しずつ準備は進めていますが、これから僕が活動を展開していく上で、お金も経験も人脈もない僕にはどうしようもない場合が多々予想され、江本さんを始め地平線会議に関わるみなさんに頼ることがあると思います。その際、お時間がありますときに相談に乗ってください。そしてご助言を頂ければ本当に嬉しく思います。どうか今後ともよろしくお願いいたします。
◆現在、南米の旅の原稿をまとめつつ、旅Tシャツの販売を始め、短期アルバイトとスポンサー集めの準備をしております。世界一周の趣意書、及び計画書が出来上がり次第、江本さんにはお知らせをいたします。今のところ、今年の終わりに第一陣の出発を考えております。佐賀では葉桜になりかけています。東京の桜もそろそろ葉桜になっていることでしょうね。お身体、ご自愛下さい。またご連絡いたします。(4月10日 西野旅峰)
■1信:江本さん、先日は突然電話すみませんでした。結局「拓洋」(那覇市前島にある薬膳料理店)にはその日寄れませんでしたがだいたい場所わがかりましたので那覇に行くことがあったら必ず行ってみます!あのあと那覇の農連市場に行き久島弘さんと別れました。みんなが去った翌日から雨の天気になり昨日も今日も降ったりやんだりです。長野亮之介さんたちが滞在していた3日間は毎日火を炊いてバーベキューでしたよ!マグロのカマが好評でした!魚屋で捨てるところをただでもらって来たのです。おいしかったあ!
◆うちに泊まった淳子さん以外はテント持参で浜にキャンプ。みんなmy鉈やmy鋸を持参でひとりはヘルメットまで持ってきてました。牧場の周りの廃道の草刈りややぎの餌の草刈り、チェーンソーや鎌などの研ぎや目立てをしてもらいとっても助かりました。最終日は長野さん久島さんとカヤックで無人島に渡り楽しい一日を過ごしました。
◆ゴン(注:江本の友人。わんこ)は毎日散歩フレンドが交代々々遊んでくれてとっても嬉しそうでした!みんなから可愛がられゴンは幸せ者です。そしてもっと幸せ者なのは私です。はるばる東京から何人も草刈りに来てくれるなんてね!みんなまた来てくれるといいなと思います。江本さんもまた来てください!泊まるところは気にしないでね!(外間晴美 4月8日) ■2信:野犬にヤギが襲われてしまいました…。可愛がっていたヤギが死にそうで、やりきれない思いです。動物飼いには避けては通れないことなんでしょうが…。島のおじいたちは食べようと言うのですがとてもとても。
◆本島と橋で結ばれた後から、しばしば心無い人が犬を島に捨てに来るようになったそうです。犬は野犬化し群れになって、鶏やアヒルを襲うようになり、とうとううちのかわいいヤギ(もちろんペットではなくいずれは肉用として売る家畜ではあります)が襲われてしまいました!子ヤギではありません。体重約50キロのツノがある立派なオス山羊です。三匹組の野犬が3か月ぐらい前からアヒルを襲うようになり、役場に駆除を依頼していたのですが、のらりくらり、野犬対策のオリもかからず、とうとう可愛がっていたヤギが…。
◆牧場で草を食べていたとき襲われ必死でここまで逃げて来たのでしょう。真っ昼間の午後三時。私はそんなことも知らず家で島らっきょうをむいていたのでした。まさか真っ昼間に野犬が襲いに来るとは!ヤギは瀕死の重症ですが驚異的な生命力でなんとか生きてます。目に涙ためて時折悲しげな声で鳴きじっと痛みに耐えているようです。動物病院にあちこち電話したのですがヤギは診ないと言われ、なんとか抗生物質だけはもらって来ました。あとは生命力に期待するしかない。なんとか元気になってくれるといいのですが…。
◆野犬にはかわいそうだけど共存はもう無理。もともと人間が悪いんだけどね…。あの野犬は子犬の頃捨てられ、前はアマミチュー祠のところに住み着いていた犬で、地元のおじいがよく餌あげていたみたい。役場のオリにかかっても開けて逃がしてあげていたらしい。それが子供を産んで群れになってアヒルを襲うようになりヤギを襲ってしまった。みなさま、どうか旅先とかで野良犬にむやみに餌をあげないで。可愛がるなら責任もって飼うとか飼い主を探すとかして下さい。えさをもらえなくなった犬は自力で餌を探すしかない。海岸に打ち上げられた魚や残飯を漁るだけではすまなくなるのです。(4月10日 2時間後の追伸「ツノ、死にました」)。
■お元気ですか。日本にいたときに意識したことはありませんでしたが、4月日の金曜日はイースターでしたね。おかげさまで、ブラジルとしては大型連休になってまして、念願のリオデジャイネイロに行ってきました。
◆変な形の岩山、白い砂浜に青い海。ドラマで見ていたとおりでした。丘の上のキリストは、天気が悪く霧がかかっていたけど、それはそれで印象深かった。友だちは、すぐさま「海を見ながらビール」コースに突入しておりましたが、私は日焼け止めのムラがくっきり肌に残るほど(無念)、波と遊び倒しました。
◆リオの海はものすごく寒い。カンカン照りなのに、海は氷水のようだった。そして、こんなに世界的な観光地になっているコパカバーナも隣のイパネマも、すごい透明度。いい海です。イパネマのメインストリートなどは、青山か銀座かというような高級ブランドが並び、道行く人々も明らかにハイレベルで、こんなのもブラジルか!と驚きました。でもその同じ町に、増殖中の貧民街が山ほどあり、その中には軍隊が駐留していて、まるで内戦みたいに、ギャングと戦っている。そして毎日たくさんの人が殺しあってる。
◆リオの貧乏な人は、レシフェの貧乏な人より、顔がすさんでいるように見えました。リオの人は、レシフェの人より、ものすごく早く歩く。ゆっくりしてたら、絶対引ったくりにあうから。レシフェも、ブラジルの中では危険地域ですが、リオには負ける。なので、リオはキレイで、いい海で、おいしいレストランもあって、数日の観光にはいいけれど、長くいたら、しんどいだろうなと思った。何かに目をつぶらないと、精神的にキツイ町だと思った。
◆ちなみにコパカバーナのユースみたいな安ホステルで、一部屋に三段ベッドが4つもあるところに泊まったんですが、そのベッド一つが一泊1500円くらいでした。ねえ、結構お金かかる町ですよ。(4月13日 後田聡子)
「300日3000湯」という前人未到のスピード温泉浴を目指して06年11月1日、日本橋を出発した「サハラ冒険温泉食文化ライダー」賀曽利隆さん、4月8日、四国編を終え、いったん日本橋に戻った。関東編、甲信編、本州西部編(東京から下関まで)に次ぐ第4ステージでここまで129日がかりで1211湯と、目標の3分の1を達成した。20日から今度は九州編に挑む。間もなく還暦という男がともかくタイヘンな強行軍、それでも温泉を出ると「急速冷凍」状態だった12月、1月の信州に較べればうんとラクになった、とか。とにかく無事で!(E)
■1信:ご無沙汰です。今冬のマニトバ州のスキーとソリの旅ですが、未曾有の寒波で予定の半分の地点まで、踏破距離300kmで断念です。テント内で-45度Cまで下がり、その後は温度計が壊れて気温不明です。さらにテント入口のファスナーが壊れ、雪がバンバン吹き込む始末。おかげで顔面と足の指に酷い凍傷を患いました。鼻の一部は真っ黒に変色。踏破もインディアンの村滞在も、流れてしまいました。でも、何年ぶりかで全力を出して充実した旅でした。こんなマゾ的でエキサイティングな世界はそうそう体験できないでしょう。そんな旅もまたいいものです。(3月16日付)
■2信:まだカナダです。町にもどりウダウダしています。今回のカナダ、すごい旅だった、という表現は使いたくありません。もっと真摯に生きている人にとっては、ぜんぜんすごい旅ではありません(笑)。でも、凍傷で切断するか疲労凍死でもすれば、すごい旅だったとコメントしてもいいと思います。理想を貫くとはそういうことです。それはさておき、なんだかんだ楽しんでいました。とくに先日のアイス・フィッシング・フェスティバルは最高でした。
◆アイス・フィッシングというと、釣りをやらない人には寒いだけ、と思われがちです。が、意外にもこちらでは違いました。むしろ釣りなんて無関心の人が大多数。この魚はめったに釣れない珍種だの、何センチで大物だの、マニア的な会話はいっさい聞かれません。かわりに聞こえてくるのは陽気な歓声。朝から缶ビールを何本も空にしてワイワイ騒いでいます。まるで日本のお花見のような光景です。この日だけは少々ハメはずしても許される、そんな明るい雰囲気でした。それでいて悪酔いしたり酔って絡んだりする人はいません。こちらのアイス・フィッシング・フェスティバルは、大物釣りあげるよりも、楽しんだ者勝ちなのですね。
◆これまで白人カナダ人は大嫌いでした。保守的で理屈ばかりで建前でしか語らないのだから。でも、ひとたびアルコールが入ると底抜けに明るくなる。白人カナダ人のそんな愉快な一面に、遅ればせながら気づきました。飲んで食べての2日間は、あっという間に過ぎました。「来冬もまたおいでよ」の言葉で皆とわかれました。(3月21日付) ■3信:やっと帰国しました。さっそく地平線会議・野宿党主催のお花見に行ってきました。極寒カナダの冒険よりも、アイス・フィッシングよりも、桜の花のほうがいいですね。そのあとは一人で雪の富士山へ。山頂はあいかわらずの突風で、凍傷の治りがまた遅れそうです。でも、じっとしていると精神が病んでしまいそうです。
◆さて、来冬もまた再挑戦するか、と何度か訊かれました。まだ、わかりません。でもコンディションが良かったら、もうやらないでしょう。いっぽう、厳しい寒波がきたら、また行きたいですね。ふたたび途中断念でもかまいません。安易に結果を求めているわけではありません。大切なのは過程です。(4月12日付)
■こんにちは。サハリンに帰ってきて1週間が過ぎました。3月6日から休暇を取り、4月1日までの約4週間サハリンを離れていたのですが、日差しも春めいて、すっかり暖かくなっています。僕が働いている現場サイトも道路脇に残雪を残すのみとなりました。冬の到来と共にやってきたカラス達もほとんど見かけないようになりました。春の到来と共に姿を消すカラスにこの地に住んでいた人々はどんな想いを重ねていたのでしょうか。
◆サハリンを離れている間、僕はミクロネシアのサタワル島に行ってきました。それは昨年の3月にハワイ島で航海カヌー・マイス号建設をお手伝いをしたことで生まれた流れの中で実現した旅でした。僕はミクロネシアのチュークから取材用の船(チューク・クイーン)に乗せてもらい、途中亀の島を経由し、ホクレア号、マイス号と共にサタワル島を訪れました。今でもこのときの想いを上手く言葉にすることができないでいます。いつかこのときの想いや風景、そしてそこに至る経緯を自分の言葉でまとめることができたら、そのときは改めて報告させていただきます。
◆サハリンには5月末まで滞在する予定です。延長がなければ残り7回の週末です。できるだけ近郊の街を訪れ、そこにある風景を心のフィルムに残したいと思います。それでは、また。(4月8日 光菅修)
おかげで発送経費のことあまり心配しないで済むようになりました。今月までに新たに頂いた方々は以下の通りです。今回も10000円くださった方がいます。感謝。植村直己さんとも交流のあったすがはらさんからは、切手とともに以下のような毛筆の手紙も。ありがとうございました。
石田昭子/奥田啓司/香川澄雄/片岡恭子/金井重/光菅修/滝村英之/津川芳己/西嶋錬太朗
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
★いつも地平線通信を嬉しく拝読しています。継続は力!ですね。もちろん権力の話ではありませんが…(笑)。ファミリー的になってきたとの指摘。小生は素晴らしい事だと思っています。個性の集合としてのファミリーです。我が家も3人の子供が成長し、それぞれの道を歩いていますがその延長上のファミリーは、否定する必要はないと思います。それこそ自然体ではないでしょうか?小生もニューヨーク公演を無事に終えて来年はブラジル移民百周年コンサートをブラジルで開催することになりました。5万人の会場ですが元気で歌ってきます。アフリカに同行した勇太もミュージシャンとなりましたが、人生そのものが家族の気がします。この度、中国で生まれた「友よ」という曲をCDにしました。ぜひ聴いてください。(中略)きれいな切手、使ってください(すがはら やすのり 地球を舞台とする歌手 花鳥80円切手30枚とともに)
先月に続いて、壊れた国ハイチのカーニバル話である。へ〜、ワイキキ・ビーチとかでもカーニバルやってんの〜、という向きはここから先は読まなくていいかんね。それは、ハワイです。ハイチといえば、首都圏では自動的にドライカレーとコーヒーでお馴染みのチェーン店ということになるが、もちろん現地では誰も知らない。
◆さて、居候先の大富豪の大豪邸は、首都ポルトープリンスの中心街から車で30分ほど離れた閑静な丘の上の住宅街ペティオンビルに位置している。この界隈は高級ブティックやら高級ホテルやら高級レストランやらが点在し、高い塀に囲まれた大邸宅に超セレブ住民が暮らす超高級住宅街だ。「格差社会」などと騒いでいるうちがハナというぐらい、貧富の差は凄まじい。
◆不思議なことに、この国にはタクシーが存在しない。せいぜい、空港やホテルで客待ちしているリムジン数台ぐらいだろう。高級セレブは当然ながら自分の車だし、その他大多数の一般人民すなわち貧民は、車どころか靴も履いていない人までいるぐらいだ。需要は極めて限られているしガソリン代も高いので、流しのタクシーという商売自体が成立しない。「タプタプ」と呼ばれる極彩色の乗り合いバンが庶民の足で、荷台を改造したベンチに詰め込むだけ押し込んで行き来している。頭の上に籠や荷物を載せて歩いている人も多い。やはり、どこかアフリカを思わせる光景だ。
◆カーニバルもお祭りというよりは、アフリカの部族の戦争のような不穏な熱気が渦巻いている。鬱積した怒りと、この国が溜め込んできた苦しみからの解放を叫ぶような、荒々しい怨念だ。これこそが、最もカーニバルの祖形に近いものかもしれない。叛乱の渦は主催者発表で200万人超! 警備に当たる国連PKO部隊も、パレード会場周辺には近づかない。「リオよりすごいけど、これってカーニバルかね」と呆れ顔のブラジル軍兵士に話を聞いてみると、3ヶ月前までは大統領官邸周辺の通りですら、真っ昼間に歩けないほど危険だったという。カーニバルの間は、むしろ市民の安全が保障される「ガス抜き」の期間なのだ。後日確認したところ、3日間の犠牲者は死者3名(圧死1、心臓麻痺など2)、重軽傷者300名超とのこと。
◆ところで、カーニバルは毎年ずれる移動祝祭日だが、その日程がどのように決まるかご存知だろうか? キリスト教ローマン・カトリック派の祝祭にもかかわらず、カーニバルの日程は月の運行によって決定される。信者にとってクリスマスと並ぶビッグイベントの復活祭(イースター)は、春分の日の後にくる最初の満月直後の日曜日と定められている。復活祭から逆算して日曜日を除く40日前が「灰の水曜日」で、カーニバルは前週の土曜日から灰の水曜日までの4日間の無礼講が基本となる。
◆この40日間は「四旬節」と呼ばれ、この間カトリック教徒は肉断ちと禁酒・禁欲生活を守らなければならない。イエス・キリストの荒野での断食修行に因んでの行事だ。冠婚葬祭慶事などもご法度の斎戒期間で、その昔は禁を破って肉を隠れ食いしたり、酒を隠れ飲みしただけで死刑という時代もあった。カーニバルは辛く厳しい禁欲の日々が始まる前の数日間、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを満喫してしまおうというのがその原点。日本語で「謝肉祭」と訳したのは、肉を謝絶する祭り、つまり肉を食べないという意味からだ。
◆本来なら静かに過ごさなければならないこの期間、ハイチ特有の春祭り「ララ」が毎週末ハデに行なわれるという。ヴードゥー教起源の行事らしいが詳細は不明だ。近郊のオレガンという村が凄いという話で、さっそく出撃することにした。乗り合いバスで2時間弱、隣の席のハイチギャルにララの解説をしてもらう。私が縦横無尽に駆使する西アフリカ原産のなんちゃって・フランス語は、ハイチのフレンチ・クレオール語とは比較的相性がよいが、訛りがひどすぎてやはり意味不明解読不能だった。
◆ララのパレード初日、真っ暗闇のなかから怪しいリズムが響いてくる。ヴードゥーの寺院に集まった村人が、ヴァクシーンという単音の筒状パイプを吹き鳴らしながら、ブラスバンドとドラムの楽隊とともに行進を始める。どんどん盛り上がって、そのうちトランス状態で踊り狂う禍々しい世界になった。あまりに奥が深すぎて全体像がつかめないほど、ハイチの闇は濃くて暗い。
◆翌日、再攻略をたくらみながら居候先に戻ったら、超セレブなマダムから「夕方6時の国営テレビの特番にゲスト出演が決まってるからね」と言われた。何のことやらよくわからぬまま、数時間後にはテレビ局のスタジオに座らされていた。参加者はハイチ音楽を世界に知らしめた超有名バンド「タブー・コンボ」のメンバーや演出家、オーガナイザーなど全部で15人ほど。唯一の外国人ゲストである。打ち合わせもなしにいきなり本番スタートで、質問がふられたときは隣の席のおっさんが英語で通訳してくれるが、あとはフランス語のみ。激論を交わしているが話の展開がまったく理解できず、そのうち飽きて眠くなってきてしまった。ここで寝たらまずいよなあと、必死でがんばる。結局、2007年のカーニバルを振り返る3時間の特別番組だったと知ったのは番組終了後のことであった。(カーニバル評論家ZZZ-全)
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『南極レター』No.10(注:No.8、No.9も届いていますが、最新のものを掲載させてもらいます) 2007/04/10
みなさん、ご無沙汰しています。今日は、ルート工作の話と、釣りの話をしたいと思います。3月下旬から「ルート工作」を開始しました。「ルート工作」とは、海氷上に道を作る作業です。昭和基地は東オングル島という島にあるので、南極大陸や他の島に観測などで出かける際には海氷を通って行かなくてはなりません。目的地までの道を作る作業、それが「ルート工作」です。昭和基地近辺の海氷がずっと凍ったままならいいのですが、年によって氷が流れてすっかり海(水開き)になってしまったり、海の弱い部分(クレバスやパドル)の場所が変わるので、安全な道を毎年作り直します。3月の末にルート工作を開始して、これまでの半月の間に東オングル島の周りにいくつかルートを作りました。
◆今回の越冬では、私はどうしても野外活動においては指導的役割というか、越冬経験者、野外経験者として初めて南極へ来た人たちを教え導いていく立場にあります。ルート工作に関しても、自分が担当する地圏部門として作らなければならないルートもあれば、他部門の観測の目的で作らねばならないものもありますが、今回の越冬では最初のうちは自分の部門に関わるもの以外もほとんど付き合って野外へ出ていたので、それなりに大変でした。最近ようやく人が育ってきて、毎回行かなくとも済むようになってきたので、少しほっとしています。
◆それでも、何かとあてにされてはいるので、海氷行動が可能になって以来、断然野外に出る機会が増えました。今後、自分の部門の観測も含め、ルート工作、それに続く本観測と、野外活動が続きます。同時に季節は冬に向かっているので日も短くなるし、気象条件的には厳しくなっていきます。
◆最近は気温が-20℃を下回ることもあり、風がほとんど吹いていなくても丸1日外で作業をしていると、体の底から冷え切ってしまいます。人間の限界、機械(車両)の限界を考えながら、常に適切な判断が求められます。今回の越冬では、夏期間から野外パーティのリーダーとして行動することが多く、始めの頃は「リーダー」という立場に悩みもしましたが、最近ようやく少しは分かってきました。人の命、隊(パーティ)の安全を預かるというのは大変なことです。が、リスクに応じて慎重になるので、自分の感覚をないがしろにさえしなければ、適切な判断が下せると信じています。
◆我が隊にも行け行けGOGOの人もいます。どちらかというと私が一番怖がりで、慎重派です。行動派にとっては歯がゆい存在かもしれませんが、いろんな可能性を想像すると、決して無理してはいけない場面がこれまでにもありました。そういう時に、どうやって行動をやめさせるか、非常に苦労したこともあります。
◆誰かが無理をして事故を起こせば、ここでは個人の問題ではなく、隊全体の問題になります。いえ、きっとそれだけでは済みません。そのあたりを想像できる人、できない人がいますが、想像できる人間が言う必要のある時にどれだけちゃんと物を言えるか、そこが問題です。ここでは年齢は関係ありません。関係あるとすれば私はほとんど何も言えない。けれども、放っておくと命に関わる局面もあるだけに、年齢を理由に口をつぐんではいられないのです。
◆気になった時に、その場で口にする。相手が誰であろうとちゃんと議論をする。必要であれば隊全体の問題として提起し、全員で議論をする流れを作る。そういうことを面倒くさがらずに一つ一つ行っていく必要があります。実際、前回の全体会議ではあることについて隊全体で議論しました。まあ、年齢は関係ないとは言え、年齢や立場的に私が言い出さない方がいいようなこともありますので、そういう時は中間管理職的な身近な賛同者がうまく立ち回ってくれます。いずれにせよ、一つ一つの小さな問題をうやむやにしないということは、(どこでもそうだと思いますが南極でも)非常に大切なことです。
◆さて、海氷に出られるようになり、「漁協」係の活動も活発になっています。平日は観測のためのルート工作、休日は釣りのためのルート工作や仕掛けのチェックと、結局平日も休日もスノーモービルを使って野外に出ています。今年の3月は天気が悪く、月平均気温は-7.7℃でワースト5、日照時間は72.4時間でワースト6でした。4月に入るとしばらく安定した天気が続き、先週末までは風も弱い穏やかな日が続いていました。昨日(9日)から久しぶりにブリザードが来襲し、今は平均風速30m/s強、最大風速約40m/sの風が吹き荒れています。外出禁止令が出ているので気象隊員以外は皆おとなしく管理棟にいます。
◆週末までは天候が穏やかだったおかげで、先週末は非常に充実した楽しい週末になりました。土曜日はスポーツ大会で海氷グランドにてソフトボール大会を行い、一昨日の日曜日は朝から晩まで釣り三昧でした。私は漁協係です。東オングル島と南極大陸のちょうど中間地点あたりに、水深が660mに達する場所があります。ここで過去にライギョダマシという全長1.8mにもなる魚が釣り上げられています。
◆我が48次隊でも大物を狙っていて、海氷に出られるようになって早々、水深660m地点までのルート工作を行い、仕掛けを仕掛けてきました。もう2度、チェックに行きましたが、今のところボウズです。海氷に穴を開けて仕掛けを下ろし、ラインをアイスアンカーに固定して3日後くらいにチェックに行くというやり方で今のところやっていますが、3日で海氷が20cmは完璧に凍ってしまいます。
◆ラインを切らないように再び海氷に穴を開けるのが大変なので、ラインを切る心配をせずに海氷に穴を開けられるよう、「ラインプロテクター1号」を考案しました。要は、ラインを保護するための木の保護具です。私は木工係でもあるので、設計図を考えて、絵に描いて、建築の隊員にアイデアを話して、建築隊員の知恵と技も借りながら作りました。こういうことも、とっても面白いんですよね。どうせ改良するだろうから「1号」なのです。2号、3号と作っていきたいわけです。
◆欲しいものは自分で作るしかないし、そういうときにはなぜか材料が揃って作れてしまうのが、南極で遊ぶ醍醐味でもあります。大物としてはライギョダマシを狙っていますが、それとは別に“食べる”目的でショウワギスという魚も釣ります。日曜日は午前中、ライギョダマシの仕掛けを見に行って、午後は別の場所でショウワギスを釣りました。午後の釣りには20人が参加しました。気温は-17℃くらいまで下がっていましたので、2時間も海氷上で釣り糸を垂れるというのもなかなか気合がいりました。が、みんながんばっていました。結局20名で37匹。大して釣れませんでしたが、昨夜の食卓の一品にはなりました。
◆私はなんと!たまたまですが、一番大きいのを釣り上げて、「大物賞」をいただきました。ラッキーでした。19cmでした。南極で遊び始めるとキリがありません。平日と休日の区別があって本当によかったと、私なんかは真剣に思います。(永島さん手作りの「大漁旗」を囲んだ釣り大会の参加者、釣り上げたショウワギスの写真が添付されていて)はい、少々調子にのったレターになってしまいました。またしばらく先になるかと思いますが、書きますので楽しみにしていてください。(4月10日 永島祥子)
3月の報告会、ウルドゥー語で「はだしのゲン」を演じた学生たち、なんて、なかなか想像できなかったので、一体どんな報告になるのか?と実は恐る恐る…の感じでした。そもそも「はだしのゲン」をきちんと読み通してないから途中でわからなくなっても仕方ないか、という気持ちでした。
◆そしたら、来れなかった人に申し訳ないぐらい、おもしろく、内容に溢れたものでした。学生たちがここまでやったのか、と私はほれぼれ聞き入ってしまい、20才を少し上回る程度の若者がインド、パキスタンの人々にあれだけの発信ができたことに感動しました。そういう気持ちをこめて今号の報告会レポートを拡大しました。学生の皆さん、麻田先生、ありがとう。皆さんの仕事はしっかり記録されましたよ。
◆私からしたらクレイジーとしか見えない「300日3000湯」の賀曽利隆、うーん、すっごい。人間は何のために温泉に入るのだろうか、と考えつつ彼のパワーに圧倒されます。命がけの温泉めぐり、というと言いすぎかもしれないが、お湯に漬かりながらもケータイ電話を使って地図制作会社が企画したウエブに発信している。終了は11月2日の予定。12月には南米縦断、来年はアフリカ縦断計画が進んでいるというから底知れない行動力です。あのまま見習う必要はないが、強烈なスパイスにはしたい。
◆5月の報告会は25日の金曜日。6月は29日のやはり金曜日の予定です。報告者になってほしい人が沢山います。楽しみにしてください。(江本嘉伸)
本能のプラグ
「子供は、昔も今も全然変わっていませんね。条件や環境が違うだけ。原始的な、生きるエネルギーは必ず持っています。ちょっときっかけを作ってあげれば本能はよみがえる。大人も同じだけど、本能のプラグに点火するまで時間がかかりますね」というのは、『ホールアース自然学校』代表の広瀬敏通さん(56)。 '71年に大学を中退してインドへ旅立ちました。20代のほとんどをアジアで過ごし、後半はJICAの専門家に抜擢されて活躍します。帰国後、自給自足の暮らしを目指して富士山麓に移住。'82年から日本最初の自然学校を立ちあげ、今に至ります。自然の発するメッセージを「自然語」と表現。自然学校の目的は、自然語を話すようになることと位置づけ、様々なプログラムを提供しています。 「人生で一番影響を受けたのは、マハトマ・ガンジー」という広瀬さん。「自然学校は一種の運動体だけど、状況や参加者次第で自由に変わっていくもの」とも。今月は広瀬さんをお招きし、旅への思いや、昨秋第2回エコツーリズム大賞を受賞したホールアースの活動について話して頂きます。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が100円かかります)
地平線通信329/2007年4月18日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/編集制作スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 関根皓博 藤原和枝 落合大祐/
イラスト:長野亮之介/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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