都知事選にからんで最近議論となっている東京オリンピック招致計画。私自身は今更やる必要はないと思うが、実は一方で東京オリンピックの恩恵を受けている。ただし昔の話。1963(昭和38)年当時、新聞社が翌年のオリンピックに備えて採用の枠を広げたのだ。私が受けた新聞社は通常なら30名ほどだった採用を50名あまりに増やした。ヘタなロシア語が助けてくれたか、補欠ながらも駆け出し記者になれた。
◆その年1964年秋のオリンピックの現場に地方勤務の新人記者の中から東京に派遣された3名の中に私も入っていた。横浜育ちの割には根っからの田舎っぺの一面があり、壮大な建築物への許容量が小さい。なので、代々木や駒沢の競技施設の立派さにびっくりした。都心の空をコンクリートでふさいでしまった高速道路なるものも初めて目にした。道路が空をふさぐのである。こんなことがあるのか、とただ呆然とした。新幹線も走り出していたが、乗るのはだいぶ後になってからだ。
◆オリンピックではレスリングを担当させられた。結果的に日本が5つの金メダルを取った花形種目だったが、要するにスラブの国々が強くロシア語が役に立つと思われたからだ。よく覚えているのは毎朝の計量風景である。1グラムでも選手たちは減らそうと素っ裸で計量器に乗る。体重オーバーの選手は厚着をしてグラウンドで走り汗をしぼる。強烈だったのは世界各国のアスリートたちが放つ強烈な体臭だった。会場のマットからは汗が飛び散り、格闘技の凄さを垣間見た。スポーツは美しくなんかない、と理解した東京オリンピック。多分、体操とか女子バレーとか当時の人気種目も実際の現場は似たようなものだったのではないか。
◆1か月あまりの五輪取材を終えて本来の仕事場に戻ると、少しほっとした。駆け出し記者の任地は上州赤城山の麓、坂東太郎(利根川のこと)の両側に桑畑が広がり、赤城の中腹にある種畜場には牛たちがのんびり草を食んでいた。朝6時から自転車で交番や駐在所まわりをし、深夜零時まで警察署に待機する日々。夕刊早版から朝刊遅版までが守備時間なのでプライベート時間は一切なかったが、23才の若僧には十分な勉強の場でもあった。
◆とりわけ養蚕にからむ全てのことがおもしろかった。最近富岡製糸場が世界遺産への登録が話題になったが、上州は蚕の国である。製糸、織物産業が蚕とともに育った。感覚は田舎っぺだが、脳はすっかり都会派になっている私には、蚕をめぐる産業の全体像がなかなか捉えられない。サツ回りの後「群馬経済」などというのを担当することになった時は焦った。週1度は見開きで群馬版に「経済特集」という大きな記事を書かなければならず養蚕はその大事な根幹のテーマなのである。
◆前橋の目抜き通りに「煥乎堂」という有名な本屋(新宿の紀伊国屋みたいなもの)がある。地元の歴史や文化を伝える数々の本が刊行、販売されているこの書店で大慌てで本を探しにわか知識を詰め込んだりした。座繰り機とか撚糸業とか大雑把ながら養蚕をめぐる言葉を必死で学び、特集記事を書いたのである。現場で実際に仕事をしている人たちや上州の歴史に詳しい郷土史家が読めば、さぞや底の浅い内容であったと思う。だが、専門外だから書けない、とは口が裂けても言えない世界なのである。振り返って、しみじみ青春の恥の日々であった。
◆本屋の「煥乎堂」の並び、バス停の前にいま思えば、小さな店があった。看板は「矢島」。父に代わって看板を守っていたその店のあるじ、仲子さんに出会うのはそれから20年あまりもたってからである。上州の人々のほとんどが忘れかけている矢島保治郎のことを東京オリンピック当時の私はまったく知らなかった。前橋に赴任する1年前、1963年に矢島は世を去っているが、せめて3年5か月上州にいる間に気づくべきだった、と後で猛省した。矢島保治郎を知る多くの人たちがまだ健在だったから。
◆人生には誰にも「必然の出会い」というものがある。その出会いをいつ果たすかは、個々人の日頃の姿勢にあるように思う。おや?と思った時にすぐ動くフットワーク、先方に失礼と思われない程度の積極性、そして多分おもしろい本や資料を発見する能力、その資料を読みこなすインプットの習慣がそうした出会いを引き寄せるような気がする。矢島保治郎に限らない。私がテーマとしているチベットと日本について言えば、1945年に亡くなった河口慧海師はムリとしても多田等観師(1967年まで健在だった)とも電話で話したことがあるだけだ。
◆ただ地平線会議を続けながら、すでにいろいろな出会いを得ていることに驚くことが最近は多い。陳腐な表現だが、地平線のおかげでまさに「日々新たなり」なのだ。これは新聞社にいた時以上かもしれない。許されるなら150才ぐらいまで生きて、「その先の地平線」を見たい気もする。皆が困るかな、そんなの。(江本嘉伸)
日本人が初めてチベット・ラサの地ををふんで百年目の2001年12月、地平線会議代表世話人・江本嘉伸さんを中心に「日本人チベット行百年記念フォーラム」が催された。明治から昭和にかけてチベットを目指して旅立った10人の日本人。ある者は仏教の経典を求めて、またある者は軍部の密使として、それぞれが命を賭けての過酷な冒険行であった。鹿児島と盛岡で健在の野元甚蔵さん、西川一三さんのおふたりがゲストとして元気な顔を見せてくれた。
◆今回の報告会はその十人のひとり、矢島保治郎・ノブラー夫妻とその時代にスポットをあて、特別ゲストを招いて江本さんが進行するという形で進められた。ただしゲストが誰かは、報告会が始まっても知らされず、どういう展開の報告となるのか?といつもの報告会とはひと味違う空気が漂っていた。
◆この日の画像を準備した落合大祐さんの開会の挨拶に次いでまず『チベット2002』というドキュメンタリー(岩佐寿弥編)のビデオの冒頭の部分がゆっくりと流された。あの范文雀さんの静かなナレーションがチベット世界へと誘ってくれる。遊牧の風景、農村の女たち、コワ(皮舟)、森の暮らし…。モノクロで紹介された写真はすべて江本さん撮影のものだ。
◆そして進行役の江本さんが立ち上がり本題に。スライドで十人を足早に紹介した後、江本さんは矢島保治郎の生い立ちを説明し始めた。1882(明治15)年、群馬の旧家に生まれた保治郎は、生家の生業が蚕の座繰り機の枠の製造販売を手広く手がけていたため比較的裕福に育った。また、機織り機での南洋貿易や親戚にアメリカで商売をしているものもあり、その目が海外に向いていく下地があったようだ。
◆座繰り機の「枠」とは何か、を説明する段になって、「実はきょうはその枠のことも知る特別ゲストに来てもらっています」と江本さん。会場の目が一斉に注がれる中、立ち上がったのは小柄な初老の女性、矢島保治郎の娘、仲子さんだった。驚いた人も多かったと思う。わけあってこれまでほとんどこういう場には登場しなかったひとです、と江本さんは説明した。そして「どうして今回矢島保治郎という旅人とその家族をテーマにしたか」種明かしをした。「実は仲子さんが意を決してチベットに行って来たのです」。
◆仲子さんは長髪で変人扱いされることが多かった父への反発もあって、チベットにあまり関心を持たずに若い時代を過ごした。しかし、長ずるにつれ父が暮らしたチベット、そしてノブラーという女性への深い関心と親愛の情が深まっていったという。ついに昨年8月、知人と共に父が6年あまりを暮らしたチベットに旅立った。ラサ、シガツェと巡った仲子さんのチベット体験こそがきょうの報告会のきっかけとなったのだ。
◆矢島の青春は日露戦争の時代と重なる。もともと渡米を希望して英語の勉強を始めていたが日露開戦の1年前、下士官候補生を志願、日露開戦と同時に上等兵として各地での戦闘に参加した。しかし世界を股にかけてみたいという思いは強く、ある日髪を伸ばし始め自ら変人を装い、強引に除隊した。目的は「世界無銭旅行」。10人の中でただひとり、仏教僧でもなく、特別な任務や後ろ盾があるわけでもない矢島が、四川省からの困難なルートを突破して2度もラサ入りし(2度目はインド・カリンポンから)、ダライ・ラマ13世の信任を受けて6年間もラサに滞在し、チベット人の娘と結婚して子ども(意志信)をもうけた。明治のヒッピー野郎はどこから見てもまさしく「地平線的」な人物なのである。
◆ラサの豪商の家に逗留していた矢島はある日、方眼紙を見つけ、それを使ってラサの市内図をつくった。それがダライ・ラマ13世の目にとまり、軍の兵舎の設計を頼まれた。当時チベットは清朝軍の侵攻に備えて軍隊の強化を図ろうとしており、日露戦争で大国ロシアに勝った日本の実力は注目されていた。偶然のようにチベットに入り込んだ“日露戦争の英雄”矢島保治郎の存在は、チベットにとって大きかったのだ。
◆1916(大正5)年、チベット軍の近代化を図る目的で英、露、日の3つの軍隊方式を競い合わせる試みが行われた。日本式の指揮は矢島がとった。日本式が1番だった、と後に矢島は書き残している。ラサでの矢島保治郎を何かと支援した実力者に当時チベット軍の指揮官だったツァロンがいる。その子息が矢島について書いた貴重な文章がここで仲子さんに渡された。チベット関係の数々の本の翻訳で知られる三浦順子さんが訳して会場に持ってきてくれたのだ。以下、江本さんが読み上げた内容。
◆「そのころチベット政府はたまたまラサに立ち寄った日本人の退役将校、矢島保治郎に、新兵たちに近代的な軍事訓練をほどこして欲しいと依頼した。矢島は同意し、またノルブリンカに日本式の兵舎を設計する手伝いもした。また1部隊をゆだねられ、日本軍式の訓練をほどこすことになった。モンゴル人兵士テンペイ・ギェンツェンが別の1部隊にロシア軍式訓練をほどこし、3番目の部隊は英国式の小銃射撃術を学んだ。
★軍事教練の仕事がなくなったあとも、彼はすぐに日本に戻ることなく、さらに5年ラサにとどまった。当時の彼の仕事は兵士たちに教練を行うことと、水泳のレッスンを行うことだった。父の話によると、矢島は風変わりな人物だった。彼はチベット人官吏のように装うことを望み、彼らと同じ髪の結い方をし、髷に赤いリボンを編みこみたがった。
★だが、この赤いリボンはチベット人の官吏にだけに許された特権なのだと言われて、ならば赤いリボンの替わりに黄色いリボンをつけるのではどうかと父に尋ねてきた。父はそれなら問題はないだろうと答え、それ以降、彼は長く伸ばした髪に黄色いリボンをつけて、髷に結いはじめた。(矢島保治郎の保護者役だったチベット人高官ツァロンの息子があらわしたツァロンの伝記より)」
◆矢島保治郎のラサでの日々については資料が少なく、これは貴重な証言だった。服装にこだわる矢島の気性もリアルにうかがえたのが、この日の報告会のすごいところだ。仲子さんも感動したようだった。江本さんによれば、矢島がダライ・ラマに取り立てられたのは大谷光瑞に派遣されてラサにいた多田等観の進言が大きかったという。当時、チベットにいた日本人は矢島だけではなかった。1915(大正4)年の正月は矢島保治郎、多田等観、青木文教、河口慧海の4人がラサで新年会を開いたとされている。映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」よりも25年も前にこんなことが行われていたなんて!! 目からうろこ…である。
◆1919(大正8)年、矢島と妻ノブラー、意志信(チベット語のイシノルブ=宝=ダライ・ラマの意/因みに江本嘉伸さんはヨシノブという発音がチベットでは受けるそう)とともに帰国の途につくが、室蘭港で全荷物を盗まれ、無一文で郷里の群馬に戻ることとなる。華やかなラサでの暮らしとはうって変わって日本では厳しい生活を強いられた。長髪にイヤリング、外国人の妻、郷里の人々からは憧れに似た思いもあっただろうが奇人として扱われてしまった。
◆また、ラサでは貴族の娘として何不自由なく育ったノブラーにとっても日本での生活は辛いものだったようで、帰国を切に望みながらも果たされずに29歳の若さで病死してしまった。映し出された当時の新聞記事の「秘密國西藏の王様の娘ノブラー遂に死去す」という見出しからもチベットが遥かなる国だったことが窺い知れる。
◆その後、再婚した矢島は1933(昭和8)年、本日のゲストである、仲子さんという娘を持つことになる。意志信は母の祖国チベットを一度も見ることなく1943(昭和18)年に日本軍の兵士として戦死してしまったが、仲子さんは昨年夏、自らの足で父やノブラーが歩いたであろうラサの街に立った。世間でいう「風変わり」な父を持った仲子さんは「チベット」という単語には複雑な想いを抱いてきたそうだ。しかし、いざラサの街に立ってみると行き交うチベット人はもしかしてノブラーさんの親戚かもしれないと、他人の気がしなかったそうである。高度障害の苦労もあり、73才の仲子さんにとって大きな大きな冒険だったがその価値は十分あった。
◆矢島保治郎の時代から90年余り、報告会の後半では2006年のラサの風景を横内宏美さん、長田幸康さんが今のチベットの姿を写真とともに紹介した。夜間、鮮やかにライトアップされるポタラ宮。モノクロの世界から一気に強烈なカラーの世界へ。青藏鉄道が開通し、誰もが携帯を持ち、ファーストフード店は賑わい、街は中国人好みに変わってきているが、チベット人の心の礎は90年前と変わらないように思う(願う?)。
◆最後に1枚のモノクロ写真が映し出された。下半分が、フィルムに光がはいってしまったかのように白くなっていて、雪の中で夫婦者が二人の子供とうつっている。男は矢島である。妻「ノブラー」が抱いているのが、一歳を迎える頃の意志信だろうが、もうひとり矢島の隣に立っている女の子がいる。
◆ひょっとすると、2人の間には、もう1人別な家族がいたのではなかったか、と江本さんは推測し、以下の手紙を読み上げた。矢島がノブラーを連れて帰国したのち、次のような手紙がチベットから届くのである。おそらく多田等観が帰国する際、託されたと思われるこの手紙は江本さんの著書『西蔵漂泊』の中で発表されている。
★「知と愛に溢れた私の娘ツァムチュへ。最近おまえとおまえのご主人は、お元気と思い、喜んでいます。こちらでは、私と家内、おまえの娘、ラティとも皆元気にやっています。おまえがどこにいるのかわからないのでこれまで手紙を送ることができませんでした。そちらからも何の便りもくれませんでした。(中略)おまえは自分のご主人を尊敬し、愛する気持ちを強め、皆から羨やまれるようになるべきです。
★指揮官さんはツァムチュには悪いことをしない筈です。この娘は自分の国を捨て、とても遠い所を指揮官さんを愛し、指揮官さんのためを思って遠い国へ行かねばならなかった。もう、そちらでは彼女は頼れるのはあなたしかいないのです。彼女を愛と優しい心で面倒見てやってほしい、とお願いします。ここではラティは困らないよう、兄弟、親戚の人々がよく面倒をみているので、ご心配ないように。そして皆さん元気に自分の健康を守って下さい。そしてこちらにも元気なお便りを送って下さい。イシェガより 水の犬の年十月二日」
◆ノブラーという名はここに出てこない。しかし、文面から察して、矢島と結婚して日本に来た女性にあてた手紙であることは間違いない。「ツァムチュ」が、矢島保治郎の妻だったチベット女性の本名なのだろう、と江本さんは語った。仲子さんの目から涙が溢れている。チベットに思い切って出かけたのもノブラーのことを思ってのことだった、と語る。「行って本当に良かったと思いました」と仰るすがすがしいお顔の向こうにチベットの青い空が見えていた。(田中明美)
報告会に参加させて頂いてほんとうに良かったです。今まで私にとってはどこか重荷だったチベットと日本の二つの家族のことも江本さんが上手に伝えてくださいました。私にとって日本に父保治郎とやって来てあれほど故郷に帰りたい、と言いながら果たせなかったノブラーさんのことは片時も忘れることのできない終生のテーマです。その心情を思うと、ほんとうにお気の毒で家族としても辛いものがあります。私が昨年夏チベットに行ったのは、何よりもノブラーさんのご供養の気持からだったのです。
◆デプン大僧院でだったか、私が急な階段で転びそうになった時、ひとりの女性が手を差し伸べて助けてくれました。お礼を申し上げたら、なんと日本語で「どういたしまして」と言われるのです。多分台湾からの観光客だったかもしれません、とにかくその若くてきれいな女性にラサのお寺で親切にされたことがノブラーさんと重なり、思いがけずいい思い出になりました。
◆地平線会議の皆さんにお会いできたことも、大きな喜びでした。江本さんがこの活動を大切にされてきたことの意味がよくわかりました。2次会も参加させてくださり皆さんとお話できましたが、何よりも地平線の皆さんは顔つきが素晴らしいです。私ももっと前向きに生きていこう、としみじみ思いました。ありがとうございました。(矢島仲子)
■3月6日、15両編成のラサ行き「T22次特快」は、ほぼ満席で四川省の省都・成都を発った。おりしも春節(中国の旧暦正月)の15日が終わったばかりとあって、乗客のほとんどは春節を四川省各地の故郷で過ごした漢族中国人。赴任先のチベットへのUターンラッシュである。車内は軟臥(一等寝台、2段ベッド)、硬臥(二等寝台、3段ベッド)、硬座(座席のみ)の3つの世界に分かれている。各ベッドに液晶テレビと酸素供給口のある軟臥と硬座とでは、料金に約3〜4倍の差がある。トイレなどの設備にはもっと差があるだろう。硬座は2泊3日を座席のみで過ごすことになる。交代で椅子をベッドにしたり、デッキ部分を使ったり、工夫と助けあいで成り立つ、昔ながらの中国の長距離列車だ。
◆彼らにラサに行く理由を聞くと、ほとんどが「打工」と答えた。季節労働、出稼ぎである。都市部の経済成長に乗り損なったらしき農村の次男三男が多かった。彼らはラサなどの大都市ではなく、もっと賃金の高い、すなわち標高の高い、より厳しい建築現場、道路工事現場、鉱山などに送られていく。「この鉄道はバスの半額以下だからとても助かる。同郷の皆と一緒だから寂しくはないよ。早く金をためて故郷に帰って嫁さんをもらうんだ」。タバコの煙がたちこめる車内で(たしかこの路線は禁煙だと思ったが)一日中トランプに興じる彼らは、明るく気さくだった。
◆ラサに着いた翌朝、またラサ駅を見に行った。トラックの荷台20杯分ほどの若い軍人たちが、僕たちの乗ってきた同じ列車(折り返し成都に向かう)に整然と列をなして乗り込んでいた。帰郷する彼らもまた、四川省の農村出身者が多いそうだ。ラサ行き列車は北京、上海、広州などからもある。いったいどれだけ多くの漢族中国人がチベットに人生を託すことになるのかと考えると、空恐ろしいものがある。あ、ちなみに、景色は本当にすばらしいし、野生動物の姿も結構間近に見ることができる、といったあたりはNHKスペシャルでやっていた通り。ずっと天気もよく、やはりチベットは夏以外がお勧め!(3月10日 ラサにて長田幸康 ラサに向かう列車からケータイで奥さんの田中明美さんに電話がつながったそうです。すごい!!)
■こんにちは。横内さんの紹介で前回の地平線会議に初めて出席いたしました宮本です。推理小説やサスペンス映画のように楽しむことができました。漠然と持っていた矢島保治郎のイメージがしだいに崩れ、なにかもっとミステリアスでより魅力的な保治郎の姿が現れてきたように思えます。そして面影を宿した仲子さんという生き証人の登場にはほんとうに驚き、感動しました。
◆それにしても保治郎の女装写真はどう捉えたらいいか戸惑ってしまいます。最近、NHK・BSで放映したティム・バートン監督の映画「エド・ウッド」(1994)を観ました。エド・ウッドは1930年代頃にB級映画を大量に作った実在の「変人」映画監督です。そのなかで、エド・ウッドは恋に落ちた女性に「僕は……女装するのが好きなのだけど、つきあってくれる?」と言うシーンがあります。エド・ウッドは天才肌で女性にモテモテなのに、女装がやめられないのです。保治郎の写真はたんなる悪ふざけかもしれませんが、エド・ウッドのような「変人+天才」で、女装癖の気があったのかもしれないと考えたくなります。
◆私はもともと雑誌の編集や記者を長くやっていた者ですが、1993年5月にラサでデモに参加したかどで国外退去になったのを機にチベットにより強く関心をもつようになりました。このときは事前に地下組織のメンバー(スイスに亡命したチベット人)と接触し、どのようにデモを起こすか、どう展開するか、説明を受けていました。あるときはチベット食堂の奥の厨房、あるときは寺の屋上……と人目(とくに公安)のつかない場所で密会を重ねました。デモの当日、行進がジョカンに近づいたあたりで「タイム誌の表紙を飾れる!」と思えるような写真を撮ったあと、群集のなかに姿を隠したのですが、迷路のようなバルコル(注:ラサ中心部のチョカン寺外部を一巡する周回路)のなかで私服公安の追っ手をかわしきれず御用となり、フィルムも没収されてしまったのです。郊外の公安の施設に拘束され、食事も出されず、中国語・英語・日本語それぞれによる尋問を受け、ヤク・ホテルの迎え(保釈金を払ったということです)が来て解放されたのは深夜でした。
◆しかし「ただでは転ばない」精神でもって、北京の共同通信社に電話し(盗聴されない電話番号を知っていました)朝刊に載せることに成功しました。ただ後日、ラサに来ていた成田山の僧侶が上海で記者会見をひらき、「デモは2、300人程度でたいしたことなかった」とウソの証言をされてしまいました。国外退去だったので、すぐにカトマンズに出て、ネパール人ジャーナリストといっしょに英文で記事を書き、ロイターを通じて配信しました。そのあとダラムサラの亡命政府で大いに歓迎されたのは、その記事をみな読んでいたからでした。
◆ダラムサラでは大臣クラスの人(といっても亡命政府なのでたいしたことないですが)と何人か面会し、そのとき、スパイ活動をしないかと請われました。たとえば青海湖の近くに核廃棄物を捨てる場所がある、その土のサンプルを取って来られないか、あるいは森林伐採が行なわれている、その木材を運ぶ列車やトラックの写真を取れないか……、そういった内容でした。しかしそれでなくともブラックリストに名前が載っている可能性があり、へたに動くと中国に入れなくなるのではないかと危惧しました。
◆こうして図らずもチベット現代史の一端を知ることになり、スケールは小さいとはいえ、チベットの一面を肌で知ることができました。しかしチベット亡命政府の言い分にもプロパガンダが含まれていることがわかり、チベット側からのみ見ないように心掛けています。チベットの寺院や文物を破壊したのは、多くはチベット人自身なのですから。メールにしては長くなってしまいました。御寛恕ください。(宮本神酒男ホームページ http://nierika.web.infoseek.co.jp)
チベットに旅立った10人の日本人は、時代別に3つのグループに分けられる。「第1グループ(明治時代)」河口慧海(黄檗宗僧侶、1901年3月21日初めてラサに入る)能海寛(のうみ・ゆたか 東本願寺派学僧 1901年4月18日付け書簡を最後に不明に)、寺本婉雅(同 日蔵の政治工作にも力を発揮)成田安輝(外務省特別任務 1901年12月ラサ入りを果たす)
◆「第2グループ(大正時代)」矢島保治郎(冒険旅行家)青木文教(西本願寺派遣僧 ラサの貴族の家に3年)多田等観(同 セラ大僧院に10年修学 ダライ・ラマ13世と親交)河口慧海(2度目)
◆第3グループ(昭和時代)(情報)野元甚蔵(陸軍特務機関モンゴル語研修生 「チベット潜行 1939」)木村肥佐生 興亜義塾の塾生。「チベット潜行十年」西川一三(同じく興亜義塾生。破天荒な徒歩の旅を敢行、「秘境西域八年の潜行(上・中・下)」
■落合です。こんばんは。このあいだお会いしたときにも話しましたが、私が地平線報告会に顔を出し始めた1991年当時、大学の図書室に購入してもらった『西蔵漂泊』の著者と、地平線会議でよく名前を聞く江本さんとが同一人物であることをまったく知りませんでした。その頃は、1990年の1年間の旅の見聞を、そのあいだの事件や戦争や流行の中に位置づけることに必死になっていて、特にチベットで見聞きしたことはその中でも大きなウエイトを占めていたので、図書室に入り浸っていたのも、東京や京都などさまざまな場所でチベット関係の人たちから話を聞いていたのも、また地平線報告会に出入りするようになったのも、すべては旅の記憶をアウトプットするための「二次的旅体験」なのでありました。
◆ですから、以後私がずっとチベットを関心の中に置いているのと、ここまで足を突っ込んでしまった地平線会議の代表世話人を江本さんがなさっているのとは、本当に奇遇に思え、かつそれは当然の流れだったのかもしれないのです。
◆1990年3月、私は「ラクダ隊」の一員として横浜港を出発し、上海から中国に入り、ほぼ2ヵ月の敦煌からタクラマカン沙漠に至る旅の後は、単独でカシュガルからクンジュラプ峠を越えてパキスタンに入り、そこからヨーロッパへ向かうつもりでした。ところが人里離れた沙漠を抜けて、トルファンの宿で久々に出会ったオーストリア人旅行者から聞いたのは、私たちがいたタクラマカン沙漠一帯の外国人の旅行が制限されているという話。情報を集めるうちにそれがイスラム教徒の暴動のためとわかり、手段を講じてカシュガルまではたどりついたものの、国境は無情にも閉鎖されており、中国出国は不可能となっていました。
◆当時、中国西部で開いていた国境は、もうひとつネパールに面したジャンムだけ。いったん敦煌に引き返した私が、それまでまったく想像していなかったチベットを目指すことになりました。何せその前年までラサには戒厳令が敷かれていて、旅人たちから情報を集めるだに、クンジュラプ峠よりも行くのが難しいと言われていたチベット。「ラクダ隊」の残党にもチベット行きを目指していた隊員がおり、寺の跡継ぎで龍谷大学の学生だった彼は、あこがれの地を目の前にして地団駄を踏んでいました(彼はこの後無事チベット行きを果たして、ネパールに2年滞在。チベット語を学んで帰国し、いまでは読経の傍ら、「チベット語で唄うロックバンド」のボーカルをつとめている)。
◆ラサ行きのバスが出るゴルムドは、既に外国人旅行者への警戒が強まっており、その手前の敦煌がチベット行きを目論む旅人の「前線基地」となっていました。中にはラサ行きのバスに乗りながら、途中のチェックポイントで見つかって他の乗客ごとUターンさせられた香港人がいたり、同じ検問で4度失敗した米国人がいたり‥‥。バスの切符を買ったり、宿泊の手続きをしたり、あるいは検問で臨時の検査を受けるとき、他の乗客はそれぞれが所属する「単位」が発行した「工作証」を提示するのですが、ただの外国人旅行者の私にはそれがありません。同行の人たちをよく観察して、できるだけ警戒心の薄い人に頼んで、代わりに買ってもらったり、手続きをしてもらうのです。
◆汚れたワイシャツによれよれのブレザー、どこでも売っているハンチング帽(これに命を助けられたのはまた別の話)と身なりは他の乗客になじんで紛れていても、これではどこかで見つかってしまう。他の乗客もそうそうアテにはできません。中には気付くやいなや、得意げに大声で検査員を呼び出す輩もいる。その度、「私はカシュガルから来たウイグル族で普通話があまり上手ではない」と言い訳をすることになるのですが、この手がいつ通用しなくなるやら(あとから聞いた話では、「普通話ができないウイグル族には要注意」という手配書が回ったとか)。
◆大きな荷物の行商人に紛れて、ゴルムドで一泊し、バスを乗り換え。ここはもう「敵地」。ベッドを確保した交通旅舎の4人部屋に、やはり旅の途中だったらしい緑の制服の「公安」が入ってきたときには、もうダメかと思ったものの、急いで布団をかぶり、翌朝制服が出発するまで不貞寝してやり過ごしました。ラサまで途中2カ所のチェックポイント。最初の検問でさっそく「工作証」の検査。ヤケクソながら東京の高校の写真入り学生証を出したら、ちらっと確認しただけで検査員の目は隣の乗客へ。何事もなかった素振りをしていましたが、内心は不安と嬉しさで心臓バクバク。
◆夜道になり、タング・ラの手前でバスを降ろされて汚い旅舎に一泊。ここでも学生証を「工作証」と押し通したものの、寝たのは4時間ほどで未明に出発。次のチェックポイントはあっけなく素通りして、午後にポタラ宮が車窓から見えたときには涙が出てきました。もはやこれまでのピンチを数度切り抜け、チベット行きを思いついた1週間後にポタラ宮を拝むことができた私は幸運だったと思います。
◆ラサで同宿となったユニセフの関係者から聞き、自治区政府は外国人旅行者を厳しく制限しているのに、市政府はラサ滞在を黙認しているという奇妙な状況と知りました。久々に日本人が来たというので、宿の人から頼まれて、英文の注意書きを日本語に訳して清書しました。いわく「外国人を宿泊させることにおいて何か問題が起きれば当局は即座にその許可を取り消しかねないので、くれぐれも騒いだり軽率な行動を起こさないようにお願いしたい」。戒厳令解除後すぐのラサは、そういう微妙な状況でした。
◆苦労して着いたものの、もともとの目的はネパールへの国境越えでしたから、そう長居をするつもりはありませんでした。最初はトラックをヒッチハイクすることを考えていましたが、それほど物流が盛んではないらしく、国境方面に行くトラックが見つかりません。シガツェやギャンツェなど、途中から他のトラックをまた探すのはリスクが大きいように思われました。自治区政府の方針からすると、許可証のない外国人はすぐに自治区外への送還の対象となるわけで。そこで毎日他のホテルを回り、同じようにバスに潜り込んだり、トラックをヒッチハイクしたりしてやってきたアテのないツーリストに声をかけて、ランドクルーザーの定員一杯のツアーを仕立て、許可を取ってようやく国境へ向かいました。
◆『西蔵漂泊』を最初に読んだときには異色の、というより、奇人としてしか思っていなかった矢島保治郎の名前を思い出したのは、ダラムサラの子供達を支援するNGOの日本事務局を務める藤田さんから、前橋で江本さんに講演をお願いしたい、と打診があったときでした。この前橋の講演のために、江本さんから資料をお借りしてスライドなどを準備しましたが、『世界無銭旅行者 矢島保治郎』を徹夜で読んで、彼の足跡を再発見し、自分の足跡と重ね合わせるようになりました。そうしてようやく、17年前の18歳の少年の旅の話が、できるようになったように感じています。(落合大祐 2月の報告会を前に江本がもらったメール)
雪の上を歩く「輪かん」のスポーツタイプのものをスノーシューと言い、最近は冬のスポーツで人気となっている。2年前に1回遊びでやったことあるものの、全く興味がなかった。もちろんレースに出ようなどとは微塵も思っていなかった。それが突然1月30日「スノーシューでチームを組まないか?」とオリエンテーリングの強者柳下大さんからメールが入ってきた。
◆20kmの個人レースなのだが、女性1人以上を含めた3人でチームを組み、その3人の合計タイムを競う団体競技としてもエントリーできるからという。スノーシューという極めて未知である競技、20kmという距離(私は長距離が好きで50km以下のレースには出ないと決めている)、新潟県であるため要前泊、エントリー費旅費を含め出費は多い上に2日間とも仕事が入っているという断わる要素だらけであった。強者と組めることは魅力的ではあったが、もちろん断った。
◆次の日、レース申込締切1月31日の深夜10時。もう1人チームを組もうとしていたハワイの鉄人レースでも上位に位置するトライアスリートの市岡隆興さんから電話がかかってきた。「とりあえずだから。2〜3日考えて断わるなら断わればいいよ。ぴろり(私のことです)が出なかったら俺たちも出ないよ」と。何たる強引さ(笑)。いろいろあって結局、レース前々日深夜、二人の強豪と新宿を専用夜行バスで出発した。
◆朝、新潟県妙高に到着すると吹雪いていた。風は強く、ものすごい寒さだった。地元の人曰く、「今年は雪がなくて全然積もっていない。こんなに少ない積雪は30年ぶりくらい」とのこと。吹雪いているものの確かに積雪は少なかった。私たちは午前中はまったりと休息し、午後市岡さんはスキーに出かけ、私は柳下さんと吹雪く中顔を真っ赤にしてコースにスノーシューで繰り出した。走っていてかなり寒かったが山のエネルギーをもらい気持ちいい。体調もよかった。夕方からブリーフィング、夕食は参加者全員でカーボパーティー(前夜祭)をして楽しんだ。寝る時までも雪は止むことなく降り続いていた。明日の天気の回復を祈り、眠りについたのだった。
◆2月25日、レース当日。昨日の雪がうそのように雲一つない快晴。白い雪がまぶしい。絶好の日和。少しアップをしてスタート。まずは3kmのゴルフコースを1周半。トップで走っている柳下さんと市岡さんが見える。もちろん彼らには付いていけない。前には10人ほどいるが女性は見えない。苦手な平坦なコースをそれなりにやり過ごし、5kmくらいから山へ。ここからはまさしく私のフィールド。高度500mアップ。ひたすら登る。木々が周りを囲み、白がまぶしく私を応援してくれた。楽しい〜!!
◆すると上からすごい勢いで降りてくる人がいた。柳下さんだ! すでに頂上まで行って戻ってきたのだ。さすが。「ガンバ !!」と声を掛ける。そして遅れること2分くらい、またすごい勢いで降りてくる人がいた。市岡さんだ! 同じく声を掛ける。う〜私も頑張らなくては !! 次々に上からやってくる人を見送り、私も先を急いだ。ひたすら走った。昨日の雪でフワフワと気持ちよかった。頂上に到着し後は下り。前の人に追いつき、抜けそうだったので必死に追いかけた。しかし、あとちょっとのところで再びゴルフコースに出てしまった。山でない道では力が出ない。意識しているわけではないのにスピードが落ちていった。それまで山で感じていなかった疲れも感じてきた。前の人は少しずつ離れていく…頑張っているのに…山でないと走れない自分がいた。
◆結局前の人を追い抜くことはできずにゴール。悔しかったが、でも女性では優勝。柳下さんは1位、市岡さんは2位でゴールしていた。ということでチームでもこれ以上ない完全制覇で優勝。全く想定外のところから始まったスノーシューレース。強引な(笑)仲間のおかげで個人優勝、団体優勝という名誉を貰うことができた。天候も味方をしてくれて、短いレースではあったが楽しめた。実際やっぱり距離が短く、楽しいと思う時間が短く物足りなかったが、山はやっぱりいい。
◆トレイルランを心底愛す私は他の競技に関して興味がわかないところがある。だけど、たまには息抜きで違うことをしてみるのもいいな〜と思ったのだった。私はいつもいつも山に助けられる。山のエネルギーを感じれる感性、大事に大事にしていきたいと思った。私=走ること=山。自分の道は明確に見えている。山を走ることはやめられないだろう。(鈴木博子 お台場にも応援がてら来て50周した)
■3月3日に大学から修士課程修了認可の連絡が届きました。論文のためにアンケートにご協力いただきました、3か月以上の個人海外旅行者を経験した約150名の皆様、ありがとうございました。地平線会議や自転車仲間の情報を元に、他人にはまとめられそうにない論文を、と考えてたどり着いたのは、以前書いた「長期海外旅行者の罹りやすい疾患について」の焼きなおしという、いささか反則じみた内容でしたが、それでも担当教授からOKが出ました。機会がありましたら地平線の場でその内容を紹介したいと思います(持ち時間15分必要)。
◆なお、放送大学の授業料などのコストは他の学校に比べると激安で、すべて順調に行けば学士で約50万円、修士が45万円ほどで済みました。しかし社会人ゆえに順調とはいきにくく、プラス10万円ほど余分にかかっています。身内でこれから大学進学を控えている方がいたら勧めてみてはいかがでしょうか。いまどきこの程度の授業料で終了できる大学はないと思うので。入試は学士が先着順、修士が英語と小論文ですが、競争率は2倍ほどでしかありませんし、学士なら一定年数からの他大学編入も可能です。(埜口保男)
今年もカーニバルに…といったとたんに、いいな〜またブラジルのねえちゃんのお尻見に…、と思った向きは、ここから先は読まなくていいからねの今日この頃。みなさま、いかがお過ごしのことあるか?
◆今年もぎりぎりまで行き先定まらず。粘ったあげくに、やはりまだ見ぬカーニバルを攻略するのがカーニバル評論家の責務であろうと意を決して選んだのはハイチであった。南太平洋のリゾートのカーニバルと勘違いされそうだが、あれはタヒチ。ハイチはカリブ海の島国で、コロンブスが最初の航海で「発見」したイスパニョーラ島の西側3分の1を占める。東側はドミニカ共和国で、1507年スペイン人入植者によって新世界最古のカーニバルが執り行われた記録が残されている。発見から十数年後にはもうカーニバルで大騒ぎ、今年で500周年だ。
◆隣のハイチのカーニバルもすごいという噂は業界で飛び交ってはいたが、現地情報はほぼ皆無。ヴードゥーとゾンビしか思い浮かばない向きも多いだろうが、アフリカよりも黒っぽいディープな世界である。1989年に取材で訪れたことがあったが、あまりの凄まじさに思わずビビった記憶が染み込んだままだ。
◆病院の塀の外にうずくまる重篤患者の長い列。飢えたストリート・チルドレンの群れの強烈な視線。ゴミに埋もれたドブに半分漬かったまま動かないヒトと、その横を駆け回るドブネズミの大群。夜になると真っ暗闇の中をどこからともなく響いてくるドラムの音色。あの状況は、少しでも変わっているのだろうか。
◆ナポレオンの軍隊を壊滅させ、独立を勝ち取った黒人による世界初の共和国として知られるハイチだが、その歴史は悲惨の一言に尽きる。なかでも、親子2代の独裁者デュバリエ大統領父子による圧制は世界史に悪名を刻んでいる。トントン・マクートという秘密警察を使って政府に批判的な勢力を一掃し、国家を私物化し続けた。自ら終身大統領に就任したあげく、反対票ゼロのやらせ国民投票で憲法を勝手に書き換え、大統領就任の適格年齢を40歳から18歳以上にまで引き下げた。息子のジャンクロード・デュバリエ、通称ベビー・ドックが父親パパ・ドックの跡をついで大統領に就任したのは19歳で、どこかの将軍さまもびっくりのやり放題!
◆このバカ息子はニューヨークで一日1億円のブランド物買い漁りをしたり、アホ嫁の毛皮コレクションのためにナショナル・パレスに完全冷房の部屋を作ったりと、フィリピンの某・元ファースト・レディと並ぶ浪費ぶりが話題になった。国民所得が年間300ドル、平均寿命50歳未満、識字率50パーセント以下というあまりの酷さに世界中から批判を集め、国内の反政府暴動を徹底弾圧したが、結局はパリへ亡命というお約束の結末となったのが1986年のこと。
◆長々と書いてきたのは、実はこのベビー・ドック元終身大統領が異様なほどカーニバル好きだったからである。市民のなかに私服のトントン・マクートを潜入させ、ちょっとでも批判的な言動が見られるとすかさず行方不明という恐怖政治のなかで、なぜかカーニバルのときだけは反政府的な歌詞のテーマソングが大流行し、大群集がいくらお上の悪口をいっても許されるという、もっともカーニバル的な状況が出現したのであった。
◆データ的には、その時代と現在のハイチは大差ない。世界の最貧国リストの常連だし、クーデターや軍事独裁政権などによる政治的混迷が続き、国軍は解体。ブラジルやペルー、中国など15カ国8800名の国連平和維持部隊が3年前から駐留を続けている。ドミニカから陸路で国境を越え、ハイチで最初に目にしたのはUNマークの白塗り装甲車だった。
◆今回はご近所のハイチ大使からのご紹介で、何がなんだかわからぬ内に大使の友人宅にお世話になることになった。これがまた超の付きそうな大富豪で、まずはその大豪邸にびっくり。推定30部屋以上はありそうで、お手伝いさんも推定10名、実際に家のなかで迷子になるほどだ。プールやラケット・コートはもちろん、朝昼夕食それぞれ専用のサロンで、朝のコーヒーはこれまた別のお部屋。
◆ご主人はもと著名なミュージシャンで、現在は宝くじの胴元やら自動車修理工場やらレストランやらを何軒も経営する実業家だとか。去年2回誘拐されたとかで、こんなの想定外!である。壊れた国は下もすさまじいが、上は上でこれまたすご過ぎる。
◆カーニバルが催される中心部のルート沿いに自前の特設桟敷もあり、ここを拠点にカーニバルへと突入する運びとなった。3日間、出しものは変わらず。ヴードゥーやらゾンビっぽいキャラなどがパレードしたあと、どでかいトラックに乗った有名バンドの生演奏が深夜3時過ぎまで鳴り止まない。大群衆の只中を大音響のトラックが通過し、200万人が同時に踊りまくるという強烈な祝祭空間であった。隙間がないどころか、全員で首を絞めあっているような状態だ。終了するまで、自動的に脱出は不能となる。こんなにパワフルで切ないカーニバルは、当然ながら初体験であった。
◆というところで、紙幅が尽きてしまったので、この続きは来月に。(カーニバル評論家 ZZZ-全)
■先月の発送請負人 森井祐介 松澤亮 三輪主彦 関根皓博 丸山純 藤原和枝 長野淳子 久島弘 車谷建太 山辺剣 中山郁子
■ひな祭りの3月3、4日、お台場で海宝道義さん主催の恒例の「24時間チャリティラン・ウォーク」が開かれた。地平線のにわかアスリートたちも奮闘した。■
ことの始まりはこんなお誘い。「お台場で海風に吹かれながら走ってきましたよ。来年、『ねこ手』で出ませんか?」。ねこ手=『ねこからの手紙』というウェブサイト の掲示板にそんな声が届いたのが1年前。月日は流れ秋も深まる頃、掲示板で募ってみた。仕事と折り合いつけたり、知り合いをひっぱりこんだりしながらぽつぽつと手が挙がり、結局ねこ手チームは総勢13人の所帯となり、24時間リレーの部に3チーム編成でエントリーすることとなった。チーム名は検討を重ね、『みけねこ』『やまねこ』『のらねこ』に。
◆MLなんかも立ち上げて、仕掛け人くるみまる氏をアドバイザーに、激励やら確認やらしながら準備した。なんせ、普段から走っている人はおらず、皆『歩き』が基本。「靴はどんなのがいいですか?」「服装は?」「今日は職場まで歩いてみました」てな面々である。そして当日、南は愛媛から北は山形までのメンバーが、わらわらとお台場に集まった。
◆天気に恵まれ、夜はほぼ満月の月光シャワーを浴び、起きているときには常にエイドの食べ物をチェックしながら、全員が最後までたすきをつなぐことができた。仕掛け人を除いて全員が初参加、中には初顔合わせのメンバーもいた今回のイベント。参加してみて果たしてどうだったのか?終了後掲示板やMLに寄せられた声をほんの一部であるが紹介したい(氏名は投稿時のハンドルネーム)。
◆同じところぐるぐるなのに、ちっとも飽きることがなかった。その場の走る雰囲気に包まれてしまい、しょっぱな飛ばしすぎて一巡目でいきなり足を痛めてしまったのは失敗だったが、なんとか最後まで持ったし。体力不足を心配し、走れないと言っていた人たちが、後半どんどん走り出して、見ていて感動的でした。海宝さんのあふれんばかりのホスピタリティにも感動。毎年参加する方の気持ちがわかりました。(山形県・あかねずみ)
◆同じ景色でも、時間によって風景が変わってくる楽しさがありました。その場所にたたずむ人たちも時間によって全く違う。そんな風景を見ながら、自分なりの進み方で、1周ごとのラップを計ったりしながら、自分との競争も楽しみました。こんなチャンスを与えてくれて、またこんなにたくさんの仲間と参加できて楽しかった。(東京都・nabe)
◆今日は筋肉痛のため自転車。でもなんだか景色のスピードが早すぎてつまんないので、明日から歩きに戻る予定。ちょっとでも歩いた方が、反対に足も楽なこと判ったし。そんな1日を過ごし、あの2日間が夢のように思えてきてます。歩くだけ…って決めてたけど、途中走ってみたり、止まってみたり(^^;;。最終、すり足競歩なんてのでタイムを見つつ、楽しくグルグルしてました。ねこ手のみんなが一緒にゴールしてくれて、実はわたしもウルウル来てたのでした…。こんな素敵な機会を与えてくれた皆さんに感謝です!(大阪府・さちこ)
◆個人的にツボだったのは、主催者・海宝さんが自らホットプレートで焼いて作ってくれたポーポー(ちんびんとも言います)。黒糖味のクレープのような薄焼きをくるくるまるめたもので、沖縄の昔ながらのおやつです。たんたんと走るランナーにも刺激を受けたし、みんなでわいわい楽しめたし、おいしいものをいっぱい食べたし、いやはや不思議で魅力的な時間でした。(東京都・kaco)
◆“歩く”に徹しましたが、いやもうホント楽しかったです。何を食べても飲んでも美味しくて、寝る間も惜しんでエイド周辺を陣取っていたような気がします。何ひとつとっても海宝さんのココロを感じ気持ちのパワーをもいただいていました。それにしても、あんなにアツクなるなんて…聞くと見るとじゃ大違い!かなりな刺激を受けました。チームみんなで一緒にゴールしたあの瞬間をきっとずっと忘れないと思う。あー楽しかった!(大阪府・luna)
◆ほんとに楽しかった!始まる前は歩けるかと心配だったのに、自分が思ったより歩け、走れてビックリしました。もう歩けないと思った時も、皆さんの応援でまた一歩踏み出せました。気持ちよく頑張れました。エイドは本当に素晴らしかったです。作ってくださった人にも感謝。参加できて良かったです。(大阪府・もも)
◆16時、20時、0時、4時、8時、12時が私の出番でしたが、深夜4時の回が一番体が軽くて良い調子だった。次回の目標は同じ条件なら30周以上でしょう、とか思っている。そして、野宿野郎さん達が可笑しかった。「24時間飲み放題食べ放題ですから」が誘い文句とはナイス(笑)。チーム全員でのゴールは大勢の前…気恥ずかしさいっぱい。ところが、その直後うるるっとなった自分にびっくりした。感動。チーム参加だったからこその喜び。エイドのボランティアもやってみたいかも、と思った。よね、Sさん。行ってよかった!ありがとうございました。(愛知県・てらもと)
◆走っては食べ、歩いては食べ(笑)そして寝て。そこにまた笑いとおしゃべりが加味されて。いやあ、これは人間の本質的な生活かもしれないなどと思ったりして。ほんとうにみなさま、お世話になりました。またお会いできる日が楽しみです。(愛知県・mito)
◆ぐるぐるしながら、ぼーっとしたり、いろいろ物思いにふけったり、人間観察したり。 普段、単独行動好きだけれど、一人じゃ味わえないもの、共有できる人がいるから得られるもの、楽しめることがあることを、とても実感した2日間でした。(愛媛県・みかん)
◆予定どおり最後まで“歩き”通しましたが、皆さんが次々と走りだしたのを見ているのは心地よかったです。本当にみんないい走り(歩き)でした。私の場合、体重を落とさないと走ることができないので、来年までに5キロくらいは減らしたいと(今は)思います。皆さん、2日間楽しませてくれてありがとう。(山形県・イシ)
◆自分でもビックリするぐらい歩けて、リレーというものの偉大さを感じました。お天気もよくて最高でしたね(私達のおかげ??)。この2日間は筋肉痛との戦いでした。そして2キロオーバーの見たことない体重に。明日からまたお昼散歩を再開しないと。”Please pat your back!!”(自分で自分を偉かったね…と思う)母からの言葉です。 皆様にも。(滋賀県・aya)
◆チャリティーという趣旨があるとはいえ、遠路交通費使ってやって来た上に、参加費も払ってしんどいことするという、酔狂と言えなくもない行動をみんなでまじめにやってしまったことに、かなり嬉しさを感じた。なぜだろう。きのう、アドバイザーくるみまる氏が、掲示板にこう書いてくれていた。「それは多分、無意味なことへの挑戦の面白さを含む『初心』ということだと思う。初めてやることの面白さ。大げさな言い方をすれば、おののきを伴った挑戦。本来ひとはそういうことを沢山体験しながら育つのでしょうが、大人になるにつれ、そういうこととは滅多に出くわしません」。次なる企てが楽しみなのである。(ねここと、中島菊代)
■1月の報告会のあとの「3次会野宿」の時でした。覗きに来てくだすった江本さんに「あのう、私、3月にフルマラソンに出るんですけど……まだなにもしてないんです……」とお話しすると、江本さんは「そんな無謀なことを!」と驚き、「僕が教えてあげる!」とうれしいお言葉をくださいました。
◆2月、江本さんにご指導仰ぐべく四谷へとゆくと、一緒に走ってペースを教えてくださるは、靴をくださるは、サンドイッチをご馳走してくださるは、銭湯に案内してくださるは、もースバラシイ先生っぷりです。「先生っ、しばらく付いていきますっ」と私は思いました。その時「マラソンの練習になるし、出れば?」と誘われたのが「お台場チャリティーラン&ウォーク」でした。その大会では24時間お台場をぐるぐるぐるぐる走るという。ただただぐるぐる走るという。もー、なにがなんだか判りません。
◆しかし判らないながらも、江本さん曰く「エイドでは海宝さんの料理が食べ放題」で「寝袋持参で眠くなった人は勝手に寝る」ということで、とってもスバラシイ大会なのではないか。海宝さんの料理! お台場で野宿! これが出ずにはいられるかっ! マラソンの練習なんてことはすっかり忘れ、折角だから24時間一人で出ちゃえ、疲れたら歩けばいいし、眠くなったら寝られるし、と私は思ったのです。
◆その夜はうまい具合に野宿党員数人で「競馬野宿(野宿をして運気をあげ、翌日競馬場に!)」をすることになっていたので、「そこで誰かを道づれに誘おうと思う」と言うと、江本さんは「じゃあこれを僕から」と泡盛を一瓶くださいました。江本さんからお酒をいただいては、出ないなんて言うことは出来ません。野宿中、酔っ払ってきたイクコさん(注:中山郁子)は6時間の部を、たかしょーさん(注:杉山貴章)は12時間の部を走ることになって、しめしめです。
◆さて当日、お台場に行ってみると、ぴちぴちパンツをはいている人がたくさんいる、ランナーのお尻はきゅっと上がっている、「船の科学館」は名のとおり船の形をしている、などとびっくりすることがたくさんありました。が、なにより、一周(1.5キロ)走りエイドを通るごとに盛りだくさんなご馳走の誘惑がある、ということにびっくりです。
◆ほぼ徹夜で仕事をし、慌ててジャージを買ってタクシーで乗り付け参加したパワフルなイクコさんと「次の周は絶対パンは食べない果物だけにするっ」とか、「せめて飲み物はジュースじゃなくって水にするからっ」とか言いながら、歩いては食べ、走っては食べ……。気が付いたら6時間は無事に終わっていました。そうこうしているうちに仕事を終えてやってきた、元気なたかしょーさんが「やるからにはっ!」と熱心に走り始めたので、私も見習って「走るとお腹がすいてたくさん食べられるからっ!」となるべくたくさん走ることにしました。
◆さて、夜になってもなんだか食べすぎで、胃腸が活発だからか、ぜんぜん眠くならないのです。そして、時々「海宝さんスペシャルメニュー」が出てくるので、おちおち寝てなんかいられない気分なのです。それでも1時を過ぎると疲れてだいぶ眠くなってきたので「うどんは何時に出る予定なのか、頼むこっそり教えてくださいっ、このままじゃ寝るに寝られないっ」とエイドの見も知らぬ人につめより、「た、たぶん朝方……」との答えを得て安心した私は、海のそばの方に寝袋を持っていって寝ました。一人ホームレスの人がテントをはって寝ていて、セレブな感じでした。
◆しかしどうにもこうにも、うどんのことが気になって、無理やり5時に起き、また走り始めました。うどんが出たのは7時過ぎだったのでもっと寝ていればよかった。でもぶじ食べられてよかったです。そうこうしているうちにやっと残り6時間くらいになり、心やさしい三輪さんにお尻を叩かれるので、熱心に走りました。エイドの横の芝生ではネコさんたちがいて、走り終わっているイクコさんとたかしょーさんもまざって楽しそうでした。私も休憩ごとにちょこちょこ混ぜてもらいました。と、とっても楽しかった、お台場チャリティーランでした。野宿党に「マラソン部」が出来る日も近いかもしれませんよー、江本先生っ!(次はフルマラソンだー。ヤダなー。加藤千晶)
(などと言いながらしろうとがなんとひとりで118.5キロも走ったのには絶句。次は18日江ノ島のフルに出るんだと…E)
■本多有香さんが出走したカナダーアラスカ間1600kmの犬ぞりレース「ユーコン・クエスト」が2月25日終了しました。本多さんは中間地点のドーソンで棄権、惜しくも目指した完走はなりませんでした。
28チームが出走したことしのクエスト、トップのランス・マッケイは「10日2時間37分」という史上最速の驚異的なスピードでゴール。その一方で本多有香さん含め7チームが棄権しています。
★以下、惜しくも中間地点で棄権せざるを得なかった本多有香さんからのメール。 いろいろな不運が重なったようですね。再チャレンジあれば、是非、応援しよう。
★ ★ ★ ★ ★
「今年は自分でトレーニングした犬たちを使えず、わずか10回一緒に走っただけの犬たちとの挑戦となってしまいました。初日にスノーフックが折れ曲がり、(ルール上交換できないため)チームを止めるのが大変でした。
◆ギャングラインに絡まって犬が死に、さらにメス犬が発情してオスたちの気持ちはそのメスに集中してしまい、チームはスローダウンしてしまいました。そのため、予定以上にキャンプしなければならず、えさが足りず、ドーソンに着いたときにはがりがりになっていました。
◆また、私がかなり遅れたうえに1位のランスが異常に早くて(新記録を樹立しました)、1位との差が大きいとチェックポイントがしまってしまうため、棄権しました。今はまだ今後について何も考えていません。またがんばりますので、よろしくお願いします。本多有香」
19才になった夏帆さんとの日々を綴った「お母さんは、ここにいるよ」(毎日新聞刊)の発刊を記念して写真展が開かれます。遠方の方は是非本を入手してください。1冊1300円です。
● 会期:2007年3月30日[金]〜4月5日[木]
午前10:00〜午後6:00
(4月2日[月]は休館日)
● 会場 座間市の「ハーモニーホール座間」
小田急線「相武台前駅」より徒歩15分
http://www.ny.airnet.ne.jp/harmony/
● ギャラリー・トーク:4月1日[日]午後2:00〜
● 主催:(財)座間市スポーツ・文化振興財団
● 後援:座間市、座間市写真連盟
● 問い合わせ先:ハーモニーホール座間
〒228-0021 神奈川県座間市緑ヶ丘1-1-2
TEL 046-255-1100
■通信費ありがとうございます■
先月以降に頂いた方々です。5000円、1万円など数年分、あるいはカンパを含んで、という方もいます。感謝!
相川八重/阿佐昭子/浅井信雄/上延智子/大久保久美子/長田幸康/掛須美奈子/小島あずさ/下島伸介/妹尾和子/橋口優/福田ミサ子/藤原謙二/山本宗彦
ルゥエンゾリ。
そこは東アフリカ、ウガンダとコンゴ(ザイール)の国境地帯に位置し、古代より「月の山脈」として語り継がれてきた伝説の山。ナイル河の源泉として19世紀の探検家たちの垂涎の地である。そこに魅入られたオレはついにその最高峰マルガリータ(5109m)に登頂することができた。
◆思えば7年前、ある写真家の手伝いでウガンダに足を踏み入れたのが最初だった。ところがルゥエンゾリ地域は当時ザイールのゲリラが出没し、治安悪化のため入山が不可能であった。ルゥエンゾリは西暦2世紀アレキサンドリアの天文、地理学者プトレマイオスが書き記したようにやはり「月の山」、朧月のごとく淡い幻だったのだろうか?
◆しかし近年、政情は安定し、NHKの取材チームも撮影を成功させたと聞き、これはぜひ再訪せねば、と思い続けていた。2007年1月16日、ウガンダのエンテベ空港に降り立ったオレは改めて驚かされた。入国審査はビザを見るだけ、税関に至っては誰もいなくてフリーパス。こんなにゆるいアフリカ見たことない。町も活気はありながらも平穏で落ち着いている。
◆7年前に初めて来た時もその治安の良さに拍子抜けしたほどだったが、アミン大統領時代の混乱、混迷とか、エンテベ空港襲撃事件とかが、まるでウソのよう。かのチャーチルをして「アフリカの真珠」と言わしめた高原の緑多き地は、さほど暑くもなく、他の政情も自然も厳しいアフリカの国々を見てきたオレにとってはまるで天国のよう。一路、山麓の町カセセに向かったが道もすっかり舗装されていた。途中の道からもちらりと見えてきたルゥエンゾリ山地。しかし、それはすぐ雲に隠れてしまう。ルゥエンゾリはまた、雲と霧の山でもあるのだ。
◆山麓の登山事務所で荷物のチェック。山頂に到達するには大湿原を越え、氷河を渡り、岩壁を這い登らなければならない。そのためピッケル、アイゼン、ハーネス、ザイル、長靴は必携。レンタルもあるが信頼性に欠けるので、すべて日本より持参した。その上、全行程8日間の食糧。水は山中で補給出来るが、全装備を1人で運ぶのはちょっと大変。ガイド1人、ポーター2人を雇う義務もあるのだが、彼らがいなかったら、歩き通すのはかなり困難であったろう。
◆まずはガイドのあとについて村落の道を進む。バナナ畑が広がる中の普通の村道からルゥエンゾリへの登山は始まるのだ。しばらく行くと茅葺きの小屋が見えてきた。持ち込み食料品をチェックする登山管理事務所である。そうルゥエンゾリは国立公園、世界遺産の指定地域でもあるのだ。食料チェックとは言っても自己申告だけの簡単なものではあるが、やはり持ち込み品にある程度の規制はあるのかもしれない。
◆それにしてもガイドの足は速い。だんだんと傾斜のきつくなる山道を飛ぶように進んでいく。こちらも屋久島ネイチャーガイドとしての意地もある。沢を渡り、尾根に上がり、必死に付いて行くと、いきなりその日泊まる標高2652mのニャビタバ小屋に着いた。歩行距離10km、高度差約1000m、コースタイム6、7時間のところを3時間半で歩ききったので、まあ、初日としては悪くないかな。ルゥエンゾリ、大したことないじゃん、とたかをくくったが、後で大間違いだったと思い知らされることになる。
◆翌朝、ガイドから乎は登山靴でなく、長靴に替えるよう指示される。そこからは延々と大湿原が始まるという。以後下山までの8日間、登山靴をはいたのは山頂アタックの日と最終日のみ。果てしなく泥沼との格闘が続いたのであった。ルゥエンゾリは熱帯雨林から雲霧林、湿原帯、氷河もある高山部と目まぐるしく自然が変わっていく。それこそがそこの大きな魅力ではあるのだが、沼地の歩行は本当に疲れる。ちょっと気を抜けばたちまち泥に足をとられ、ズブズブと沈んでいく。下手すると腰まで落ち込んでしまうこともあるそうだ。
◆慎重に慎重に置かれた倒木や草の根元を踏み進んで行くしかない。幸いそこまでひどい状況には陥らなかったが、疲労は蓄積していった。そこまでの大湿原が広がるのは、その山域の雨の多さが関係している。乾期のはずなのに毎日、雨がふる。日本一の降雨量を誇る屋久島もその比ではない。でもその雨が大湿原を作り、この世のものとも思えない幻想的な風景を生み出してもいるのだ。天気は一時も留まらず、常に変わり続けているが、逆に毎日必ず晴天の時間もある。その時、一瞬垣間見られる雪を抱いた山頂は、例えようもなく美しい。
◆初日の小屋には下山者達がいたが、2日目のジョン・マッテ小屋はオレ1人だった。ルゥエンゾリは入山規制があり、1日15人までしか許可されない。治安の問題からか、登頂の難易度のせいか、キリマンジャロのような賑わいはないのだ。そこへ若い黒人女性がポーターの兄ちゃんとふ2人で登ってきた。どうやらウガンダ人の登山客らしい。外国人に比べ自国民の入域料は安くなるとはいえ、アフリカの人が遊びで山に登るとは珍しいことだ。
◆ポーター達が調理をしているので、オレ自身の食事であるアルファー米用にお湯を貰おうと見ていると、その兄ちゃんがヤギの肉片をくれた。そしてだんだん親しくなり、その後も何回か肉片をご馳走になった。並んで歩いていたわけではないが彼らとは結局、下山までずっと一緒であった。3日目のブジュク小屋では、高度順応のため、1日停滞していたイタリア人グループと会った。
◆山行4日目、標高4430mのエレナ小屋に至ると風景は一変する。植物はほとんどない岩盤地域に突入するのだ。すぐ目の前には氷河が迫っている。さすがに空気も薄くなりつつある。2年前に登ったキリマンジャロより多少標高が低いせいか、さほどではないが、やはり高度障害は表れ始める。軽い頭痛に食欲不振。なによりちょっと歩くだけで息がきれる。とても初日のようには速く歩けない。ガイドやポーター達、地元の彼らにはとてもかなわない。オレのザックよりはるかに重い荷物を持ちながら、スイスイと歩いていくその頑強さには舌を巻くばかりだ。
◆5日目ついに山頂アタックである。ルゥエンゾリ山隗の最高峰はマルガリータ峰あるいはスタンレー峰と呼ばれている。他の峰々もスピークやバーカーなど19世紀、「月の山」を目指した探検家達の名が冠されている。むろんそれはヨーロッパ人からの“探検”であり、それによってもたらされた植民地支配という側面を忘れてはならない。しかし、ただ単に未知なるものを見たい、知らないところへ行きたいという衝動は決して我々と変わるものではないと思う。「マルガリータ」の名は初登頂したイタリア人が付けたらしいが、詳しい由来は知らない。でも「月の山」の女王としては相応しい名だと思う。その憧れの山に、ついに到達するんだ。
◆早朝、まだ暗いうちからの出発。久々の登山靴、固い地面である。1時間ほどで氷河の端に着く。目の前に見えているようで意外に遠い。アイゼンを装着し、ガイドとアンザイレンして氷に取り付いた。急な登りはすぐに終わり、スタンレー・プラトーと呼ばれる平坦な所に出た。と今まで白い闇だったガスが強風で取り払われ、見る見る山頂がその優雅な姿を現してくれたのだった。「やった!最高だ!!」思わず叫んでしまった。正直、軽いとはいえ高山病と雪や岩壁の不安に少々、気重になっていたところもあったが、やはり来てよかった。
◆しかし行程はまだ終わったわけではない。と言うかそれからが大変だった。急な斜面がまた長々と続くのである。霧が再びたちこめ、ホワイトアウトの中をただただガイドに引っ張られるように登る。先も見えない中、休み休み2時間ほど悪戦苦闘していると、はしごがかかった岩の壁にたどり着いた。それからはロッククライミングになる。先に上ったガイドが確保してくれるが、緊張の中、よじ登っていく。この岩登りがルゥエンゾリ登山の困難さを高めている。
◆と思ったら、壁はあっけなく終わった。はしごの部分を入れて4、5mほどだろうか。それから後はしっかりした足場をトラバースし、ガイドに言われてふと見上げれば、そこはもう山頂の看板が見えているのだ。最後はあっさりと登頂完了。視界は開けず、強風が吹き荒れる中だが、やはりそれでも感激はひとしおであった。
◆これでアフリカの最高峰キリマンジャロからケニア山(レナナ峰)ルゥエンゾリと第三位までを登ったことになる。アフリカ通いも一区切りついた形だ。来年は、今度は南米アコンカグアかなあ。なんぞと高度障害で弱気になっていたことをすっかり忘れ、ひそかに考えている。(野々山富雄 屋久島にガイドとして住みついて12年)
江本さん、お元気ですか?私と弟の順平も、最低気温零下20度、積雪100cmの北海道西興部村(にしおこっぺむら)の厳しい冬に負けず元気に過ごしています。村では先月末に5か月間続いたエゾシカのハンティングシーズンを終えました。北方の針広混交林の中、春山直前で硬くしまりつつある雪の上で、シカたちが束の間の静けさを取り戻したように、現代の“マタギ”を目指す私たちハンティングガイドの兄弟も、今シーズン無事終えたことに、ほうっと一息ついているところです。とはいえ、村全域を「猟区」という特別な狩猟エリアに設定し、エゾシカを地域の自然資源と位置づけ、村独自のエゾシカ管理システムを模索するNPOのスタッフでもある私たちは、1年間の活動報告やシカの生態学的調査のとりまとめなどの愛すべきデスクワークに没頭する時期を迎えつつあります。
◆去年の6月に山形で開催されたマタギサミットでお会いしてから、いろいろなことがありました。西興部村猟区がオープンして3年目の今年度は、春から弟がその正式スタッフとして、実家のある横浜から北海道に上陸したことによって、それまで地元ベテラン猟師の会長と大学院でシカの生態を研究していた私との二人三脚だったNPOに、森林インストラクターの資格を持った弟という新たな戦力が加わり、活動の幅も広がりました。ハンティングシーズンではない夏場の活動としては、野生動物管理の現場を学ぶ大学生実習の受け入れや地域の子供達向けの環境教育活動など、質・量ともに昨年度以上のものとなりました。
◆江本さんもよくご存知の狩猟文化研究で著名な田口洋美さんの東北芸術工科大学など延べ3大学・約30名の学生が対象となった大学生実習では、特別な許可でのエゾシカ猟の見学と捕獲されたシカを自分たちで解体・料理まで体験するという、これまでわが国では例をみないカリキュラムが、学生たちに大きな影響を与えているようです。地域住民の生活と野生動物による農林業被害の狭間に横たわる様々な課題を、生き物の死とは遠ざかってしまった現代にはなかなか目にすることのないシカやクマなど野生動物の命を取らなければならない瞬間を、学生たちは自分たちの目で見、肌で感じたことでしょう。
◆私たちはこの西興部村という現場で、人間と野生動物との共存がきれいごとだけでは成り立たないという現実を垣間見せることができる、日本のひとつのフィールドとして提供し続けたいと思っています。学生実習がきっかけでボランティアスタッフとして仕事を手伝ってくれたある東京農工大学の学生が、帰るときに再訪を約束しながら、私たちのような仕事がしたいと言ったとき、小さなひとつの希望をみたような気がしました。一方、大学生実習が全国の学生を対象としていることに対して、地域の小学生などを対象にしている環境教育活動は、地域の中から野生動物管理を担う人材を育成するための息の長い種まき作業と心得えつつも楽しみながらやっています。
◆シカやクマなど野生動物の生態をテーマとしたこの自然教室も今年で3年目、初めて「お泊り」を導入したキャンプを8月に行いました。森林面積が全体の8割を占めるこの村に住みながら、テント泊や川遊びが初めてという子供達と、野山を歩いたり、ネイチャーゲームに興じる時間はこの上なく嬉しい時間でもあります。そうして瞬く間に迎えた3度目のハンティングシーズン、狩猟免許取りたてにしてガイド1年生の弟は、北海道での冬道の運転も初体験。それでも数か月間で、本州からのゲストハンターをガイドしたり、シカを解体したりするなど、どうにか一人でこなせるようになり、一人前になりつつあります。実は弟は秋に結婚し、冬前には弟を追って弟の嫁さんが村にきて新婚生活を始めました。
◆彼女も本州は水戸の出身で、弟とともに初めての北海道越冬となりましたが、親切な村の人たちに支えられ、慎ましやかに暮らしています。なんと、夫に影響された彼女も狩猟免許を取ることを最近決めたようです。日本初(?)の女性ハンティングガイドが誕生するかもしれません。さて、そんな中、迎えた3回目のハンティングシーズン、お蔭様でゲストハンターの入り込み・シカの捕獲数とも昨シーズンの15%前後の増となりました。近年個体数が爆発的に増加し、牧草など数十億円の農林業被害を引き起こしているエゾシカは、一方ではその肉や皮など貴重な価値を潜在しています。そして、狩猟対象としてエゾシカは本州のハンターにとって憧れの的でもあります。
◆私たちはこの価値に注目し、村全域と「猟区」に設定して独自のレギュレーションのもと村外のハンターを呼び込み、地元ハンティングガイドの案内でシカを地域資源として「収獲」して地域興しに貢献しようとしています。今期は5か月の間に41人の村外ハンターがのべ67回来村し、のべ156日出猟しました。この結果、128頭のシカが捕獲され、約1千万円のお金が村に落ちました。このように、次世代型の地域主体の野生動物管理システムを構築すべく、村で兄弟ともども楽しく悪戦苦闘しております。まだまだお伝えしたいことはありますが、今回はこの辺で。再会を心待ちにしております。(伊吾田宏正 3月5日西興部発 伊吾田さんのことは05年9月の通信のフロントで紹介している=E)
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みなさん、こんばんは。昨日、最終便が飛び、残っていた48次夏隊、47次越冬隊が帰って行きました。そして「しらせ」は昭和基地を離れ、日本への帰国の途につきました。いよいよ35人だけの越冬生活が始まりました。
◆ここ数日は、昨日の別れを思って寂しくつらい気持ちで過ごしてきました。2月14日に一部の夏隊が帰って行ったので、その前夜にはパーティを開きましたが、そのパーティの時点で私たち48次隊は涙してしまいました。
◆昨日の最終便も、涙涙の別れになりました。私も、昨日はとてもつらかったです。成田を出てから昨日別れるまで夏隊とはわずか2か月半の行動でしたが、もうすでに家族のようなものでした。みんな大好きでした。毎日顔を会わすのが当たり前でした。現場で一緒に必死に働くのが当たり前でした。嬉しいことも苦しいことも一緒に味わってきました。そんな人たちが目の前からいなくなるなんて考えたくもないことでした。でも昨日、みーんな行ってしまいました。
◆私も涙を抑えることはできず、ずーっと泣いていました。最後に夏隊がヘリに乗り込むときは、越冬隊がずらーっと列を作って夏隊の一人ひとりと握手を交わしながら見送りました。悲しくて、笑顔も作れなくて、泣きながらただ「ありがとう」としか言えませんでした。仲のいい人たちは、最後にしっかりハグしてくれて、「泣くなよ」と耳元で囁いてくれたりしたけど「無理だよ」としか言えませんでした。みんな、元気で帰ってください。私たちもがんばります。そして、日本に帰ったら絶対会いたい。笑顔で会いたいです。みんな大好きです。
◆この夏は、本当にいい夏でした。こんなにも、夏隊と越冬隊、設営系と観測系、観測隊と自衛隊、前次隊と後次隊が協力し、事に当たれたことはないのではないかと思います。南極観測50周年の節目にふさわしく、南極観測というひとつの目標に向かって素晴らしいチームワークで活動できた夏だったと思います。
◆私自身も、自分の仕事である地圏部門の観測以外にも、夏作業でいろいろな仕事をしました。というかむしろ、夏作業の方をたくさんやったような気がします。昭和基地に来てから今日までに、すでに作業用革手袋5枚をはきつぶしました。指の腹からどんどん穴があいてしまいます。朝6時に起きて6時半にご飯を食べて、7時45分から朝礼をして8時から19時まで夏作業をします。それくらい働けばそりゃあ手袋もつぶれます。
◆観測棟の鉄筋の錆落としに始まり、プラントでコンクリートも作ったし、作ったコンクリートの打設も行いました。打設に関してはどうやらセンスがあるらしく、「お父さんは左官屋さん?」と言われたり、「パティシエ永島」と言われたりしながら、うまく乗せられて新倉庫の半分近くを打たせてもらいました。その様子は、日刊スポーツの小林記者のブログhttp://southpole.nikkansports.com/に写真が紹介されています。
◆その他、部材輸送のトラック運転手もしたし、夏作業ではクレーンをしょっちゅう使うので、玉掛けなんかもしました。前号で紹介したS17内陸拠点に関しては、2月に入ってから再び観測のために2泊3日の予定で行きましたが、同じ日程で、S17拠点小屋のジャッキアップと拠点撤収支援のオペレーションが走っていました。我々地圏は仕事を1日で終わらせて、残りはジャッキアップと撤収の支援にまわっていましたが、それでも人手が足りないということで、「永島さんは俺らと帰っても大丈夫?」「うん、大丈夫だよ」というやりとりの末、観測に一緒に来た人たちは一足先に戻って、私は作業支援のため居残り、延泊となりました。
◆夏作業期間中、「残業の女王」と言われていました。野外から帰ってその足で夏作業に戻り働いていると、私のいる現場はなぜか残業になるということが続けて2回あったせいです。どちらもプラントで働いているときでした。コンクリートは打ち始めたら一気に打たないといけないので、終わりまでやりきることが多いです。あるときは野外から帰ってきて夕方16時頃からプラントに入り、ご飯も食べずにそのまま22時までコンクリートを打っていました。S17で居残りを依頼された時は(内心とてもうれしかったのですが)残業の次は残留かぁと心の中で笑っていました。そして、残留の上、S17で残業していました(笑)。
◆S17はひと夏の観測を終え、小屋も立ち下げて完全に拠点を撤収するために、テント撤収、車両デポ、橇デポなどの仕事がありました。私は越冬2回目なので、すでに雪上車にも乗れるし、橇の引き回しもできます。そこまで考えて残留依頼をしたわけではないだろうと思いますが、いずれにせよ役に立てたことは確かです。非常に時間の少ない中、少人数での大仕事でしたので、無駄口を叩く間もなく皆が黙々と仕事をこなしました。それでもピックアップのヘリに皆駆け込みで乗るような状態で、ひっじょうに大変だった分、参加したメンバーの中ではすごくいい思い出になりました。
◆今振り返っても、本当に楽しい夏でした。最高の夏でした。昨日から35人の生活になり、まだ終わらない夏作業の続きを時間の作れる人たちで集まって昨日も今日も一生懸命やりました。夏隊の抜けた穴は大きいけど、これからはこの35人で何とかやっていかなくてはなりません。季節もどんどん変わり、夜はもう真っ暗になるし、最近はブリザードの手前くらいの風も吹きます。今日は雪も舞って、地面が白くなりました。
◆夏作業の残作業は、気候的に南極に夏が残っている間しかできません。もうあまり時間がありません。雪がついたらできなくなることがたくさんあります。気温の問題もそうです。丸一日外で働いていますから、私たちの身体にだって限界があります。越冬に入ったけど、まだあと少し、夏をひきずってがんばらなくてはなりません。1人が1人分の仕事をしていたのでは南極の生活は回りません。皆が少しずつ無理をしているけど、誰かが黙ってすごく無理をしてしまわないように、みんなで助け合ってやっていきたいと思います。(永島祥子@昭和基地 2月17日)
地平線通信の原稿が届くたび、おもしろさに感動する。書店に売っているどの本よりも面白く、変化に溢れているのではないか、とまで思う。編集の責任者が手放しの自賛ではまずいのだが、これは書いてくれた人たちへの率直なお礼の気持ち。いい内容が届くとほんとうに嬉しいのです。
◆結果的に地域もテーマも内容も相当ばらばらなものになっているが、ひとつのジャンル、表現方法に固定しない方針は多分これからも変わらない。通信を読んで地平線会議がファミリーのようになっている、という指摘もある。そういう部分もあるかもしれないが、それだけではない。地平線の持っているさまざまな顔。私たちはまだまだ変化してゆくのではないか、と思う。通信に関しては「ほんものの報告のおもしろさ」をいつも念頭におきつつ。
◆先月のこの欄でゼッケン番号まで書いてしまった東京マラソン。急な歯痛で出走取りやめました。ちょっと情けない。頬が腫れてしまい、あの荒れた天気ではムリ、と言い聞かせた。ちょうど上田から1年ぶりに上京したカミさんの母親が脳梗塞で倒れ、この1か月は病院に通う毎日でした。今はリハビリ専門病院で手厚い介護を受け始めているので少し安心。
◆病院に通いながらチームで介護に当たってくれている若い働き手たちの仕事ぶりに頭が下がります。ほとんど独身のようで、家族を持ったらやっていけない仕事なのか、と介護の現場の厳しい一面も見せてもらっています。
◆会場の都合で4月の報告会は28日の土曜日になりました。連休のまさに初日。それにふさわしいテーマと人を考えます。(江本嘉伸)
ウルドゥー一座[印・パ]ドサ回り
東京外国語大学ウルドゥー語劇団は、この2月〜3月の2週間、インド国内4都市(デリー・コルカタ・ムンバイ・プネー)で7公演を打ってきました。 ウルドゥー語研究室の3、4年生14名による渾身の演目は、漫画「はだしのゲン」をモチーフにしたミュージカル「HIROSHIMA ki kahani」です。 奇しくも20世紀末に核保有国となったインド・パキスタン。両国に通用するウルドゥー語は、長くムガール朝下にあった両国の基底文化を成す言語。その言葉で、日本人がヒロシマの芝居をするわけです。 '05年インド、'06年パキスタンと、2回の海外公演を果たしている一座。印日交流年でもある今年の舞台は、「やる以上は学芸会じゃダメ」という、座長・麻田豊助教授の方針で、プロの演出家について臨みました。「核のメッセージは、実は副次的なもの。外国語を学んでいるものが、ネイティブを前にどれだけ言葉でアピールできるかが、一番のテーマです」と麻田さん。「今の若者は、良い意味で“恥しらず”。物おじせず自己表現できる彼等にとって、語劇はいい修業になります」とも。 今月は、一座の学生達と麻田さんに、劇団の旅公演のてんまつを話して頂きます。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が100円かかります)
地平線通信328/2007年3月14日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力
レイアウト:森井祐介/編集協力:中島菊代 大西夏奈子 横内宏美
イラスト:長野亮之介/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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