1月の報告会は332回目だった。地平線会議のことも話すつもりだったので、丸山純さんに頼んで1979年9月の第1回報告会に始まる全報告会リストをつくってもらった。報告会レポートを担当してくれた車谷君が言うようにA3用紙の裏表にぎっしり書き込まれた報告者の名と報告テーマは、それだけで地平線会議が歩んできた歴史年表となる。
◆中には故人もいる。ふるい仲間たちは懐かしさとともに思い出すだろうし、はじめて記録を手にする人には地平線会議が歩いてきた道を知る大事な手がかりにもなるだろう。そんな気持ちで今回の通信に332回に及ぶ報告者リストを同封させてもらった。
◆地平線会議をはじめてしばらくの間、いや多分最近に至るまで、どこそこへ行ってきた、冒険してきました、というだけでいいんですか?と皮肉をこめて言われたことが何度もある。難民救援などで汗をかいている、いわゆるボランティア活動の専門家などは厳しかった、と記憶する。そんなノーテンキな活動で満足してるんですか?と、いう向きは今でもいると思うし、そういう見方をする人の心情は私自身理解する。
◆一方で、一歩ずつ重ねてきた私たちの歩みは、予想した以上に大事なことだったのではないか、という思いが最近は強い。続けるが勝ち、という言い方はしたくないが、急回転し続けてきた世の動きの中で珍しくもペースを変えずにやってきたこと自体、価値ある、おもしろいことだったのではないか。何気なく私たちがいま語っていることの中にあるいは後世にとっても大事な「資料」となる事柄がかくされているかもしれないとも思う。
◆チベットを目指したままついに帰らなかった能海寛(のうみ・ゆたか)のことを地平線会議で話したことはない。 能海は明治の中期 仏教の再生が叫ばれた時代、仏教の本質を求めてチベットに向けて旅立ち、1901年4月「身命を惜しまず」の一文を残して雲南省の奥地に消えた学僧である。当時34才だった。専門分野というのは大袈裟だが、どちらかというと自分のテーマと関心をここで押し付けることは避けてきた。というより、世界を果敢に行動する他人の行動の刺激を受けたい、という気持ちが圧倒的に強いのでそんな余裕はなかったのだ。
◆だが、最近能海寛のことを地平線の仲間にもっと知ってもらったほうがいい、と考えるようになった。ひとつは彼の「旅日記」の存在である。能海は若い頃から実によく文章を書いた。北陸、東北への旅、富士登山、伊豆七島めぐりなど学問のかたわら各地を歩き回り、そのつど丹念に記録をつけた。これからは英文で情報を発信しなければダメだ、と英文で書き続けた「Wisdom AND Mercy(知恵と慈悲)」というノート、も残っている。出版もされていないこれらの記述がいま、私たちには貴重な資料として甦っているのである。
◆能海の故郷、島根県に通ううち、一冊の本を入手した。1981(昭和56)年に出た「歴史の中の旅人たちー山陰の街道を往く」(藤沢秀晴著 山陰中央新報社)という本だ。この中で19世紀はじめ、天保と呼ばれた時代、松江藩士の小川光真という人が書いた「安永大成道中記提要」のことが詳しく紹介されている。松江から江戸までの道中の様子を細かく記したもので、各地の人情、風俗などが旅人にとって貴重なデータだったらしい。
◆1月の報告会の場で話した道中記とは、この本のことだ。本の大量出版も不可能だった時代、旅をするようになった人々が頼りにしたのは、「人国記」であり、この手の「道中記」だった。質の良い「道中記」は写本として後世に継がれてゆき、とりわけ女性たちが旅するようになってからは、精緻な「旅の心得」を盛り込んだ本がひっぱりだことなった。そうした中から能海寛のような海の外を目指す旅人が誕生した。
◆報告会の場でチベットの写真を見てもらいながら、100年以上も前、その地を目指しながらついに帰らなかった能海寛のような旅人、日本人の矢島保治郎と結婚したチベット女性、ノブラーのこと、その他の先人たちのことをしばしば思い出す。そんな歴史の1ページに立ちかえりながら新しいチベットもとらえたいと考える。
◆本多有香さんが出走しているカナダ・アラスカをまたぐ犬橇レース「ユーコン・クエスト」の進行を、刻一刻と見ながらこの文章を書いている。1頭の犬をなくすという大きな試練がすでにあったようだ。出走28チームのうち1チームは棄権した。だが、彼女は頑張り続けるだろう。東京のあったかい部屋で本多さんの苦闘をチェックしながら、その闘志に居住まいをただす気持ちに襲われる。行動する者にこそ文句なしの力がある。そして、今更ながら情報の素早すぎる入手。すごい時代を生きている、と思う。
◆どの時代にあっても、ひかり輝くのはなま身の人間の本気の行動であることは間違いない。時には時代を後戻りしながらそのことをこれからも伝え続けたい。(江本嘉伸)
人の暮らしのなかには、時代を超えてつなぎ止めている何かが潜んでいる。この一年間、地平線会議に行く度にその原始的とも言える様式に安堵感を覚え、そこに『絶やさない火』のような存在を感じ、僕はその火に惹きつけられているに違いなかった。それまで自分の旅で探していた「確かなもの」だということだけは解っていた。その話の輪の中心にはいつも江本さんがいた。みんなの持ち寄る薪を集め、火を守っている人のように見えた。今回、江本さんに「最近出入りしている若い人に」ということでレポートを頼まれた。はたして、江本さんの口からどの様な言葉が語られるのか。その想いを汲み取りたい一心で会場へと向かった。
◆江本さんにとっては実に7年ぶり、10回目の報告となる。A3サイズの両面を埋め尽くす「地平線報告会全リスト」が配られ、丸山さんの紹介が始まった。驚いたのは80年第10回報告会(江本さんにとって初めての報告会)のテーマだったチョモランマからの実況録音。ノースコル7000mからの「えー、ただいまノースコル…」息をはずませる江本さんの声と共に聞こえてくるヒマラヤの風の音、凍りついた雪を踏みしめる音。そこにはあの時と今を結びつけるような臨場感があった。これまでの江本さんの報告会の都度通信に描かれてきた長野画伯の似顔イラストが画面で再現され、江本さんが登場。「この場所で話すということ。それは本物を話さなければ通らない」という一つの定義をはっきりと指し示し、幕は開かれた。
◆まず江本さんは地平線カレンダーを手に取った。このカレンダー、昨年12月江本・長野両氏がダブルフルを走るハワイ出発間際に急遽制作が決まったという。7泊5日の日程のなか、長野画伯が捉えたハワイの一コマ一コマを、帰ってから僅か3日で高熱を出しながらも、丸山さんとのチームワークで仕上げた逸品である。江本さんはそんなお二人の、自分たちには一円も入らないのにみんなに少しでもいいものを届けたいという気持ち、そしてハードルを乗り越えて作品を生み出していくすごいところを地平線会議として自慢したいと語った。
◆モロカイ島に向かうフェリーから見た鯨には偶然のときめきが、フラの風景にはポリネシア文化のスピリットが、マウイのジャングルにはハワイの植生の多様性が、ひょうたん楽器には音楽の魅力が、一コマ毎にしっかりと刻み込まれている。江本さんはこう続ける。「どこに行こうと、短い時間だろうと、信念を持って自分に問えば必ず新しいものが見えてくる。そういう眼力、ハートを持てるかどうか」と。
◆江本さんは新聞記者という立場から、仕事としての取材を続けながら「これだけじゃないだろう」というメディアの限界を感じていた。地平線を始めることになる38才の頃から書くだけでなく本気で写真を撮るようにもなる。今ここにいる自分、そのことを残しておきたいという使命感からだった。用意された約80点の写真から何が浮かび上がってくるのだろう。一枚目はエベレストのスライドから始まった。天国のような世界が広がる。セラックと呼ばれる氷塔群、ノースコル、チベット、そしてネパールの山々…。辺りは静かで、何もない「我々だけの世界」。25〜30年前に時間をかけて登った山の風景である。「たとえばこの山を通じて、いま我々はどこにいるのか、どういう時代かを知ってほしい」。1953年ヒラリーとテンジンによる初登頂から1970年の植村直己さん(史上24人目の登頂者だったそうだ)と続いた世界最高峰の登山は、いまどうなっているか。今年のエベレスト登山者数はなんと約500人、登頂者数はすでに通算約3000人に達するのだそうだ。想像を絶する数字だ。今ではお金と相応の体力、好天気などの条件に恵まれれば熟達した登山家でなくとも登れる。登頂記録の裏側には登山者の渋滞があり、なかには何も背負わず登る人もいるという。市場経済の起こした大変革によりヒマラヤは目の前でそうなっていった。だからいけないと思うのか、そこまで自由になったとみるか、我々は問われている。
◆旅はチベットへと広がってゆく。どうしてもチベットへ行きたかった。当時オリンピック取材の計画もあったが、我を通した。自分を曲げず、しっかりと気持ちに従えば道は拓けるという確信を胸に、踏みしめたチベットの地で、江本さんは思わぬものにぶつかることになる。「遊牧」こそ主たる産業と信じ込んでいたチベット人の暮らしの中心は高地農業だったのだ。「先入観を越えて、自分の眼でしっかりとらえることが大切」。高地農業を支える動物は高地の牛、ヤクだ。人々はヤクの力を借りて麦を栽培し、脱穀する。東チベットには森があり、炭焼きまで行われている!松茸のおいしい料理やコワ(ヤク皮の舟)で川を渡る風景。写真から色褪せることのない江本さんの感動、そこに確かに流れていた時間が伝わってくる。と同時に「これからずーっとは見られるものではない」という寂寥感が漂っていた。最後の一枚は江本さんが心迷い、このままこの村に住み着いても良いのでは?と一瞬想うに至ったチベットの女性の写真だったことをここに付け加えておきたい。
◆北極圏へと場面は移り、「地球のいま」の話にも触れてゆく。氷は年々薄くなっている。軍事作戦での潜水艦の浮上の際にも確認されている。ホキョクギツネや狼、乱氷帯を越えていく犬ゾリのスライドに混じって現れるのは氷の世界への教会の進出、暗夜のカナダ北極圏の島の火柱にみる北極の資源。冷戦終幕直前に北極点で行われたカナダとソ連の冒険者(ソ連からカナダまで歩いて横断した)のセレモニーの写真からは、いま旅が出来るようになった背景にはペレストロイカ以降の時代の大きな動きがあったことを忘れてはならないという江本さんのメッセージが込められている。
◆江本さんが幾度となく足を運んだモンゴルも、凍てついた冬の風景の紹介から始まった。凍った湖面で蹄に釘を着け、1〜2トンの荷台をひいてゆく氷上馬ゾリ隊。人の知恵、馬のすごさ。しかし、2002年ゾド(雪害)に見舞われた草原では目の前で次々に馬が死んでいった。「干草を運んで助けてやりたかった」。春の出産。どうやって家畜を増やすかは、遊牧の暮らしの中心となるテーマだ。母羊と子羊がはぐれないように気を配る。授乳させるよう母羊に唄を唄う姿。らくだの授乳を手伝う子供達。それぞれが手を取り合って冬を越す。そうして緑の夏がやってくる。ナーダムの競馬や相撲、馬乳酒のある風景、踊りながらタルバガンを狩る風景。「馬を追いかける若者の姿はそれだけで芸術」。スライドはここで終了した。
◆報告会全リストを手に江本さんは語りかけた。これまでの332回、そのなかで我々がずっと学んできたもの、どんな風にテーマが変わってきたのかがわかる。今はもう既に亡くなった人達もいる。これ自体が私にとって厳粛なリストであると語る。今回の報告にしても何を伝えられるかを自分に問い、写真を選び抜いてここに立っている。そこで大事なことは「時代はどううねっているか」ということ。そして記録や数字ではとても言えないもの、「何を感じとってきたのか」が問われている。それこそが新聞記者をやりながら地平線へと惹かれていった大きな要であること。自分もその端くれであり、そういう人がもっと必要。どんなに慎ましい方法でも旅に行けるのは単にGNPが高い国の人達であり、そうすることが旅をする人間の責務であると江本さんは考える。
◆最近、江戸時代から人の手で書き伝えられてきた山陰地方の道中記を読んだという。そこには風土や人のことなど「旅する者の心得」が率直に書かれており、当時どんな情報が求められ、それを人々はどう伝えようとしたか、という事実を知り、感動した。一方、NHK特集で見た「グーグル」が今やろうとしていること。情報量、スピード、言語を越えて世界中にあらゆる情報が飽和しようとしている。テレビ、選挙をはじめとしてこの時代を取り巻く動き。いつの間にか我々は上手に操作され、コピーに振り回されてきている。旅をするにしてもほぼ7割まではあらゆるシステムのなかにあるのが現状ではないのか。そういう時代に異文化から何を持ち帰れるか。いま起こっているそのもう一つ裏側を見ること。地平線はそれだけは見抜きましょう。そしてそれらを若い人達と上手に解り合っていきたい。これまでの地平線報告者は全て、本気で話し、何かを残してくれた。これからも切実なものとして見守っていきたい。と江本さんは熱く語った。
◆話はハワイに戻る。3年前初めてホノルルマラソンを走ったときのこと。32km地点に「SADDAM CAPTURED!!」と書かれたダンボール板を持ったおばさんが立っていた。平和で穏やかなランナーたちの風景に飛び込んできたそのメッセージこそが衝撃的だったと話す。ハワイには日本との開戦のこと、ポリネシア文化のこと、またまだ話すべきことがたくさんある、とも。
◆最後に、江本さんは唄を披露した。「は〜れたそら〜 そ〜よぐかぜ〜♪」今回のタイトルにもつながる「憧れのハワイ航路」。江本さんの歌声のなかに何か大きなものが流れているように感じた。この唄から幼少時代の江本さんのいた時代背景が浮かんでくる。横浜育ち、当時は船旅でハワイは憧れだった。つい100年前までは移民の島として知られ、60数年前には真珠湾攻撃の現場となったことを我々民族のDNAはどんどん忘れていく特質を持っているのでは?8才の時に流行したこの唄を口ずさむたび、皮肉を感じるという。
◆もう一枚配られていた資料がある。自身がまとめたその名も『エモ侍ふらふら旅日記』。1940年、ジョン・レノン誕生の前日に生まれたことから現在に至るまで、自身の歩んできた道のりを流れる時代の出来事に照らし合わせ構成されたもの。こうしてみると紙面から江本さんが時代を含めてどこを旅してきたのかが驚く程によくわかる。
◆今回の報告会で江本さんが自ら示してくれた大切なことがある。個人の意図とは関係なく、時代は常に大きく動いているということ。人は皆そのなかでささやかな、時には壮大な旅をしているということ。僕の心にはなによりも「時代を旅した人」という印象が強く残った。ジャーナリストとして培った、時代や社会を同時に捉える感覚。山から極地まで現場へと飛び回る脚力。これまで一貫して貫かれた「常に自分に問い続ける姿勢」それがある以上、江本さんの旅は終わらない。
◆そしてやはり、江本さんは火の守り人であった。地平線というこの場所に集まる人の輪のなかには、生きた情報がストックされている。江本さんの写真はどれも時代を越えて更に輝きを増すものばかりだった。様々な積み重ねを経て今の自分が語るいつでも新しい話。それを感覚的に自在に差し出す巧みさに驚嘆した。当然なことながら、皆人生のスタート地点は違う。しかし、それぞれの火を集めて分かち合い、そこに浮かび上がる灯りを皆で一緒に見ていくこと。それは昔からそうであったように、人が生きてゆく上で本当に必要なことではないだろうか。僕自身もそこから火を分けてもらい、いつでもその火を胸に、目の前に広がる地平線にかざせるように生きていきたい。最近、江本さんは日本に目を向けている。先ずは沖縄と目を輝かせている。僕は地平線にその新たな火がくべられる日を心待ちにしている。(車谷建太 30才の津軽三味線弾き)
80頭余りのラクダの行軍は、この日、標高3,458メートルのキャンプを出発してアルティン山脈を越える峠に差しかかろうとしていた。ラクダの群れは、中山服を着た数名のラクダ使いによって7, 8頭ずつの小隊を組み、私たちはそのラクダの背に上下に大きく揺られていた。
◆3日前の嵐以来、特に天候は崩れることなく安定していて、順調に距離を伸ばしている。キャラバンは岩山のあいだを抜ける峠へ向かって、からっからに乾いて赤茶けた沢筋をぐんぐんと登っていく。10時には高度計が3,720メートルを指して、行軍は特に停まることもなく淡々と峠を越えていった。私は自分のラクダを降りて、一行が山道を進むのをビデオカメラの映像に収めていた。
◆と、「落ちたー! ゲンちゃんが落ちたー」という日本語が隊列の先から聞こえ、岩山の峡谷にこだました。カメラを抱えて、先のほうで停まっている小隊を目指して、走った。ラクダの足下から少し離れた地面に、ラクダから振り落とされた少年が横たわっている。彼の顔と髪は砂まみれになっている。かすり傷からわずかに滲み出た血が痛々しいが、意識ははっきりしているようだ。他の隊員が集まってくる中、北京協和病院から同行している医師が「軽い脳震盪だ」と診断した。みんな1回は経験している(「落駝する」と言っていた)ものの、背の高いラクダから落ちれば致命傷になることもある。
◆カメラのファインダー越しに、ゲンちゃんの目に涙が浮かんでいるのが見えた。痛いのではない。悔しいのだ。約2週間前に敦煌郊外を出発してから共にしている自分のラクダに裏切られたことに。転落を招いた自分の油断に。その日、彼はサポートの人民解放軍トラックに乗せられて、次のキャンプまで先に行くことになった。
◆この「シルクロード探査隊」またの名を西域南路ラクダ隊は、1989年に公募された隊員を中心に1年近くを準備に費やし、1990年3月22日から約1ヵ月をかけて、敦煌から若羌(チャリクリク)までの約700キロをラクダの行軍で踏破した。朝日新聞の楼蘭探検隊に刺激を受け、ヘディンやスタインの紀行を次々に読んでいた私はまだ高校生で、キャラバンの準備と受験勉強とを同時にやってのけて、結局大学よりも砂漠の道を選んだ(その後、東京に帰ったら、入試の合格通知が届いていたので、1年遅れで入学した)。
◆準備の段階では自分ともうひとりの高校生が隊員の中で最年少だったのが、出発直前になってなんと中学生が加わることになった。それがゲンちゃんだった。中学生とは言え、言葉では大人に全然負けていない。旅の間も、貴重な食糧から酒のつまみを失敬しようとする大人を叱りつける。高校生からすると、ずいぶんナマイキな弟分だった。キャンプではテントから少し離れたところでGPSのアンテナを持って立つ彼をよく見かけた。当時のGPSは衛星からの信号をキャッチするまでに、途方もなく時間がかかった。風が強くて砂が舞う日には、ついに衛星が捉えられないこともあった。それでもキャンプの位置を毎晩測定するのは重要な仕事で、他の隊員が寝入った後に外でそんな彼を見かけると、本当に頭が下がった。
◆もう17年が経つ。年明けのある日、ゲンちゃんの父上からメイルが届いた。訃報だった。ゲンちゃん、源田義之くんが昨年12/13、京都の自宅マンションから転落して亡くなったのだという。1/27、地元の同級生が主催した「偲ぶ会」に参加するため、京都を訪ねた。学生時代に一度訪ねた古い京都の商家は、改築して5階建てのマンションになっていた。あの中学生が、もう30歳だ。彼の両親を混じえ、思い出話は尽きなかった。私が撮影したあの映像も、両親の手元にあった。13歳だった彼の参加を許した両親に、いまや同じ13歳の子供を育てる身として敬服する。
◆「義之の人生が短かったとは思わない。十分生きたと思う」。そう語る父上に、今度はこっちが涙を流す番だ。ゲンちゃん、悪いがまたトラックに乗って先に行っててくれ。こっちはラクダに揺られて、ゆっくり行くから。(落合大祐)
★3月の地平線報告会は23日の金曜日です!★
■江本様、今日は。御無沙汰しております。いつも楽しく地平線通信読ませていただいております。313号で京都の愛宕山のことと、山頂での楽しかったワインのことと併せ今西錦司のことを書いていただきました(注:05年12月号通信のフロント参照。大槻さんは京都北山の江本の師)が、今日又、一つ興味深いお話しを(山屋さんにとってですが)と思ってお便りしました。
◆今年は観測50周年ということで南極のことが話題になりますね。通信の「南極便り」楽しく読ませていただいてますが、私達の年代は第一次越冬隊のことが忘れられません。48次となった今、若い世代の人には第一次越冬隊長西堀栄三郎氏の名前は知らない人が多いだろうと思うのですが…。
◆そこで313号のフロントで書かれた今西さんと西堀さんのことです。京大の三羽ガラスと言われた桑原武夫を加えた三氏は、それぞれ各分野で活躍されましたが、皆スタートは山登りではなかったかと思います。私的なことですが、西堀氏の奥さんは今西さんの妹で、言わば西堀氏は今西さんの兄貴分であります。ところが、初登山のことでは西堀氏の方が兄貴分なのです。
◆前回今西氏は中学の時に初めて「愛宕山」を登ったと紹介しましたが、実は西堀氏は同じ愛宕山を小学生の時にすでに登られていて著書に「山登り事始め」として書かれているのです。奇しくも、京都の山屋さんの御大は第1山を共に「愛宕山」を登られていたのです。どこかで読んだのですが南極越冬隊長に選ばれたのも「山屋」さんだったと…。その原点が愛宕山であり、今年50周年の昭和基地記念に何か熱いものを感じたのです。
◆参考コピーと併せ通信費同封いたしましたのでよろしく。○12/31 15cmの雪の中、愛宕山頂でテント張り、1/1 日の出を三角点から拝んで来ました。殊のほか素晴しい初日出でした。お守はその時のものです。適当に御利用下さい。(愛宕山は火伏の他イノシシも知る人ぞ知る名物です。)(2007.1.30 京都・大槻雅弘)
★お守感謝です。走る時もウエスト・バッグに入れています。(E)
■中央線の高円寺駅の徒歩圏内にある27000円のアパートにここ4年ほど住んでいた。4畳半+2畳半と広さはそこそこだが、値段相応の物件だった。風呂はなくトイレは共同、建ててからおよそ50年もたっているからか建物そのものが傾いている。大雨が降ると下水が逆流してくるのか糞尿の臭いがした。ネズミにゴミを食い散らかされ、おまけに押し入れに入れていた資料に小便を引っかけられる、といったことがしばしばあった。
◆物件を契約した当時は旅にピリオドを打ったばかりだった。サハリン、台湾、韓国、北朝鮮、旧満州、ミクロネシアと足かけ3年以上、日本中をバイクでブラブラしながらまわったあとで、旅を終えた達成感はあったし「日本の足あと」についての本を出すという決意は固かった。だがこれといった収入は何もなく日々の生活に困るほど貧しかったし、どうやって生活していったらいいのか。生活プランを考えるたびに暗たんとした気分になった。
◆2年たった一昨年「日本の足あと」の旅が『僕の見た「大日本帝国」』というタイトルで出版されると途端に風向きが変わった。少しは自分の人生について明るい光が見えてきた。だが僕はそれでもなお、自分のことを信用していなくて、そのアパートにしつこく住んでいた。左団扇で暮らすほどでなくても、自分の文章でずっと生活が維持できるなんて人生はそんなに甘いものではないと固く信じていたのだ。
◆そのアパートを4日前の2月7日に引き払った。ずっとこの格安物件に住み続け、好きなことを追求していこうという決意は固かったはずなのだが、いろいろあって引っ越しを決めた。訳あって理由はまだ言えない。生活は今後も不安定だろうけど、暗たんとした気分になることはもはやない。置かれている環境が変わってきたので、それにともなって自分の心境がこのところずいぶん変化してきているのだな。えへへ。
◆自分の好奇心を追求するという基本はぶれないし、それどころかそうした探求心はますます強くなっているような気がする。それにそうした旅行を仕事として回していける環境が整いつつあるのも心強い。「日本の足あと」に続くテーマは「日本の国境」。一昨年は沖ノ鳥島に硫黄島、去年は北方領土、竹島、対馬に小笠原と渡り歩いた。なかなか行くことの出来ない場所が多く渡航にはけっこう難儀しているし、行ったら行ったで日本の外務省から抗議を受けたり、韓国の警備隊やロシアの秘密警察に監視されたりと「面倒くさい」ことが多いが、もうすぐ区切りがつくのでしっかりやり遂げます。
◆2月末からは尖閣諸島と与那国島へ行ってきます。関係者の話を集めに香港、台湾、石垣にも立ち寄る予定です。(2月11日 西牟田靖)
今年初めての地平線報告会が終わり、三次会野宿が初参加の僕は野宿党の党首である安東さんに尋ねた。「安東さん、今日も三次会の野宿はやるんですよねぇ。」「そんなのあたりまえじゃないですか、やらないわけ無いじゃん!」
◆地平線報告会が終わり、北京で二次会のあと、「野宿野郎」達は鶴巻公園に向かった。着くなりすぐさま、安東さんがアンコウ鍋の準備にテキパキと取り掛かる。その間に江本さんが温かい飲み物を差し入れしてくれる。お汁粉やコーンスープ、中には加藤千晶編集長が山辺さんのために選んだキンキンに冷えたドクターペッパーも。
◆総勢10人が都会の公園に集まり、味噌味のアンコウ鍋を食べながら談笑に花を咲かせた。海宝さんからの幻の泡盛をのみながら。寒空(と言っても5度くらいでしたが)の下での泡盛は身体がカーっと温かくなって美味しかった。12時過ぎに江本さんは帰宅。その後も残りの鍋を食べまくった。途中で鍋をひっくり返しそうになり、山辺さんにレポートのいいネタを逃しましたねーとつっこまれながら、3時半頃まで楽しいトーク。安東さんのバイカー仲間の話が面白いこと。徐々にみんなお休みモードに入っていった。
◆明け方6時頃、公園の清掃の人達に続きラジオ体操で集まった人達の声で目が覚めた。安東さんは娘さんを幼稚園へ送るために、一足先に帰宅していった。みんなは寝袋の片付けをしながら何となくラジオ体操に参加していると、あたりはすっかり明るくなっていた。解散の準備をしながら面白かったのが、丸の内OL風のイクちゃんの格好。どう見ても、さっきまで野宿していた女性には見えなかったからだ。
◆一月の地平線会議は木曜日だったこともあり、野宿野郎の中にはそのまま職場に向かう仲間も何人かいた。都会の公園で野宿した後、何食わぬ顔をして電車に乗り職場に向かうのは結構気持ちがいい。何となく生命力が強くなったようで、都会に生きる逞しいカラスたちの姿に親近感が湧いてきた。「おーカラスさん、おはよう。あなた達も野宿なのね。ついでにゴミ置き場から食料まで調達ですか。なるほど、立派ですね。」ってそんな気分。こんな発見があるのも、参加したからこそ。初参加ですっかり野宿の魅力に取り付かれてしまった。仕事を終えて公園で寝泊りするのも悪くないかなと、職場に向かう途中に電車の中で思った、初めての地平線三次会野宿でした。(2月2日 山本豊人)
■こんにちは、先日は地平線会議後の「公園野宿」に参加させていただき、すっかり「魅惑の野宿」にはまってしまうそうな予感です☆しかもその為にモンベルの寝袋を購入したくらいですから(笑)(寝袋吟味には地平線会議のみんなに色々とアドバイスをいただきました)
◆野宿仲間の皆さんは、寝袋の使い方など分からない素人の私に、手取り足取り教えてくれて☆☆地平線会議に参加させていただくようになってから、ほんとに素敵な仲間に出会えて、楽しく過ごさせていただいております。江本さんとエミちゃんに感謝☆感謝の気持ちいっぱいです。
◆次は自転車購入を企んでおりますっ!!幸いにも地平線会議の皆さまは自転車に精通した方も多く、「北京」ではビール片手に、自転車について聞きまくっております☆☆江本さんも次回野宿に参加されてみては?? では、次回の地平線会議、楽しみにしております☆☆(1月31日 中山郁子)
地平線ポスト宛先
〒173-0023
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〒160-0007
東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)
Gonです。今週末の便で一時帰国します(通院の為)。南米一、お洒落にうるさいアルゼンチン共和国の首都、ブエノスアイレス随一の商店街(東京に例えれば、銀座四丁目の交差点あたり)で靴磨きを頼んだ所、現地の人にはAr$4に対してなかなか価格を言わない! やっとAr$5。やっぱり吹っかけて来たかと思うが、その価格で交渉成立。
◆磨き始めて直ぐに、英国クラークス社の今シーズンモデルだねと言われてビックリ! 価格が高かったのは靴のせい。階級社会の決して裕福とは思えない彼が靴をひと目見ただけで客をランク別けしている事に、南米では本当に身なりは重要だと再認識させられた一日でした。(2月2日 岸山ゴン)
■通信費ありがとうございます■
先月以降通信費を頂いた方々です。記載漏れはなにとぞご指摘ください。
福原安栄/矢次智浩/飯野昭司/乾哲彦/北川文夫/菅原勉/中山嘉太郎/吉竹俊之/荒川昭/落合大祐/大槻雅弘/外間晴美/中山郁子/金子浩/又吉健次郎/小山良子/田中雄次郎
■お久しぶりです。ゆみこです。お元気にしていますか?「あ、しまった今年の地平線カレンダー買ってなかった!」と思って焦ってメールしました。もう売り切れちゃいました?もし、まだあるようでしたら、一部お願いします。長野画伯のカレンダーを見ないことにはなんだか落ち着かない。
◆暖冬といえど、朝晩の福島は氷点下に冷え込んでいます。私は裁判に明け暮れた1月を終えようとする今、その間にため込んだ原稿の締め切りに追われまくっています。次から次へとまさに機械的に出される原稿依頼のあまりの多さに発狂しそうになることもありますが、一人でぶつぶつ言いながらしこしこと書き進めています。なんだかんだと文句をたれながらも、しかし書き始めると時間を忘れて没頭してしまう、そんな仕事を就いているということはもしかしたら、いやきっと?幸せ?…なのかもしれません。そんな毎日です。
◆気が付けば「3年は辞めない」と公言していた3年目も残り僅か。ちっとも「一人前」になどなっておらず、勉強することは山ほどあって、この“サラリーマン記者業”まだまだ辞められそうにありません。今年はちょっと本腰を入れて、長めの記事をたくさん書こうと思っています。ますます婚期が遅れる?…それは言わないで下さい。長くなってしまいました。カレンダーの残り、ありますかね〜??(1月30日福島発 菊地由美子)
こんにちは。今年の気候はほんとにヘンですよね。朝最低気温だったのに、日中はこの冬の最高気温が出たというように。雪も降らないから、きっと今年の夏は、水不足ですね。作品展、ことしも以下のようにやります。
「飛騨・高山クラフト展」
場所 日本橋三越本店本館7階催物会場
会期 2月15日(木)〜18日(日)
時間 15日 10:00〜18:00
16日〜18日 10:00〜19:30
木工、陶芸、吹きガラス、切り絵、染色等のクラフト作家14名の作品が並びます。見ごたえのある展示会になりそうです。私も会期中は、会場にいますので、皆様、是非いらしてください。
◆私は、植物染色のシルクショールやスカーフを出展します。植物染色というと落ちついた(地味な?)色合いを想像されるかとおもいますが、一位(いちい)で染めたオレンジ、コチニールで染めたピンク、ざくろで染めた黄色、ログウッドで染めた紫、等々。色鮮やかな春らしい展示になります。大判のショールは部屋に飾っても素敵です。今回は帯揚げも用意しました。着物をお召しになる方にも楽しんでいただけると思います。昨年は鎌倉と船橋での展示会でしたので、東京では二年ぶりになります。(飛騨高山発 中畑朋子)
先日は久々に報告会に行く事ができました。凛果(りんか)も首がすわって、おんぶや縦抱っこができるようになっていたので、12月の通信を読みながら密かに上京計画を立てていました。といっても子供らの体調や夫の休み等がうまくかみ合うか、直前まで行けるかどうかは5分5分でしたが、たまたま夫が休日で颯人の面倒を買って出てくれたので、よお〜し行くぞ!と上京してみました。
◆2007年のお初だし、何より江本さんが報告者という事でワクワクしました。案の定、チベットやモンゴルの写真で旅心がくすぐられてしまいました。でも背中で眠る娘のぬくもりが「今はまだ、旅心はそっと埋み火にしておくしかないよ」と言っていました。北京の餃子も野宿も今しばらく埋み火だなぁ…でもいつも心の中は熾き火です。笑
◆長野画伯のハワイのカレンダー素敵でした。意外かもしれませんが、私はハワイも大好きです。江本さんの「憧れのハワイ航路」にはびっくりしましたが(多才だという意味で!)よかったです。あはは! またチャンスを見つけて報告会に行きたいです。(2月5日 青木明美)
■先月の発送請負人 森井祐介 関根皓博 藤原和枝 落合大祐 車谷建太 村田忠彦 江本嘉伸 山辺剣 妹尾和子
この度、『坊っちゃん』の舞台、四国の松山にて前代未聞のチベット人学生を招いての「翻訳合宿」を行う運びとなりましたので、これまでの出来事を振り返りつつその経緯を御報告致します。
◆第306回目の地平線会議報告会で、まとまりの無い話をしたのは、2005年1月28日の金曜日のことでしたが、それがすべての始まりでした。その年の冬には山と溪谷社から、『チベット語になった「坊っちゃん」』が刊行され、本の宣伝も兼ねて当世流行りのブログを立ち上げて、『旅限無』の名で蟷螂の斧をネット上で振り回していましたら、忘れもしない2006年の旧昭和天皇誕生日の4月29日、拙ブログに悪い冗談としか思えないコメントが「日本語」で書き込まれたのでした。
◆「お久しぶりですがお元気でしょうか。私はアムドで先生の教え子になったアガンジェでございます。……早速購入し、徹夜して読みました。……先生の本を読むうちになぜ?先生が坊ちゃんを翻訳させていただいたのかを明確に理解できました。……」多少の不自然さが有るものの「てにをは」だけは異様に正確な、紛れも無く「我が生徒」からの便りでした。
◆その後に判明した事ですが、来日していた翻訳組は奇しくも「7人」でした。教え子達との「日本語」による奇跡のような交流が始まったばかりの2006年5月20日、『坊っちゃん』誕生100周年の幟旗があちこちに立っていた四国松山市に乗り込んで、「正岡子規記念博物館」などと言う畏れ多い場所で講演会を開いて頂きました。中国青海省での留学体験をお話ししつつ、不思議な日本語授業の風景や、『坊っちゃん』をチベット語に訳す様子をビデオ映像で御覧に入れたところ、貧しげな教室風景と生徒達のぎらぎらする眼が強く印象に残ったとの感想を頂き、話の締め括りに生徒が日本語で書いたメールを紹介したところ、司会を務めて下さった松山北高校の片上雅仁先生が、閉会の挨拶で「このままで終わらせたくはありませんね」と熱く語り掛けたのでした。
◆思えば、当時は外国人には未開放だった青海省共和県チャプチャ鎮に留学できたのも奇縁なら、それが「チベットに消えた旅人」能海寛が落命してから、丁度100年目の1998年だったと言うのも不思議な因縁で、新発見の資料を駆使して見事な伝記を書き上げていたのが地平線会議の江本嘉伸氏というのも奇縁でありました。
◆それが松山にも続いていたらしく、「このままでは終わらせない」話がその後も生き残り、学業とアルバイトに忙殺されている生徒達の「松山だけは特別な場所なので、一度は訪れたい」と言う声に呼応して、漱石が上陸した時に目にしたとも言われる、浜辺の塩蔵を改造した立派な施設を所有する方の御協力で宿泊の問題が氷解すると、拙著を酒の肴にして下さっていた方々が、あれこれと知恵を出し合っている内に、瓢箪から駒が転げ出したのだそうです。
◆著者には無断で「『坊っちゃん』チベット語訳の完成を支援する会」が結成され、チベット人の翻訳者達を招いて『坊っちゃん』の現場を案内し、地元の愛媛大学でシンポジウムを催して無理やり翻訳を再開させ、その勢いでチベット語版の『坊っちゃん』を完成させようという、恐ろしく迫力の有る企画が出来上がってしまいました。松山に行くなら、是非とも船で上陸しなければならない、と勝手な事を言い出すと、「今は赤褌の艀は居ませんが……」との返事が跳ね返って来るのが松山の土地柄で、「色町の団子」「マッチ箱みたいな列車」「遊泳禁止の温泉」と見学ツアーの内容も直ぐに決まってしまいました。
◆松山上陸は3月9日の朝に決行されます。件の宿泊施設に落ち着いてから、早速、『坊っちゃん』ツアーだそうです。案内は愛媛大学の学生諸君と地元の有志の皆さんで、翌日の午後がメイン・イベントです。場所は愛媛大学共通教育本館33教室、視聴覚施設の備わった120人収容の部屋だそうです。開会の御挨拶を頂いてから、ビデオ資料を使ってチベット語と日本語の類似点を説明する講演が40分。これは小生が務める長めの「前座」で、メインは翻訳授業のデモンストレーションです。
◆拙著に書いた通りに、日漢大辞典→漢蔵詞典→蔵蔵辞典→蔵漢大辞典→中日辞典→国語辞典をリレーする曲芸が再現され、「てにをは」の完璧な対応関係も黒板の上で証明されることでありましょう。予定しているのは「幻のバッタ事件」の翻訳ですから、最後の参加者とのフリー・ディスカッションはきっと盛り上がるに違い有りません。
◆拙著の副題は「草原に播いた日本語の種」でしたが、どうやら黄砂に乗って日本に飛来した種たちは知らない内に芽吹いていたようで、それに水をかけて更に大きく育てようとして下さる方々に出会ったというのは、近年稀に見る「美しい国」の、心温まるお話だと思いませんか?すべてのイベントは無料なので、御興味の有る方はご参加下さい。(2月11日 いわき市 中村吉広)
■2月11日朝日新聞の「天声人語」で中村吉広さんと教え子たちの交流が紹介された。地平線会議を縁とした出来事でもあるので以下にその内容を転載させていただく。(E)
【天声人語】2007年02月11日(日曜日)付
「ヨコタテ」といえば、翻訳を少々揶揄(やゆ)した言葉だ。横文字を縦に置き換えるだけではないか??。だが中村吉広さん(48)の『チベット語になった「坊っちゃん」』(山と渓谷社)を読むと、翻訳が、言葉の置き換えを超えた異文化のぶつかり合いだと分かる。▼中村さんは98年から4年間、チベット仏教を学ぶため中国青海省の民族師範学校に留学した。最後の1年は請われて日本語講師となり、チベット人教師や教え子と、漱石の『坊っちゃん』の翻訳に取り組んだ。▼題名は、貴族の子息への敬称をそのまま使えた。だが冒頭の「親譲りの無鉄砲で……」で早くも思案する。名調子は結局、「父母の慎重さを欠く気質を受け継いでいたので」と律義な訳に落ち着いた。▼以降も山あり谷あり。「赤ふんどし」とは何?「茶代」って賄賂(わいろ)? 「猫の額程な町内」も、無辺の地に暮らす人には分かりづらい。「漢学教師」は「中国語の先生」とは違う、などと互いの文化、風土を行きつ戻りつ、全体の3割まで訳した。だが中村さんの帰任で中断する。▼その中村さんと、日本に留学中の当時の教え子7人が来月、小説の舞台の松山市に集う。著作を読んだ愛媛大学の有志らが、完訳を支援しようと「翻訳合宿」を企画した。「道後温泉」や「坊っちゃん列車」など、ゆかりの文物を見つつ翻訳を進めてもらおうとの計らいだ。▼有志はチベット語対訳版の刊行をめざし、合宿中に公開のシンポジウムも開く。教え子たちは、『坊っちゃん』がどれほど市民に愛されているかも、肌で感じることだろう。
■お世話になっています。おかげさまで、puujeeが色々な賞をいただくことができました。上映スケジュールと一緒に報告します。
[1]「EARTH VISION 第15回地球環境映像祭」環境映像部門で入賞しました。「EARTH VISION 地球環境映像祭」は、環境をテーマとしたさまざまな映像を通して地球環境について考えることを目的に、日本を含むアジア、オセアニア・ポリネシアに広く作品を公募し、コンペティション形式の上映会を行っています。今回、応募作品131本の中から、入賞作品として10作品(オーストラリア1/韓国1/タイ2/台湾1/日本4/フィリピン1)が選ばれています。3月9〜11日の映像祭本番での上映は、3月10日(土)18:10からです。
アース・ビジョン組織委員会事務局 TEL : 03-5362-0525
http://www.earth-vision.jp
[2]2006年第80回キネマ旬報ベスト・テン、文化映画第3位に選ばれました。
[3]新文芸座 2006年秀作映画30に選ばれました。上映は、3月21日(祝) 新文芸座 TEL:03-3971-9422
(本所稚佳江 puujee製作委員会)
■puujee上映スケジュール■
- ★プージェー上映会
- 2月23日(金)18:30/会場:曳船文化センターホール/TEL:03-3616-3951/入場料:前売:大人800円、こども400円、当日:大人1,000円、こども500円/問合せ:NPO法人雨水市民の会 TEL:03-3611-0573
- ★プージェー上映会
- 2月26日(月)[1]16:00/[2]19:00/会場:パレット市民劇場 TEL:098-869-2155/入場料:前売:大人1,000円、こども500円、当日:大人1,200円、こども600円/問合せ:アーウ・エージの会(アーウ・エージとはモンゴル語でお父さんお母さんの意味)TEL&FAX:098-897-1379
- ★倉敷商工会議所青年部10周年記念 puujee上映会
- 3月4日(日)9:00/[1]12:30/[2]15:00/会場:ライフパーク倉敷TEL:086-454-0011/入場料:無料/問合せ:倉敷商工会議所 青年部 近藤・片山 TEL:086-424-2111
- ★第15回地球環境映像祭 環境映像部門入賞
- 3月10日(土)18:10/会場:四谷区民ホール/参加費1日1,000円 /問合せ:アース・ビジョン組織委員会 TEL:03-5362-0525
- ★新文芸座 2006年秀作映画祭
- 3月21日(祝) 上映時間未定/会場:新文芸座 TEL:03-3971-9422/入場料:前売1,100円 当日1,300円
- ★プージェー アンコール上映会
- 3月25日(日)[1]10:00/会場:千葉県木更津八幡台公民館 TEL:0438-36-4010/[2]14:00[3]18:00/会場:袖ヶ浦市民会館大ホール TEL:0438-62-3135/入場料:500円/問合せ:子どもるーぷ袖ヶ浦 TEL&FAX:0438-63-2850(田中)
- ★フォルツァ総曲輪
- 4月17日(土)〜27日(金) 時間未定/会場:フォルツァ総曲輪 TEL:076-493-8815
- ★プージェー上映会
- 4月21日(土)[1]14:00/[2]19:00/会場:松本市中央公民館Mウィング TEL:0263-32-1132/入場料:前売1,000円(予定)当日/問合せ:松本シネセレクト 宮崎 TEL:0263-98-4928
- ★関野吉晴トークとプージェー上映会(仮称)
- 4月28日(土) 時間未定/会場:宮崎市民プラザオルブライトホール TEL:0985-24-1008/入場料:前売1,000円/問合せ:プージェーみやざき実行委員会 與田 0985-22-8890
- ★メイシネマ
- 5月3〜5日の内1日1回上映予定/会場:小岩コミュニティホール TEL:03-3659-0179/問合せ:メイシネマ TEL&FAX:03-3659-0179 藤崎
- ★プージェー上映会
- 5月20日(日)13:30/会場:新潟ユニゾンプラザ TEL:025-281-5511/入場料:前売:大人1,000円、こども600円、当日:大人1,200円、こども800円/問合せ:新潟・市民映画館シネ・ウィンド内「プージェー」を見る会
- 橋本TEL:025-243-5530
- ★プージェー上映会と山田監督のお話(仮)
- 6月8日(金)夕方予定/会場:須崎市立文化会館 TEL:0889-43-2911/入場料:未定/問合せ:須崎市立文化会館 TEL:0889-43-2911
- ★経王寺 寺子屋映画会
- 6月9日(土)[1]13:30 [2]17:30 /関野吉晴氏講演、関野吉晴氏と山田和也監督のトークの予定あり(未定)/会場:経王寺本堂 TEL:03-3341-1314/入場料:前売2,000円、当日2,500円/問合せ:経王寺 TEL:03-3341-1314
カナダ・アラスカの国境を超える「世界一過酷な犬橇レース」ユーコン・クエスト(Yukon Quest)が現地時間の2月10日午前11時(アラスカと日本の時差は18時間)、スタートした。昨年と逆にカナダ・ユーコン準州の州都ホワイト・ホースを起点にアラスカのフェアバンクスまで1000マイル(1600キロ)を競うレース。昨年、悪天候の中、無念の強制リタイアを強いられた本多有香はじめ28人のマッシャーと犬たちが参加、戦い続けている。
◆本多さんは10日12時18分、28チーム中27番目にスタートした。3分の差で順番にスタートするのでこの時点でトップとは1時間18分の差。最初のチェックポイントBraeburnまで100マイル(160キロ)は13時間19分をかけて走りきり、21番目に順位を上げた。次のCarmackまでの70マイル(112キロ)が、橇の落ちやすいクリークがあるなどコース選定が難しく、他の区間より距離は短いもののコース中でも最難所のひとつ、とされる。本多さんはこの区間で犬を1頭失い、動かなくなった5才の犬を橇に乗せて11日22時51分、Carmackに着いた。この時点では23位、この区間に16時6分かかった。
◆クエストで犬の健康管理へのチェックは極めて厳しいが、偶発的な事故だったため、本多チームはレース続行を認められ、12日20時50分には第3のポイントであるPellyCrossingに到着した。ここを13日02時50分、21番目にスタートしている。
◆13日午前3時、ステッピング・ストーンに到着。この時点で19位。なお、1チームは棄権した。
★ユーコン・クエストとは、アラスカのゴールド・ラッシュ時代にフェアバンクスからカナダ・ユーコン準州のホワイトホースまでの1000マイルを郵便を運んだ「犬ぞりの道」をたどるレース。世界最長の犬ぞりレースとして知られる「アイディタロッド」(1800キロ)より距離は短いが、そのコースの難しさから「世界一過酷なレース」といわれている。マッシャー(犬橇使い)たちは14頭の犬とともに集落がほとんど存在しないアラスカの大自然の中、凍った川の横断、山脈越え、視界不良の原野を突っ走り、本州縦断に匹敵する長距離を大体2週間で走りきる。日本人ではアラスカ在住の舟津圭三さんが98年の第15回大会に出走し、見事8位でゴールしている。女性のマッシャーも多い(今回も5チームが出走)が日本人女性は本多有香さんがはじめて。(E)
江本さん、お元気ですか?「浜比嘉だより」すっかりごぶさたしてすみません。
こちらは相変わらずたのしくやってます。最近バイトをやりはじめ、なかなかのんびりするヒマがなくなりましたが、それも3月までの期限付きなのでがんばってやってます。通勤時間5分、港にある建設現場の事務所です。お茶いれやコピーとりなどしています。今はのぼるのシーカヤックガイドの仕事もオフシーズンなので、ちょうどいいかな。でも私は畑と牧場仕事の方がすきなんだなあと思う今日この頃です。
◆さて、この島は正月は旧正月が本番なので、まだ正月がきた感じはしません。2月18日が本番です。すごく面白いのでぜひぜひ来てみてください。朝からおどりと祈りと三線、島酒です!最近は三線の練習もさっぱりなので、旧正月にむけてちょっと練習しておかないと!!あ、あと3月11日(だったかな?)にうるま市民劇場でここ、比嘉の舞踊「比嘉のパーランクー」を披露することになり、私と外間さんも地謡として出演することになりました。その練習もしなくてはいけません。
◆ところで通信に書かれていた長濱さんという方の文、すごいですね。どういう方なのでしょう。一度お会いしてみたいです。古酒づくりの名人ですか?私は日本酒は作っていたけど泡盛はまだ勉強中なので興味深いです。グスクの太陽のしかけを実際に確認しに行くなんてすごい。私も一度見に行ってみたいものです…。なかなかヤギ、アヒル、犬、にわとりがいるから出歩けないけどね。長濱さんとお話することがあったら「浜比嘉方面に行ったら外間を訪ねてみては?」とお伝えください。
◆遅くなりました。通信費同封します。お手伝いできない身ですが、沖縄大集会の時はなんなりとお申し付けください!では今年もよろしくおねがいします。
◆PS.ゴンとカヤックで無人島に行った時の写真同封します。この状態で45分大海原を渡りました。(沖縄・浜比嘉島発 外間晴美 夫妻と犬が二人乗りカヤックを漕いで浜比嘉島を離れようとする写真と共に封書で)
★長濱さんは、古酒(クース)の大家です。多美子夫人とともに那覇市内で薬膳料理「拓洋」を経営しているので、一度行ってみてください。18日は第1回東京マラソンというのに出るのでムリだけど、ゴンには是非会いたいのでそのうち行きますよ。(E)
現在私はS17という南極大陸上の拠点にいます。内陸旅行に出発する起点となる場所で、ここに橇や雪上車や燃料が置いてあります。1月27日からS17に来ていて、地圏の観測や、海氷から大陸への上陸地点からS17までのルートの引継ぎなどを行っていました。今日は最終日で、すでに作業はすべて終了し、夕方のピックアップを待っているところです。
◆白夜だった南極も1月20日から日が沈み始めました。お送りする写真に夕暮れの写真を入れました(注:すみません、編集長はしっかり見せてもらいました)。昭和基地にいると、周囲の地形で日が沈むのはよく分かりませんでしたが、S17では見渡す限り南極大陸の雪原か氷山の浮かぶ凍った海です。S17にきて初めて、ようやく日が沈むのを目で見て、ああ日が沈み始めたんだな、と季節の移り変わりを実感しています。それと、最近は毎日美しい夕焼けを愛でていますが、この夕焼けも少し前まではありませんでした。やや薄暗くはなる程度で24時間ずーっと明るい世界が続いていました。
◆S17で、大好きなものに出会いました。雪上車です。42次隊で南極に行っていたとき、冬明けのもっとも寒い季節に内陸へ燃料デポの旅行に行きました。そのときにひと月半、共に行動し、そこで生活させてもらった車、SM112(えすえむ、ひとひとふた)がいました。ちょうど我々のS17での活動に使っていいよと割り当てられた車2台のうちの1台がSM112でした。5人パーティで来て、宿泊には写真に写っている青色のテントをあてがわれたのですが、残りの4人は男性ですし、お互い気を遣うので、「ひとひとふたで寝るよ」と言って、ずっと今日まで「ひとひとふた」で生活していました。
◆「ひとひとふた」の中にいるだけで気持ちが落ち着きます。懐かしい、大切なものと共に過ごせる時間は他の何ものにも代えがたいほど幸せです。今回のオペレーションは、南極大陸上に地震計を設置するという初めての試みがありました。これまで野外に設置してきた地震計は露岩に設置しています。氷の上に設置したらどんなシグナルがとれるのだろうか、という試みです。「氷震」と言って、氷が起こす地震もあります。基地の地震計や野外に設置している地震計でも氷震らしきものは記録されているのですが、氷床上でどんなシグナルになるのか楽しみです。
◆とはいっても、私は地震についてはただの素人ですので観測しながら、少しは勉強してみようかなあ、と少しだけ思っています。それと、これはとても大切なことなのですが、南極大陸への上陸点(とっつき岬)とS17間のルートの引継ぎと整備を行うという目的も今回のオペレーションにありました。地圏のオペレーションに絡めて行いましたが、こちらは隊全体に関わる重要な仕事です。
◆野外主任、野外副主任、フィールドアシスタント以上3名全員がメンバーに加わるよう調整をして、このルートに精通した47次隊の人にも加わってもらいながら、ルートの引継ぎ及び整備をしました。このルートは大陸上から海へ下るルート、つまり氷床が海へ落ちる場所を通るルートです。したがって、海が近くなると傾斜があり、クレバスが発達しやすくなります。年によりクレバスの開き方や場所は異なりますが、過去の情報を引き継ぎ、これから始まる越冬中の安全確保のために今の時期にルートを整備しておく必要があるのです。今回のS17オペレーションでは、ルート引継ぎと整備に一番神経を使っていたので、無事に終えられて今はほっとしています。
◆さて、今日は1月31日。いよいよ明日から越冬開始です。観測隊では2月1日に越冬交代式を行って、前次隊から次の隊にバトンが渡されます。今日までは47次隊の責任下で基地は運営されていましたが、明日からは自分たちが責任を持って管理します。火災が起きれば自分たちで消火します。停電が起きれば自分たちで復旧します。観測も仕事、そのために生活をするのも仕事、生活をする基盤を管理し続けるのも仕事です。今日までは、言ってしまえばまだお客さん状態でもよかった48次隊ですが、明日からは気持ちを入れ替えて、自分たちの家の主にならねばなりません。
◆S17のオペレーションが無事に終わり、ほっとしたのもつかの間、次には別の緊張感がありますが、いろんな緊張と安堵を繰り返しながら、気づけば11月28日に日本を出発して以来、すでに2ヶ月が経過しました。南極での一日は2度とは戻ってきません。南極での季節も2度とは繰り返しません。嬉しいこともあるし、悲しいこともあるし、凹むこともいっぱいあるけど、どんな一日であっても自分にとって、待っていてくれる人にとって、かけがえのない一日であることに変わりはありません。いよいよ始まる明日からの越冬の日々、悩み、疲れ、喜び、悲しみ、笑い、怒り、凹み、復活しながら、日々精一杯過ごしていこうと思います。日本から引き続き応援をよろしくお願いします。(永島祥子 @S17 1月31日)
★『南極レター』 No. 5 2006/12/31で「しらせ」への救難要請が来たのが12月27日だと書きましたが間違いです。正しくは12月28日でした。
人は言い訳をするために生きる動物である。私はその最たるものだ。原稿の締め切りが近づくと、そんなに火急のことでもないほかのことに手を出しては(シチュー作りにとりかかることが多い)忙しがしいふりをし、あまりにもうまそうなでかい大福を2個続けて食べてしまうと1個は明日の分だ、と言い聞かせ、紙屑で埋まってしまった仕事部屋に愕然としつつ「かすかに文士のにおいがするからまあいいか」と、うそぶく。
◆そして目下必死で言い訳探しをしているのがこの18日に予定されている「東京マラソン2007」だ。3倍以上の倍率というからどうせ外れだろうと、申し込んだのにどういうわけか「当選おめでとうございます」だと。ハワイをもたもた走って以来、まともなトレーニングをせず、気持ちよく走れるわけはない。横柄な都知事の尻馬に乗りたくない気持ちも強く、敵前逃亡の言い訳ばかり考えているきょうこの頃なのだ。
◆なまじ少しは本気で走ったカコがあるために格好悪いことはしたくない、という美意識ばかり働く。せめて沿道に応援の人々がいなければいいのだが、メディアはやたらにあおっておる。大体30000人なんて走ってはいけんよ。きのう久々に走ったら5キロで痙攣が起きた。そんなわけで、出るか出ないか煩悶しつつ迎える言い訳探しの週末なのである。あ、小生のゼッケンは「30612」、7時間かけてもたどりつけないかもしれんので応援したらいかんぜよ。(江本嘉伸)
故郷(ふるさと)は萬里の彼方
1909(明治42)年2月、矢島保治郎という28歳の青年が「世界一周無銭旅行」を目指して横浜港を出発しました。北京でアルバイトし、資金稼ぎなどをした保治郎が最初に向かったのは、当時禁断のチベット。四川省からフラリと潜入に成功しますが、わずか1ヶ月でラサを離れます。 翌1912年7月、2度目のラサ入りを果たした保治郎は、日露戦争の体験を買われ、ダライ・ラマ13世の命でチベット軍の指揮官として訓練にあたるなど思いもかけない厚遇を得ます。ついにはノブラーというチベットの「豪商のひとり娘」と結婚、子宝にも恵まれ、順風満帆の日々を送ります。やがて日本に帰国した一家を待っていたのは……。 今月の報告会は、日本の近代史で知られざる冒険家、矢島保治郎と故郷チベットを恋い焦がれながら病死したノブラーの物語。チベットと日本の関係史を専門テーマとする江本嘉伸さんの進行で紹介します。矢島保治郎を知る特別ゲストを迎えての異色の報告会に御期待ください。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が100円かかります)
地平線通信327/2007年2月14日/発行:地平線会議/制作:地平線通信制作室
編集長:江本嘉伸/スタッフ:三輪主彦 丸山純 武田力
レイアウト:森井祐介/編集協力:中島菊代 大西夏奈子 横内宏美
イラスト:長野亮之介/印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト http://www.chiheisen.net/
発行 地平線会議 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
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