毎年1度は「誕生日」というものが来る。子どもの頃は早くおとなになりたいと思っていたので一応楽しみだったが、ある日それは終焉に近づくことでもある、と気づいた。「あといくつ寝るとお正月♪」という歌を聞いても「つまり、早く死ぬ、ということだよな」と子ども心に思ったのだ。
◆60歳を過ぎてからは、そんな悠長なことは言ってられない、と気づく。どうしたってやって来る誕生日だ。できるだけ楽しんでしまおう。そんなわけでことしの10月7日は本州最南端の開聞岳(かいもんだけ、922m)の麓にいた。
◆鹿児島県揖宿(いぶすき)郡山川(やまがわ)町。この20年来ほぼ毎年のようにお世話になっている海と山に恵まれたこの町は、ことしから例の町村合併で「指宿市」となっていた。しかし、鹿児島市内からバスか電車で近づくとわかるのだが、あのコニーデ型の美しい姿で知られる開聞岳は薩摩半島の先端の山川まで入らないと全容が見えてこないのだ。
◆東京が雨と強風で荒れた6日夕、晴れ渡った海辺を開聞岳方面に向かってジョギングしていると腰につけたケータイのブザーが鳴った。「ひと足早くおめでとうございまあす、あしたの朝のテレビ見てくださいねえ、チュウセイを誓うからねえ!」知床半島にいる木のおもちゃ作家からだった。5ヶ月前に結婚したばかりのこの作家は亭主となった「天空の旅人」と一緒に紅葉前線を追って北に行っている。本州の南端で“知床人”と話せるのは面白かった。でも、チュウセイって…?
◆夜は素晴らしい中秋の名月。月明かりに誘われて1時間ほど散歩した。普段は暗い集落なのに、あまりの月の明るさに用意したライトは不要、農道に私の影がくっきり落ち、目の前には開聞岳が夜というのに、黒々と聳え立つ。反対側は海からの波音。午後9時ちょうど、誰もいない農道に突然音楽が流れた。有線放送の「朧月夜」のメロディーだった。ああ、いいなあ。この集落では毎日朝6時には「牧場の朝」、正午には「我は海の子」、午後6時には「ふるさと」が流れる。
◆誕生日の朝は早起きした。NHKの「おはよう日本」でたごっちこと、多胡光純の「紅葉列島空の旅」の生中継が始まるのだ。きのうの電話の意味が知床の現場画面を見た途端にわかった。たごっちはなんと「エモシャツ」を着て登場したのだ。紺色のシャツの胸にザックを背負ったくるみが寝そべっているイラスト。ヘタだが私が描いた。そこに白字の英語で「I believe the person who wears this T-shirt is one of my best friends」と書いてある。以前、私のために開いてくれた会があって、その時お礼に限定300着でつくったものをそういえば二人にプレゼントした。
◆へえ、こんなこと考えてくれたのか…。びっくりし、素直に嬉しかった。公共の電波を使って仕事をしつつ何気なく日本の北の地から誕生祝いのメッセージを送ってくれるとは、やるなあ、おぬしたち、チュウセイなんて誓わなくても私はほんとに幸せ者だ。
◆厄介になっている家は、野元甚蔵さん宅である。私が生まれる前の1939年、特命を受けてチベットに潜入した“伝説の旅人”。『チベット潜行 1939』という著書で知られる。来年3月に90歳になる野元さんとはこの20年、家族のようにさせてもらっている。おだやかな野元さんとの語らいはいつも楽しいが、ここには末娘の菊子さん、ビーグルの「怜(レイ)」が歓迎してくれ、私が自由に使える部屋があり、寝巻きや着替えも一そろい置いてあるのだ。
◆鹿児島市内にいる野元さんの次男が「よしのぶちゃん、誕生日おめでとう」と書いたケーキを持って来てくれ、午後は頴娃(えい)町まで一緒に潜りに行く。海に入ると瞬間ひんやりしたが、じきにあたたまってきた。ああ、なんと水の中は素晴らしいんだろう。チョウチョウウオ、ハタタテ、トノサマダイなど美しい魚たちが優雅に舞い、ウツボが穴からキバを剥き出す。いい誕生日をもらった、と、しみじみ皆に感謝した。
◆翌8日は山川の浜児ケ水(はまちょがみず)地区の大運動会。私は菊子さんのつくってくれたお弁当を持って野元甚蔵さんと参加した。「輪投げ」「宝つり」「スプーン競争」「輪まわしリレー」の4つの種目に出場させてもらい賞品をいただいた。470人が住むこの地区の35%は65歳以上というが、引退している人はいない。皆、農業に関わっている。運動会はつかの間の休日なのだ。
◆帰京前日の9日、走って開聞岳に登りに行く。3度目なので人がほとんど行かないふるい登山道をたどろうとして、樹海に迷い込んだ。ちょっとした冒険だった。2時間も苦闘して6合目にひょっこり出る。開聞岳は海からいきなり聳え立つ火山である。ゾロ目の年齢となった私にここの山と海は、格好の挑戦の場かもしれない、と思った。野元さん、また行かせてもらいますよ。(江本嘉伸)
中国と日本とのかかわりを主なテーマに、長年ノンフィクション作家として第一線で活躍してきた森田靖郎さんが、最近になって小説を書き出した。「小説はつくりごとだけど、ときにはノンフィクションより真実に近づきやすいかもしれない」。そんな紹介文(通信322号)にひかれて、しばらく行きそびれていた報告会に足を運ぶことにした。「この報告は、今の(迷える)私に重要なヒントをくれる」という予感がしたのだ。「旅する人たち」が集う地平線会議で多い職業の一つが文筆業。私もその端くれだが、「旅を書く」ということのシンドさには悩まされ続けている。
◆会場の受付脇には、この3年で森田さんが上梓した3冊の小説本が積まれていた。『見えない隣人』(小学館)、『犯罪有理』(毎日新聞社)、そして8月に刊行された最新作『二つの血の、大きな河』(東洋経済新報社)。読みやすい悪漢小説や犯罪推理小説でないことは想像がついたが、これから聞く“秘伝”の効能をより高めるための“手引き”になるかもしれないと、思い切ってその新刊を購入することにした(6畳一間に暮らす身には、空間を取るハードカバーの本は決断のいる買い物なのだ)。
◆報告会は、地平線会議とともに歩んできた旅の書き手・森田さんによる、「人生時間の歩き方の伝授」という形で進んでいった。1945年生まれの森田さんは関西学院大学探検部OB。「地平線創設メンバーの一人で、『地平線会議』、年報『地平線から』のネーミングに大きな役割を果たし、また『地平線から』の1〜5巻の編集長を務めた人」(丸山純氏の紹介)と聞けば、最近増えてきた年若い参加者にとっては、さながら「古老」だろう。だが、登場した61歳の元関学ボーイは、相変わらずクールで若々しかった。
◆地平線創成期には広告業界でコピーライターをしていた森田さんは、やがてルポやテレビ・ドキュメントを手がけノンフィクション作家へ。急速に変わりつつある中国の現状を常に現場に立って、雑誌などのメディアにルポを発表しながら、精力的に本も出していく。最前線で時代の風をまともに受けながらの仕事ゆえ、かかわった雑誌が多方面からの圧力で廃刊になるのにも何度も立ち会ってきた。取材先と自身を守るために「戸籍に入れられなかった(別の筆名で出した)本も3冊ある」と、日中戦争での大事件や現代中国の思想運動を題材にした “あの本たち”が会場に回された。「この3冊も、いつかは僕の戸籍に入れたい」。時には身に危険を覚えながら五感を張り詰めた取材を遂行し、世に送り出してきた「わが子」への、森田さんの深い愛情だ。
◆それでも敢えて小説家へと転身を図ったのは、「ノンフィクションは旬のものしか食わない“美食”なのに比べ、小説は何でも食べる“大食”」だから。たしかに、雑誌が欲しがるのは「時流に乗った」「よりセンセーショナルな」ネタだ。逆に、その要求に応えられなければ、ライター業はほとんど成立しない。けれども美食は偏食であり、長く続けていては心身に悪いということか。また、ノンフィクションの、「事実をいくつ突き詰めていっても、真実に突き当たらないもどかしさ」もあったという。ともかくも、こうして森田さんは、馴染みの編集者たちが止めるのも聞かず、小説の海へと飛び込んだ。
◆「この小説を書くのに、僕の60年が必要だった」。3冊目の小説を仕上げての手応えを、森田さんはこう表現する。『二つの血の』では、旧日本軍の細菌戦部隊「七三一」や残留孤児問題から近年の福建マフィアまで、これまでノンフィクションの分野でしてきた綿密な取材を下敷きに、「事実と事実の隙間に隠れて見えなくなっている真実」を追求した。その過程で、終戦の年に生まれた自身の半生に重なる「戦後日本のヒストリー」を発見し、ほかならぬ自分が書くべき「テーマ性」に気づいたという。
◆人生には、振り返って初めて気づく節目がある、そうだ。仏教では人の死後、7日ごとに四十九日まで法要を営んでいくが、それは7日ごとに審判にかけられているようなもの。7回目に「無罪」となれば、晴れて極楽へと成仏できる。同様に人生にも試される節目があり、森田さんの場合は7歳からおよそ10年ごとに訪れているらしい。決断を迫られるのは「仕事」と「結婚」と「死に方」だ。7歳で異性に「好き」と認められ、17歳で将来の方向を決め、27歳で結婚し、37歳で物書きを一生の仕事としてやっていく決意をし、40代半ばに父親を失って男としての完全な自立を覚悟した。……そして50代半ばに思いがけない風土病を告げられたとき、「死に様」つまり「生き様」を決める節目だと認識した。それがノンフィクションから小説への方向転換だったという。「次の審判が最後の7回目で、67歳ぐらいでしょうか。そこで無罪放免になったら、後は大手を振って生きていける。だから楽しみなんです」。
◆また、人の一生を一日にたとえると今が何時ごろになるか、とも考えてみたそうだ。答えはほぼ、年齢を3で割った数字。「僕の今は夜8時、酒がおおっぴらに飲めるハッピーアワーです。明日の朝は拝めない寂しさはあるけれど、じつに楽しい」。他人から借り物をせずに独力の旅と仕事を正々堂々と重ね、節目ごとにハードルを乗り越えてきた人の、誇りに満ちた言葉だ。
◆ここで森田さんは、再来年の秋に30周年を迎える地平線会議の「節目」についても言及した。「最初の年から5年ごとに数えていけば、30周年がちょうど四十九日、7回目の審判。ここを越えて戒名をつけたら、地平線は永遠に不滅です」。
◆それでは、私たちが旅人として、先達・森田師のようにハッピーな還暦を迎えるには、どんな準備が必要なのか。ここからがいよいよ「秘伝」だ。若き日に旅に取り憑かれた人の多くと同様、森田さんも(人より長めの)学生時代に旅を繰り返しながら、「社会人になるため」の巣立ちに失敗し続けていた。そんなとき、地平線創設メンバーたちに出会い、「社会に出ても旅ができる道」の模索が始まる。そこに欠かせないものとして見つけたのが、「旅をしながら、社会とかかわる」という要素だ。「旅の依存症になってはいけない」。
◆そのために、森田さんは「書く」というワークを自分に課し、やがて職業にもしていく。表現として「旅を書く」には、「旅を冷凍保存して、解凍しなければならない。そして、きちんと冷凍しないと、解凍もうまくいかない」。旅の中で得た出会いや発見の高揚感・喜び・驚き・怒り……といったものを、日常に持ち帰った後、時間とともに冷めていくのに任せず、鮮度を保ったまま持ち長らえ、再び取り出して体験し直すこと、であろうか。それは「文章を書く」以外のワークに対しても当てはまることだろう。
◆「冷凍」と「解凍」は、ちょっとしたコツを?むまでが難しい。人にヒントを言えるには、やはり人生のハッピーアワーまで旅を重ねる必要があるようだ。まずはきちんと冷凍するために、旅先で「空間」「時間」「人間」という三つの「間」との出会いを十分に心に染み込ませる。加えて四つ目の「行間」へも目を向ける。これは、そこで交わされていた何気ない会話とか、道端でふと目に入った草花といった、自分のテーマとは直接関係のないものだ。この「行間」が森田さんの旅に占める割合はだんだん大きくなっているという。「行間」を膨らませる旅の持ち物として、釣竿と楽器(ケーナとサンポーニャ)が加わり、「お陰で旅がもっと楽しくなった」。なるほど、オマケがいっぱいの楽しい旅なら、いつまでも新鮮な記憶として残るだろう。
◆では、冷凍した旅をうまく解凍するにはどうしたらいいのか。先達の話は、ここで「旅を書くこと」からやや別方向へと拡散していく。ゴルフのジャンボ尾崎や野球の江夏投手の「得意技」が、じつは元々は苦手としていたものだったこと。森田さん自身が、子供の頃から苦手だった鉄棒の蹴上がりを最近になってマスターしたこと。同様に、ニューヨークの路上でボリビア人のバンドと競演したこともあるほどのケーナやサンポーニャも、吹けるようになったのは近年であること。「人間はいくつまで成長するのか。僕は50を過ぎてから、苦手だったものを次々に克服している。自分が苦手と敬遠していた分野こそ、最後の成長の砦ではないか」。大人になってからの新しい技術の習得は、これまでの経験の積み重ねによって無駄な回り道を避けられる分、時間を短縮できるそうだ。また振り子のように「行ったものは必ず戻ってくる」という静脈思考や、「吐いて吐いて、小さく吸う」といった運動の呼吸法が、コツを?む参考になることも多いという。「秘伝中の秘伝」は、そのあたりに隠されているに違いない。
◆「滞ったときは苦手なものをやってみるのも手。書いていて言葉が足りなくなったり、文章に詰まったら、旅に出てみる。旅を取り込んだ人生の楽しさを僕たちは知っているのだから。そして地平線会議は、そんな旅人たちが集まる場として、また旅先から遠くに見えてほっとするともし火のように、滞ることなく存在し続けてほしい」。うーん……やはり、私も旅を重ねて書き続けるしかなさそうだ。ケーナや釣竿のような友を連れて。(熊沢正子・チャリンコ族エッセイスト)
地平線会議が28年となり、30周年が目前だ。永遠不滅への道へ、第3コーナーを回って一直線だ。これは何事にもかえがたい価値であり、まさに「やった者勝ちでなく、やった者価値」だった。28年前と変わったこと、報告会の会場が青山から榎町に移ったこと。参加者の顔から野性味が消えて、品がよくなったこと(少し物足りない)くらいだろうか。変わらないこと、500円(参加費)、二次会の盛り上がり、そして江本さんと三輪さん。
◆「少年のまま老いて行くつもりなのか」。老いた少年は、過去と未来を自在に行き来することが出来る“時空の旅人”という特権を与えられている。地平線会議には「現在」がない。「過去」と「未来」しかない。苦々しくて、誇らしげで、それでいて縛られることのない過去と、やりたいことの山積み、やり残したことへの追憶、やらねばならない使命感に満ち溢れた未来……。
◆「地平線会議には、現在はいらない」。「過去」と「未来」を自在に行き来すればいい。私らは、「地平線会議が飼いならした旅心という魔物」のDNAをようやく発見したのかもしれない。「未来のルーツは、オールド地平線」にある。(9月22日の報告会を終えて。森田靖郎)
地平線ポストでは、みなさんからのお便りをお待ちしています。
旅先からのひとこと、日常でふと感じたこと、知人・友人たちの活躍ぶりの紹介など、何でも結構です。
〒173-0023
東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〒160-0007
東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)
地平線の皆さんならご存知だろう。かつて二人の男が空に挑み、太平洋に落っこちたことを。その詳細は一昨年の地平線300か月大集会で、石川直樹さんが報告したとおりである。熱気球で太平洋を横断しようなどという酔狂なこの計画の首謀者は神田道夫氏。かつてヒマラヤを熱気球で越えて第5回植村直己冒険賞を受賞。それだけでなく滞空時間、長距離、高高度などの各世界記録を更新し、気球界にその人ありといわれた冒険野郎だ。
◆自転車野郎でおなじみの安東ですが、最近は洞窟探検で地底に出かけたり、この熱気球にもお熱だったりします。もともと安東少年は大変な飛行機好きで、いつも空を見上げていました。小さい時は飛行機のプラモデルばかり作っていて、高校生の時は航空自衛隊の試験で飛行機を操縦したり、貿易会社勤め人の時はラジコン飛行機の商売をしており、アメリカに飛行機の免許取得に行ったこともある(まだ取れてないけれど…)。最近始めた気球ですが、優雅に大空を散歩しているイメージとは大違いで、操縦してみるとめちゃくちゃ不自由な乗り物だとわかります。風向き次第で行きたいところになかなか行けないのですから。
◆さて、その熱気球界がまた世間を騒がし始めたらしい。あの神田さんが密かに新しい気球を完成させようとしており、どうやら太平洋横断のリベンジらしい。普通の気球の20倍の世界最大の熱気球で、その高さは50メートル、15階建てビルほどの見上げるばかりの大きさ。膨らますだけで数十人のスタッフが必要で、日本中の夢を乗せて飛ぶのに十分な大きさらしい。
◆気球飛行は基本的に風まかせ。日本から北米に向かう強烈な風がないと太平洋横断は達成できない。そこで冬季に高度8000m以上を時速200kmで吹くジェット気流を利用するのだ。うまくいけば60時間で北米に到達できる。しかしこの気流がなかなか曲者で、北極やハワイの方に蛇行したり、半ばで風がなくなったりとかなり変則的で、北米に一直線に向かう風は冬場でも年に1、2回しかない。その気流を予測し、できるだけその風に乗る気球操作が勝負の分かれ目なのである。多くの気象衛星を持つアメリカ海洋大気圏局(NOAA)に、気流の動きを予測するプログラムを提供してもらい、最適な風が吹く日時を予知しようというわけだ。
◆ゴンドラに乗り組む操縦士にとっては、酸素が地上の3分の1しかなく、外気温も零下50度となる高高度に60時間も滞在しなければならない過酷な環境での戦いとなる。そんな熱気球の操縦は一人では難しい。神田さん以外にもう一人冒険野郎が必要だ。そこでお声がかかったのが安東である。最初話が来た時、気球の知識など石川さんに聞いていたくらいだった。気球の達人は他にたくさんいると思うのだが、太平洋横断ともなると熱気球の技術だけでもなくて、超低温下や高所での知識や適応力や忍耐力など、自然を相手にしてきた冒険者の素質も要るらしい。
◆航空機にある程度の知識があり、GPSなどの電子機器を使いこなし、気象データを理解し、アメリカに近づけば英語で管制するなど、ぼくはパイロットというよりフライトエンジニアといった役割を担うのかな。そうはいっても操縦も交代で行うので、気球の訓練も7月から埼玉と栃木の境にある渡良瀬遊水地で、毎週のようにぼくは飛んでいるのだ。不便な乗り物だけに奥も深い。太平洋横断はともかく、空を飛ぶ事そのものがなかなか楽しい。
◆しかし太平洋となると結構なアドベンチャーだ。問題は下が地面でなく海なので、非常事態や天候悪化でも地表に降りられない。いや降りたくなくても海に落ちるかもしれず、脱出用救命カプセルや人工衛星によるビーコンなど救助態勢も整えなければならない。こういった挑戦は未知なる探検的な部分も多く、行動そのものに実験的な要素が付きまとう。
◆まあ、コロンブスもライト兄弟もガガーリンも、リスクを承知で未知の領域を開拓してきたのだ。いつの時代も好奇心が人類の舞台を広げ、未来を作ってきたのだから。階段は登るためにあって、見上げるだけでは意味はない。勇気ある者だけに階段を登る資格が与えられるのだ。極寒、薄い空気、乱気流、悪天候、逃げ場のない絶対的空間、9000kmの果てしない長距離…。宇宙に近い極限状況の中で、飛行機と違い気球飛行は、もはや人類のコントロールの効かない風という地球環境に身を任せる、神々の領域への挑戦となるだろう。
◆でも熱気球だからといって、あんまり熱くなりすぎて燃え尽きてしまわないようにしなければ。風船おじさんみたいになっちゃっても困るしね。まだまだやることがたくさんあって準備が完了できればの話だが、来年の1月から2月のいい日旅立ちで栃木から飛び立つ予定。離陸時には応援にぜひともいらしてくださいな。もうちょっと詳しい計画書は下記のサイトまで。(10月10日 カモメのジョナサン安東浩正)
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/andow/pacific/pacificplan.pdf
多胡ペアです、ただいま紅葉列島空の旅の道中、青森は下北・薬研渓にいます。旅は日本一早く紅葉の訪れる北海道は大雪山を皮切りに美瑛、知床と旅し、ここまで南下してきました。京都を出発してからちょうど一ヶ月、出発したころが一年以上前に思えるほど、密度の濃い日々を送ってます。
◆駆け足になりますが、紅葉を空から眺め続ける日々の中感じたことを一つ。日本の秋は紅葉だけでなくさまざまな形で彩られているということでした。それは今回旅してきた空のもとに生きる人々との交流から感じ取ったことです。たとえば、紅葉が遅れるということはキノコやドングリの成長も遅れるということを意味します。その遅れは山菜採りのおばさんの仕事の段取りを狂わせたり、熊さんの越冬の食不足を招き、集落への出没を招いたり。これらはほんの一部ですが、秋の彩りは多様な形で訪れ、さまざまな形で万象に影響しあっている。これは発見でした。
◆僕らはこのまま紅葉前線にのり続け、下北の後、十和田、奥入瀬、最上川と紅葉の空を旅します。日本列島を彩る紅葉の空を旅するという初の試みの最後に僕らはどんなことを思っているのか、まったくの未知ではありますが今できることに集中し最上川の空まで頑張って飛んでいきます。(10月10日 多胡光純・歩未)
★多胡さんの映像は9月30日(土)10月7日(土)と、NHK総合テレビ「おはよう日本」で放映され、今後もBShiで「紅葉列島 空の旅」として、第3回目10月14日(土)、第4回目10月21日(土)、第5回目10月28日(土)朝の7時30分から7時45分まで放映される。(再放送はBS2で翌日日曜日の朝10時40分から10時55分)。さらにBShi ハイビジョン特集「天空の旅人 紅葉列島をゆく」(仮称)が11月27日に放映される(なんと1時間半の番組!BS2放映は後日)。
長い夏の終わりを告げる、さわやかな新北風(ミーニシ)が吹く季節になった沖縄より、こんにちは。昨夏、沖縄に遊びに来られた江本さんより、地平線会議・地平線通信をご案内いただきました長濱静之と申します。私は、沖縄生まれの沖縄育ち、東京の影響を受けた後、やや時を過ごして、昭和53年以来、「古酒」との旅を遊び続けているロングビーチです(編注:つれあいの多美子さんと、那覇で貴重な古酒が飲める沖縄料理店を経営)。
◆いきなりで恐縮ですが、皆さんは古酒をご存知でしょうか。沖縄が誇る酒「泡盛」は、タイ米と黒麹菌と水でつくる蒸留酒。焼酎の仲間で、県内には46もの醸造所があります。この泡盛を長期熟成させたものが古酒です。寝かせることで熟成が進むのが泡盛の大きな特徴で、沖縄では酒造メーカーはもとより、家庭でも古酒造りが行われています。ちなみに、私がこれまでに味わった最も年代物の古酒は38年ものでした。ただひたすら飲む派、ただひたすら飲ませる派、ボトル蒐集派、甕による古酒造り派、樽による古酒造り派、瓶による古酒造り派……と、古酒との関わりは人それぞれです。旅にもいろいろあるということで、今回は沖縄から古酒の旅をナビゲートしましょう。旅の事前学習(?)ということで、古酒を学ぶための4つのステップをご用意しました。
●第1ステップ:「古酒」の美味しさ、古酒化とは?
〈1〉芳醇な香りの成長(臭覚)、〈2〉フワァッと満たす揮発臭の成長(口覚)、〈3〉まろやかな刺激臭の成長(舌覚)、〈4〉優しい喉越しの成長(喉)、〈5〉五臓六腑にしみわたる味への成長(胃)。時の重みが醸し出す濃厚な味への成長の旅、すなわち長期熟成による「古酒の美味しさの年次的進化」による「統合的感性の成長」こそが、古酒化と言えます。
●第2ステップ:古酒は活きている?
戦前には100年以上寝かせた古酒がいくつもあったと言われています(沖縄戦で多くの古酒が失われました)。愛のDNAが継承され、何世代も続くとすれば、これぞ親の酒の愛が生きている? 私はそう信じたいと思います。
●第3ステップ:酒は高度経済成長する?
年代物の高級酒が高値で取り引きされてきた世界の歴史を考えると、古今東西変わらない価値がある古酒も経済成長する。そうは思いませんか?
●第4ステップ:古酒の造り方は?
ただ寝かせておくだけでは、美味しい古酒は造れません。時々開けて若い酒を少し加えることが大切。これを「しつぎ」とよび、これによって酒に活気がでるのです。伝承的古酒造りの詳細はここでは省略しますが、これがなかなか大変。その課題(しつぎの手間、容器からの蒸発、飲みすぎ、対流問題など)を解決すべく、私は数年前に古酒の全自動しつぎ器「くーす貯容器」を開発して特許を取得しました。
古酒の旅は、誰もが旅立てる悠久の旅。古酒の成長を実際に確認したい方はどうぞ来沖を。あなたのいい日旅立ちを、そして旅を引き継ぐ人を望んでいます。(10月1日那覇発 長濱静之)
9月初め、自社新製品の紹介のため、ウランバートルに向かった。前の晩は緊張と不安で何度も吐き気に襲われたが、機材は無事作動、何とか、モンゴルの医師達に新製品(注:内視鏡)を紹介することが出来た。日本をはじめとする先進国の学会ではいくらドクターに製品を紹介しようとしても、興味無さそうに通り過ぎて行かれる事に慣れていた。「進んだモノ」は皆見飽きているからだろうか。モンゴル医師達の興味津々のきらきらした瞳がとても印象に残っている。機材の説明をした時、周りにドクターが集まった時の熱気が忘れられない。
◆その朝、今回泊まったホテル(ウランバートルホテル)の前で、薄汚れたトレーナーを着た小さな子供に「お姉ちゃん150トゥグルグちょうだい」と声を掛けられた。私は「だめだよ」と言いながら、迎えに来た車に乗った。150Tは日本円では20円にも満たない。モンゴルではアイスクリームがかろうじて一個、買えるかどうか。そんなお金をもらってどうするつもりなのだろう。学生の頃は、「自分だって学生だし、お金は無い」ということをエクスキューズにしていたし、そんな子供は全く相手にしなかった。モンゴルの大人達と同じように、あえて見向きもしなかった。しかし今回は、その子を振り返ってしまった。一緒に居たモンゴル人の仕事仲間に「ねえどうしよう??」と何故か訊ねてしまった。慣れているはずなのに。
◆彼は「気にすること自体不必要」というように黙って首を振っていた。こちらのかすかな戸惑いを感じ取ったのか、少年は車で走り去る私達を少し追いかけたが、車が遠ざかると立ち止まってこちらに手を振った。「先進国」から来た大人が、「発展途上国」の金銭的に貧しい子供に対しどんな感情を持っているのか、具体的にではないにせよ、少年は体験を以って知っているのだろうな。「先進国」の大人の気持ちにどのようにアプローチすれば財布を出させ、小銭を渡させることが出来るのか、体得せざるを得なかったのかもしれない。だからこちらの微妙な迷いも敏感に感じ取るのだろう。20円くらい、すぐあげられる。その子がそれでアイスの一個でも、キャンデー数個でも買えて喜ぶのなら、それでもいいのでは? 何でいけないんだっけ。私がその子にお金あげたくらいじゃ、何も解決しないから? あげたら癖になるから? 解決するならお金をあげて良いの? そもそもそんなに簡単に解決する問題? そもそも、問題って何? 今まであまり考えたことが無かった。
◆旅行者向けの本には「子供が寄って来ても相手にしないように」と当たり前に書いてあるし、現地の人々を見ていてもまともに相手をしている人は殆ど見ない。あげなくたってその子は死にはしないけど、その子の中には「冷たいケチな大人」の記憶の蓄積が、また増えてしまったかもしれない。その少年はどんな気持で私達に手を振ったのだろう。「けちで、何もしてくれない大人」に対するあきらめのような気持ちだろうか。こちらが思うほど、彼らは考えていないかもしれない。自分が生まれた環境の中で、淡々と生きる術を用いて暮らしているのかもしれない。
◆次の日には叫ぶカナダ人に出会った。朝6時前、空港に向かうためホテルでチェックアウトしようと荷物を持って部屋を出た。食堂の前で欧米系の外見の方が、まだ暗い食堂の中で叫んでいた。「コーヒーはどこだ! なんで開いてないんだ! どうしてレストランに誰もおらんのだ!! さあ誰か起きなさい!」食堂は7時から。その男性はそれでもテーブルにつき、叫んでいた。私がフロントでチェックアウトしていたら、階下に下りてきた。
◆「ここはおかしい!この時間にコーヒーも飲めないなんて!私たち(Weと言っていた。ひとりだったけど。)は早く起きるのに!」フロントの男性が仕方なさそうに、従業員を電話で起こしていた。「…君はどこから来たんだ?」突然、私に話が振られた。「ジャパンですけど」「どうしてここに来た?」「仕事で…」「何の仕事だね?」「医療機器です」「Good」(何がだろう)
◆聞くところによると、その人はスイス系のカナダ人だそうだ。石油のビジネスで、モンゴルに来ているらしい。気持が収まらなかったのか、ホテルのドアから出かけた私達に、彼はしばらく喋りつづけていた。「この国はどうしてこうなんだろうね?」「この国はいつもこうだ」「素晴らしい資源を持っているのに、問題があるんだ」「何だと思うかね?」「若者の働く意欲が低すぎる」その時、モンゴル人の若者も一緒に居た。カナダの男性は彼を見て、「君は何人だ?」「モンゴル人です」「モンゴルの若者はずいぶん怠けているね?」「本当に、その通りですね」モンゴル人の彼は答えた。彼自身は、よく働く。
◆カナダ人のおじさんは、モンゴルに来るたび毎朝あんなに怒っているのだろうか。朝からあれじゃ、一日中思い通りにいかないことだらけで、さぞ、怒る場面が多いだろうと思った。体がもたないだろうな。単に、ものすごいコーヒー好きのおじさんだったのだろうか。(10月4日 三羽宏子)
★「プージェー」の翻訳者★
映画「プージェー」に、ナレーションはない。画面に日本語の解説もなく、日本語とモンゴル語のやりとりだけが淡々と続く。勿論、すべて実写だから言葉は現場で話された通りだ。だからこそ、その日本語訳がカギとなる。少女プージェーとスレンばあさんの話す内容が活き活きと観客に伝わってくるのは字幕の翻訳が実に自然だからだ。関野吉晴さんは映画の成功は翻訳に負うところが大きい、と話している。そのモンゴル語の翻訳者が若い三羽宏子さんである。(E)
はじめてスピード縦走にトライしてみました。通信で見る江本さんのスピード縦走に触発されたのかもしれない。というわけで剱岳の仕事を終えたあと突発的に思いついた。立山〜槍ガ岳のタイム・トライアル。コース・タイムで40時間。いつもコース・タイムの半分以下で歩くので、机上の計算ではワン・デイ(20時間)可能だ。食料はラーメン2袋とビスケット、かりんと、チョコレートなど残り物のみだったが、なんとかなるだろう。そんな軽い気持ちでトライしたのが仇となったのか。スピード縦走とはほど遠い、惨憺たる結果に終わった……。
◆9月1日午前4時、満天の星空のなか雷鳥沢をスタート。立山を越えると厚い雲が広がりはじめ五色ガ原を過ぎると雨が降りはじめる。湿度は異様に高くサウナのごとく汗が吹き出る。水を飲んでも飲んでも汗で蒸発する。体力の消耗激しく薬師岳を目前にワン・デイを断念。まだ14時だったが薬師峠で幕営。皮肉なことにテントを張り終えると天候は回復に。
◆9月2日午前6時、さわやかな秋空のなか歩きはじめる。出だし数時間は走ってぐんぐん行程を稼ぐ。が、ずさんな食料ゆえ昼前から急に力が出なくなりフラフラ。お昼に着いた双六小屋でウドン(600円)を食べると、なんとか体力回復。走る元気まではないが快調なペースで西鎌尾根を歩く。途中、登山道わきに落ちているパワーバー2本を発見。周囲に登山者がいないのを確認してから、拾ってむさぼり食う。状況が厳しくなるにつれてパワーバーの味も向上するようだ。16時、槍ガ岳山頂を経て槍ガ岳・肩ノ小屋にゴール。栄養障害で立ちくらみがひどい。
◆合計20時間は机上の計算どおりだったが、予定の倍の2日間費やしてしまった。机上の計算は頭でっかちの言葉遊びに過ぎなかった。実際にやってみて気づく現実の厳しさ。何事もやってみなければわからない。あらゆる意味で。ちなみに立山〜槍ガ岳は、大学山岳部や中高年登山者のあいだでは5〜6日間といわれる。いっぽう10年前には16時間(もちろん1日)で踏破した記録がある。現在はトップ・アスリートによってさらに更新されている。今回の自分の成果だが、一般登山者より遥かに速いが、トップ・アスリートに比べれば論外だ。下に基準を置いても意味がない。上を見たほうが夢は膨らむ。
◆ランニング縦走といえば所要タイムに尽きる。でも、数値を超えた登山の奥義のようなものがかんじられた。食料がずさんだったなんて口実に過ぎない。実力ある人ならば、絶食しようが成し遂げるだろう。ただひとつ言えるのは、自分にはまだまだやるべき課題があることだ。近いうちに再度トライしてみたい。(9月17日 田中幹也)
こんにちは、江本さん。鰐渕です。お変わりありませんか。9月25日に長男が3415gとビッグなサイズで誕生しました。タップリとお乳を飲んで、物音にも動じずグッスリと眠る。早くも大物ぶり?を発揮しています。全く誰に似たのやら…。
◆でも、時々見つめてくれる目は、パッチリとした二重まぶたです。ここは僕に似てるかなあ。とっても可愛らしいですよ。名前はもう決めています。『弘』と書いて『コウ』と呼びます。広く大きな心を持って育ってほしい、という願いが込められています。これからも親子共々、宜しくお願い致します。
◆多胡光純さんの紅葉案内人のTV、見ましたよ。季節の息吹を新たな視点で見せてくれる多胡さんの映像、いつ見ても引き付けられます。これからも知床半島等の紹介があるとのこと。とても楽しみです。(10月1日 愛知県から 鰐渕渉 296回報告者)
10月11日から、東京新聞の夕刊で短い紀行を連載します。タイトルは「チャリンコ族は広野を目指す」。毎月第2、第4水曜日、生活面の掲載です。評判が悪くなければ? 1年は続く、ということですが、どうなることやら。怖いですねえ。
◆「自転車の旅を通して、日本を再発見できるようなエッセイを」との注文でした。この10年イザベラ・バード『日本奥地紀行』の追跡をテーマに旅をしてきて、この国の「近代化」と「原風景」について、私なりにもっと掘り下げたいと思っていたので、呼ばれるものを感じました。また、ここ数年は自転車の旅を休んでいたので、再開するいいきっかけになりそうです。ついでに、40代最後の自転車ダイエットにも挑戦しなければ! というわけで、どうぞよろしくお願いいたします。(10月3日 熊沢正子)
「世界一周パート3・細切れ編第11回目」は、ソウルから北へ、北朝鮮との非武装地帯(DMZ)近郊を走ってきました。目玉は臨津江(イムジンガン)駅で参加したDMZ最接近ツアー、自転車では許可されない地域への訪問です。臨津江を渡りソウル駅に匹敵するような規模の都羅山(トラサン)駅に入り、都羅展望台から開城(ケソン)をながめ、ソウル侵攻のために北が掘った第3トンネルを歩き、この地域内にとり残された統一村を訪ねる2時間半のツアー料金は、8400ウォン(1200円)。ソウル市内で申し込むと料金は10倍になるので、臨津江となりの公園内で申し込むのがいいでしょう。
◆それと仁川国際空港からの自転車脱出路も確認。空港のある島の南岸路を走れば、高速道路を避けて仁川へとフェリーで渡れます。自転車で行く方、参考にしてください。(埜口保男 9月末日 編注:いつ行ったの?)
★江本様、先日は佐渡が島までわざわざ陣中見舞いに訪れていただきありがとうございました。本当に感謝しています。毎日毎日ただただ金の為に携帯電話の工場でガチャンガチャンと印刷の夜勤をして、その帰りに釣りをするという単調な生活に潤いを与えてくださいました。刺激的な美女2人を従えてやってきた江本さんの優しさ、料理の上手さ、佐渡にまで知人がいる顔の広さ、いびきの凄まじさ…。脱帽です。おかげで知り合った高野さんちでその後もよくご馳走になり、舌が肥えちゃって大変です。
◆そんなわけで(どんなわけだ?)、今月9日に出国します。アラスカでまた犬と戯れて、ユーコンクエストに挑戦します。今年はやっちゃん(編注:ねこさんこと中島菊代さんのことをなぜか「やっちゃん」と本多さんは呼ぶ。親戚に「やっちゃん」という中島さんに似た雰囲気の女性がいるらしい)と京都で厄除けのお守りも買ったし、かわいい大西さんからも手作りのお守りももらったので、絶対嵐は来ないと確信しています!完走できるように頑張ります!!それではまた。
◆あ、クエストのスタートは2月10日です。(10月3日新潟にて 本多有香)
★2信 まいどです。アラスカに着きました。とはいっても、まだアンカレッジの友人宅で、明後日までここに居ます。(10月11日)
こんにちは。私は今、フランスに来ています。マロニエの木々が色づき、歩道では枯葉がカサコソ音をたて、すっかり秋の気配です。1週間近く滞在したブルゴーニュではちょうどぶどうの摘み取り時期に入り、ぶどう畑のあちこちで忙しそうに動きまわる人々や車の姿が見られ、どの村も活気づいていました。ブルゴーニュの赤ワインになるピノ・ノワールの実はちょうど人差し指大の粒です。口に含むと厚い皮と実の間から甘い香り高い風味が広がります。今年のワインも期待できそうです。(9月29日パリ発のブルゴーニュの絵葉書で 高野久恵)
■ 通信、締め切りの前日夜12時に電話がなる。こんな変な時間だから、どうせワン切りやろ、とほっておいたら続いてメールが「明日までに原稿手直しお願い」と江本さんよりのミッションインポスビルな指令。どぇぇ。鬼デスク。
◆春から郵便配達していて今夜11時に寝て、朝5時半に勝手に目がさめる。超健康的な生活なので、やろうと思いつつ寝てしまった。朝目が覚めて、うげぇ後30分しか時間がないといま原稿打ってます。報告会に来ていただいているかたは知っていると思うのですが、いま配達先に河田真智子さんのお宅があり通信は僕が直接、河田さんのうちに届けています。
◆その関係でときどきお宅の前で河田さんご夫婦と夏帆ちゃんと会ったりします。河田さんはいつもカメラを持ってて、この間自宅近くで会ったときに記念撮影してくれました。その写真が今月末に出版される「お母さんは、ここにいるよ」という河田さんの新しい本に出ます。河田さんは僕が目立ちすぎるのでレイアウトしたと言ってましたが、どんな風に目立ってるんだろう。気になるので「存在感あり」と勝手にいい風に解釈してます。
◆報告会の会場で江本さんに少し話したのですが、現在4つの講演会が同時進行しています。2つは自分のもので、あとの2つは司会です。まず自分のものは10月9日に葉山で子ども向けにアマゾンの話。続いて11月19日、北米ラン講演名古屋。
◆司会は10月29日WTN-J(ワールド・ツーリング・ネットワーク、ジャパン)JACCのバイク版みたいなやつで、地平線会議とJACCをモデルに3年前に結成されました。僕はお話会の担当。古山夫婦が事務局。他に世話役の海外ツーリング経験者が15人います。おもな活動はお話会(講演会)とキャンプお話会はだいたい3ヶ月に1回ぐらいのペースで、現在13回目。地平線関係者では西牟田さんと満州さんに話をしてもらっています。(http://www.wtn-j.com/)。
◆もうひとつのアフリカジャンボは目黒区の認可団体。もともとは目黒区主催の「アフリカを知ろう」という企画が、民間にアドバイザーを募集したのがきっかけです。区の企画終了後、メンバーがせっかくだから、もっとアフリカについて勉強しましょう、と立ち上げ、一番若手の僕が会長に祭り上げられました。それから3年、講演会も20回を数え、現在も継続しています。ただパソコンに強い人間がいないためHPはありません。また前回のように大使がきたりすると僕では役不足なので司会はしませんが、普段は司会をやっています。
★アフリカジャンボ主催講演会「アフリカの動物 及び 世界の動物」
日時:11月12日(日)13:30〜16:00 場所:東京都目黒区中央町社会教育館 第3,4研修室 〒152-0001目黒区中央町2-4-18 TEL 03-3713-4124 東急東横線:祐天寺・学芸大学駅より徒歩12分 講師:松波きよみ氏(写真家1931年東京生まれ。1998年、2005年の二度にわたり、アフリカの動物に魅せられて撮影に出かけた) 参加費:300円 連絡・問い合わせ先:03-3717-4281(高橋迅至)(坪井伸吾 10月12日朝)
地平線はみだし情報 坪井伸吾さんの北米大陸横断ランの体験を綴った「北米ひとり走り旅」が共同通信の配信で「埼玉新聞」「京都新聞」「四国新聞」「山梨日日新聞」など6紙の新聞紙上で連載中!
地平線会議が再来年で30周年だ。30年!子供のころ読んだ少年雑誌では、しばしば「30年後の未来」といった特集があった。未来では食事もカプセルだけとか、ストローでちゅーっとすするだけで栄養満点、おなかもいっぱいになる(スローフードなんて発想はなかったのだ)。洋服はアルミフォイルみたいなぴかぴかの素材で(天然素材をありがたがるやつは少数派だった)、タクシーはもちろん空を飛んで行く。そんな挿絵を思い出す。30年なんていうスパンの年月はもはやSFの世界だった。
◆さて、長い年月といえば、9月30日に日本大学探検部創立40周年の式典があった。私は部の集まりにはほとんど参加しないOBだったが、十数年ぶりに顔を出したのは、江本さんや岡村さんなど地平線メンバーが、式典に先立つシンポジウムに出席してくれたからだ。
◆江本さんは、この何十年かの日本人の海外との関わりの変化を、エベレストを例に話してくれた。ごく限られた人にのみ許されたエベレスト登頂だったが、今や相応の体力と経験、それにお金さえあれば誰でも頂上に送り込めるシステムが出来上がっており、昨年の登頂者は実に500人にのぼるという。ボルネオのキナバル山もそうだ。日大探検部創設者の森国興さんが登った60年代は、まだ探検登山の領域だったのが、80年代末には私と妻が一歳にもならない娘を背負って登ってしまえる山になっていた。
◆現実の我々の生活は少年雑誌の特集ほどには変わらなかったが、海外渡航者の激増は最も大きな変化のひとつだし、地平線も探検部もその変化とともに活動してきたわけだ。また、江本さんは「ディズニーランドより高尾山」とも話してくれた。人工より自然、提供された娯楽より自分の肉体で見つける楽しみが大切だというメッセージがこめられた、シンプルでとてもすてきなフレーズだと思う。
◆地平線創設メンバーの一人でもある法政大学探検部OB岡村隆さんは、各大学探検部の創設,全国学生探検会議の開催、探検部の交流、その一環としての学生探検報告会をきっかけにした江本さんとの出会い、地平線創設メンバーの顔合わせ、「あむかす」との関係、など、混沌としたうねりのような動きをわかりやすく解きほぐしてくれた。「渡辺たちが本多勝一ではなく、江本さんのところに行ったのは大正解だった」。
◆その岡村さんの後輩で、立教大学で社会人類学を講義する執行一利さんは、スリランカ研究家。1969年から2003年まで、じつに第7次におよぶ法大探検部スリランカ密林遺跡探査隊の活動をとおし、ジャングルでの遺跡探しの面白さを語ってくれた。かつて探検情報センターという漠然としたイメージを何かの形にしようともがいていた関東周辺の大学探検部員たちをとりまとめ、学生による海外活動の報告会、報告書の作成といったやっかいなことを形にしたのはひとえに執行さんの力によるものであることは、ここに明記しておきたい。執行さんがいなければ地平線会議も存在しなかったかもしれないのだ。
◆東京農大探検部OBの北村昌之さんは、執念ともいうべきメコン全流航下の11年の報告と、監督という立場で見た現役学生の印象を話してくれた。監督などというたいへんな仕事を引き受ける人材があらわれるところに、農大の層の厚さを感じた。日大施設でのシンポジウム後、徒歩数分のアルカディア市ヶ谷(旧私学会館)で式典があり、そこに関野吉晴さんが来てくれた。その日、三つもの講演をこなして疲れはてていた関野さんなのに、シンポジウムに遅れた罰として何か話せ、とオニのような仕打ち。関野さんは一ツ橋大学探検部の創設者でもある。部を作ったのはいいが何をどうしたらいいのか判らず、他大学の合宿に参加させてもらいながら技術を学んだという話をしてくれた。とくに早稲田大学探検部には準部員のようにお世話になったそうだ。グレートジャーニーのサポーター代表を早大0Bの惠谷治さんが買って出たのにはそんな古いつながりがあったのだ。
◆大学探検部というのは「試合」でも「親睦」でもないつきあいを他大学とのあいだで持ちつづけてきた。森さんが日大に探検部を作ろうとしたとき、そんな危険な部を認めるわけにはいかない、と学校側から強硬な拒絶を受けた。その当時すでに活動していた日本中の大学探検部にあてて森さんが助言を求める手紙を書いたところ、すべての大学探検部から激励の返事を受け取ったという。
◆おそらく、探検部の宿命は探検部という名前そのものにある。部の名前は看板である。野球部、剣道部、ラグビー部、茶道部、など「名が体を表す」のがふつうのクラブなのに、探検部はその看板自体が意味不明なのだ。「探検部に入った」というとクラスメイトは笑うか、けげんな顔をするか、どちらかだ。探検という言葉はだれでも知っているが、さて、探検という言葉を看板にした部活動とはどんなものであるのかがわからない。入部した当人もわからない。わからないから考える。議論をする。自分なりの価値を探す。迷いつつ行動する。どの大学探検部も創部以来そんなことをくりかえし、今後も続けてゆくのだ。名が体を表す他の部と探検部との一番の違いはそこにあるし、他大学とのつきあいが親密な要因も、そのような価値観と探検観のたえざる模索を強いられる点にひそんでいるのだろう。
◆日大探検部40周年にはすなおに拍手を送りたいが、それは40年の「実績」とか「栄光」とかではなく、今にも倒れそうになりつつもなお走り続けるよれよれのマラソンランナーに対する暖かい拍手である。(10月7日 渡辺久樹)
新潟県十日町に住む、地平線仲間の小川久美子さんから。 「お元気ですか?こちらは稲刈り中です。茅刈りのチラシ送ります。また地平線会議でおいでいただけたらありがたいです。お願いします」
★体験コース 期間:11月11日〜12日(土日)参加費1000円 昼食代500円
★長期滞在(3泊以上)コース・経験者(茅刈り経験5日以上)コース 期間:11月1〜15日の随時 参加費・食費・宿泊費:無料 風呂代・酒代:実費 民泊
★短期(日帰り〜2泊)コース 期間:11月1〜15日の随時 参加費:500円
★申し込みは、tel・Fax 025-595-8195 小川さんへ。
小川さんは奥越後 茅屋根応援団「茅屋」の中心メンバー。茅葺き民家の保存に頑張っている。
★大阪講演
日 時:10月14日(土)14:00〜15:30
場 所:モンベル大阪本社9F
要予約:モンベル本社広報部(TEL:06-6531-5524)
入場無料
★東京講演
日 時:10月28日(土)14:00〜15:30
場 所:モンベルクラブ渋谷店5Fサロン
要予約:モンベルクラブ渋谷店(TEL:03-5784-4005)
入場無料
(編注:主催者に聞いたら「準備の都合上、ご予約がいただきたいのですが、当日入場も可能です。ただしお席はご予約いただきました方を優先にさせていただきますので、あらかじめご了承お願い」とのことでした。是非参加を)
地平線会議のみなさん、こんにちは。河田真智子です。ニコンサロンでの写真展『生きる喜び──脳障害児の16年』に地平線のメンバーの方がたくさん見にきてくださったのは、もう2年半前のことです(懐かしいなあ)。夏帆は19歳になり、高校を卒業して、近くの通所施設に通い始めています。「元気!です」もうすぐ本ができます。障害児が生きてきた「ありのまま」を伝え、そして、私同様に試行錯誤をしながら障害児を育てているお母さんたちの役に立つ本を作りたいと思いました。このテーマに取り組んで5年位たちます。やっと、宿題ができました! 以下のような本ができました。
『お母さんは、ここにいるよ
──脳障害児・夏帆と過ごす日々から──』
2006年10月末 毎日新聞社刊 1300円(税込)
前半は夏帆の19年間の写真物語り、後半は障害をもつ子のためのノウハウです。「病気の告知」「主治医との上手なつきあい方」「身内の理解」「お母さんの息抜き」「医療費」「制度を使う」「医療的ケア」「旅、好きなことをあきらめない」などのテーマを取り上げました。さらに「差別」や、「宗教」「自殺」というテーマも入れたので難しく、最後の最後には「江本藁」にすがり、原稿を読んでいただいたりしたのでした。江本さん、ありがとうございます。この本を必要とする人がまわりにいたら、ご紹介いただきたいとお願いいたします。(10月11日 河田真智子) http://www12.ocn.ne.jp/~match/
2006年10月10日現在(先月掲載分と一部修正があります)
★大阪、第七藝術劇場
TEL:06-6302-2073
9月30日(土)〜10月13日(金)モーニング上映 10:00〜
★ポレポレ東中野 TEL:03:3362-0088
10月10日(土)〜11月3日(金)
[1]14:00(吹き替え版)
[2]16:20(字幕版)[3]18:40(字幕版)
関野吉晴氏トーク 10月14日(土)14:00〜/15日(日)14:00〜/8日(水)18:40〜/19日(木)18:40〜/22日(日)16:20〜
江本嘉伸氏トーク(ジャーナリスト、地平線会議代表世話人) 10月20日(金)18:40〜
山田和也監督挨拶 10月14日(土)16:20〜/15日(日)16:20〜
★東葛国際映画祭
10月16日(月)会場:長全寺(千葉県柏市柏6-1-9)
問合せ:東葛国際映画祭実行委員会事務局 TEL:04-7159-3132
★第5回京都映画祭
10月26日(木) [1]13:35〜[2]19:00〜
会場:京都ドイツ文化センター TEL:075-761-2188
前売800円 当日1,000円
問合せ:京都映画祭事務局 TEL:075-212-0920
★「プージェー」自主上映会
11月12日(日)[1]10:30[2]13:00[3]15:30
会場:アジア国際センター(韓国民団会館)4Fホール(岡山駅東口より徒歩5分)
当日:1500円(前売:一般1200円/中高生1000円)
問合せ:日高奉文(ヒダカ・トモフミ)090-5378-5433/呉東吉(オ・トンギル)090-2095-3610
★第5回海老名市プレミアム映画祭
11月12日(日) 14:30〜
問合せ:海老名市商工会議所 業務部木村
TEL:046-231-5865
★東北芸術工科大学
11月22日(金)16時頃 会場:東北芸術工科大学
★北海道、シネマトーラス TEL:0144-37-8182
11月25日(土)〜12月1日(金)(予定)
■いつも地平線通信を読んでくださり、ありがとうございます。あらためて言うまでもなく通信制作のためには経費がかかります。通信費を振り込んでくれたり送ってくださった皆さんに感謝しています。皆さんのお金は大変役に立っています。一方でせっかくの私たちにとっては貴重な通信が時に「所在不明」「転居」などの付箋とともに返ってきてしまうことがあります。長い間音沙汰ないままの人にも送っているので中には迷惑に思っている方もいるかもしれません。もともと地平線会議には専従の人間がいるわけではなく、その時々の「世話人」が世話をしています。発足当初の世話の方法は[1]1万円カンパを納める。[2]タダで知恵や労力を提供する。[3]たまたま運悪く?協力させられる。の3種類がありました。その意味で「通信費」というのは3番の協力の部分での世話の意味があります(「通信費」を「会費」と誤解する方がいますが、地平線会議はいわゆる「会」ではありませんから会費は存在しません)。さらに、「おもしろいよ」とか「うざったいなあ」とメールやハガキをくれる方も“世話人”と思っています。
地平線通信はどなたでも読めますが、地平線会議が発足した頃の精神を念頭に整理しておくと、たとえば以下の方々に読んでもらっていると思います。どうか今後もご協力をお願いします。
1、通信費を払ってくださった方(今年の1月以降に支払ってくれた方々の名前を下記に小さな字で載せました。漏れていたら連絡ください)。
2.通信の編集、執筆、印刷、発送、報告会椅子並べ、受付などカラダを使ってくれている方。
3 歴代の報告者、1万円カンパ協力者など地平線会議を支えてきてくれた方。
4.遠方や多忙で駆けつけることはできないが、応援しているぞ!というパワーを送ってくれる方(ハガキかメールで一言寄せてくれるとありがたいです)
5 最近地平線会議を知って関心を持ち、地平線のために汗かきをしたい、と思っている方。
通信費は一応年2000円ですが、5000円、1万円といった額をカンパしてくださる方もいます。「毎号誰が何を書くか楽しみにしてます」などあたたかい言葉が添えられていることも多いです。また犬好きが多いと知って犬年にちなみ犬の切手を2000円分送ってくれるなどユーモラスな声援もあります。
★2006年に通信費を送ってくれた方々は以下の通りです。ありがとうございます(手違いで漏れている方はごめんなさい。後で追記します。また、ここには記録してませんが2005年までに数年分のカンパをしてくれた方も勿論います)
秋元修一/足立洋太郎/新垣亜美/荒川紀子/安東浩正/井倉里枝/池田祐司/石田昭子/石原卓也/井ノ倉里枝/上田喜子/上田京子/大江章/大塚覚/大槻雅弘/大西夏奈子/大矢芳和/奥田啓司/長田乾/小山田美智子/小山田武道/貝畑和子/掛須美奈子/梶光一/片岡恭子/加藤千晶/加藤秀宣/加藤千晶/金子浩/川堺恵生/川島好子/河田真智子/菊地由美子/岸本佳則・実千代/北川文夫/北村敏/木下聡/久島弘/倉科直美/車谷建太/向後元彦・紀代美/光菅修/小高みどり/後藤聡/後藤正/五藤有紀/小長谷由之・雅子/小林天心/小村寿子/坂本順哉/佐々木陽子/シール・笑みこ/鹿内善三/嶋洋太郎/白井省三/城山幸子/菅沼進/菅原強/瀬沼由香/妹尾和子/高城満/高世仁/高野政雄/高橋千鶴子/滝野澤優子/多胡光純・歩未/田中昌二郎/塚下健太郎/津川芳巳/土屋守/坪井伸吾/中澤和子/中島恭子/中島菊代/中嶋敦子/永田真知子/中橋蓉子/長濱静之・多美子/中村吉広/西尾暁子/西嶋錬太郎/野地耕治/野々山富雄/花崎洋/濱村徳士/早川淑子/原健次/福原安栄/藤木安子/藤田光明/藤原和枝/藤原謙二/古川佳子/古橋稔/堀内満津枝/前島啓伸/又吉健次郎/松澤亮/松島幸子/松本敦子/松本典子/三沢輝江子/水落公明/宮内吉晴/宮部博/村岡純子/村田忠彦/森井祐介/森住貴一/柳沢美津子/山田雅子/山辺剣/山本豊人/山本カヨ/山本将/山本和弥/遊上陽子/吉岡嶺二/吉竹俊之/横山央/若木美枝/若山繁人/渡辺一枝/渡辺久樹/渡辺泰江
◆島旅を好み、河田真智子さんの主宰する「あいらんだあ」のふるい同人である森井さんとはずいぶん昔からの知り合いだが、地平線会議の活動でこんなに力を発揮してくれるとは当初は思いもしなかった。印刷関係の仕事を卒業した森井さんがその知識を生かしつつ地平線通信の制作に携わってくれたことは、地平線会議にとって何よりの幸運だ。
◆それまで長い間厄介な仕事を引き受けてくれた武田力さんにも感謝しなければならない。彼は現役の仕事師であり、出張が多く、私の気まぐれな編集方針で相当無理させたと思う。今でも何かとアドバイスしてくれるが、多少無理を通せるのは今は森井さんの丹念な仕事のおかげである。
◆今回もまるまる2日48時間を森井さんは、通信のために費やしたと思う。「実に楽しい作業ですよ」と本人は言ってくれるが、いつも迷惑をかけている身として、今後も森井さんが楽しんでできる原稿を送り込みたい、と思う。(江本嘉伸)
八百年のうたかた
三羽(みつわ)宏子さんが「なんとなくピンときて」モンゴルを訪れたのは'95年。高校一年生でした。一週間のツアーで草原の国に一目惚れした宏子さんは「モンゴル人になりたくて」一時は高校を辞めて移住を考えたほど。東京外大のモンゴル語学科に進み、一年間の留学も経験しました。 「“水道”という単語も、概念さえ知らず、あたりまえのように川から水を汲む子供達と話していると、自分が当然と思っていた日本の生活のあやうさを感じちゃう」という宏子さん。現在は内視鏡メーカーに勤務。独自にモンゴルにも販路を拡げ、ビジネスでも関わるようになりました。 今年、建国八百周年を迎えたモンゴル。古(いにしえ)から変わらない草原のくらしがある一方で、民主化後の急激な変化も進行しています。 後半は、元駐モンゴル大使の花田麿公(まろひと)さんを混じえ、モンゴルの今について検証します。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ 郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
|
|
|
|