2006年5月の地平線通信

■5月の地平線通信・318号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙月は、緑が輝く季節だ。人々はこの時期軽やかに行動する。私も12日午前、新幹線に乗った。向かったのは大阪市東住吉区。そこに長年対面したいと思っていた貴重なものがある。ムリなお願いをあるじは嫌がらずOKしてくれたのだ。「手狭で物置き代わりにもしているもので」と壁にたてかけるようにしてそれはあった。

◆「田吾作3号」。1989年から90年にかけて永瀬忠志さんとともにアフリカ大陸横断、サハラ縦断を果たしてパリの凱旋門まで11100キロを歩きとおしたリヤカーである。リヤカーマンのマンガと「MONBASA-KENYA」と書かれた覆いの板、砂漠の深い砂地を踏破するのに車輪を乗せるために使った1・8mの板2枚も。私にとっては「伝説のリヤカー」を目のあたりにして、ついに出会えた、と深い感慨があった。

◆電話ではよく話すご家族との対面も楽しみだった。小樽に住んでいた紀意子さんは、講演を聞きに大阪へ飛んできたのがきっかけで結婚した。ひとりツーリングが好きで、自由に生きるのが性にあっている、という紀意子さんにとって結婚は、どちらかといえばあり得ないことに近かった。ただ6才年長の永瀬さんは「神様のような人」だった。ある日新聞で住所を知り、永瀬さんにファンレターを出し、永瀬さんの講演を聞きに大阪へやって来た。

◆空港へ出迎えてくれた永瀬さんと紀意子さんの気持ちは一瞬でつながったようだ。一緒になろう、と翌日言われた時は「舞い上がってしまいました」。植村直己冒険賞をお祝いしたくて9才と3才のふたりの男の子をまじえて食事をしながら、一家4人と時間を共有させてもらったことに感謝した。

◆13日は、今回の旅の主たる1日だ。地平線会議の若き仲間である多胡光純、前田歩未さんの結婚式なのである。多胡君はモーター・パラグライダーで空撮もする「air photographer」、歩未さんは、ドイツで修行した木のおもちゃ作家。ふたりは、おととしの11月6日の「その先の地平線 地平線会議300か月記念フォーラム」で初めて出会った。どのようにひかれあっていったのか、知る由もないがフォーラム直後、多胡君が交通事故に巻き込まれて負傷、空を飛べなくなった時期、歩未さんの長距離電話の励ましは何よりも支えになったようだ。

◆昨年はじめのある日、ふたりで四谷に姿をあらわし、以後何かと相談を受けていた。結婚を決めると同時に京都の街を見下ろす山の中の懐石料亭に会場を頼み込んだ。(なんとここでは結婚式なんて初めてという)。雨に洗われてほんとうに見事な緑だった。結婚を承認する者は渡された風船を空に放す「人前結婚式」。地平線の皆を代表する気持ちで風船を放した。

◆披露宴の後、ご両人それぞれの仕事を紹介する場があって良かった。歩未さんはドイツ修行時代のスライドを見せ、多胡っちはタクラマカン砂漠の空撮の映像の一部を紹介した。分野は違うがそれぞれがパイオニアとして大事な道を切り開きつつある時期でもある。それにふさわしい、すべて手作りの清清しい結婚式だった。心からおめでとう、たごっち、あるみ!必要あればこれからも「顧問(マイスター)」をやるからね。

◆14日昼、笠置という小さな駅に降り立った。ここから川沿いの県道33号線を歩き出す。ランニングウエアを忘れてきてしまったのだ。通る人などいない田舎道。途中、苔むした山道にひかれて登ると、兵隊さんのお墓があり、あたりには座れるように石が。ここで乗り換えの加茂駅で素早く買っておいたお弁当を食べた。緑の山でカエルの声を聞きながら食べる贅沢。「奈良県」の道標をやり過ごし8キロの道を歩き続け、目的地に近づいた頃、後ろの自転車の二人から声がかかった。

◆「よく来てくれましたあ!」シール・エミコさんとスティーブだった。眼下に田圃と畑が広がる古い一軒家でふたりが暮らしはじめて2年になる。この地で野菜をつくりながら生きる幸せをエミコさんは何度も書いてきた。実際、「余命半年か」とまで心配されていた彼女のこの2年ほどの快復ぶりはめざましかった。その畑のある家にようやく訪ねることができたのだ。

◆素晴らしい風景。自転車用のスパッツをエミコからもらい、一緒に5キロあまり走った。信じられないことになぜかオオカミ犬のラフカイ、ウルフィーも一緒である。(顛末は編集後記に)深夜0時30分、静まり返った家で彼女の闘病と行動の5年を追った特別番組「Life いのちのペダル」が始まった。5月15日はエミコの41才の誕生日でもある。パキスタン、インド、ネパールとふたりを追いつづけたMBSのディレクター、しいばさんも駆けつけ4人でシャンパンを抜いて祝った。

◆2時間の特別番組である。何度もエミコはスティーブと抱き合って泣いていた。「スティーブと会えたことがすべて。いつも彼だけはなくしたくない、と思って生きている」と、エミコは何度も言う。

◆5月の緑の中の4日間、期せずして、地平線に向かって生きてきた3組の家族の物語を聞く貴重な時間が流れた。皆さん、ありがとう。(江本嘉伸)


先月の報告会から

私たちはどこから来たのか?

関野吉晴

2006.4.27 榎町地域センター

 4月の報告会当日、夕方6時過ぎに榎木町地域センターに到着した。いつもはギリギリか、始まって30分くらい経ってからもぐりこむ私であるが、この日はちょうど早稲田近辺の事務所での打ち合わせが予定より早く終わったので、たまには会場造りでも手伝おうと張り切って行ったのだ。ところが会場はすでに出来上がっているし20人以上の人が集まっていたのでびっくりした。さらに6時30分の報告会開始時には席がほとんど埋まってしまい、立ち見も出るという繁盛ぶり。こんなに早く満席になるなんて、私が知っている限りなかったことだったので、さすが関野さんだと感心させられた。受付のテーブルに山積みにされた『グレートジャーニー全記録」』上下巻7000円(特別価格)が次々に売れていく。その横で1500円の我が著書はさっぱり。便乗商売をあてにしていたのに、世の中甘くありませんね。

◆関野さんは2001年にタンザニアで終わった『グレートジャーニー』 に続き、2004年7月からは日本人のルーツを追及する『新グレートジャーニー・日本人の来た道』の旅を始めている。もちろん、全行程自転車、徒歩、カヌーによる、動力を使わない旅である。今回はその第一ステージである「シベリア→サハリン→北海道」の北方ルートの話で、昨年3月の報告の続編。

◆関野さんの話はミトコンドリアDNAの分析から、母方が礼文島の縄文人のそれと近い、というふれこみから始まった。また、民族的に単一だと言われているがこれは間違っている。アフリカ大陸からアメリカ大陸へと至る人類がたどった道程においてさまざまなルートで、さまざまな時代に日本へやってきたため言葉も多様で血液型もバラバラだとのこと。たとえば、アマゾンのヤノマミ族やアメリカインディアンの血液型は、ほとんどがO型だそうだ。フムフム、いきなり最初からおもしろそうな話だ。

◆スライド上映が始まると、見覚えのある風景が映し出された。果てしない緑の草原の中を地平線まで続いている一本の道。青い空には独特な感じでぽっかりと白い雲が浮かんでいる。それはまぎれもなく私がバイクで走った5年前と変わらないシベリアの風景だった。その風景の中を関野さんが自転車で走っている。関野さんは「こんな感じの、地平線が見える風景が好き」だとのこと。その対極にあるのがアマゾンだというが、関野さん、もちろんその地平線の見えないアマゾンも大好きなのである。

◆「アムール街道」と関野さんが名付けたという極東の道は、アムール川に沿って東へと向かう、シベリア横断の北方ルート。人類の一部はトナカイ、マンモスを追いかけながら、アムール川沿いに東へ東へと進み、その人たちがシベリアからサハリンを経由して日本列島までたどり付き、縄文人の祖先になったというのだ。5年前、私はそんなこと考えもしないで旅していた。ただシベリアに東洋系の人が多く住んでいるのが意外だった。ブリヤート人の家族に「日本人とオレたち、そっくりだね」と呼び止められ、一緒に記念撮影したっけなあ。

◆『新グレートジャーニー』では、旅をしながらシベリアに住む先住民族の暮らしも丹念に取材していて、その話もとても興味深かった。たとえばトナカイの話。シベリア内陸部では犬橇ではなくトナカイ橇が圧倒的に多い。その理由はエサ。トナカイは雪の中から地衣類などを自分で捜して食べるので、犬と違ってエサを大量に運ぶ必要がないからだとのこと。最近はそのトナカイはじめ動物の数が減っている。サハリンではパイプライン建設による自然破壊が関係しているらしい。動物を捕って生活をしている先住民にとっては死活問題なので、政府に対して裁判を起こしている。また、アムール川下流域に住むウリチという先住民族はチョウザメを捕って暮らしているが、狩猟は許可制でそれをもらうにはお金が要る。となると金のない先住民は生きていくために密猟するしかない。

◆ソ連が崩壊しロシアになってから先住民の暮らしはますます厳しいものになっているが、彼らの「ソ連時代のほうが経済的には豊かだったけれど、戻りたいとは思わない」という話は印象的だった。貧しくても自由な生活のほうがいい、というのは旧社会主義国の人々に共通する思いのようだ。(勿論人はいろいろで、あの時代のほうがずっと良かった、という人もいる)

◆先住民の話では、キタキツネが生きたまま罠にかかると、首を折り、最後は心臓を突くが、そういうときはさすがにつらそうな顔をしていたという話にはほっとしたし、「北方四島は日本に返すべきじゃない」と主張するサーシャさんに対し、関野さんは「いや、返すべきだ」と日本語で答えたというエピソードもおもしろかった。

◆サハリンの北緯50度線を越えると、いきなり日本に近い映像となった。ここにはかつて日本だった名残がたくさんある。鳥居だけ残った神社、日本人の墓地、日本語を話す人々。西牟田さんの著書『僕の見た大日本帝国』にも出てきた場所も映し出された。日本によって強制的にサハリンに送られた残留朝鮮人にきっとひどいことを言われるんじゃないか、と思っていた関野さんだったが、各地で出会う朝鮮人は意外にもとても親切に対応してくれたそうだ。 韓国や北朝鮮では反日運動も激しいのに、サハリンではそうではないらしいと知って私もほっとした。

◆サハリンに残ったのは朝鮮人だけじゃなく日本人も多かった。そのほとんどは女性で、朝鮮人の男性と結婚したためだという。朝鮮人の夫の中には、うっぷんのはけ口を日本人である妻に向ける人も多かったらしく、日本人妻たちは苦労自慢をしたら誰にも負けないというほど辛酸をなめてきている。私もハバロフスクで市内バスに乗っていたとき、たまたま席を譲ったおばあさんが残留日本人で、ロシア語で「パジャールスタ(どうぞ)」と言ったのに、日本語で「ありがとう」と返されてびっくりしたのを思い出した。その人は「樺太組なの」と明るく笑っていたけれど、あの人も朝鮮人男性と結婚して帰れなかった人だったのだろうか。

◆先日、ウクライナに暮らしている旧日本兵の帰還が話題となったが、そんなふうにシベリアに残された日本人の子孫たちが「混じりっ子」として、かの大地に根付いている事実を知ると、ロシアと日本、朝鮮の関係は、私たちが意識している以上に強いつながりがあるんだなあ、とも思った。

◆サハリンの映像では、ほかに自然保護区の海でサケを獲る熊の親子、アザラシやトド、60万頭というオロロン鳥のコロニーがあるチュレーニー島も印象的だった。

◆あっという間の2時間半。TV番組で見る『グレートジャーニー』もすばらしいけれど、こうして関野さん自身からライブで聞く報告は、もっと心に響いてくる感じがする。これこそが地平線報告会ならではの魅力なんだろう。前回の話を聞けなかったのが悔やまれる。

◆とりあえず北方ルートの取材は終わったけれど、関野さんの『新グレートジャーニー』は、まだまだ終わらない。これからまた南方ルートの取材に出かけるのだという。今度はヒマラヤからメコン川沿いに南下するルートで、そっちもおもしろそうだ。

◆それにしても、御年50数歳(?)にして、このパワー。ギックリ腰と椎間板ヘルニアでボロボロなのに、マイナス41度の中、80kgの橇を引いて歩いたり、シベリアの悪路を自転車で1日100kmも走ったり、重いザックを背負っての徒歩旅、カヤックでの海峡横断などなど、その行動力、体力は若者顔負けである。関野さんに限らず、おじさんパワー炸裂の「地平線会議」。シゲさんを筆頭とする私たち「おばさん組」も負けちゃいられない、と奮起させられたのでした。(滝野沢優子)

★『犬眼レンズで旅する世界』(情報センター出版局)に続く滝野沢優子さんの犬シリーズ第2弾、新著『地球わんわん物語』(凱風社 1500円+税)4月17日出版!!

[訂正]地平線通信(紙版)では、この報告会レポートの日付が間違っていました。ここに掲載されたものが、先月の報告会の正しい日付です。


地平線ポスト

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[終電なんて怖くない!] 

 関野さんのシベリア報告、間宮海峡や残留日本人など、自分が去年訪れた時と共通することもあり、勉強にもなりました。ある残留日本人の方の台所で、漬物をご馳走になっている写真など、同じ部屋で同じ物をご馳走になった安東としては、おばさんまだ元気じゃん!と思いました。夏にまたサハリンを再訪しようかな。関野さんが宗谷海峡をカヤックで渡った報告がなかったですが、あれこそ大冒険だと思うのですが。

◆2次会酒宴は早稲田なので、終電に乗れないことが結構あります。小田急電鉄の藤沢終電は案外早いのですね。酒への仁義から、よほどの理由もない限り途中退席しません。今回も結局、相模大野から自転車で一時間半ほど30数キロ走り、帰宅すると2時半でした。サラリーマンの頃、往復44キロ自転車通勤して、やはり帰宅はいつも真夜中だったので、この程度の距離はたいして苦でもないのですが、どうせなら極限の大自然を走りたいところです。ブリザードが来れば、いいトレーニングになるのでしょうけどね。今度は 「北京」(注:2次会の中華料理屋)近くの公園で野宿してみんなで朝帰りというのはどうですか?最近地平線で「野宿」が話題みたいだし、終電も気にならないし。(シベリアに謎の怪獣を探しにいきたい安東浩正) 

[大理の菊屋のカツ丼がおいしい!]

 江本様 こんにちは、山本豊人です。今、休暇を利用して中国雲南省の大理に来ています。昆明から大理まで現地で自転車を購入しサイクリングしました。前回の地平線会議で安東さんのアドバイスをいただきました。自分にとって海外の自転車旅は初めてだったので、無事やり遂げることが出来て、とてもよい経験になりました。地理的にも山岳地帯なので、自転車の高地トレーニングのようでした。途中から中国人の学生サイクリストと旅をともにし、現地の民家で水の補給や昼寝をさせてもらうなど、彼らの旅のペースも味わうことが出来た旅となりました。僕の購入した中国製の自転車は、中国人学生の彼らが見ても不良品だったようで、日に2回は部品が取れて、その都度がっくりときましたが、修理をしながらも目的地に到着することが出来て本当に嬉しいです。今回は安東さんの本を読んだことがきっかけで、雲南へ向かいました。冬にチベットを越えて行った安東さんは本当にすごい人だと何度も感じました。それでは失礼します。追伸:安東さんお勧めの大理菊屋のカツ丼を今食べています。ガツンと疲れが吹っ飛んで行きました。追追伸:度々すみません。乗ってきた自転車と交換でカツ丼をただにしてもらいました。オーナーの菊ちゃんに感謝です。(5月6日) 

───★最初の自己紹介メールも以下に掲載。─── 

 江本さま。毎月、地平線会議に参加させて頂いています山本豊人です。永瀬さんの報告会の二次会で、江本さんの名刺を頂いたので遅くなりましたがメールさせていただきました。僕は今日から社会人二年目に入りました。ケンウッドというオーディオメーカーでデザイナーをしています。◆学生時代に武蔵野美大で関野先生の文化人類学の授業を受けていました。その影響もあり地平線会議をホームページで知り、顔を出すようになりました。僕は昨年度、休暇ごとに自転車で日本縦断をやっていました。残り熊本から佐多岬方面が残っています。今年度は日本縦断の残り完走と海外遠征を目標にしています。海外遠征では是非とも第二の拠点とも言えるような場所を見つけたいと考えています。関野先生も僕たちに一カ所に滞在して一対一で付き合える様な人を見つけると良いと話してくれました。一人の人と深く付き合うことで、その家族や周りの環境、さらには世界全体、自国のことまでよく見えてくるとのことでした。今後は自分の視点をもって旅をしていきたいです。(4月1日)

[屋久島黄金週間体感。『縄文杉詣で』]

 ゴールデンウィークを屋久島で過ごしています。今までいろいろな時季に訪島してきましたが、「GWの屋久島」は混雑が恐くて避けてきました。でも、今回は思い切って。(今これを書いている場所は、メインの観光どころからは少し外れた島の南の方。すぐ脇の県道を走る車の台数こそいつもより多い気がしますが、それでも時間の流れは緩やか屋久島モードです。)

◆で、行ってきました久々に。縄文杉へ。エコツアーの荷物持ちとして後ろにくっつかせてもらいました。お客さん7人にガイド+私、の9人グループ。1泊2日のツアーの為、一番人気の日帰り行程とは出発時刻も異なり、かつ時間もたっぷりしているのでその点楽なのですが、往復とも日帰りの人々と狭い登山道ですれ違わなければなりません。さまざまなペースの登山者があとからあとから加わってきます。

◆おりしも先日同ルートで木道から落下して亡くなった人がいて、ガイドの方々は無線も使いながら道を譲り合うなどし、相当腐心している様子でした。が、むろんツアーに入らない人たちや、普段は登山に無縁で、例えば「登り優先」などのルールを知ろうはずもない人たちも多くて、混雑が混乱に至りそうなムードに、世知辛い屋久島時間を感じました。

◆そして、この感じ知っている、と思いました。大勢の老若男女が、混み合いながらひとつの場所を目指して進む…はい、「参拝」です。かつて読んだり聞いたりしてイメージしていたことが、体感を通じて実感に結びつきました。

◆そんな道中、心を和ませてくれたのは、リュンと天に向かったつやつやの新緑や、優しい色の花々でした。また、文字通り桜色したサクラツツジや、ハイノキの真白な花が道を彩るようにふんだんに落ちていて、疲れてうつむき加減になってもなお、ささやきかけてくれるのでした。無事夕刻前に縄文杉に到着。近くの小屋は満員、その周辺スペースもすでにテントが並び、結局縄文杉前のデッキでなんとかテントを張りました。月明かりや星明かりでシルエットになる縄文杉の枝下で、ようやくゆるりとした時が戻ってきました。

◆…長くなってしまいました。今から、テッポウユリの群落を探しに行ってきます。 雨が降って、空気がいっそう甘やかな屋久島から。(5月6日 屋久島病のねここと 中島菊代)

[ついつい、嫉妬してしまう地平線通信]

(以下、4月の通信が出た直後に届いた角幡記者の締め切り遅れ原稿)

 江本さん、おひさしぶりです。メールを送るのが遅れて申し訳ありません。自称・探検家から新聞記者に転身しはや3年。私もいっぱしに異動なる時期を迎え、4月1日付けで富山から埼玉県熊谷市にやってきました。新聞記者って忙しいものだと思っていましたが、いやー、富山はヒマでした。事件や事故はほとんどなし。たまにあるかと思えば、クマが異常出没するといった血なまぐさいけれども、どこか牧歌的なにおいのするものばかり。1年半の事件担当の後、県政担当になり、よけいヒマでした。

◆ヒマと言っても仕事をさぼっていたわけではありません。日常的な発生が少なかったおかげで、自分の興味があった黒部川のダム問題や北アルプス・大日岳遭難事故の裁判の取材など、精力的に取材する時間がたっぷりありました。取材だと言い張り沢登りに興じたりして、周りの記者からは「好きなことばかりやって」と白い目で見られていました。黒部川のダム問題に関しては、富山の地元出版社からささやかながら単行本を出版することになっています。

◆そんなこんなで異動も決まりぼんやりしていた3月下旬、地元紙「富山新聞」に「射水市民病院で安楽死」などという記事が掲載、市長が会見を開き事実をおおむね認めたため、大騒ぎとなりました。東京本社から応援記者が10人以上おしかけ、これまで見たことのないようなどたばた劇が展開。僕は私用で福井県にいたのですが、急遽呼び戻されました。異動休みも吹っ飛び、前日徹夜で引っ越し荷物をまとめるはめに。翌日は、驚くべきことに3年間ためこんだゴミ約500キロ(推定)と古新聞約1トン(推定)を3階の自室から1階の玄関先に50回ほど往復運搬すると、久しぶりの肉体作業に体が悲鳴を上げ、ふくらはぎが筋肉痛となるていたらくぶりをさらけ出してしまいました。

◆安楽死問題は病院外科部長がこれまでに7人の人工呼吸器をはずし死亡させたとされています。引っ越し作業の後は再び富山に戻り外科部長宅に張り込み、遺族を取材する毎日。連日、朝4時ごろになるとデスクから「他紙に抜かれているぞ」と電話で起こされ、異動前後に初めて新聞記者っぽい体験ができました。

◆熊谷は秩父の山も近いし、鉄砲の免許でも取ろうと思っていましたが、さすが埼玉、なかなか忙しいみたいです。地平線通信でみなさんのご活躍を拝見してると、「くそ、俺も」とついつい嫉妬してしまいます。異動で東京も近くなったことだし、ヒマを見つけて地平線に出席する機会を虎視眈々とねらっていますので、その時はまた「北京」で飲みましょう。(角幡唯介 朝日新聞記者 4月13日)

[若き地平線OBから近況報告]

 ご無沙汰しております。「かつての東大生」松尾です。卒論をめぐって教授と喧嘩して(笑)ボロ負けし、修了証片手に這々の体で大学を逃げだしました。現在は友人の紹介のおかげで、希望通り、教育産業で喰っていく端緒に付いたところです。家庭教師三件と、公務員試験予備校での講師職の掛け持ち。大量に押し寄せる論文添削業務(無給!)を丁寧にやりすぎて、腱鞘炎は悪化する一方です。ぼやきつつも、1ヶ月遅れでようやく始まった社会人生活です。

◆最近、社会に出るに当たって友人達に助けられることが多く、人間関係の大切さを再認識しています。振り返ってみると、いま助けてくれているのは、私がかつて青眼でもって接し、その人のために出来る事を懸命に尽くしてきたような人たちです。私の母校の校訓は「誠実・謙虚・努力」というのですが、今さら当を得た校訓であったと感心したりしています。平凡なことを平凡に続けた人こそ真に非凡な人なのだ、というのが近ごろの座右の銘です。

◆多忙でやや体調を崩しており、5月からは始めての講師職も始まり、なかなか都合がつかないのですが、一度、通信発送か報告会の場に顔を出したいと思っております。(松尾直樹 5月3日)

[新たな可能性へ−−もやもやが晴れた冬のカナダ]

  江本さま ごぶさたしてます。カナダ中央部大平原を歩いてました。今冬は、ひさびさに気分が晴れました(^ _ ^)。数年来、執着していた冬季カナディアン・ロッキー山スキー縦走から、一旦離れたのは正解でした。ここ数年、冬のロッキーに入っても、心がついていかず、何らかの感動はあっても、通いはじめた頃のような熱い興奮とは縁がなかった。今回のカナダで、もし幻滅することがあったら、自分にとっての冬のカナダは、もう潮時なのかもしれない。そんな気持ちでの出発でした。しかし、カナダ中央大平原を訪れてみて、自分の中にもやもやしていた思いをようやく越えられた気がしました。エリアを変えてみたのが吉と出たようです。ひとつの可能性に見切りをつけるとき、新たなる可能性が動き始めるのかもしれません。

◆旅の方ですが、凍結したウィニペグ湖(琵琶湖の35倍の面積、カナダで6番目に大きい)南半分をスキーで300キロ踏破。出発早々、手袋をなくして指先が軽い凍傷になったり、ところどころで氷を踏み抜いたり、GPSの使い方がトンチンカンで結局地図とコンパス頼りに歩いた他は、ピクニックのように余裕のヨッちゃんの旅でした。とりわけ素朴でホスピタリティあふれるインディアン(オジブウェイ族)との出会いは印象的でした。

◆途中、立ち寄ったインディアンの村の小学校(日本でいうと小学2年生)では、授業に呼ばれて、日本に対する質問が集中しました。
子供:「日本にも雪がありますか?」
 私:「ところによっては一晩でテントがすっぽり埋まります(20代に通いつめた谷川岳一ノ倉沢や黒部峡谷はそうでした)」
子供:「日本でも湖が凍りますか?」
 私:「ところによっては全面凍結してマイナス30度C近くまで下がります(30代になってから通っている北海道北部はそうです)」
子供:「日本にもクマやムース(シカ系の動物)がいますか?」
 私:「種類はちがうけれども、両方ともいます(10代のころよく行った早春の南アルプスではよく見かけた)」

◆そんな質疑応答を終えた後の子供たちは妙にうれしそうでした。日本って極北カナダみたいなんだネ、という顔してました。アクセスは小型飛行機のみという小さな村の子供たちの関心事は、雪、氷、そして動物などがすべてのようです。なぜカナダなの?なぜ冬なの?といったマンネリ化した理屈っぽい質問がなかったのもなんだかよかった。きっと雄大な自然に囲まれて暮らす彼らの感性は豊かなのでしょう。一部先鋭クライマーや厳冬季サイクリストの安東浩正をのぞくと、まったくといっていいほど会話のかみ合わない私ですが、ここでは珍しく対話がスムーズでした。

◆しかし、さすが小学校の先生(もちろんインディアン)はちがいますね。日本についてあわてたように補足しました。先生:「日本は何十階もの高層ビルが乱立して(この村はいずれも一階建てのみ)、車も信じられないくらいたくさん走っていて、人もウジャウジャしてスゴイ国なんですよ」

◆何はともあれ、ひさびさに来てよかったと、気分がいやされました。やりたいことが見つからず惰性で取り組んでいた冬季カナディアン・ロッキー縦走のくり返しから、やっと脱することができました。来冬もまたカナダ中央大平原をインディアンの村をつないで歩いてみたいと思っております。これからは「村で長期滞在」がメインで「踏破」はオマケってかんじでやっていきます。

◆20代のほとんどを費やしたクライミングも30代の大半のエネルギーを注いだ冬季長期縦走も、完全燃焼には至らず中途半端に終わってしまいましたが、自分のやりたいことに少しずつ近づいているのはたしかなようです。4月末に帰国します。今度の地平線報告会には顔出します。(田中幹也 カナダのマニトバ州・ウィニペグより書簡 4/11)

  P.S.じつは、この地が去りがたく帰りのチケット捨てて4月いっぱい滞在してしまいました。(5月8日帰国後のメール)

[嗚呼!清里に響いた品行方正楽団第2回コンサート]

  ゴールデンウィーク初日の4月29日、清里の竹早山荘で「品行方正楽団第2回コンサート」が開かれました。「品行方正楽団」(長いので後は略して「品」にします)は、「地平線300回記念大集会」で結成されたレパートリーは一曲だけという、あの幻の楽団であります。その「品」になんと三輪先生から、「ゴールデンウィークに竹早山荘の山開きで、演奏しない〜?」という依頼があったのが、去年の暮れらしい。冗談でしょと思っていた話が、長岡竜介さん(日本のケーナの第一人者にして「品」の屋台骨)の快諾を得て、今年2月から動き始めました。

◆コンサート当日南米にいて、出演できない白根全さん(鳴り物担当)に代わって、長野淳子(三線・唄)が入り、大西夏奈子ちゃん(太鼓)・長野亮之介(太鼓)と3人で瀬田にある長岡さんのスタジオに通い、血の滲むような!練習を……3回だけやりました。内1回は飲み会つき。楽しかった〜!なにしろレパートリーは「寄せ太鼓」の一曲しかなかったのですから、あとどうするかが問題。それぞれが自分の好きな曲を持ち寄って、音源を聴きながらみんなで合わせていきました。こうして完成したのが、アジア・北米・南米がクロスオーバーする、8曲です。曲名と原産国は以下の通り。1「寄せ太鼓」(日本)2「八木節」(日本)3「小さな儀式」(北米)4「コーヒールンバ」(ベネズエラ)5「ちんぬくじゅうしぃ」(沖縄)6「天狼星(シリウス)」(日本)7「花祭り」(アルゼンチン)8「コンドルは飛んでいく」(ペルー)「ケーナの八木節」なんてめったに聞けませんよ。お得でしたね、お客さん!

◆しかし、最大の目玉はなんといっても、長岡竜介・典子ご夫妻のケーナとピアノの演奏でした。当日は、4ヶ月になる息子さんの正太郎くんを連れて典子さんが参加してくれたのですが、一度だけ演奏中にぐずって泣いた正太郎くんを長岡さんがやさしくケーナを聞かせてあやすというようなシーンもあり、会場全体が幸せな空気につつまれました。南米の民俗音楽と日本のポップスをたっぷりと披露していただき、やっぱりプロはすごいよね〜と「品」の面々は改めて、長岡さんと一緒に演奏させていただけた喜びを噛みしめていたのです。

◆約2時間の演奏の後、2度目にして2度とないかもしれない「品行方正楽団コンサート」は、満場のやけくそのようなアンコールをいただいて終わりました。長岡さんのステージは星五つとしても、「品」の演奏はどのように受け止められたのか?観客のみなさまの暖かさに支えられたのはもちろんですが、それだけではない何か、一つでも伝えられたのか気になるところです。

◆でも、三輪門下生、張替さんのご子息、鷹介さん(バイオリン暦15年)の「すごく楽しそうで、自分も参加したい」といううれしい言葉も聞けました。その他にも、「どうーしても俺に歌わせろ!」と参加を強くアピールし続けるE本さんなど、人々の音楽熱を少しは刺激したのかな。ともあれ、この機会を提供してくださった三輪先生、先生とともに楽器運搬などコンサートの裏方全般をやってくださった関根さん、それからおいしいご飯を作ってくださった海宝さん、本当にありがとうございました!これからもぜひご贔屓に、よろしくお願いいたします。(長野淳子 5月7日)

【ゴンの大冒険】

 江本さんこんにちは。水嫌いで一度も海に入ったことのないゴンが、なんと大海原を渡りました!それも無人島サバイバル体験もです!

◆浜比嘉島から約4キロ(カヤックで1時間程)の沖に浮かぶ無人島、浮原島に、今回サバニツアーで行く一行を港に見送りに行った琉球犬のゴン(約3才)は、そのまま外間さんやみんなとサバニに乗りこんで行きました。まさかこの日一緒に帰ってこないはめになるとは夢にも思わず…。

◆浮原島に上陸し放されたゴンは嬉しさいっぱい、飛ぶように草むらに消えました。そのままゴンはいくら外間さんが呼んでも帰ってきません。たぶんウサギを追って森の奥に入ってしまったようです。これ以上待つとその日の夜の飛行機に間に合わなくなるお客さんがいます。仕方なく後ろ髪を引かれながらサバニに乗り込み浮原島をあとにしました。

◆その晩外間さんはなかなか眠れませんでした。ゴンが泳いで戻って来るんじゃないかとかどこかに鎖が引っ掛かって苦しがっているんじゃないか、満潮に溺れてないかと。翌朝は雷雨で心配しましたがまもなく雨はあがり風もあまりないので外間さんはゴンのえさを持ってカヌーで迎えに出かけて行きました。

◆浮原島に着いた外間さんはカヌーで島を一周しながら声がかれるほどゴンの名を叫びましたが出てきません。上陸しナタを手に薮に入ってしばらく行くと、外間さんがわかったのかワンと鳴き声が聞こえました。でも連続して鳴かないので立ち止まっては耳を澄ましながら行くと、ツルが絡まった木に鎖があちこち引っ掛かって動きがとれないゴンをやっと見つけました!外間さんを見ると嬉しそうにシッポを最強に振り「おい遅いじゃないかー会いたかったぜい!」と外間さんに言ったそうです。(外間さんはゴンの言葉がわかるらしい)

◆カヌーのハッチにのせようとすると自分からカヌーの後方に乗ったのでそのままこぎはじめました。カヌーが傾くとゴンはとっさに伏せて、一度も引っくり返らず、ときどき外間さんの肩に顔を寄せて外間さんを元気づけるようにしたりして、大海原を眺めていたそうです。その絶妙のバランス感覚に外間さんは感心しながら、これからカヌーの相棒としてまたゴンと海に出かけようと思いました。

◆港に出迎えた私は外間さんの後ろでスクッと立ち乗りしているゴンが見えると「ゴーン!かっこいいぞー!」と叫び手を振りました。うちに帰ったゴンはえさを食べたあとは疲れたのか爆睡していましたがちょっとおとなになったように見えました。「おかえり、ゴン。大冒険だったな、無人島にたったひとりで一泊だもんな」めでたしめでたし。ところで犬用のライフジャケットってあるかな〜?!(外間晴美 4月13日)

【ゴンの大冒険(2)】

 第2弾です。ゴンを今度はカヌーで無人島一泊キャンプツアーに一緒に連れていくことにしました。お客さんたちも快く了解してくれました。前回の経験で「嫌がるかな?」と思ったら、自分からカヌーの上に乗ったので「よーし!これで立派なカヌー犬だ」と喜び出発!2人艇にお客さん、外間さん、ゴンが乗り、うしろから私たちが続きました。ゴンは時折後ろを振り返り私たちのことを気にしてくれながら、尻尾をふってました。

◆波もなく穏やかな真夏の日差しのなかをゆっくり一時間弱で無人島に到着。ゴンは大喜びで上陸!でもゴールデンウィーク中とあって家族連れのデイキャンプがいたためゴンは鎖に繋がれたまま。ちょっぴり不満そうでしたがそれでも私達と一緒の初めてのお泊まり旅とあって普段よりテンション高かったなあ。

◆海で一緒に泳がせようと外間さんは誘うけどゴンはやっぱり山犬、水より草むらが好きみたい。ウサギがいると猛然とダッシュしようとして押さえるのに大変でした。日中暑くてゴンは砂を深く掘って手足を投げ出し座っています。私達も暑くてバテ気味、木陰で昼寝。でも夜になるとすっかり涼しくなり、小さな焚き火を囲んで波の音を聞きながら泡盛タイム。久々にのんびり過ごしました。

◆さて、一度も泳いだことのないゴンですが、浜比嘉に戻る途中で、油断したのか、とうとう海に落っこちました!ライフジャケットを着けていないのでひやっとしましたが、さすがゴン!見事な犬かきで再びカヌーに上がり水しぶきをブルル!あーよかった!しかしその顔は心持ちひきつっているように見えました…。次回もカヌーに乗ってくれるかな?江本さんと一緒なら乗るかな?早くゴンと一緒にカヌーに乗りに来てください。

◆さて先日ご案内した島での私たちの披露宴ですが、以下のとおりです。日時:6月10日(土)18時より 場所:ホテルマリンリゾート浜比嘉、 島に伝わる伝統芸能が見られる予定です。私と外間さんも三線やります。長野淳子さんも三線仲間と出演予定です。アロハやかりゆしウェアなどの涼しい平服でお越しくださいませ。地平線の仲間にも来てもらえたら嬉しいです。その場合の宿ですが、民宿が朝付3900円、貸し家が一軒家一泊一万円から。ホテルがシングル7600円、などなど各種ありますので宿が必要な方は相談して下さい。ただしまだ梅雨のさなかかもね。では待ってます!(外間晴美 5月16日)

速報!

[エミコさんの2時間特別番組に大きな反響]

■フロントでもふれたように、シール・エミコさんの闘病と自転車旅を追った2時間番組「Life ∞いのちのペダル」が5月15日午前0時30分からMBS(大阪毎日放送)で放映された。今回は関西圏だけの放送だったが、大きな反響があった。エミコさんのHPには放送終了後から「感動した」との書き込みが殺到した。(http://www.yaesu-net.co.jp/emiko/のコメント部分を是非読んでください)(E) 

◆16日朝、当のエミコさんからもらった電話。

「いま大阪にいるんですが、今朝、梅田の路上で突然30代の女性に話しかけられ、『きのうの番組見ました。感動しました、勇気をもらいました、ありがとう、ありがとう!』って、抱きつかれてしまいました。やはり似た病気と闘っておられる方らしいです。郵便局に入っても、やはりテレビを見ていた方がいて『頑張ってください!』って、言われ困ってしまいました。でも、こんなにも大勢の方が勇気をもらった、と言ってくださるので自分がやったことはいいことだったんだ、って思えてきました。」

★エミコさんから、奈良の自宅の庭で取ったという大きなタケノコとともに4月26日届いたメールです。大きなタケノコのひとつは、報告者の関野吉晴さんに贈られました。

 4月26日、きょうをもって、先生から『まる5年ガン再発なし』のお墨付きを得ました。「全快」です。余命半年かも?と心配した5年前の状態を思うと信じられない状態です。嬉しいです。ところで、前回の報告は人生の衝撃告白?なんて何人もに驚嘆されました。ホントホント、ばくろ?ぶっちゃけ〜ってな内容でしたね。私もかなりの勇気が要りました…。しかし江本さんや藤原和枝さんが「あらためて勇気をもらった」とすぐにメールをくださり戸惑いながらも正直、救われました。命を粗末にした情けない自分に長年、罪悪感を抱き、自死のニュースを聞くたびに息苦しかったけれど、あの時の気持は一生忘れられるものではありません。死を選んだ人に「死ぬなよ」「周りに迷惑をかけるなよ」とは言えませんが、「もうちょっと待って!」と手をさしのべたい…。顔は覚えてなくても生んでくれた実父に感謝してるし、生活を支えてくれた養父がいなければ今の私もいなかったでしょう。いくら若かったとはいえ家族を一生の深い傷で苦しめることをしないで良かったと、心の底の底から思っています。「妬いたり、戦うことに意味はない」「一番大切なのは“今の自分が誰なのか”ってことだ」。スティーブの考え方に私の人生は大きく影響されてきました。太陽と風と雨と、そして大地と彼と。いまの自然の中で暮らしているともう何もいらなくなってしまいます。幼いころ悲しい思いや苦労をした分、これからも出会う人ひとりひとりを大切にしていきたいと思います。生きているのではなく、生かしてもらってることをいつも胸に。この命、これからもしっかり活かしていきます。一度の人生にバンザ〜イ\(^o^)/笑みこ。

[おお!!チャプチャの教え子が…。事実は小説よりもドラマチック]

 連休初日の4月29日午前9時に椿事が発生。小生が運営しておりますブログ『旅限無(りょげむ)』(http://blog.goo.ne.jp/nammkha0716/)に、「試みの七人のメンバ 中村先生の教え子」を名乗る書き込みが有ったのがその発端です。拙著「チベット語になった『坊っちゃん』」の読者でなければ「試みの七人」は知らない筈だし、ブログの読者の中にこの種の悪戯を仕掛けるような不心得者は居ない筈。頭が混乱したままクリックしてみましたら、何と本物でした!

 「中村先生へ:お久しぶりですがお元気でしょうか。私はアムドで先生の教え子になった○○でございます。今までご連絡を取れなかったことは残念なこのたび、ネットでチベットに関する本を探したところ、幸いなことに中村吉宏先生がお書きになった……」と書き出した我が生徒は見事に「てにをは」を操って、無力無能な師を泣かせたのでした。

 「…中村先生は自分の一人の恩師であり、自分も坊ちゃんを翻訳した一人のメンバだから、早速購入し、徹夜して読みました。本を読んでいるうちに思わずチャブチャの民族師範学院に通っているころの出来ことを爽やかに思い出してきました、はっきり言って、当時の自分は、何で坊ちゃんを翻訳するのかすら知らないまま、ただ日本語を母語に翻訳する喜びだけで作業に取り組んだと思いますが、先生の本を読むうちになぜ?先生が坊ちゃんを翻訳させていただいたのかを明確に理解できました。今から考えると自分も先生と伴に振り返す価値がある偉大な仕事をしたのだろうと誇らしげに思います。…」  何かを教える身分の者にとって、これ以上の言葉が有るでしょうか?彼を含めて元『坊っちゃん』翻訳メンバーの4人が、富山と名古屋に留学しているのだそうです。早速、メールの返信を利用して、日本語の「添削指導」をしながらの交流が始まりました。

 「ナムカイヒ先生へ:恩師のお名前を書き間違えてしまたことにとても恥ずかしくてたまらないです。本当に失礼いたしました。…」拙著に書いた通り、大学者や恩師の名前を間違えるとチベット人は万死に値する罪を感じるのですが、見事な日本語の文面に免じて笑って許したのは申すまでも無い事。「…以上の五人はチャブチャの民族師範学院に通っていたころに先生の教え子でした、皆化学部の学生でしたことに私達らも驚いておりますが、先生もきっと驚くでしょう。…」彼らこそ、「松山25万石」を伝統的なチベットの度量衡に換算し、「色町」を翻訳するという最も過酷な箇所ばかりが回って来たグループでした。

 1年間に300人以上の生徒を預かったので、顔と名前が一致していないのですが、「試みの七人」だけは写真と名前を大切に保存して有りますので、早速手元の資料で確認して見ましたが、間違い無く、彼らは青海省の学校を縁有って訪れた初老の日本人に筆談の「奇襲波状攻撃」を仕掛けた先鋒斬り込み隊の中心人物達です。あの騎虎の勢いで日本に留学して来たかと思うと、確かに感無量であります。貧困地域から日本にやって来て2年、我が生徒は大学に設置されている機材を使ってデジタル写真を添付したメールを送って来るまでに日本の大学生に成り遂せております。

 「…そのうちの一人は私達の大先輩とも言える○○さんで、先生の御著作から推測しますと、たぶん彼が当時、日本に留学先生する前に手続きをやる時書類上に自分の名前をチベットの音どおり日本語で書けなくて、先生がお世話したことがある人だと存じます。…」

 拙著に書いたドラマの登場人物が日本にやって来ている。「用も無いのに日本に行こうとするな!」と説教していた事を思い出しますと、正直なところ手放しでは喜べない面も有ります。しかし、連休中に閉鎖されていた大学図書館が再開した5月9日にはこんなメールが来ました。「返事遅くなって大変失礼いたしました。ゴンパ マ ツヨン(申し訳ございません)。先生がチベット語で(チョ・デモ・イン・ナ?チュモ・レ?)お書きになってくださて、なんか嬉しいと伴にホームシークしちゃいました。……先生もご存知の通りにチベット教育上にはいろいろな問題や欠点がおり、それらをどうしてどのように解決すべきかなどに関するチベット内外の交流の推進を図ることも考えています。私どもにとって中村先生のアドバイスは何よりも聞かせていただきたいと思っています。…」

 最初に書き込まれたブログのコメントは、次の言葉で締め括られていたのです。「…草原に播かれた日本語の種はだんだん芽を出しているような気がします。」嗚呼。(中村吉広 5月9日)

[地平線通信に教えられたもの]

 ■江本様 お元気ですか。ブラジルの後田です。こっちは時々スコールが来るようになりました。まだまだ暑いですが、あと1ヶ月ほどかけて、雨季に入っていくようです。(白根)全さんじゃないですが、すっかり、ブラジルのダンスに、はまっています。皆さんにご披露できるレベルになるといいんですけど。腰を回すのはうまくなりましたよ。日本語を教える傍ら、ダンススクールに通い、大学のポルトガル語コースに通い、ブラジルにいる利点を最大限に生かして、遊んでいるような気がします。もちろん、仕事はちゃんとしています!…そのはずです。

◆先日、日本から母が小包を送ってくれて、そのなかに地平線通信が1通だけ入れてありました。皆さんが、着々と行動されているのが伝わってきて、なんとなく、自分がダメなふうに思われて、ぐったりしてしまったのでした。海外にいても、旅人ではなく、住民になると、ここでの生活が普通になるんですね。

◆通信を読んで、何かこう、もう少し、動きたいような、どこかへ行きたいような気持ちになりました。が、よく考えれば、ブラジル人や日系人に日本語を教えるのも、日系人の行事に参加するのも、レシフェのダンスをするのも、各国からやってくる外国人とポルトガル語を勉強するのも、パーティするのも、何もかも、そういう機会を与えてもらえたから出来ることなわけで。初心に返り、全てのことへの感謝の気持ちを思い出して、毎日を過ごそうと思いました。何しろ、この2年間はありがたいプレゼントのようなものです。そういうことを、思い出しました。地平線通信は良いきっかけでした。ではまた、お目にかかれる日を楽しみにしています。お元気で!(後田 聡子 4月10日)


[お詫び]この号の最後のほうに掲載されている「地平線通信製作舞台裏が知りたい!」でもおわかりのように、締切間際になるべく多くの記事を掲載したいというのが江本編集長の思いなのですが、今回はそれがちょっと空転してしまったようで、上記の後田さんのメールを先月号に引き続いて掲載してしまいました。後田さんにも、そして読者のみなさんにもお詫びいたします。


[第10回「植村直己冒険賞」授賞式に地平線の仲間たちが参集!!] 

 すでにご存知の通り、今年の植村直己冒険賞はリヤカーマン、永瀬忠志さんに決定していますが、その授賞式が6月3日(土)13時30分から、兵庫県豊岡市日高町の日高文化体育館で行なわれます。受賞の後、「リヤカーマン世界を歩く〜くじけず、ゆっくり、一歩ずつ〜」のタイトルで永瀬さんの記念講演があります。また、永瀬さんが旅で使用した装備類が会場に展示されます。今回は第10回の記念の年にあたるため、歴代の植村直己冒険賞受賞者が3日から4日にかけて参加、とくに4日の日曜日には「チャレンジと心の交流2006」として、日高町国府ふれあい公園周辺で地元の子どもたちと冒険者たちが一緒に汗を流す試みが計画されています。川にチャレンジ」では関野吉晴さん(98年受賞者)がいかだやタイヤチューブで川下りを、「山にチャレンジ」では山野井泰史・妙子夫妻(2002年受賞者)がクライミング・ウォールをうまく登るこつを、「熱気球にチャレンジ」では神田道夫さん(2000年受賞者)が空の散歩を、「ウォークにチャレンジ」では中山嘉太郎さん(2001年受賞者)が公園内をゆっくり歩くことを、「自転車にチャレンジ」では安東浩正さん(2003年受賞者)がマウンテンバイクでトライアルを、それぞれ楽しく教えてくれるのだそうです。なんだか地平線会議の猛者たちがそろう感じの豪華な企画ですね。関西圏の方々は是非参加を。問い合わせは、植村直己冒険館、0796-44-1515へ。(E)

特別レポート

[地平線通信製作舞台裏が知りたい!]

 毎月半ば頃になると地平線通信がいつの間にか届いている!そのことがむしょうに不思議に思えてきて、ある日どうやって作られているのか世話人の方にお尋ねしてみたところ「この際自分で取材して書いてみたら?」と乗せられて後には引けず、図々しくも作業現場を見せていただけることになりました。もしかすると興味のある方が他にもいるかもしれない…と淡い期待を抱きつつ、ここにご報告です!

◆通信の素材としてまず欠かせないのが報告会レポート!事前に、あるいは報告会場で指名された誰かが担当します。そして国内外から集まってくる絵葉書や書簡の数々。手書きの文字は助っ人(←江本編集長宅のご近所、四谷住民ゆえ)の横内宏美さんが打ち込んでデータ化します。編集長と書き手の方とのやりとりが電話やメールで続きながら締め切り日を目指してあちこちで原稿が走り始め、4月号の発送日は4/12に決定。ヨーイスタート!

◆イラスト担当の長野画伯は、最終頁の報告会告知部分を描くため次回の報告者に取材を入れます。直接会えない場合は電話で話して一言でも行動者の生の声を聞き、それをいかして似顔絵イラスト+紹介文を通信発送日までに仕上げていきます。実は、報告会のタイトルはこの時に決まります。もちろんフロント頁上の読めない題字も同時進行中!(一般商業誌紙なら「読める!毎号変えない」が常識ですが、画伯はなんと「読めない!毎号変える」を信条としているそうです。「地平線だけしかできない試み」だと言われると、確かに…、なんだかすごい)

◆封筒に貼る宛名ラベルを管理している武田さんは、発送作業直前まで宛名データの変更に大忙しです。通信の送付先は北海道から沖縄まで全国約500件、引越の情報が随時武田さんのところへやって来ます。紙と封筒を調達しているのは三輪さんです。紙は、イオキ紙問屋さんから一度に9千枚を安く(1枚あたり3円)まとめ買いして自宅に保管、印刷時に必要分を自家用車でせっせと運搬します。封筒は、長年の試行錯誤の末にやっと巡り合えた!という印刷機に絡まない糊付の型で、絵柄を刷り込んでから使います。

◆生活の場所も時間帯もばらばらの皆さんをつないでいるのがメーリングリスト(以下ML)。

〔4月5日 23:38〕そこに「原稿入り始めました、盛りだくさんなので今月号も12頁になりそうです」と編集長からの予見が。

〔4月9日 07:38〕通信発送日から3日前。来ました!1本目の原稿が編集長より初めてML上に流されました。矢継ぎ早に2本目、3本目…急にML上が慌しくなり、1日に数十通のメールが分刻みで飛び交うことも。すかさずレイアウト職人の森井さんは原稿を順番にプリントアウトして壁いっぱいにぶら下げておき、しみじみ〜…と眺め、割付(予定枠内にどの原稿をどのように配置するか?)のイメージを膨らませます。ストーリーの流れなども考慮しながら編集長との綿密な打ち合わせがFAXや電話で繰り返され、かたちが見えてくるとフォーマットに原稿データを流し込み、様子を見ながら行間や文字の大きさを一つずつ整えていきます。4月号のレイアウトの見せ場は、なんといってもしげさんの俳句がきらりと光る縦書き仕様の1頁。

〔4月9日 13:17〕校正隊員のねこさんから、早くも第一弾ねこチェックが入りました。誤字、脱字など、明らかな間違いがある場合のみ、この時点でなおしが入ることも。

〔4月11日 15:19〕入稿状況も終盤に差し掛かり、前号の発送人リスト入稿。ここで掲載予定の原稿がほぼ出揃い、一瞬MLが静まりました。…その2時間後、怒涛の原稿差し替え開始〜!! 校正を経た完成原稿が残らずML上にどどどどっと流れます。まもなく世に出ていく原稿のパレード、背筋ぞくぞく。ここで森井さんより「最終頁の空きスペースは22字×24行=528字。見出しは2行分別です」とお知らせが。本当の最終原稿はこのスペースを埋める編集後記なのです。レイアウトは佳境を迎え、通信発送日の前日深夜まで調整が続きます。

[22:45]森井さんから、レイアウトされた通信原稿が編集長自宅宛てにFAXで次々と流されます。最後には紙を見てのチェックになるのです。

〔4月12日 09:19〕あっという間に発送日になってしまいました。朝一番でフロント原稿完成。

〔9:46〕空いた528字に合わせて編集後記完成。

〔9:47〕地平線はみだし情報完成。全原稿が勢揃い!森井さん苦心のレイアウト作業の末、4月号は見事校了!

 長野さんのイラストも届き、切り貼りして森井さんのレイアウト版下にぺたりと組み込みます。

 その頃、市ケ谷の川べりにある青いビルの某会社(武田さんの勤務先)では、最新版の宛名ラベルが準備万端です。これを受け取るため、昼過ぎになると土手沿いの並木道を学生の群に混じって飛脚便・江本さんが走って来ます。携帯電話であらかじめ指定された時間にビルの下に下りて来た武田さんから江本さんに託されたラベルは、そのまま新宿へ。

〔16:00〕報告会でおなじみの榎町地域センターに、版下・紙・封筒持参の森井さんと関根さんが集合(三輪印刷局長は今回不在)。ここの2階の小部屋にヒミツの印刷工場、通称・地平線印刷局榎町分室が。森井さんは即席のミニチュア版通信を表裏ひっくり返してどのページとどのページを両面で印刷すればいいのか?念入りに計画し、関根さんは印刷機のスイッチを試して機械の調子を確認中です。余分な紙も時間もないため、印刷工程はミスが許されぬ緊張のひととき!印刷機に版下をセットし、ミリ単位で位置を調整。よし、と思ったところで製版ボタンを押すとぱぱっと製版完了。数回試みた後「カンペキ〜!」と関根さんより声高らかなOKが出たので、このまま一気に500部刷り上げます。乾かしたら裏面も同様に。裏面も乾いたら今度は折り機にセット。すると鮮やかなリズムでチャッチャと音をたて、通信が一枚ずつまっぷたつに折られていきました。

〔17:30〕機械をくぐり抜けたばかりでまだ熱っぽい通信を抱え上の階へ移動。発送作業に続々と皆さんが駆けつけ、遅れて編集長が登場。長蛇の列に巻き込まれて買ったという某名物鯛焼きの差し入れ付きです。それをほおばりながら、通信を頁の並び順に重ねて三つ折にたたむ係、封筒にラベルを貼り付ける係、たたんだ通信を封筒に入れて封をする係、に分担し、おしゃべりに花が咲きながら分厚くふくれた封筒が山積みになっていきます。

◆発送に汗をかいてくださった方は遅刻組も含めて今回は総勢17名(中には、多胡さん、あるみさんのカップルも。ちょうど1か月後に結婚されるとはこの時は知りませんでしたが…、おめでとうございます!イエーイ!)。この後、恒例の“お疲れさま会場”、餃子のおいしい「北京」へ繰り出し、郵便局まで大量の封筒を持参してくれた森井さん、関根さんも間もなく合流してにぎやかに乾杯!翌日「発送作業無事終了。皆さんお疲れ様でした」と編集長からねぎらいの言葉がかけられ今月号のどたばたは閉幕、潮がすっと引いていくようにMLは静かになりました…。しかしまだ終わっていません。発送後もうひとつ大事な仕事があります。森井さんの版下データからテキストを武田さんが抜き出して整形、それを丸山さんが画像を加えたりして整え、地平線会議HPに掲載するのです。

◆皆さん本当にお疲れ様でした。いつもありがとうございます。…そして気がつくと、次号の準備がもう駆け出し始めているのでした!(感動した大西夏奈子 5月14日)


[編集後記]

 フロントに書いた“たごっち、あるみ”の結婚式には田中勝之、菊地千恵夫妻も参加した。獨協大学探検部で多胡君の先輩であるふたりは、小型ジムニーで陣馬山の麓から馳せ参じたのだ。私が奈良県の県道33号線をとぼとぼ歩いていると車が止まり、なんと300回記念大集会で颯爽登場したあのラフカイ、ウルフィーが窓から顔を出しているではないか。せっかくだからエミコさんちの畑を見ていこう、と京都からまわってきたのだ。

◆あたりに家もほとんどない農道をラフカイたちと散歩した。まだ2歳半のウルフィーは飛び跳ねんばかりに元気で、スティーブや私に「棒投げ遊び」を何度も迫った。エミコさんちの台所には立派なかまどがある。山奥で暮らす田中君たちのライフスタイルにどこか共通するものがあり、ふたりが来てよかった、と思う。田中君一家は闇が迫る前に家を辞したが、奈良の山奥で顔なじみのわんことたわむれるのができたのは、思いがけない喜びだった。私は翌日は12キロを奈良駅まで山道を走って帰京した。

◆関野吉晴が見つめたモンゴルの少女プージェーのドキュメンタリー自主製作映画、「 プージェー 」が6月3日から中央線東中野駅徒歩2分のポレポレ東中野で公開されます。偶然の出会いと衝撃的な別れ。モンゴルのいまを知るためにも必見の映画と思います。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

火おこしのススメ

  • 5月26日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「火おこしは誰でもできる。自分で火を作ってみるとヒトの生活の原点が見えてくるんです」というのは、大西琢也さん(31)。キリ揉み敷き発火法の世界記録(5秒)保持者です。考古学を志し、学生時代、国内外の遺跡発掘調査をするうちに、縄文文化の奥深さにハマリました。様々な生活文化の源である発火技術を追求し、古今東西のあらゆる発火方法をマスター。さらに、多様な環境での火おこしに挑戦中です。

'03年にはキリマンジャロの五千米付近で火おこしに成功。一方で原日本人の海洋民族文化の解明を目指して縄文丸木舟復元プロジェクトを立ちあげます。航行実験で海上保安庁に阻止されて中断しましたが、原初的生活技術への興味はつのるばかり。現在はNPO邦人「森の遊学舎」を拠点に、国内外で実践的野外教育指導に奔走しています。

今月は大西さんに火おこしから見えてくる世界について話していただきます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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