2006年4月の地平線通信

■4月の地平線通信・317号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙3、4月と山の遭難が多い。唐松岳、白馬岳、八ヶ岳、笠ケ岳、小遠見山、かって馴染んだ山々から雪崩、凍死、滑落などの事故の報が伝えられている。しぶとい筈の熟年世代が意外にもろく、次々に雪中に死んで行く、という感じだ。なんとなく、登り急ぎ過ぎる気がする。冬山や春山は1週間、2週間単位の時間をとって登るのが安全策と思うからだ。その分、装備、食料類が重くなるのがきついが、そのきつさに耐える覚悟が安全策なのである。

◆雪の山は「輪かん」で登るのが普通だった。それが近年はスキーかスノーシューが幅を利かせている。私も慌ててスノーシューを入手した。卒業間近の大学山岳部7年生が、当分使いそうもないから、と申し出てくれたのに乗じ、カップルでの夕食と引き換えに譲り受けたのだ。輪かんと違ってしっかりギザギザがついているのでかなりの登りでも行けそうだ。すぐ雪の山を歩きたくなって、翌日には、奥会津の伊南(いな)村に向かった。3月18日のことだ。

◆「地平線報告会」が250回になったのを記念して、2000年9月、ここで記念の大集会をやった。長らく使われてなかった桧枝岐歌舞伎の舞台を借りて、森田靖郎、賀曽利隆、山田高司各氏のほか、地元サンショウウオ取りの名人である星寛さんに出てもらってのフォーラムだった。テーマは「川に流れて川を喰らう」というのである。話し手たちの個性のおかげで、世界の川と会津の川の話が絶妙に溶け合っておもしろい話が展開した。村の青年たちの仕切りとおばさんたちの手料理が素晴らしく、忘れられない250回記念の場となった。

◆浅草から3時間かけて「会津高原尾瀬口」(駅名が「会津高原」からこの日付けで変わった!)という小さな駅で降りる。記念集会の立役者で、昨年村の人と結婚して村民のひとりとなった酒井富美さんが待っていてくれた。伊南村は雪深い。すでに半分ぐらい溶けたというが、道路の両側はまだ3、4mの雪が盛り上がっている。舘岩村との境界の橋の手前にある標識の「伊南村」の文字が逆さだ。「平成18年豪雪」に押しつぶされ、ポールがぐにゃり折れ曲がったのだ。

◆実は標識が見事に象徴するように、伊南村の名はあと1日で消えるところだった。3月20日からは舘岩村、南郷村、伊南村の三つの村は、田島町と合わせて「南会津町」という広い町に変貌したのである。「平成の大合併」とやらの“駆け込み”で、スノーシューを履いて裏山を歩きながら、大袈裟な言い方だが、「伊南村最後の日」を見届けることになった。

◆大集会翌年の2001年の8月15日、この村の成人式で話をさせてもらったことがある。進学や就職でほとんどが村外に出ている新成人のためにこの村では毎年お盆休みの帰省にあわせて成人式をやる。当時のメモを見ると「21Cの地平線からーモンゴル、チベット、北極、黄河のスライドとともに話す」と書いてある。伊南村がいかに世界につながっているか、15名の成人たちが場違いの話を辛抱強く聞いてくれたのを覚えている。

◆役場では「伊南村」の字を消し、「南会津町」の看板が用意されていた。大集会の村の実行委員長だった佐藤隆士さんとばったり出会った。休日返上で新しい仕事場に移る準備をしていた。帰途、富美さんに案内されて隣の檜枝岐村の星寛さんを訪ねる。一昨年車ごと川に落ちる事故に遭い、19日間も救急治療室で手当てを受けるタイヘンな怪我をしたと聞いていたが、元気になっておられたので安心した。6 年前の「大桃の舞台」での大集会のこともよく覚えていてくれ、囲炉裏の前で夫人が出してくれるおいしい漬物類をいただきながら話が弾んだ。77才、さすがにサンショウオトリはやめたが、まだまだかくしゃくとした村の名人の風貌だった。

◆チベットから帰らなかった学僧、能海寛の島根県の故郷も、甲斐の山の仕事場も、1月に100キロ走に挑戦したばかりの宮古島も、この1、2年で村や町の名がガラリと変わった。これは、国民の本気の選択なんだろうか?少し旅をすると誰もが日本の町と村の名の乱暴な変わりように驚くだろう。伊南村で大集会をやった当時、3232あった日本の市町村は、この4月1日には1829に減った。1994あった町が844に、568あった村が197にそれぞれ減り、市が670から 779に増えたのである。名が変わるだけではなく、町並みも食の風景も変わるのだ。

◆地方のことだけではない。私の住む都心の四谷でもふるい喫茶店や本屋が次々に店をたたみ、コンビニとチェーンの食べ物屋が異様に増えつつある。 30年ぶりにリヤカーで北から南まで歩いてみて、「日本列島の画一化」を痛感したという24日の永瀬忠志さんの報告は、だからボディーブローのように効いた。

◆毎号、どんな原稿が来るか楽しみな地平線通信、今回も書き手の皆さんの心が伝わって来る奥の深いものになりました。ありがとう! (江本嘉伸)


先月の報告会から

田吾作、地球二周目へ!

永瀬忠志

2006.3.24 榎町地域センター

 植村直己冒険賞というのがある。山へ極地へと世界を駆けた植村さんの人となりを継承し、不曉不屈の精神によって未知の世界を切り開くと共に、人々に夢と希望と勇気を与えた創造的な行動を表彰する賞である。地平線会議はべつに冒険野郎の集まりでもないけれど、過去の報告者には受賞者が結構いる。探検や登山にしろジャーナリズムにしろボランティア活動にしろ、世界を相手に斬新なチャレンジを続ければ、そこには予測できない要素も生ずるに違いない。地平線の向こうはいつだって、未知なる謎とロマンのちょっと危険な香りがする。

◆そもそも冒険といっても範疇が広く抽象的なので、冒険家などという肩書きはあいまいで、ヘタするとアブナイ人間という胡散臭さが漂う。当の植村さんも冒険家という言葉には抵抗があったという。そう呼ばれるにも何かの冒険者とするのが適当であり、正しく専門的な肩書きを持っているはずである。過去の植村賞受賞者にも、登山家、ヨットマン、探検家、気球家、極地家、ランナー、サイクリストなどいるわけだけれど、今年の受賞者はリヤカーマンである。リヤカーマン?なんじゃそりゃあ?恐らくリヤカーマンなどという肩書きを持つ男は、地球上に一人しかいないに違いない。その男、永瀬忠志氏がこの日の報告者である。

◆リヤカー曳きながら世界を歩いて30年。その積算歩行距離がついに地球一周分4万キロを越えた永瀬さん、30年前に出会ったリヤカーとのなれ初めから話は始まった。大学生になって自転車で日本一周を達成し、次は徒歩で日本列島内陸部の縦断を企てた。自転車と違って荷物をたくさん担いで歩くのは難しい。そうだ!日本一周時に見かけたリヤカーを引っ張ることにしよう。出発地の北海道で以前にお世話になった人に頼んでみると、錆びてタイヤにひびが入っているボロボロのリヤカーを見つけてくれた。「ウワァ〜これか〜、まるでよぼよぼのばあさんじゃないか」と出発前から先行きに一抹の不安が…。そのわりに2万円という破格に高い?値段にビックリしたが、まあこれもめぐり合わせである。70日間の日本縦断が始まった。時に永瀬さん 19歳、以降30年もこの旅のスタイルが続くとは当時知る由もない。

◆歩き始めると早速、「不審者」としてケーサツに連行されることになる。住民の通報があったらしい。ところが健全な旅する青年であることが判明すると、鬼のケーサツも仏に変身。みすぼらしい服装に情けをかけられ長ズボンを頂戴した上に、飯を食わせてもらい土産までもらってしまった。これをきっかけにコミュニケーションが始まり、たくさんの出会いがあった。リヤカー旅に「目覚めて」しまったのである。

◆「今度は世界だ!」と大学を卒業しても就職せずに70万円をためた。母親は泣くし、世間は厳しいようだが、それしきでへこむ人間が日本縦断など達成してはいないであろう。まあ若者は荒野を目指すものなのである。文豪ゲーテの言葉にもあるではないか。「自分自身の道を迷って歩いている青年の方が、他人の道を間違いなく歩いている人々よりも好ましく思う」と。

◆海外リヤカー旅第一弾はオーストラリア。日本から搬送したリヤカーに、田舎者を意味する「田吾作」と命名する。さっそく歩き始めるが、何しろクソ暑い!日本の夏の比ではない。温度計は一番上の目盛り50度を超えてしまった。空気そのものが熱く、リヤカーの鉄パイプは火傷しそうなほど熱くなり、水を浴びてもすぐに乾いてしまう。「早くやめたい!パースに着いたらもうこんなことしないぞ!」と思っていたはずなのに、ゴールが近づくにつれて気分は変わってきて、4200キロの旅を終えると、今度はアフリカが頭に浮かんだ。そこは子供のころにあこがれたターザンの世界だ。「不屈の精神」と言えないでもないが「懲りない男」とは永瀬さんのことをいうのだろう。

◆帰国後4年間で貯金 40万円。餞別と借金で140万円集まった。そこには母親の餞別も…。「田吾作2号」でケニアを出発。しかし7ヶ月6200キロ歩いた途中の町、ナイジェリアのカノーで、旅は終結を迎えてしまう。大きな町ではリヤカーは邪魔だ。宿を探しにちょっと道脇に置いといて戻ってくると、荷物ごとなくなっていた。この時の永瀬さんの反応がすごい。「やったぁ〜!これでもう歩かなくていい」と飛び上がったのだ。出発して2日目には、やめる理由を探していた。ついにその願いがかなえられたわけだ。

◆「見つかったらいやだなあ、と思いつつ」一応盗まれたリヤカーを探してみる。結局出てこない。帰国を前に再び盗難現場を訪れた時、思いがけない気持ちがふつふつと沸いた。「よし、もう一回最初から始めるぞ」

◆帰国後、教員を務め、300万円が貯まった。次のリヤカーも同じ型で懲りずに「田吾作3号」と命名。いざアフリカのケニアへ。前回と同じルートを再出発する。なにも最初からでなくてリヤカーを盗まれた所から続ければいいではないか?リヤカーも軽くすれば楽なのに…と私なら思うのだが、こだわりがあるらしい。報告会後の2次会で尋ねようと思ったけど、まあ聞くだけ野暮な質問ではある。

◆日本ではアフリカ旅のいいことばかり思い出されたが、いざ出発地に立つと辛かったことばかり思い出され、体が拒否反応を起こして下痢するし胃も痛くなった。しかし旅はもう始まっている。景色はサバンナ、ジャングル、砂漠が続く。国立公園は野生動物の宝庫。ヤバイ動物だってもちろんいる。行く先にバッファローが現われた。突進されると危険だ。そっと進むが目が合ってしまった!うわあ〜気づかれた!どうしよう、と思いつつ何とか突破。でもこの先にはライオンがいるかも。こんなに怖いのなら地元の人に従ってやめときゃよかった。でも引き返そうにもバッファローもいるし…。

◆ジャングルのぬかるみに悪戦苦闘し、夕方には村でキャンプさせてもらう。言葉は通じないが、地図を指差して歩くふりをすれば、どこから来てどこへ行き、自分が何者なのかだって説明できる。ポリタンクを指差せば水場を教えてもらえ、水汲みにぞろぞろと人がついてくる。米を炊いてメシを食っていれば、人だかりが周りを囲み、後ろから押されて輪がどんどん縮まって、目の前に人の壁。「それじゃあゆっくり食事できないから後ろに下がれ、前のやつは座れ」と仕切る人もでてくるが、結局また輪は縮まってくる。バッグから砂糖を取り出せば「シュガーだシュガーだ」とボソボソ声が伝言競争のようにあたりに伝わってゆく。そんな時、しんどい旅にもかかわらず「来て良かったなあ」と思うのである。

◆前回田吾作が盗まれたカノーに着くと、ここから先は新世界だ。サハラは見渡す限り砂ばかり。リヤカーの車輪が砂にめり込み、 1メートル引くだけで息が切れる。車輪の下に長い板切れを置きながら進むが、 200メートルに30分もかかる。「何でこんなことやっているのだろう?」と、答えが見えずに頭が真っ白になった。ただ分かるのは行動しなければ何も解決しない、ということ。砂漠でのキャンプ中、彼方へ夕日が沈み星が輝き始める。何百万年も前から繰り返されるこの景色に比べ、自分の人生たったの34年。これもまた「ここまで来て良かった」と思う瞬間だ。

◆でも朝になると悲しくなる。ご飯の上には砂のフリカケがかかり、食えばじゃりじゃりする。今日もまた泣きながら歩き続けるのである。我慢の限界を超えると、風に向かってオラ〜ッ!と怒鳴るが、だからといってそれを聞いてくれる者はいない。2〜3分で自然と怒りは収まり、またおずおずとリヤカーを引き始めるのである。自分の知らなかった自分に出会う思いだ。アルジェリアで地中海に出てパリに到着した。 376日、1万1000キロの旅は終わった。

◆一昨年は南米を8800キロ縦断し、昨年はひさしぶりに日本縦断に再チャレンジ。19歳から49歳と年をとった永瀬さん。同じルートをゆくこの旅は30年前への回帰の旅でもあったようだ。当時お世話になった人々との再会劇が、昔と今の写真を交互に映しながら語られる。出発点の日本最北端宗谷岬のバス停も、ボロ小屋がすっかり立派になっている。足のマメを治療してくれたじいさんは亡くなり、息子が30年分年をとり、親子ってこんなに似るものかと思うほどそっくりだった。地下足袋をもらった商店のおじさんも亡くなってたが、娘さんに当時の寄せ書きをみせると「お父さんの字だ!」と喜んでもらえた。

◆学校の先生にお世話になった集落はダムの底に沈み、神社で会った男の子は今は父親になっていた。雨の中で震える思いで車庫での野宿を頼んだ家で、ストーブにあたりなさいと泊めてくれたおばあさんも亡くなり、じいさんが一人暮らしていた。「泊まっていくかい?」と30年ぶりに二人で語った。「もう会うこともないだろう」と一万円札を握らせてくれるじいさん。ここで永瀬さんは言葉に想いが詰まって、なかなか声が出てこなかった。

◆食事にレトルトと卵に“お父さんの楽しみ”のビールを買う。昔は個人商店が多かった。「お金はいらないよ」とふれあいもあった。ところが今はどこも同じ対応のコンビニばかり。旅は便利になったけれど、何のハプニングも起こらなくなってしまった。ジャリ道はアスファルトに変わり、トンネルも車も増えている。トンネル内でトラックが来るとぶつかりそうだ。工事用の点灯ライトを振りかざし、止まってくれ〜!と自己アピール。懸命に走って逃げる。怖かった〜。

◆30年前、リヤカーがついに壊れて自転車屋にみてもらった。一万円の修理費が高くて払えないでいると、半額に負けてくれ、さらに近所からカンパをいただき、結局格安で修理してもらった。そのじいさんも亡くなっていたけれど、孫がいて覚えていてくれた。かつて山間にあった炭焼きの集落では学校で泊めてもらった。だが廃村になり誰もいない。その学校の黒板に残された村人の寄せ書き。どんな気持ちで人々は出て行ったのだろう。そして鹿児島の佐田岬に到着。「まさか50歳まで続けているとは思わなかったけれど、なんとか無事に30年ぶりに終わりました!」

◆リヤカーマンの30年の歴史が凝縮された2時間であった。冒険賞受賞作とはいえ冒険活劇を見たという雰囲気ではない。そこには人々の笑顔とドラマがあり、神秘の大地があり、時間と世代の移り変わりと、現代社会へのテーゼがあり、一人の人間の苦悩があった。ボーケン家と聞くと、ややもすれば人が驚くような記録を狙っているとでも思われているフシがある。しかし真なる冒険者は、金や名誉やギネス、ましてや世間から賞賛を浴びるためにやっているわけでない。まあそういう人もいるかもしれないが、真者からみればママごとにすぎない。それは永瀬さんの話を聞けばおのずと分かるであろう。話にも出てくる「よかった」と思う瞬間のために、男の涙が語る出会いの奥深さに、その答えはあるに違いない。(安東浩正 第8回植村直己冒険賞受賞者)


地平線ポスト

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[トレイルラン人生!] 

 江本さん、こんにちは。今、丹沢に住み、週に2回ほど山に通っています。去年はUSAの大会に4レース出場し、トレイルラン一色の年だったような気がします。Montrail Cupでは年間を通して2位となり、悔しい思いもしたけど、自分の新たな目標も出来て、とっても楽しい年でした。アジア人一人という世界の中、楽しく走れたことは大きな収穫となっています。

◆Montrail Cupというのは年間決められた12レースのうち4レース出場し、各レースのタイムや順位によってポイントが加算され、その累計ポイントを競うというものです。レースはアメリカ全土で行われ、4レース出場するのは日程上難しいこともあり、4レース完走した私は2位という称号を頂けたのです。ちなみに賞金は1000ドルでした。(うれしかったー!)

◆アメリカのトレイルランニングレースというのは日本のハセツネ(注:長谷川恒男記念山岳耐久レースのこと)とは本当に何もかも違って、同じくくりにするには気が引けます。どちらがいいということではなく、とにかくシステム、ルール、トレイル、全てが違うのです。今年もまた何レースかアメリカで計画しています。まだ詳しくは報告できませんが、今年来年は挑戦の年になりそうです。

◆丹沢に引っ越してきて本当に正解だったと思うし、毎日が幸せです。この世界が広がっていくのがとっても嬉しいですし、成長する自分の今後も楽しみです。また余裕ができたら報告します。この前10時間トレイルに行った時の記録文が残っていたので添付しておきますね。

★「月一度の10時間トレイルに行ってきた。トレイルに向かう気持ちはいつもドキドキだ。山に向かう喜び、山にしっかり迎えられるのかという不安、自分の身体と自然との調和。週に二回ほど通う山であっても、いつもいつも緊張をする…。 今回のトレイル、途中道に迷ってしまった。予定されていた道とは違う道を下ってしまった。今来た道を登り返すのか…。レースでもないし、競い合っているわけでもないのにロストしたと気付いた時、何がそうさせたのかはわからないが、勝手に疲れを感じ、スピードが落ち、投げやりという言い方は嫌なのだが、ネジが抜けたような感覚になってしまった。もちろん止めたいとは思わなかったのだが、この気持ちの低下が私の身体に大きな打撃を与えたのは確かであった。 これはどうしてだろう。

◆私は不器用だ。だから思った。一つ一つのかけがえのない山との出会いが私を本当に向かいたい道に導いてくれているのかも、と。 純粋に私は歩んできた世界を感じ、取り巻くいっぱいのぬくもりを感じ、自然にやさしく抱きかかえられながら無心にただトレイルを駆け抜けるのがどうしようも好きなんだって。どこまでも走っていけそうな、何かにプッシュされているような感覚に限りない幸福感を得られるんだって。走るために走っているのではない、感じるために勝手に足が動いていく。 私はその心が好きで好きでたまらない。 5月からレースが始まる。新しいトレイルがささやく声を聴けるのが楽しみで、楽しみで、待ち遠しくて、全てのものの力を感じる。まるで夢を見ているようだ。(鈴木博子 4月3日メール)

 鈴木博子の2006年度レース計画を聞いてみたら、以下のような返事だった。
すごい日々だ。(E)

[お引越し続き]

■またまた転勤しました。今度は福島支局です。引っ越してきたばかりで、まだ右も左も分かりませんが、広々とした駅前の繁華街にはいかにも地方都市らしいのどかな空気が漂い、我が家からは左に安達太良山、右に吾妻山が望めます。なんと、人生最北端の地。これまでの二十数年間(プラスα?)のほとんどを関東で過ごしてきた私ですが、新聞記者になったからには地方生活を満喫したいという、密かな願いがちょっぴり叶った異動でした。

◆なにしろ、これまで社会部に埼玉県警担当と、都市部で、事件に追われるままに必要なものを埋めるための仕事ばかりをしてきた気がします。それに比べると、ここでは少し余裕ができそうなので、興味の赴くままに「趣味の仕事」を残していけたら、と思っています。まだ耳にくすぐったい福島訛りの言葉をすくい上げ、人の気持ちに寄り添った記事を。(山間部に埋もれていた猛者を捜し当てたりしてね…。) 自然たっぷりの良いところです。近くにお寄りの際は、ぜひ声を掛けてくださいませ。 (菊地由美子 4月9日)

[緊張の瞬間を経て、無事スーツ姿に]

 山田@新社会人、です。とうとう小学校より長くなってしまった大学生生活にピリオドを打ち、新社会人となったのでご報告。昨年卒業予定なのに卒業できず、親を含め、一部に故意ではないかとの疑惑も持ち上がったのですが、半期でもやはり2単位残して3月まで勝負は持ち越しに。はっきり言って、卒業の結果見に行くのはどきどきでした。だって、名前書き忘れているだけでアウトですよ。しかも、今回はラストチャンス。つまりアウトが意味するものは1年持ち越しじゃなく、中退となるわけで。人生最高の緊張感の中、入学試験の発表を見に行くような微妙な雰囲気に、一緒に見に行った人曰く、「脈拍を測りたかった」だそうで。もしかしたら脈拍も人生最高記録だったかも。

◆そんなこんなで、とりあえず無事卒業し、毎日スーツを着てネクタイを締め通勤しております。業種的にはコンサルティング業ということで山とは全く関係ない業種です。ただ、真面目な話をすると自分の人生の中でいつかは就きたい業種だったので、満足もし、毎日楽しくもあります。ま、自分の性格から言って、どんな仕事になっても楽しくはやってる気もしますが。これで山から完全に離れるかと思いきや、山と渓谷社から徒歩10分の職場ということで、これ書き終わったらヤマケイの原稿。結局完全には足を洗いきれないのか?洗いきれるわけないよな(笑)。

◆社会人となる前の3月には2002年からやっている登山ガイドの締めくくりとして4度目のキリマンジャロに行ってきました。そのことについては、夏ごろのヤマケイJOYに書くので見ていただきたいのですが、自分のガイドの集大成的にもいい仕事ができました。これまでのお客様に惜しまれつつ、ガイド引退、新たな世界に飛び出していく私ですが、これからもちょこちょこいろんなとこでお目にかかれると思うので、よろしくお願いします。って何年会社人生に耐えることができるんだかねぇ。(山田淳 4月9日)

[コピーライター・デビュー!!]

 江本さん、お久しぶりです!私はこの4月、とうとう社会人デビューを果たしました。人材系の広告代理店で、求人広告のコピーライターとしての第一歩のスタートです。色んな職種の人に出会える、とても面白い仕事です。まだ研修が始まったばかりですが、毎日わくわくしています。でも、今まで文章を書く事が取り立てて得意でも好きでもなかった私がなんでコピーライターという道を選んだのかというと…実は、地平線が大きなきっかけになったのです。

◆就活真っ最中だった去年の春、私は地平線通信で藤原さんの報告会レポートを書かせていただきました。身近な人の事について書くなんて経験は初めてで、江本さんから「気楽に」と言われていたのに、色々と悩みながら書きました。事実や自分が感じた事を文章という形にする時、初めて立ち止まって考えさせられる事の多さに驚かされました。文章を書くには対象をよくみて本質、魂を理解しなければならないということ、そして遅ればせながら物事を表現する難しさと面白さに気付かされました。そんなこんなで、ものを書く仕事に決めたのです。やりたいことは他にも沢山あるのですが、まずは3年!頑張るつもりです。

これからは普段から感じる事を大切にして、もっとやわらかくて素直な文章をかけるようになりたいです。思えば地平線に出会ったのは浪人時代、青山のアジア会館での山田淳くんの報告会でした。あれから5年、今の自分はあの時の理想の自分とは大分違いますが、地平線をはじめとするこの数年間での色々な出会いを通し、自分が予想もしなかった自分になりました。今は出会いで人生って変わるんだなぁ、としみじみ感じています。また地平線のみなさんにお会いできるのを楽しみにしています。 (新垣亜美 4月3日メール)

[永瀬さんの話に感動!!]

 江本さま こんにちは。節約主婦ライダーの古山です。先日の永瀬さんのお話は、素晴らしかったです。サハラ砂漠など、過酷な状況での旅はもちろん、 30年後の2度目の日本縦断の旅のお話はなかなか味のあるものでした。職場の送迎会で来られなかったダンナに話の内容を伝えようとしたら、あの時の永瀬さんにつられ、私も涙をポロポロこぼしながらの報告になってしまいました。

◆植村直己冒険館での授賞式、6月4日とおっしゃってましたっけ? 冒険館のホームページにはまだ載っていませんでした。うろ覚えなので、地平線通信にお知らせを載せていただけたら助かります。もしかしたらその日のあたり、関西にいるかもしれないので、その場合は、覗いてみようかと思っています。

◆私も犬は大好きですが、先月のシェルパ斎藤さんのお話は、仕事で行けずに残念!来月は日本にいないのでまたまた残念ながら関野さんのお話、聞き逃してしまいます。来月は、22日から姉と香港旅行です。姉の誘いに乗って行くのですが、いつもの貧乏バックパッカーやツーリングとは違う旅行なので、どこまで楽しい旅になるのか、ちょっと不安(!)ですが、香港の都会でも、なにかしら楽しんでこようと思います。食事がおいしいのは目に見えていますが、食べ過ぎには注意しないと…。でも、4月27日には台湾に移動し、姉は帰国、そしてGWに突入するダンナが台湾で合流するので、それからいつもながらのバックパッカーの旅(現地でレンタルバイクが見つかれば、ツーリングしますが)をしてきます。(3月28日 古山里美)(植村直己冒険賞授賞式は6月3日です =E)

[絶望という名のニューオリンズー今年のカーニバル報告]

■毎年どこのカーニバルに行くか選択するのは、年間スケジュールの中でもとりわけ頭を悩ませる事がらとなっている。今年も例に漏れず、というよりは、このところ前年のカーニバルが終了したその瞬間からもう次の行き先に悩むようになってきた。生きている間に、あとどれだけこの目で世界のカーニバルを目撃できるか、悩みのタネは尽きない。

◆さて、今年もブラジルに仕事がらみで出撃するか、未体験の地アフリカに足を延ばすか、ラテンとアフリカの折衷案で大西洋の孤島カボヴェルデやカリブ海のハイチを制覇するか、オプションが多すぎて焦点の定まらないまま、刻々と祝祭の日程が迫ってきた。そもそも、是が非でも今年行かなくては、という必然性などはまったくないわけだから、選ぶのは主に個人的事情、要は気分のみである。カーニバルのあるところ、どこでも行くぜっ!というのが、ほぼ唯一のお約束だ。

◆てなわけで、最終的に行き先が決定したのは、カーニバルが始まる2週間前。結局、ハリケーン・カトリーナ被害復旧中のニューオリンズ経由、メキシコの片田舎トゥラスカーラのインディオ系仮面のカーニバルという渋い選択になった。

◆メキシコの方は、日本国内はもちろん業界でもほとんど知られていない、辺境の泥臭いカーニバルといった存在だ。片やニューオリンズのマルディ・グラは、リオやベネチアのそれと並んで『世界3大カーニバル』のひとつに数えられている。もともと、フランスの植民地だったルイジアナの州都ニューオリンズは、大雑把なアメリカ文化のなかでも若干テイストの異なったディープな地域だ。ジャズ発祥の地、フォークナーやテネシー・ウイリアムズ、ラフカディオ・ハーンなどの文学を育んだ地としても知られる。

◆以前からマルディ・グラには一度は行かなくては、と思いながらも、優先順位はかなり低かった。ちなみに「マルディ・グラ」とはフランス語で「太った火曜日」の意味。飽食と蕩尽の謝肉祭最終日の火曜日を指す業界用語で、そのままニューオリンズのカーニバル全体の代名詞となっている。

◆甚大な被害をこうむった直後のカーニバルは、もしかすると祝祭の本質を垣間見せてくれるかも知れない。外す可能性も大きいが、今年行かなかったらもう行くこともないだろう。160周年を迎える節目の今年が、自動的に最初で最後の機会となった。

◆マルディ・グラは通常15日間に渡りパレードやコンサートなどさまざまな行事が行なわれるが、今年は若干規模を縮小して12日間となった。地元から全米中の企業に呼びかけて運営資金を募り、復興をアピールするチャンスとして利用する態勢だ。国内はもとより、今年はとくに海外の主要テレビ新聞雑誌通信社など各種メディアが、病めるアメリカの現実をカバーしようと大挙して押し寄せている。

◆被災後半年が経過したニューオリンズに到着、ルイ・アームストロング空港から市内に乗り合いのシャトルで移動する。一瞬、フライトを間違えたのかと思った。目に映る光景は、これがアメリカかと思わせる凄惨なものだったのだ。

◆ほとんど人気のない、ゴーストタウンのような街並みがどこまでも続いている。街路は廃棄物の山にふさがれ、傾いた電柱からは電線が蜘蛛の巣のように垂れ下がり、窓ガラスのない廃車状態の車が放置されている。腐臭の混じったドブ臭い濁った空気が無人の街路に立ち込め、生命の気配はまったく感じられない。心底、寒気のする光景だった。

◆とりあえず、事前に連絡しておいたメディア・センターに出頭し、報道パスをゲット。余計なことは書かなくていいからねっと、遠回しのプレッシャーを感じさせる対応だ。かすかに記憶に残るバーボン・ストリートなど、フレンチ・クォーター界隈を中心にしたダウンタウンは、表向きの体裁を保つ程度には片付けられている。ホテルやギフト・ショップ、カジノ、ファスト・フード店なども、大方は営業を再開しているようだ。がしかし、一歩中心部を外れたとたん、かろうじて営業しているのはガソリン・スタンドだけ。いまだにライフラインすら復旧していない、ほぼ廃墟と化した街並みが不気味に横たわっている。『欲望という名の電車』が走る街ニューオリンズで目にしたものは、絶望という名の光景だった。(続く)(白根全 カーニバル評論家 4月10日)

[余生は植林に]

 地平線通信を毎月送って頂き有りがとうございます。私も来年目出度く、古希を迎える程、馬齢を重ねて生きて来ましたので、山旅(遊)も少し変化を致しました。永年踏み荒したであろう山や野原に植林をして歩いて居ります。ヒマラヤでヒマラヤザクラと出会い今この花にハマッて居ります。環境浄化木として注目を集めており汚染ガス(CO2、SO2、NO2)の吸収同化能力が高く、特に毒性の強いNO2には特徴的に能力の高いサクラで晩秋から初冬期に花を咲かせます。神戸の自宅近郊で苗木より育てて、花は昨年12月1日に満開の姿を見せてくれました。今は郷里の長崎で記念植樹を終えたばかりで今後も本数を増やし、地球温暖化問題に対応して行く様にすゝめています。又、カリマンタン島バリクパパン市近郊の森林焼跡に熱帯雨林再生の為に植林事業に参画しており昨年秋には自ら植林して来ました。

今後も国内外で植林を続け、地球への恩返しをしたいと余生は計画をたて実践して歩いています。これも旅です。どこに行った、あそこに行ったの旅は完全に卒業して興味がなくなりました。唯一残している山登りはCANADAのMt.MANZO NAGANO(長野万蔵山)を古希記念に登る計画だけです(大雲海p706に掲載)。環境貢献のニュース等あれば掲載して下さい。参考にさせていただきます。(神戸 藤原謙二 3月10日手紙)  

[重さん、ピースボートで詠む]

■ハーイ 3月30日帰国しました。

 唄は世につれ 世は唄につれ ですよね。旅も世につれ かな。それでピースボートにのりました。これが実に面白い。長くなるのでとりあえず小見出し的に並べて見ると

〈シゲさん船にのる〉

 というところでしょうか。60代以上の半分は毎日マージャン、ダンス。でも半分は活動的。「仕事と家事育児だけの毎日だったけど初めて国際政治や経済の話を聞きました、これからボランティアしたいですネ」、etc.。若い子も面白いよ。「親を説得したらお祖父ちゃんが共産党にだまされないようにな」。これには笑ってしまいました、ピースボートはあやしいようです。

 若い人たちのお祭りはとても愉快。《筋肉ミュージック》の痛快なこと。主役は高卒進学してない働いてない19歳。翌日、昨日素敵だったよ、と声かけたら「ありがとう握手して下さい」って礼儀正しいのよ。女の子は抱きつきます。

 ピースボートの連中もみんな20代。50年、半世紀以上違うんですからね。とても喜んで自主的に働いています。

 ま、毎日が地平線の300回記念大集会のようなもんですね。お祭り好きには面白いわけです。

 さて同封の短歌 ほんとの寄港地は全部で13ヶ所。私は途中から(交通事故の件で出発に間に合わず)なので10ヶ所南亜から始まりました。

 ひとり旅では俳句でしたが、どうしたことか短歌になってしまいました。ではね。   あらあらかしこ

   二〇〇六年四月四日 shige

 追伸 横浜港きれいですね。桜が満開でよかった。歩いて関内駅まで。途中横浜開港資料館ものぞきながら。家では一日に何回も風呂に入って(シャワーだけだったから)ふだんに戻りました。

ピースボート世界一周の旅
                  しげ

喜望峰ふたつの大洋足下なり
    バスコ・ダ・ガマの帆船おもう

赤沙漠かこむ岩山切り立ちて
    枯川走るナミブの熱砂

平和号南回帰線ゆらゆらと
    辿りつきしはリオのファベーラ

 〈ロサリオ市都市農業者と交流〉
大らかに語りかけつつ育てる野菜
    都市農業の新しき人ら

遥かきてビーグル水道臨みけり
    我は山の気馬は草喰む

幾筋のま白き滝に対す我
    氷河迫り来マゼラン海峡

  〈世界遺産ネルーダ博物館〉
ガレージに生き生きと彫りし詩一行
    海潮の音ネルーダの家

  〈イースター島にて〉
黙々と巨石のモアイ絶海に
    我を迎えきエナジー秘めて

  〈タヒチにて マラエ=祭壇〉
自立せる闘いの人ガビさんの
    マラエに石を我も積みにき

  〈フィジーのサナサナ村の交流にて カヴァ=ポリネシアの飲み物〉
腰みののたくましきおのこ汲む
    カヴァを恭しく受けほろ苦きを干す

  〈ラバウルにて〉
あまたなるトンネルの口黒々と
    旧日本軍悲しかりけり

髪乱しデッキに立ちて身をまかす
    洋上渡る西風の強さよ

[「心の旅」カンボジアへ]

 ■この葉書が届く頃、東京の桜も見頃を迎えていることでしょう。100日とちょっと、7000kmと少しを走り、現在プノンペンに滞在しています。カンボジアの人々は概しておおらかで、特に田舎の人々の温かさは特上です!もっとの〜んびり、色んな町・村を巡ってみたいところですが、時間がそれを許しません…。少し欲張り過ぎましたね。このペースだと、冬のチベットに閉じ込められてしまいます。これから2〜3ヶ月頑張って走って、6月からペースを落とします。まだまだ旅は長いんですもの!! プノンペンにて伊藤心 3月30日  http://whereiskokoro.blog34.fc2.com/

[タクラマカン低空撮影行]

■3月26日より4月6日まで中国は新彊、タクラマカン沙漠へとテレビ撮影班の一員として飛んできました。詳しくは放映に任せ、沙漠のフライトで思ったことを少し。ウルムチで降った雨は空気対流の起点となり風を起こし、1500km離れたタクラマカン沙漠に黄沙を発生させ、時に視界数メートルに遮断された暗闇の世界を沙漠にもたらします。そのスケールの大きさと過酷な条件を睨みつつフライトをすすめました。TVカメラを回すとき、より対象に迫れるよう風を読みフライトラインを描き光を計ります。沙丘の日向と日陰では激しく温度差が生じ僕の翼は上昇と下降気流にもまれ一瞬一瞬が戦いでありました。

カメラマンとして超低空撮影に没頭することは使命であり本望であります。けれどその時自分の存在する空間、さらにその大地に生きる人々の世界をちょっと高い所から俯瞰する瞬間は発見と探検の領域を感性むき出しで滑空していく格別な時間だったと思えます。自分の翼、モーターパラグライダーで飛ぶ世界は無限にある、そう思えたタクラマカン沙漠。撮影も無事に終わりディレクターさんと和む中、最後にスチールを撮るチャンスを得ました。25分のフライトで184 枚。僕にとっては嬉しく、資料としては意味があるだろう、番組宣伝にも使える素材ということで万事OKのはず!!! 5月には再び中国ロケの予定。その前には安東さんに相談しますね。(Air Photographer 多胡光純 4月7日 番組名はテレビ朝日「素敵な宇宙船地球号」。放映は5月予定)

[自転車世界一周細切編・中間報告1]

(次回報告は2015年予定)

■長距離の旅にでるときの最大の壁は時間らしい。いまでも自転車で日本を一周しようとしたけれど、時間がなくてできなかったという人にあちこちで出会う。そこでサラリーマンでも自転車で世界一周ができないかを、いろいろと考えて行きついた細切編。サラリーマンが時間の壁を越えるには、これしか方法がなさそうだ。「サラリーマンでも無理なくできる自転車世界一周」をテーマに、赤道周囲を約4万キロ、半分を海として2万キロ、社会人生活を40年、毎年1週間の休暇、1日100キロ走って1回500キロ、コースも走りやすい、アメリカ西海岸→東海岸、ロンドン→イスタンブール→中国、ソウル→東京とすれば、理屈上は可能なはずと説明してきたけれど、試してみようという人はいまもって現われない。提唱した本人だから反則のような気がしないでもないが、いまはサラリーマンで年1回1週間の休みが精一杯の自分が最適任者のようだ。

◆とにかくその方針のもと10年が過ぎた。これまでに走れたのは、94年台湾東海岸、 95年フロリダ北中部、96年ドイツ南部、97年韓国済州島一周、98年カナダ・ブリティッシュコロンビア西部、99年ニューヨークマラソン出走で走れず、00年韓国北部、01年フランス北部、02年自爆事故頭蓋骨骨折で海外旅行自重、03年スイス・ドイツ南部、04年ニューヨーク周辺、05年広東広西の計10回。

よし、これで予定時間の四分の一も過ぎたことだし、そこそこの形になっているはずと思いながら地図にトレースを書きこんで愕然、すべてが気分しだいだから、隅っこのほうに三本の線が引かれた北米に、ドイツ周辺をくもの巣状に放射するヨーロッパ。アジアにいたってはバラバラに点在する始末。7000キロ走ったというのに、枝分かれやあさっての方向ばかりではないか。かくして当初の予定、36歳で始めて75歳完了のはずの40年計画は、現時点での走行状態を比例計算して修正、64年計画99歳時完了に変更へ。この記録を含め、ブログ(noguchiyasuoか自転車漂流講座で検索可)で走行状況を報告中。(自転車しか脳のない、埜口保男 4月5日フロッピーで)

[通信に教えられました!]

■江本様 お元気ですか。ブラジルの後田です。こっちは時々スコールが来るようになりました。まだまだ暑いですが、あと1ヶ月ほどかけて、雨季に入っていくようです。(白根)全さんじゃないですが、すっかり、ブラジルのダンスに、はまっています。皆さんにご披露できるレベルになるといいんですけど。腰を回すのはうまくなりましたよ。日本語を教える傍ら、ダンススクールに通い、大学のポルトガル語コースに通い、ブラジルにいる利点を最大限に生かして、遊んでいるような気がします。もちろん、仕事はちゃんとしています!…そのはずです。

◆先日、日本から母が小包を送ってくれて、そのなかに地平線通信が1通だけ入れてありました。皆さんが、着々と行動されているのが伝わってきて、なんとなく、自分がダメなふうに思われて、ぐったりしてしまったのでした。海外にいても、旅人ではなく、住民になると、ここでの生活が普通になるんですね。

◆通信を読んで、何かこう、もう少し、動きたいような、どこかへ行きたいような気持ちになりました。が、よく考えれば、ブラジル人や日系人に日本語を教えるのも、日系人の行事に参加するのも、レシフェのダンスをするのも、各国からやってくる外国人とポルトガル語を勉強するのも、パーティするのも、何もかも、そういう機会を与えてもらえたから出来ることなわけで。初心に返り、全てのことへの感謝の気持ちを思い出して、毎日を過ごそうと思いました。何しろ、この2年間はありがたいプレゼントのようなものです。そういうことを、思い出しました。地平線通信は良いきっかけでした。ではまた、お目にかかれる日を楽しみにしています。お元気で!(後田 聡子 4月10日)

[通信から元気をもらってます]

■地平線会議のみなさま 江本様 つくしも顔を出す暖かな日が多くなりました。地平線通信いつも楽しく読んでおります。通信費滞納してます。今回まとめて送らせていただきます。(言い訳はいっぱいあるんですが…。)毎月送って下さりありがとうございます。

◆埜口さんに教えていただいてから、夜行バスで何度か東京まで行かせていただきました。毎回言葉にできないパワーをもらって帰った記憶があります。4年前でしょうか?12月の田口さんのお話以来足を運べず、通信から元気をもらってます。自分が何をすべきか、自分が何を考えるべきなのかなど、自分を見つめる機会になっています。名前を忘れて申し訳ないのですが、ウイスキーで有名な(土屋さん?)方の報告会で「自分のスケールを見つけることが大事だ」と言われたことが今でも心に残っていて、常にそのスケールを探しています。人生に目的を見つけることは難しいですね。神様に「あなたの使命はコレです!」と言われればいいのにと、いい年して、宿題がないと勉強しない子供のようなことを考えてしまいます。

◆以前、白根さんと熊沢さんが「人口が多すぎるから私達独身が子供を作らずがんばらなくては!」と冗談を言っていた時、私も生涯独身で、自分の道を突き進み、お2 人のような自分の人生を送りたいと思っていました。ところが、運命というのでしょうか、主人も私も今だに不思議なのですが、突然2年前に結婚してしまい、昨年は、かわいい男の子も出産しました。人生は軌道修正の連続だと思うのですが、これはかなりの修正となりました。ドタバタで結婚して、やっと落ち着いた頃に妊娠し、妊娠1ヵ月でつわりがひどくなって、3ヵ月入院になりました。

◆もう自分で歩くことができないくらいの体力減退で、妊娠を続ける事をあきらめようと思った時に、母が病室に地平線通信を持ってきてくれました。そこには、生田目さんの話があり、子どもが欲しくて、がんばって、そして幸せな様子を読んだら、何てことを自分は考えてしまったのか、赤ちゃんは産まれたがってるのに!と腕中が青あざになりながらも点滴を続け、なんとか出産までたどりつくことができました。本当に、生田目さん、そして通信を送って下さった方、ありがとうございました。

◆出産までにいろいろあったので、かわいい子には、どんな困難も乗り越えられる名前ということで、瑛人(あきと)と名付けました。そのせいか、産まれて早々、先天性内反足で、毎週隣の岐阜県まで通院し、3か月の時には、全身麻酔の手術までしました。困難を乗り越えられるようにと願った名前ですが、すでにいろいろがんばってます。もうさすがに、しばらく困難はないだろうと思った矢先1才の誕生日目前にして、先天性筋ジストロフィー(福山型)の診断がつきました。男の子が産まれたので、将来は、親子3人でバイクツーリングしようと主人の提案でチャリダーの私も自動二輪の免許を取ったばかりです。それなのに、バイクどころか中学まで生きられるかどうかだそうです。

◆今は周りの子と比べても、ちょっと小ぶりで柔らかい感じの赤ちゃんといった具合で、気になりませんが、これから、どんどん成長と筋肉の破壊が競争するかのようにこの子を苦しめるのかと思うと、なかなか現実を受け入れ難いです。妊娠してから、子供には、私が行った国のこと、経験してきたことを話したり、地平線通信を見せたり、報告会に連れていってあげて、視野の広い、様々な興味を持てる子になって欲しいと願っていました。それがすべて消えてしまった。前を見ることができない。

◆最近の DNA治療はものすごい勢いで進んでいるそうで、この病気も治るかもしれないそうですが、どうしてもよくない方へ考えが行ってしまって、今を見ることもできなくなります。この子は、今、生きていて、笑っていて、しゃべってくれて、かわいいのだから、診断はそれで、私は今を大切にしなくてはいけない。それなのに、家で2人きりにいると、つい泣いてしまって、瑛人もつられて泣いてしまって、よくないと思いながら、また泣いてしまって。主人も、いっぱいいっぱいに私を励ましてくれるのが、また辛くて、何の解決にもならないのに、涙ばかり出てしまいます。何か気持ちの整理をつけたくて、誰かに伝えたくて、こうして長々と手紙を書いてしまいました。江本さんはお忙しいのにすみません。もっと落ち着いて、本当に今、この今を一緒に楽しく過ごしていきたいと思います。ここまで読んで下さって、ありがとうございました。=五藤(旧姓太田)有紀 3月9日書簡=

[生きていてよかった ━いまだから書けること]

■江本さん、ナマステー♪無事帰国しました〜!とりいそぎ☆エミ&スティーブ(^-^)(^v^)(3月19日)追伸:今回の遠征は、人生を方向づける意味でもとーっても充実してました。ネパール(大好き)病にかかっちゃいました。重症です (^-^)(^v^)/へへへ…

★ガンから生還、ネパール自転車旅に挑戦中のエミコ・シールさんから帰国メールに続いて自身の半生についての以下の文章をいただいた。スティーブとのふたり旅の詳報は、http://www.yaesu-net.co.jp/emiko/をご覧ください。(E)

「どうしてこんな長旅を?」「なんで自転車で?」「世界一周?」。よくよく聞かれます。「自分の五感で見聞を広げたいから」。しかし、忘れかけていた本来のきっかけが今回の旅でクリアーになり、人生の壁が砕けたというか…、そんな感じです。私が本当に求めていたもの、それは愛だったのです。愛情、友情、自分への愛。ないから、ほしいから、目に見えないものを手に入れるために旅に出たのです。長旅になると「旅費が大変でしょう。お父さん、お医者さん?」なんて聞かれることもありましたが、と〜んでもない。父の顔もおぼえていません。

◆中学生のとき、養父ができました。「一円もいらないから自由をください」。ナマイキ言って家を出たのは高校を卒業した日。本当は、自分がいない方が家族の負担が減るから。そう思ったからでした。18歳。サバイバル人生のはじまり、はじまり〜。まずは専門学校に通いました。が、毎日バイトで終電帰宅。食費を節約するために弁当を持参し、洗濯は手洗い。過労で授業についていけなくなり、学費も払えず中退。挫折で自信喪失、将来は見えない、夢?希望?ないし、生きがいもない。何のため、なぜ生まれたの?価値さえ見出せず、生活費もわずか。おまけに失恋・・・。どん底の「ないない」づくしでした。人間って自分を失ったときほどつらいものはありませんよね。助けてもらえる人もおらず、どうしようもなくなって自殺をはかりました。……。

◆でも、「死ねる気なら、なんでもできる」。ギリギリのふちでそんな言葉が聞こえてきたのです。もう一度、生きてみよう…。もう、失うものがないと人間、強くなれますね。怖いものなんて何もありませんでした。自転車旅はハードなだけに、かいた汗の分だけ得るものがある。これだ!のめり込んだ理由はこれです。

◆「世界一周」は、目標を持つことの大切さを知らされたから。とにかくゴールを目指そう。自分の居場所は日本かもしれないし、世界かもしれない。行かないとわからない。長旅になった訳、それは時間にとらわれず存分に旅をしたいという気持ちと同時に、私には帰る国はあっても帰る家がなかったのです。

◆他の旅人とは違い、寂しいなと感じるときもありました。しかし言葉や習慣や宗教は違っても、同じ夢をもつスティーブと一緒にいられる所が私にとっての「家」であり、日本人である前に地球人だという認識ができ、どこででも生きていける自信がついたのです。旅先で進行癌の告知を受けたときは「余命半年」と告げられ、さすがにショック。人生の謳歌真っ最中に、今度は死があちらから直撃。バチかな?(自分が)アホやな、と思いました。

◆一番悲しかったのは彼との別れ…。愛とは与えられるものではなく、与えるもの。命をかけ、人生をかけ、世界を駆けようやく手に入れることができたのに。納得ができず、耐えられず、涙がとまらない。人間の一生を宇宙レベルで計算するとほんの一瞬じゃないですか。「もう少しだけ時間をください」と誓願しました。

◆今月26日で癌から生還5周年を迎えます。「いま、幸せ?」と、スティーブが聞きました。「もちろん!」。そう答えると「過去の試練があったからこそ、いまがあるんだよ」と。母子寮で育ったことも、人生をなげ捨てようとしたことも、すべてが肥やしとなっていることに感謝しています。でも、ひとつだけ気になることが。それは、心の奥の悲しい洞窟。それが今回の旅で、ある貧困家庭の子供と出会い、愛で埋めることができました。

◆頑張ることでしか生きてこれなかった人生…。「米とぎ」や「茶碗洗い」が5歳の私のお遊びで、生活費や学費、旅費も自分で稼がなきゃ食べることさえできなかった青春時代。それは世界の一部では当たり前で、もっと厳しい人生を強いられてる人がこの世には大勢おり、彼らの頑張りにグッときました。初めて明かした自殺未遂についてスティーブは、「もう時効。君の経験が誰かを救えるかもしれないよ」と勇気をくれ、トラウマから逃げよう、忘れようとしてきた私ですが、向き合うことによって開放されました。

◆人はつらさを背負って生きている。けれど受け止め、乗り越えるしかないのです。すべては自分のために起こっているのですから。気づかせてくれたネパールの子供らに教育のチャンスを与えたいと考えています。「あげるお金はなくても、つくることはできるでしょ」。知人のアドバイスがやる気をおこさせてくれました。自分流に、自分の手で現地に運ぼうと思っています。

◆江本さん、今回の旅は白地図の線を延ばすだけの旅ではなく、内なる深さを感じました。言いにくかった内容もありますが、「エミコの本には昔のことが書かれてない。書かなきゃダメだよ」って言ってましたよね。やっと書ける時がきましたよ。旅は人生、人生は旅。波乱万丈な人生ですが、生まれてきてよかったです。まだ生きててよかったです。もっと生きたいです。死を感じてこそ語れる生。でも来世ではラクな人生を歩みたいものです。あっ、スティーブからひと言。「チベット国境を越え、そのままペダルを漕ぎたかったー!」だって。ぞっこん冒険好きですね。 (笑みこシール 4月5日メール)

探検ドキュメンタリスト

坂野晧の死を悼む

 ◆坂野晧(さかの・ひろし)、といっても、この『地平線通信』の大半の読者には、あるいはピンとこないかもしれない。だが、2002年の2月、あの関野吉晴が足かけ10年に及ぶグレートジャーニーを完結させてタンザニアのラエトリ村に到着したとき、その様子をテレビで伝えた映像監督だといえば、そうか、とうなずく人は多いだろう。早大探検部OBで恵谷治と同期、テレビのドキュメンタリー界では著名な現場ディレクターの第一人者で、地平線の仲間でもあった。その坂野が脳腫瘍で倒れて手術を受けたのが一昨年の7月のこと、一時は回復めざましく、その年の秋には仲間たちと屋久島に登山に行くほどだったが、昨春、再び倒れてからは再起できずに、この3月13日、とうとう逝ってしまった。

◆私が、学校違いの探検部同期である坂野の名を初めて知ったのは、1968 年、大学2年の時だった。その年、恵谷治が率いる早大隊は伊豆大島・三原山の火口探査を目指し、隊員を火口へと降下させた。このとき、地底で真っ赤に燃える溶岩と、その間近まで降りようとする隊員を、半ばザイルで宙づりになりながら撮影したのが坂野であり、その衝撃の映像はテレビでも放映され、のちに『現代の探検』(山と渓谷社)創刊号や、『探検と冒険』(朝日新聞社)にも収められるなど、学生探検界に少なからぬセンセーションを巻き起こした。同じ大学2年の探検部員で、こんなプロ顔負けの仕事をするやつがいるのか、そんな驚きが、坂野の名とともに私の記憶に刻み込まれた。また、1976年8月には、新潟県の白蓮洞で洞窟探検隊と記録映画の撮影隊が豪雨のため脱出できなくなったとき、大々的に報じられた遭難メンバーの中にカメラマン坂野晧の名があった。結果的には96時間後に全員が救出されて他人の私も安堵したが、このときは隊の地上班に神谷夏実がいて、丸山純が恵谷とは別に救助に駆けつけるなど、のちに知ってみれば、やがて地平線会議メンバーとなる面々が混乱の中で初めて顔を合わせるという挿話もあった。

◆お互い、名前と実績だけは知っていた坂野と私が、初めて会ったのは、果たしていつだったのか。二十代も後半のころ、気がつくと恵谷を交えて夜ごと飲むような仲になっていた。坂野は映像、私は活字と、それぞれの道は違っても、まだ若くて夢も鬱屈も多かったから、語り合うことはいくらでもあった。フリーのディレクターに転じた坂野が、恵谷をレポーターにしてソ連軍侵攻後のアフガニスタンに潜入取材を企てたとき、アフガン経験のある私が非常時の救援隊を引き受けたのも、その酒と議論を媒介とするつき合いの結果であった。このときは戦乱の中、坂野たちは困難な取材に成功してテレビの放映も話題になり、幸いにして私の出番はなかったが、その後、着実にドキュメンタリーの世界で地歩を固めていった坂野が、私に出番を求めたのは、互いが40歳を過ぎてからのことだった。制作会社「CRネクサス」の看板ディレクターとなっていた坂野は、NHKの旅番組でモルディブを旅する私を追って2週連続で流す企画を立てたのだ。

◆「モルディブはお前の大事なフィールドだから、そのことを知っている自分がそれを撮りたい」。そんな言葉を聞いて私は嬉しかった。そして1994年の1月、初めて行動を共にしたその旅で、私はドキュメンタリスト坂野晧を改めて認識することになる。出演者はもちろん、現地の人や文化に誠実で、丁寧な、含意の多い作品づくりを目指す姿勢に、友人という立場を離れて畏敬の念を抱いたのだ。ああ、この姿勢が多くの人を信頼させて、「開高健のモンゴル大紀行」や、江本嘉伸さんとも一緒になった「チンギスハーンの陵墓を探せ」(椎名誠氏と同行)など、話題の作品を成功させてきたのだなと、心の底から理解した。

◆「新世界紀行」特番(TBS)や、「ネイチャリングスペシャル」シリーズ(テレ朝)をはじめ、かつてのドキュメンタリー全盛時代に次々と企画を打ち出し、世界中に足跡を残した坂野は、一方で桃井和馬や高野孝子の行動者としての出発を助け、最後の十数年は、そのプロとしての立場から関野吉晴のグレートジャーニーの記録映像作りにも助言を続けた。年来の仲間である野地耕治さんや街道憲久、恵谷、私とともに組織した関野の応援団活動の一環だったが、その坂野が、グレートジャーニーの完結編では自ら監督を務めたことで、関野の大記録に花が添えられることにもなった。

◆そんな坂野は、1993年5月の地平線報告会で、報告者としてこう語っている。「初めてアフガンに行ったとき、迫力のある戦闘シーンを撮りたかったが、思うように撮れなかった。しかし帰国直前にゲリラたちとお茶を飲んでいるとき、彼らが用いる急須を見て驚いた。あちこちにひびが入り、それを小さなくさびで留めて使っていたのだ。そのときから自分は、その風土で流れている時間やたたずまいを伝えたいと思うようになった。特別な現象を追うのではなく、そこに暮らす人々の日常を伝えること、視聴者に生身の人間として感じて欲しいものを、自分の思いとともに撮りたいと願うようになった」(新井由己の記録による)

◆その初心を貫いて、幾多の映像を、地球上の自然や社会や人々の実相を、私たちに送り続けてきた坂野晧に、改めて敬意を表し、その早すぎる死を悼みたい。(4月10日)


地平線はみだし情報 氷河湖元日浴の大沢茂男さん、NHK衛星放送「熱中時間」に出演! 4月27日23:00、28日20:00に。


[通信費への協力感謝!]

 通信費へのご協力ありがとうございます。いろいろな方が2000円、時には「何年か滞納です」と書き添えて5000円、1万円を振り込んでくれています。すべて最小の経費で手作りでやっている通信ですが、毎月毎月、紙代、印刷費、封筒代、切手代などはかかります。いちいち名前は出しませんが、ご協力には心から感謝しております。

◆ご本人がいないのに知らずに送り続けていたこともあります。4000円の振り込みと前後して届いた、ご家族からの以下の葉書、ご本人をしのんで掲載させてもらいます。松島さん、ありがとうございます。(江本嘉伸)

前略 ご免ください。
 地平線通信の皆様、いつも旅行記お送りくださり有難うございます。旅の大好きだった主人松島利幸は、一昨年九月旅行中の海外で事故により突然の死を迎えてしまいました。一人でどこへでも飛び出して行く人でしたから、貴通信を楽しく購読していたのだろうと思っています。どんなご縁で購読を始めたのかわかりませんが、亡なった後も送られてくる通信にどうしたものかと思っておりました。三一六号で通信費用の件を、たまたま目にし、早速ご連絡した次第です。近日中に振替にて、過去二年分をお送りします。四月からは、中止としてください。皆様の冒険旅行のご無事を心よりお祈りします。 かしこ

4月の報告会は木曜日(27日)です。金曜日ではありません。

■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

私たちはどこから来たのか?

  • 4月27日(木曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

人類の拡散ルートを人力で溯行する「グレート・ジャーニー」を'02年に完遂した、御存知、ドクトル関野吉晴。わずかな休息を経て、'04年7月から「新グレート・ジャーニー・日本人の来た道」の旅をスタートしました。

昨秋には第一ステージ〈シベリア〜サハリン〜北海道〉の北方ルートを終え、続けて〈ヒマラヤ〜オセアニア〉の南方ルートに入っています。医師として、また武蔵野美大教授として仕事をしつつ、写真家、作家としては「グレート・ジャーニー全記録」を上梓したばかり。

今月は、インド・アッサム〜ミャンマーの旅から帰国直後の関野さんに、新たな旅の様子を、北方ルートから報告していただきます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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