1月30日、東京・国分寺の東福寺で宮本常一先生の26回忌がおこなわれた。宮本先生が1981年1月30日に亡くなられてから25年間、毎年、一度も欠かさずにおこなわれている。宮本先生が所長をされていた日本観光文化研究所(通称・観文研)の所員だった山崎禅雄さんが、島根県の谷住郷(江津市)から駆けつけ、東福寺の本堂で読経してくれた。これも毎年のことだ。山崎さんは山陰の名刹(曹洞宗)、日笠寺の住職。読経が終わると場所を変え、宮本先生の遺影の前で献杯し、飲みながら宮本先生の思い出話に花を咲かせた。
●今年の先生の年忌には宮本千晴さんをはじめ、江本嘉伸さん、三輪主彦さん、伊藤幸司さん、岡村隆さん、そして賀曽利隆と「地平線会議」発足時のメンバーが集まった。江本さんを除けば、全員が観文研の主要メンバーだった。読売新聞の記者だった江本さんも観文研のよき理解者であり、1989年3月31日に解散するまで観文研には何度となく足を運んでくれた。
●宮本先生は「宮本民俗学」を確立した偉大なる民俗学者であるのと同時に、生涯で4000日以上も旅された偉大なる旅人。その足跡は日本のすみずみにまで及んでいる。知識の幅の広い方だった。とにかくお話がおもしろかった。次から次へと、まるで魔術を目の前で見るかのように話がつながり、絡み合い、広がっていく。視野の広さもおおいなる魅力だった。武蔵野美術大学で教えられていたが、先生に「かまわんから」といわれたのをいいことに、無断で大学に入り込み、大きな顔して教室の最前列で講義を聞かせてもらったこともあった。
●観文研では「旅人たちの歴史」というテーマで毎月、宮本先生の講義があった。野田泉光院、管江真澄、古川古松軒、イサベラ・バードと「旅人たちの歴史」の話が続いた(それらは未來社刊の3冊の本になっている)。宮本先生が最後の渾身の力をふりしぼって話されたのは「日本文化の形成」だった。それは先生の死後、半年たらずで遺稿を合わせ、全3巻の『日本文化の形成』(そしえて刊)となって出た。文庫本(ちくま学芸文庫)にもなっている。
●宮本先生は若き冒険家が大好きだった。三輪主彦さんの都立清瀬高校時代の教え子、田中雄次郎さんの「日本縦断徒歩旅行」を絶賛し、『民俗学の旅』(文芸春秋)の中では「田中君は昭和五十二年七月二十五日北海道の稚内から歩行をおこし、九月二十九日九州南端の佐多岬まで六十七日間を車に乗ることもなく歩きつづけた。使った金は四万一円、拾った金が一一〇五円であった。途中ずいぶん物をもらってたべ、宿を貸してもらっている」と強い思い入れを込めて書かれている。そんな宮本先生なので、「地平線会議」の発足時にはまっさきに10000円カンパをして下さった。
●東京・西国分寺の東福寺の集いではビールにはじまり、日本酒、焼酎、泡盛…とさしつさされつで飲みつづけ、だいたい呂律がまわらなくなるころに宴はお開きになるのだが、今年はその最後に江本嘉伸さんがスクッと立ち上がった。「毎年、こうして集まって飲むだけでなく、観文研のメンバーで本をつくったらいいのではないか」というのだ。それは宮本先生をよく知っている面々で「宮本本」をつくろうという提案だった。それを聞いて、ぼくは酔いもさめ、けっこう体がシャキッとした。「江本さん、いいことをいうなあ」と内心、拍手を送った。
●江本さんの提案がきっかけとなって、無性に宮本先生の本を読みたくなった。「(膨大な先生の著作を)キチッと読んでみたい!」と思うようになったのだ。ということで、本棚に並んでいるだけだった『宮本常一著作集』(未來社 全45巻)や『私の日本地図』(同友館 全15巻)などを読みはじめている。また宮本先生の旅の足跡を追ってみようと、今、本気で思っている。「宮本先生とほんとうにかかわれるのは、もしかしたらこれからなのではないか…」とさえ思っている。
●ぼくが初めて観文研に足を運んだのは1970年、22歳の時だった。2年あまりをかけたバイクでの「アフリカ一周」から帰ってからのこと。宮本千晴さんや向後元彦さんにすっかり魅せられ、足繁く通うようになった。その中で宮本常一先生を知った。観文研はじつにユニークな組織で、誰もが自由に出入りすることができた。「自分は所員です」と言えば所員にもなれた。宮本先生の「食わせてあげられないけど、歩かせてはあげる」のお言葉通り、観文研のプロジェクトで日本各地をまわらせてもらい、それが後にどれだけ自分の血肉になったかしれない。
●今年の宮本先生の集いには「地平線会議」からは、毎月の報告会の受付や通信の発送などをしてくれている関根晧博さんが来てくれた。関根さんはきっと「宮本ワールド」の一端を垣間見ることができたと思う。来年はどうぞみなさん方もおいで下さい。(賀曽利隆)
別に人が驚くようなすごい冒険をやろうというのが斉藤式ではない。ゴールデンレトリバーの愛犬ニホとの散歩。その延長線上に、彼女を相棒とする「バックパッカー二人旅」がつながったのだ。犬と旅。そこには斉藤さんのライフスタイルであるバックパッカー精神がしっかりと貫かれている。テントに寝起きし、“犬も乗せてくれいっ!!”と粘るヒッチハイク。そして基本の徒歩を存分に楽しむ全天候型、地に足つきっぱなしスタイルだ。いったい、今日は前へ進めるのだろうかとよぎる不安さえ、その都度出合う愛犬家の車や、愛くるしいニホに直線的に近寄ってくる子供たちの手に助けられる。都会ではあり得ない公共交通機関への乗犬さえも、体温ある現況対応乗務員に救われた。加えて、ニホ自身、自ら身に付けた「模範犬」への即応変身ぶりなど、二人旅は絶妙な役割分担で目的をこなしていく。
◆旅のルポ、書籍、雑誌連載ライターであり、“シェルパ斉藤”のペンネームで知られる斉藤政喜氏が、八ヶ岳を背にした土地に、彼を見事に操る賢夫人と伸び伸び田舎生活を始めたのは10年前。管理社会では呼吸困難となる斉藤さんにとってしごく順当な選択だった。その風来坊精神に吸い寄せられた仲間たちが、合宿さながらに8か月かけて建てたのが広いテラス付きログハウスだ。アメリカから取り寄せた部分建材を組み立て上げるプロセスは、究極、男の積み木遊びにも似て心躍る作業だったらしい。そこを訪れる誰もが遮蔽感なしに受けるアット・ホームな開放感を敢えて説明する必要はないだろう。
◆臨機応変、サバイバルモードの行動者、斉藤さんに人生の転機が訪れたのは、生まれ育った長野県松本で卒業を間近に控えた高校3年の冬だった。恵まれた生活から一変、突然の家業破綻。無一文で突然強制された自立。選択肢などあろうはずもなく、新宿で寝場所が保障された新聞配達奨学生になる。夜明け前から1日の大半を束縛され、限られた人間関係と行動範囲の狭さなど、楽しいはずの青春は経済的にも逃げ場の無い息詰まるものだった。しかし、こここそがサバイバル発想の原点なんだろう、家という無言の制約や親の期待などという圧力から解き放たれた身軽さは、自由の源泉となって体中に染み渡ったという。大学進学後、いまいち学業に納得するものを見出せなくて、あろう事か奨学金でオートバイを買う。常識でとらえれば、これはもう犯罪だろう。しかし、斉藤さんの思考回路なら、行きたい所へ行ける夢の翼を得た快挙だった。休学の利点を利用し、出かけた先は南半球オーストラリア。
◆ここで、つくづく普通と違うなぁ、と感心されられる出来事が。それは、逆境を順境と捉える発想の裏技だ。対向車との接触で足を骨折してしまうが、周りの心配をよそに、嘘のように手厚く快適な無料の医療保護う受け、地元民からはアイドル並み歓待を受けたという。旅先での負傷は、痛さを引いてもお釣りが来る経験になっていた。数々の恩恵にあずかった斉藤流“旅で骨折”。骨折して本当に良かったのである。人生への試行錯誤はしたものの、旅を重ねる間に徐々に枠には収まらない斉藤形が確立されていった。オートバイから自転車、徒歩と旅の速度を落していくに従い、通り過ごしてきてしまったものも見えてくる。そのひとつが、なんと野良犬に慕われるという自分の特異な体質。数年後、八ヶ岳山麓での生活に犬が加わるのは必然の成り行きだった。
◆斉藤家の家族犬第1号、ニホとの出会い。それは、動物を単に営利の対象とする人間に対する怒りからだった。長男のクリスマスプレゼントに高級大型犬ゴールデンレトリバーをと考える。3万円という超破格値に釣られて大阪まで引き取りにいく。目的の犬は、尻尾が丸まったままおしっこに濡れ、怯えた目をした生後6か月にしては小さめの子犬だった。これまでに愛情を受けることもなく、ケージに入れられっぱなしだったらしい。一目見るなり、「不良品だから返品したほうがいい」と言い切るペットショップの店員。斉藤さんは、この時“この犬を育てるんだ!”と強く心に決めたという。長男の名前は一歩。なら、この犬はニホ。斉藤流正しいネーミングだから迷わずこうなる。
◆「犬と旅」は、この大阪から自宅のある八ヶ岳までの道のりが処女道中となる。劣悪な環境下に置かれていたニホは、体力が無くベビーカーに乗せられてのスタートだった。初めて、自分を心配げに見守る人間のまなざしを知り、当初反応が薄かったニホが、斉藤さんとは片時も離れられなくなるのは時間の問題だった。
◆以後の二人旅は、自宅から北へ南へ東へ西へと長い長い散歩を重ねていく。ニホから3年後、成り行きから受け継ぐことになった黒のラブラドールレトリバー犬の名は当然サンポ。さらにサンポが産んだ10頭の子犬のうちの一匹がトッポ。それぞれ個性ある全て雌の3頭が旅犬に成長した。その時々を伝える斉藤さんの著書には目と目で語り合うツーショットが目を引く。愛犬家なら嫉妬必至の一コマ一コマだ。「うちの犬って、フォトジェニックでしょ!」と親ばか斉藤さん。斉藤さんのフィールドは数回に渉る日本縦断から世界各地と広範だ。しかし今回、貴重な「シェルパ以前」が多く語られた。報告会当日はあいにくの冷たい雨だったが、参加者は会場ごとワープしたシェルパワールドを存分に堪能した。
◆最近、斉藤ログハウスに夫人経営のカフェ「チーム・シェルパ」ができた。そこでは、斉藤さんが試したメーカー提供のアウトドアグッズや旅の必需品が中古品として売られている。売り上げは、後継旅人達への援助基金になる。かつて自分が受けた暖かいサポートを、今度は僅かずつでも返していきたいという思いからだ。そのカフェ前には、9歳で幸せな一生を終えたニホの墓が、チーム・シェルパと共にゲストを迎えてくれている。(旅も犬も虫も大好き!藤原和枝)
■報告会の最後に斉藤政喜さんは、「シェルパ基金」から貴重な1万円を地平線会議に寄贈してくれました。話をしてお金を払ったのは初めてのことだったでしょう。ありがとう、斉藤さん!!なお、シェルパ基金の第1号は先に通信でお知らせしたように、シール・エミコさんに贈られています。(E)
地平線ポストでは、みなさんからのお便りをお待ちしています。旅先からのひとこと、日常でふと感じたこと、知人・友人たちの活躍ぶりの紹介など、何でも結構です。
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)
2月12日〜21日の10日間、ミャンマーへ行ってきました。旅立つ前のイメージは「軍事政権下厳しい規制で面倒な国」。行ってみたら他のアジアの国々ととっても似ていて、おまけに人々の目に力があり引き込まれてしまいました。以下、私の体験したミャンマーを4つのナゾに分けて。
(1)[ミャンマーにもあったバレンタインデー]日本とは違って男性も商品を物色。この国ではバラの花を贈るのが一般的で、女性からの愛の告白?と言うのではなく、感謝の気持ちで贈られる。ミャンマーにも義理チョコならぬ、義理バラの花束があるのかな?。ミャンマーの人は細身だけど甘い物が大好き。ギンザパン・マクドナルド?・ミスターJドーナッツなんて名前の店が沢山。
(2)[ミャンマーも韓流ブーム?]夜になると毎日「天国の階段」(チェ・ジウ、グォン・サンウ主演)が放送されていた。マーケットで買い物をするとヨン様の顔写真入りのレジ袋に入れられ、雑誌でも韓国スターの特集が組まれていた。
(3)[中古車、輸入規制で高騰]ヤンゴンには車が溢れているが少し田舎に足を伸ばすと車は珍しい。村の子供達は「ハロ〜」と叫んで手を振り続けてくれる。ガソリンスタンドはなく、瓶に入ったガソリンを買って自分で入れる。3年ほど前から車の輸入規制が始まったが、日本車はやはり人気。日本円で50万円くらいで買った車が3年後、中古となってもなんと150万ほどで売れたらしい。貧富の差を激しく感じる出来事で、ちなみに月給はホテルの女性に聞いたら6000チャット=600円
(4)[鳩の糞をかけられたら宝くじを買え ヤモリが鳴いたら願い事をしろ]川の中洲にある一度も冠水したことのない寺院にはなまずのような魚がいて、餌をあげると願いが叶うそうだ。ともかくミャンマーは願い事が叶う○○と言うのがチョット多過ぎ!有名なインレイ湖から50キロほどにコオロンという地があるが、そこに髪の毛や爪が伸びるありがたいミイラが今評判で、存命時の顔はダライラマに良く似ている。ミステリー系の話もまだまだ残る魅惑のミャンマーへはまた行きたい。次回はお祭りのある10月が狙い目!(3月1日 渡辺泰栄)
早2ヵ月がたち、今回のインドとネパールではたくさんの《勇気》と《生命力》をいただき、《平和》を考えさせられ、《当り前》への感謝の念を深く教えられました。一生に一度はこの目で見たかったヒマラヤとガンジス河にも大感動〜\(◎o◎)/うひゃ〜!! 毎回、いろんなハプニングにあいながらも、流した汗の分だけ得たものは大きかったんじゃないかと感じております。知れば知るだけ好きになる地球!これからも旅はやめられませぬ〜♪ 旅先からブログ便り、更新しております↓↓
http://www.yaesu-net.co.jp/emiko
まだまだ寒いので、お体には気をつけて下さいね。エミコ&スティーブ・シール 2006.2.16 ぽかぽかポカラより
P.S. ネパールにはこんなセクシーな仏さまも。。ネパール天地創造神話の主役、智慧の仏、文殊菩薩。地平線の皆様にもよろしく!(セクシーな仏さまの絵葉書で)
我らの心の師ともいえる、川口浩隊長がガンに倒れて20年。世界にはまだ人類に計り知れない謎がある。それは富士山麓に幻の洞窟があるという未確認情報から始まった。我々探検隊は事態の真相を探るべく、雪残る青木ヶ原樹海に集結した。日本洞窟学会の学者にして報告会にもよく顔を出す松澤隊長を筆頭に、世界に足跡を残す「主婦パッカー」こと我らが藤原和枝隊員、米国洞窟学会のN女史、「地底に暮らしたい」と本気で語るキャピキャピ女子大生の毒島隊員、そして撮影隊員にして地底人への復讐を誓う元自転車野郎の安東。生きては戻れないと言われる樹海の奥地にその洞窟は実在した!
暗闇の中にクリスタルの氷柱が幾本も天井から伸び、ライトに照らされ怪しく光る。地底はすべて氷に覆われていた。足を滑らせ暗闇の中へと滑落し消えてゆく隊員!氷壁を登れずにベソをかく隊員!洞窟最奥地に残された謎の古代文明。そしてついに我々は洞窟人類の謎を解明することに成功した!地底人の正体はヘルメットをかぶったサルでした。おまけにツナギをきていたようです。世界にはまだまだロマンが実在する。科学技術の及ばない世界がある。詳細はいずれ学会で発表されるだろう。 次回探検隊シリーズ第2弾は、地底王国に恐怖の殺人こうもりを見た!(課題)です。放送日未定。現在探検隊員募集中!川口浩とシャクルトン隊長を尊敬できる応募者は、ミクシィの「地平線スペシャル探検隊シリーズ」のコミュニティへ!現在隊員は一名です。今回の謎の洞窟の行き方:天然記念物富士風穴でググッて(注:「検索エンジンのグーグルで探す」こと)みてください。洞窟は危険です。地底人と一緒にもぐりましょう。(3月5日 言葉のマジシャン安東浩正)
江本さんこんにちは。今相模原の実家にいます。浜比嘉に行ってからまだ一ヶ月ちょっとですがさっそくの里帰り、というのは、3年前から喜多方の酒蔵で酒造りをはじめていて、今回も昨年春から田植草取り稲刈りと酒米を育て、今週からいよいよ酒造りが始まりました。ちゃんとした純米大吟醸ですぞ!14人の仲間とやっています。私は毎回はこられませんがあと絞りか瓶詰の時(4月)に再び行くつもりです。今回がたぶん最後の酒造りになるのでなるべく頑張って通おうと思ってます。で、今日蔵で麹を作り終わり喜多方から夕方こちらへ来たところです。あしたは野暮用こなし明後日帰ります。次回来るときはできれば外間さんを連れてきて江本さんやお世話になった方に紹介したいなと思っております。そうとなったらいろいろお願いしたいこともありますのでよろしくお願いします。
◆さて昨日沖縄に電話したらなんと山羊の赤ちゃんが二頭産まれたそうです!私がいないときに残念でしたがかわいいだろうなあ!早く浜比嘉に帰りたいです。最近はアヒルがうちの庭をわがものがおで歩いていてコイツもかわいいんですよ、アほラックと名前をつけました。ゴン(注:琉球犬の血をひく江本の友人)は相変わらず元気です。散歩しているとき「これ琉球犬ですか」と二回声をかけられました。そのうちのひとりには「珍しいねえ、大事にしなさいよー!」と言われました。ゴンはスゴいなとちょっと自慢に思いました。こちらに来て風邪ひいてしまいました。やれやれ、江本さんも風邪にお気を付け下さい。ではまた。(3月5日 外間晴美)
■先日は突然の来訪、本当にうれしかったです!1歳になったばかりの息子・颯祐(そうすけ)と建ったばかりの新居を見ていただいた身内以外の最初のお客様が江本さんになろうとは、あの日北鎌倉からお電話があるまで想像もしていませんでした。短い時間でしたが、ひきこもりがちな育児ライフのなか江本さんとのおしゃべりは私にとってとても刺激的でした。
◆想像してはいましたが、育児に追われていると大自然に思いをめぐらす時間などとれるはずもなく、必然的にまともな文章も書けなくなってしまいますが(親バカブログならいくらでも書ける)、それでも、朝布団の中で小さな手がぴや〜と動いているのを見ると、思わず手を合わせてしまう瞬間があったりして、山で感じていたことと子供に感じることは一緒なのだなあと不思議な感じがしています。
◆次回はコーヒーだけではなく、アルコールと肴を用意してお待ちしていますので、ぜひ薪ストーブの季節中にまたいらしてくださいね! (大久保由美子 3月3日メール)
みなさん、こんにちは。地平線会議「300回」でお世話になりました品行方正楽団より、演奏会のお知らせです。
◆4月29日午後、清里高原の雑木林の中にある「竹早山荘」(←元・竹早高校寮で、現在は宿泊・研修施設になっているそうです)のオープニングで、このたび恐れ多くも、演奏をさせていただくことになりました。
◆先日、待望の新メンバー!長野淳子さんが沖縄楽器の三線&パーカッション担当で加わってくださり、フォルクローレ奏者の長岡竜介さん宅のスタジオで、練習がスタートしたばかりです。今回は、里芋雑炊を歌った沖縄の子守唄ほかあれやこれにも挑戦、持ち曲を無謀にも突然一挙に増やして奮闘中です。(白根全さんはカーニバル取材のため今回はお休みです。)
◆話が少しそれますが、おめでたいニュースがここにもありますのでお届けしますね!長岡さんご夫婦に、長男の祥太郎くんが誕生しました。昨年末に生まれたばかりの、ほやほや、とっても可愛い赤ちゃんです。
◆というわけで、春の大舞台に向けてドキドキはらはらの新生・楽団です、みなさん、ぜひ冷やかしに遊びに来てくださいね。八ヶ岳山麓でどんちゃん、夜通し遊びましょう!(3月3日 今から緊張の団員、大西夏奈子 団員は他に長野亮之介画伯です)
江本さんへ こんにちは。早いものでもう3月です。1月、2月なんてあっという間でしたね。ここサウジアラビアでは日差しが強い日々が続いています。昨日は夕方5時の時点で気温が31度ありました。湿度がないので建物の影に入れば涼しいのですが、それでも暑いものはやっぱり暑いです。
◆さて、先日宿舎から2時間程の距離にあるアブカイクの石油精製施設で自爆テロがありました。あまり日本では放送されていないようですが、数名のテロリストが銃撃戦の末自爆し、それに巻き込まれて3名の警備員が亡くなったそうです。亡くなったテロリストのうち2名はサウジ国内で最重要指名手配者リスト中の人物だったそうです。その後27日にはリャド近郊で自爆テロ未遂事件と関係があるとみられる人たちと治安当局との間で衝突がありました。
◆実は自爆テロがあった数日前に日本の外務省のほうから隣国バハレーンでテロが計画されていると連絡があったばかりでした。テロのあった前日はビザの更新のためバハレーンに行かなければならず、何もテロの噂のあるバハレーンで夜を明かすこともないなとサウジにとんぼ帰りしたのですが、その翌日バハレーンの対岸の街近くのアブカイクで事件が起こりました。彼らがバハレーンへのテロをあきらめてアブカイクに向かったのか、それともはじめからアブカイクを狙っていたのかは分かりませんが、石油関連施設も現実的に彼らの標的となってきたようです。と、まあ近くでそんな事件があったわけですが、現場では特にそのことが話題に上るわけでもなく、皆淡々と日々の業務をこなしています。
◆このジュベールの現場は広大な敷地に石油関連の施設が点在している上、私たちのところはまだプラント自体が稼動していないので彼らの標的にはなることはないだろうと皆考えているようです。この国に来てもう少しで4ヶ月になりますが、怖いサウジというイメージはなくなりました。もちろん限られた人々との接触の上での感想でしかないのですが、サウジアラビアの人たちはとても実直で紳士的です。それがイスラムという宗教によるものなのか、それとも国民性なのかはわかりませんが、日本人とサウジアラビア人は良い友人になれると思います。
◆現場では朝9時と夕方3時にお茶の時間があるのですが、最近はもっぱらお客さんの運転員たちのところに行ってアラビックティーをカップに注いでもらったり、濃厚な甘さのダーツを楽しんだりしています。さて、そんな現場生活も残り数日です。今月の13日には成田に着く予定です。帰国後は休暇を申請し再び国外逃亡する予定なので3月の地平線会議にはお邪魔できないかもしれませんが、近い将来『北京』でアルコール入りのビールを飲みながら皆さんと餃子をつまめる日を楽しみにしています。それでは、また。(光菅修 3月2日メール)
「ご存知の通り(?)クエストを強制的に棄権させられてしまいました。ものすごい嵐にあってしまい、ホワイトアウトを17時間待ってようやく出発したのに、1時間位でヘリコプターが来て、続行を認めてくれませんでした。かなり落ち込んじゃったのですが、そのレースジャッジが「すでに動いていたチームの続行を認めなかったのはミスジャッジだった」ということで来年のクエストのエントリー代が無料になりました。また来年がんばります。すみませんでした。本多有香」(2月21日メール)
アラスカのフェアバンクスを起点に1600キロ先のカナダ・ユーコン準州のホワイトホースをめざず苛酷な長距離レース「ユーコン・クエスト」が2月11日(現地時間)、本多有香さんはじめ22人の犬橇チームが参加してスタート、ことしはいきなり悪天候に襲われた。本多さんの犬橇チームは12日午後6時近くに、スティーズハイウェーに面した「マイル101」という「ドッグドロップポイント」(調子の悪い犬をドロップできる場所)を出発して間もなく吹雪に見舞われた。有香さんのHPから了解を得てその後の顛末の詳細をお伝えする。(E)
「101を出発したのは夜6時過ぎでした。ちょうど雪が降り始め、視界が悪くなってしまった上にトレイルが解り難い所で、スローダウンしました。川の上でトレイルマークのラス(注:lath小幅板のこと?)がなくなり、間違えたな、とひき帰したらフランク・ターナー(注:この大会に22回も出走しているベテラン・マッシャー)の息子ソウルが同じ間違いをしてやってきたのでこっちじゃないことを説明すると、彼は「本当に?ちょっとみてくる」と、また先へ進んでいきましたがしばらくして戻ってきました。そして「視界が悪いし一緒に進もう」と協力することにしました。この頃から風も強くなってきていたので、私は山越えを独りでやらずに済んでほっとしていました。
◆かなり視界が悪かったし風が運んだ雪でトレイルは全く消えてしまっていたので、ラスの反射光だけが頼りでした。2人で少し進んではヘッドライトをそこかしこに動かして反射光を見つけてそっちに進む、を繰り返しました。イーグルサミットの頂上らしき所で次のラスを見つけ、急な斜面を下って行きました。雪が深くて犬が動けず団子状になって絡まり2人とも止まった時、ソウルは左にラスを見つけ「こっちだ」と叫びました。ところがそのまままっすぐ進む方にもラスが見えるのです。私が「どっちの方向?」と指差し叫ぶと、ソウルは犬に任せました。ソウルの犬は彼の父親の犬、つまり犬達はここを走った経験があるのです。犬達はソウルが左に寄せたにもかかわらず右へ進みました。それで、私達は右側のラスを信じて下りました。
◆しばらく行っても次のラスは見当たりません。すぐ先にいるはずのソウルでさえよく見えません。風で声は消されてしまい、この距離ではもう叫んでも良く聞き取れません。このまま進むのは危険だと判断し、犬にコートを着せてブーティース(注:犬に履かせる靴)を脱がせ休ませました。私はスナック2個(ターキースキンと小魚を各1袋ずつ)、ソウルはジップロック1袋分のドライフードとスナックの魚1袋、お互い非常食しか持っていませんでした。101から次のチェックポイントセントラルまではたったの33マイルです。まさかその途中でキャンプするとは考えてもいなかったのでこれ以上の餌を持っていなかったのです。
◆お互い協力して餌を分け合おう、風が止んだらまた進めばいい、たぶん明日の朝には天気は回復するよ、とりあえず今はラスを見つけに行こう、と二人で真っ白な強風の中進みましたが飛ばされてなかなか進めません。その上どこに犬を停めたか解らなくなってしまいそうで、無理しないで戻ることにしました。私達はあの左に行くラスが正しかったんだ、晴れたらそっちに行こう、と話し合いました。
◆そこへ、私達が降りてきた方向からヘッドライトの明かりが見えてきました。同じルートを選んできた(完走経験のある)ジェニファーでした。彼女は一人でこの嵐の中きたので、私達に会えて狂喜していました。「私はこの3チーム全ての犬に足りるホワイトフィッシュを持ってるよ!視界が良くなれば、私はトレイルを知っているから皆を連れて行ける。ここから1マイルくらいですぐに林の中に入るから、風も弱まるしそこで水を作って休もう。今はとりあえず一緒にここでキャンプしよう。」と嬉しいことを言うので、「あなたは私のヴィーナスだ!」と抱きしめました。
◆私達はホワイトアウトが終わるまで、ソリを倒して風除けを作り寝袋とビビーサックにもぐり込みました。風は雪を運び気温は高めで何もかもが濡れました。そして、それが凍り体温が奪われます。犬達はコートが届かない足の部分に大きなアイスができて取れません。でも、皆でかたまって丸くなっていたのであの子達は大丈夫だと信じていました。
◆寒いから隣で寝る、とやってきたジェニファーが、約1時間毎に、有香?!「寒いよ」「私の犬が死んじゃうかも」「私は全身濡れてるよ!」「足が凍りそう!」「もっとくっついていて!」と私を起こします。あのプラス思考だったジェニファーはもうここにいません。私はありったけのカイロを渡したり、ジッパーを上げてあげたり、寝袋の下にジャケットを敷いたり、水を飲ませました。1時間毎にそんな作業をやっているから、寝袋の出入りのたびに雪が入るし、風でグローブは飛んでいくし、全身ずぶぬれでしたが動いているので手足顔以外は寒くありませんでした。人の世話をして励ますことで、自分を励ましました。
◆強風がシュラフで包まっている私を転がします。ジェニファーも犬たちも風が運ぶ雪でどんどん覆われていきます。「寒いよ!ジッパーを上げて!」という彼女に「グローブが飛んだ!指が痛くてできない」と不平を言うと彼女は自分の控えグローブをくれました。こんな風に私にもマイナスのオーラが漂いました。こんな時とにかく一番大事なのは水を飲むことなのです。水分不足が凍傷を招き、変な考えを招きます。それで私はガポガポ飲んで、飲ませました。ジェニファーは私を命の恩人だ、と言い出しました。
◆『明日になったらきっと晴れ渡ってる。セントラルに着いたら餌が手に入るから犬にいっぱいあげよう、スルーする予定だったけどセントラルでちょっと多めに休憩させてあげよう。』が私のプランでした。私は諦めるどころか『ドーソンまで着いたら、今ゆっくり走っている分うちの犬たちはスタミナがあるからなんチームかは追い越せるかも。』などと考えていたのです。◆翌朝になり、私は何度も何度もチェックしたのですがいつ見ても景色は真っ白でした。風は一向に止まず身動き取れません。私達はここで17時間もキャンプしてしまいました。昼の1時「ジェニファー、見えるよ!」私は叫びました。風はまだひどく強かったのですが、向こうで寝ているソウルも犬たちも山も見えるのです。ジェニファーは飛び起きて、「こんな所早く出よう!私のジッパー早く下げて!」と私をまくしたてたので、そんな彼女を見て嬉しくなりました。ソウルはまだ動いてこないので2人でトレイルを見に行きました。「ここをまっすぐ登れば着くよ、ちょうど逆側に降りたんだ!」道が分かった所で2人張り切ってソウルのところへ行き、「犬にスナックをあげてとっととこんな所出て行こう!」と活気付きました。ソウルは寒さで動きたがりません。ソウルに「水は飲んだの?!」とジェニファーが言いました。ヴィーナス復活の瞬間でした。
◆犬たちはスナック一口分だけではものたらずもっと食べたがりましたが、1マイルしたら(林まで着いたら)ちゃんと水を作って餌をあげるからと、我慢してもらいました。風は本当に強く、あんなスナックを食べただけの犬にとっては厳しい登りでした。その上ちゃんと閉めていたのにスレッドバッグは強風が運んだ雪がパンパンに入っていて、一応取り除きましたがかなり重かったのです。私のオーバーパーカーもポケットは全て雪で膨れ上がり、毛の部分はアイスでかたまり、ジッパーは凍って上らず、重さが3倍になっていたので使えませんでした。
◆色々なものを風で飛ばされて無くしてしまいましたが、3チーム協力しながらゆっくりゆっくり登りました。私はこのペースで行っても2時間しないで林に着くし、そこで4、5時間休んでも今日中にはセントラルに着くと思っていました。
◆飛行機は何度か旋回していましたが、ヘリコプターが来たのはこのときが初めてでした。のん気な私は手を振って無事を知らせました。でも、彼らの目的は無事の確認ではなく帰還だったのです。レースジャッジがヘリコプターに乗るように言うのですが、泣いて喜ぶジェニファーと、乗るか続けるか迷っているソウルと、続ける気満々の私は立場が違いました。ジャッジは続けるという私に冷たく「十分な餌を持っているのか!?この嵐がどんなに危険かわかっていない!他に5チームもここで待機しているんだぞ。」と怒鳴るのです。マッシャー同士なら助け合っても良いので、ジェニファーのように帰りたがっているマッシャーから餌をもらう事だって可能なのに。彼の任務は全てのマッシャーを無事に連れ戻すことだったようです。彼は続けると言い張る私にNOを告げました。……」
2月は24日の東京での報告会のほかに、大阪でも25日に地平線報告会が開かれた。2日連続で地平線なんて!、と驚いた人もいると思うが、土日にからませないとスタッフも動けず、会場は2月25日しか空いてなかったのだ。岸本佳則君を中心に会場との交渉、いまや「大阪名物」となった20ページに及ぶ「資料」の作成など、当日に向けて「大阪報告会専用ML」が飛び交った。青空に恵まれて迎えたその25日、「足と手」をテーマのふたりの報告の素晴らしさは勿論、オークションから2次会に至るまで、規模は小さいながらこれはまさしく「大集会」であった。その雰囲気の一端を知ってほしいのと、東京以外でもこれだけのことができるという気持ちをこめて「大阪報告会特別レポート」をお届けする。地平線・大阪の要(かなめ)のひとり、中島菊代さんが全文を書いた。(江本嘉伸)
タイトル決めに少々難航した。昨年北米大陸横断ランを成し遂げた破天荒な旅人・坪井伸吾さんと、ドイツで修行した木のおもちゃ作家・前田歩未さんの報告会。異色の取り合わせと言えるかもしれないふたりを表し、かつ、吸引力のあるタイトルをと、地平線通信で予告する直前まで粘った。結果、わかりやすく、しかも謎めいてもいる、前田さん提案の「大地と足、木と手の関係」に落ち着いた。
◆スタッフの間では例によってメールが飛びかい、それぞれの役割を担ったり確認したりしていたら、たっぷりあると思っていた準備期間もどんどん過ぎていった。そして迎えた当日。週間天気予報では危ぶまれていた空模様も、すっきり晴れてうららかな陽気に。大阪国際会議場で合流したスタッフたちは、大阪の街を一望する12階のレストランで、実行委員長夫妻おすすめのカレーやピラフを堪能。 おもちゃやダンボール箱を抱えてぞろぞろ店に入る一団に、レストランのウェイターが「何の催しですか?」と尋ねるひと幕も。
◆その後一行は、いざ会場となる会議室へ。椅子や机などはすべて会場側でセッティングしてくれるので、予約時刻は開始の30分前から。運良く少し早めに入室でき、資料綴じやパソコン、ビデオ、受付周りなど、速攻で準備。あっという間に開始時刻となった。席もほとんど埋まっている(最終的には計60名が集った)。ほぼ定刻に実行委員長が挨拶し、関西では3回目、通算320回目となる地平線報告会が幕を開けた。
木のおもちゃ作家として今に至る彼女の軌跡を、ドイツでの修行時代を中心に、時間の流れに沿って伝えてくれた。話の区切り目でスクリーンに出してくれたタイトルをもとにレポートする。
◆『夢見る時代』…こどもが喜ぶものとして、最初のイメージはジェットコースターだった。次はデパートの屋上などにある100円のユラユラ乗り物。そして最終的に自分の手で作れる木のおもちゃへ行き着いた。『かせきごっこ』…最初に作ったおもちゃ。コンセプトは「公園に生えている木をくりぬいてかくれんぼしたい」。『夢追いかける時代』…“作品とお金”をためるべく、ドイツへの想いを胸に社会人となる。『2000’06 スレンダーブロック』『2001’04 ラウンドパーティー』…ドイツ行きに備え、これらを含め計4作品を制作。『転換期』…“ドイツに行くこと”というひとつの夢に追いつき、更に先へ。師匠と出会う。『考える時代』…ドイツ修業時代。「やっとここまでこぎつけた。ずっとやりたかったことを今やっている」と実感。“できることは何でもやる”がモットーの師匠の家に身を置き、人々の生き方や考え方、土地の自然に触れながら、何でもやりつつ自分を見つめる。『クオーター』…2002年8月に制作。師匠にすら「一度あきらめろ」と言わしめ、完成までに困難を極めた作品。「丸い球体がパカッと開くと面白い」が発端だった。『2003'06 フスフス』…ドイツ時代最後の作品。ある夜、布団に入ってから突然「足の裏で遊べる」とひらめく。師匠は「波を逃したらできるものもできなくなる」と、制作に専念させてくれた。『2003'11帰国』…出会った人との絆を感じながら帰国。アトリエの場所探しに奔走。『2004’03arumitoy』…アトリエarumitoyオープン。ドイツでの学びを生かし、床張りやギャラリースペース設置、入り口扉の改装など自力で行った。最初の1年は生活と制作で精一杯で、新作は作れなかった。『2005'09つぃくつぁく・ばんぴー』…夏にドイツを訪ねた後できた新作。「ドイツに行って、楽になったときがあったのでしょう」。
◆念願のドイツに渡って語学学校に通い、「次どうする?」と考えて、後に師匠となるノベルト氏のもとへ突撃訪問したとき(集めたパンフレットに電話番号が書いてあったのがきっかけ)、彼女はその人に“何か”を感じる。突然やってきた見知らぬ外国人の話を丁寧に聞いてくれる師匠の姿に、「ここで修行がしたい」と、4ヶ月習ったドイツ語で自分のことを説明して了解を得た。そうして始まったドイツ修業時代の、気持ちが沈みがちだったある日、松の木の匂いをかいで鳥肌が立ち、「本当に木が好きだ、間違っていなかった」と目が覚める思いがしたことは、今も感覚ごと思い起こせるという。聞いているとそれらの話は前進のプロセスであり、心の声をすくい取り、向き合い、行動につなげてゆくプロセスであるように思えた。
◆とっておきの大切な場所や人、時間の話も、美しい写真を見せてもらいながら聞くことができた。豊かな自然の中、教会の屋根が2本の角のように遠くに見えるお気に入りの風景。庭に実るいろいろなベリー。気分転換に散策したブナ林や「お友だちの栗の木さん」のこと。ボスとふたりで話ができるオイル場と11時のカフェ。将来について悩んでいたとき、気の合うジュエリーマイスターの友人が、「頭の中をぐちゃぐちゃにしちゃだめよ。わかんない時は考えなくていい、わかるときは来るから」と言ってくれ、楽になったこと(そして、ある日突然「独立したい」と思うのだった)。どの話もドイツでの生活を愛おしむ歩未さんの気持ちが伝わるようで、心に残った。
◆日本を発つときの「帰る場所があるっていいな」という思いを、ドイツを発つときにも感じることが出来た歩未さんの、2年に及ぶドイツでの暮らしは、それ抜きでは今の彼女はないと言っても過言でないほどの経験や学びをもたらした。「ボスの精神を受け継いで、アトリエarumi toyは成り立っている」と言う彼女は、これからもきらきら輝きながら、しなやかなたくましさで、大切なものを増やしていくことだろう。とりあえず、また突然発表される新作を楽しみにしていましょうか。(アイデアは、「言ったら溶ける」んですって。)
◆約1時間にわたる前田歩未さんの話は、短いながらも内容を吟味して伝えてくれた感じがし、余韻の残る報告となった。当初旅人の報告の場である地平線報告会に登場することに彼女自身戸惑いがあったようだが、やはり杞憂であった。なぜならそれは、彼女の「旅」の報告でもあったのだから。
おもちゃを見てもらう時間も含め、15分間の中入り後、坪井伸吾さんの報告が始まった。
◆坪井さんの話を聞くのは初めてだったが、驚いてしまった。失礼を承知で正直に言うが、これほど話が面白い人とは思っていなかったのだ(す、すみません)。打ち合わせのときなどには穏やかにゆるりと話され、どちらかというと“聞く人”の印象だったのが、1時間半の間、持ち味はそのままに、話し手として常に聞く者を引きつけ、楽しませてくれた。聞き上手は話し上手なのだ。
◆話を聞いていると、坪井さんの行動の原動力は、「感動したい」にあった。「できないと思っていたことができたときのおもしろさ」に引かれるとも。前述の前田歩未さんのレポートで書いたことと似るが、そこに至るには、自分の気持ちに向き合い、実行に移していく姿勢が内にあるように思える。広い意味で、旅とは元来そういう要素を含むものなのかもしれない。
◆メインの報告『北米横断ラン』については、昨年11月に東京での地平線報告会でも話され、通信313号にレポートも掲載されたので、是非そちらをご覧いただきたい。そんなわけで今回は、 旅をおもしろがりながら昇華させた坪井さん独自の世界観が興味深かったので、旅のエピソードとともに、「坪井語録」を紹介したいと思う。
◆「地図に載っていない道にいきなり出た。線路に沿って進む。こわくて、わくわくする」「昔行ったところに再び行ってよくなっていることは少なく、失望するので行きたくないと思っていたが、20年ぶりに同じ場所に立っているとわかったとき、悪くないと思えた」「砂漠でテントを張って野宿する。夜はこわい。これは町にいるとわからない、普通の感覚」「食べ物があるガソリンスタンドはオアシス。ウェハースやビスケットの日々では、温かいハンバーガーが嬉しかった」「テントの外に気配。ポルターガイスト現象が!“なかったことにしよう”と寝袋に入って寝た」「体力的なことよりも、精神状態を保つ方が重要。自分と遊べる能力が不可欠。“これでいいのだ”状態」「日本語だと恥ずかしくて言えなくても英語だと言えてしまう。日本語はそういう表現に向いていない」「(標高3400mの山越えで)普段感情はおもてにでないが、このときばかりはガッツポーズをした」「道で人に会うときは、試されているときでもある。100%信じるわけにはいかないが、いい関係を作らないとならない(逃げ場はないから)」「70kmぶりくらいの日蔭で、気を失って倒れる。通りがかった車が水を分けてくれたものの、あと16kmを水なしでいくのはしんどい。この際とヒッチするが、こんな時に限って止まってくれない。あとは雨乞いしかなかった。アメフレ…と念じていたら、降った」「穏やかな気持ちのときに見えるものと、神経が張りつめているときに見えるものがそれぞれある」「(ゴールドに光る空の写真)空を見て、ときに“恐い“と思う感覚も必要」「地図が完璧に読めるようになるとチャレンジ要素がなくなって、3日位でいやになった」「地図を見て一発でモーテルを見つけられないとダメ(ムダ足が疲労につながる)」「(グラウンド・ゼロにて)なくなったものを考えるとうちのめされる」「嫁さんに“素人でもわかるような結果出してこい”と後押しされた」「治癒能力が高まっているのか、マメが2日くらいで治るようになった」「修理するものが出てくると、場所や金額を調べるのに1日かかることもあったが、このときはすぐに直してもらえて幸せだった。ちょっとしたこで幸せになれる」「山のきついところでベストタイムが出て、いきなりステップがあがるような、進化する瞬間を感じた」「日本にはない、家々のさまざまなポストを見るのも楽しみのひとつ。ポストから人柄を想像する。個性ってこういうことではないかと思う」「敵(この場合は猟犬)に会ったとき、まるめこむテクニックは大事」「道を選べる自由さが嬉しい。干上がった川、湖。人間がいないのでどこで寝ても大丈夫。すごく幸せで、旅の原点と思う」「(来た道を小高い場所から撮影した写真)やればできるんやな、と」
◆ゴールの店でバスのチケットとコーラを買い、店員に走ってきたことを言ってみたら、返事は「それがどうしたの?」だったという。バスが来るまでの3時間、坪井さんはまた走り始める。前回走った道をふたたび踏む。ひとつの丘を上ったところで「ここやな」と思った。思えば、本来のゴール地点も海が見えることから、自分でバッテリーパークに決めた。5400キロを一本の線でつないだ走り旅の最終ゴールも自分で決めるべきだと思った。「自分の中の“何か”がここ(この丘)だと感じた」。「おしまい」と全方向に向かって言い、コーラ飲んだらすっきりして、5400kmの走り旅のことは全て過去になってしまったそうだ。結びの言葉は、「これからも知らんことをやっていきたい」だった。きっとこれからも、とりまく“枠”をがしがし外してゆく坪井さんなのだ。(中島菊代 別称:屋久島病のねこ)
●江本さんにより、参加者紹介。ウエストポーチの中味に注目が集まってしょうがなかった久島弘さん、熊野古道のスペシャリスト小森茂之さん、第263回報告者で、新聞記者の田端桂子さん、第296回報告者の鰐渕渉さん(名古屋から原付で参上)、雲南の少数民族に関わる北川文夫さん、坪井さんをモデルにしたマンガを描いた内田健敬さん、『サラリーマンでも細切れなら出来る自転車世界一周』などをデータ持参で紹介してくださった埜口保男さんと、地平線らしく、多彩な顔ぶれがひとことずつ挨拶をした。なかじまねこも、本を紹介してもらった。最後にAirPhotographerの多胡光純さんが、感嘆を呼ぶ写真と熱のある語りで、その場を締めてくれた。(事情により来られなかった永瀬忠志さん(祝・植村直己冒険賞受賞!)からは、メッセージをいただいた。)
●紹介の時間が盛りだくさんとなり、終了約15分前、おまちかねオークションの開始。ここはさすが手慣れた競り人により、テンポ良く次々と展開された。補佐として物品の整理や付箋つけ及び記録をした稲見・谷脇ペアの功績も大きい(あ、競り人は江本さん)。時間切れで出せなかったものは二次会に送った。 以下、リストより。
●ロシアの民芸品 マトリョーシカ(江川さんより)/日付入り4冊署名本(賀曽利さん)/至福の時セット:さくらもちと台湾のウーロン茶(稲見さん)/ひぐまの缶詰とタオル、モンゴルカシミヤ手袋、宮古島のパイン糖・黒糖・泡盛、宮古島ウルトラ遠足Tシャツ、ミャンマーのかばんとベルト、エゾ鹿の缶詰と北海道の絵ハガキ、ニュージーランド ひつじの人形、モンゴル らくだの人形(江本さん)/フェアトレード ルームシューズ、海人Tシャツ、屋久杉のお箸とさんごの箸おき&二宮さんからの益救神社お守り札、ガマの油、屋久杉チップ(ねこ)/ナシ族衣装とモンゴルのストール(北川さん)/Tシャツ(シェルパ斉藤さん)/ブランジェリ・タケウチのパン(岸本さん)/タイのマンゴスティン石鹸:美肌効果あり(久島さん)/リカちゃん人形 人力車バージョン(坪井さん)/特製グリューワイン、オリジナル写真立て、ゼブラウッドのカレンダー(あるみさん)、モンゴル ゴビ砂漠の砂と野焼きの香瓶+盃(鰐渕さん)、沖縄限定roxyTシャツ(藤田さん)、フェアトレード チョコレート(谷脇さん)
●そんなこんなで、地平線会議大阪報告会は、盛況のうちに幕を閉じることが出来た。来てくださった皆さん、見守ってくださった方々、ありがとうございました!(中島菊代)
スタッフ:岸本佳則(実行委員長)、北川文夫(from岡山、ビデオ撮影ならびにヨドバシカメラでゲットしたカメラで撮影)、多胡光純(from埼玉、写真撮影・他なんでも)、岸本実千代(受付・会計・司令塔?)、藤田光明(from岡山・受付はまかせろ)、村松直美(資料・声援)、稲見亜矢子(オークションはおまかせ)、谷脇百恵(オークションはばっちり)、中島菊代(資料・記録) 江本嘉伸(from東京、一部進行・オークション)
地平線会議大阪報告会、無事終わりました。カレーを食べながらの事前打ち合わせから夜中のカラオケ大会まで楽しい一日でした。天気も良かったし、報告ももちろん良かったし、オークションも面白かったし…。 大阪報告会名物の「豪華資料」も好評でした。2次会でもたくさんの人たちと交流できました。また、少しでもいい報告会にしようと、多くの人がお手伝いを申し出てくれ、みんなが色々準備したり、協力して、楽しく参加できる会になったのが良かったですね。
◆今回、大阪での報告会に参加してみて、やっぱり、ナマの報告会は良いなあと思いました。報告者の表情や言葉のニュアンスを、実際に目で見て、耳で聴くことで、活字では伝えきれないその人の体験してきたことへの思いが伝わるような気がします。なんだかちょっとした疑似体験のような感覚かな?きっと、毎月、通信では伝えきれないような面白い話がいっぱいあるのでしょうね。
◆大阪では地平線会議報告会はまだまだ特別なイベントですが、東京にいると、毎月いろんな体験話が聴けるのですよね。地方の人間からするとかなりうらやましいです。改めて、もっと報告会に参加したいなあと思いました。できれば、通信の発送作業や報告会の準備の段階から参加して楽しく交流したいですね。機会があれば出没しますので、そのときはよろしくね。(岸本実千代)
今回2006年2月の大阪報告会も岸本さんが実行委員長を務めてくださった。西日本での地平線報告会は、阪神大震災から約1年半後の1996年8月に神戸三ノ宮、神戸市青少年会館で開催された。これは、地平線報告会が東京以外でおこなわれた初めての報告会でもあった。 呼びかけ人は、今回と同じ岸本さん。当時岸本さんも神戸に住んでいたこともあり、震災後の復興をどのように考えていくかということもテーマとなった。第一部:震災体験から学ぶもの、第二部:極限を日常として暮らした2人、という構成で行なわれ、思い出深い集会となった。
◆このときに、東京以外で報告会を開催したことで、その後の地方開催に弾みがついていく。○1999年7月兵庫県日高町、植村直己冒険館/地平線写真展○2000年1月山形県出羽庄内、つるおかユースホステル○2000年9月福島県伊南村○2003年3月高知県中村市、四万十川河川敷/エコライフフェア○2004年6月大阪、東淀川勤労者センター
◆私は、この中の西日本開催の報告会に参加したが、どれも内容の濃い、そして、参加者同士の交流も楽しめた集会だった。実は、今回(2006年2月)の報告会の準備スタッフと、報告者の2人ともが、2004年の大阪集会にも参加していた。今回の北米横断ランを報告した坪井伸吾さんは、2004年の報告会の前日に「しまなみ海道100キロマラソン」を江本さんとともに走っていた。今回の報告でも語られていたが、この100キロランで長距離も挑戦しがいがあると悟ったという。もう一人の、前田歩未さんは、ドイツで木のおもちゃ作りを学んで、ドイツ人の人生観も学んできたという報告であった。どちらも、本当に面白い報告だった。
◆直接行動者から話が聞けることのすばらしさは、一度でも体験しないとわからない。大阪で報告会を開催してくれたことへの感謝を申し上げるとともに、開催するときは少しでも手助けできるようにしたいと、改めて深く心に刻むものがあった。(北川文夫)
こんにちは、江本さん。先日はどうもありがとうございました。さて今回の大阪報告会、開催すると聞いてからとても楽しみにしていたのです。今までの東京に参加出来なかった分、気合を入れるためにも、今回は名古屋からスクーターで参上!下道走破で220Km、予定通りの5時間で会場へと到着できました。今回の報告者は2名。前田歩未さんは木のおもちゃ作りを通じて夢を求めつづけている、とても可愛らしい、でもとても強い意思を持った女性。冒険とは違う中にも共感できる多くのモノを感じました。
続いては坪井伸吾さんの報告。僕なんか足元にも及ばないくらい、数多くのバイタリティー溢れる体験を元にしたその報告にスルスル〜と引き込まれてしまうと同時に、僕の中で燻っている夢を再燃させるかのような、アツイ風が次々と吹きつけて、最後までその『坪井ワールド』にはまりっぱなしでした。
久しぶりの報告会、いつ行っても会場の『熱い』雰囲気は健在ですね。僕にとっても次の行動を暖め、そして揺り動かすためへの大きな力となります。次は何をやろうかな?報告会を聞きながらそんなことを考えるのも、とても楽しいです。
最後は恒例のオークション。僕はカミさんのために、暖かな毛糸の室内靴をゲット!僕の出品した『ゴビ砂漠の砂と野焼きの香瓶+杯』も、無事希望者の手に渡っていきました。これまた恒例の2次会も、いろんな方とお話できてよかったですよ。次回はいつ参加出来るかまだ未定ですが、行けない時でも行った気分になる地平線通信を読んで、会場の『熱い』雰囲気を自宅で感じ取りながら、僕の新たなる糧にしていきます。(鰐渕渉)
江本さま 先日はありがとうございました。久しぶりに楽しい休日を過ごせました。同年代の前田さん、一つのことに情熱をかけ続ける情熱、うらやましく思いました。記者は、気持ちがかなりあちこちに分散してしまうので、何だか実は…あんまり達成感がないのが事実です。前に進んでいるという感じもしないですしね(笑)
◆前田さんはすでに自分の王国(お店)も持っていますしね。すごいです。職人ってかっこいいですよね。女性の職人さん、すごく応援したいです。職人というと封建的で、堅物の男性的イメージがありますが、前田さんのようなしなやかで、感性豊かな女性がいるというのを広く知られるといいですね。勇気づけられる人、多いと思います。妊娠中の友人がいるので、おもちゃを一つ求めました。木のおもちゃ、いいですね。
◆坪井さんは大学探検部の先輩(=今は講談社にいます)に顔がそっくりで驚きました(笑)妙に親近感がありました。やっていることの過酷さの裏に、軽妙で純粋な動機があった=やってみないと分からない、できないものができたときの感動が好き、というような=のがとても新鮮でした。見ていて楽しいのも、他人との差別化を計るマッチョ精神ではなく、本当に好奇心のままに動いていく軽やかな子どものような精神を感じられるからではないかなと思いました。また、報告会、行きたいです。(田端桂子 共同通信記者)
◆歩未さんも坪井さんもとても良い内容の報告でしたね。それぞれのご両親が来られていたのも大阪で報告会を開いた良い成果だったと思います。なかなか自分の親に何をしてきたか、その時何を考えていたかなど話す機会はないでしょうから、お互いに良い場だったのではないでしょうか。(岸本佳則)
◆あるみさん、坪井さんの報告とも面白かったです。自分自身は何やってるんだろ?と思いながら聞いていました。当日25日は23:00過ぎに帰宅して、翌朝から法事でバタバタしていました。甥や姪も来ていたので、「あ、あるみさんのオモチャを買っておけばよかった」と後悔しています。 (^^;)(藤田光明)
◆いろんなことに恵まれた1日でしたね。オークションの品物につける「地平線会議・大阪報告会」の付箋、本当は前の白い部分にコメントを書いてもらおうと思ってたんです。時間的に無理がありました。自分も書けなかったのに、藤田さん、書いて頂いてありがとうございました。補佐の腕をもう少し磨かないと。また、こういう機会がありましたらよろしくお願いします。(稲見亜矢子)
◆オークション、記録係なのに、物凄く楽しんでました。ayaさんが作ってくださった付箋、記録するのに、とても助かりました。あー、ほんとに楽しい一日でした。(谷脇百恵)
◆みなさ〜ん、報告会おつかれさまでした。大成功おめでとうございます☆(当日大阪の方には参加できませんでしたが) 初めて普通?の東京地平線を体験できて念願叶った感じでした…シェルパ斉藤さんのお話、かなりよかったです。途中、うるっとくるとことかもありました。もっともっといろんな話しがききたい…そう想いました。二次会で坪井さんと隣の席になれて写真とかをいっぱい見せてもらえたので、なんか先取りって感じでちょっと嬉しかったです。あのレアなリカちゃん人形(オークションリスト参照)は誰の手に。気になるとこです…。次回また是非やりましょ〜 大阪地平線。(24日の報告会に参加した村松直美)
◆写真を整理しながら思ったこと。それは、たくさんの人が関わり報告会は成り立っているのだということでした。僕が報告会当日に、地平線力だと思ったことのいくつかは、北川さんの予備プロジェクターの持ち込みだったり、オークションの品につける札の手配だったり、そのほかあげたらきりありませんが、さりげなく言わずもがなで展開される配慮に地平線力を感じずにはいられませんでした。(多胡光純)
◆年に何度か、お願いしていますが、この地平線通信は、通信費で維持されています。年2000円です。毎月、紙、封筒、印刷費、切手代でそれだけかかります。きちんと支払ってくださる方もいますが、そうでない人もいます。長いこと払ってないので、と1万円を払われる方もいます。
◆4月から、地平線通信の発送先を少し整理する予定ですので、どうかよろしく。振込みは下記の郵便振替口座にお願いします。歴代の報告者など地平線会議がお世話になっている方々には今後も送りつづけるつもりです。(地平線会議世話人一同)
郵便振替 00100-5-115188
加入者名 地平線会議 (料金が70円かかります)
■地平線はみだし情報■ 『大雲海』予部の全5冊とも売り切れ!
大阪報告会の盛り上がりもあり、盛りだくさんの通信になりました。書いた人も、編集、校正作業に協力してくれた人もありがとう。
★先日、若手編集者の大西夏奈子さんが「地平線通信ってどんなふうにできるんですか?取材させてほしいです」と言ってきました。へえ、そんなことに興味あるの?って感じで聞きました。通信が出るまでについては、これまで何度も書いてきたし…。けれど、考えてみれば、確かに単純に発送までの流れを説明していただけで、作業の内幕など詳しいことはあまりふれたことがありません。
★「秘話・地平線通信制作の現場(と、すぐ悪乗りする)」なんていうのも読者には案外面白いかな、と思いました。大西さんのやる気に敬意を払って、そのうち冷静、客観的、編集長もいっさい注文をつけない約束で自由に書いてもらうことにします。
★そんなこともあって今回は大西さん、それに大阪報告会の原稿で頑張ってくれた中島菊代さんにあわただしく校正作業に協力してもらいました。横内さんにはいつものように原稿の打ち込みをやってもらいました。皆さん、ご苦労様でした。
★なお24日は、リヤカー旅の永瀬忠志さんの報告会の後、2次会で植村直己冒険賞受賞をお祝いするつもりです。是非参集されたし!
田吾作、地球二周目へ!!
「最初の旅から30年経って、たまたま4万キロ歩いちゃった。あ、地球一周したなあって。ここらで一度、原点に戻ってみるかなと思ったんです。」というのは、地平線会議ではおなじみのリヤカー男、永瀬忠志さん。'75年の日本縦断でリヤカー旅デビュー後、オーストラリア、アフリカ、韓国、東南アジア、南米などを舞台に総計1266日、約4万3千キロを歩いてきました。 第10回植村直己冒険賞を今年受賞。去年行った2度目の日本縦断では、9代目のリヤカー「田吾作ジュニアIII」を供に、30年前のルートをトレース。当時お世話になった方々と再会しながらの旅でした。車が増え、個人商店がコンビニになり、便利だけど出会いの機会は減りました。「でも、人情は変わらないですね」と永瀬さん。 今月は永瀬さんを大阪からお招きし、地球リヤカー旅と、日本再縦断リヤカー旅を軸にお話ししていただきます。 |
通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ 郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
|
|
|
|