2006年1月の地平線通信

■1月の地平線通信・314号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙年には「あけましておめでとう」と言うのが常識かも知れない。しかし私は自分がかかわった様々な問題が、何の解決への道筋が立たないまま、新しい年にリセットすることなどしたくもない。私自身のスマトラ沖地震の思いはまったく癒えていない。同じ時にほぼ同じ場所にいた人たちがおおぜい亡くなった。私まったく偶然に被害を受けなかったが、幸運だったといいたくはない。それは亡くなった人への冒涜になる。中越地震、尼崎のJR脱線事故、パキスタンでの地震、ハリケーンによる洪水、人災、天災様々だがそれはみな他人事ではない。最近孫を持ったから、感じることだが大人たちの子どもへの卑劣な犯罪。これらのことを他人事のように放って置いて、何がおめでたいのだ。

◆私たちは先への希望を頼りに生きていくことが過去に報いること、過去にこだわってはこの先への発展はないと考え、実践してきた。その結果経済は大いに発展してきた。しかしそれは目先の経済の範囲だけのことで、過去への反省のなさは、先の見えない未来を作り出してしまった。後ろ向きといわれても、いままでのことを考え続けようよ。さもないと子どもはまだひどい目にあうし、天災、人災で人命はまだ失われる。経済の発展は実はリストラされたいわゆる負け組、ニートになった若者のお陰なのだ。勝ち組とはしゃいでいる人たちは、負け組を作ったからその上に乗れたのだということをまったく理解していない。彼らが仕方なしに土俵をおりてくれたから、勝ち残れたのだ。勝ち組と称せられる人は、自分の力だと誤解しないでいただきたい。

◆ではどうすればこれらの諸問題の決着が付くのか。その解決法は地平線会議の発足の「地平線から79年」に宮本さんが書いている。ほぼこんな内容だったと思う。「“後進国”の民衆と伝統は先進国の若者を教育し直す力を持つ」。老境にはいったはずの向後さんは相変わらず「ミャンマーの人々にこそ今我々が学ぶことがある」と言って“後進地域”のイラワジ河口に通い続けている。若者は今の状況を打破する力を持っている。その若者を教育するのは、先進国で後進とされている人々でもある。他をムシし、自分たちだけで壁を作って成り上がった人だけが勝ち組として残っている。そんな人のノウハウを学んだところで、しょせんその枠の中でのし上がるだけである。若者はそんな社会を変える力を持っている。そんな若者を教化できるのは、宮本風に言えば後進国の民衆と伝統の力だ。私風に意訳(?)をすれば、日本の中でははみ出した人、失敗した人、メジャーでない人こそが、若者とか弱者を教化できるのだ。そんな人の方が、人の痛みがわかり、他を思いやる心をもっているからだ。

◆私は数年前から地平線の役割は終わったと考えて、もう止めたほうがいいと思っていた。一つは地平線会議がメジャーとか権威とか言われるようになってきたからだ。そんなことを望んで始めた会ではない。メジャーとか権威とか言われる組織からはまともな発信はできない。若者が学ばなければならないのは権威からではない。地平線会議が大所高所にたって若者の行く末を説いたって、ろくな結果は得られない。もういちど我々は後ろをふり返って、権威とかメジャーとかを取り去っていけば、逆に発言力を持つようになる。その時に新たな地平線会議の存在意義がでてくるだろう。

◆おめでとうは言わないが、私の新年の抱負は、他に対する想像力を高め、若者にお節介をやく役割を果たそうと考えている。(三輪主彦)

【訂正】

先月の通信のフロントで愛宕山の「890mの一等三角点を踏み」というくだり、「890mの三等三角点にさわり」と訂正します。三角点を愛する人は、けして踏まない、手でタッチするだけなのでした。(E)

先月の報告会から

犬を見れば世界が見える

滝野澤優子

2005.12.22 榎町地域センター

「旅好きなら犬好きのはず」「犬好きに悪人などいる訳がない」と信じて疑わない、我が地平線会議。戌年を目前にした12月の報告者は、滝野沢優子さん。ロシア〜アフリカ〜アジアをパートナーの荒木健一郎さんと2人で走ったバイク旅から、この年の4月、3年8ヵ月ぶりに帰国した。

◆報告会は、1枚の犬のスナップで始まった。15年前、タマンラセットのキャンプ場で2週間ちょっとを一緒に過ごしたマラドーナだ。トイレにもついて来るほど仲良くなり、愛犬をなくした直後の滝野沢さんにとって、大きな慰めとなった。彼女の『犬旅』の原点とも云える存在だったが、「滝野沢さんが出発して2日後に姿を消した」という報せを、後日、キャンプ場に居合せたあの河野兵市さん(注:01年5月北極海から生きて還らず)からもらったという。

◆『地平線犬倶楽部会長』も務める彼女の持論は、「犬を見れば世界がわかる」だ。ヨーロッパでは、電車にちゃんと犬料金が設定されており、ホテルも同伴で泊まれるのが普通だという。人と一緒に自由に旅行できる、つまりは、家族の一員としての当然の権利が犬にも認められている。愛犬と共にシャモニーのゲレンデを登る山スキー客、犬連れでバルセロナの路上にたむろするヨーロッパ各地からのヒッピーやパフォーマー、サイドカーにシェパードの混血犬を乗せて旅するドイツの夫婦‥。羨ましいばかりの光景が、次々と映し出される。

◆そのヨーロッパも、北に較べて、南の犬の飼い方はかなりいい加減だという。「見かねたドイツ人旅行者が、連れ帰ってシェルターに入れることもある」と滝野沢さん。ポンペイでは、ノラたちが世界遺産にマーキングしても誰も咎めず、そればかりかドッグフードや水まで用意されていた。人の気質と犬の気質は相関関係にあるのかも知れない。ノラ犬天国のアテネでは、オリンピックを控えた年に当局の手で処分されかけたものの、市民がシェルターを作って里親を探し、引き取り手のない犬はまた元の場所に戻したという。これを豊かさといわずして、何というのだろう。

◆アフリカでも沢山のワンちゃんが出迎えてくれた。オールドカイロでのストリートチルドレンとのツーショット、ゴミ箱を漁るノラたち。どの写真からも、ケープタウンの『犬の散歩屋さん』――別荘住まいの金持ちヨーロッパ人の飼い犬を歩かせる――の姿が奇異に感じられるほどの、自立した?彼らの暮らしぶりが窺える。

◆そしてアジア。滝野沢さんによると、インドの中でも、バラナシは犬を見るのに良いところだという。ガートの階段1段ずつに1頭が寝そべり、人と一緒に沐浴し、あるいはヨーグルト屋の前に陣取って、お行儀良くお裾分けを待っている。経済成長が進むにつれ、この国でも犬を飼う人たちが増えてきた。しかし同時に、ラダックで出会った光景も現実だった。路上に横たわるノラ犬の死骸。狂犬病対策で役所が撒いた毒エサの犠牲になり、ゴミ収集車が回収するまで放置されている。2週間のレーでの滞在中、少しでも犠牲を減らせないかと、滝野沢さんは自分でエサを配って廻った。それでも、その後、何頭もの死骸を見たという。南ヨーロッパでは優雅に自由を味わい、こちらでは厄介者として命を狙われる。同じノラでも、何という差なのだろう。

◆犬のペット化は中国でも著しい。雲南での滝野沢さんの観察によると、ここには3種類の犬がいるという。ペットとして可愛がられるのは、マルチーズやチン、チワワなど小型の犬だ。あとの「2種」とは、台車引きなどで働くシェパードのような大型犬、そして、いずれ食べられる運命にある雑種の中型犬だという。

◆各国ワンちゃん紳士録の最後は、10年前に会ったキューバのクロちゃんの紹介で終わった。さりげない登場だったけれど、マラドーナ同様、今も思い出の中に生き続けるアミーゴなのだろう。

◆今回のバイク旅の直前、愛犬ポコちゃんと一緒に、2人は四国八十八ヵ所の札所巡りに出た。長旅の安全祈願と、当分は会えないポコとのひと時を過ごすためだ。後半は、その2+1名のお遍路旅報告。

◆日本の犬後進国ぶりは、早くも、家からスタート地点までの移動で思い知らされた。ヨーロッパとは程遠い交通機関の対応、そして犬連れの宿泊を拒む、巡礼ルートの大半の宿。その半面、人々の好意にも助けられた。

◆1日の移動距離は、ポコのペースにあわせて20〜25キロ、頑張って30キロ。しかも、暑い日中はなるべく休む。途中から荷物もどんどん減らし、「ダンナの釣り道具も自炊道具もみな送り返した」という。

◆肉球保護の靴を履いて巡礼するポコの姿には、意外な効用もあった。それぞれの札所では、本堂まで?。??は犬を連れ込めない。そこで、「ポコです。頑張って歩いてます。応援してください」という札をつけて残していった。すると、結構カンパが集まった。合計で2万円くらい。ポコの食費に充てた残りは、ビールとなって2人の胃袋にも流れ込んだ。

◆5月も後半になると、高知はもう真夏並に暑い。黒毛のポコは、般若心経を書いた白手拭を背中に掛けてもらい、模範的な巡礼姿になっていた。そして、梅雨に突入した6月6日。「ポコの前に遍路犬はナシ!」と滝野沢さんが断言する、世界初のお遍路犬(多分)として、結願のこの日を雨合羽姿で迎えたのだった。

◆滝野沢さんの報告の後は、江本さんの指名で、会場の中村吉広さん、田中勝之さん、山本千夏さんたちから、チベット、八王子、モンゴルなどの犬事情が紹介された。最後にシゲさん(注:金井重さん)が立ち上がり、「世界中でペットが流行っている。しかも『私の犬は世界一』みたいな可愛がり方だ。これも、今の家庭生活が昔のようにフンワカしていない現れではないか」という鋭い分析を披露。犬を通して世界の家庭事情までをも看破する、地平線らしい締め括りとなった。

◆報告会前半は滝野沢さん夫妻と同じ目線で世界各地の犬たちを眺め、後半はすっかりポコになり切ってご主人サマの旅に付き合った2時間半。犬好きでなくとも幸せな報告会だった(と思う)。[記録係:みすたーX]


読むべし!

   「チベット語になった『坊ちゃん』」

金井 重

 06年はハーイ犬年です。313回地平線会議は、滝野沢さんが映像を駆使して「犬を見れば世界が見える」 そしておなじみ長野画伯のユニークな原画、各頁に犬がいる06年カレンダーが展示されて、会場に彩を添え、さらに、「犬眼レンズで旅する世界」(滝野沢優子12月3日出版)、「チベット語になった『坊ちゃん』」(中村吉広12月15日出版)の新刊書がひらづみされ、行動者の美術・文学・映像と地平線ならではの時空が出現しました。06年は漱石の「坊ちゃん」が誕生して100年です。地平線の坊ちゃん中村氏はチベットに赴任。明治の坊ちゃんに負けず劣らずの熱血漢、北京語と中央集権の官僚性の大波小波の中で、純情一路、チベット文化を愛し、学生たちに慕われ、チベット語と日本語の類似性に着目。ついに学生たちで「坊ちゃん」がチベット語に翻訳されるまでの物語。「チベット語になった『坊ちゃん』」の主人公です。その波乱万丈の物語は読者のハートを、しっかり握りしめる名著です。

◆チベットと言えば、学究的江本氏、行動者安東浩正さん、そして地平線にもいるミーハー。ダラムサラではダライ・ラマと握手し、チベットではアニ・ゴンパにステイするシゲ。各界各層にシンパが少なくありません。しかし花も実もある日本語教師。チベットの坊ちゃんは更にたいしたもの。なんと言っても彼の仏教知識と、アジア情勢の理解の深さが下地にあり、果敢な行動力がさわやかです。

◆明治の坊ちゃんの時代も、文明開化のゼニの世。坊ちゃんは、05年の流行語が「小泉劇場」「想定内」になんと言うでしょうね。そしてきっと平成の坊ちゃんに「君もやるねー」と声をかけるのではないでしょうか。06年の読初めは「チベット語になった『坊ちゃん』」をおすすめします。

坊ちゃんも百歳ぞなもし冬晴るる シゲ


地平線ポスト 特別版

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 2006年最初の地平線通信。日本列島が記録的な豪雪に見舞われている中、あちこちから、春の便りをもらった。オメデタイ話もいくつか。順不同で掲載する。(E)

午後八時の自画像

森田 靖郎  作家

 自分の年齢を三で割ると、簡単に持ち時間が分かるというのだ。誰が言い出したのか、私の年齢では午後八時頃になる。一日の休息の時間帯になるはずだ。焼酎を二、三杯飲み干したハッピーアワーだ。人生の寛ぎの時間帯に、こんな三つの言葉が浮かんできた。

「梅雪、春を争う」

 梅は春を告げるように実を膨らませ、雪は春の訪れに待ったをかけるように降りしきる。

「冬は終わった、次に譲れ」と言う梅と、「まだまだ私の季節だ」と意地を張る春の雪が、いま私の中で葛藤する。私の中の“雪”は、新しい時代の到来を告げる“梅”を覆い隠すように、二十数年ぶりにゴルフクラブを握り、古武道の寒稽古にも率先して飛び出していく。フォルクローレのライブステージにも、臆することなく立っている。そして、この冬もイワナの卵を孵化させるために凍る滝を登り源流まで担ぎ上げた。一年前、生サケを貪り食中毒した同じ川筋だ。

「玉石、倶(とも)に焚(た)く」

 小説『黄金夢』(「文芸ポスト」小学館)は一年の連載を終えた。性器を切り取られた猟奇的な殺人事件の幕開けの締めは、切なく哀しくそれでいて余情に耽るものにしたかった。北京オリンピックの裏で密かに進む、台湾侵攻計画。中国共産党は、オリンピックを諦めてでも台湾の独立を赦さない。事件の鍵は、解けないパスワードと天安門事件の残党。そして、謎の老華僑と美人編集長の不倫がからむ。

 氷は、融ける時が一番危ない。呪縛から解(ほど)かれカネと自由を手にした中国人ほど危険なものはない。

 殺人犯(読者が意外な人物)が選んだ究極の選択は、「玉石、倶に焚く。つまり、いいものも、悪いものも倶に滅びる」ことだった。中国の台湾侵攻も赦さない、台湾の独立も赦さない。ともに中華民族が滅びる道を避けるために、東シナ海に漕ぎ出した片道航路だった。そして犯人は、最後に言う。「復讐は立派に生きることではない。最高の復讐は復讐することだ」と。

「事実とは、真実の敵なり」

 小説『犯罪有理〜だから、日本人を殺した〜』(毎日新聞社)は、殺す側の中国人から日本社会の盲点を見た。殺す側に理があるのなら、殺される側が負った宿命とは何か。殺される側の日本人から見る戦後の日本社会を描くのが、次回作の『血の回廊〜俺たちの、罪なき罰〜』(仮題・東洋経済新報社)である。戦後、日本はアジアの先頭にいた。日本の札びらがアジアを食いモノにしたこともある。日本人の虚栄をアジア人が満たしてきた時期もあった。カネを得た日本人は「働き蜂」か「黄色い肥えたブタ」か。

 戦後、日本社会が積み残してきたアジアへの贖罪と、償いは、「罪なき罰」なのだろうか。

 戦争という事実、中国人の犯罪という事実、政凍経冷という事実……など、狭い専門的な分野でしか成立しない事実の数々が、背後にある普遍的な社会の真実を見誤らせているのではないか。私なりに、殺される側の日本人から事実と真実のスレ違いを問い掛けてみたい。ちょうど、いま焼酎を三杯飲み干したところで、部屋の古時計が三分遅れで午後八時を知らせた。寝るにはまだ早い。明日の寒稽古のためにもう一汗かくか。

山麓に暮らして富士山を再発見する日々

登山家 戸高 雅史

 年末には南アルプスの稜線から富士山とご来光を眺め、年が明けてそのふもとの浅間神社に新しい年のお参りに行ってきました。富士山のふもとで暮らすようになって5年半。いつの間にか、ますますこの地に惹きつけられている気がします。

◆ヒマラヤの高峰の宇宙的な世界に魅了され登り続けてきた15年。‘99年のチョモランマ峰でその流れが変化し、次第に水や緑がこころの琴線に響いてくるようになりました。この5年、北は北海道の日高山脈から南は屋久島まで国内の様々な自然やひとを訪ねてきました。新しい出会いにいつもわくわくしながら。

◆富士山との関わりも次第に変化してきています。ヒマラヤに登っている頃には高所トレーニングのために通いつめました。おそらく300回ほどを雪の時期を中心に登ってきたでしょうか。ヒマラヤを離れて富士のふもとで暮らすようになったとき、登るのではなく、富士山そのものとじっくりと向き合うことを楽しみ始めました。いいポイントで富士山のエネルギーと交感します。それだけでも喜びが溢れてきます。静けさの中にこみ上げてくるもの。それは山のもつ力強さだけでない、やわらかでやさしい響き。一昨年あたりから、富士山のやさしさがますます強くなってきたように感じています。

◆最近、再び富士山に登ることも多くなりました。「登る」ことは、山のエネルギーとの直接的なふれあい。私たちが心から自由になったとき、そこに生まれるよろこびは無限に広がってゆく。多くの方とそんな体験を共有できたらと願い、今まで敬遠していた最盛期の夏季も含めて積極的に入っています。子どもたちや青年、さらに各地のシャーマンといわれる方々とも…。いつでも富士山は慈しみに満ちた場として私たちを受け入れてくれます。山でお会いする方々もみんな思いは同じ。思いは響きあい、さらに豊かな空間を生み出してゆくように感じました。

◆富士山には山頂だけでなく、パワースポットともいえる場所がいたるところにあります。風穴や溶岩洞窟。深い森や溶岩の大岩。無数にある噴火口や尾根上の突き出たポイントなどなど。それらはきっと、富士山で行を重ねた先人たちも大切にしてきたであろうと思います。なかでも宝永噴火口の第3火口はやわらかなエネルギーに満たされているところ。彼らは頂を目指すのではなく、山中を逍遥し、長く入り込み、山そのものと一体化することを目指したといいます。折々の場所で瞑想し、祈り、山のエネルギーに包まれよろこびに満たされたことでしょう。私たちは芯から感動することで場そのものをさらに高めてゆく力さえも持っている。先人たちが真摯な思いで過ごしたそれらの場には、自然本来の力に加えて、目にはみえなくともそのときの清らかな波動が記憶され残っているのでしょう。

◆いま、僕は富士山の自然の中に歩みいり、自然やひととふれあうことの素晴らしさに魅了されています。富士山から発せられるやわらかな響きは実は私たちの中にもともとあるもの。自然とひとが、さらにひととひとがふれあい響きあうことでそれはますます豊かになってゆく。ひとりひとりの中にすでにあるその感覚が開かれてゆけば、きっとこれから大きなあたたかい流れを生み出してゆくのではないでしょうか。

◆富士山はいま、新たにそのような場としての役割を発揮し始めたように感じます。そこに僕も自分なりのスタンスで関わってゆけたら…もちろん、思いっきり楽しみながら。

<賀状から>

◆おめでとうございます。新年は8000日の年になります。
 「新年も 嬲(なぶ)られどうし 寒風に」(伊勢市・東浦奈良男 毎日登山家)

◆明けましておめでとうございます。
 2005年「北米五大湖から大西洋へ・セントローレンス河1200キロ」が終わりました。昨年、一昨年の二夏延べ35日、あちこちでお節介なほどに親切なカナディアンに助けられて漕ぎ進んだ幸せな旅でした。
 2006年 新たな舞台は「北海から地中海へ・欧州運河2000キロ」先ずは今夏、アムステルダムをスタート、パリを目指して行く予定です。初夢にならないように。(鎌倉市・吉岡嶺二)

◆新年おめでとうございます。現在ラサです。ラサではチベット語、チベット美術、チベット密教を勉強しています。春にはカシュガルに行きます。(ラサ・桑木勝守)

☆アラスカ発 吉川謙二 最新報告☆

 地平線会議の仲間には、思いっきりユニークな発想と果敢な行動力を備えている者が多いが、アラスカ在住の気鋭の科学者、吉川謙二は、その最たるひとりだ。雪のサンプル採取など学術調査を目的に仲間2人とそれぞれ150キロの橇を曳いて無補給で67日をかけ南極点まで歩き通したのが93年1月17日。その準備の様子は「第155回地平線報告会(92年9月)」で、探検行の成果については「第171回地平線報告会(94年1月)」で話してもらった。
カロリーいっぱいの特製ビスケットやトイレ浄化システムの工夫など独特な「吉川流南極徒歩行」の話は実に面白かったが、私が度肝を抜かれたのは次の「Hoki Mai号の冒険」の発想だった。長さ12m、重さ18トンの2本マストの中古の鉄製ヨットを買い取り「ホキマイ(ニュージーランドのマオリ族の言葉で「帰還」の意味)」と名づけ、このヨットで北極海を一周、海底の永久凍土の分布を調べよう、というのである。
吉川は当時30才、永久凍土を研究テーマとする北大大学院生で、地球環境を考える上で重要な北極海の環境調査のほかに古代モンゴロイドの移動の時期や状況を明らかにしたい、との情熱を持っていた。水深50mの大陸棚の永久凍土層を調査し、さらにかって陸地だったベーリング海峡の地形や遺跡を発見することにより、それが可能になる、と考えたのだ。その目的のためにヨットはコンピューター、電探装置、ソーラーパネル、風力発電装置、魚探ソナーなどハイテク装備が必須だった。宮崎県日南市の漁港で「ホキマイ」が、吉川たちによって改造される現場を訪ねたことがあるが、小さなヨットでよくぞやるものだ、とただただ驚嘆した。(94年3月27日の読売新聞社会面トップ記事に吉川たちの冒険は大きく紹介された)。
吉川以下4人のメンバーを乗せた「ホキマイ号」は94年6月2日、苫小牧港を出航、7月初めにはアラスカのノームに到達、9月にはベーリング海峡を抜けてバローに達した。しかし、ここでヨットは氷漬けとなり、越冬する吉川を残して他のメンバーは引き上げた。以後、吉川謙二はアラスカ大学の研究者となり、極地の住民となった。以下は2006年の正月、久々に地平線会議に寄せた吉川の近況である。かねて言っていた「火星の永久凍土探査」とも取り組んでいるようだ。長いが、全文を掲載する。(江本嘉伸)

江本様 新年おめでとうございます。そして、お久しぶりです。ご活躍の様子は、日本山岳会青年部などを通じてこちらにも届いております。誠に励まされます。さて、寒波や大雪で厳しい冬に見舞われている日本の様子、アラスカにも伝わっていますが、こちらは、例年通り、暗い冬です。“暗い”というのは、世界を取り巻く事件のこともありますが、ここでは主に、「極夜」のことです。冬至を過ぎ、日照時間も4時間近くまでになったここフェアバンクスも、あと2か月半もすれば、東京と同じくらいの昼の長さになります。昨日は、新しい氷を掘るドリルのテストに、近くの川まで行ってきましたが、80cmほどの結氷した河氷の上に5cmはあろうかというような大きな氷の結晶が一面に花を咲かせ、桜吹雪を思い出させました。

◆アラスカに移って12年目に入りました。妻子とも元気で仲良くやっています。上の娘は小学生になり、弁当やらスクールバスやらで学校に振り回されています。親と一緒にやるように作られた、宿題をいっぱい出されるのがたまりません。また、今の時期風は弱いのですが、気温が氷点下20℃の日が多く、こどものドレスアップも一苦労です。今年は今のところ雪も少なく、新聞ではスキーやらスノーモビルで遊べないと不満の声が出ていますが、私にとってはここ10年来のエキサイティングな冬になりそうです。くわしくは後ほど触れることにします。

◆さて私はというと、アラスカ大学に勤めだして9年目になり、大分雑用を負担なくこなせるようになってきたかな?といったとこでしょうか。今持っている学生はMS一人、PhD一人です。共に女学生でなかなか男学生が来ないのが最近の傾向です。今の私の仕事は、研究中心のリサーチポジションです。自分の好きなことをやれるのは大変恵まれていますが、“自由”とは常に自分で生きていかなくてはならない義務を伴うように、私のサラリーも自分で取ってこなくてはいけません。

◆実際には大学から3か月分のサラリーが学生指導や学校奉仕(授業とか)として出て、残りの9ヶ月分は自前です。普通のプロジェクトは1ヶ月から3か月分の給料を要求できるので、普通このポジションの人間は3-6つのプロジェクトを常に持っていないと、首が絞まります。普通プロポーザルはNSF(注:National Science Foundation)やNASAに出すのですが、まあ成功率は20%以下です。よってほとんど毎月何かしらのプロポーザルを書いていることになります。数年前の雑誌サイエンスにアメリカでもっともストレスの多い職種としてわれわれのリサーチポジションがNo1でした。この仕事をはじめたとき、私は1年も持たないと思っていましたが、どうにかまだ生きているといったとこです。前置きが、少々長くなりましたが、私の最近のプロジェクトや研究計画などをいくつか紹介します。

[バローボーリングプロジェクト]

 これは11年前にヨット「ホキマイ」で出かけたのと同様な研究で、バローの陸、海、湖でボーリングをして、温度計を設置するというものです。バローはアラスカでももっとも古くから研究施設(NARL)が作られたところで、当時の所長(81歳、今も元気でアンカレッジに住んでいる)が1948年から52年にかけて多くのボーリングをしていました。まずは彼の記憶を元に昔のボーリング後を探し当てて、温水ジェットを穴を掃除して温度計を入れなおすか、近くに別の穴を開けるかします。陸域での仕事はひと段落しました。海底はほぼ見つからないですが、湖底はまだ希望を捨てていません。この一番の目的は、50年前と今の地温が同じかどうか?温暖化しているか?というものです。また最近のコンピューターモデルの50年前の推定と実測がどのくらい離れているか見るためです。まあ、このプロジェクトの一番の醍醐味は、この一体は高濃度の塩水が分布して、−10度Cの凍土でもネロネロ状態で存在していることです。そんなところでボーリングをしていると突然、海水の100倍以上の塩水が噴水のように吹き出てきます。普通ボーリングは雪のある時期にやるので、スノーモビルも人もー25dC以下の強風のもとずぶヌレになります。

[スワードサーモカルストプロジェクト]

 これはアラスカの西端ベーリング海峡に面したスワード半島の永久凍土融解モニタリングプロジェクトです。この地域は、ちょうど永久凍土地帯の南限なので気候変動を敏感に反映されると考えています。そこで、100年前のゴールドラッシュの写真や50年前のUSGSの写真を元に現在の陸水の変化を見るというものです。永久凍土は普通凍っていると水を通しませんが、解けると排水がよくなるためです。まあここでもメインの仕事は、ボーリングです。ここでのボーリングはドライスーツを着て、夏に楽しくやりました。

[ブルックス山脈地下水変化プロジェクト]

 これはNSFのシベリアからカナダにかけて行われている大きなプロジェクトで、私はブルックス山脈地下水変化を担当しています。地域が半端ではなく大きなため、春、夏にはヘリコプターを使いまくり、いったり来たりします。また楽しかったのが、技官と2人でやったスノーモビルでのトラバースです。ブルックス山脈の北斜面には多くの泉があります。この泉が気候変動でどう変わるか?という質問に答えるべく、水のサンプリングをしなくてはいけません。春先泉以外はすべて凍りつくので、泉を見つけやすく、コンタミネーション(汚染)も少ないのでこの時期は絶好です。1000km以上に及ぶスノーマシントリップは94年のバロー−ノーム以来でしたが、途中敗退しひき返しました。当初は深雪ながら順調でしたが、水量が多い(府中多摩川の10倍ぐらい)とこでわたるのに失敗して、薄氷を破り、スノーモビル、そり共に沈没してしまったのです。それからは、−20℃の中、すべての回収に疲れ果て、渡り場所も見つからず、敗退です。この類の仕事は雪が少なく湖沼河川が抜群に凍っていると楽なのです。今年は10年ぶりにこうなりそうです。

 ヘリで飛んでいて、面白いことに気がつきました。ブルックス山脈にかなりの量の石灰岩洞窟があると思われます。地下水のほとんどはそこから来ている!また最終氷期の氷河は思ったほど拡大しなかった(まだ証拠がないが)。とするとユーコンのブルーケイブで見つかった最古のモンゴロイドの遺跡に匹敵するか?より古い遺跡がどこかに眠っている可能性が高いです。私は今でもモンゴロイドが最終氷期以後アメリカにわたったのではなく、interstadia(亜間氷期2.5−3万年前)にはもうやってきていたのではないかと信じています。そうでないとフエゴ島までそう簡単に到達できないと、思うのです。

[火星永久凍土プロジェクト]

 これはNASAのこの先10年の火星探査で地下構造を推定するプロジェクトです。火星の多くの地域には永久凍土があり、地球でも見られるような周氷河地形が確認されています。ただ、その規模とかパターンは実際に周氷河地形とはかけ離れたものも多く、実際には疑問を多いのです。そこで、何とか数値モデル化して確認しようというものでした。この仕事の楽しいとこは、処理しきれないほどの情報量があること、ただ、机に座っているので今いちですね。

 火星レーダー開発:2007年のスカウト計画で新たなローバーを火星に送ります。それには地下構造を調べるためレーダーを搭載します。このプロジェクトはJPLと共にプロトタイプのレーダーをアラスカの永久凍土の上で実験するものです。火星に似たようないろいろな条件を合わせて、3年間やりましたが、うまく行ったのは数えるほどです。制限された電力で常識以上の深度まで探査するのは、そう簡単にはいきませんでした。

 あと、現在結果待ちのプロポーザルの中に江本さんも興味ありそうなのが2つあります。

[マッキンリーボーリングプロジェクト]

 ひとつは、大蔵さん(注:大蔵喜福。日本山岳会員、長年マッキンリーの気象観測を実行している)の気象ステーション存続の費用とコアサンプリングプロジェクトです。最近のアラスカの平均気温の上昇は、主に冬季温度が要因です。フェアバンクスでいつ冬期気温が上昇するか見ていると、決まってジェットストリーム(偏西風)が波動して、アラスカまで吹き込んだときです。私の結論では、最近は偏西風がより多くアラスカまでやってきているというものです。普通フェアバンクスとマッキンリーの気温は当然マッチしないのですが、大蔵さんのデーターを見ると、偏西風の吹き込みは同期しています。マッキンリーは高いため偏西風の直接観測にはもってこいです。この時の雪には普段まず見慣れない重い酸素同位体が大蔵さんが持って帰った雪から確認されました。そんなわけで、マッキンリーの高いところ(4候補地)でコアサンプリングをして、過去にどのくらい偏西風が波動して、アラスカまで吹き込んだか調べるプロジェクトです。

[プリンスウイリアムサウンドプロジェクト]

 今も「ホキマイ」は健在でバルディースの港にあります。このプロジェクトはホキマイを使い、フィヨルドの塩分・水温構造を3次元で調べるものです。プリンスウイリアムサウンドは、周囲は氷河を囲まれ、また年降水量も多いため淡水と塩水の境がかなり深くなります。この状況はフィヨルド全体の生態系に密接に関係します。このプロジェクトは、今後温暖化が加速した場合、氷河や河川の淡水がどの程度、生態系に変化がおきるかの推定です。

 思いつくまま、近況を書いてみました。この研究生活の問題といえば、何かひとつのことに集中できないことでしょうか。まあ、家族があるといずれにせよ、昔のようには行きませんね。それではまた。

サウジの初日の出

シュベール(サウジアラビア)にて 光菅 修

 新年明けましておめでとうございます。サウジアラビアで働きはじめて1ヶ月半が経ちました。ここジュベールは最近寒い朝が続いています。元日の外気温は7度でした。日本に比べれば暖かいのでしょうが、今までの最低気温でした。

◆日本は太平洋上の低気圧のために初日の出の見ることのできない地域が多かったようですが、こちらはいつものように快晴で、現場の様子を確認するために6時半に事務所を出ると、強烈なオレンジ色の朝日が僕を出迎えてくれました。どの国で見たとしても、初日の出は良いものですね。

◆話は変わりますが、先日宿舎から街の中心まで歩いてみました。片道約1時間半の距離です。とは言っても、往路、復路ともに一部の区間を通りがかりの車に乗せてもらいました。幹線道路の脇の道をてくてく歩いたのですが、道路の補修工事をしているインド人の人たち以外街の中心まで誰にもすれ違いませんでした。街の中心にはマクドナルドが一軒あるのですが、日本では大賑わいのマクドナルドの中にも昼時なのに誰もいませんでした。一体サウジアラビアの人たちはどこにいるのでしょうか?この謎を解明するためにもう少しこの街をふらふらする必要がありそうです。ちなみにこの国のマクドナルドの営業時間は金曜日以外は午前10時から午後2時まで、そして金曜日(休日)は昼の12時半から午後2時までとなっています。

◆さて、サウジ生活も残り3ヶ月半を切りました。なるべく早く帰国してアルコールの入ったビールを飲みながら「北京」の餃子に舌鼓を打ちたいものです。それでは、今年もよろしくお願いします。

 追伸:先日、藤原さんに勧めていただいたブログをはじめてみました。サウジアラビアの日々を少しずつ書き込んでいます。よかったら覗いてみてください。以下がブログのURLです。

http://plaza.rakuten.co.jp/osa69/

(1月3日)

人力車友之会30周年豪雪バス立ち往生

坪井 伸吾

 カーテンが閉じられた高速夜行バスの暗い車内。パーキングエリアだろうか、フロントガラスごしに停止しているトラックの荷台が見える。次に気づいたときには、車内は薄明るくなっていた。またバスは止まっている。そこにアナウンスが入った。「ただいまバスは米原(琵琶湖の北東側)雪のため昨日の夜11時より止まっています」「ええっ!」あちこちで悲鳴が上がった。なんとバスは名神高速の上で一晩中止まっていたらしい。車外に出てみると、なるほどこれは豪雪だ。慌てて家に電話しようとしたら、こんなときに限ってケータイは電池ぎれ。状況が知りたいのに電波状態が悪く、ラジオもテレビもまともに入らない。これって遭難の一種じゃないの? 

◆そのままさらに5時間が過ぎ、昼ごろにやっと一瞬だけバスは動いた。すでに止まってから13時間経過。そろそろ耐えきれなくなった誰かがパニックを起こし、運転手に噛みつくんじゃないか、と心配になってきたが、意外なほど若者たちはクール。それどころか彼らの間には、被害者同士の変な連帯意識まで生まれてきているように見える。そこから2キロを4時間かけて進んだところで、ついに今日中に東京に着くのは無理と運転手が宣言。乗客は最寄りの米原駅で電車に乗りかえとなる。しかしその駅ですら、いつ到着するか分からない。仕方なしにわれわれは雪の高速を歩き、駅を目指すはめに。

◆バスを降りて驚いた。雪は路肩では太ももの深さ、車道側は車に踏み潰されて氷水。スニーカーもズボンもあっという間にびしょぬれで冷たさで頭が痛くなる。こんな事態は誰も予想してなかったので、誰もが普段着のままだ。駅までは3キロほどだったのだが、雪に慣れていない人間には、かなり厳しい道のりだった。感心したのは隣の席の若者。彼はこの飲まず、食わずの16時間を経験しながらも、米原駅でさらに青春18切符を買って東京を目指した。

◆さて長い前ぶりになったが、本題はここから。僕が京都に行ったのは同志社大学人力車友の会30周年記念パーティに参加するためだった。パーティは初代から現役生までの車夫が集まる盛大なものだが、車夫といっても所詮は大学のサークルなので、ノリは極めて軽い。23年前僕は「TVに出してやる」と勧誘されて、このサークルに入った。それはウソではなく、この変なサークルはTV、雑誌によく登場しており、新入生にもその機会はあった。芸人集団であったこのサークルでは面白いヤツが一番エラく、人力車を引くことよりも、いかにお客さんに楽しんでもらうかのほうが重要で、そのために常に新しい芸を研究開発していた。そんなお笑い集団の方向性を変えたのが、3年前に報告会で話させてもらった人力車による東海道53次の走破だった。東京日本橋―京都三条大橋間550キロを15日間で行く、というイベントは、お笑いの人力車に体育会系要素を加えた軟派にして硬派なノリ。これは、まさに僕自身のノリだと思っている。バイク世界一周、アマゾン川イカダ下り、そして昨年夏の北米横断ランもその延長線上にある。だから困ったことに、どこか真剣さに欠けるのだ。(1月3日)

エミコさんとスティーブ、只今、インドをゆっくり旅!!

 インドより、新年、あけましておめでとうございます。寝(込み)正月となってしまいましたが、順調にすすんでおります。旅の様子は、こちらのブログでぜひご覧ください。

http://www.yaesu-net.co.jp/emiko/

みなさんにとって、地球にとって良い一年になりますように♪今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。エミコ&スティーブ・シール(^_^)(^v^)/8(1月9日)

★編集長の補足:ガンから再起、世界一周を完結するために1年前、パキスタンからインドまで走りぬいたエミコさんたちは、05年12月17日、日本を出発、インドからネパールに向けての自転車旅を再開した。出発直前、電話をくれたエミコさん「行ってきまーす、連絡できれば現地から新年のご挨拶入れまーす」と話していたが、予告通り、日本語でメールを送ってくれた。新年は、発熱、悪寒、関節の痛みに加え、激しい下痢に悩まされ、しばしダウンしたらしいが、その後快復した模様。ところで、出発直前の電話でエミコさんは「実は、シェルパ斉藤さんの基金を頂いたんです。とっても嬉しかった」と打ち明けた。バックパッカー旅、犬連れ旅、トイレ考察旅などで知られるシェルパ斉藤(斉藤政喜)さんは、つい最近「チーム・シェルパ」という名のカフェを山梨県高根町の自宅わきにオープンしたが、その店で「シェルパファンド(ゴールドラベル)」というささやかな基金を始めた。趣旨は「シェルパ斉藤のユーズドアイテムや使わなかったもの、もらいものなどを安く買ってもらい、そのお金は全額シェルパ基金として、ボランティア支援資金や旅人支援資金にする」というもので、昨年12月、そのお金の第1号(数万円)が、エミコ&スティーブに贈られたわけである。よかったね、エミコさん。

7匹のヤギとわんこのいる暮らしへ!

浜比嘉島(沖縄)にて 杉田 晴美

 江本さん、あけましておめでとうございます。1月1日、ここ沖縄の浜比嘉(はまひが)島に再びやって来ました。今回は一週間の滞在ですが、いよいよ今月23日から、本格的にこの島に移り住みます。今日はお役所に行って転入届を出してきました。この島に生まれ育った人と、一緒に暮らすことに決めたのです。

◆実はこの島に初めて来たのは去年の5月。知人が主催するシーカヤックツアーに参加したのがきっかけでした。沖縄本島と橋で結ばれているのにもかかわらず、赤瓦の家とフクギ並木が残るのんびりしたしずかな所で、海がきれいで、そのとき島の人やツアーの人たちと、まだつたない三線(さんしん)を弾いて「毛遊(もーあし)び」したのが縁で、再び8月の盆送り「エイサー踊り」に三線で地謡(じかた)をやらせてもらい、ここの暮らし、ここの人、ここのすべてがすっかり気に入ってしまい、ここに来ることを決めてしまったのでした。「ここだー!」と思ってしまったのでした。

◆思えばこの年になるまで自由きままに好きなことをして流れにまかせるままあっちにひっかかりこっちにひっかかりやってきましたが、再び新しい流れに乗ってこの島に流れついたような気がしています。ここが安住の地になるかどうかはやってみなければわかりませんが、とりあえずは自分の直感を信じて暮らしてみよう、この島になじんで行けたら、と思っています。

◆何人かの人に相談したときに「ここはコミュニティを何より大事にするから、東京暮らしのようなプライベートを求めてはやっていけないよ」と言われましたが、本当に、ここにいると朝から知らない人がやってきて朝ごはん食べて行ったり、ひっきりなしに島の人が来て何か頼んで行ったり、お茶飲んで行ったり、泡盛出して勝手に飲んでったり(このあいだなんか、夕方帰ってきたら島の人が勝手にうちの庭で泡盛飲んですっかりもりあがってました!)と、すっごい人づきあいの濃い世界だなァ、と思う今日この頃です。でもけっこうなじめそうな気がしてます。しいていえば、言葉がわからないのが一番の不安材料です。「まだネパール語の方が何となくわかるよなあ」と思うくらい、島の人同士の会話がまったくわかりません。まるで外国にいるようです。これからどうなるかなァー。でも不安よりもわくわくする気持ちが強いのはまだ何もわかっていないからでしょうね。

◆ところで一緒になる人は、まったく野趣あふれる人でして、まずこの家にはガスが通ってないので(島の人はみんなガス使ってます)、炊事はキャンプ用のガソリンコンロか薪です。(もちろん外で)朝起きたら、まずは火おこしをして、ゆっくりコーヒーわかして飲んで10時近くまでのんびり。あ、でも今の季節は朝6時半ごろ浜を歩いているとイカとか魚が仮死状態で流れついていることが多いので、それらを拾いに行って、朝食のおかずにします。

◆ゆっくり朝ごはんたべたら、車で30分くらいの豆腐工場に行って賞味期限切れの豆腐やおからをただでもらって来ます。これは飼っているアヒルや鶏やヤギのエサです。まだ食べられそうな豆腐は人間のエサ、食糧にもさせて頂きます。刈った草を細かくして、おからと混ぜて、半放し飼いの家畜たちにやります。ヤギは7頭いて、いつもどこかに草をたべに行ってますが、おからを積んだジムニーがやって来るとどこからか帰ってきて私たちにすりよってきます。まったくかわいい奴らです。

◆そうそうもう一匹、忘れていました!琉球犬のゴンです。2才半くらいだそうで、黒と茶のしまもよう。琉球犬は天然記念物になっているそうですが、なるほどかっこいいわんこです。どういうわけか男の人が来ると必ず吠えて、女の人にはすぐになつきます。毎朝、海中道路を全速力で散歩させるというけっこう体育会系のしつけをされているかわいいやつです。

◆それでは、また定期的にここの暮らしをレポートしますのでおたのしみにしていて下さい。2006年1月4日 杉田晴美 (浜比嘉島で月をながめながら泡盛なめてます)。

豪雪の中から新生活のご挨拶

奥会津伊南村から 丸山 富美

豪雪の奥会津、伊南村からあけましておめでとうございます。私はこの土地で6度目の冬を迎えていますが、今年のように降積もる『雪』は初めて…それもそのはず、村の80歳近くの長老に聴いても「12月にこんなに降ったのは…?」と首をかしげる程なんです。この冬、日本海側の豪雪はテレビや新聞でもお馴染みになっていますが画面で見る以上に、雪と向かい合って暮らしていくのは大変だということをしみじみ実感しています。(ちなみに家の前にも除雪車で積み上げられた2メートル以上の白い壁、村の中は雪の壁で迷路のようになっています)

◆さて、奥会津に移住して6年目、(途中、1年余り栃木でも働きましたが)伊南村に縁があったのか、村の人と縁があったのか、この土地に住所も籍も移すことになりました。昨年の夏に入籍し、伊南で大工として働き、生きていた方と一緒に暮らしています。住処の真ん前は伊南川が流れ、家は20年以上も前から『鮎釣り』を主に民宿を営んでいます。春は新緑、山菜、夏は鮎釣り、秋は紅葉、キノコ…彩のある季節が流れています。そして、冬…1年の3分の1は白い世界に包まれますが、スキーの好きな方には格好のゲレンデもあります。地元からは「何にもない場所なんだよな〜」という言葉も耳にしますが、都会から来ると『何でもある場所』に見えるかもしれません…。ぜひ、一度ご来訪下さい。一緒に村の宝探しをしませんか?これからが冬本番、雪国の暮らし…心新たに乗り越えていきたいと思います。(1月6日・富美=苗字は酒井となりました。それからこの原稿は、帰省先の徳島で太陽の光をいっぱい浴びながら書きました)

白い服で新年を祝う

レシフェ(ブラジル) 日本語教師  後田 聡子 

 日本から、奇特な友人2名が、たった5日間のためにレシフェまで来てくれたので、大晦日の夜、一緒にレシフェ日本文化協会の会長さん宅のパーティに行きました。もちろん白い服を着て。新年を迎えるとき、白い服を着るのはブラジルの常識らしいです。あらゆる洋服屋が、白に支配された数週間でした。パーティは「洗濯洗剤のCM撮影現場」のように輝く白に溢れ、かなり爽やかなムード。何しろ常夏でビーチリゾートのレシフェ、みんな白が映える日焼けぶりです。しかも今は夏休みですから、いつもより白い服が引き立ちます。しかし、持ち寄り料理に目をやれば、尾頭付きの鯛に、昆布締め、稲荷ずし、きんぴらごぼう、とかなり日本度が高かった。私もなすとひき肉のピリ辛味噌炒めを提供しましたが、それより、あの春雨サラダを!ひじきのおこわを!と力の続く限り食べてしまいました。デザートも、ケーキやフルーツの横に、一口饅頭が置かれ、大人気でした。お年寄りがカラオケで演歌に興じる横で、日本語とポルトガル語に笑い声が入り混じり、にぎやかに夜が更けていきました。

◆パーティ会場は海が目の前という高層マンションで、シャンパングラスを片手に、そこかしこに上がる花火を見ているうちに年が明けました。次から次へと新年のキスを交わしながら、「あ、来年のお正月も、ここでこんなふうに迎えるのか」と思いました。私はJICA日系社会青年ボランティアで、日本語教師としての任期は2年です。昨年7月に赴任し、あっという間に半年が過ぎ、あと1年半しかないと思っていましたが、あと1年してもレシフェですよ。ねえ、どうですか。来年も、同じように花火を見て、「Feliz ano novo! 明けましておめでとう」というチャンポンな新年の挨拶を交わすのでしょう。たぶん同じ白いスカートをはいて。

◆なにしろ、大学を卒業して少しは真面目に勤めたと胸を張って言えますが、その後はゆるゆるとバックパッカーライフに陥っておりました。ただ、遠いところを見てみたい。そして、行きたいと思い続けるだけで人生が終わってしまうのはかなりイヤ、ということで、中南米やら東アフリカやら、思いきって行きました。圧倒的な景色とインパクトのある人々と出会い、旅前と旅後には何かしら変化があったと思います。今、レシフェに住み、ここでの生活が、どんなふうに自分に影響を及ぼすのか、楽しみです。

◆レシフェのカーニバルは結構有名です。サンバではなく、フレーボやマラカトゥなどという、この土地の音楽、踊りです。ここの人たちは、この音を聞いたら、踊りださずにはいられない!というかんじ。元旦、日本からの友だちを、バスで30分ほどの世界遺産の街オリンダへ案内しました。夜、オリンダの広場でフレーボとマラカトゥのショーがありました。全くの偶然で見ることが出来たのですが、オレンジ色の光の中、太鼓の音が響き渡り、力強くクールなダンスが、ガンガン心を打ちました。最前列で地面に座り込んだまま目を離せず、周りのブラジル人がノリノリでリズムを取っているのにつられ、勝手に体が揺れました。こういう時、ああこの土地の人間になりたい、この人たちと同じ気持ちで、同じ時を過ごしたい、と思います。

◆1年後、喜んで白いスカートをはいて、みんなと笑顔で新年のキスを交わせるように、この土地に染まり、日本語学校のために尽くします。しがないバックパッカーが運良く、本当に運良く、レシフェに巡り会いました。なんて幸せな人生でしょう!ビバ!みなさんも幸運に恵まれた1年をお過ごし下さい。 (1月4日)


地平線はみ出し情報

■2月25日(土)に第2回地平線会議・大阪報告会を予定。

 アメリカ横断ランをやった坪井伸吾さん、木のおもちゃ作家の前田歩未さんをメインの報告者に、できれば「地平線西日本集結」としたい。詳細は次号で。


「地平線カレンダー2006」、申し込み受け付け中です!

アジア各地の音の風景を訪ねて──全7枚組で頒布価格500円

●恒例の「地平線カレンダー」の2006年版が完成しました。今年のテーマは、 アジア各地の楽器と楽人と音の風景。画面のどこかにいる犬たちが一緒に、妙 なる調べに耳を傾けてくれます。題して「亜州楽想犬聞録」。

●昨年と同じA5判(横21cm・縦14.8cm)。2ヵ月が1枚のカレンダーになっていて、それに表紙を加えた全7枚組です。頒布価格は、1部あたり500円。送料は2部まで140円、3部まで200円、7部まで390円(それ以上はご相談ください)。

●お申し込みは葉書などに氏名(ふりがな)、送付先住所、郵便番号、電話番号、申し込み部数を明記のうえ、「地平線カレンダー2006係:〒167-0052 東京都杉並区南荻窪2-22-14-201 丸山純方」へ。地平線のホームページにも申し込み用紙を準備しています。

●お支払いは郵便振替で。「00120-1-730508」/「地平線会議・プロダクトハウス」。混乱を避けるため、まず葉書やメールで申し込んでください。代金のお支払いは、カレンダー到着後でけっこうです。

●1月の地平線報告会でも販売しますが、お早めにどうぞ!


[編集長から]

 2006年最初の地平線通信を送ります。各地から原稿を寄せてくれた皆さんにありがとう、そして今回も地味な通信の制作と発送の仕事に汗をかいてくれた世話人の皆さんにお礼を言います。

◆何度か書いたことですが、通信をつくるには、多くの世話人の力が結集されます。書き手を決め原稿を依頼するのは編集長の私ですが、フロントの題字と報告会のイラストは勿論長野亮之介画伯、原稿とイラストをこのようにきれいにおさめるのは、最近はもっぱら森井祐介さんにお願いしています。手書きの原稿を打ち込んでくれる編集協力として横内宏美さん、毎月変更のある住所録を管理更新しているのは武田力さん、そして、用紙と封筒の買い付け、印刷と折りの大事な仕事は三輪主彦さんが長年引き受けてくれています。

◆発送の際は、関根皓博さん、藤原和枝さん、李容林さん、村田忠彦さん以下、時間の都合がついた有志世話人が駆けつけてくれ(ありがたいことに全員の名をあげるスペースがありません。毎号の発送請負人リスト参照)、部数を数えて郵便局まで運び、その月の「発送作業」が一応終了します。もうひとつの大事な仕事として最後に、通信の内容をHPにアップする作業がありますが、これは丸山純さんがもっぱらやってくれています。

◆このほか報告会当日は、会場整備と片付け、受け付け、資料や本の販売など、雑用がいろいろあります。今更、と言われるかもしれないけれど、地平線会議の27年は、世話人のこつこつ作業の積み重ねでもある、と新年に当たって付記しておきます。皆さん、ことしもよろしく。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

近いけど遠いけど近い東アジア走破行!

  • 1月27日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「韓国では、ほとんどの岬に名前がないんだよ。中国もそう。日本じゃ名前のない岬なんて珍しいのに!」というのはバイクジャーナリストの賀曽利隆さん。

世界中をバイクで駆け回ってきましたが、意外やアジアが盲点だったのです。政治的にむつかしく、バイクの走行許可がとれなかったり、輸送が面倒だったり。近くて遠いアジア。でも行ってみれば近い文化を感じ、違いにも様々な思いが広がります。

今月は冒険王カソリさんをお招きし、アジアのバイク旅事情を語って頂きます。

'00年の「サハリン縦断」からスタートし、同年の「韓国一周」。「ソウル〜北朝鮮('01)」「ユーラシア横断('02)」「中国、北朝鮮国境('03)」「旧満州走破('04)」「朝国縦断('05)」そして今年予定の「中国横断」。来年の「北朝鮮一周計画」と盛りだくさん。乞御期待!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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