2005年11月の地平線通信

■11月の地平線通信・312号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙道沿いの舗装道路は、右手に川の流れ、左手は濃い木々におおわれた急な斜面になっている。突然、道路際に面している頭上の木々が激しく揺れだした。異常な揺れ方で何が起きたのか、一瞬足が止まった。すると左手にドスン、と落ちてきたものがいる。サルだった。おいおい、どうしたんだよ、一体!?と呼びかける私にびっくりしたか、サルは猛烈な勢いでコンクリート壁を攀じ登り、木の枝にしがみつくようにして消えていった。

◆その後も木々はガサガサ揺れつづけている。どうやらひと群れが何か騒ぎを起こしているらしい。「おーい、大丈夫かあ?何があったんだよう?」とお節介にも甲高い声を出して怒鳴ってみる。ややあって驚いたことに赤い顔の母猿が姿をあらわした。腕には赤ちゃん猿がおっきな目をあけてこちらを見ている。「何か言いましたか?」勿論、しゃべったわけではないが、そんな感じの表情だ。私はびっくりした。猿が言葉をわかったようだったのだ。

◆後方の枝をもう1、2匹、小猿がキーキー鳴きながら、逃げて行く姿が見える。赤ちゃんの取り合いか何か家庭的あるいは町内的な騒ぎが起きたのであろう。「わかった、わかった、帰ってもいいよ。何もしないから」と、こちらは声に出した。母猿はそれなら、という風情で赤ちゃん猿を抱いて樹間に消えた。10月22日午後、広島県の山あいの道を走っている時の出来事である。

◆日頃から、ダメもとでも動物たちとの会話を試みることが多い。その際、できるだけ警戒心をおこさせないよう「優しく話しかける」ことを第一としている。牧場で草を食む馬、森で出会う鹿などが相手となるが、仮に山中でクマと遭遇したとして、怖いのは先方であろうから、やはりできるだけ優しく声をかけてみよう、と思っている。やられる時は、まあ運命なんだし。

◆だから、母猿が私の呼びかけに応じて出てきたのは至極自然に思われたのだが、冷静に考えてみれば不思議なことだった。ほとんど会話が成立した、という感じだったのだ。生きているとこんなこともある、人生なかなか味があるな、とこういう時しみじみ思う。もしかしたら、私はそんなことのために生まれてきたのかもしれない、とまで。何しろ、子どもの頃の夢は定番だが「動物園の園長さん」だったのだ。だが、その私は一体ここで何をしているのか…。

◆この日午前4時、外は豪雨だった。島根、広島にまたがる中国山地は局地的な天候異変に襲われていた。こんな雨の中を走るなんて…と思うが、スタートは1時間後、5時に決まっている。「能海寛・ふるさと100kmトレイル遠足(とおあし)」。海宝道義さん主宰の大会で昨年に続き「ゼッケン1番」を頂いた私はやめるわけにはいかない。

◆いったん5時には小降りになった。長袖と半袖のシャツをダブルに着、ごみ袋状のビニール袋に穴をあけて腕を通し、ウェスト・バッグに折りたたみ傘を隠し持って暗闇の中、ライトを頼りに出発する。しかし、じきに雨は本降りに戻り、傘をさすハメに。100年前チベット探検に向かったまま、雲南の奥地から帰らなかった島根県出身の学僧、能海寛(のうみ・ゆたか)は、傘を手に尺八を腰にさして旅する自分の姿を「ポンチ絵」に描き残しているが、まさにそんな姿のランニングとなった。

◆直前の参加取り消しもさすがにあって、ことしの出走者は96人。皆、ビニールのレインコートを着たり、やはり傘をさしたり。島根県金城町から広島県内の中国山地をめぐる高低差647mのきついコースだが健脚が多く(最悪の条件の中で83人が完走した)、傘を手にもたもた走る私はたちまち「ビリ」になった。走りながら木の枝をとって、傘の柄の部分から垂れ下がる紐とくくりつけてみた。どうにかして手に持たず傘を固定できないか、という試みである。100キロ手で持たずに走れる傘、だれか発明してくれないかな。

◆そのうち降りしきる雨にも慣れ半分の50キロ地点にたどり着き、60キロから始まる長い登り坂をふらふら行く。その途中、下りになった部分で、さきほどの猿たちとひょっこり遭遇したわけである。すぐ先では車にはねられたタヌキのいたましい姿も見た。間もなくクマの出没地帯にさしかかる。ランニングよりも、動物たちとの遭遇にひかれている自分の本性がこういう時よくわかる。

◆70キロ地点のエイドのスタッフから「峠は霰(あられ)、気温2度」と聞く。うひょお、こりゃ雨どころではないぞ。ゴールまで持つだろうか、と心配になった頃、雨は霰に変わり、日はとっぷりと暮れた。以後、闇の中をライトを頼りに寒さに気を配り、時計をにらみながらのろのろ進む。最後の浄蓮寺近くでしばし道をカン違いして失敗したが、15時間57分54秒でゴール(制限時間は16時間)。傘をさして猿と会話し、霰に降られ、闇にしばし迷った不思議な100キロでありました。(江本嘉伸)


先月の報告会から

天から海へたゆとうて11年

北村昌之

2005.10.28 榎町地域センター

世界にはいくつの川が流れるのだろうか。山の数だけ川が存在し、海がある限り川はあり続けると見るべきだろうか。山屋は未踏の山の頂を求め、川屋は未航下なる川を探し下る。パイオニアワーク。毎年、未航下の川が減る中、東京農大探検部はチベット高原に端を発し遙か南シナ海へと続く一筋の流れ、未だ全流航下のなされていないアジアの大動脈、メコンに目をつけた。

◆メコン川全域航下隊隊長、東京農業大学探検部監督の北村氏の報告は、意外にもいきなり遠征ゴール地点であるはずのメコン川の河口の写真で始まった。北村隊長いわく、報告会時間内にメコン源頭から河口までの5160km、その全てを紹介できるか分からない。予め準備した250枚のスライドの一番最後を見せておくと。

◆今、さらりと全長5160kmと述べたが、この実数も94年秋、東京農大隊がメコン川源頭位置を探し出し、中国科学院の認可を得てなし得た世界に提示されるメコン全長公式データである。農大隊は地理的源頭を求めるにあたり「長さ」「流域面積」「流量」の基準を設定し、源頭を確定した(その対局には民族的源頭がある)。話題の一つ一つが偉業であるにも関わらず、聞く者に驚きを感じさせる暇なく北村氏はとつとつと報告を続ける。

◆源頭を確定したらいよいよメコン全域航下だ。99年の第一次航下ではインフレータブルカヌーとラフトボート(パドルで操作するゴムボート)を用い中国の青海省玉樹蔵族自治州、西蔵自治区昌都地区を航下した。まさにメコン源頭の青い空の下、天空を漕ぎ下る。時に偵察不可能、人跡未踏のゴルジュ地帯こぎ抜け前進した。

◆02年の第二次航下ではラフトボートとカタラフト(オールで操縦するゴムボート)を使い雲南省迪慶チベット族自治州、徳欽県、維西リス族自治県を下った。前回よりも航下難航が予想されボートを変えた。水温10度前後の中、ドライスーツを着込み迫り来るclass4の瀬を下り、時にライニングダウン(犬の散歩のように、ロープにつながれたボートだけを川に流す)、さらにはポーテージ(ボートを陸上運搬する積載装備は400kgにも及ぶ)をして乗り切るが遅々として距離は伸びない。北村隊長がこぼした一言が重かった。「いくら川下りの練習をしても現場で瞬時に状況判断しその技術を使いこなせなくて意味がない」。わざわざ台風の日を選んで増水時の利根川上流域を練習場としてきた隊員たちだが、それ以上にメコンの流れが強烈だったということだろう。

◆04年の第三次にはカタラフトとカヤックを用い、中国チベット自治区を同じくメコン全域航下を狙うアメリカ隊とともに下る。コロラド川をホームとするアメリカ隊と組むことで技術交流も進んだ。4500mクラスの山々に囲まれた谷間を行くメコンは前回よりも難易度は高く、class4-5、5+の瀬が続いた。一日の航下距離23km、16km、8kmと日に日に落ちてくる。準備期間1年、航下日数8日という結果に終わった。

◆そして05年の第四次。中国雲南省西部、ラオス、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムをラフトボート、カタラフト、カヤックさらに現地購入の竹舟、木製舟などを3度購入しメコン川河口まで到達する。実はこの遠征は頓挫しかけていた。前年オーストラリア隊がメコン全域航下を達成してしまったのだ。それを知り北村隊長はもはやメコンをやる意味はない、とさっくり諦めかけるが、会社を辞めてまでメコンに挑もうとする隊員たちの熱意に押され、結局メコンへ。すでに隊長の周りにはメコンの次ぎを夢見る川屋の若者たちがおり、メコン全域初航下という当初の目的の他にもやるべきことがあったようだ。

◆オーストラリア人によってすでに航下された川を行くことはそんなに恐ろしくない。北村隊長は言う。ブラインドカーブの向こうにどんな瀬が待っているのか、その心配度が低い。一度人がこなした所だから何とかなるだろうと。一方、航下されてない川を行くときは川の音に耳を澄ませ、常に川の流れを偵察し前進する。この方が苦労は多いがやはり楽しいとも。

◆渓谷を抜けてきたメコンはついに人の生きる大地へと流れ込む。ダム開発の基礎調査のため、川幅いっぱいに張られたワイヤーを避けながら航下する。その周りに広がる景色は次第に熱帯地方の様相に変わり、さらに現地舟がメコン川を行き交うようになる。今までのメコンはあまりに激流で川の交通手段がなかったのだ。

◆ラオスに入るとラフトなどボートを使うのをやめ現地人が使う舟で海へ向うことにする。付近に豊富に生育するバンブーを使い現地人とともに筏を作ることにしたが、調達したバンブーが川を伝い運ばれてきたときにはすでに筏になっていた。人々は風変わりな日本人に友好的だった。

◆バンブー筏は全長11m、幅2.7m。筏の操作は湯豆腐スプーンの様な竹製のパドル。以後、激流の中でラフトを自在に操ってきた川下りのプロ達は川下りというよりも漂流に近い川旅をしいられることになる。この怪しい筏は時に住民との交流を円滑にし、時には麻薬の密売グループと間違えられ拿捕され、日に何度も行き交うタンカーとの衝突を命からがら交わしたり、と波乱続きだった。

◆14日間バンブー筏で旅を続け、世界遺産の街、ルアンパパーンでは念願のフィッシャーマンズカヌー(長さ10m、幅0.75m、高さ0.45m)を購入した。バンブー筏よりも操作性がいい舟である。が、30cmほどの波を二回突っ込むとあっという間に舟は水面下に沈み、一人は川に流され、舟に残された二人は沈みかけている舟を両足で挟んで漕ぐはめに。

◆カンボジアに入ると大小の島々が中州を形成し、さらには雨期の影響で増水した。その水は川をながれるのではなくジャングルのなかへと吸い込まれていく。一度でもマングローブの根にカヌーが張り付いたら二度と本流に復帰することはできないだろう。本流から離れ一時細い水路に入りこむが幸運にも中型船に助けられた。

◆カンボジアに入国後、行きかう舟の形は川舟から海舟へと変わる。ラオスから旅してきたフィッシャーマンズカヌーに別れをつげ、カンボジア舟を購入する。一路ベトナムを目指し航行するが、「あやしいベトナム人がボートに乗ってきた」と密告され「外国人保護」という理由で警察の管理下に置かれた。

◆ベトナムに入国しゴール地点であるメコンデルタを目指す。問題は多岐に分岐したメコンの流れのどこをゴール地点とするかだ。最左岸の海岸をゴール地点と決め漕ぎすすめる。8月5日、メコンデルタ3大都市の一つミトーを早朝に出発。追い風の助けを受け海が予定より早く見えてきた。あと一時間ほどでゴールというところで、警察のチェックに。大型船以外は川から海へと出ること禁止されているという。悔しい幕切れではあるがここで東京農大メコン隊の活動は終わった。

◆メコン川源頭を探り当て、天から海へと5160kmに渡り川を旅する。学術的な意味合いもさることながら、一本の川をやり遂げる、その揺らぎ無い情熱の強さに打たれた報告であった。終始控えめだった北村隊長に今後の活動は?と聞くと「ヒマラヤの川をやる」。まだ手のつけられていない川がそこにはある。終わったメコンに執着することなくパイオニアワークに狙いを定める北村氏、そして東京農大の活動にこれからも期待したい。(Air Photographer 多胡光純)

隊長の執念と根気、真っ直ぐな気持ち

東海大学探検部OB 亀田正人(25)

 探検家・北村昌之氏のところへ遠征の勉強をさせてくれと直談判しにいったのは、今から4年前の冬の事になります。僕が東海大学探検会3年生の時でした。北村氏率いるメコン隊が隊員の募集を出しているらしいと言うことを聞き僕は東京農業大学探検部の門を叩いたのです。

◆その日から卒論にバイトに遠征の準備と勉強とトレーニングと3足のワラジを履いた年もありました。ラフティングガイドからデパートの売り子までありとあらゆるバイトをこなし、メコンでの遠征に3度同行しました。ついこの間の遠征では5ヵ月半もの長い間、寝食を共にし、様々な事を感じ勉強させて頂きました。

◆非日常の遠征において理不尽なことは多々あります。通常では考えられないことが起こるからです。集団行動ということもあり個人のわがままも許されません。当たり前ですがやってみると辛い時もあります。今回の遠征での事です。7月になり僕が25歳になった頃です。僕らはプノンペンに着いていました。逃げようのない日差しの強さと日々続く長時間の運動で疲れがピークに達していた僕はとうとう全身にジンマシンが出てしまいました。治る気配もないので完治しないまま川下りを続けました。連日のように吹く逆風やトラブルで距離も稼げず嫌気がしていました。

◆そんなある日の事、北村隊長の漕ぎにいつになく力が入ってないことに気づきました。その晩、彼は病院へ行き検査を受けました。ホテルに戻った彼に話を聞くと胆のうと十二指腸に炎症ができており寝返りするのもつらい状態だと言います。普段はその様な素振りを見せないので相当痛いのだろうと思いました。しかし、病院に行く前も行った後も変わらず、黙々と漕ぎ続ける北村さんの背中を見て彼の遠征に対する執念と根気、真っ直ぐな気持ちに心うたれ、パドルを握る手に力が入りました。これ以降腐っていた僕の気持ちが入れ替わりゴールまで漕ぎ続ける事が出来ました。

◆ 5ヶ月半、3500km。今考えるとあっという間でしたが川の上にいる時は楽しい事、悲しい事、辛い事、色々ありました。しかし人間とは良く出来ているもので今では面白おかしく楽しい思い出ばかりが僕の中に残っています。今後も面白い事は面白いと言えるよう本気で遊び続けたいと思います。

印象深かった、ゴール

農大探検部OB 石井邦彦(26)

 メコン川との出会いは、2002年の雲南省北西部編から。農大探検部の大先輩である北村さんが「今回は川岸の傾斜がきついので、川の偵察や、いざという時のエスケープに岩登りの技術も要るんだ」等と言って、当時沢登りや岩登りばかりやっていてラフティングは初心者に近い僕を誘ってくれた。また、テレビの撮影助手としての仕事を始めたばかりだったので、探検の映像を撮影しいずれは趣味と実益を兼ねられればと、喜んで参加した。以来、2004年2005年と3度の遠征、4年の付き合いにもなった。

◆その北村さんは、一緒に遠征に行く前は崇拝されるべき遠い先輩という印象だったのが今年の川下りの後半では、朝顔を合わせてもろくに挨拶をしないほど近い関係になっていた。もともと北村さんは仁義やわびさびの他に、「大筋でOK」という事にも重きを置いている人だと分析していたので、あまり多くを語らなくなっても基本的には楽しく、気分良く過ごせた。また、一緒に海まで行った亀田とは、年齢も近く同じく撮影を仕事にしていたので、面白いものを見つける度に互いにきゃーきゃー言いながら、漕いでは撮り漕いでは撮りしていた。

◆そのような仲間とのメコン川下りで、特に印象深いのはやはりゴール。「あそこを曲がれば、海の匂いをバシバシ感じるよ」と北村さんが言ってからが長かった。地元の人に、そこから先は波が高く小さい手漕ぎ舟ではいけないよと言われていた場所まで来た時、半分沈みかけた舟の上で、もうダメだと思い最後の瞬間をカメラで撮ろうとしたら亀田に後ろから怒鳴られた。「あと何分漕げるか分からないよ、漕いで漕いで」振り返ると、今まで何百時間と淡々と漕いできた舟の上で、皆これでもかと必死に漕いでいた。記録には残らない、いいシーンだと思った。

◆そして、警察に止められふてぶてしく北村さんが「俺等らしいや、いいよなみんな、しょうがねえよ」と、ゴールは突然きた。もともと波が高くなって舟が沈めばその時点でゴールにしようと事前に話し合っていたので。というか、あまりにも半年間が長くそれぞれが充実していたので、いまさらゴールだけはキッチリしようという雰囲気でもなかった。

◆いずれにしても、川下りがその土地では日常ではない、雲南省の山岳地帯でのラフティングから始まり。ラオス以降徐々に川とその土地の生活が一体化していき、僕らにとっても常に生活の一部となっていた、海へ向かって漕ぐ。という行為に、久しぶりに大きな意義を実感した長い一日だった。客観的な記録としては殆ど残っていないが、それぞれの色んな思いや重ねた月日がぎゅっと凝縮した、まさに記憶に残るいいゴールだった。

─報告会を終えて─

北村昌之隊長から編集長へのメール

 いつもご苦労様です。皆様方、縁の下の力持ちのおかげで無事報告できたこと感謝いたします。さすがに11年間かけてきたことを時間内に話すことは、難しく絞り込めず、聞き苦しかったかとおもいます。今回の報告ではメコン川を通して、探検の楽しさ、そして単独行と異なりい仲間と行う遠征の楽しさ(私自身、監督という立場上、仲間を育ててきたということもありますが)の二つに絞るつもりでした。

◆ご存知の通り多くの大学探検部は大学の課外活動の一つに位置ずけられています。大学としてもリスクの高く、成果のよく判断できないクラブに対してはその存在意義を明確にすることを求められ、常にリストラナンバー1のクラブに位置ずけられています。そのような中で八年前に大学、顧問の先生の要請で探検部の監督に就任要請され現在に至ります。今回、残念ながら大学側を納得するに値する「世界初航下」は逃しました。公的立場である探検部監督としては目に見える成果は残せませんでしたがその分、沢山の道草と仲間を作れたことが唯一の救いです。学生も若手OBもまだまだ、ホットな連中ばかりなので今後もたのしみにしていてください。私自身も未知なるフィールドを求め精進していく所存です。それではお体に気をつけてください。草々(11月6日)


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■白根全、ついに国際会議に招聘さる!!

 さてさて、このたびロンドンで開催された第2回国際カーニバル会議(The 2nd On Route International Carnival Arts Conference)に、パネル・メンバーとしてゲスト参加してきた。ついに、ワールド・デビューを果たしたのである。といっても、いったい何の話か理解不能という向きも多いことだろう。実際のところ、参加した当人もいまだに何だったのかよくわかっていない、というのが実状だろうか。

◆ドイツの大文豪ゲーテは1788年に訪れたローマのカーニバルを、「こうした祝祭は本来描写されえないものである」などと言いながら、40ページ以上(『イタリア紀行〈下巻〉』・岩波文庫)にもわたって詳細に記している。かの大文豪をして記述不能と言わしめたぐらいだから、カーニバル評論家なんて怪しげな看板を掲げながら「いーから現場に行って、自分の感性で味わうべし!」と煙に巻くのが常である。

◆実際に各地の祝祭空間を漂っているときは、生身の人間にとっては最大級の刺激を全身に浴び続け、感覚の限界を究めているような気がしている。リズムや色彩はもとより、五感のすべてを翻弄される極端な入力過剰状況は、人間の感性にどのような影響を及ぼすものか毎回試されているような感じだ。演出からデザイン、舞踏や音楽まで多様なジャンルを横断する総合芸術としてのカーニバルは、現在では主にアートや先端芸術などの分野で学際的な研究の対象となりつつある。奥の深いテーマでありながら、一般には極端に限定的なイメージ、つまり喜び組系の露出度のみが刷り込まれ一人歩きしている極めて珍しい例でもある。

◆さてこの会議、主催はアート・カウンシル・イングランドという公的財団で、芸術関連のさまざまなイベントの企画運営から国際交流、若手の育成などを後援する太っ腹な組織である。この団体では、古くから国内各都市のカーニバルを他民族社会に於ける重要なアートフォームとして捉え、発展を助成してきた歴史を持っている。ちなみに、イギリスは伝統的な祭りを含め全国300以上の都市でカーニバルが催されている『知られざる祝祭大国』でもある。アート・カウンシルのシニア・カーニバル・オフィサーであるパックス氏からの要請で、アジア地域からは当方が代表として参加することとなった。日本で唯一のカーニバル評論家なのだから、こういう場合はもちろん私しかいないのである。

◆参加依頼の連絡はあったものの、その後なかなかコンタクトがないので、ほんまかいなとろくに準備もなしのまま現地入りすることとなってしまった。直前になってようやく届いたプログラムによると、3日間にわたり朝から晩までスケジュールが目白押し。

◆メイン会場はロンドン中心部のキングス・クロス駅向かいのカムデン・センター大ホールで、午前中はその日のメイン1・スピーカーによるプレゼンが行なわれる。ランチタイムをはさんで、午後は大英博物館や大英図書館などの小ホールで、テーマ別にパネル・ディスカッションが行なわれ、夕方の全体セッションで一日の総括が話し合われる。夜も各種アートの製作現場見学からマスク・ボール(仮面仮装舞踏会)まで、寝る暇もない状態だ。

◆参加者は世界14カ国からのパネル・メンバー約50名を含む多彩な顔ぶれで、中にはこれまでの取材の際に現地で知り合った懐かしい顔も見受けられる。全員があご足枕付きのご招待で、さすがは大英帝国!世界2大カーニバル勢力のブラジルルとトリニダード・トバゴ代表をはじめ、ベルリンや南ア・ヨハネスブルグなど近年大掛かりなカーニバルが催されている新興勢力、伝統的な祝祭が息づくヨーロッパ各都市、さらにイギリス全国から、延べにすると3日間の会議全体では1000名近い参加者があった。

◆当方はメディア関係のパネル・ディスカッションに参加して、大英図書館の会議室で軽くスピーチをかましてきた。悔しいことには日本にも浅草サンバカーニバルが、などと言ってみても誰も知らない。とりあえず、今年出撃したベネズエラの片田舎に残る古いカリビアン・スタイルの珍しいカーニバルの例を挙げて、100パーセント純粋なカーニバルとは何か、というお話で3回ほど笑いを取った。自分の街のカーニバルがベストだと思い込んで、あまり横のつながりのないもの同士を結び付けたり、刺激しあうこと、メディアも質的な向上を目指すことなどがセッションの結論であった。

◆もちろん、一番受けたのはマスク・ボールでのちょんまげズラ付きラスト・サムライであったことは言うまでもない。(当方の扮装は浴衣に扇子、ちょんまげズラに、現場で製作した目の部分だけの、いわゆる女王様タイプの仮面? やはり、舞台は血が騒ぐ???)それにしても、カーニバル業界の広がりや奥の深さには想像以上のものがあり、あらためてとんでもない世界に足を踏み入れてしまったものだと驚驚かされた。来年はカーニバルの原点を求め、ついに禁断の大地アフリカ、アンゴラあたりに出撃とか、悩みの尽きない今日この頃である。

「ようこそ魔法の劇場へ」

─ヒミツ暴露 安東浩正ナゾの逃亡先─

 ちゃりんこフリークの安東です。中国雲南省の大理からのお便りです。ええそうです、大理石の大理ですよ。特産品なんです。少数民族バイ族の街でしられる小さな古都です。十月末に1年ぶりに帰ってきました。ぼくの第2の故郷ですよ。去年の大集会前にも大理に滞在してたんですね。いいところですよ〜。ぼくが世界で一番好きなところです。ここは各国からのリピーターが多いんですね。なぜ大理にひきつけられるのか。その秘密はガイドブックには書かれてません。説明しろといわれても難しい…。

◆観光地として有名だけど観光する所ではない。何をするところかというと、何もしないところなんです。だからいいんです。ええ今回は自転車持ってきてません。今年前半6ヶ月はずっとシベリアを自転車で走って、結構しんどい旅でしたし、そういうのはやっぱり疲れるわけですね。癒しの旅にも出かけないと。

◆極限とか荒野とかいった言葉とは縁のない世界で、勝手を知っていて、生活にお金がかからず、ある程度の知りあいがいて「ただいま〜」って言えるところ、となるとぼくには大理が一番なわけです。それとビールもうまくなくっちゃいけません。その点「大理ビール」は世界一。もちろん一緒に飲む仲間も必要ですが、中心街のカフェに座っていれば、日本人だろうと西洋人だろうと、いくらでも旅人がやってくるので毎日相手に不足はありません。

◆一昨日は、地平線報告者で雲南北部の梅里雪山からの帰りに大理に寄った小林尚行さんと一杯やりました。一昨年も地平線報告者の中村保先生が来られました。みなさんも大理によられたら声をかけてください。今月末までですけど。おいしいカツドンの店をご案内します。天ぷら定食もスキヤキ、コロッケ、うな丼、刺身もありまっせ。大理にない日本食はありません。えっ?中国まで来て日本料理いらないですって?でも中華なら日本でいくらでもありますけれど、大理のカツドンは大理でしか味わえないですよ。それでも地元食がいいですか…。わかりました、でしたらおいしい米線屋にご案内します。雲南独特の米の麺ですよ。うまいんだこれが。十年前、雲南大学留学時は毎日食ってました。あの時は向かうところ敵ナシで、人生で最もバンカラだったですね。

◆ええ、それで原稿(注:冬季シベリア横断を一冊にまとめるための)なんですけど、去年もそうだったですけれど、ぼくはここにノートパソコンを持ち込んでまして、シベリアの連載分と書籍分を一気に書き上げるつもりでやってきました。去年ぜんぜん書けずにヒンシュクでしたが、今年もヤバそうです。書くのが異常に遅いんですねぼくは。大理では何かをすると時がすぐになくなってしまう。何もしなければ、ゆっくりと流れるはずなのに…。

◆観光客の多い通りからちょっと裏路地に入ると、民家の瓦屋根の上でネコが眠たげにたたずんでいたり、なんだかなつかしい雰囲気。ちょうど昼下がりの今、このお便りをそんな路地のカフェで書いています。現実の扉の向こうでは、人民帽のおじいさん、背負いかごのおばさん、ジャージ姿の女子高生、果物売りのおばあさん、などゆきかう人々の流れが、まるで春の小川の流れのようです。森羅万象です。

◆それで大理の魅力の謎なのですが、やっぱり説明が難しい。ぼくのイメージに近いのはヘルマンヘッセの「荒野のオオカミ」でしょうか。一度入った旅人が出て行かないように、仕組まれた秘密の花園があるのです。現実の旅から心の旅へと誘う、魔法の劇場なのです。入場料は、あなたのその好奇心。いちど取り付かれると、あなたも大理フリークになってしまうかもしれません。戻る道はありませんよ。心の準備はいいですか?それでは魔性の世界へと、大理の演出を心ゆくまでお楽しみください。(魔性のサイクリスト安東浩正 11月6日)

「トンネルと台風の恐怖」

 10月の通信締め切り直後、リヤカーの永瀬忠志さんから、日本縦断報告を頂いた。手書きだったので間に合わすことができず、今号に掲載させていただく。それにしても、トンネルをリヤカーで行く恐怖、わかるなあ。(E)

この夏の日本徒歩縦断は、6月22日に北海道北端の宗谷岬を出発しました。この旅で一番の恐怖は、トンネルの通過でした。30年前に比べて、トンネルが増えていて、今回のリヤカー旅で通過したトンネルは、多分200ぐらいあった、と思います。自動車の通行量も増えていました。トラックや乗用車がビュンビュン走る狭いトンネルの中は、追突事故が起きるんじゃないかとヒヤヒヤしました。一応、リヤカーの後ろにピカピカ光る発光標識をつけてはいるのですが、怖くて、走りました。長いトンネルは3キロにもなります。いくらリヤカーが端を歩いても、車がすれ違いできるほどの幅はありません。トンネルの中を急いで通り抜けようという運転手さんの中には「何やってんだ、こんなところで!」と怒鳴る人もいました。

◆次の恐怖は、台風でした。鹿児島県鹿屋市で台風14号が接近し、暴風雨になりました。屋根つきのゲートボール場にテントを張りましたが、横から暴風雨が吹きつけてきます。ゲートボール場の公衆トイレの中へ避難して、そこにシートを敷きました。1日、避難していましたが、その日のうちに台風は通過してくれました。トイレから出ました。日本列島の中央部を通る約3000Kmの旅は、何とか無事に79日間をかけて歩き、9月8日、九州南端の佐多岬に到達することができました。30年前の時は、70日で歩きましたが、体力は落ちてはいないようでした。 2005年10月8日 永瀬忠志

地平線はみだし情報

『心の旅』

旅行会社をやめた福岡在住の伊東心さん(27)が11月27日、3年がかりの自転車で世界旅行に出発する。名づけて「心の旅」。学生時代にバックパッキングで旅したユーラシア大陸には2年をかけて、自転車での完全横断を目指し、時には自転車を降りてリキシャ◯、馬など別の乗り物を利用することも考えている。旅行中の発信手段として、ブログを開設、極力リアルタイムで旅の情景を届けるという。

 ⇒ http://whereiskokoro.blog34.fc2.com/

〈速報〉

坪井伸吾さん
ついにゴーーール !!!!!

 アメリカ横断ランの坪井伸吾さん、現地時間11月7日、無事ゴール、横断ランを果たしました。10月26日午後、ニューヨークのバッテリー・パークに着き、目標だった東海岸へのゴールを達成したわけですが、それでは終わらずその足ですぐ空路ラスベガスに向かった。夏、バスでパスしてしまった部分を走りなおすために。最終ゴールは現地時間11月7日メスキート(Mesquite)という町でした。走りながら、逐次編集長あてケータイ電話をくれた坪井さんの最後の頑張りの様子を以下に再現しました。誰も走ってくれ、と頼んだわけではないが、ともかくもご苦労さんでした、坪井さん!(E)

★10月31日 モハベ砂漠の真ん中ぐらいまで来ています。昼間は28度ぐらいまで上がりますが、夜は10度ほどで、しのぎやすいです。ニューヨークから飛行機でラスベガスへ飛び、バスで3時間ほどのバルストウ(Barstow)という町まで戻りました。前回ここまで走ってバスに乗ってしまったので、ここを自分の足で走り通したい。10月28日ここからベガス方向目指して走り始めました。2日間野宿したのですが、全然進めない。高速道路ばかりで、走れるような道の状態ではないんです。電柱の列のわきに補修用の細い道が通っているんですが、ここを行くしかない。走れないので1日40キロが精一杯です。たまにあるガソリン・スタンドで水、食糧を調達するのですが、次にいつ補給できるか不安との戦いです。水は5.5リットル持っているので、全体ではまたまた15キロほどの重さになってしまいました。

★11月5日 きょう11月4日、ラスベガスに着きました。あと130キロです。だいぶ涼しくなってきて走りやすいです。モハベ砂漠は、茨(いばら)というのか、トゲトゲした草ばかりの土地です。渇ききった川途中3泊はテントを張って野宿をしました。ハイウェーで警察につかまったりしましたが、なんとかなりそうです。

★11月8日 ついにゴールしました。いまこちら時間の7日17時です。メスキート(Mesquite)という町です。はるばる5350キロ走ったことになります。ゴールしたいまの感想ですが、どちらかというとさびしい、という気持ちです。おととい、高速のわきの道で最後の野宿をしたんですが、その時もこれが最後の野宿なんだなあ、となんだかさびしくなりました。もう寒いんです。この時もテントが凍っていましたから、多分氷点下になっていると思います。ただ、寒いのは走るのにはいいんです。水の補給はそんなに必要なくなるし、モハベ砂漠にはひとはいないから、どこでも野宿できるし。心配だったのは毒蛇ぐらいですね。これは夏はよく見かけたから。きょうはなんとカジノのホテル泊です。カジノは安いんですよ。きょうのは27ドルです。地平線の皆さんによろしく、25日に報告会やらせてもらえそうなので、フライトは決まっていませんが必ず早めに帰ります。

怪人・中村吉広
デビュー作出版のお知らせ

 1月の報告者、いわて在住の中村吉広さんの本が一冊にまとまり、近く本屋に登場します。地平線報告会が縁で、貴重な本が生まれたことに乾杯! 書名は「チベット語になった『坊っちゃん』 中国青海省 草原に播かれた日本語の種」。山と溪谷社から発売し、1600円です。そのうち報告会場に持って来てもらいましょう。どんな内容か、以下本人に紹介してもらいました。(E)

 今年最初の報告会で、「チベットの言霊(ことだま)」という大仰なテーマで公の場に顔を晒してから9箇月になります。その会場で江本さんに山と溪谷社の神長幹雄氏を紹介されたのが、随分昔の事のように思い出されます。その時には既に完成していた『在蔵戦記』という文章を書き改めたのが本作です。神長氏からは、「チベット仏教、日本語、チベット語などの宗教と言語」が多過ぎるから削るべし、との指示が有りました。こってり醤油ラーメンから、醤油と脂分を抜け、というような注文に当惑しましたが、ならばダシを効かした具沢山の饂飩(うどん)にして見ようと、食欲の秋に大規模な削除と同時にエピソードを加筆して、苦労の末に、チベット文化圏の青海省の山奥で起こった「奇跡」の物語が完成しました。

◆「何故チベットに行ったのか」の疑問に答える話を本の最初に書き加え、奇縁で入学したのが、パンチェン・ラマが設立した民族学校で、その内部で起こっている諸問題のレポート部分が続きます。「チベット語の蘇生」の試みについて可能な限り詳細に述べましたが、鍵となるのが仮名文字と文法です。作中の授業を一緒に受けて頂きますと、実際に生徒達が体験した興奮を共有できます。さだまさし氏の歌が、冒頭と最後に登場して重要な役を演じます。チベット語と日本語の共通性が「奇跡」の種なのですが、報告会で披露したビデオ資料を下敷きにしてその種明かしをしまして、後は一気に『坊っちゃん』翻訳の山場へと向います。

◆日本人にとっての夏目漱石が、今のチベット人にとっても重要な人物になって行く物語は、教育や日本語に危機感を持っている方々に訴えるものが有ると思います。チベットと日本の「近さと遠さ」を考える様々なエピソードは、今までに無かった視点から、チベットやアジアを考える多くのヒントになるでしょう。チベット人を大いに助けた「振り仮名」の効用を再確認しようと、多めにルビが振られているのも特徴です。

◆序章 拝啓、さだまさし様  第一章 チベットとの出会い 第二章 チベット留学 第三章 チベット語の可能性 第四章 チベットの坊っちゃん先生 第五章 息を吹き返したチベット語 第六章 別れの時、以上の構成になっておりまして、巻頭には「チベットの海」、巻末には「膠着語の回廊」が付いています。チベットの歴史と日本語の薀蓄、仏教基礎知識、チベット語の豆知識も得られます。よろしく!(11月4日 中村吉広)

ガンと闘うエミコさん、またもや3ヶ月 世界の旅へ!

 江本さ〜ん、走ってますね〜! 勇気づけられてます!! こちらも昨年にひきつづき自転車世界一周「復活旅!第2段」を12月17日に開始いたします。再び3ヵ月という期限付ですが、命をいかし(生かし×活かし)に行ってきまーす。

今回のルートはインドのタージ・マハルからバラナシ、念願のネパールへ。で、ポカラ、カトマンドゥを経てチベット国境のコダリまで走り、カトマンドゥに戻ります。次回は標高5200mの峠が待ちうける中尼公路。ラサを経由し、中国横断です。体のことを配慮すると出たり入ったり、ゴールまでに2年はかかりそうですが(16年かかっても世界一周できてへん〜!え〜ん!)、これからもスロートラベルでいくしかないですね…。

今年は検査結果で「腫瘍あり」。落ち込みましたが「転移はなし」でひと安心。悪性でなかったので様子を見るということになりました。奈良山里の半自給自足生活は心身ともに「満足さ100%」です。今は大根と京菜がおいしい季節。今年は干柿を56個つくりましたよ〜。新鮮な空気と清らかな水、有機で育てた元気野菜を毎日食べていると、細胞レベルでの甦生を実感します。

では、また柳生の里より発信いたします〜。追伸=昨夜の星は落ちてきそうな勢いでした。日本もまだまだ自然がいっぱい。しあわせ (*^。^*)

◆近況=今週12〜13日の自転車イベント「CYCLE MODE」。幕張メッセに終日おります。キャノンデールのブースで旅写真を流しておりま〜す。(シール・エミコ 11月8日)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

北米横断ふたつぶ五千粁

  • 11月25日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

モシモシ亀よ……じゃなかった「もしもし、ツボイです。今、モハベ砂漠の真ん中です」という電話があったのは10月31日でした。「どこでも気軽に野宿できるし、気温も30℃くらいだからラクです。夏だったら無理でしたね」。

今年5月から3ヶ月かけて、L・A〜イリノイを走った坪井伸吾さんが、9月17日から続きを再スタート。10月26日、ひとまずN・Yにゴールした後、走り残したモルベ砂漠ランの途中からの経過報告でした。5L(リットル)の水を背負い、40km/日ほどのペースでじわじわと進みます。日本時間の11月8日、ついにゴール。全部で5350キロを走り通しました。

そもそも日本で100キロマラソンに出場したのがきっかけでした。制限時間を超えてのゴールにもかかわらず、「これはイケる」とつぶやいてアメリカに向かった坪井さん。そのココロは?!

今月は帰国直後の坪井さんに、ナゾの横断ランの真相を語っていただきます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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