2005年9月の地平線通信

■9月の地平線通信・310号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙8月末、1週間足らずだが、那覇、慶良間諸島の渡嘉敷島と、沖縄を旅した。これまで1度しか行ったことがない、ほとんど未知の場所だったので、見るもの聞くもの、目からうろこだった。海育ち(横浜生まれ)だから海には親近感を持っているが、白い砂浜というのに縁がなかった。江ノ島もそうだが、私の知っている浜辺の砂は黒いのだ。このことは逆の意味でウチナンチュ(沖縄人のこと)も感じるらしく、初めて黒い砂浜を見ると、足が汚れるのでは、と心配するそうだ。

◆真っ青な海がその白い浜辺の先に広がっている。こんなに青く、透明度のいい海に入っても、バチがあたらないだろうか?と、思う。30年以上も前だが、取材で東京の海を潜り続けた時期がある。ヘドロの底にどんな世界が広がっているのか、ダイビングの専門家たちと一緒に海中を探った。まだ無名だった水中カメラマンの中村庸夫さんとよく出会った。ハゼが泳ぎ、ミノウミウシがヘドロの壁を這い、ムラサキイガイ(ムール貝のこと)が群生していて、意外に江戸前の海は生き物に溢れていた。が、透明度だけはひどかった。

◆いま、渡嘉敷の海に潜ると、豊かな珊瑚礁に、驚くほど多彩、絢爛豪華な魚たちが、目の前を悠々と群れている。優雅なツノダシ、スズメダイの群れ、まだら模様のウミヘビなどを見ていると、この島が楽園そのものにしか思えず、60年前あれほど過酷、無残なな戦いを強いられた場所であることなど、忘れてしまいそうだ。

◆島のあちこちでヤギが草を食む姿を見た。本島北部のやんばるの森へ行っての帰りには、「ヤギ料理」の看板も。ここは、ヤギの島でもあったのだ。那覇で馴染みになった薬膳料理の店で、イラブー(ウミヘビのこと)汁やウミブドウなどをご馳走になりながら食べ方を含めヤギについていろいろ教えてもらった。ついでに、モンゴルでの家畜たちと人との関わりについて体験を話した。

◆モンゴルの前の大統領はバガバンディーという。ある年、日本に来て日本記者クラブで会見があった折り、控え室で失礼ながら聞いてみた。「大統領は子ども時代、家畜の去勢をされましたか?」アルハンガイ県の遊牧民の家に生まれた大統領は「もちろん」と快活に答え、「取り出した睾丸がおいしいんですよ」と、笑った。あざやかな答えだった。

◆店のあるじご夫妻にそんな話をすると、沖縄を離れる前日、連絡があった。「手に入れましたよ」なんと、ヤギ肉を入手し、料理してくださった。それも睾丸までも。案内役の編集者、Sさんへの店の信頼があったからこそだが、沖縄でヤギの睾丸を食べられるなんて、一体誰が想像できたろう。独特の淡白な味でおいしかった。

◆日本山岳会百年(10月15日にセレモニーがある)に寄せる英文原稿のためにこの数か月、富士山のことを調べている。山開きの日も三輪さんに同行してもらって富士吉田に行った。9月はじめ、山友達の結婚式が信州・白馬村であり、登山家のTさん夫妻と久々に会った。ヒマラヤで名を馳せた彼は、最近はもっぱら屋久島や北海道の日高など日本の山に登り続けている。中でも富士山にひかれていて、山麓にもう6年住んでいる。登り手の視点からの富士山を知りたい、と、数日して台風の迫る中、山中湖畔の家を訪ねた。

◆少し散歩を、と誘われ裏山の方向に少し登ると、ススキの穂が揺れる斜面から湖の広がりが一望できた。音楽に造詣のあるTさんは口琴をつかって、穏やかなメロディーを奏でてくれた。「ついでに水辺に行きましょう」と、言われて誰もいない山中湖に行った。なんと、そこに浸かろう、と言う。「じっと浮くだけでいい。沐浴ですよ」半袖のウェットスーツを着て浮かんだり、泳いだりした。雨を含んでうすら寒かったが、台風接近で無人の湖で、予想外に気持ちを解き放てる体験だった。

◆9月9、10日は新潟県片貝町にいた。大花火で知られる「片貝まつり」があるのだ。浅原神社の秋季大祭で毎年9月9日・10日両日の午後10時には、注目の「世界一の四尺玉」が打揚げられる。直径約1.2m、重量約400kg、上空約800mまで上がるのである。驚いたのは、小中学校は二日間休校となり、若者たちが朝早くから山車を引いて町内を練り歩く風景だ。神社の境内では相撲も行なわれていた。呼び出し、行司も装束をしていて、本格的なものである。

◆そして打ち上げ。花火はすべて前もって、町内外のファンによって打ち揚げ主が決まっており(そのための「花火貯金」まであるそうだ)「祝孫誕生」とか「震災復興 従業員、家族の健康祈願」とか「〇〇子、結婚して幸せになろう!」とか、一発ごとに、せりふと氏名が呼び上げられる。打ち揚げ主は自分の花火の時間になると仲間や家族ごとに「お立ち台」に集まって気勢を上げる。14ページに及ぶ新聞紙大の「片貝まつり花火番付」に、すべて書かれているが、中には実に面白いせりふもあり、皆酒やビールを飲みながら、最高に盛り上がるのだ。花火まつりってこういうのか、と日本の山里の元気さに驚いた二日間だった。

◆2匹の仲間をなくして前半は、閉じこもりがちだった夏。呆然としたおじんを元気づけようとつきあってくれた沖縄旅63回のSさん、K2峰を無酸素ソロ登攀したことで知られるTさん、間もなくアラスカへ帰るマッシャーの道まっしぐらのHさん、遠くから気にかけてくれた皆さん、ありがとう。おかげで新しい世界と出会う、大事な大事な夏になりました。(江本嘉伸)


先月の報告会から

ブルーポピーの彼方に

神尾重則

2005.8.22 榎町地域センター

 報告会の告知欄に絵を描いて久しいが、神尾さんの似顔絵は難しかった。面識がないので、著書に掲載されたスナップだけが参考資料。ところが、写っている写真ごとに顔が随分違う。ヒゲだらけのいかにも山男然とした顔、いたずらっ子のような顔、年寄りじみた顔も。どれが本当の顔なんだろう。

◆イメージを掴めないまま電話取材へ。受話器から聞こえる声は若々しく、謙虚で丁寧な応対に恐縮するほど。肺ガンの専門医であり、現役のヒマラヤ登山家というプロフィールにちょっと構えたが、お堅い空気は全然ない。青いケシに寄せる思いを語る言葉に、ロマンチストの側面を感じた。

◆当日報告会場に現れた神尾さんは、白いカッターシャツにライトグレーのジャケット姿。軽くウエーブした髪がお茶目な感じを醸している。私の描いた似顔絵よりもずっと上品な紳士だ。三輪先生によるオープニングで報告会の幕が開く。

◆タイトルに忠実に、青いケシの花からスライド(パワーポイント)スタート。4200メートルのチベット高原に咲く花は紙細工のようにカサカサして見える。ヒマラヤ登山家の憧れの花。その小さな生命が装う青は、神尾さんの想像力を喚起する象徴的な色だ。まず、ヒマラヤの蒼天の色。その彼方、宇宙を説くチベット仏教へと思いは拡がり、花をとりまく厳しい環境に、宿命の生老病死を思う。けなげに咲く花は命そのもののシンボルとも映る。さらに、青いケシをはじめ高地の植物は、薬草としてチベット医学を支えてきた。また青は、童話「幸せの青い鳥」に描かれたように「夢」を表す色でも。「ちなみに、サッカー日本代表のチームカラーでもありますよね」と神尾さん。

◆神尾さんが初めてヒマラヤを訪れたのは、母校宮崎大学登山隊でツクチェ・ピークに登頂した1980年。山頂から北西遥かに、当時まだ外国人入境禁止区だったネパール・ドルポ地方を望み、100年前に河口慧海師が通った道をいつか辿りたいと願った。それから四半世紀。神尾さんは今、NGO「ドルポ基金」の医師メンバーとしてドルポに深く関わっている。車道が無く、インフラ整備が立ち遅れたドルポ地域を支援する草の根活動だ。将来の地域を背負っていく子供達を街の学校に通わせる等の人材育成を軸に、医療センターや公民館の建設なども手がける。

◆スクリーンには、神尾さんの思い出の山々が。ツクチェ、ブロードピーク、バルトロ氷河…写真がとても美しい上、解説が詳しい。主観的な風景写真の後には、鳥瞰図や、グラフ、航空写真など、客観的な解説図が挿入される。まるでNHKスペシャルを見ているようだ。エベレストに特徴的なイエローバンドという地層の話から、5500万年前の起源まで話が及ぶ。ここまでは神尾さんのフィールド概説。山を解剖して見せてくれる辺り、外科医の面目躍如。

◆…と思うのはちょっと早かった。メインテーマ「生老病死」のくだりでは、医師の視点を前面に据えた曼陀羅スライドが展開される。ネパールの医療環境の説明では、医学書でしか見られないサンプルの数々が。狂犬病ウイルスの顕微鏡写真や、コレラの水様便、アメーバ赤痢に罹患した肝臓…気味が悪いものなのに、写真は奇妙に美しい。科学者の目はこんな風に世界を見るのかと思う。

◆現代人は死を忌むべきものと捉え、できれば回避したいと願うが、チベットでは「死」を前提に「生」を考える。「死」をローソクに喩えれば、「生」は、はかない炎なのだ。 しかも常に「老」「病」という風に翻弄されてちらちらと揺れている。「生」のイメージに提示された、受精の瞬間の顕微鏡写真が強烈だった。大きな卵子に群がる精子。生命はいつ魂を授かるのか。生と死の境界を考えさせる。「老」ではアルツハイマー脳の断面図が。一方、100歳でなおスキーを続ける三浦敬三さんの例に、ヒトの命の強靱さと可能性を示唆する。神尾さんは三浦さんのサポート・スタッフとしても実績があるから、語り口に説得力がある。健康長寿の秘訣は、「心楽しむべし、身は労すべし(養生訓)」だそうだ。心しよう。そのためにも、体力維持のための「ルート工作」が必要だと神尾さんは説く。

◆「病」では高山病について詳しい解説が。チベットのような高地に住む住民は、低地の人々に比べ冠動脈が太い。こうした適応は遺伝的に継承される。高山病になりやすいかどうかは、遺伝子を調べることによって見当がつく時代になった。

◆西洋医学は生命を精巧な機械に喩える。その視点に立って開発された医療技術に、現代人は様々な恩恵を受けてきた。神尾さんが紹介する最前線の医学情報はその豊かな実りだ。でも一方で、失われた視点もあるのではないかと神尾さんは自問する。チベット医学では、臓器が健全に働く事以上に、「生命力」をいかに強く保つかが肝要だ。「西洋医学徒としては、チベット医学を全面的に受け入れるわけには行かない」と神尾さんは言う。「でも、圧倒的な臨床例の蓄積の上に継承されている伝統医療には、学ぶべきものが多い」とも。

◆最後に、この五月に駆け足で登ったクン・ラ(5411m)のエピソードが紹介された。昨年秋に発見された河口慧海の日記から、師の越境ルートとほぼ特定された峠だ。ドルポ基金活動の合間に計画された登山だったので、3800メートルまでいきなりヘリで飛ぶ強行軍だった。最初のヒマラヤ訪問から25年。夢の第一歩を踏み出した神尾さんの頭上には青い空が広がっていただろうか。

◆医師の顔と山屋の顔が絶妙のバランスで配されたスライド、総数約200点。てんこ盛りの報告会の締めには、やはりロマンチストの山男の顔が現れていたように思う。(長野亮之介)


地平線ポストから

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■礼文島縄文人のミトコンドリアDNA─
新グレートジャーニーの最終ステージを終えて

関野吉晴

■新しいグレートジャーニー(日本人がやってきた道を辿る旅)北方ルートの最終ステージを終えて、8月26日に東京に戻りました。

◆7月9日にハバロフスク経由でサハリンに入り、冬に間宮海峡を徒歩横・縦断した後の中部、南部をアレクセイ・コノネンコと自転車で縦断しました。最後の65キロは徒歩で最南端クリリオン岬に到達し、8月11日に宗谷海峡を渡部純一郎とシーカヤックで渡りました。稚内まで直線でおよそ60キロを強い潮の流れと向かい風に悩まされながら13時間漕ぎ続けて北海道に上陸しました。

◆サハリン縦断中、ボストーチヌイ自然保護区、チェイニー島などに寄ったり、北緯50度以南の旧カラフトでは在留の朝鮮人、日本人の人たちに話を聞きました。西牟田君や安東君の足跡も見ることが出来ました。

◆宗谷海峡を渡った後もとんぼ帰りでサハリンに戻り、やり残しを片付けて帰国しました。最後に礼文島の船泊遺跡に行きました。私のミトコンドリアDNAを調べたところ、そこの縄文人のミトコンドリアDNAとの共通点が多かったからです。船泊遺跡の発掘品を調べてみると、そのころ既に九州方面や、大陸、サハリンとも交易をしていたようです。(9月7日)

■礼文島のユースホステル「桃岩荘」に
9年ぶり青春を見る

安東浩正

■8月最後の週末、ひさしぶりに礼文島の桃岩荘に帰っていました。旅人の多い地平線の皆様ならご存知かと思いますが、ここは日本一有名なユースです。いやいや世界で一番、味のあるユースでしょうね。9年ぶりでしたが何にも変わっていませんでした。恒例の名物歌って踊るミーティングの後、頼まれて安東のシベリアの話もしました。なにしろ最北限スコトン岬からサハリン見えますもんね。でも「最北限」って何じゃあ、と思ったのですが、なんでも宗谷岬にわずかに負けて最北端でないことがはっきりし、役場の人が限りなく北に近いからと悔し紛れにつけたそうです。しかしやっぱり桃岩はすばらしい。ここには青春があるんですよ。人生一度は桃岩に泊まる必要があります。

◆さて稚内はこの間のシベリア縦断の出発地であり帰国地でもありました。市長はじめお世話になってばかりだったのですが、さらに今回講演に呼んでいただいたのです。横田市長を表敬訪問しますと、つい3日ほど前に関野さんがサハリンからシーカヤックで渡ってきた、とおっしゃるではないですか!今年1月、間宮海峡でも10日ほどのニアミスでお会いできませんで、今回も残念。しかし関野さんは万能選手ですね。安東は海の知識がまったくなく、海は大きな壁で人力では渡れないというのに。

◆北極点の故・河野兵市さんも稚内には縁が深く、ここは冒険家が集まるところです。夏の間は、宗谷岬はチャリダーだけでも一日数十人くるらしい。ライダーなんてもっと多い。なにゆえに人々は先端を目指すのか?そしてその先端を越えて行った大親分が間宮林蔵ですが、再来年は間宮海峡発見200周年だそうです。

◆さて、自転車の雑誌「サイクルスポーツ」9月号から安東のシベリアの連載を再開しています。おなじみのシール・エミコさんも好評連載中です。ぜひお手にとってご覧あそばせ。山渓10月号でもドドーンと9ページもらいました。報告会に来られない方はこちらを是非ご覧下さい。(最北の自転車野郎9月8日)

■「地平線」にも通えず、試練の日々─
「ハセツネ」から冒険レーサーへの道

 11月の300回記念以来、ご無沙汰しております、鈴木博子です。去年の長谷川恒男カップ山岳耐久レース(「ハセツネ」)以来、山を走ること、トレイルランニングに夢中になっていまして、アメリカのトレイルランニングレースのシリーズ戦、モントレイルカップに出場したり、アドベンチャーレースの世界に頭を突っ込んだりしていて、あっという間に時間が経ってしまいました。

◆トレイルランニングとは、マラソンのようにロードを走るのではなく、日本でいう登山道のようなアップダウンのあるダートの道を走ることを言います。短い距離のレースもありますが、私が好むのは50km以上の長い距離。長ければそれだけスピードが遅く、それだけ自分の力だけではどうしようもないことに気付き、周りの力を感じられる。走力だけで結果が出ないところに果てしない魅力を感じているのです。

◆去年のハセツネ、これが私の運命を変えました。思いもよらず女性2位という好成績、そして感動と共に訪れた、ものすごく楽しかったという印象、周りの人たちからのおだて言葉。「私にもできるのではないか。やってみようか」と思い。実行に移すまでに時間はかかりませんでした。それまでランを私のライフスタイルにするなんて夢にも思ったことはなかったのですが、人生を変える瞬間というのは唐突に訪れてくるのですね。

◆トレイルランニングといえば、モントレイル(靴のメーカー)。モントレイルのことを調べているうちにトレイルランニングのシリーズ戦、モントレイルカップというのがアメリカであることを知りました。それはモントレイルに指定されたトレイルランニングレース、50km、50mile、100km、100mileの距離それぞれ3レース、合計12レースのうち4レースを選び、そのポイントで年間順位を争う、というもの。

◆日本からアメリカまでの渡航の都合、体への負担などを考え、4月から7月までの4ヶ月で1か月1レース、合計4レースに出ることを決めました。ノースフェイス、モントレイルより、ユニフォームを支給してもらうことが決まり、トレーニングを始めたのはいいのですが、どんなトレーニングをしていいかもわからず、本を読んだり、人に聞いてみたり、日々試行錯誤の連続でした。山に行き、ジムに行き、プールに行き…気合だけが空回りし、オーバートレーニングで体が全く動かなくなってしまったこともありました。失敗を繰り返しながらも、でも楽しく時間が過ぎていきました。そして、同時にアドベンチャーレースの世界にも首を突っ込んでいきました。

◆アドベンチャーレースの世界へのきっかけはやはり、去年のハセツネでした。第二関門からずっと後を付けさせてもらった束村宏さんがアドベンチャー仲間を紹介してくれ、あっという間に世界が広がっていったのです。アドベンチャー世界はまだ発展途上。アドベンチャーレースはもとより、オリエンテーリング、MTB-O(マウンテンバイクオリエンテーリング)、など、アドベンチャーに関する大会に行けば、いつも同じ顔が合わせ、どんどん知り合いが増えていく、仲間が増えていく、それこそイモヅル式に輪が広がる。毎週のように何かの大会、練習会に誘われ、みんなで体を動かし、風呂に入り、おしゃべりをする。自分の上達も感じることができ、どうにもこうにも楽しくてたまらない。それと比例して資金面ではかなり苦しくなっていきましたが、もう止められない。練習、遊び、大会で目まぐるしく時が過ぎていき、地平線にも通えずにここまできてしまったという感じでした。

◆さて、モントレイルカップ4戦はまだまだ可能性があるという印象で終わってしまいました。4戦とも完走はできたし、楽しくて、いままでにないほどの感動を得た。目標も生まれ、これからもずっとトレイルを走っていきたいとも思えた。しかし、オーバートレーニングから始まり、膝の故障、コースアウト、ペース配分の失敗…。力を充分に出し切れなかった悔しさ、自分の弱点を克服していきたい思いは強く心に残っています。4ヶ月の遠征で得たものはとっても大きかった。またリベンジしたいと思っています。

◆そして、今私が目指しているものは9月16、17、18日に行われる、日本で一番大きな大会、伊豆アドベンチャーレースです。あのハセツネで出会ったアドベンチャーレースのベテラン、束村さんがチームに誘ってくれたのです。伊豆アドベンチャーレースとは、3日間ノンストップで行われるレースで、女性一人以上を含む3人一チームで構成され、伊豆の山の中を地図とコンパスをもって、ラン、マウンテンバイク、カヤック、懸垂下降などといった多種な人力方法でポイントを獲得していくレースです。精神面でも、体力面でもハードといわれ、かつ、仲間との助け合い、協力、コミュニケーション能力が問われる競技です。去年まではアドベンチャーレースのアの字も体験していなかった私がいきなり、こんなに大きなレースに出場するのはとっても引けましたが、せっかく巡ってきたチャンス、と出場を決めました。束村さんの知り合いで、アドベンチャーレーサーの芝田さんと三人でアウトドアウエアで知られるColumbiaのサポートを受け、「Team Over The Peak Columbia」というチームを結成しました。競技用の新しいマウンテンバイクを購入し、カヤックの練習に通い、地図読みをしながら山に入る。とにかくいろんな要素が必要になるアドベンチャーレース、わからないながらも二人に助けられ、練習で参加した初アドベンチャーレースのエクストリームシリーズ「奥多摩アドベンチャーレース」では優勝することができました。伊豆ではどうなるかは想像もつきません。けど、自分のできる限りの力を出して頑張るのみです。

◆これからどんなことが待っているかはわかりませんが、トレイルランニングを主にアドベンチャーレースの世界にどっぷりはまっていくことは確かです。自分の本当に好きなこと、本当に楽しいと思えること、それが見つかり、そこに向かえることが今、とっても幸せだと思っています。いつまでも楽しんでやっていきたいと思います。(9月7日)

坪井伸吾 なんと再スタートへ!

アメリカ横断走り旅から帰ったばかりの坪井伸吾さん、なんと「残した区間もクリアしたい」と、「続行」を宣言、9月14日、走り旅再挑戦に向けて日本を発ちました。「あまり寒くなり過ぎないうちに、一日でも早いほうが気が楽です」。11月前半には終了して帰国の予定だそうです。熱暑のためバスで通過したモハベー砂漠も走りとおしたい、と意気軒昂でした。再出発前、以下の文章を寄せてくれました。(E)

〈歩くことと走ること〉

 北米を徒歩で横断した人を二人知っている。ひとりは河野兵市。もうひとりは池田拓。悲しいけれど、二人とももうこの世にはいない。池田君は92年。河野さんは01年に亡くなっている。池田君に最初に会ったのは90年の4月、南米チリの首都サンチャゴのペンション早乙女だった。旅の足であるバイクが壊れ、どうしようもなかった僕が台所で安ワインを飲んでたら、紫色のカッパを来た彼がひょっこり現れたのだ。その時、すでに彼は北米横断を終え、南米を南下中。旅先のあちこちで聞いた彼の噂から、熱血体育会系なヤツだろーな、と推測していたが、会ってみると実に静かな人だった。

◆それから1か月後、今度はパンアメリカンハイウェイを歩いている彼と会った。道は一本しかないから、また会えるだろう、と思っていたら案の定だ。でも、それが最後だった。94年、帰国していた僕は大阪の紀伊国屋で彼の本(注・無明舎刊『南北アメリカ徒歩縦横断日記』)を見つけた。お、本になってるやん!と手に取ると、帯に 「享年26歳」の文字が。池田君は92年に新宿の工事現場で落ちてきた鉄材の直撃を受け、亡くなっていた。

◆時は流れ5年後の97年、河野さんの北極単独行の直前に大阪でJACC(日本アドベンチャーサイクリストクラブ)の壮行会があった。その席で、河野さんに池田君のことを訊いたことがある。かって南米で河野さんと池田君は知り合いだ、と聞いたことがあったからだ。僕の問いに河野さんは一瞬間をおいてから「彼のお父さんが凄く悲しがっていたよ」とだけ答えた。その時の河野さんは辛そうで、余計なことを聞いてしまった、と思った。

◆それからしばらくして、新聞の旅記事で池田君のことを書いたのがきっかけで山形の彼のご両親とあった。河野さんのことを話すと、お父さんの昭二さんは拓君が事故で病院に運ばれてから亡くなるまでの5日間、河野さんがベットの傍らにいたと話してくれた。

◆今回、北米を走る前に山形の池田家を再訪した。何か遺品をひとつ旅に持っていき、池田君にもう一度アメリカを見せてやりたい、と思ったのだ。ご両親の許可をもらい、彼が亡くなった当時のままになっている部屋から、飛び魚、のキーホルダーをお借りした。

◆とはいえ彼の辿ったルートを再現するつもりはない。いや出来ない。サンフランシコからスタートし、冬のロッキー山脈を越え、9か月後に大西洋にたどり着いた池田君。彼にとって北米横断は南米縦断のためのトレーニングにすぎなかった。僕は彼とは反対に、できるかぎり楽に旅したいと思い、気候のいい時期を選んだ。(旅の方法としてランニングを選んでいる時点で矛盾してるけど)。僕は歩くほうが走るよりもキツイと思う。あたりまえだけど、歩くほうが走るよりも遅い。町同士の距離が長い区間では、遅ければ遅いほど野宿の回数が増える。野宿が増えると水や食料を余計に持たなければならない。この悪循環から逃れる術はない。ところが池田君の本に泣き言はなく、河野さんにいたっては北米徒歩横断なんて遊びなんだろう。壮行会で話を聞いたときには一言もでなかった。

◆ユタ州の田舎で野宿した時、夜中に不気味なラップ音が鳴り続けたことがあった。僕は池田君から預かったキーホルダーを取り出し「おおい、拓。なんとかしてくれ」と拝んだ。もう一度アメリカを見せてやる、なんてとんでもない思い上がりで、彼のキーホルダーはお守りだった。このままじゃ、あまりにも彼にカッコ悪い。一回で走り切れなかったけど、北米横断ランはまだ終わっていない。もう少しつきあってもらうよ、池田君。(9月4日 坪井伸吾)

■三線(さんしん)新人賞 合格しちゃった!

長野淳子

 江本さん、ご無沙汰してます。8月25日に沖縄から戻ってきました。実は2年ほど前から三線をやっていて今回は「沖縄古典芸能コンクール」の新人賞を受けに行って来ました。これは古典芸能の継承と人材の育成のため、琉球新報が主催して年に一回、那覇で開かれるもので、今年で40回目です。この暑い時期に全国から大勢集まって、唄三線、太鼓、笛、琴、舞踊などの部門に分かれて自分の技量を試すのです。

◆7人の審査員の前で5分弱の舞台(唄と三線)をこなすのですが自分でも想像できなかった緊張を味わいました。舞台上のスポットライトで目がくらくらして、よくドラマの刑事ものであるようにもう何もわからなくなって、「すいません。私がやりました」って言ってしまうような感じ。軽いめまいを感じながら、でも体だけは勝手に反応して演奏し終えていました。練習してたから体が覚えているんですよね。

◆で、おかげさまで新人賞、合格しました。杉田晴美さんも一緒に受けて見事合格しました。奥深い古典の表層をチラッとのぞけたかなという感じではありますがなんだか、どんどん面白くなってきそうです。(8月31日)

■自由研究

台湾について

落合哉人

昨年11月の300回記念フォーラムの実行委員長をつとめた落合大祐さんが8月18日から24日まで小学6年の長男、哉人(かなと)君と自転車で台湾を走ってきた。その模様を哉人君の夏休みの「自由研究」の日記から報告してもらう。(E)

[8/19]バスに乗り、高雄(ガウシュン)から3時間かけ、終点の墾丁国家公園(鵝鑾鼻)に着きました。そこから自転車に乗りました。今回の旅の目的は、主に自転車を使って台湾を一周することでした。その日は20キロ位走り、恒春という小さな町に行き、そこで泊まりました。

[8/20]朝7時ぐらいから自転車に乗り、知本温泉という場所を目指して走りました。8時半ごろ一回休憩し、店で買ったマンゴー牛乳を飲みました。しばらくすると山道が始まり、2時間半の間、20キロ登りました。とても辛かったけど、たまに僕の横を通る車が応援してくれ、うれしかったです。また、そのあと20キロ下り、その後、近くの町で昼食を取りました。午後1時位に出発し、太麻里(タイマーリ)という町まで50キロ走りました。知本温泉までは残り18キロだったけど、もうおそい時間だったので、そこで泊まるかそれとも知本温泉まで行くか迷いました。足が痛かったけど、きょう行かなくても明日行かなければいけないのでがんばって走りました。着いた時は本当にうれしかったです。その日、走った距離は117キロでした。

[8/21]この日は朝、少しゆっくり起きて出発しました。温泉は入ったけど、足がすごい筋肉痛でとても痛かったです。目標の花蓮までは180キロあったので、2日に分けて走ることにしました。この日は昨日みたいに山道がなく、下りが多かったので楽でした。お昼ごろ、台湾では有名な肉まん屋の前を通りがかったので、そこでまんじゅうと肉まんを食べました。日本の肉まんと違い、肉以外何も入っておらず、とてもおいしかったです。その後はあんまり休息も取らずひたすら走り、夕方ごろ長濱(チョンビン)という所に着きました。長濱はとても小さく、地図にも載っていませんでした。端から端まで歩いても3分で着いてしまうのでとてもびっくりしました。

[8/22]朝7時45分に出発しました。しばらく進み、9時5分に北回帰線という夏至の日に太陽が通る道の真下に来ました。その10分後ぐらいに石梯坪というめずらしい岩がある観光名所に行きました。僕はただの石とどうちがうのか分かりませんでした。今日はいつもより早く進みました。4時前には花蓮に着いてしまったので、花蓮をしばらく見て回りました。その街はとても大きく東京みたいでデパートがたくさんあり、いろいろな物がそろっていました。台湾のいなかは日本と比べて山道がとても多かった。山道がない都市は楽かと思っていたら、バイクの通行がとても多いのでかえって大変でした。

[父親から] 1週間の夏休みを使って、小学6年生のカナトを連れ、台湾へ行ってきた。一昨年、急に思い立ってアフリカへ向けて自転車で漕ぎ始めてから、初めての海外行きである。台湾最南端の鵝鑾鼻(「がらんぴ」、中国語だと「ウォールアンビー」Eluanbiというような感じの音になります。「鵝鑾」は、地元のバイワン族の言葉で「帆」という意味だと解説されています)から、東海岸の花蓮まで峠越えを含め約320キロ。もちろんアフリカへの道程と台湾とは何にも関係なく、自転車で旅をするトレーニングをしてみた、というに過ぎない。反抗期の入口に差しかかった子供を連れ出すのは、それほど簡単なことではない。当初の目的だったアフリカ行きも一朝一夕に実現できるとは思っていない。それでもカナトにつらい思いをさせるのは父親のわがままなのだ。真夏の炎天下でペダルを漕ぐうちに、きょうの目的地までの距離や時間の計算をし、坂道を登って位置エネルギーについて考え、地球の自転について思いを巡らせる。町の中心にある記念碑から近代史を学び、食事から文化を違いを思い知らされる。こうしたことを教室でも反芻しながら、より深く理解する。意図している訳ではないけれど、結果として「生きる力」を身につけてくれればよい。そこに「旅育」の意味があるのではないかと、勝手に考えている。(9月9日 落合 大祐)

■吉岡嶺二さんからの葉書

 カナダより、暑中お見舞い申し上げます。 7月31日、ガスぺに着いて念願の「北米五大湖から大西洋へ」が終わりました。昨年は身ぐるみ一切を艇ごと流されてコーストガードに救助されたり、運河旅のクルーザー艦隊の後に従いて行ったり、様々の体験をした旅だったのですが、今年は一転して厳しい海旅。強風波浪にもみくちゃにされ、一方で野次馬根性マル出しのアザラシの包囲網を漕ぎ抜けたりして、大西洋をたっぷり味わうことができました。キングストンを出発して二夏、35日、セントローレンスを存分にエンジョイしました。この後は陸路をしばらく放浪して帰ります。

「人生なんて、いくつになっても、やってみなきゃわからない」

森田靖郎 作家

地平線会議発足の呼びかけ世話人のひとりであり、年報『地平線から』初代編集長だった森田靖郎さんの新しい小説が刊行された。『犯罪有理〜だから、日本人を殺した〜』。第1作の『見えない隣人』第2作の『黄金夢』(文芸ポストに連載中)に続く第3作。ノンフィクションからフィクションに移行した心の風景を表現してもらった。(E)

〈「小説」というカクテル〉

 先日、古い友人を見舞った。病院に寝付かないことを願って、根のない切花を手にして病室を訪ねた。この日はたまたま手術前日で、友人は医師の説明を受けていた。

◆「これが病巣ですね」執刀医はCTスキャン、MRIの画像を前に、黒い影の部分を指差した。──まさにノンフィクションの世界だ。正義感と使命感に煽られ鋭利な文章で社会の悪を抉(えぐ)る、ノンフィクション時代の私を思い出した。

◆「先生、病巣を切れば友人は完治するんですね」 言葉をなくした友人に代わって私が聞いた。「悪ダマウイルスが善ダマウイルスも侵しますから、悪いものは切り取ったほうがいい」まるで犯罪をウイルスに喩えた社会を言い当てているようだ。「術後は……」正直、友人はその後の持ち時間を知りたがっている。「手術後の、生存率は……」執刀医は、データを検索している。「一に体力、そして生きる気力ですよ。一緒に病気と戦いましょう」主治医が友人の手を握った。

◆手術で病巣を抉る執刀医はノンフィクションだが、病気と向き合い生きることを説く主治医は小説の世界だと思った。一年前、私はノンフィクションから小説に踏み込んだ。禁断の小説の世界に飛び込む私を、編集者は首をタテに振らなかった。「ノンフィクションの実績を捨ててまで、なぜ小説に」 さらに、「小説家なら、新人扱いだ」と、追い討ちをかけた。

◆正直、ノンフィクションなら私の分野に限るなら、ライバルは片手であまる。しかし、小説となると、その数は降る星ほどある。文芸の編集者は、ダンボール箱に詰め込まれた原稿の山を見ながら、「この中で単行本になるのは一年で二、三本。いま原稿を預かっても十年はかかる」と、ため息をついた。あれから、小説として三冊目を発表できたことは、編集者の言葉を借りれば「強運な星の下に生まれた」のだそうだ。

◆小説とノンフィクションは、同じ文章の世界だが、まるで違う生き物だ。ノンフィクションは繊細で、贅沢でしかも好き嫌いの激しい生き物だ。だが、小説は大食漢の雑食動物だ。どれだけの情報を積み上げても喰い足らない。小説一冊でノンフィクション五冊分を喰いつぶした。

◆人に聞かれて私はこんな風に答える。「ノンフィクションは、もぎ立てのフレッシュジュースだが、小説は中身がなにかわからないミックスジュースのようなものだ」。ある人は、「酔わせて欲しい」から「カクテルにして……」と。

◆『犯罪有理〜だから、日本人を殺した〜』(毎日新聞社刊、1890円)。私がどうしても書きたかったたぐいの小説だ。内容は読んでもらいたいが、キーワードだけ拾ってみる。「父が二度殺された」 北陸の温泉で病死したはずの父が、大阪の山林でバラバラ死体で発見された。家族が知らぬ間に父の戸籍には、中国人の妻が……。

◆「カネ、カネ、キンコ」と、カタコトの日本語で脅すことから、その強盗団は「K号犯」と呼ばれている。日本全国を荒らしまわる中国人強盗団の隠し金と替え玉連続殺人犯の「したたかな結び目」を追った編集長。「死体とカネがどこで入れ替わったのか」。「チャイナマンズ・チャンス」。遺産を独り占めしたはずの中国人妻が知った、その本当の意味とは……。

◆あとがきには、「さまざまな真実の糸を手繰り寄せ、ひとつの事実を追い求め、迷宮の見えない出口から這い出すには、ノンフィクションでも小説でも手法にとらわれるべきではない。犯罪の根底にある動機、背景となる社会や時代……つまり人間、空間、時間これらを再構築していくと小説という領域に踏み込んでいた」と結んだ。小説といえども強固な事実に立っていないと、眼力ある読者を文章では組み伏せられない。

◆私事だが、この夏30センチを超える尺アユは逃した。が、「十年早い」といわれたフォルクローレの難曲に挑み、上手い下手を別問題にして完奏ができた。「上手くなった境地は、なってみなきゃわからない」ことを知った。「知らない自分との出会いと発見」が、まだ自分に残されていることに驚いた。人生なんて、いくつになっても、やってみなきゃわからない。なんでもやってみる価値はあるものだ。(9月5日)


■エミコ&スティーブの旅再開記念トーク!

 奈良にいるシール・エミコさん、夫スティーブとことしも世界一周に向けて「復活旅」をスタートします。12月20日頃、出発、タージマハール寺院から3か月かけて、ネパールのカトマンズを目指す予定。その旅を前にインド、パキスタン編のスライド&トークショーが開催されます。アメリカの自転車メーカー、キャノンデール社の「06年度モデル発表会」でのイベントです。

■先月の発送請負人

海宝道義 森井祐介 関根皓博 江本嘉伸 三輪主彦 藤原和枝 落合大祐 関根五千子 大西夏奈子 安東浩正 新垣亜美 武田美佳 武田絹世 武田真珠(まなみ) 武田力 坪井伸吾 岸本実千代 岸本佳則 横内宏美 西牟田靖 妹尾和子 李容林 三輪倫子

8月の通信は、16ページになってしまったため、印刷、折り作業の人手が多かったのは、ほんとうに助かりました。作業を終えた後は、海宝道義さんのおいしい手打ちうどんコース。皆、一斉に調理室へ移動して、賞味。以下、メニューです。「ベーコン入りのレタススープ 砂肝のサラダ ベーコン入りのスクランブルエッグ 桜うどんと普通のうどんの2種 漬けまぐろとごはん 自家製キュウリと青シソ入りの一夜漬け うぐいすもち 28茶」海宝さん、皆さんに感謝!


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

チュコト半島冬景色

  • 9月30日(金曜日) 18:30〜21:00
  • ¥500
  • 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「僕はあんまり里恋しくならない性質(たち)なんだけど、今回は思わず帰りたくなるくらい、しんどい旅だったワケなんですね」というのは、ボーケン家の安東浩正さん。'02〜'03に自転車でシベリア横断を果たした時、ゴールしてはじめて「まだ東の端っこがある」ことに気づきます。“そこに端っこがあるから目指す”サイクリストの習性に従い、今年4月にサハリンからスタート。トラックのわだちを頼りに北東に進みます。

前回苦労した低温も特別仕様の装備でクリア。マイナス50℃も寒くない。トナカイ遊牧民のチュクチ族や、漁師のエベンキ族との交流を楽しみました。唯一の問題は道。あまりに劣悪な冬道の格闘は想像以上でした。5月中旬にはベーリング海沿岸のエグベキノット着。ここまで約5800km。最東端のチュコト半島デジネフ岬まであと400km。しかし気温が上がり、物理的に進めなくなり、ここでゴール。

今月は安東さんに、極東シベリアボーケンサイクリングのてん末を話して頂きます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)

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