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こんにちは。いよいよ梅雨。蒸しますね。6月12日の東京は29.8度。シティー・マラソン(10キロ)では21人のランナーが熱中症にかかって手当てを受けたとか。4日に広島県福山城ー愛媛県今治城で行なわれた「しまなみ海道100km遠足(とおあし)」の暑さ(29度)を思い出した。エイドはほぼ5キロおきにあって十分なのに、スポーツドリンク、コーラ、アイスクリーム、など、道々、何度も買っては水分補給して、脱水症状から免れた。
●非常にゆっくりペースなのだが、歩き続けていては、関門に間に合わない。のろのろと、しかしともかくも走るのである。遅いランナーにとっては、涼しくなる日暮れ時が楽しみだ。いつものように、瀬戸内の海に落ちる美しい夕陽に感動しつつ、大きな橋を渡りきって愛媛県に入ったエイドでは、熱いお茶がおいしかった。夜の今治市内をひた走り、制限時間まであと6分というところでゴール。実はこの後が、もうひとつの挑戦だった。
●急な事情で最速で帰京することになり、ゴールの10分後には完走のご褒美の今治名物の大タオルをもらって今治港に向かった。22時35分出航のフェリーに乗って、食事を取り風呂に入り、狭いマットと毛布で仮眠。翌5日午前5時30分には神戸港に着いた。ここからバス、電車を乗り継いで、6時55分の「のぞみ」に飛び乗ったのだからすごい。9時には東京着のはずが、途中「新幹線を近くで見たかった」と、線路内に入り込んだブラジル人のばかもん(翌日逮捕された)のせいで1時間30分も立ち往生、でも昼前には帰宅できたのは、あちこち義理を欠く結果となりはしたが、大したものだった。
●6日には71才の斉藤実さんが、7日には66才の堀江健一さんが、相次いでヨットによる無寄港世界一周をなしとげてゴールインし、久々にヨット老青年の冒険がメディアを賑わせた。70才でエベレストに登った三浦雄一郎さんは今度は75才でチベット側から登りたい、と表明しているし、冒険爺さんたちの飽くことない頑張りは困ったものである。
●先月のこのページで少しふれたそのエベレスト。今年は天候が悪く、なんと6月に入っての登頂が断然多かった。例年は5月10日から25日前後までにほぼ登山は終了するのが普通なのだ。ことしも話題がいろいろあったが、ここ数年気になっているのがルーマニア生まれのアメリカ人、ゲオルグ・ディジマレスクとそのネパール人の妻、ラクパ・シェルパのことだ。
●チャウシェスクの独裁がルーマニアを支配していた頃、ディジマレスクは、走っている列車からドナウ川に飛び込み、アルプスを越えて西側世界に脱出した。登山家ではなかったがアメリカで市民権を得た後、ワシントン峰を冬期に登ってクライミングに目覚めた。共産主義の閉ざされた社会から解放され、“自由の天地”で生きる手立てが、登山だったのだろう。
●学校も診療所もない、マカルーの麓の村で9人の兄妹とともに育ったラクパにとっても登山が人生を変える手段だった。2000年にネパールがはじめてシェルパニ(シェルパ女性)だけのエベレスト登山を計画、ラクパは、リーダーとしてネパール女性初の「登頂、かつ生還した者(登頂したが下山途中死んでしまった女性はいた)」となった。カトマンズで国王から勲章を受けたラクパは、祝賀会でディジマレスクと出会い、登山を中心とした人生に互いの共通点を見出だしたのだろう、翌年結婚した。
●ディジマレスクは、1999年以来毎年エベレストに登頂しており、ことしはなんと7回目の「毎年登頂」をねらっていた。妻のラクパも実に「5度目の登頂」を。最新情報では6月2日、ふたりは無事登頂、夫婦で連続登頂の夢(!?)を達成した。
●しかし、話題ということでは、ハイライトはヘリコプターが世界最高峰に着陸した、というニュースだった。フランスのEurocopter社のテスト・パイロット、ディディエ・デルサルで、5月14日、標高2866mのルクラ空港を飛び立ち、午前7時08分、8848mのエベレスト山頂に着陸したという。滞頂2分以上。 国際航空連盟では2分以上滞在していないと着陸と認めないのだそうだ。
●えっ?そんなことあり?という気持ちで『岳人』7月号のコラムに書いたのだが、6月に入って、疑義が生じた。頂上ランディングは成功しておらず、サウスコルどまりだったのでは、との新たなニュースが飛び込んだのだ。この件、いまから検証するつもりだが、どんな話題性に富んだ話でも、どんでん返しがあり得ることは、常に心しておかなければならない。
●最後に、帰京を早めた「急な事情」とは、我が家の大事な家族、12才4か月の大犬のくるみが突然倒れ、動けなくなったこと。現在も、危険な状態が続いているが、十分幸せな日々を過ごしてきたわんこなので、あまり心配しないでください。[江本嘉伸]
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藤原和枝 |
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◆大学4年生で目下就職活動中の私は、企業の2次選考会を終え、リクルートスーツ姿のまま会場に駆け付けた。今回の報告者は、地平線受付仲間のおばさんバックパッカー、藤原和枝さん。ちょうど母にあたる年代だが、そのパワーはすごい。2年程前、地平線の2次会で終電ギリギリまで飲んで2人で神楽坂駅までダッシュをした時も、現役ワンゲル部員の私を差し置いて堂々の1位だった。いつも隣の席で明るい笑顔を振りまいている藤原さんが一体どんな報告をするのか興味津々だった。
◆旅の始まりは、70年代。ソ連経由でヨーロッパ西部へ。行く先の美術館、博物館は全てまわった。「とにかく本物を見たかったの。教科書で見た物を、ちゃんと自分の目で確かめたかった」
◆その後商社マンと結婚した藤原さんを待っていたのは、アメリカでのしがらみだらけの駐在日本人社会だった。2年後、長男を出産。アメリカ生活8年間のうちそれからの6年間、子育てを「ほんと、必死でやりました」。その声に、力がこもる。子育てに欠かせなかったのが、英会話の熟練だ。子どもが病院にかかった時、医者に容態をしっかり伝えるために。幼稚園や学校で子どもがケンカをした時、その言い分を学校側に主張するために。「それができないと、『お宅の子は乱暴ね』で終わってしまう。アメリカではお母さんが弱いと子がかわいそう。もちろん差別もありましたし」。まさに、母は強しだ。このアメリカでの体当たりの子育てで養われた叩き上げの英語力は、その後大いに活かされる事になる。
◆日本に帰国した藤原さんは、以前から興味のあった日本語教師となる。ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア…あらゆる国の人を対象とした日本語教師生活16年の始まりだ。普段当たり前のように話している日本語も、教えるとなると難しい。「“しゃべる”と“話す”、どう違うの?って聞かれるんですよ。それをきちんと理論で説明しないといけない」。テキストだけでは、微妙な日本語のニュアンスを伝えることはできない。個人的に調べた資料やお手製のプリントで、ファイルがどんどん増えていった。「音声」についても研究した。日本人の話す日本語と外国人の話す日本語の違いについて、言語学的に分析をしたのだ。それによると、音の長さやイントネーションのちょっとした違いが違和感に繋がるとのこと。その“ちょっと” を、藤原さんは見逃さず(聞き逃さず?)に指摘する。
◆熱心に日本語を教え、そして生徒からも多くのものを教わったという藤原さんだが、2年前にこの仕事を辞めた。ビザの為だけに学校に来る中国人生徒が大半を占めるようになり、クラスが荒れ出してしまったのだ。「今大切なのは、時間だ。残る人生は、旅に捧げたい」
◆1回の旅は約2か月。2人の息子さんを持つ主婦が2か月も家を空けるのはタイヘンでは‥、と思うが「うちのダンナは、やりたい事をやっていいと言ってくれます。それはきっと、私が子育ての殆んどを1人でやった事を感謝してくれているんだと思います」。ちょっと遅れて長めの有給休暇をもらっている、といった感じか。
◆家族の理解の元、格安航空券を手にいれるとひょい、と家を飛び出し、一人旅にでる。「全て自分で決められる一人旅が大好き」。旅先では、自分の感情のおもむくまま、よく動く。土地の人が利用するマーケットに行くし、駐在日本人が危険だというバスにも乗る。旅人がその国の本当の姿に2歩、3歩と歩み寄る時の最大の妨げとなるのは、不安、恐怖といった防衛本能だろう。しかし、藤原さんはいつだってしっかり本物を見つめている。子育ても、日本語教師の時も、そうだった。必要以上に怖がる事はない。あとは、オープンマインドで現地の生活を、多くの出会いを楽しむのだ。
◆突然さっと取り出されたのは、旅先の空気を吸って少しくたびれた、ふかみどり色のリュック。藤原さんの背中にピッタリと納まるサイズだ。2か月に及ぶ旅でも、荷物はこのリュック一つ。たったの8kgだ。本日はその中身を、一挙公開!
◆替えTシャツ1枚、長袖シャツ1枚、下着の替え3組。衣料品は、これでおしまい。「セーターくらい持っていかないの?」江本さんの問いに、「おばさんでも女性なんですね、砂漠で0℃になっても、男性が貸してくれるのよ」。そう答える藤原さん、むしろそういう交流を心待ちにしている余裕が漂う。
◆以下、その他の旅の品の数々。折りたたみ傘、ガイドブック、デジカメ充電用の変圧プラグ、ストッパー(水場の流れ止め。洗濯用)、針金でベルトを補強した肩掛けバッグ。うんうん、旅のプロっぽい。荷紐(新聞をくくるやつ。洗濯物を干す用)、試供品シャンプー、ホテルの歯磨き粉(なくなったら現地調達)。だんだん話が主婦めいてきたぞ。極めつけは、「廃品」だ。夫に捨ててくれと渡された、穴の開いた靴下。でも、一体何に?答えは「フレッシュな鳩の糞だらけの中東のモスクで裸足になる時や、トレッキングで一足しかない靴をドロドロにしないため靴の上からカバーとして、履く。汚れたら捨てる」そうです。ご長男が中学生の時のジーパン(貴重品を入れたサポーターを太腿に巻くので、外からわからないように大きめのズボンを穿く)。旅に出る時に買って持って行く物は1つもない。お金をかけず、荷物は軽く、目の前の環境を楽しむ。さすが主婦、質実剛健。
◆後半は写真を見ながら、やや急ぎ足の解説となった。振袖を着てすました顔のアメリカ人の女の子、運動会で生き生きと走るアフリカの青年。日本語学校での写真では、藤原さんと生徒1人1人とのストーリーが語られた。揺るぎない存在感の歴史的建造物。大胆に切られた赤と白の牛肉(激安)が並ぶ、青い壁の肉屋。薄青色の空に突き刺さりそうな勢いで鋭く尖る、美しいフィッツロイ山。これらは、つい2か月前の南米の旅の写真だ。中でも最も私の印象に残ったのは、南米最南端の町ウィシュアイアでの2枚。カーニバル、闇夜に映える白とブルーの羽のついた衣装を身に付けポーズを決める、黒人の女の子。地の果ての刑務所にちなんでバイクも服も黄と青の縞模様で統一している、がっちりした体のライダー。どちらの写真も、藤原さんの「ねぇ、ちょっと1枚撮らしてよ!」という声や彼らとのやり取りが聞こえてくるようで、なんだかふふっ、と気持ちがほぐれた。これからもきっと、藤原さんは周りの人を巻き込んで賑やかな旅を続けて行くのだろう。
◆地平線会議に参加すると、時々ある詩を思い出す。「大人になることは、すれっからしになることじゃない」と。ゲンキな大人の姿は、見えない未来に不安を抱く青年達を勇気づける。来年の今頃は、きっと私は社会人。また一歩大人に近づくが、やわらかな感受性や純粋な好奇心をずっと、持ち続けていきたい。[まだまだ花のダイガクセー、新垣亜美]
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〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方 E-mail : / Fax: 03-3359-7907(江本) |
●北村昌之さん(農大探検部監督)から…2005.4.24…雲南省モーハン発…メコン航下終了!
◆ごぶさたしています。中国国内でのメコン川下りを終了させ、いよいよ明日ラオスに入国します。約11年間中国国内を踏査するのに時間を費やしましたが非常に中身の濃い時間でもありました。本来は川沿いに行く(国境をこえる)予定でしたが、たまには陸に上がりたいと思い、陸路で入国し、再び中国・ラオス国境にもどる寄り道をする予定です。海まではあと4ヶ月以上かかりそうですが、雨期のインドシナ半島を満喫してくる予定であります。はたして何が起こるか、期待と不安でいっぱいです。それではお体に気を付けて
●滝野沢優子さんから…2005.6.9…福島県天栄村発
◆3年9ヶ月の旅を終えて日本に戻ってから早や一ヶ月半、帰国当日にJR福知山線の事故があったりして波乱万丈の生活を予期させましたが、ダンナの再就職先も決まり、無事に日本での生活をスタートできそうです。ああ、よかった。といっても家(もともと借家だったけど)も車も、すべて処分して旅に出たので、生活を立て直すのは大変。車を買ったり入用なものをそろえたり、諸手続きをしたりでかなりの出費でした。ホント、旅をするほうがずっとラクです。旅の資金を貯めるときは、帰国後のことも考えておかないといけませんね。
◆今度の住居は福島県天栄村。またしても田舎暮らしです。そのうち古い民家でも見つけて農業でもやりたいなあ、と考えていますがどうなることやら。 それにしても‥、旅で増えた体重のほうは一向に減る様子はなし。日本に帰ったらすぐに痩せるだろう、と思って旅の間じゅう、平気でガンガン食べて飲みまくっていたので、大変なことになっています。これって、ただの中年太り?
●風間深志さんから…2005.6.2…東京都小平市発…近況報告
◆地平線会議のみなさんこんにちわ。その後の風間の怪我の情況について2〜3の方たちから、もしかして心配を頂いているかも知れませんのでお伝えいたします。ー「はい、ドジな風間はいたって元気にやっております。但し、相変わらず左足以外は、の話なのですが。なんせ“複雑開放粉砕骨折” 時間はかかるもので事故後すでに18ヶ月、今また帰国後3回目となる入院を東京板橋の帝京大病院でおこなっております。しかしながら、ようやく今回の入院からは先が見えてきたような気がします。左下腿骨もいよいよくっついた模様で、6月8日には待ちに待ったイリザロフ(足かせのように重い)金具が足からとうとう外れることに…。まだ外れてないので分かりませんが、多分あまり嬉しさと、スッキリ感にボクは涙をぽろぽろと流す事でしょう??その治療が終わったら、リハビリをガンガンと続け、今のボクの目標は復帰後第一弾として、今年中に富士山のてっぺんに登って「おーーーーーい。俺は蘇ったぞーーー!!」と声高らかに雄叫びをあげるつもりです。そして、この富士登山をステップとして、あまり曲がらなくなってしまった膝の再腱のための治療(まだ続くんです)とリハビリに専念して、以前のボクよりずっと元気な人になってやろうかと思っています。今後ともよろしくお願いしまーーす。
●鈴木博子さんから…2005.6.10…ヒロコ子強し!!
◆アメリカでのトレイルランニングレース3レースを終え、帰国いたしました。レースはほんとにとっても楽しく、また近くアメリカに行き、やりたいと思っています。しかし、とりあえず少しの間は日本なので、お近くに来た際には(来ていなくても大歓迎!)是非連絡ください。只今トレイルランにはまっていますが、秋にはアドベンチャーレースがひかえています。MTB、カヌーの練習しなくちゃな。遊びで忙しい(笑)ですが、とっても楽しく、ヤリガイのある趣味を見つけたと思ってます。これからもアドベンチャーにマッシグラだ(笑)。では。
(ウィスコンシンで行なわれた3戦目の「kettle Moraine 100km」で終盤道に迷って10キロ余計に走りながらも13時間04分で完走、総合では11位、女性では3位、29歳以下の年代別では2位。という堂々たる成果をあげた。)
●帰山和明さんから丸山純さんへ…2005.5.15…京都発
◆先日は「地平線大雲海」発送していただきましてありがとうございました。手にする重みをひしひしと感じながら、新緑の季節、ページをめくる日々を過ごしています。
◆私が地平線会議を知りましたのは、バイク雑誌で賀曽利さんのインタビューがありそこで紹介されていました。ちょうど就職で上京し、初めて報告会場へ足を運んだのが1992年5月29日の丸山さんご夫妻の報告会だったのを「大雲海」を調べて思い出しました。「大雲海」の本のページではまだ3分の1くらい。
◆1996年8月の神戸集会は、仕事を変わってもらい行きました。あとは、東京で賀曽利さんの時に1、2回と2004年6月の大阪。ギャラリーではなくいつか私も報告者に‥を夢に、しかし海外はおろか国内ですら旅に出るきっかけがなく悶々とした日々を送っています。
先月の報告会の最後で、八ヶ岳の山麓から山越えして東京までたどり着いたシェルパ斉藤さん、アラスカからやって来た河内牧栄さん、沖ノ鳥島から帰った西牟田靖さんらから一言ずついただいた。以下、本人たちから地平線ポストあて送ってもらったメッセージ。
●バックパッカー/シェルパ斉藤こと斉藤政喜さんから…2005.5.31…山梨県北杜市発
◆昨年11月、八ヶ岳山麓のわが町が周辺の市町村と合併して『北杜』という市になった。その結果、山梨県で一番面積が広い市が誕生したとのことである。なんだかまとまりがない市だなあ……と思いつつ、何とはなしに地図を眺めていたら、ある事実に気がついた。これまでは隣町にあった瑞牆山が「おらが町」になっていたのだ。
◆瑞牆山は奥秩父縦走ルートの西端にあり、尾根沿いにたどっていくと、金峰山、大弛峠、国師ヶ岳、甲武信ヶ岳、雁坂峠、笠取山、飛龍山を経て東京都最高峰の雲取山にいたる。つまり、おらが町から東京まで、車道を通ることなく山道をずっと歩いて行けるのである。開発が進んで土の道が消えていく世の中にあって、これってすばらしいことではないか。面積が広いことなんかよりも、こういう事実を北杜市は誇るべきだ!
◆てなわけで、この山道を歩いてみた。日本百名山に入っていることもあり、登山道は整備されて歩きやすかったし、適度な場所に山小屋もあって、ネパールのトレッキングに似た旅の感覚が味わえた。このルートはバックパッカー向けの街道といっていいだろう。途中で1箇所、大弛峠で車道と交差したが、長野県川上村側の車道はダートになっていたため、舗装路に足が触れることなく通過し、3日間で雲取山に到着。翌日に日原へ下って舗装路に足を踏み入れるまで、約65キロのトレイルを堪能できた。そしてそのまま僕は、ちょっと誇らしい気分で地平線会議の会場へ向かったのである。
◆遠くへ行けばいいってもんじゃないし、海外だから感動が大きいわけでもない。身近な場所でも十分に楽しめるし、達成感も得られる。そんな事実を、自分が暮らす町から東京への旅で再認識できた気がする。
●河内牧栄さんから…2005.6.8…フェアバンクス発
◆5月27日、藤原和枝さんの講演会で初めて地平線会議に参加させていただきましたアラスカ、フェアバンクス在住の河内牧栄と申します。アラスカ通い8年、03年に永住権を得てここに住むようになりました。冬はオーロラツアー、アイスフィッシング、CXスキー、スノーシューなど、夏は北極圏を中心にカヌーやハイキングのガイドをやりながら個人的にも北極圏の川などに出かけてオーロラを中心に写真撮影を行っています。新聞やガイドブックなどに写真、記事の提供もしております。次回帰国の折にもぜひ地平線会議の聴講をさせていただきたいと思います。
●西牟田靖さんから…2005.6.7
◆おかげさまで拙著『僕の見た「大日本帝国」』が売れ始めました。ありがたいことです。しかし、まったく実感がわきません。どうしたことでしょうか。
◆こないだ沖ノ鳥島に行って参りました。正確には5月18-23日にかけてです。東京の竹芝桟橋を出発して25時間半で小笠原の父島。海自の飛行艇US-1でやってきた知事が乗船し、そこから23時間。そうです。合計で50時間弱もの時間がかかりました。東京から沖ノ鳥島までは小笠原行きの定期船、「おがさわら丸」でした。フィリピン最北端や台湾最南端よりも南にある無人島です。定期航路があるはずもなく、ふだんなかなか行けない場所です。知事の視察にくっついていくという、いかにも主体性のなさげな行動パターンは普段なら避けるところですが、今後行く機会がそうあるとは思えなかったので、取材の名目で連れていってもらうことにしました。
◆熱帯の大海原だからか海の蒸発が早く、空気はうすぼんやりとしていて、まるで砂漠の中にあらわれた蜃気楼のようでしたね。そこにあるのは、海のど真ん中にうかぶ微かな白波、高床式の構造物でした。沖ノ鳥島の滞在時間は4時間弱。うち東小島の上陸時間は1時間弱。僕は上陸メンバーに選ばれませんでしたので、客船のデッキから眺めるにとどまりました。デッキからは「島」はまったく見えませんでした。畳2畳分しかない「島」はコンクリートや波消しブロックで覆われ、チタンネットでフタをされていて、国が守ろうとすればするほど、視認が困難になる、というパラドックスを抱えているのでした。存在の必然性がまるで感じられない、ちっぽけな光景は非常に不自然きわまりないもので、「なんだこれだけかよ、金かえせ」って叫びたくなる、そんな代物でした。
◆そんな「島」なんですが、船のチャーター代に2000万円かかるわ、上空は海保のジェット機ガルフファイブは飛ぶは、お着きの船が2隻同行しているわと大騒ぎ。取材しているときは必死だったのでなんとも思いませんでしたが、いざ取材が終わり、部屋に戻ると自然と笑いが込み上げてきましたね。なんでこんななんにもないところに国も僕らも血眼になっているんだろうと。帰りも50時間かけて(小笠原に一泊したのでプラス一泊)戻りました。追伸:今月も懲りずに小笠原に行く予定です。今度は小笠原滞在プラス硫黄島です。
バリ島、光のなかで |
昨年、夏帆ちゃんを撮った写真展を開いた河田真智子さん(ぐるーぷ・あいらんだあ代表)が、バリ島を撮った写真展を開催します。以下は、『あいだんだあ』107号(2005年6月号)の記事より
今年も写真展をやります。本来のテーマ「島」の写真展をスタートさせます。
◆世界の辺境の地にある島を歩くと、織物やセーター、レースなど「衣」の発祥地が島であることが多いのです。海に囲まれた島だからこそ、希少な文化が今に伝えられています。
◆バリ島の先住民族の村トウンガナンでは珍しいグリンシンという布が神事で身につけられます。祭りの日、男も女も野生に還り、自然に溶け込みます。光のなかで生きることに輝く人々の姿を伝えたいと思います。
◆河田は全時間会場にいて、お待ちしております。
◆詳細は河田真智子のホームページをご覧ください。
http://www12.ocn.ne.jp/~match/
■日時 6月27日(月)〜7月2日(土) 10:00a.m.〜7:00p.m. 最終日は5:00p.m.まで ■場所 写真弘社 ギャラリー・アートグラフ 〒104-0061 東京都中央区銀座2-9-14 写真弘社フォトアート銀座内 03-3563-0372 |
足元にピース!
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郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
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