2005年5月の地平線通信



■5月の地平線通信・306号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙5月は、山がうつくしい。いたましい尼崎の電車事故やイラクの悲惨を後ろにして、連休は緑が萌え出した甲斐の山に篭った。仕事と犬たちとの自然の中での暮らしのために標高1100mの山に中古の“隠れ家”を構えて12年になる。フリーになったら1年の半分はそこで過ごすつもりだったが、思ったよりは東京での時間が長いのは、まだ仙人になるほど熟成していないせいであろう。

◆連休が終わると、腕も足も傷だらけになっていた。甲斐の山でさんざんヤブ漕ぎをした酬いだった。このあたり、廃道となった林道が縦横に残されている。犬たちとそこを歩き回り、ひとりになると、今度は新たなルート開拓と称して、遠くの山道をさがして走った。しっかりした道路部分は十分走れるので、距離をかせぐため、Tシャツとトレイル・ラン用の靴という動きやすい身支度。その軽装で毎日のように道とも言えない道をたどり、時には獣道(けものみち)に迷い込んで山の奥まで入り込むうちあちこち傷をつくってしまっていたのだ。

◆ヘビを踏みそうになったり、1mはありそうな長い、見事な尾を優雅にゆすりながら斜面を駆け上がる山鳥と出くわしたり、生き物たちとの出会いが面白かったが、とりわけある夕、切り拓きの斜面に出たところで遭遇したキツネのあわてようと言ったら・・。木の幹に身体を擦り付けるようにしていた彼(または彼女)は、毛並みのいい立派な尻尾を持っていた。あまりにものんびりしているので犬か?と思ったほどだ。こちらが動き出すと、こんな場所に人間があらわれるとは、想像もできなかったのだろう。キョトン、とした様子でこちらを見、次の瞬間、すごい勢いですっ飛んだ。距離20mほど。キツネをこんなにじっくり観察したのは初めてだった。

◆そういう楽しみを求めていると、時に道を失う。そして、道に迷った時は、錆びた空き缶や袋のきれっぱしが頼りとなる。それらを目印にたどると、最後にはしっかりした山道に出ることができた。山でゴミは嫌われるが、ゴミは「生活」の標識でもある。ところで登山ルートでもないこの山のこんなところにどうして空き缶が?と思うが、実は理由があった。私が走らせてもらっている山道の多くは、開拓者たちの苦闘の跡だったのである。

◆突然、あらわれる朽ち果てた木小屋の枠組み、行き止まりになった作業道、ひっそりと建てられた小さなお墓。それらがこのあたりで頑張り、ついに山を下りた森と土の民の闘いをしのばせた。山国である日本は、おそらく多数のこうした働き手たちに支えられてきたのだろう。

◆昨年まで中巨摩郡と呼ばれていたこの付近は、04年9月を期して「甲斐市」となった。平成の大合併政策のおかげで、山鳥もキツネも村民や町民から市民になったのだ。山麓には登山者のための広い駐車場と24時間営業のコンビニも設備された。つい先ごろまで汗にまみれて森や土と格闘していた先人たちの足跡は、これでさらに遠い昔のこととなってゆくだろう。

◆ひと風呂浴びた後は、仕事もする。この通信ではほとんどふれたことがないが、5月はエヴェレストの季節だ。勿論プレモンスーン時期、つまり天候が最も安定する季節として、エヴェレストに限らず、ヒマラヤは賑わうのであるが、世界最高峰だけはどうしても別格なのだ。ことしも多くの登山隊がネパール側、中国側から頂上を目指した。

◆それらの隊の模様が「http://www.everestnews.com/everest3.htm」というサイトで容易に知ることができる。いまどきのエヴェレストでは、多くの隊が衛星電話とパソコンを持参していて、ある程度のPRを兼ねてアメリカ人の運営するこのサイトに自分たちの行動情報を発信するわけだ。勿論、一昨年の三浦雄一郎隊のように連日、独自で写真、登攀日記を(日本語で!)送信してくれる隊もある。

◆固定ロープをどうするか、今年も話題となっている。エヴェレスト登山では登降を安全、スムーズにするためロープを張りめぐらす。しかし各隊がいちいちそれをやっていては、エヴェレストはロープだらけになってしまうし、時間がかかり過ぎるというわけで、経験豊なシェルパを有するベテラン登山隊が請け負うかたちで先行する。その際、その労力に対して他の登山隊はひとり何十ドルかずつ払うのが近年のしきたりだ。その方法、どこまでロープが固定されなければならないか、などについて時に議論が起こる。

◆30年前にはネパール側から、25年前にはチベット側からエヴェレストを取材(登ったのは78000m付近まで)している私には5月は、特別にエヴェレストと重なる季節だ。当時は、高所からどう原稿を送るか、どれだけ足の速いメイル・ランナーにお願いできるか、がすべてだったが、いまは、甲斐の山のみずみずしい緑の中、2匹のわんこを撫でビールを飲みながら一瞬にして各国隊の情報を得ることができる。「山岳ジャーナリスト」として海外情報を発信し続けている身にそれはありがたいが、いまだ信じがたい不思議な状況なのである。(江本嘉伸)



先月の報告会から
4年越しのタージ・マハル
シール・エミコ スティーブ・シール
2005. 4. 23(金) 榎町地域センター

2004年12月、シール・エミコさんの旅が再び始まった。自らの夢であり目標である「世界一周自転車旅行」の途中、パキスタンでガンに倒れ緊急帰国してから4年。5年生存率20%といわれた厳しい状況で手術をし、治療と療養を続け、ついに実現した旅の再開だ。医師から3カ月の許可を得て向かった先は、パキスタンのアボタバード。そこからタージ・マハルのあるインドのアグラまで、パートナーのスティーブ氏との自転車での2人旅である。

◆私が初めてエミコさんのことを知ったのは数年前のこと。山形に住む友人が、月山の山頂神社でエミコさんの快復を祈っているという話を聞いたのだ。そのことは印象に残っていたが、正直に申し上げると旅の途中で病気になられた方であること以外、よくわかっていなかった。エミコさんのことを身近に感じるようになったのは、昨年の「地平線会議300か月記念フォーラム」がきっかけだ。リレートークで賀曽利隆さんによる愛にあふれた紹介(オーストラリアでスティーブさんに出会い自転車に転向する前、オートバイで旅していたエミコさんが、いかに多くのライダーの憧れの的だったかとか、厳しい闘病生活を経て快復したことをどれほど多くの人が祝福しているのかなど)を聞き、続いて登場したキュートなエミコさんに魅了された。もっとこの人の話を聞いてみたいと、今回の報告会に参加したので、その時点では、エミコさんの旅が1987年から始まっていて、これまでにオーストラリア、東南アジア、北中南米、アフリカ、ヨーロッパ、ロシア、中国など77カ国もまわり、走行距離が10万8618キロにも及ぶことなど存じ上げず。そんな私にリポートを依頼する(それも会が始まってから!)江本さんはすごいなあ。

◆話を報告会に戻そう。70人近くが集まった会場で、エミコさんは今回旅した2つの国の印象から話を始めた。旅人に友好的なパキスタンは、走っても走っても人々の服装や風景に大きな変化がなく、全体がグレートーンの国。一方、1本の道でさまざまなことが起こるインドでは、美しい風景にひかれた次の瞬間、子どもに自転車を引っ張られたり、石を投げられて嫌な思いをすることもあったという。「インドを好きになろうと意識するほど、好きになれない日が続いた」というエミコさんの気持ちを変えるきっかけとなった、心優しい少年との出会いについても、ユーモアを交えながら語られた。

◆続いて、先日テレビで放映された今回の旅のドキュメンタリー2本が上映され、アボタバードで友人家族と再会し「I‘m still alive」と喜び抱き合うエミコさんの姿や、キャリアに荷物をいっぱい積んで走る様子などが紹介された。このドキュメンタリーは、入院中からエミコさんを追っている榛葉健さんが、旅の始めと終わりにひとり同行して撮影、それ以外の映像はスティーブさんの撮影とのこと。

◆衝撃的だったのは、体調を崩して寝こんだエミコさんが「日本に帰りたい。旅の意味を失いかけている自分を助けてって感じです」と語る映像。日頃、「口にすると言霊がその状態にしてしまうから、痛かったりつらかったりしても口には出しません」というエミコさんをもってしても抑えることのできない「ガン」が顔をのぞかせたのだろうか。手術した足の付け根の痛みが激しく、体力、免疫力の衰えは予想以上。90日間の旅の44日は体調を崩し、とてもつらかったそうだ。「でも(体調を崩したのが)半分以下でよかった」と微笑むエミコさんに、雪山のブナの木が重なった。冬の間、雪の重さでしなだれていても、春になると元気に伸び上がってくる、しなやかで生命力にあふれたブナの枝のような人。

◆ゴール地点のタージ・マハルにやっとのことで到着したエミコさんが旅を振り返り、「雨に濡れても、かんかん照りでまいっても、すべてが生きている証拠。もっと感じたい!」と語っていたのも印象的だった。光や風を敏感に意識できること、道端の草花や昆虫に目を留め、人の呼びかけに答えられるスピード。それは自転車ならではの旅の魅力。エミコさんとスティーブさんの話を聞きながら、大学時代、「輪行が苦手なチャリダー」だった私は久しぶりにその感覚を思い出した。

◆後半は江本さんの進行で、旅先での食事情、2人旅の難しさや利点などについて質疑応答。「小さな女の子」と旅しているのではないのだから、走るペースも持参する荷物も別々、自立した者同士として楽しもうという考えのスティーブ氏に、厳しく鍛えられたというエミコさん。一緒に旅を始めて15年以上経っても、クリクリした目で見つめ合いながら話をするアツアツで魅力的なご両人。かけがいのないパートナーであることは傍目からもよくわかる。

◆スケジュールを細かく決めず、土地の人とのふれあいを楽しむのが2人の旅のスタイル。文化や宗教、習慣の違う人たちと知り合う中で教わったのは、感謝する心。「当たり前」と思いがちなことが、「当たり前」でないと気づくことで、小さなことへの感謝の心が育まれたという。そして、人としての豊かさは、土とともに生きることに関係していると思うというエミコさん。現在は、最寄り駅から峠を越えて12キロ(歩くと3時間半!)という奈良の地で、築120年の民家に住み、60種類の野菜やハーブ栽培にいそしむ日々。その住まいの裏山で掘ってきたというおみやげのタケノコが次々に披露されると、会場はざわめき、オークション会場に早変わり。江本さんが「アク抜きができる人……」と呼びかける横で、エミコさんが「飾っておいてもいいですし」とささやいていたのには、笑ってしまった。タケノコを部屋に飾る!? ほかにもパキスタンの帽子に自転車旅の本、ヘルメットなどが次々に競り落とされ、売上合計18,250円が2人に手渡された。パチパチ。

◆「ガンに勝とうとは思っていない。ガンに負けないように、一日一日を大切に、持っている力を生かしていきたい」と語るエミコさん。まわりの人をあたたかな空気で包み、初めて会う人の心をも自然に開かせてしまう、そんな魅力をもったエミコさんは、これまで旅した土地で、きっとたくさんの友人をつくってきたのだろう。大阪の病院でエミコさんと一緒だったという看護師さんは、入院当時を振り返り、「世界のあちこちからお見舞いの人がやって来て、世界中から小包が届いて。エミちゃんがいると病室が明るくて楽しかった」と語っていた。「世界一周旅行」。その言葉から広がるイメージは人それぞれだが、具体的に思い浮かべることのできるたくさんの風景や人、それがエミコさんたちの内なる宝となって輝き、そしてまわりの人にもパワーを与えているように思う。

◆体の状態が悪くならなければ、1年後にインドに戻り、4年後のゴールを目指す予定。笑顔で出発できるように、祈り応援したい。(妹尾和子 沖縄上陸61回の旅好き編集者)



地平線ポストから
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■坪井さん、アメリカ横断にスタート!

坪井伸吾さんが、5月10日ロサンゼルスを出発した。身体がもてばニューヨークまで走りつづける計画。日本を出る直前、スタートへの気分を書いてもらった。

 北米横断ラン出発があさってというのに、餞別でいただいたデジカメがまだ使えない。「デジカメの使いかたぐらいマニュアルを読めば分かるでしょ!」と嫁サンは言うが、読んでも分からないし、そもそもマニュアルそのものが嫌いだ。これはかなり致命的な弱点だと思う。

◆マニュアルというのは目的達成のための最短コースだから、それを拒否してしまうと、いちいち自分で試行錯誤しないといけない。時間と労力の無駄使いだ。なぜそんなことをしてしまうのか? 最近ようやく、その理由が分かってきた。答が先に分かると、つまらない、のだ。19年前にホノルルマラソンに出たことがある。絶対完走できないと思って出た。なんせ、それまでに走った最高距離が高校のマラソン大会の9キロ。しかも何の練習もしなかった。できるはずがない、と思っていたから、ゴールできた時はエラく感動した。

◆ところが翌年、1年間で1時間タイムを縮め、3時間50分で完走した時は「こんなもんかな」と妙に覚めていた。また感動したくて大会に出ただけに悔しかった。この違いは何かと言ったら、2年目は最初から出来ることが分かっていたということ。出来ると分かっていることをやっても面白くないのだ。そういう意味では、100キロマラソンは最高に面白かった。100キロ完走のマニュアルに従えば、確か月300キロの走りこみ+60キロ走の経験。とても僕にはそんなことはできない。結局、このときもほとんどぶっつけだった。

◆学生のころに人力車をひいて一日50キロ歩いた。それが僕のいままでの最高距離だから、目標は50キロ+一歩のつもりで100キロマラソンに参加した。ところが50キロを越え未知の一歩を踏み出したとたん、いままで経験したことがないスピードで走ることができたのだ。不思議で、そしてすっごく幸せだった。自分には、まだ自分でも知らない力があると思った。

◆北米は5000キロ。どう考えてもできるはずがない。でもできないから、やってみたい。もちろん行けるところまで行くけど、結果はたいして重要じゃないと思っている。経過はHPに随時掲載します。バカなことやってるな、と見て楽しんでください。じゃあ、行ってきます。(5月7日付けメール。横断ランの経過を伝える坪井さんのブログのURLはhttp://blog.goo.ne.jp/shingotsuboi/)

追記:5月14日午後、本人から電話。「もしもし、坪井です。いま、ビクトリア・ヒルというところにいます。」えっ、どこいらへん?「ロスから250キロほどのところ」ほう、もうそこまで走ったの。どう、調子は?「意外にいいんですよ。荷物背負ってても、1日80キロぐらいは走れそうです」大したもんだ。どんなペースですか?「こちら時間の5月9日にまずホテルから海まで18キロ走って、次の日に64キロ、以後70キロ、54キロ、69キロ、と走ってきました」どんなところに泊まって?「きのうまで2日間は野宿。あまり眠れなかったので、きょうはモーテルに。調子はいいんですが、意外に暑いんです。昼間は30度以上に上がる。それで70数キロ先から砂漠地帯になるんですが、水が補給できないと心配。1日5リットルは飲むので2日分10リットル背負っていかないと・・」確かにやばいね。ムリしないで臨機応変で行きなさいよ。レースじゃないんだから。「ええ。ムリそうなら部分的にバスを使うこともあるかも。では電池切れが心配なのでいったん、さよなら」


■わんこたち、いよいよ新たな人生へ

☆旅立ちのとき☆
 カナダからやってきた、ラフカイとウルフィーの子犬たちが生まれてから早2ヶ月あまりが経ちました。たった500グラム足らずだった5匹の子犬たちも、今では7キロ前後にもなり、吠える声もすっかり立派になってきました。怪しげな人が通りすぎたりすると、勢揃いしてキャンキャン吠えたてたりしています。

◆半月ほど前には、ちょっとだけ試しに、はじめて我が家の裏山へ登ってみました。いつもラフカイとウルフィーを連れて登る尾根のてっぺんまでは無理だろうと思っていたのですが、走ってはコケながら必死に親犬たちを追っていく姿に感激しながらついていくと、気が付いたら5匹の子犬たちと一緒に頂上までたどり着いていました。それからは、楽しい裏山散歩が日課です。そうして日に日に足腰も強くなり、走る速度がグングン速くなり、今ではぼくと千恵が置いていかれるほど。

◆そんな子犬たちも、いよいよ順番に旅立つときが近づいてきました。黒くて両前足と胸が白い唯一の雄は、ウルマ(沖縄の古称)という名をもらい西表島へ。真っ白な雌は、ぼくたちが2001年夏に旅したカナダ極北の川の名前からセロン(先住民デネ族の言葉で「森が終わりツンドラが始まるところ」)と名付け、青森の下北半島へ。真っ黒の身体で胸に小さな白い印のある雌は、ウルフィーとラフカイそれぞれの名前からウルカイと名付けられ、東京郊外に住むアーティストのカップルのもとへ。身体は黒くて前足の1本が白ソックス、胸に∀の模様がある雌は、nochiw (ノチュウ:アイヌ語で「星」) という名で近所に引っ越して来る絵描きの∀KIKOさん夫妻のもとへ。そして胸に大きな三角形の白毛のある黒い雌は、ウル(イヌイットのハンドナイフ)という名を授かり、山梨でぼくたちのような山里に暮らすミュージシャン夫婦のところへ。

◆それぞれ北米インディアンの世界から来たラフカイとウルフィーの子供たちは、まるで名前も住処も、いにしえの旅路を逆さに辿るようにして、日本各地へと旅立って行くことになりました。そんな不思議なつながりの中で、子犬たちのさらなる旅路を空想しています。ラフカイがぼくを今のこのぼくに辿り着くまで導いてきてくれたように、ウルフィーが千恵にとって不思議の旅路の友であるように、子犬たちもまた、彼らとつながった人たちを、それぞれの新たな旅への先導者になるのだと思っています。これも偶然ではないのかも、そんな気がしてなりません。とにかくみんな、素敵な飼い主でありパートナーとなる人たちと、元気いっぱい生きていくことでしょう。子犬たちに、心のこもった特製シチューを作ってくださった江本さん、遠くから山奥まで会いに来てくださった人たち、ホームページなどを通して見守ってくれたみなさん、本当にありがとうございました!(田中勝之&菊地千恵 <www.paddlenorth.com> 5月10日、陣馬山の麓からのEメール)


■冬のロッキー踏破、「やはりダメでした…」

 今回の「積雪季カナダ・ロッキー山脈北部踏破」は惨敗に終わった…。突然のヒザの激痛(炎症)で、計画中止を余儀なくされたのは3月下旬。それでも、予定ルートの何分の一でもと再起に賭け、準備をはじめたのは4月中旬。暖冬の余波で雪のほとんど解けたジャスパーの町をあとに、北に向けて歩き始めたのは4月下旬。ヒザは完治していなかったが、とにかくやるだけやってみようと。

◆最初の食料補給地点まで約3週間。完治していないヒザに3週間分の食料、テント、寝袋、登山用具一式の詰まった40kgのバックパックは楽ではなかったが、まだチャンスは残されていると言い聞かせ、とにかく前進。しかし、ヒザの痛みは日を追うごとにひどくなった。不安はつのるいっぽう。加えて雪解けによる川の増水、雪よりも始末のわるい湿地帯、いたるところで見られる冬眠明けのクマの足跡。これら悪条件に、あっけなく負けた。直感的に、これ以上進んだらヤバイと思った。ジャスパーより歩きはじめて8日め、わずか100kmに満たない地点で、志半ばで断念した。

◆だが、自然条件の厳しさや体調不良は口実に過ぎない。そもそも、すべての条件が整うことなどあり得ない。もし、自分より強い精神力の持ち主であれば、困難を恐れず、死をも恐れずに突き進んでいったであろう。ある人は、「ダメだと思ったそのときから真の冒険がはじまる」と言う。理由は何であれ、自分の立てた計画を遂行できない原因は、すべて自分自身にある。

◆またひとつ自分の弱さをつきつけられた。限界まで挑まずして諦めてしまった自分の弱さを感じる。そして、これまで行ってきた一連の冬のカナダの旅がいかに安易だったか思い知らされた。私がこれまで成功したことなど、しょせんその程度だったのだ。成功したということはレベルが低かったから。失敗したということは自身に能力がなかったから。自分の成したことを肯定した時点で、あらゆる上達は止まる。自分の成したことを否定しているかぎり、未来はまだある。今の私にとってバンフの町もジャスパーの町も、ヒザの炎症で長期滞在を強いられたという、忌まわしい思いしかない。こうした満たされぬ思いにつつまれているかぎり、私は冬のカナダに挑みつづけるであろう。挫折感をかかえたまま冬は去った…。(田中幹也 5月14日付けメール)


■ナカハタ上京す!

 こんにちは。今年の飛騨は寒さが長引いていましたが、ここ一週間ほどで急に春満開です。身体がついていかない。その中で、クラフト展の準備に追われています。

◆東京のデパートでのクラフト展に、初めて参加します。全国各地のクラフトと大橋歩グッズ・ヒビノコヅエグッズが並ぶ、おもしろい展示会になりそうです。私は岐阜クラフトの一員として、参加します。岐阜クラフトのコーナーは、木彫り・陶芸・切り絵、そして染織の私の四名。植物染色をしたスカーフ、糸を染め織ったショール。花瓶敷きサイズの織物も、今回は用意しようと考えています。

◆期間中は会場に終日待機する予定です。ここ数年、なかなか報告会に出席できず、残念に思っていました。このクラフト展で今の私の活動を見ていただけたらうれしいです。

◆「メイドイン日本の暮らし展」場所:三越 銀座店 催事場 期日:05年6月6日(月)〜12日(日)10時〜20時(岐阜県高山発 中畑朋子)


■河田真智子写真展、今年も!

「地平線のみなさん、昨年は娘の夏帆を撮った写真展にたくさんの方においでいただきありがとうございます。あれ以降、「子どもを撮っているカメラマンですか?」と聞かれたりします。今年は本業の「島」に戻ります。バリ島の写真をちょっとおしゃれにお見せします。会場でお待ちしています。(河田真智子 5月14日付けメール)


◆河田真智子写真展「バリ島、光のなかで」ご案内
 日時  2005年6月27日(月)〜7月2日(土)まで
     10時から19時まで 最終日は17時まで
 場所  写真弘社 ギャラリー・アートグラフ
     104-0061 東京都中央区銀座2-9-14
 Tel   03-3563-0372

◆世界の辺境の地にある島を歩くと、織物やセーター、レースなど「衣」の発祥地が島であることが多いことを知ります。海に囲まれた閉鎖性のある島だからこそ、希少な文化が今に伝えられています。

◆バリ島の先住民族の村トンガナンでは珍しいグリンシンという布が神事で身につけられます。祭りの日、男も女も野生に還り、自然に溶け込んで行きます。光のなかで生きることに輝く人々の姿を伝えたいと思います。

◆なお、写真展で展示する写真の一部が、『アサヒカメラ』7月号(6月20日発売)に掲載されます。こちらもご覧いただけたら幸いです。(写真展開催中は河田は会場におります)。


■樫田秀樹さん、人生最大の転倒から復活!

僕は20代の頃、バイクでアフリカとオーストラリアの砂漠を旅してきました。数え切れない転倒を経験してきましたが、今回のが一番深刻でした。

◆2月18日正午頃。あ、と気づいたら、バイクのすぐ右横に車が迫っていた。え、え?ガッシャーン。考える間もなく、バイクと僕は転倒。一時停止線側にいた車の前方不注意です。場所は自宅近くの、横浜市南区の小さな交差点。

◆幸い、ぶつけられたのは、体ではなく、バイクの後輪(と思われる)でした。とはいえ、バイクのあちこちが破損し曲がり、人間は叩きつけられるようにうつぶせに転倒。転倒して即座に「立てるか?」と自分に言い聞かせると、よろよろ立つことができたので、重症ではないことは確認できました。と、下を見ると左すねからダラダラ出血が・・。いつもは、ちょっと当たっただけでも痛い弁景の泣き所も事故の一瞬では痛みもかゆみもありません。車の運転手は「申し訳ない」と、その後病院でも付き添ってくれました。

◆以前、フロント原稿で、右膝の半月板損傷、右股関節の関節遊離体、そして腰椎の椎間板損傷をほぼ同時期に併発したことは書かせてもらいました。2月は、そのどれもほぼ完治していたので、ようやく1年半に及ぶ整形外科通いから解放されるとウキウキしていたのに、この一件でまた同じ病院に舞い戻りました。

◆肩、足首、大腿部に軽い打撲。左すねは、単なる擦り傷ではなく、肉が削げ、人差し指の第一関節がすっぽり入るくらいの穴があいていました。事故翌日には左足が真っ赤に腫れて浮腫を起こし、生まれて初めての点滴も体験しました。このときに腐った肉を切除するために患部に刺された麻酔の注射が死ぬほど痛かった。

◆ということで、以後、消毒と包帯交換でほぼ毎日のように病院に通い、4月20日頃にようやく治療から解放されました。それにしても、膝、股関節、腰、そして脛と、もういいかげん悪い運は使い果たしたと思います。「海外で何か事故に遭ったらどうすんだ!?」とは、息子や娘の海外行きを大反対する親の常套説得ですが、そういう親には「日本の交通事故の方がよっぽど恐い!」と言い返せばいいと常々思っていたら、今回我が身でそれを実感いたしました。僕にとって、交通事故に遭ったのも、バイクの転倒で出血を経験したのも初めてのことだったのです。

◆これは、そろそろ海外に行きなさいというメッセージなのでしょう。今年は、イラク国境(国境に2年も取り残されたクルド人難民がいる)、3度目のアフガン、そして20回目のサラワクを考えていますが、どうなるやらです。いずれにせよ、日本は怖い! 皆さん、交差点では左右確認を忘れずに!(樫田秀樹 5月14日付けメール)


■中西純一さん、中国料理専門の“辛口評論家”宣言!

東京農大探検部OB、中国専門の映像ジャーナリストとして活躍してきた中西純一さんが、日本の中華料理界に物申す単行本『本当に美味しい中国料理が食べたい』(NTT出版 1470円) を発刊。これまで食材の知識や取材経験を存分に発揮、得意の中国語を生かし中国料理の本場香港・北京をはじめ東京でも本場通りの正統的中国料理にこだわる店を取材したそうです。以下、本人の挨拶から。
 「いままで日本のレストラン評論家や食ジャーナリストと名乗っている作家及びフリーライターは、フランス料理・和食に詳しい専門家はいました。ところが、こと中国料理に関しては正面切って辛口の批評を語れる人物はいませんでした。今回の出版をきっかけに著者中西は中国料理レストラン評論家としてデビューします(おこがましいですね、デビューさせてください)。これまでのテレビ番組企画・制作の上に、執筆・講演・店舗プロデュースも行います」本の章立ては【第1章】こんな店に惑わされるな【第2章】 客の無知が悲劇の始まり【第3章】 厨房の舞台裏【第4章】 給仕が握る店の命運【第5章】 店の味は経営者の舌が決める【第6章】 客の心得【第7章】 味わい方、楽しみ方 【第8章】店を見分けるコツ。(そのうち、本人に登場してもらおう)



[1万円カンパ実行人リスト](05年5月15日現在)

 地平線報告会300回記念1万円カンパ、いまもご協力くださる方が続いています。深く感謝しております。(地平線会議代表世話人 江本嘉伸)

金井重,丸山富美,埜口保男,北川文夫,飯野昭司,青木明美,横山喜久,野々山富雄,西澤栄里子,中島菊代,岩淵清,森井祐介,花崎洋,坂下哲之,関根皓博,村田忠彦,賀曽利隆,大西夏奈子,松田仁志,岸本実千代,河田真智子,江本嘉伸,海宝道義,海宝静恵,遊上陽子,斎藤豊,河野昌也,近藤淳郎,鹿内善三,香川澄雄,シール笑みこ&スティーブ・シール,菊地由美子,白根全,村松直美,原健次,三上智津子,佐々木陽子,藤田光明,三輪主彦,佐藤安紀子,坂井紀子,石原卓也,加藤幸光,吉岡嶺二,藤本亘,松川由佳,山本千夏,山本祥子,田口幸子,瀬沼由香,小林天心,後田聡子,横内宏美,江本くるみ,杉田晴美,戸高雅史,井上智,宮本千晴,向後元彦,向後紀代美,藤原和枝,坂井広志,古山里美・隆行,下島伸介,桜井恭比古,神長幹雄,山田まり子,坂本勉,山田和也,中村易世,石川秀樹,山本将,網谷由美子,森國興,西山昭宣,田中昌二郎,楠藤和正,山川陽一,川島好子,掛須美奈子,島田利嗣,宇都木慎一,西牟田靖(敬称略)




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

家出の達人

5月27日(金曜日) 18:30〜21:00
 ¥500
 於:新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)


「旅先で、隔離されたみたいな高級ホテルに泊まるより、ダニにくわれてもいいから安宿に泊まって、土地に人や世界中の旅人と話したいの」というのは、70年代からBP(バックパッカー)を始めた藤原和枝さん。結婚後、パートナーの転勤に伴ってアメリカに8年住み、帰国後はキッパリと子育てに専念。とはいえ、日本語教師を15年に渡って務めるなど、世界への好奇心が曇ったことはありません。

7年程前に子育て終了宣言! 以来、安チケットと安宿と「おばさんパワー」を武器に、世界中に「家出」を繰り返しています。明日にでも出発できる8kgの荷物は、1回約2ヶ月の旅から帰国するときには、たいてい旅の前よりも軽くなっているとか。

日本にいるときは、報告会の受付を買って出て下さる藤原さん。今月は舞台に出て、自称「BPおばさん」の旅の哲学を語って頂きます。乞御期待。



通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付で!
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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