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桜の盛りの4月9日午後、両国の国技館で来日10度目のダライ・ラマの講演会があり、チベットに関心を持つ人々で会場は満席の盛況だった。地平線の仲間たち(あのラフカイの親たちも)を含め多くの知り合いと挨拶を交わす中で、鹿児島県の野元甚蔵さんが89才とは思えない元気さでおられたことがひときわ嬉しかった。野元さんは、1939年特務機関の命でモンゴル人になりすましてチベットに潜入、1年半をシガツェ周辺で過ごした人だ。『西蔵漂泊ーチベットをめざした10人の日本人』という上下巻の本を書いた時に知り合い、以来10数年ほとんど毎年開聞岳の麓のお宅にお邪魔している。野元さんが自身の体験を『チベット潜行1939』(悠々社)にまとめた時にはそんな縁で、少しお手伝いもさせていただいた。
●鹿児島の海は、静かで生き物にあふれている。もう大学生になる野元さんの孫が小学生時代から私の「海の師」で、一緒に潜っては熱帯魚やイカ、ブダイなどの魚の群れを案内してくれる。魚類に関して実に博識、かつ潜水の達人で、彼と海に入るのは、甚蔵老と「砂むし」温泉で砂に埋まるのと並んで何よりの鹿児島行きの楽しみなのである。
●ダライ・ラマの話は「思いやりと人間関係」のタイトルで、寛容と慈悲の大切さを説いた、ある意味でこれまでの講演と変わり映えのしない内容だった。講演の内容より、なぜ、こんなにも多くの人が彼の話を聞きにくるのだろうか、と考えさせられた。アリーナ席7000円、他は5000円もするチケットが完売され、会場周辺には「求むチケット」と書いた紙を持って立つ人々が目立ったのだ。日本に、それだけの人を集める存在はないのだろうな。
●鹿児島市内で中学生4人がふるい洞穴の中で一酸化炭素中毒死した、と報じられたのは、その夜である。中学生たちは奥行30メートルほどの防空壕の探検をしていた。私にとっては優しい海に抱かれる地である鹿児島には、防空壕が非常に多いという。沖縄戦に次いで攻撃の標的とされ、米軍は鹿児島県の吹上浜、志布志湾に上陸し、本州侵攻の基地とする計画を立案していた、というから皆必死で掘ったのだろう。
●おとなたちが多分とうに忘れていた“穴の隠れ家”を少年たちが見つけ、「洞窟探検」の対象とした。密閉された空間で火をたくことの危険を知らず悲しい結果となったが、少年たちの動機そのものは、ひどく健全だった。探検精神は、何かを産み出す重要なきっかけになるから。
●ところで防空壕とは一体何か。その実際を知る人は少ないだろう。地平線会議の中核にいる人たちの中で戦争をきちんと知っている存在は、ほとんど金井重さんだけと思うが、私も幾分記憶している、という点では稀少品種に属する。横浜の高台の家の前の空き地に防空壕が掘られていて、「空襲警報」が鳴るたび、防空頭巾というかぶりものをして家族、近所の人々と一緒にそこに入り、危険の去るのを待ったのを覚えている。
●B29爆撃機が焼夷弾(しょういだん)を投下して、あたりが白く浮かび上がる様も絵のように記憶している。幸い、家の近所は直接爆撃はされなかったが、数キロ離れた横浜の中心街は、焼け野原と化したことはご存知の通りである。通った海辺の小学校には崖の下の部分に防空壕の跡である洞穴がいくつも残っていて、子どもたちは「度胸試し」のために、こわごわ穴に入ったものだ。紐を手に闇の中を手探りで進む瞬間は、どんな遊びよりもどきどきして、怖いが、また挑戦したくなるたぐいのものだった。
●現代に戻って10日の日曜日、四谷の桜で東大7年生になった山田淳君の落第を祝って花見で盛り上がった頃、中国各地では感情的となった反日デモが進行していた。映像で見ると、ほとんどが青年といっていい若い人たちである。それだけに反日のボルテージは高く、一瞬文化大革命の「紅衛兵」を思い出した。
●“毛主席の紅い衛兵”という意味で、文革が始まった1966年5月29日、北京の名門、清華大学付属中学の学生(日本の高校生にあたる)が「紅衛兵」を名乗ったのが始まりとされる。8月には毛沢東が紅衛兵の大字報(壁新聞)を賞賛したため、他の大学、中学へと一気に拡大し、党や政府の指導者を「批判大会」に引きずり出し、頭に三角帽子を胸からはプラカードを下げさせ、街頭を引き回した。
●人間というものは、ほんのちょっとしたきっかけでいかなる方向にも突っ走ることを歴史は示している。至難であろうとも他者の言動に動かされず事実を見極める力をひとりひとりが持つしかないのであろう。「戦後60年」、地平線会議に課せられたある種の厳しさを思いつつ桜の季節が終わった。[江本嘉伸]
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関野吉晴 |
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1秒を惜しむように会場の明かりがばばばと消え、スライドが映す世界地図をなぞり話し始めた関野さんは、なんだかとても先生らしい。10年間に及んだグレートジャーニーの旅を終え、現在「われわれはどこから来たのか?」自分の足元により近い日本人のルーツを辿る旅=グレートジャーニージャパンの真っ只中にいる。
◆考古学、自然人類学、遺伝学の最近の研究成果によると、日本列島に先祖たちが集まってきた過程は、3つの主要ルートに分類できるという。1。北ルート→シベリアからサハリン経由で北海道へ。2。南ルート→ヒマラヤ南からメコン川沿いに南下、スンダランドに出て次第に北上し日本列島へ(航海術を得て黒潮に乗って来たという説が有力だが、関野さんは「徒歩」の可能性も示唆する)。3。大陸ルート→中国大陸から直接、あるいは朝鮮半島経由で日本列島へ。
◆最初に関野さんが旅をしたのは北ルート。二つの理由があった。「(DNA塩基配列を比較することで判明した一部の日本人のルーツである)バイカル湖付近にいるブリヤートの人達に会いたかったこと。それと、モンゴルで出会った少女に再会するため」
◆ビデオ映像が、6年前のモンゴル遊牧民の少女との偶然の出会いをうつしだした。夢中でカメラのシャッターを切る関野さんが家畜の行く手を遮ったため、少女に叱られている。「あっちに行って!仕事の邪魔をしないで」。怒りを精一杯表現し、媚びた態度を見せない少女の名はプージェ。厳しい冬を迎えた草原で、盗まれた馬を探しに出たきりのお母さんを待ちながら、少女は一家の生活を必死に守っていた。
◆3ヵ月後、関野さんはモンゴルを再訪。なんとプージェのお母さんが亡くなっていた。買い物に出かけた旧正月の街で、転倒した馬にお腹を蹴られ内出血したのが致命傷となる。我慢し続けたお母さんがやっと病院へ行った時、保険証を持っていないことが原因で診察拒否をされてしまう。その場できちんと止血していれば助かったはずの怪我は、そのまま手遅れとなった。「平等な」社会主義はもう過去の時代のこと、市場経済にシフトした今、お金と保険証がないと医者にはかかれない。
◆プージェはその後、学校へ通うため街の親戚の家で暮らし始める。将来の夢は日本語の通訳になること。成績優秀だった彼女だが、昨年モンゴルへ旅立つ前の事前リサーチで、関野さんは衝撃の事実を知る。学校の帰り道、いつものようにヒッチハイクをしようと3台の車を見過ごし車道に出たプージェを、4台目の車が無残にも跳ね飛ばしたのだった。悲痛な旅のスタートだった。12歳になったプージェは遺影の中の人に。少しふくよかになり、おさげ髪をばっさり短く切った彼女は、額縁の中から独特の目つきで凛と何かを見据える。人の生命力はしたたかでしぶとい、と思うこともあれば、矛盾するが人は本当にあっけなく死んでしまうとも思う。生きていることは当たり前じゃなく、奇跡に満ちたとっても凄いことだよと、小さくて大きなプージェが残された私たちに教えてくれているようだ。
◆モンゴルを北上して出会った、アムール川流域に暮らすブリヤートの大家族は新しい生命を授かったばかり。ここでは赤ちゃんが生まれると母親は一か月間子育てに集中し、父親が全ての家事を行うという素敵な(!)しきたりがある。名づけの儀式に飛び入り参加した関野さんは、親戚一同に混じって「バトザヤ(=運命)」という名を投票するが、抽選の結果ははずれ。。。
◆昨年11月、東京で地平線300回記念集会が盛り上がっていたまさにその瞬間、関野さんはシベリアのサハ共和国、人が住む場所としては世界一寒いといわれる北極圏のベルホヤンスク山脈でトナカイ飼育民エヴェン族と生活を共にしていた。「トナカイがいなかったら人類のシベリア進出はなかったのではないか?トナカイはすごい」と関野さん。ソリをひき、荷物を載せてスノーモービルがお手上げの岩山を登り、高カロリーな食料として人の生命を支え、その毛皮は交易で換金できる。シベリアに暮らす20〜30の民族のうちほとんどがトナカイと密接にかかわりながら生きている。
◆突然会場を華やかに彩ったのは、魅惑的なオーロラのスライドの連続。まぶしく光るグリーン、イエロー、ピンク、紫、あまりの鮮やかさに会場から「はああ…」とため息がもれる。「一本の筋ではなく、全天にわたって天の川みたいに出てきて…」と解説する関野さん。ピンクと紫が放射線状に広がり絶妙に艶やかなオーロラは、気まぐれに現れては地上を包み込むように踊りだす、天然の花火。
◆ヤクート族の狩猟方式は日本のマタギにも見られる巻き狩り。野生羊などを追い詰めて山の反対側へ走らせ、それを待ち構える別の仲間たちが捕らえる。皆で狩った獲物はトナカイの背に乗せて運び、肉は煮て食べる。「スープに旨みが溶けて、おじやが最高」ふふふ、と無邪気に笑う関野さん。窓の外は−30度、家の中は…+40度!夕暮れ時に家々の煙突からぼうっと立ちのぼる白い煙をとらえた一枚のスライドに、寒い国の温かい家庭の団欒を想像してほっとした。
◆「…あっという間に9時です」と告げる江本さんの声に、はっとする。随分遠い旅から戻ってきたような、一瞬目まいのする感覚。江本さんからは「49年生まれでしょう?そろそろ辛くないですか?」という質問が。「シベリア付近で肩を痛めて、針や灸と色々な治療を試したんです」とわくわく感いっぱいに説明する関野さんは、自らの治療さえも未知への好奇心で挑んでしまうのだろうか。「ゆっくりやりましょうね。地平線はどのように人が老いていくかという実験場でもあります」と江本さん。うーん、関野さんはもちろん言うまでもなく、地平線には前後左右どこを見回しても、いつかのどこかで時がぴたっと止まってしまったかのようなきらきらチャーミングな方ばかり。だから私は榎町地域センターに来るたびに「やあ!」と宝石箱にもぐりこんでいくような気持ちになるのだ。[大西夏奈子 関野さんの高校の30年後輩]
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〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方 E-mail : / Fax: 03-3359-7907(江本) |
●滝野沢優子さんから…インド発…スケッチ入り絵葉書
「祝 ユーラシア大陸横断! アフリカ大陸一周! アジアハイウエイ走破!」3年8ヶ月・11万8000km
◆おかげさまで、3月9日、無事にゴールのマドラスに到着し、バイクの旅を終えました。ここからバイクを送り返し、タイ、ラオス、中国をバックパッカー旅行して4月後半に帰国します。
手書きの絵が面白い。「ヤッタ!ヤッタゾ!!」と叫ぶ象に乗っただんな、荒木健一郎さんの絵のわきでバンザイしている優子さん。「ゾウさんにも祝福してもらいました。鼻の先にコインを入れると頭をなでてくれる。1回3円。ゾウ乗り250円」と付記
●田中幹也さんから…2005.3.27…ジャスパー発…ロッキー縦走、来冬に延期
◆お世話になります。冬季カナダロッキー縦走、先日メールした理由(これまでの歩きすぎが原因で突然のヒザの激痛に襲われたこと、異常な暖冬)により出発を見合わせておりましたが、時間的に厳しくなってきたため、今シーズンは中止。来冬に持ち越すことに決定しました。取り急ぎ報告まで。
●安東浩正さんから江本嘉伸さんへ…2005.3.28…極東シベリア・サハ共和国発
◆江本さん! 極東シベリアツーリング中の安東です。3月ももうすぐ終わりで北極圏にあるセレドンコルムスクというこの街も日照時間がだいぶ長くなってきました。1ヶ月前には寒極のあるオイミャコンで-50℃の中を自転車で走ってましたが、今はせいぜい-30℃日中には-20℃くらいのポカポカ陽気です。-50℃の時でも新装備のおかげであんまり寒くなかったですけれど。ここまでコリマ川の上にある冬道をずっと走ってきました。400キロぶりの町というか村ですが川沿いには時々漁師の家があってエビンキ族の家に泊めてもらったりしながら走ってきました。あと2〜3週間で北極海沿いのチェルスキーという街ですがベーリング海峡はまだ遠く、極北は急速に春が近づきもはやたどり着くのはむずかしそうですが、行ける所まで行ってみたいと思います。一昨晩はオーロラも夜空に舞ってました。
●シール・笑みこさんから…2005.4.8…京都発《E-mail》…思った以上の体力の衰えに‥
◆報告会のお話をいただいた。あっ、やっとここまで来れたんだ〜! あらためて旅の再出発とゴールに無事、たどり着けたことを実感。自信のないままの再スタートだっただけに4年越しの熱い深い思いに胸が熱くなりました。「命をいかしに行こう!」。そう思い昨年12月、私たちは再び世界へとペダルを踏み出したのでした。
◆行き先は2001年1月、中断して戻ってたパキスタン。つづいてインドへ。なんでヨーロッパやアメリカじゃないの〜?と弱音を言いたくなったけど、こうなっていたのだ。仕方なし。
◆見た、聞いた、自分の肌で感じた分だけ成長した? ハードだった分だけ土産話を持ち帰ることもできたし。人生には何ひとつ無駄なことがないということも実感した旅でした。癌を患ったこと、生命の危機や不安や恐怖を感じた闘病生活、これらすべてが夢の再挑戦へのエネルギーへと化し、さらなる生きがい、それらの大切さも教えてくれました。勇気や自然に湧き出る感謝の気持ちは決して物質だけでは満たされないものを得ることができ、例えスムーズに自転車で世界一周12年かけ旅を終えてたとしても、得られなかったものがここにはあったのです。だから変な言い方、癌に感謝!!
◆しかし、思った以上の体力の衰えには驚きとショックが…。90日の内、44日間は体調をくずし旅の意味さえ失いかけました。病後の心は敏感になり、パキスタンで4年も待ってくれてた血のつながらない家族の愛情の深さに感激の涙、インドでは人間のるつぼをくぐり抜け、太陽と大地のエネルギーをたくさんゲット! 力強い生命力を感じることができました。
◆「生きてるって本当にすばらしい!」ことを再確認した今回の旅。詳しくは報告会にて。来月40歳。人生、最後まで「いかせ命!」のエミコと、46歳まだまだ走る旅するオーストラリア人のスティーブでした。
●Air Photographer 多胡光純さんから…2005.4.5…五霞フライトエリア発…浮力のつき始め
◆交通事故から4ヶ月が経つ。やっと手にした車とリハビリをしのいだ首を引き連れ、五霞のフライトエリアへ一人で向う。復帰に向けた地上練習の第一日目。やっとここまで来た。嬉しい。広げたパラグライダーからこみ上げるワラ臭いにおい。風に勢いよくなびく吹き流し。太陽の下で体を動かす時間。俺の時間が戻ってきた、そう強く思える。
◆グラハン(地上でパラグライダーを操作すること)に取り組む。体に染みこんだ一つ一つのコントロール。それらはパラと戯れる時間に比例し甦ってきた。リハビリの甲斐あり、足の踏ん張りは事故前より確かだ。ただ、パラを目視するために首を上に向け続ける姿勢がよくない。また首と肩にかかる30kgを超えるエンジンや無線ヘルメット、そして5kg近いカメラ。これらもまだ頂けない。もう少し時間が必要なのだろう。
◆クタクタになるまでパラと戯れ、サッカーグランドと同等のフライトエリアに大の字で横たわる。背中に地熱を感じ空を眺める時間。芝生の上を走りぬけてゆく風を首筋に感じる時間。多くの思いが交錯する。つき始めた心の加速度が浮力に変わる日。その時は確実に迫りつつある。復帰戦はマッケンジー川とする。若葉マークだった前回に比べ今回は豪快に飛べると期待する。そしてマッケンジーを飛び終えると同時にフィールドを世界へと広げる。また、ゼロからやってやる。
●森の達人 田中勝之さんから…陣馬山麓の山里発…2005.4.4《E-mail》…ラフカイの怪獣たち
◆ラフカイが5匹の子犬たちを産み落としてから約1ヶ月。生命の誕生に感動したのもつかの間、日々刻々と変化していく小さな子犬たちの成長ぶりに驚きの毎日です。生まれてからしばらくは、眼も閉じていて歩くこともできず、出産用に作った特設小屋の中をはいずり回りながら、母・ラフカイの乳房に必死に吸い付き、満腹になるとコテッと寝てしまうという、まるでスイッチのオン・オフの繰り返し。5匹並んで4本の足をそれぞれジタバタさせながら、無我夢中で乳を飲む姿は、身体全体で生きる力を表現しているような、そのたくましさに時間を忘れて千恵と2人、ジッと見入ってしまうことしばし。
◆2週間が経ち、ある朝、チビたちを抱き上げてみると、閉じたままだった瞼がうっすらと開いていたのでした。その奥に、かすかな瞳の輝きを見たとき、また新たな感動がこみ上げてきました。まだ白くぼんやり霞んだ瞳を見つめながら、ぼくと千恵は「おい、見えるか? これがお前たちが生まれてきた新しい世界だよ。みんな元気で幸せに生きていこうな」と語りかけていました。そして数日後、瞳が澄んでくるともう大変、周囲がくっきりと見え始めたチビたちは、ノシノシ小屋からはみ出して来て、おぼつかない足取りで、ヨタヨタと部屋中を彷徨うようになりました。それまでラフカイに唸られて、子犬たちに近づくことも触ることもできなかったウルフィーは大喜び。小屋からはみ出してきたチビたちを、鼻先でツンと突いては、ポンと放り投げたりしています。
◆父とはいえ、まだ1歳に満たないウルフィーの頭の中は、ほとんどチビたちと変わらない子供のままですから、ウルフィーにとっては突然、5匹も遊び相手ができたも同然、嬉しくて仕方ないのでしょう。頭でっかち短足短胴で、ゼンマイ仕掛けのような縫いぐるみが5匹、その一挙手一投足が笑いを運び、なぜか心をホッとさせてくれます。
◆ラフカイは、チビたちがあっちこっちでオシッコをピーとするたびに、ぬっくと起き出して、綺麗に舐めてあげています。もちろんウルフィーも、「父ちゃんも頑張らねば!」とラフカイの真似して、優しく世話をしています。それにしても、出産から授乳、排泄の処理まで、すべてを一身でこなす母犬の姿は、ほんとうに逞しく、頼もしいものです。それは、人間が忘れてしまっているけれど、本当は持っている命を繋ぎ育んでいく本能を、目の前で確かに見せてくれているのです。そうして、ぼくと千恵は、ラフカイ母さんとガムシャラに生きる子犬たちから、毎日いろんなことを教えてもらっています。(その他、詳しくは www.paddlenorth.com をご覧ください!)
●賀曽利隆さんから…2005.4.4…伊勢原発《Fax》…歴史的な4月1日
◆2005年4月1日は我らライダーにとっては歴史的な日。長年の悲願だった高速道路でのタンデム(2人乗り)解禁の日なのだ。それに合わせてカソリ、午前8時に友人の小畑正孝さんを後ろに乗せて東京インターから東名高速道路に入った。バイクはBMW R1200RTという高速道路でのタンデムにはぴったりの1200ccの大型バイク。東名高速の川崎料金所ではちょっとびっくり。何人もの警官が出動し、タンデムライダーの免許証チェックをしていた。
◆目指すは日本の高速道路の西の果て。東名→名神→中国道→九州道→西九州道と走りつないで「高速タンデム」をするのだ。小畑さんとは途中、運転を交代しながら走る。ぼくにとってはバイクの後ろに乗るのはほとんど初めての経験といっていい。これがけっこう辛いもの。なにが辛いかって、猛烈な睡魔に見舞われたときだ。スーッと気が遠くなり、あやうくバイクから落ちかけたことが何度もあった。時速120キロ前後で走っているバイクから落ちたらひとたまりもない。そうとわかってはいても、なかなかくっつきかけたまぶたは開かない。
◆第1夜目は中国道の千代田ICに近い千代田温泉の「千代田温泉旅館」に泊まった。ここはすごい温泉宿なのだ。知る人ぞ知る「日本で一番安い温泉旅館」。なんと1泊2食の温泉宿の宿泊料金が2645円。ここには10何年前に初めて泊まったが、そのときも2645円。数年前に泊まったときも2645円。今回も2645円。日本にもこういう世界があるのだ。翌朝は朝食を食べ、朝湯に入り、30分ほどのなんとも気持ちよい朝寝を楽しんでから出発。関門海峡を渡って九州道に入り、長崎道経由で西九州道へ。終点の佐世保みなとICに到着したのは15時15分。東京ICから1240キロの「高速タンデムツーリング」だ。小畑さんとは佐世保みなとIC前でガッチリと握手をかわしたが、なにか夢でも見たような気分。この「高速タンデム」の解禁は、我らライダーにとっては行動半径を大きく広げる可能性を秘めている。
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■田口洋美さん いきなり大学教授に◆2月の報告者、東大大学院生だった田口洋美さん、4月から山形市上桜田の東北芸術工科大学教授に就任しました。おめでとうございます。
■山田淳さん 大手町よりアコンカグア◆地平線通信で近況を書いてくれた山田淳君、見事「留年」が決定。決まっていた某商社への入社は、見送られた。とりあえず、山のガイドの仕事に専念する?
■長野淳子さん 2か月のトレーニングでフルマラソン見事完走!◆亮之介画伯夫人、3月20日の荒川市民マラソンを見事完走。某E本トレーナーの教えをきちんと守り着々と脚力をつけ6時間ちょうど(制限時間は7時間)でゴール。
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地平線報告会300回記念1万円カンパ、いまもご協力くださる方が続いています。ありがとうございます。(地平線会議代表世話人 江本嘉伸)
金井重 丸山富美 埜口保男 北川文夫 飯野昭司 青木(生田目)明美 横山喜久 野々山富雄 西澤栄里子 中島菊代 岩淵清 森井祐介 花崎洋 坂下哲之 関根皓博 村田忠彦 賀曽利隆 大西夏奈子 松田仁志 岸本実千代 河田真智子 江本嘉伸 海宝道義 海宝静恵 遊上陽子 斎藤豊 河野昌也 近藤淳郎 鹿内善三 香川澄雄 シール笑みこ&スティーブ・シール 菊地由美子 白根全 村松直美 原健次 三上智津子 佐々木陽子 藤田光明 三輪主彦 佐藤安紀子 坂井紀子 石原卓也 加藤幸光 吉岡嶺二 藤本亘 松川由佳 山本千夏 山本祥子 田口幸子 瀬沼由香 小林天心 後田聡子 横内宏美 江本くるみ 杉田晴美 戸高雅史 井上智 宮本千晴 向後元彦 向後紀代美 藤原和枝 坂井広志 古山里美・隆行 下島伸介 桜井恭比古 神長幹雄 山田まり子 坂本勉 山田和也 中村易世 石川秀樹 山本将 網谷由美子 森國興 西山昭宣 田中昌二郎 楠藤和正 山川陽一 川島好子 掛須美奈子 宇都木慎一 島田利嗣(敬称略)
※宇都木慎一さんは昨年末、島田利嗣さんは2月にいただいていましたが、リストから漏れていました。ゴメンナサイ。
4年越しのタージ・マハル
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郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
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