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12月26日朝食時、突然ユラユラと地面がゆれた。まさかミャンマーで地震とは思わなかったので、爆発かと緊張した。しかし揺れは長く、時計を見てから40秒も続いた。こんな長く大きな地震ははじめてだ。一緒にいた6人の大学生、日本留学の経験のあるアウンチョウさんも慌てている。私は、400kmほど沖合にあるアンダマン諸島で地震がおこったと想像した。そこはヒマラヤ造山帯の延長線上で、インドプレートがビルマプレートに潜り込む場所にあたる。そうだと1時間以内に津波が襲ってくる。私たちのいる地域は外海からは15km内陸に入ったイラワジ川の支流に面したマングローブ林で、海抜は5mしかない。学生たちに地下足袋を履いてすぐに森の中に逃げ込めるよう指示をした。目の前の川は地震の揺れでおきた大波で係留してある船が桟橋に激突し、衝突よけの竹の束がバリバリとつぶれた。水面の変化を注視しながら1時間、潮の流れが逆になっただけでツナミは観測されなかった。
●電気も電話もないので地震情報は何も入ってない。私は、津波がないので陸上地震だと結論づけ、日常作業に戻った。翌日現地スタッフが船舶電話を経由して別村の向後さんグループと連絡をつけた。20km先の電話のある村にスタッフを走らせヤンゴンのオフィスに全員無事を報告したそうだ。船舶電話情報ではインドネシアで大地震がおこり、ツナミによる被害があるとのことだった。28日チャーター船で中心都市ボガレーにつき、一行の無事を直接確認。高齢をおしてNGO事務局長のオンさんがこの町まで出迎えてくれ、ことの重大さを知る。
●ミャンマー軍事政権は情報統制をしておりテレビ、新聞のニュースはほとんどない。ヤンゴンの高級ホテルで読売新聞を買うと、死者は1万数千人と出ている。BBC,CNNのニュースはTSUNAMI一色で大変だ。しかし我がNHKの衛星放送は紅白歌合戦、冬ソナの宣伝ばかりだ。なんだこれじゃミャンマーテレビと変わらない。
●震源から遠いスリランカで大被害があったのに、より近いイラワジ河口地域の被害が軽微だった理由を推定した。スマトラ島沖で南北方向の断層が動き大地震がおきたので津波は東西方向に強まり、南北方向には弱かった。アンダマン、ニコバル諸島が障壁となり更に津波は弱まった。この先は確認されていないが、海岸地域のマングローブの林が水勢を弱めた。(我々のいた地域が例外で、外海に面した所では相当死者も出たとの情報あり、これが本当なら私たちはマングローブ林に助けられたと言ってもいい)
●どこからも電話がこない生活は快適だった。しかし緊急事態にあっては情報網の欠如は命に関わることを実感した。もし被害のあった地域に的確に情報が伝えられていれば、半分以上の人は助かったはずだ。もうひとつは戦争。被害の大きなインドネシアのアチェ、スリランカ、アンダマンは長い年月戦乱の続く地域。人々はその日を生きるだけの生活が続いている。落ち着いた生活していれば、海が引いたら津波がやってくるという知識は伝承されていたはず。現に、古老の指示で島民は山に逃げてほとんど死者が出なかった島もある。文化の伝承を滞らせる戦争が、戦争以上に多くの死者をだした。戦乱地域には救援隊も入れない。アンダマン、ニコバル諸島の情報は未だに入ってこない。
●大地震も津波も太古から続く地球の息吹だ。人々は洪水伝説など様々な文化の伝承をもってこれら地球環境と共生し、人々の知恵で災害を小さくすることができた。その知恵、文化を途絶えさせる戦争。いま戦乱を起こしている人や武器を、被災者を救うために転換させよう。我々のなすべきことはかの地に再び豊かな文化を取りもどすことだ。マングローブ林再生事業も私たちのできる文化復興であることを再認識した。
●最後になりましたが、とりあえず新年おめでとうございます。今年は人々が悲しまないですむ年になるよう祈ります。今年もよろしくお願いします。(三輪主彦)
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森田靖郎 |
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中国からの「密航者」をめぐるノンフィクションライターの第一人者、そして、04年はじめての小説『見えない隣人』を発表した森田さん。当日、期待の目が注がれた森田さんの顔色が・・青い。5日前に釣りに行っていた秋田・新潟県境の川でサケに大当たり。病院で安静必須のところ「娘の結婚式がある!」と偽って制止を振りきり帰京、病院も行かずに地平線会議へ。3,4日間はものを食べていない…という壮絶な経緯の末の登場だった。「元気のあるうちにしゃべります」との前置きで始まった報告のテーマは「地平線のタマゴ」。
◆大学で7年間の探検部生活で世界のあちこちを探検放浪。当時、貧しく元気な旅人たちの間に広がっていたの共通認識を森田さんは、こう表現した。「金の北米、女の南米、耐えてアフリカ、歴史のアジア、ないよりましなヨーロッパ」。言葉のセンスは天性のものなのだろう。大学を卒業後、新聞社にいた先輩の紹介で、コピーライターの道を歩くことになる。
◆何事にも集中して打ち込む性格。ジャンボ尾崎にインタビューしたことがきっかけでプロ・ゴルファーの道を目指したこともあるそうだ。「シングルには1年でなったけど、プロは片手シングル(ハンディ5以下)じゃないとダメなんだ」
◆地平線創設メンバーである森田さんの願いは「日本人の記録を活字に残す」ことだった。生み出されたのが年報『地平線から』。『地平線から1979』から『地平線から1983』まで編集長として手がけた5冊の探検・冒険年報を会場の参加者たちに見せながら、森田さんは「この本をみるといとおしい気持ちになるんだ」とさえ言った。この年報に地平線の原点があるのだ。
◆『地平線から』の出版には、ちょっとしたドラマがある。大企業の「ロレックス」の企業広告を得たことだ。その本の存在意義が認めてこそ企業からの広告は掲載される。考えてみれば『地平線から』第一号でのロレックス広告掲載は大事件。今開いてみても、『地平線から』のなかでロレックスはしぶく光っている。
◆中国の密航組織に関わる言葉の多くは森田さんによって紹介され、つくられる。「蛇頭(じゃとう)」、「工頭(こんとう、手配師のこと)」「車頭(しゃとう、犯行後、犯人たちを輸送する運転手)」・・。その中でも、世の中に浸透している「蛇頭」は「じゃとう」ではなく「だとう」と読むのが妥当なのでは?との、専門家筋からの問い合わせも。でも森田さんが「じゃとう」といえば「じゃとう」だ。
◆鮭釣りの話から始まった報告会。「鮎宿にて」というNHKのドキュメンタリー作品も手がけている森田さんの釣りに関する万感の思いには、胸に迫るものがあった。10メートルの竿を手に600tの激流に耐えておとり鮎とともに格闘する。おとりに思いを託し、放つ。「尺鮎を連れてこようとするおとりに対して感情が芽生える。移入していく。しっかりがんばれ!とつぶやき、鮎を動かす」
◆3,4日間絶食状態の中で、さらに合気道の話となり、最後には、まさかまさかのフォルクローレ演奏まで! しかもサンポーニャで「聖夜」「コーヒー・ルンバ」、さらにボリビアの「満月の夜」「カンバの娘」と計4曲も。聞いている側としては、はらはらするが、序盤の様子を思うと嬉しい驚きだ。森田さんの生きる底力、元気に会場のみんなが目を見張ったのではと思う。釣り、合気道、フォルクローレ、と、なんと多彩な世界での活躍。上達の秘訣を「どの分野でも最高の師に出会ってきたこと」と、森田さん自身は振り返る。
◆300か月を超えた地平線会議を振りかえって、続けることが大切だということを改めて感じる。続けること…何かが終われば、何かがが始まる。何かを始めるときは、とにかく原点に戻る。森田さんは、「真実を証明する」ノンフィクションの世界から、「存在を証明する」小説の世界へ踏み出した。春に毎日新聞社から発売となる2作目は、「中国ネタではない本格サスペンス」だそうだ。
◆地平線200回記念のイベントに初めて参加したとき、私は「こんなすごい大人たちが集まる場があるとは!」と衝撃を受けたことを思い出す。私事ではあるが、その後農業関係の出版社(某農文協です)勤めをし、日本の各地をスーパーカブでネタ集めしつつ営業の日々を送った。「日本っていい国なんだな」と心から感じたのは私にとって事件だった。都市を離れるとまったく違う世界が広がっていることに驚いてしまったのだ。すごいことはできないが、今、日本のことをちゃんと見直したい、みんなで共感したい、と思う。地平線で受ける衝撃と喜びは私にとてもとても大きなこと。地平線と関わっていくことの重大さを感じ始めている。(横田明子)
【追記:】森田さんの話の後、11・7の続きのかたちで、短めの「リレートーク」となった。
【田中幹也さん】まずは虫歯を治して、北海道の天塩山へ。その後はカナダ、ロッキー山脈の北半分へ。安東浩正さんと共通する旅の方法があるという。「できるかどうかわからないからやってみる」という方法だ。「凍った川や湖を探りながら進むことに魅力を感じるし、共感できる。」クールな口調だが熱い内容だった。
【埜口保男さん】新潟中越地震被災地での活動報告。主にメンタル面でのサポートのために医療班として活動。「当人にとって何よりもつらいのがコミュニティーが崩壊したこと。とにかく何でもいい、話してもらうことが精神的に楽になる一番の方法」という。被災地の実際の様子は、ボランティアも医療班も過剰の状態。行政による日替わり医療体制では情報の連絡などが難しく、きめの細かいサポートはできていない。「現地で活動するよりも、どこかで働き、稼いだお金を送るという支援の方法が必要とされている」との言葉には頷かざるを得ない。「支援の難しさを感じる」の一言はズシンと心に残った。
【坪井伸吾さん】小学館のマンガ雑誌に掲載された「アマゾン漂流」のモデル。「2004年しまなみ海道100キロウルトラ遠足大会」に初参加、完走の報告のあと、2005年北米大陸横断ランをやる、との決意表明!
【山本千夏さん】モンゴル在住3年、友人と旅行会社「モンゴルホライズン」を設立、活躍中。モンゴルの最新事情の報告は、「モンゴルが大変だァ!」。与党・革命党と党との大接戦、かつてない状況となっている。また、長野県ほどの広さの中に35頭しかいない、といわれるゴビグマを保護するための住民運動も始まった。千夏さんの活動はまだまだ広がる様子。
【藤原和枝さん】バックパッカー再デビューの報告。長期の旅へ出る際の藤原流準備術などが披露された。いつも「8kg」の荷にまとめて旅立つというのはすごい。(横田明子)
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〈元氣と感謝と、猫またぎ〉
「下っ腹に力を入れろ」。合気道がいう「下っ腹」とは、臍(へそ)の下にある臍下(せいか)丹田(たんでん)のことである。だが、正直、腹を下すと丹田に力を入れたくても力が入らないものだ。あの日(12月24日・地平線報告会)会場へ向かう私は、なんども深い腹式呼吸を試みて臍下丹田に力を入れてみた。
●「元気をもらう」。よく使われる言葉を、これまで体験したことがなかった。と言うより、元気は自分の“氣”を出すものだと、合気道では教わってきた。合気道でいう「元氣」とは、天地のエネルギーを足から頭からそして指先から受け取り、体内をめぐらせて自ら氣を発するものだ。大声を出すこともその一つだ。合気道からすれば「元氣をもらう」ことはありえないことであるはずだ。だが、現実には私は元気をもらったのだ。
●下っ腹に不安を抱えながら報告が進む、三十分ほどして私の体内には異変が起きていた。臍の下が熱くなってきた。会場に入った6時半頃に、会場の暖房に頭だけが熱くなり、足先は冷えていた。無理を言って、暖房を切っていただいた。しかし、会場に集まる皆の氣がエネルギーとなり私の足先から吸い上げられるように、足先から熱くなりそして丹田に蓄積されたのを実感した。「皆さんから元氣を貰った瞬間だった」
●思えば不覚だった。春の孵化のためにイワナの卵を源流に持ち上げようと、川漁師たちと朝日連峰の源流に踏み込んだ。さらに、今年の水温の高さで思わず上流に上がった鮭を釣り上げるライセンスまで貰ったのだ。禁漁の源流で独り占めするような釣果に溺れたのか、生鮭を貪った。二日後、腹が痛いと言い出したのは、秋田の川漁師だった。そして私がついで福島の山菜取りの名人が倒れた。担ぎ込まれたのは、村の産婦人科だと知ったのは翌日だった。「手に負えない」医師は、力なく点滴だけ打った。
●「いまどき、鮭を生で食べるなんて」見舞いに来た地元の漁師が、町の病院まで転送する車の中で言った一言が悔やまれた。「“猫またぎ”というんだ。猫もまたいで通るほど、脂が乗ってなくてまずい。地元じゃせいぜい味噌漬けにするくらいだ」 生鮭の食中毒より、猫も食べない“猫またぎ”を美味いと言って貪った自分の味覚が悔やまれる。
●「地平線報告会初めてのドタキャン」が頭によぎった。町の医師にはウソをついて病院を抜け出て新宿の地平線の会場にたどり着いた。腹に力のないサンポーニャまで演奏した。恥の上塗りを覚悟だった。「北京」では、ビールと特製のお粥までいただいた。「元氣をもらった」地平線の皆さんに、感謝しなければならない。そこで思った。江本嘉伸さんがいつもあんなに元気なのは、地平線の皆さんから、「元氣」をいただいているからだろう。ちなみに、あれから病院には戻らなかった。食中毒の原因は今も不明のまま。腹のなかで「元氣」によって消滅したのかもしれない。
●追伸。地元の漁師さんから、「熊の胆(い)」がお見舞いに送られてきた。熊の胆嚢のエキスを抽出した特効薬だそうだ。「良薬は、口に苦し」だった。(森田靖郎)
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第291回報告「宙(そら)から見たマッケンジー」の報告者、多胡光純さんが、交通事故に遭った。本人は巻き込まれただけなのに、まかりまちがえば命もやばかった・・というの気の毒な事故。近況を書いてもらった。(E)
「失速から思うこと」
暮れの12月5日、撮影に向かう途中の高速道路で事故に遭った。僕の車は大型トラックとガードレールとの板挟みになり急死に一生を得る経験だった。事故のダメージは大きく、車をはじめ撮影機材、空飛び機材など全てを一瞬にして失った。そのときの様子は刻銘に脳裏に刻まれ、それは一本一本付け続けているのフライトログと同じくらい、鮮明に生々しく記憶されることになった。
●自分の生きる空間がとても長い一瞬のなかでメチャメチャに破壊されていく。極度に凝縮した時間は、空を飛びランディングするときの緊張や乱流帯に入ったときに感じる嫌なニオイに酷似していた。表現をより砕くと時間という概念が無くなり、集中力を高めた分だけ自分の空間を保存できるような感覚に近い。体は固まらず柔軟に反応し、やるべき事が目の前に殺到と言うよりも、とんとんとんと積み上げられて。集中力に任せ瞬時にそれらをカッパク。事故ピーク時に思ったのは「駄目だ」じゃなくて「まだ行ける」という先に繋ぐ思いだった。
●自分の存在が無くなるという現実をすんでのところで交わした今、思うこと。それは月並みかもしれないが、日々を思い切り生きていこうということだった。そして僕にはまだやるべき事がある。だから天は僕を呼ばなかった。一方、自分に課された使命があるならば、それが終わったときフッと霧のごとく消え去るということも同時に知らされた気がする。その思いは、見知らぬ風の中に飛びこむときに抱く「恐怖心」が良い意味で次のステージへと入り込んだとも言えよう。
●死の恐怖からの脱却は割にサバサバと処理することができ、次に入院中、事故の意味を自分のなかで消化しようと試みた。横わたるベッドの上で、空師道に踏み込んだ当時から今までのことを幾度も思い返した。そのなかから一つ導き出されたこと。それは2005年の所信ともいえるので、思い切って、ここで言ってしまうことにする。2005年の多胡は、「アンバランス」をテーマにいく。
●手にした翼のバランスはいらない。世の中をうまく飛んでいこうとするアクションはかえって自分の力を分散させ、思わぬ方向へと自分を滑空させてしまう。今回の事故をそう位置づけることで「処理済み」とし、そろそろ次なる自分オリジナルの世界へと滑空を始めたい。
●最後に、幸いにも空師としての生命は断たれることなく2005年を向かえることができたことを嬉しく思う。通院とリハビリの日々は続きますが、それもまた無限空間への布石だと思う。
2005年元旦 首輪の空師、多胡光純
エミコさん、自転車であの地へ!
11・7フォーラムで、ガンを超えて地球一周の旅の再開を宣言したシール・エミコさんから元気な一報が届いた。1月13日夜、筑紫哲也の「NEWS23」で、夫君のスティーブともに元気に自転車を漕ぐ姿が伝えられ、一時はほとんど消えようとした命と向き合った人間が、ここまで元気になれるのだ、と感動した。帰国直後彼女の状態を思えば、信じられないことである。いったん3か月で帰国し、治療を受けてから旅に戻り、あと数千キロとなった一周をやりとげる計画だ。(E)
エミコ&STEVEです。
ただいま、パキスタンのイスラマバード。4年ぶりに、旅を再開しました!思ったより治安も良く、昔と変わらず人も親切。イスラム社会は、知らないと一歩引いてしまいがちですが、世界78カ国まわった中でパキスタンは大好きな国の一つです。
特に、北部フンザ地方の大自然、壮大な山々は言葉にあらわせられないほどの美しさ。まさに地球の桃源郷!です。生きて、ここに戻れたことに深く感激しています。これから南下し、1週間後にはインドに入ります。また、旅の空からお便りします。追伸、昨日、毎日放送「VOICE」で旅の再開が特集で放送されたそうです。1月15日前後に、筑紫哲也さんの「NEWS23」でも放送されるよていです。フンザの景色をぜひ、ご覧下さいませ!!(1月7日メール。放映は13日だった)
櫻井恭比古さんの功績ー「300か月記念フォーラム」会場確保秘話
地平線通信特別号用に関根皓博さんにお願いして書いてもらった会場確保の苦労話を載せ忘れてしまった。少し特別な扱いにしよう、と思っているうちはみ出してしまったのであるが、大事なテーマなので、今号で掲載させていただく。乞お許し。会場確保というのは、実はドラフト会議の指名権獲得にも似たタイヘンなことで、毎月の報告会の会場確保も三輪、関根さんたちが汗をかいている結果なのだ。なお、最近の「地平線縁の下会議」の重鎮、関根、桜井さんはともに三輪さんの勤務していた都立高校での年長の元生徒である。(E)
☆会場が決まるまでのお話 関根皓博☆
記念フォーラムの会場としては、最初数箇所の候補があり、費用、交通の便など考え、最終的に箪笥町区民ホールに決定。第一候補を11月6日(土)第二候補を7日(日)の2日間とした。それがそれがなんと、森井さんの情報で6日は区の行事が入り第二候補7日のみとわかったのだ。抽選会へのプレッシャ?大、なんせ土、日から埋まるとのこと。
◆確率上げる為には、何人かで参加しようと5月6日の抽選会前日、桜井恭比古さんにTEL、写真入り身分証明書持って8時30分区民ホールへ集合をお願いする。
◆5月6日いよいよ運命の日、私はカミさんにも運転免許証を持たせ二人で集合場所へ、すでに三輪さんはオバさん達にリサーチ、なるたけ7日は避けるよう話している。当初 新宿区民3人で各々受付と考えたが、「一団体一組」と大きく張り出されており、チョットめげ桜井・三輪組、関根組の2組とする。
◆いよいよ受付が始まり、運転免許書を見せ写真で本人確認のうえ用紙を受取り、ソワソワ順番に席に着く。関根組2番、桜井・三輪組3番。全部で13組もいてザワザワ落着かない様子。三輪さんより耳打ち。関根組は「地平線会議」桜井組は「江本会」と書くべし。
◆「9時になりました、抽選を始めます」の担当者の声、全員に緊張が走る。「はい、1番の人」 私の右側から静かに立ち上がり、福引で使うガラガラを廻す。ポトッ、と落ちた玉を拾い上げ、担当者の声。「13番です」 ほぉぉ、と安堵、そして笑い。一番がビリ引いた。「次、2番の人、どうぞ」。緊張とプレッシャーの中、私が立ち上がる。「ガラガラ」玉が出てこない。担当者「もう一度。はい止めて」ポトッ。「はい、12番です」背中にドヨメキと笑いを聞いてトボトボと席へ戻る。カミさんの冷たい眼差し、三輪さんの諦めの表情。ヤダヤダ。
◆「3番の人どうぞ」今度は桜井さんだ。飄々と台に歩み、廻す、三人の期待と祈り。玉はポトー、と落ちる。「1番です!」。全員ウォー、とどよめく中、桜井さんは当然といった面持で席へ戻る。私はバンザイしたくなるのをこらえ、受付で肩落しながら、希望日は埋ってしまったのでと言い用紙をかえす。
◆以上が抽選会の模様です、私にとって一番の山場といえるでしょう。この山場を乗り切った一番の功労者は、何の事かわからないと云いながら、免許証を持って駆けつけてくれた桜井恭比古さん、彼が一番籤を引かなければ,今回のフォーラムどうなっていたか・・・・・
■「すごいぞ、301号地平線通信!」賀曽利隆
昨夜(2005年1月6日)、13度目の「サハラ砂漠縦断」から帰ってきました。机の上には年賀状を含め、留守にしていた間の郵便物が山のように積み上げられていましたが、その中から目ざとく「地平線通信」をみつけました。西アフリカ・ガーナのアクラから東京まで36時間、機内2泊というきつい帰路だったにもかかわらず、64ページの「地平線通信」を読みはじめたらやめられず、夜中まで読みふけりましたよ。一番印象的だったのは菊地由美子さんのまとめたリレートークのページ。実に切れ味の鋭い文章。菊地さんは新聞記者にしておくのはもったいない!?人だなあ・・なんて思った次第。それとよくぞ宮本千晴さんにあれだけの文章を書かせましたね。江本さん、エライ!地平線会議創立時のメンバーの森田靖郎さんや岡村隆さんもいつになく熱い血のたぎるような文章を書いていますが、それはきっと今の地平線会議を支える若い皆さんの影響なんだろうなあ・・と一人で納得しました。今回の地平線通信を読んで、あらためて地平線会議の底力を感じた次第です。
■「ネパールから、ただいま」 12月上旬にカトマンズより帰国しました。帰国前の2週間は経験したことないほど忙しい日々でした。大会場での展示会に参加し、それが終わった次の日から小さなカフェでの展示会。搬出が終わったのは、帰国当日の朝でした。珍しく頭を使ったせいか、帰国してから眠ってばかりいます。2月にラオスの染織村へ旅行するので、その前に一週間ほど、カトマンズへ遊びに行く予定。バタバタしていて、最後に挨拶できなかった方々のところへも、顔を出せたらいいなと思っています。愛知万博にもネパール館が参加するし、しばらくは、ネパールつながりが続きそうです。(高山発・中畑朋子)
■ふたたび極寒の旅へ
私の友人であり自転車界でただ一人尊敬する安東浩正が、厳冬季・極東シベリア自転車踏破の旅に出た。2年前に冬季シベリア自転車横断に成功した安東は、更なる試練を求めシベリアのなかでもっとも寒い極東シベリアをめざす。サハリンからスタートし、凍結した間宮海峡を走り大陸へ。さらに世界的な極寒地といわれるサハ共和国を通過して北極圏へ。平均気温マイナス50度Cという厳冬季エベレストに匹敵する過酷な気象条件。自転車ツーリング史上例のない大冒険だ。快適に舗装されたハイウエイなどほとんど存在しない極東シベリアでは、ルートの大半を凍結した川や湖に求める。自転車ツーリングというよりも極地踏破や冬山登山に近い。もともとベールにつつまれていた旧ソ連のさらに辺境の地ゆえに、情報はほとんど得られない。詳細な地図などもちろんない。コース取りからして現地に行くまでわからない。凍結しているのか通過できるのかすらわからない。しかし完走できるかどうかわからないからこそ挑戦する価値があると安東は言う。
自分自身への挑戦を標榜して、あるいは未知の世界への好奇心と題して、旅に出るサイクリストは多い。異国の地で多種多様な価値観に触れ、新たなる価値観を手にして帰国する。しかし、大半のサイクリストの挑戦は、二番煎じどころかマンネリ化、マニュアル化された踏破記録がほとんど。自転車世界一周といっても、その地域において最もリスクの少ない安易なコース取りが多くを占めている。寒い季節になると南下をはじめるか旅を終えるのがサイクリストたちの定番でもある。たしかに盗難や交通事故など多くのリスクを背負っているが、それは交通機関利用の旅とさして変わらない。自転車世界一周といえば、何万キロ踏破、何か国通過、何年旅したという数値を羅列して、一般大衆の関心を集めることができる。この種の表現法方は、登山に例えれば七大陸最高峰登頂や日本百名山コレクションにも似ている。内容は二の次でとにかく数を合わせれば自他ともに納得するという価値観だ。埜口保男の「70歳までに自転車で地球4週」といったアホ(失礼!)な行為を除けば、記録的価値とも独創性とも無縁なのが自転車旅のつねだ。大胆にいってしまえば、特別な体力、技術、精神力などなくても、暇と金によって実現できる夢である。安易な一発屋と言えなくもない。
サイクリストにかぎらず多くの人にとって、安東のようなリスクの高い旅は理解できない。なぜそのような過酷な課題に挑戦するのか? 「できるとわかっていることをやっても仕方がない。行けるかどうかわからないから挑戦なのだ。それを越えて初めて自分の限界が見えてくる」。そして「前回永久凍土の狭間に置き忘れてきた心を取り戻すために、再び出かけてきます」。本当にしたいことをしているようだ。純粋に好きなことを見つけるのは難しい。人はいつもなにか理由をつけたがる。お金になるから、有名になりたいから、人気があるから、などが最も多いだろう。
自己の充実を最優先し妥協しない姿勢を貫く安東の姿勢。そんな彼の行動は、しばらく遠ざかっていた私の冬季カナディアン・ロッキーの冒険を再開させるきっかけにもなった。3年前よりくすぶりつづけていた「厳冬季カナディアン・ロッキー北部 山スキー1200km踏破」の計画。現地の国立公園管理局に聞いても冬季の状況は、わからないという。国立公園からはずれるので、情報がないのは当然かもしれない。カナダの山岳関係の雑誌を調べても使えそうな情報はほとんど得られなかった。ただひとつわかっているのは、これまで私が行ってきた厳冬期カナディアン・ロッキーよりもはるかに困難な未知数の多い行程になるであろうということだけである。情報がほとんど手に入らないためにスタートを躊躇していたカナディアン・ロッキー北部に、2月から出かける。私もまた踏破できるかどうかわからない。だからこそスタートしなければならないような気がする。
●P.S. 年明けより日本で最低気温を記録した北海道北部にある天塩山地へ出かける予定。地形的にもカナディアン・ロッキー北部に似ている天塩山地は、足慣らしにもってこいなのだ。そう思い、さっそく資料集めに取りかかるやいなや、出だしからつまづいた。意外なほど情報にとぼしい。それでも山岳雑誌のバックナンバーのクロニクル欄をあさると、断片的ながら情報はつかめた。 豪雪、極寒、静寂の3つが冬の天塩山地のキーワードのようだ。最高峰千m足らずの地味な山域だが、日本海に面しているため、一度天候が荒れると身動きできない過酷な自然条件になる。気象条件の悪さゆえ1月の縦走は、ほとんど無理。といった悲観的な情報ばかりがもたらされた。いっぽうで稜線からの日本海に浮かぶ天売島や焼尻島が美しいとも聞く。そして純文学的な山域である、とも。(田中幹也 12月28日着メール)
●追伸:北海道・天塩山地縦走ですが、まったくお話になりませんでした…。独特の気象条件ゆえ、1月だとおそらく2カ月間くらいかかりそうです。バス停からすでにスキー履いて太腿くらいの積雪に加え、悪天でめったに山の姿見えず…。麓でもテント内マイナス25度Cまで下がったり…。今回の2週間という短期間では、すくなくとも私の実力では無理のようです。しかし、日本にも、まだまだ高難度(?)の縦走課題が残ってるのもたしかです。19日に旭川より戻ります。(1月15日付メール)
超豪華だった特別号発送!
◆『今日はお疲れ様でした。久々の発送作業お手伝い。前に行った時は三輪先生の高校の地学室だった。(昔話のようなご無沙汰でおはずかしい…)平成の借金女王の私は、OLとホステスとその他もろもろ3足も4足もボロわらじを履いていたので、なかなか発送作業や報告会に顔を出せなかった。(忙しくても、どんな遠くからでも飛んでくるカソリさん等を知っているので、言い訳にもならない…とほほ)
◆江本さんのメールで師も走る12月、皆さんお忙しいそうなので、子連れで行ってたいした役にも立てずに迷惑かなとも思ったが、育児ライフの今が、今までの分を取り返す天の恵みと思い立ち、電車に乗ってしまえば、うち(三浦)から2時間かからない。颯人(そうと)に乳をやり、オムツを替えて、サァよおし!いくぞー!
◆行ってみれば、うふふふふ…!!すごいねすごいね。海宝さん!!出るわ出るわ…ビーフジャーキー、特製たまご、激ウマベーコン、ラムレーズン、京かりんとう、珍品おすし(おいしかったぁ)そしておいしすぎて涙ものの光り輝くさぬきうどん&桜うどん!!おだしと、たれもすごくおいしかったです。極めつけは絶品スープ。(水筒持ってくればよかった。持って帰りたかったよー)締めはあんみつ!(ギュウヒや杏も入ってました!)食の評論家では無いので、文章では伝えられないのが残念!!過去にこんな発送作業があったのだろうか?榎木町地域センター調理室も本来の使われ方をして、本領発揮だ。海宝さん、感動しました。ありがとうございました。大変ごちそう様でした。来月は餃子だそうだ。また子供をしょってでも、絶対行こう。
◆帰り道、電車に揺られつつ、301号を読みながらつくづく思ったこと。大雲海も、その先の地平線も、報告会も、毎月の発送作業もがんばってる人たちがいるから、地平線は続いているんだなって…私がガキンチョだったときも、旅に出ているときも、日々の暮らしに忙殺されているときも、地平線会議は25年続いてきたんだなぁ。他に言葉が見つからないから、こんな言い方で申し訳ないけど、「スゴイよね。ホントに!!!」(青木明美12月13日メール)
☆12月13日の特別号発送に参加してくれたのは以下の17人。地平線通信発送史上、最高数でした。ありがとうございました。海宝さんに感謝、気まぐれでいいから、またお願いします!(E)
海宝道義、三輪主彦、青木明美+颯人、落合大祐、藤原和枝、菊地千恵、江本嘉伸、新井由己、田中勝之、久島 弘、白根 全、坪井伸吾、松尾直樹、村田忠彦、山本千夏、西牟田 靖、横内宏美
「請う、ご協力!」
「募集。海外旅行中にマラリア、日本での法定伝染病、その他の病気などで七転八倒した体験談。入院体験者大歓迎」 暮れに合格通知なるものが届いた。20万4000円を振り込め、だと?なんだこりゃ、年の瀬を狙った新手のおれおれ詐欺か?どこのどいつだ、こんなのを送りつけたやつは。差出人は・・・、ありゃ、母校だ。いけね、仕事の関係で修士出ておいてくれって頼まれたんだっけ。というわけで、学生再開です。地平線のみなさま方、わが修士論文のためにご協力お願いします。(埜口保男 1月11日着書簡で。仕事は勿論続けながらの勉強だそうです)
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『大雲海』欠落ページ、届きましたか?
●12月にお届けした地平線通信301に『地平線大雲海』の欠落ページを同封しましたが、もし買ったのに届いていないという方がいらっしゃいましたら、「地平線大雲海制作室」までお知らせください。
●『大雲海』の在庫はまだ少し残っています。お申し込みはお早めに(頒布価格2600円・送料500円)。
●長野画伯のチベットスケッチ行を収めた『地平線カレンダー2005』(同500円・送料140円)も好評発売中です。地平線のウェブサイト(www.chiheisen.net)でサンプルをご覧いただけます。
●「地平線大雲海制作室:〒167-0052 東京都杉並区南荻窪2-22-14-201 丸山純方」
チベットの言霊(ことだま)
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郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
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