2004年12月の地平線通信

※今月の地平線通信は大集会の特集で64ページになりました。
 ページ数が多いため、特集ページは メニュー からご覧いただくようにしました。


■12月の地平線通信・301号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙 んにちは。11月6日、『地平線大雲海』ついに出来上がりました。分厚い、もち応えのある『大雲海』を手にして一番嬉しかったのは、私ではないかな。25年前のはがき通信をスタートに、延々と地平線会議がたどってきた道のりが、この1152ページにはこめられている。私はその全部を知っているのだ。

●記念フォーラムの直前、西東京市に住む那須美智さんからはがきが届いた。「300か月にわたって延々と続いてきた地平線会議にまずお慶びを申し上げます」との書き出しで「3日から7日まで80歳の父を連れて熊野古道を歩くことにしていますので残念ながら出席できません。日本山岳会と違って地平線には元気のよい若者が参加してくるので未来は開けていますね」と、続く。

●那須さんは、名はほとんど出ないけれど、地平線の初期を支えてくれた大事な人だ(西堀栄三郎日本山岳会会長の晩年、ずっと秘書をしていた)。たとえば『大雲海』に復刻されている9号〜14号のはがきは、すべて那須さんが書いたことが字体からわかる。ことし故郷の佐渡島に戻った高野久恵さん(11月7日の会場に駆けつけてくれていた)も、縁の下を長くやってくれた一人。44号は高野さんの字だ。73号続いた「はがき通信」を懐かしみつつ(私の手書きも14通もあったのだ)、ワープロ書きになって何度も同じ「79・8・17誕生話」を書いている自分に苦笑しつつ、7日を迎えた。

●生きているうちに、やって良かった、と思える瞬間が稀に訪れる。11月7日の「その先の地平線地平線会議300か月記念フォーラム」は、その貴重なひとつだった。あの日、箪笥町区民センター大ホールに醸し出されていた空気を何と表現すればいいのだろうか。地平線会議という獏とした空間にいろいろな年代が混在しつつ、動きをつくっている。それぞれの思いを抱く人たちが、ステージの上も舞台裏も受け付けまわりも、勝手に動いて、それでいて調和があった、と言えばいいのか。「層」ということを初めて実感したのである。飛び交う無数の粒子でできている蚊柱状の球体を想像してみてほしい。もしかしたら、そういうものに近づいたのかもしれない、とさえ思う。

●山岳部で自然と真摯に対峙した時の怖さを知り、すでに15年やっていた新聞記者生活で人間の質というものを多少学んでいた。1979年8月に地平線会議を立ち上げた時のことだ。そして「この仲間となら持続できるのでは」との予感を持ち、同時に「必要であればひとりでも支えてみよう」というささやかな決意を抱いた。いずれ皆、疲れるだろう、その時には多少の厄介は引き受けよう、との気分である。古顔は普段顔出さなくとも、いざという時に駆けつけてくれればいいのだ。

●新聞という表現の場を持っていながら、地平線会議を仲間と始めたのは、それを切実に必要、と感じたからだ。人々が思った以上に世はへんてこりんな志向で動いており、冒険でも探検でも何でも「有名になったが勝ち」みたいな、まさかまさかの雰囲気が出来つつあった。大事にすべきは、内容、人の質ではないのか、と思うのに、マスメディアは勿論、経済効率が思った以上にあらゆる分野を支配していて、あれあれ?という方向に進んでしまう。

●案ずるほどのことはなく、地平線の周辺には次々に良き人間があらわれた。続けていれば、必ずつながってゆくのである。勿論、世界はそう甘くはない。“人肌のぬくもり”だけで、持続できるものではないことは、皆が知っている。

●ことし『大雲海』の制作の流れと11月6、7日の準備、本番を通して私は、地平線会議に「基盤」のようなものができたのかもしれない、と感じている。それができるまで、25年ぐらい続ける必要があった、のだと。

●そのことは、これからも長く地平線会議をやってゆく、という決意表明につながる。どうせ好きなもんが好き勝手にやるんだ、いつ終わってもいいんだ、と、ことさら重荷にしないようにしてきたが、もうその時期は通り越したようだ。地平線会議は、第1世代、第2世代が消えても、存在し続けるのではないか。その意味があるのなら、さらにその先までも。

●前夜祭で、17才になった榊原夏帆さんが花束を贈ってくれたのには感激した。思ってもみないことだったので、ほんとうに嬉しかった。あの夜の夏帆さんの笑顔を忘れないだろう。

●会場に影山幸一、本吉宣子夫妻の姿を見た時も嬉しかった。お二人は地平線会議の旅人たちのシャッターの瞬間を集めた見事な写真展『地平線発』を企画、全国各地で好評を得たが、経費面で私たちの非力もあって赤字を背負った。地平線の写真展によって、ひとつの美術展企画会社がなくなったのだ。そのことを私はずっと忘れない。

●ともあれ、素晴らしい11月であった。さあ、もう少し続けていこうぜ、とのメッセージのつもりで、今号の地平線通信は、始まって以来の64ページ建てである。[江本嘉伸]



10月の報告会から(報告会レポート・303)
谷から来る男
丸山純+令子
2004.10.29(金) 新宿区榎町地域センター

報告会レポート ◆今日のテーマ「なぜ同じところに通うのか」−ほんとうに、どうしてですか?

◆パキスタンはチトラル、圧倒的多数のイスラム教徒の隙間を縫って、カーフィル(異教徒)として今は3つの谷に暮らすカラーシャの民。そこはパキスタンという国の中にあるもう一つの世界、カフィリスタン(異教徒の国)である。彼らは古来の多神教を信仰し、独自の祭り、言葉、衣装などを守っている。カラカラに乾燥した周囲の景観をよそに、灌漑水路を築いて緑豊かな春を迎える。

◆今夏、丸山さんと令子さんはチトラルにいた。丸山さんは15回目の来訪、通い続けて26年!令子さんも20年以上チトラルに通っている。ムンムレット谷のブルーア村が、東京生まれ東京育ちの丸山さんにとっての「故郷」。村のみんなが迎えてくれる。

◆丸山さんは中学生の頃から洞窟探検にのめり込み、当時創刊された雑誌『現代の探検』(8号で休刊した)や向後元彦さんの著書「ひとりぼっちのヒマラヤ」に衝撃を受ける。そして、宮本常一さんが所長をしていた「カンブンケン(日本観光文化研究所)」へ。思い出話には、地平線にゆかりの方々の名前が次々と挙がった。皆さん、随分長くこんなことしてるんですね。しかし穏やかな風貌の丸山さんが、洞窟!そんな熱血少年だったなんて。聞いていたって信じがたかったが、さながら噴火口に潜ろうとしているかのポーズ、手作りの縄梯子を手にした写真など、セピア色の画像(地平線の古参メンバーでさえ初めて見た、というお宝でした!!)がそれを事実だと伝えてくれた。ああ、人に歴史あり。

◆丸山さんは向後さんに「最低でも四季を経験しないと」と諭され、伊藤幸司さんに「土地の面白さは言葉を知らないと」と教えられる。卒論をきっかけに、チトラルのカラーシャに目を向けた。1978年8〜12月がはじめての滞在である。それから今までムンムレット谷とその周辺に通っている。

◆祭りだ、葬式だと、カラーシャは年の90日程を歌い踊る。これは大事な儀式の一部なのだ。観光客が訪れ、表面的にはツーリスティックになっているように見えても、恍惚と踊り続ける彼らに「未開性」を感じる。棺桶は埋めたらそのまま、目印も残さない無機的な雰囲気にショックを受ける。丸山さんはカラーシャに魅せられ、若い男たちから言葉を学んだり、女たちの畑仕事を手伝ったりして村に溶け込んだ。

◆そして、このカフィリスタンにも90年代半ば以降ギリシャなどからの援助が入った。だけど援助って何ですか。素朴な儀礼の場がコンクリートで固められたり、カラーシャのための立派な学校を作ってくれたり。文字のないカラーシャ語に文字をあてがい教科書も出来た。奨学金もくれる。土地を買い取り、鉄筋4階建てのカラーシャ博物館も建設中だ。

◆自分はここで学ばせてもらっている立場、与えてもらう立場だと考えていた丸山さんだが、日本パキスタン協会と縁があり、女性や子どものための基金をつくった。この数年、谷近くのイスラムの村ドローシュにある、貧しい子どもと女性教員を養成するための学校を支援している。校庭には遊具をおいた。絵本を読み聞かせたり、絵を描かせたり、楽器やデジカメの教室も。初めての母親参観日、子どもたちは「おおきなかぶ」を上演した。こうした情操教育は、イスラム原理主義の厳しい現地では難しい。報告会では10分強のビデオが流れたが「学校は楽しいところ」と子どもに印象付けたいという狙いはばっちり。丸山さんは、何かを与える側に立った。モノではない何かを。これからも。

◆丸山さんが初めてチトラルに行った時、私は2歳。若かった。大学4年のときに地平線と出会い、人の話を聞くだけで人生を終えたくないと痛切に感じ、働いては旅に出ている。お話を聞きながら、いつだって人は誰かに刺激され、前に向かってゆくのね、としみじみ感じた次第だ。11月7日は大集会。たくさんの刺激を得ることは必須。旅心爆発だろう。丸山さん渾身の『大雲海』も楽しみである。[後田聡子



報告者からの控えめな補足
報告会翌日、丸山純さんから何人かのみなさんに
メールが送られてきた。後田さんの「レポート」
を補完する内容なので、ほぼ全文を掲載します。

◆昨日はみなさま、私の報告会にきてくださってありがとうございました。昨夜のうちは、けっこうしゃべれたぞと感じて、それなりの満足感に浸っていたんですが、今朝になってみると、いちばん話したかったこと、このひとことを言うためにこの報告会を引き受けたもっとも肝心なことを結局言わなかったぞと気づき、ものすごく落ち込んでいます。

◆私が「なぜ同じカラーシャのところばかり通っているか」という問いへの答えとして、以下のようなことをしゃべるつもりでいました。

◆ちょうどブンブール・カーンの一家との交流や、親友となったバリベークとの出会いを通して、伊藤幸司さんが言っていたようにちょうどまさに1ヵ月経ったところで、私はいきなり、それまでの“オシ”と“ツンボ”(という表現を当時の私は使っていた)の状態から、ある日突然、カラーシャたちと自然にコミュニケートできている自分に気づいて、愕然とします。

◆まず、2週間もすると、かなりのカラーシャ語がなんとか聞き分けられるようになりました。けっこう彼らの言っていることがわかるようになった。ただし、それはきちんと思想や感情に裏打ちされた言葉としてではなく、断片的な単語の羅列として聞こえているにすぎません。知っている単語が耳に届くのを追いかけるだけで、まだせいいっぱいの状況です。

◆それが、ちょうど1ヵ月めのある日、これまでノドのところまで出てきていながらまだ声として発声するにまでいたらなかった言葉が、私の口から突然飛び出してくるようになったのです。頭に浮かぶ日本語をいちいちカラーシャ語に置き換えるのではなく、自然にカラーシャ語で考えている自分がいる! これは、ほんとに衝撃的な体験でした。カラーシャの言語世界(言語空間)に、私という日本人の世界がささやかながらつながった。その瞬間だったのです。私はついに一線を越えた! そうか、言葉というのはそういうものなのだと、心がふるえる思いがしました。

◆これは、至福の体験でした。そして、その後のカラーシャ語の習得体験を通して私は、もし火星に行っても俺は同じようなやり方で火星語をマスターできるぞ、とまで自信をもつようになります(^^;。でも、またほかの土地に、ほかの民族のところに行って同じ体験をするのは、億劫(というよりシンドイ)です。それに“浮気”をしてしまっては、せっかく私が「つながる」ことを許してくれたカラーシャに対して、なんだか申し訳ないような気持ちも湧いてきます。相手の世界とコミュニケートできたこの瞬間の思いを一生の宝物にしておきたい−−そんな思いが、私を繰り返しカラーシャのところに向かわせているんだと思います。

◆……というようなことを話したかったんですが、時間に追われてしまったのと、それまでの「地平線につながる先輩たちとの出会い」というテーマで話してしまったので、うまく語ることができませんでした。申し訳ありませんでした。

◆それから、これは“余談”ですけど、後半に写真やビデオで見せた子どもたちの笑顔ですが、あれは男一匹がのこのこ出かけていっては、簡単に引き出せるものではありません。こちらが家族で出向くからこそ、相手もすんなり自然に心を開いてくれるわけですね。「ピンクの麦わら帽子」の威力は絶大なのです(^^;。

◆もうひとつ。今年の夏に部族地帯に行くときに、最初はチトラルから派遣した職人の青年でさえ村に入れず、地元の族長の家族のお医者さんに同行してもらってようやく入域できたという話をしましたが、じつはあのとき、私たちの車の運転席の脇には、弾丸を込めたピストルが置いてありました。同じパシュトゥン族の一員である有力者が、自分のお金で寄付(プレイグラウンド建設)をしてあげるために行くのに、「これはわれわれパシュトゥンの習慣だから」とピストルを携行しなければならない。そこまで部族というものが支配的なのが、あの部族地帯(トライバル・エリア)です。会場に着いたらそのピストルの写真を入れようと思っていたのに、うっかり忘れてしまいました。

◆まだまだこまかなところはありますが、以上3点、ほんとうに心残りです。なにかの機会に、語り直したいと思っています。[丸山純



『地平線カレンダー2005』、完成しました!
チベット高原周辺のスケッチ行がテーマの『月雲省風写暦』
全8枚組で頒布価格500円

●おなじみの長野亮之介“画伯”がカラーで描くイラスト満載で大好評の「地平線カレンダー」。その2005年版が完成しました。タイトルは『月雲省風写暦』。1994年にチベット高原周辺を歩いたときのスケッチを収録したものです。今回は、カレンダーとしての使い勝手を向上させて、左右にタマ(日付)部分を配置。予定を書き込める小さなスペースを設けたうえ、満月・下弦・新月・上弦と移りゆく月齢もわかるようにしました。最後のページには画伯の「絵師敬白」とともに、月齢や旧暦についてのミニ解説も用意。地平線のウェブサイト(www.chiheisen.net)でサンプルをご覧いただけます。

●今年の分と同じA5判(横21cm・縦14.8cm)で、8枚組。2ヵ月が1枚のカレンダーになっていて、それに表紙と解説(絵師敬白)のページが付属した計8枚組です。頒布価格は、1部あたり500円。送料は2部まで140円、3部まで200円、7部まで290円(それ以上はご相談ください)。

●お申し込みは葉書などに氏名(ふりがな)、送付先住所、郵便番号、電話番号、申し込み部数を明記のうえ、「地平線大雲海制作室:〒167-0052 東京都杉並区南荻窪2-22-14-201 丸山純方」へ。『大雲海』と一緒に郵送できると、送料がかかりません。同時申し込みの方はひとこと書き添えてください。




『地平線大雲海』の在庫が少なくなってきています。
ぜひ予約をしてください。お代はあとでもけっこう。

●11月7日の大集会で頒布を開始した『地平線大雲海――地平線通信全記録 0号〜300号』の在庫が、おかげさまでかなり少なくなってきてしまいました。限定330部しか刷らなかったのに、最近地平線会議から少し遠ざかったしまった人たちや、これから地平線の活動に参加したいのでぜひ売ってくださいという若い人まで、意外な人たちからの申し込みが相次いでいます。

●これまでの地平線会議の出版物は、何年も(『地平線から・1982』はまだ10数冊在庫があります)かかって完売となってきましたので、油断していらっしゃる方も多いようですが、このままのペースで行くと、わりと早い時期に在庫がなくなってしまうかも。

●12月の地平線報告会で購入しようと思っている方も、いまのうちに予約していただいたほうが確実です。お代はあとでけっこう。

●先日も「地平線通信のバックナンバーをちゃんと残してあるからいらないや」という方に強引に押し売りしてきましたが、25年間の地平線会議の歴史が1冊の本として読めることに、心底感動してくれました。「実際に手にしてみないと、この感動はわからないね」とのことです。この地平線通信301号にも、そのあたりの感想がいくつか掲載されていることでしょう。

●地平線通信の読者のみなさんにこそ、手にしていただきたい1冊です。再刷の予定はありませんので、お早めに。

●A5判(『地平線から』や『DAS』と同じ)・全1152ページ(厚さ約4cm)。頒布価格は1冊2600円。送料は3冊まで500円です(それ以上は問い合わせてください)。

●氏名(ふりがな)、送付先住所、郵便番号、電話番号、申し込み部数を明記のうえ、「地平線大雲海制作室:〒167-0052 東京都杉並区南荻窪2-22-14-201 丸山純方」へ。

●郵送希望なのか、12月の報告会での手渡し希望なのかを明記してください。『地平線カレンダー2005』もよろしく。



『大雲海』欠落ページのお詫び

●地平線通信161号と240号の2ヵ所で、同じページを間違って貼り込んでしまうという大ミスをしでかし、そのまま印刷してしまいました。p.445とp.831の2ヵ所です。11月7日の大集会になんとか間に合わせようと必死で徹夜の作業を続けていたうえ、さまざまな事情が重なって気づきませんでした。申し訳ありません。

●欠落してしまったページをこの地平線通信301号に同封しましたので、『大雲海』をお持ちの方は、該当ページに挟み込んでください。

●11月7日当日の参加者名簿などを参考に、なんとかこれまで買っていただいた方々を割り出し、欠落ページをご送付している最中です。欠落ページが送られてこない方をご存じでしたら、上記「地平線大雲海制作室」までご一報ください。地平線のウェブサイト(www.chiheisen.net)に詳しい案内があります。

●お手数をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします。[丸山純『大雲海』制作室



[1万円カンパ実行人リスト]
(04年12月3日現在)

金井重 丸山富美 埜口保男 北川文夫 飯野昭司 青木(生田目)明美 横山喜久 野々山富雄 西澤栄里子 中島菊代 岩淵清 森井祐介 花崎洋 坂下哲之 関根皓博 村田忠彦 賀曽利隆 大西夏奈子 松田仁志 岸本実千代 河田真智子 江本嘉伸 海宝道義 海宝静恵 遊上陽子 斎藤豊 河野昌也 近藤淳郎 鹿内善三 香川澄雄 シール笑みこ&スティーブ・シール 菊地由美子 白根全 村松直美 原健次 三上智津子 佐々木陽子 藤田光明 三輪主彦 佐藤安紀子 坂井紀子 石原卓也 加藤幸光 吉岡嶺二 藤本亘 松川由佳 山本千夏 山本祥子 田口幸子 瀬沼由香 小林天心 後田聡子 横内宏美 江本くるみ 杉田晴美 戸高雅史 井上智 宮本千晴 向後元彦 向後紀代美 藤原和枝 坂井広志 古山里美・隆行 下島伸介 桜井恭比古 神長幹雄 山田まり子 坂本勉 山田和也 中村易世 石川秀樹 山本将 網谷由美子(敬称略)



編集長のひとりごと

前夜祭とフォーラムを見ていて、これは地平線通信特別版を出さねば、と思った。石川直樹君のように「今回は書かせてほしい」と、言ってくれた者もいたし、それだけ自然の盛り上がりがあったのだ。前夜祭とフォーラムの各パートは事前に書き手を指定していたが、あとはかなり自由裁量に任せた。結果、ご覧のような構成となった。渋る書き手を説得したものもあるが、それは例外で、皆ユニークな視点で書いてくれた。

◆全体の構成、各文章についているタイトルは、ほとんど私がつけた。全体を通して読ませたかったので、不満な向きもなにとぞご容赦を。

◆フォーラムの直後、ひそかに三輪さんに言った。「分厚い通信にしたいので、レイアウトと印刷と製本頼むよ」。いつもの武田君ひとりに頼むには、彼も現役の仕事人間、分量が多すぎると思ったのだ。しかし、話を聞いた武田君は、「やりますよ」と言ってくれた。確かに、何人かで分担するのは、逆にやりにくい面が出てくる。こちらとしては、ありがたかった。

◆問題は分量だ。当初は30ページぐらいかな、と思っていたのに、どんどん増え、おまけに読ませる内容のものばかりだったので削れず、結果、武田君の仕事がどんどん増えた。最後は三輪さんが昔懐かしい光プリンターに印刷、製本を頼み、ぎりぎりセーフ。武田君、連日連夜、ご苦労様でした。[江本嘉伸]





■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

地平線のタマゴ

12月24日(金曜日) 18:30〜21:00
¥500
 新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

年報『地平線から』を知っていますか? 79年から83年まで毎年刊行し、その後変則的に数年をまとめた3冊を出版。現在は休刊中ですが、この年報こそ、地平線会議創設の核でした。「こだわったのは三点。『同時代』、『当事者の声』、『活字』。皆で、何でも活字にしちゃおうと思った。外に向けて、活字で発信することで、はじめて出来事が『記録』になる。生の声じゃだめなんだ」と言うのは、最初の5冊の編集長を務めた森田靖郎さん。

当時コピーライターだった森田さんは、その後ノンフィクション・ライターの世界へ。中国をフィールドに、主に密航者を追ったルポを発表してきました。今秋「見えない隣人から小説・中国人犯罪〜」を上梓。事実や記録の中から『真実』を抽出する方法として、フィクションに辿り着きます。

「迷路の中に、かすかな明かりを見いだしたところ。年報時代から暖めてきたタマゴをようやく孵化できそうな。できれば既成のジャンルに属さない、新しい方向に育てたいね」と森田さん。

今月は「モリタ流」のお話。クリスマス・イブ特別ライブとして、森田さんのフォルクローレの演奏もあります!


300号の発送請負人 村田忠彦 三輪主彦 江本嘉伸 森井祐介 関根晧博 武田力 落合大祐


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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