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海の彼方に飛び出すには、国力がなければできない。40年前、というと1964年になるが、この年の4月、待望の海外渡航の自由化が実施(このことが15年後の地平線会議の発足の動機のひとつとなる)され、時間とある程度の金があれば、世界に飛び出せるようになった。それだけの外貨保有国となったわけだが、駆け出し記者として前橋支局で働きはじめた私は残念ながらすぐには飛び出せなかった。
●かわりに、国内で異文化とふれる機会があった。東京オリンピックである。「外国語ができる(と思われる)記者」が東京に呼び集められ、入社半年の私にも声がかかった。オリンピックにはヴィーナスが集まる、と信じられていた。水泳や陸上、体操などには各国の鍛え上げた、美しいアスリートたちと出会うのはいいな、とぼんやり考えていたが、受け持たされたのは当時女性の出番はないレスリングだった。ソ連と東欧圏の選手が強くロシア語要員が必要だったのだ。
●早朝から「計量」の現場を取材することから始まった。1グラムでも軽くしたいので、選手たちは体重計に乗る時はおちんちんまるだしの素っ裸になる。中には外をランニングをして無理やり汗をかき体重を落とそうとする選手もおり、計量室はいつもヘビー級からフライ級まで格闘技アスリートたちの汗と強烈な体臭で、むせかえっていた。
●試合が始まると、飛び散る汗がこちらまで飛んでくるのに驚いた。マットは、四六時中誰かがおびただしい汗を拭いていた。テレビに匂いは表現されないから一般にはわからないが、オリンピックって、美しいどころか、なんて汗臭いんだ!、というのが駆け出し記者の実感だった。日本は“アニマル渡辺”ほかの活躍で5つもの金メダルをレスリングで取り、種目として最大の成果をあげたのはよかったが。
●それから40年たった8月14日、アテネ五輪の開会式を見ていて、画像の美しさにあらためて感嘆した。壮大なセレモニーの一部始終、そして選手や観客ひとりひとりの笑顔がなんと鮮明に伝わってくることか。東京の時はモノクロが主流だった。惹きつけられたのは、2人とか4人しか選手のいない国の行進だ。ファッションが断然いいのである。そして、参加した「202の国と地域」の実情を、ほんの少ししか知っていないことを痛感した。地球のあちこちのことを理解するには人生は短すぎる。旅人はもっともっと己の経験を本気で他に語るべきだ。
●多くの人にこの通信が届く8月17日は、地平線会議誕生25周年の日となる。何度も書いてきたことだが、半年の準備期間の後、1979年の8月17日、地平線会議という名が決まり、地平線通信の発行、地平線報告会の毎月開催、探検・冒険年報「地平線から」の制作などの仕事がはじまった(ことし駆け出し記者をやっている後輩の菊地由美子さんは8月15日生まれ、なんと彼女の「生後3日」、地平線会議は誕生したのだ)。
●地平線会議の歴史を伝える「地平線通信復刻版」の制作が丸山純総監督以下、40数人の汗と涙で延々と続いている。刊行が待ち遠しいが、相当分厚いものになりそうだ。一方で11月7日の記念大集会の準備が落合大祐実行委員長を中心に、進んでいる。
●地平線会議がまっすぐ続いてきたひとつの理由は、貧乏のままお金に振り回されないでやってきたからだ、と思う。ただし、発足当初は、活動費を生むために「1万円カンパ」というのをやった。200回記念大集会の時もだ。それは、とてもとても大きな助けとなった。
●地平線報告会300回を迎えたことし、11月7日に向けて、やはり1万円カンパをやらせてもらおうと思う。会場費はじめ何かと経費がかかるので是非是非ご協力を。振込みは以下の2つの方法でお願いします。
◎郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議 (手数料が70円で済みます)
◎みずほ銀行四谷支店 普通口座 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸
●恒例により、カンパされた方々の名を地平線通信に掲載して領収と感謝のしるしとする予定です。では27日、「秘密の宝物とガラクタ自慢報告会」でお会いしましょう![江本嘉伸]
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風間深志 |
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〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方 E-mail : / Fax: 03-3359-7907(江本) |
●白根全さんから…2004.7.18…メキシコ発…5000mのフライ・フィッシング
えもとさま江
◆もしもし、ごきげんよう。大変ご無沙汰しておりまする。日本はなにやらくっそ暑いらしいですなあ。
◆さてさて、日本を極秘出国してからすでに2ヶ月になろうとしております。今回は都内某所より極秘入手した某ブラジル航空乗り放題V万円という、ライフタイム・ワンチャンスの超格安チケットで、南米大陸センチメンタル・ジャーニー?を楽しんでいるところ。某GJやらカーニバル本から解放されて、しみじみひたすらのんびり、といったラテン三昧の日々を過ごしております。
◆なつかしのペルー・アンデス、ビルカノータ山群の霊峰アウサンガテ(6372m)を一周する温泉露天風呂つきの山旅では、氷河湖に棲む幻の1メートルのニジマスを釣りそこね、またまた課題を残してしまいました。さすがにいい歳こいて5000m以上の高所でのフライフィッシングは、けっこうしんどいものがありますね。
◆その後、ブラジル北東部、サン・ルイスという古都のサン・ジョアン祭なる民俗色豊かな祭りに出撃。これまた、カーニバルとは一味もふた味も違った、ブラジル文化の奥深さを体感させてくれる楽しい祭りでした。リオのファベーラ(貧民街)のドンパチをかすめて、現在メキシコにて居候中。これより計20回目となるキューバへと足を伸ばします。革命記念日の7月26日まで1週間ほど、サンティアゴ・デ・クーバのカーニバルが行われます。昨年、一昨年と2年続けてドタキャンだったので、本当にやるのか直前まで不明だったのですが、どうやら今年はやりそうとのこと。半分は里帰り気分もあって、これまた楽しみです。
◆お蔭様で、ラテンアメリカ各地にてカーニバル本はかなり好評で、ブラジルでは翻訳出版のお話も進行中です。8月初旬には一時帰国の予定ですが、浅草のサンバカーニバルはさておき、この際9月初旬のニューヨーク、ブルックリンのカーニバルにも出撃してしまおうかなどとたくらんでいる今日この頃。いまさら更正する気もないし、カーニバル三昧の人生をまっとうすべく、切磋琢磨精進いたしたく存じます。
◆てなわけで、ではまた再見!(ZZZ−全)
●菊地千恵さんから…2004.7.24…カナダの森発…オオカミ犬に恋して‥
◆こんにちは! 地平線のみなさま、日本の夏真っ盛り、いかがお過ごしですか? 私は今、6月から3〜4ヶ月の予定で、カナダ西海岸部を回っています。沿岸部一体に広がるレインフォレストと呼ばれる森を歩いたり、カヤックで海にこぎ出したりと気ままな旅を続けています。
◆なんとも不思議なのですが、カヤックの旅の途中キャンプしたある島で、訳もなくオオカミのイメージが頭にわき上がって仕方のないときがありました。その次の朝のことでした。島に住む森林オオカミがひょっこり浜辺に姿を現したのは。
◆こんなこともあるのだろうか、と思っていた数日後、何かの縁にでも導かれるようにして訪れた小さな先住民の村で、まだ幼い雄のオオカミ犬に出会ったのです。村から離れた森へ向かおうとしていた私のことを心配した犬の飼い主は、そのオオカミ犬ことウルフィーをお供に連れてゆくようにと私に言いました。それから1週間近く、ウルフィーとともに森を歩き、海で泳ぎ、夜は小さなテントで寄り添うように眠って過ごしたその間に、私はすっかり彼に惚れ込んでしまったのです! 恋に落ちた、という表現を使いたいくらいに。結局、その後村に戻った私は、無理を承知で飼い主にお願いをして、ウルフィーを譲り受けることになりました。
◆一人旅のはずが、思わぬところでパートナーに巡り会ってしまったわけです。唯一の欠点と言えば、もうバスには乗れないので交通手段はヒッチハイクしかないこと、ただでさえ重い荷物に加えて、子犬用のドッグフードを大量に背負って歩かねばならないこと、くらいでしょうか。でも、そんなことは彼の笑顔を見れば吹っ飛びます。ですよね? 江本さん(笑)。そんなわけで、これからはオオカミ犬連れで数ヶ月頑張ります! 11月の大報告会で、お会いしたいですね。
●後田聡子さんから…2004.7.24…埼玉発
◆6、7月と続けて地平線でお会いできて嬉しかったです。6月10日から、埼玉県国際交流協会に(期間半年ですが)就職しました。県内の在住外国人で希望してくれた人を、小中学校に連れて行って、自分の国の紹介をしてもらう授業があるのですが、私はその調整役です。
◆外国人スタッフとどういう授業にするか決め、学校の先生とスケジュールを決め、授業当日も世話係のように同行します。スタッフが日本語に詰まったときはヘルプに入るし、ダンスやゲームをするときは、一緒に遊ぶような感じです。ときには、一緒に給食も頂きます。なかなか面白い仕事です。ボランティアみたいな仕事内容でお給料が貰えて幸せです。半年後、どうしようかまた考えなくてはいけませんが、とりあえず落ち着きました。
◆大学を出て、働いて辞めて中南米を回り、働いて辞めて、東アフリカを回り、遠くの国に行きたいという、単純なしかし切なる欲望はとりあえず満たされたのです。大学4年のとき、地平線で河野兵市さんのお話に感銘を受け、第1段階がスタート。物事を1,2年という短期でしか考えず、どうやったら旅立てるか!を中心に据えた生活を過ごしてきましたが、そろそろ、第2段階への準備に入りたくなってきました。実生活と旅を両立したい、というのが次のテーマになりそうです。
●北海道で酪農をやっている教え子の牧場から帰ったばかりの三輪主彦さんから…2004.8.6
◆夏の「押しかけ・みわ塾」は稚内に近い豊富の田中牧場が舞台でした。1971年植村直巳さんは南極大陸横断の距離を実体験するために日本縦断3000kmの旅をしました。それから6年後、植村さんにあこがれた若者が宗谷岬を立ち、62日後に九州南端佐多岬に到着しました。その彼、田中雄次郎くんは、その後出発地にもどって酪農を始めたのです。
◆板橋の植村冒険館では、植村さんを撮り続けた安藤幹久さんのモノクロ写真の展示が行われています。利尻岳を背景にしたサロベツ原野を行く植村さんの写真が印象的です。30数年前の北海道ですが、実は今もほとんど同じ風景なのです。私はここ数年夏のいい季節だけ押し掛けていますが、田中牧場周辺でもつぶれた牛舎が増えています。
◆日本の農政の無策が一番の原因ですが、ここ数年の天候不順も悪影響を与えています。昨年よりは少しはマシな感じですが、それでも寒くて、日があたらないので、牧草が刈れないので困っています。涼しくていいじゃないかといわれそうですが、農業者にとっては夏は夏でなければ困るのです。
◆と言いながらなんの手伝いもせず、忙しい農作業の合間に、みわ塾体力編、沼川まで20キロマラソンをやりました。農作業者は毎日体を使っているので、よけいな体力は残っていない。ヒマな私と単身赴任の大学助教授は、よけいな体力だけ残っている。その通りの結果でした。
◆豊富の彼らの家は、携帯の圏外。NHKテレビもほとんど見えません。電気は来ているのですが、しばしば停電をします。復旧は一番最後で、昨年は忘れられてしまい、搾乳が中断してしまい大変なことになりました。電力会社に連絡したくても携帯がつながらないので、町まで車で行かなければなりません。
◆日本国の繁栄の陰に、こんな繁栄の日の当たらないところがまだ北海道にはたくさんあります。涼しいのは私たちにはうらやましいのですが、せめて本物のお日様が当たってくれることを願っています。しかし自然というのはそう優しくないので、今年も大変そうです。
◆パソコン、テレビ、新聞のない生活に慣れたので、私はしばらくはその生活が続きそうです。なんとかメールチェックぐらいはしますが。…。
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98年8月の報告者、青木(旧姓生田目)明美さんの 長男出産感動レポート |
生田目明美です。6月15日に36時間の大難産で3234グラムの男児を出産して、現在、息子とべったりの蜜月を満喫中です。でもここまでたどり着くのが、生田目らしく一筋縄ではいかないんだなぁ(笑)。
〜妊娠するまで〜
◆「生田目が行く」の生田目が結婚したんだってと、通信に書いて頂いたのは1年半くらい前でしょうか。自分で言うのもなんですが借金に追われ、金は年中不自由だったが、そっちには不自由はなかったので再び結婚したいとはあまり考えていなかった。一度19で嫁いで失敗しているので、まただめだったらとか、他人と暮らせるのかナとか、父の面倒はどうしようとか、二の足を踏む材料は結構あった。適当につまみぐい(笑)をしながら、面白おかしく生きていくのもいいかナなんてね。でも結婚と子供は私の中では別だった。20代前半からずっと「40までには一人ぐらいは子供を産もう」と漠然とだが考えていた(シングルマザー希望ではなかったが、そういう選択肢もあるナとは思っていた)。
◆そして2002年に35で予想外にも再婚の機会に恵まれた。結婚を機にホステスを辞め、派遣添乗員で月の半分以上家を空ける不良新妻をしていた。2001年の暮れあたりから夫と同棲をはじめ、6月に結婚、せみの声を聞くころに、ふと「全く避妊していないのに妊娠しないのはなぜ?添乗に出ていると排卵日にいつも家にいるわけじゃないしナ」と自分に言い訳をしてみたりした。丁度そのころ「卵子も年々老化して受胎能力が衰えるらしい」という話を何かで聞いて、なぜか心が波立つ感じがした。実は私の中に子供を持つということに対するいくつかの思いがあった。純粋に子供がほしいと思う気持ち。夫や両親を喜ばせたいという思い。客観的にはくだらないことではずかしいのだが、異父姉に「子供を産まなきゃ女として一人前じゃない」と言われ、姉は私に金の無心ばかりしてくるくせにそんなやつにそんな事言われたくないという気持ち。舅が結婚の時に「6つ姉さん女房の私のことを、年だと子供も出来ないかもしれないから結婚には反対だ」と言われた事による、長男の嫁の意地(舅には結婚後は誰よりもかわいがってもらっている)。大抵の事は経験してきているが、出産子育てと自分の葬式はやってないから是非やってみたいという好奇心。そんな絡み合う心持ちから「時間が無い!もうすぐ36になっちゃう。病院に行こう。万が一悪いところがあるなら早いとこ直さなきゃ」と思い立ち、友人に広尾の某ブランド産院の医長先生を紹介してもらった。そこは松嶋奈々子等の芸能人御用達のS病院と並んで皇族関係やVIP御用達のすごい病院だった。私が行ったときも、受付のクラークは英語がぺらぺらで、待合室には場所柄か大使館関係者という雰囲気の外人カップルなどが多数いて、金髪のだんながジュテームとささやきながら妊婦の腹をさすったりしていた。日本人の患者も一様にセレブ風で、病院に来る前に美容院に行って来たのかと思うような巻き髪に、カタログから出てきたような全身ブランドのお洋服&お靴でベビーカーもビッカビカの方々ばかりだった(ちょいとそこのコンビニに行くようななりの私はある意味ものすごく場違い。笑)。予約しているにもかかわらず2時間以上待たされた後、見てくれた医長先生は、温厚でお品よくとても丁寧な物腰で診察及び取りあえず必要な検査をしてくれた。後日の検査結果で「問題ないでしょう。結婚して半年も経っていないのに、不妊症を考えるのは時期尚早じゃないかとおもいますよ」とこれまたやさしく言ってくれた。
◆その後も添乗半分、主婦半分の暮らしを続けSARS騒動で仕事が減ってきた12月「やっぱり妊娠しないのはどう考えてもおかしい」と思い「でもあのブランド病院の幸せオーラいっぱいのセレブ達の中に不妊症(思い込んでいる)の不幸な私がいるのはとてもじゃないが居たたまれない」というわけで、勇気を出して不妊専門病院に行ってみた。そこは産婦人科に共通したようなピンクピンクほんわか幸せあったかムードとは無縁のところだった。待合室には「私は子供が出来ないんです」オーラを発した人たちがうつむき加減で、でも絶対作ってやるという気合で多数集い(ほんとに患者が待合室に座りきれなくて、外廊下まであふれかえっている日がよくあった。それだけ不妊に悩む人は多いということ)。知らない人だけど、言葉も交わさないけど、みんな目的は同じなので、同士のような気分になって、少しほっとした。受付の横に何百枚もの赤ちゃんの生写真が張ってあって、「ここにくれば赤ちゃんが授かるんだ」という気にさせられる演出も憎い!
◆診察室に入ると、忙しいせいかやたら早口の先生から検査計画書のようなものを渡されて、専門用語と思しき言葉を当然のように連発され、面食らっていると、「基礎体温表は?」と手を出された。つけてないと言うと、半ばあきれ顔で「受付で買ってかえって毎日つけるように、詳しいことは看護婦に聞いて!」と言われた。今まで、生理不順とは無縁の判で押したような周期だったので、オギノ式でじゅうぶん排卵日はわかるから、体温なんて面倒で測ったことは無かった。きっとここに来る患者さんの多くは、不妊治療についてきちんと勉強して、基礎体温もつけてから来るんだなと、ちょっと反省した。5分で診察は終わった(このあとこの病院とは妊娠して、妊娠継続が確認できる妊娠12週近くまで、約1年お世話になったが、いつもベルトコンベアーのような診察で、検査も含めて10分以上かかることはほとんど無かった。インフォームドコンセントなんてどこの話って感じだった。でも毎回、福沢さんが飛んでいった。健康保険が利かない診療が多いのだ)。このあとは一通りの検査にほぼ毎週通った。そのときの排卵周期によって個人差はあるが大体1ヶ月から2ヶ月で全ての検査結果が出て、その人の治療方針が決まる。私は途中添乗が入ったり、風邪で熱があって、検査が出来なかったりで3ヶ月かかってしまった。基礎体温も、毎日つけるにはつけていたが、添乗で飛行機の中で検温したり、時差で変な時間に計ったりで、グラフはあまりかんばしくなかった(間の悪いことにそのころ立て続けに南米方面のツアーばかりをアサインされていて、地球の裏側なので、時差も大きいし、飛行機は丸1日乗らなければならなかったりした)。こんな状態で妊娠できるわけもなく、テロとSARSで仕事が少ないし、いい機会だから妊娠するために仕事を休もうかなと悩んでしまった。そんな時、大手航空会社系のツアーでそこの専属のお局ツアコンと二人で組んでロンパリローマという王道ツアーにアサインされた。そのお姉さまとは初めての仕事だったけど、お互い既婚ということで、ツアー中にいろいろお話をした。ある時「子供は作らないの?」という話になって、「今、病院通ってるんだけど、なかなかうまくいかなくて…うんぬんくんぬん…」と悩んでる状況を話すと「とっとと辞めて子作りに専念しなさい。ツアコンなんていくつになっても復帰できるじゃない。わかってると思うけど、女性が妊娠できる年齢には限りがあるんだから、後悔の無いようにしなきゃだめでしょ。飛行機なんて乗ってたらいつまでたっても妊娠しないよ。今、何が一番優先か、よく考えてごらん。」と言われハッとした。そのお姉さまは、「専業主婦だったけど、結局お子さんに恵まれずにノイローゼになって、子作り以外にも目を向けたほうがいいといわれて、ツアコンになったのよ。気持ちがわかるからあなたには後悔してほしくないと思ってね」と言ってくれた。
◆それで気持ちは決まった。会社には事情を話して、納得いくまでやってみたいからと言って期限なしの長期休みをもらった。夫はまだ若いせいか、割と楽観的だったが、「もし子供に恵まれなくても、二人で楽しく生きていく人生もありだよ。でも明美が納得できるまでやってみたら」と言ってくれた。もちろん検査も受けてくれた(不妊症と言うと女性ばかりがクローズアップされるけど、男性が原因のことも多いらしい)。そして共働き出来ないということは横浜駅近の賃貸マンションの家賃は払えなくるので、夫の会社の社宅(三浦海岸)に引っ越した。夫も姑も東京生まれの東京育ちの私が三浦なんて田舎に住めるのかと心配した。でも三浦は海のすぐそばで、緑も多く、子育てにはもってこいの環境だった。36年間都会で足を踏ん張って生きてきた私の心身を開放するにもとてもいいところだった。これならいけるかも…心の中でつぶやいた。生活が子作りモードへと変化していった。
◆一通りの検査が終わり、私の方は異常なしだった。夫の方は「少し精子の奇形率が高いのと運動率が悪いけど、これはその時の体調やストレスなんかで、ずいぶん違うから心配しないで、しばらくタイミング療法をやりましょう。」と言われた。
◆そしてこの「タイミング」というのが、結構へこむ。基礎体温で、排卵日が近くなると、エコーで卵子の成熟度を診てもらい、卵子の大きさで排卵日を医師が判断し「今日(翌日や2日後の時もある)関係を持って下さい。」と指示されるのだ(カンケーって…笑)。それにしても医師にとはいえ、他人に夫婦生活の予定を組まれるというのは、はっきり言って苦痛だった。夫のことは好きだし、夫とのSEXには何も問題は無い。でも他人の号令のもとに「さあ!やるぞ!」というのは情けなかった。夫はなるべく義務的なSEXにならないようにムード作りに努め、思いやりのある態度で接してくれた。でも私は毎月、他のどんな日より一番大事なこの日のSEXに一番気が進まなかった。そしてその「狙い撃ちSEX」の後、1日おきに3回排卵誘発剤の注射を打ちに通院する。この通院の帰り道、私はいつも種牡馬のような気分になり、こんなことして意味があるの?報われるの?と涙がこぼれた。そして受精しなければ、またいつものように生理が来る。こんなことが毎月繰り返されるのだ。「基礎体温表とにらめっこして、高温期がつづいて、夫婦で、今月は出来たかも?とわくわくしていると、生理が来て落胆する。」というのが続いた。私は自分で勝手にどんどん追い詰められて、出口の見えないトンネルに迷い込んでいた。夫は毎月のぬか喜びと私のイライラに付き合うのが疲れたのか「少し休んでみるか、病院替えてみれば?」と言い出した。私は心の中で「休む?20代の若い子じゃないんだから、休んでるひまなんて無い!病院替えたらまた一から検査し直し、また福沢さんが飛んでいくじゃないか。このまま半年(6回)はタイミングをやるんだ!それでだめなら、次のステップに行くか、転院しよう!」ともう一度ふんどしを締めなおした(笑)。
◆不妊治療を10年以上やっている人も世の中にはたくさんいる。もちろん夫婦のどちらかもしくは両方に問題がある場合もあるが、どちらにもこれといって原因らしきものが無いのに子供が出来ないというケースも多い。みんな最初は「タイミング療法」をしばらくやる。そのあと「人工受精(精子を採取して子宮に入れて受精させる)」→「体外受精(精子と卵子を採取してあわせたものを子宮に戻す)」→「顕微受精(専門技師が採取した卵子と精子を顕微鏡で見ながら受精させた卵を子宮に戻す)」というようなステップをふむ。人工授精までは「保険診療外だと、お金がかかるなあ。さようなら福沢さん!」と思う程度の金額だけれど、体外受精や顕微受精になると、ボーナスつぎ込んだりしなければ普通の人には無理な金額になっていく。「タイミング」のように毎月の排卵日に行うなんてことはとても無理だ。お金が続かなくてあきらめるカップルも多いと聞く。私はあきらめたくなかった。医者からはまだ次のステップへという話はないし、どのステップで妊娠するのか、しないのかなんてわからなかったけど、頭の中では年齢的リミットと年収を加味して、何回ぐらい、体外受精や顕微受精に挑戦できるかなと、そろばんをはじいていた。一方で、「医療という名のお金で子供を買おうとしているんじゃないか、自然の摂理に逆らっているのではないか、神の領域に踏み込んでいるのではないか」という考えにいつもさいなまれ戦っていた。
◆そして2003年9月、高温期が続いていた。市販の妊娠検査薬を家のトイレでやってみた。陽性!病院での尿検査で妊娠反応が出た。医師からはまだ確定じゃないと言われる。2週間後のエコー検査で、私の子宮の中に小さな小さな袋が写っていた。医師が「おめでとう!」と言ってくれた。「やった!やったよぉ」正直、泣けた。
〜妊娠中〜
◆このまま幸せな妊婦生活を送りましたとさ。めでたしめでたしとはいかないところが、生田目なのだ。不正出血が止まらない。医師からは「安静にして、せっかく妊娠したのだから大事にして」と言われた。三浦に引っ越して添乗員は辞めていたが、近所の不動産会社で事務員をしていた。どんなに大切にしてもある確率で「天国に召される赤ちゃんがいる」という自然の摂理を知っていたので、布団にへばりついているのは辞めようと思った。この子に力があれば、必ず私のおなかにしがみついていてくれるに違いないと信じて仕事を続けた。普通に暮らそうと努めた。11月末にやっと医師から「卒業だよ。紹介状を書こう。」(この不妊治療専門病院では分娩できないのだ)。と言ってもらえた。卒業だぁ!!
◆もう4ヶ月に入るところだった。さあ、こんなにがんばったんだから出産はフランス料理が出てくるようなきれーな病院でお姫様のように産むぞと思っていた。でも家の近くの有名個人病院はみんないっぱいだった。半年以上も先のベッドの予約が取れないというのだ。日本は少子化じゃないの?あせった!もしかしたら病院決まらずに自宅出産かも?わーん怖いよう。
◆いろいろと病院を調べている間に、お金をかけることが安産への道ではないんだということを学んだ。自分自身の意識、病院の方針や出産方法によって、「いいお産」が出来るかどうかが分かれると知った。そしてぐうぜん横須賀市立うわまち病院と出会った。ここは市立病院なのに助産師外来があったり、フリースタイル出産を取り入れていたり(分娩台の上ではなく、畳の上で夫や親や上の子供など、妊婦の希望する人とともに出産できる)、母子同室、産後すぐの完全母乳育児など、お産婆さんのいる助産院のような手厚いケアを受けながら、私のような高齢出産のハイリスク妊婦でも総合病院なので安心という、至れり尽せりの病院だった。
◆やっと病院が見つかったけど、あいかわらず不正出血は続いていた。2004年1月2日初めての胎動を感じた。「ぐるぐるぐる」腸が動くような変な感じがした。「赤ちゃんが動いてる!ちゃんとがんばって生きていてくれてる!」喜んだのもつかの間、5ヶ月の検診で、子宮頚ガンに移行する可能性のある細胞が見つかった。「とりあえずこのまま様子を見ましょう」と言われる。妊娠継続できるのか。この子に会えるのか。不安ばかり積もっていく。「心配する方がよくないから、今はくよくよ考えずに行きましょう。」「最近はいろいろできるから、向井亜紀さんみたいなケースもあることだし」と慰めにもならないようナことを言われるが、この子を信じていくしかないと、自分に言い聞かせる。
◆6ヶ月検診でりっぱなオチンチンがエコーに写り、男の子とわかる。夫が胎児名として「ちんちん」と名付ける(単純)。そして6ヶ月の終わりに切迫早産の大出血で緊急入院。落ち込んでいる私に、夫は「ちんちんは強い子だから明美のおなかに来てくれたんだから大丈夫」と言ってくれた。8ヶ月に逆子判明、逆子体操がいけなかったのかまた出血で11日間入院。入院中にちんちんが自分で逆子から元に戻ってくれた。9ヶ月で前置胎盤で帝王切開と言われ、これもまたちんちんが頭で胎盤を押し上げてくれて、自然分娩できることになった。妊娠悪阻と中毒症以外はフルコースで体験し、ずっとトラブルつづきだったが、そのたびにちんちんに助けられ、ちんちんはすくすくと順調に育っていた。それだけが救いだった。
◆後期に入ってから毎日、安産のために夫と夜の三浦海岸を散歩していた。夫婦でいろいろな話をしたり、ちんちんに話しかけたりして結構楽しかった。臨月に入った満月の夜も散歩しながらお月様に向かって、おなかをさすりながら「はやくでてこい」と呪文を唱えて見たが、まだまだちんちんは静かだった。
〜出産〜
◆6月13日の夜、また出血した。予定日2日前だがおしるし出血とはあきらかに違う。妊娠してからしょっちゅう出血しているが、切迫早産で2回入院したときも、なんかいつもと様子が違うと感じて病院に行くと入院だった。今回も陣痛は来ていないし出産とは違う感じで、病院行くべきだと思った。夜中、カレンダーが14日に変わってすぐ、やっぱり入院と言われた。妊娠して3回目の入院だった。「やれやれ…今回は産むまで入院かナ?いつになったら陣痛来るのかナ?初産は遅れるっていうしナ。」なんて思っていたら早朝4時から15分おきの陣痛が始まり、6時には10分おきになっていた。
◆夜中の入院の時ついてきてくれた夫も家に帰っていたので、「今日の夕方か夜には生まれるかも知れないから、会社から早めに病院に来てね」とメールしていた。夫は出産に立ち会うことになっていた。このころはまだ、病院の朝ご飯も余裕で食べられた。夫が心配して、出勤前に病院に寄ってくれた。結局会社を休んでもらうことにした。姑も仕事を早退して、昼前には来てくれた。昼食を食べ、さすがに夕食のころには、立ったり座ったり、陣痛を逃しながら、合間にご飯を食べていた。なんとか食べなきゃと無理やり食べていた。まだ10分おきで、子宮口は3センチと言われた。15日(予定日)になった夜中の12時(陣痛が始まってから20時間)で5センチと言われて、ものすごくがっかりした。「えっ?まだ5センチかい!」
◆「あとどのくらいかかるんだろう…もうやだ、もうやだよう。」夫もさすがにつかれたのか、居眠りを始めた。私も寝たい!でも7分から10分おきに陣痛が来るからほとんど眠れない(でもその10分の間に眠れたりするからすごいなと思った)。あまりの苦しさに、おなか切って!とか麻酔打って!とか騒いで助産師さんを困らせた。夫が謝っていた(笑)。そして陣痛開始後27時間目の朝食はもう食べる元気はなかった。陣痛促進剤を使うことになった。そして昼の12時(陣痛開始後32時間)やっと子宮口10センチ全開大になった。もうどうにでもしてというかんじ、「いきんでいいよ」と言われたが、疲れきってしまって、よく覚えていない。言われたとおりにうまくいきめない。それまでは畳の上でがんばっていたが、ちんちんが降りてこないので、分娩台のある分娩室に移ることになった。
◆午後3時には口も利けなくなっていた。「羊水がにごっているから、赤ちゃんが苦しくて中でうんちしちゃったみたい。吸引分娩にしようか?」と言われる。夫が「お願いします。」と言った。私はもう意識朦朧というかんじだった。ばたばたと先生が来て吸引の準備が始まった。吸引カップを入れるために会陰を切る音がサクッサクッと聞こえた。不思議とその時は痛くなかった。大きな掃除機のような音が分娩室に響いた。下半身で石炭採掘現場のようなとんでもないことが起こっていた。でもなすがままだった。ただ陣痛にあわせて、私がいきんで、先生が吸引カップを持ってちんちんを引っ張り、ひとりの助産師さんが私のおなかを思いっきり押して、もう一人の助産師さんがちんちんを取り上げるって感じで、息を合わせての共同作業だった。次の瞬間(午後4時4分、陣痛開始後36時間)助産師さんが「下を見て!下を!赤ちゃんよ!赤ちゃんよ!」と言ってくれた。私の後ろにいた夫はその時、涙がどっと出たそうだ。私は力が抜けた。やっと生まれて、ほっとして、やっぱり口が利けなかった。
◆ちんちんはすぐさま、飲み込んでいた便を吸い出され、かけつけた小児科の先生が診て「はーい大丈夫ですよ。」と言ってくれた。いつのまにか姑が入ってきてくれて、私をねぎらい、夫と共にちんちんを見て泣いていた。私は予定外に切ってしまった会陰を、先生が縫うところで、「麻酔してくださいね!」と先生に注文つけていたそうだ。後になって夫に指摘されて笑われた。縫い終わったところで、寝たままでちんちんをだっこして、初乳をあげた。カンガルーケアというやつだ。そのときには舅や義妹も来ていて、舅は生まれたてのちんちんがおっぱいを吸っているのを見て、ものすごく感動したそうだ。私もすごくうれしかった
◆こうして私の36時間の出産は無事終わった。おかげでものすごーい大痔主になってしまい、しばらくドーナツ座布団と仲良しさんだった(笑)。
◆いろいろあったけど、「もし子供に恵まれなくても二人で楽しくやっていこう」と言ってくれた夫。こんなぽんこつ母さんの所に来てくれた息子。今は二人の男に囲まれて幸せに暮らしています。はてさて、いつまでつづくことやら…また何かあったら報告します!!
地平線大秘宝物語り!! 「さあさあ寄ってらしゃい見てらっしゃい! 取り出しましたる×××。一見ただの×××だが、損所そこらの×××とは、ちょっと違う。チベット高原の奥深く、人跡もまれな青い湖。これぞかの●●●の源流だ! その流れからそっと汲んだ神秘の×××がこの×××。はいはい、押さないで、おさないで!」と名調子を披露するのは、地平線会議代表世話人の江本嘉伸さん。
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先月号の発送請負人 三輪主彦 村田忠彦 江本嘉伸 森井祐介 藤原和枝 西牟田靖 野地耕治
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
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