2004年2月の地平線通信



■2月の地平線通信・291号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙年の暮れ、11月の地平線報告会に登場してもらった“Air Photographer”の多胡光純君と電話で話したとき、「地平線の人たちはみんな年齢不詳で、見当もつきません」と言われた。たしかに、関○吉晴さんや長○亮○介君の若々しい顔を見ていれば、地平線会議のなかに世の中とは別のウラシマ時間が流れているような気がしてくるのも無理はない。みんなバ○モノだよな、というような話をひとしきりしたあと、「丸山さんこそ何歳なんですか?」と尋ねられて「何歳に見える?」と聞き返すと、「うーん、まだ40にはなっていませんよね……」と慎重な答えが返ってきて、思わず吹き出してしまった。「おいおい、地平線会議が創設された79年に、俺はまだ学生で24歳。それが、来年はいよいよ25周年なんだぜ」と告げると、29歳の多胡君は絶句する。

●その自分の言葉で、はっと気づいた。俺の人生、地平線会議と出会ってからのほうが長くなっちゃったんだと。一瞬、電話口の多胡君がはるか遠くなって、さまざまな思いが渦巻いた。

●昨年の6月ごろから、江本御大のなかで、「地平線通信&地平線報告会300回記念+地平線会議発足25周年」の構想が大きくなってきたようだ。そして、2004年秋に迎える記念イベントに合わせて、あの『地平線データブック・DAS(だす)』の続編を作らないかという話が持ち込まれた。『DAS』の刊行からもう7年半が経ち、そろそろなにかまとめたいという気持ちもないわけではない。しかし、これだけインターネットや新聞社のデータベースなどが普及した時代に、情報やデータを主体に編纂した本を作ることに、どんな意味があるのだろう。

●さらに、『DAS』の制作中に痛切に感じていた「ものたりなさ」が頭に浮かんだ。『DAS』では情報ソースを明らかにして読者が原典に当たれるように配慮したために、どうしてもマスメディアなどで発表・報道された情報が中心になってしまった。おかげで、メディアには載らないような、つまり肝心の地平線会議のメンバーたちの活動が、『DAS』のなかではうまくフォローできなかったのだ。

●そこで、ふと思いついたのが、「地平線大年表」の制作である。まず、縦軸を年ごとに区切る。横軸にはとりあえず宮本御大からずらり年齢順に並んでもらい、両軸のぶつかるところに、その年、その時期の状況や行動を書き込む。世界のどこで、何をしていたかだけではなく、国内での活動や著書の刊行なども加えていく。そうすると、各個人の半生が縦軸で追跡できるのはもちろん、横軸をたどると、そうか、俺が高校3年のとき、惠谷治さんはちょうど青ナイルの源頭を突き止めようと一人で歩いていたんだ、などということが一目瞭然になるわけだ。

●そして、きたるべき秋の記念大集会に、この年表を大きなプリントにして会場の一角に敷き詰めてみたい。文字のサイズにもよるが、縦は3メートルぐらいに収まるだろうか。横軸はいくらでも足していけるが、まずは地平線の創設メンバーや地平線報告会の報告者を優先して、データの収集をしていこう。1人あたりの幅が10センチとすると、50人分で5メートル。100人分(はちょっと無理かな)なら10メートル。その上をみんなで歩き回って、地平線の前史と全史をこの足で踏みしめられたら、おもしろい。この大年表をよく見ておけば、多胡君ももう、地平線の人たちの実年齢を知って驚くこともなくなるぞ。

●というわけで、先月呼びかけた「地平線通信全号復刻プロジェクト」と同様、全国のみなさんにお手伝いをお願いしたいと思う。手でしこしこやっていては訂正や追加ができないので、岡山の北川文夫さんを中心としたチームでデータベースを用意していただき、インターネットを使って情報交換ができるようにしたいと考えている。すでに発表されている資料をもとに骨格ができたら、あとは直接取材をして補足したり、ご本人自身に空白部分を埋めていただくケースも出てくるはずだ。まだまだ構想段階なので、具体的な内容や進め方は次号の地平線通信でお伝えしたい。ともかく、ご協力、よろしくお願いします。[丸山純]



先月の報告会から(報告会レポート・293)
海抜八千米の水づくり
村口徳行
2004.1.30(金) 新宿榎町地域センター

元旦の朝、日経新聞に大きく掲載された写真に目を奪われた。カラフルな羽毛服に身を包んだ登山者たちの背後に、世界第4位の高峰・ローツェの鋭利な稜線が撮影者の目線より下にある。その奥には、ひときわ美しいマカルーのシルエット。撮影者の名はないが、日本でこんな写真が撮れるのは村口徳行さんしかいない。「デス・ゾーン」と呼ばれる超高所で先回りをして、すばらしい構図で仲間たちの姿をとらえている。

◆私たちが目にするヒマラヤ山中の映像のほとんどが、村口さんの手によるものである。ドキュメンタリーだから当然主人公は別にいるのだが、私は“あの場所”で重い機材を抱えて主役を輝かせる存在が気になって仕方がなかった。

◆はたして、実際の村口さんはとても誠実で、奥ゆかしい方だった。報告前にご挨拶したところ、「一生懸命話させてもらいます」と丁寧におっしゃったのが印象的だ。

◆台上には、昨年プロスキーヤーの三浦雄一郎さんと一緒にアタックした時の装備が並べられている。なんといっても目を引くのは、三脚付きのデジタルハイビジョンカメラと3種類のスチールカメラ。防寒のためか、ところどころに銀マットが貼られている。これらを常にザックの中に入れて持ち歩き、撮影の度に取り出すというのだ。夜には機能低下を防ぐために、カメラやバッテリーを自分の身体に仕込んで寝る。また壁には、びっしりと書き込まれた登高表や荷揚げ表が何枚も張られていた。

◆報告会は、前半が三浦隊のVTRとスライドを交えて、高所とはどんなところか、どうやったら70歳でエベレストを登ることができるのかというお話が中心となり、後半は87年にチョモランマの6600m付近で発見されたユキヒョウと、89年のマナスル上空を越えるアネハヅルの映像が披露された(これは声を上げてしまうほどの極上品)。そこで、終始冷静な語り口調の村口さんの声にちょっぴり熱がこもった部分について、私なりの順位をつけてご紹介したい。

◆【第5位 村口さんのクライミング哲学】「次の次の次を考えて行動するのが僕のスタイル。さらに、判断を間違えた時にどう修正できるかまで考えておく」「中高年には中高年に、若者には若者にふさわしい登り方がある。若い人に70歳と同じ登り方はしてほしくない」

◆【第4位 エベレスト挑戦の資格】三浦さんは5年かけて地道なトレーニングを積み、エベレストは5000m、6000m、7000mと段階を経たうえでの挑戦であった。村口さんはこのような人が登る資格のある人間だと考えている。ちなみに、三浦隊は8000mで2泊、8400mで2泊という、高所を知るものなら誰もがぶっ飛ぶようなことをやってのけた。意欲の低下も高山病の一種であるにもかかわらずだ。「三浦さんが少しでも弱気な面を見せたら降りようと考えていたが、それは微塵も感じられなかった」

◆【第3位 登山家を山に駆り立てるもの】は?というなかなか答えにくい質問に、山登りは自分の能力を確かめる行為であり、自分と向き合えるところが大きな魅力の一つと即答。「誰でも、自分にどれだけのことができるんだろう?という内面に対する興味を持っているのではないか」

◆【第2位 タクティクスの重要性】村口さんは、半年前に三浦さんの性格から歩き方までよーく観察して、休養と酸素の有効利用に重点をおいたタクティクスを組んだ。7300mまで無酸素で馴化し、4000mで4〜5日ゆっくりした後、7日かけて登頂する作戦に出たが、天候が安定せず、登頂まで12日間という前代未聞の記録を作ることに。「人の可能性は限りない。最後は、“ここに登りたい”という本人の意志がなによりも重要」

◆【第1位 豪太さんのギャグ】最終キャンプでは、村口さんも葛藤を抱えていた。なによりもまず、生存を優先させなければならない。次に考えるのが登頂することであり、撮影はどうしてもその次になってしまう。食糧も尽きた。そんな時に助けられたのが、三浦さんの息子さんである豪太さんのバカバカしいギャグだった。そのうえ、鍋はひっくり返すは、酸素ボンベのレギュレーターは壊すは。村口さんにとってはそれがいい刺激になり、気持ちに余裕が生まれたというが、鍋をひっくり返されてリラックスする村口さんもかなりの大物である。

【おまけ】報告会の最後に長女の恵美里さん、長男の雄大(ゆうた)さん、次男の豪太さんの三浦ファミリーが登場。期待に違わず、豪太さんは一発ギャグをかましてくれたが、村口さんが頂上から「原田知世のファンクラブに入りたい!」と叫んだ事を暴露するのも忘れなかった。(大久保由美子)



地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。Fax、E-mailでも受け付けています。
地平線ポスト宛先
〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方
E-mail :
Fax: 03-3359-7907(江本)

●安東浩正さんから…2004.2.5…知床ウトロ発…厳冬の知床自転車旅行中に植村直己冒険賞の報せが!!《郵便書簡》

◆サイクリストの安東です。うれしいニュースがありまして、日本の最果ての知床からのお便りです。日本にもまだ本当の秘境がありましたよ!知床にカムイワッカ湯の滝ってのがありまして、夏場は観光客だらけで秘湯のイメージがなくなってしまうのですが、冬は林道も閉鎖されて雪に埋もれ訪れる者もない、にちがいない、と思い、スノーシューを履いて行って来ました。

◆ウトロの町の人も冬はお湯は出ない、と言ってましたが2日間ラッセルの末にたどり着くと、もうもうと湯けむりをあげながら熱湯がふきだしてました。滝つぼにたまった湯をひとりじめでした。温泉大魔王の賀曽利さんでも厳冬知床の秘湯にはビックリでしょう。

◆これからは温泉も登山のバリエーションの考え方をもってして、より難しいルートできびしい時期を選んでアタックすると日本もまだまだ秘境でいっぱいです。カムイワッカから5日ぶりに人里におりてくると、海岸ぞいは流氷でうめつくされていました。

◆家に電話すると植村直己賞授賞の連絡が入っていました。ありがたいかぎりです。これも地平線の皆さんの応援あってだと思います。これから日本最寒の地陸別町のシバレフェスティバルでの人間耐寒テストに参加したり、シベリアの講演をしたりしながら12日に植村賞の記者会見らしいので、予定を繰り上げて早めに帰ります。(正式発表は12日)


●写真家の松本榮一さんから…2004.2.5…千葉県市川市発《FAX》

◆昨年は結核という病気で7ヶ月も入院してしまいました。みなさんにご心配をかけましたが、ようやく調子も出て来ました。これからのことはまだ決まっていませんが、今までとは違ったインドとの取り組みをしていきたいと思っています。死をテーマにずっと撮ってきた私は、病気のおかげで、とても得難い体験をすることができたからです。

◆地平線会議は若者の集団として、老いと病に無関係で来ましたが、これからはめそうもいかなくなるでしょう。


●藤原和枝さんから…2004.2.6…インド・チャンナイ発…青春真っ只中インド放浪中《E-mail》

◆今、チャンナイにいます。デリーから始まって印度を時計反対周りに最南端カニャクマリまで下り、そこから今度は東側と中央部をジグザグに上がって来ています。

今日で丁度一ヶ月、20ヶ所訪れました。勝手も飲み込めて、今では初めての街に夜着いても、便利、安い(300円位)きれい(日本の基準ではありません)なホテルを探し当てています。日本の寒さはまったくイメージできない暑さです。加えて、蚊、乞食、リクシャから逃げるついついの早足が汗かきっぱなしにしています。

ここでは普通、日本では異常の街中裸足体験。なんでもやるべしでやった所、砂埃まぁまぁ。小砂利は痛くて痛くて。そこで石の上。これがあちくてあちくて。っと、よく見ると象の皮膚の様になってるインド人とは年期の入れ様が違うので無理と判明。敢え無くリタイヤーしました。

インドの女性の大半が乳飲み子を抱えていて、可愛いと思う反面人口爆発を愁いてしまいます。その赤ちゃん達にはおしめがないんですよ。赤ちゃんは定期的に用をさせられ…それがわずか2、3ヶ月としか見えない赤ちゃんでも促されるとできる。後はタオルがあれば良し、無ければサリーでちょちょいと。恐るべしサリー万能。

街から街への移動では遅れが少ないバスを利用しています。デコボコ道の街を出、順調に走りはじめると眠気が。ところが、車掌がビデオのスイッチを。これが、耳が壊れる大音響、夜行でも??。どんなに頑張っても、寝られるもんじゃーありません。加えて、停車の度に乗り込んでくる物売り、乞食はご丁寧にも寝ている人をとんとん叩いて起こして”マニ、マニ”と言うのです。そのエネルギー、もっと建設的な事にいかせ!! インド人。帰国は3月9日です。


●鰐渕渉さんから…2004.2.16…北海道・赤平市発《ケータイmail》コース最北端到達!

◆江本さん、おはようございます。今、赤平市街の手前。今回の旅での最北地点に到達しました。天気もよく、空気がキリリとしまって、とても気持ちがいいです。今回の旅は最西端から最東端に向かう旅で(注・8月13日、本土最西端の長崎県神崎鼻を出発2月下旬か3月上旬、最東端の北海道納砂布岬到達を目指している)今日のこの地点が今までの一番北の地点となり、これ以降はゴールまで、南下と東進だけのルートとなります。でも寒冷地はまだまだ厳しい場所が、いくつも待ち構えていますが…。



通信費振込みのお願い

地平線通信は、皆さんの通信費で支えられています(NHK風!)。1年2000円です。きちんと継続して振り込んでくださる方もいますが、うっかり忘れたまま2、3年を過ごしてしまう方もいるようです。どうか、つましい地平線財政の負担を軽くするため継続してお支払いくださるようお願いします。万一、不要の方は一言お知らせください。振込みは、下記の郵便振替口座でよろしく。
〈郵便振替・口座番号:00100-5-115188 加入者名:地平線会議〉



地獄の9時間――石川直樹帰国報告
〜熱気球着水の顛末〜

2月6日にロサンゼルスから帰国した。ご存知の方も多いと思うが、神田道夫さんとぼくは熱気球による太平洋横断を試み、1月27日早朝に栃木を離陸したものの、日本から1600km離れた太平洋の海面に着水し、今回の遠征を成功させることはできなかった。海に着水後、近くを通りかかったアメリカ行きの貨物船に拾われて、一週間かけてロサンゼルスへ向かい、すぐに飛行機で帰国の途について今にいたっている。

◆今回の遠征の失敗理由について、報道では“バーナーの不調”という説明がなされていたが、それは数ある小さな理由のうちの一つに過ぎない。もっとも大きな理由は、ジェット気流がある8000〜9000mの巡航高度に達するまでの間に、想像以上にぶ厚い雪雲にぶつかって、それを突破するためにたくさんの燃料を消費してしまったからだった。雪雲は2000〜3000mで切れるものが多いのだが、今回出会った雲は6000mあたりまで続いていた。ぼくたちが乗っている熱気球が8000mまで達し、ジェット気流に乗って時速200km以上のスピードを記録したときには、すでに相当量の燃料を消費しており、そのまま飛び続けても、よくて太平洋の3分の2、或いは半分くらいまでしか行くことができず、燃料切れで海に落ちることになる。船も少ないそのような海域に着水するとまず命は助からないので、早めに降りることを決意したのだった。

◆気球の風船部分にあたる球皮はテントなどにつかわれるポリエステルフィルムとアルミの二重構造になっているのだが、内側のアルミの部分がはがれてくるというアクシデントもあった。落ちてきたアルミがバーナーの炎によって燃え、その燃えカスで神田さんは右目の横を焼けどし、ゴンドラの床もほんの少し焦げた。アルミがはがれたことで、ますます燃料効率が悪くなり、さらに高所による酸素不足のためにバーナーの炎が垂直に伸びなくなって、多少四方に広がるようになった。一瞬広がった真っ赤な炎によって、球皮の一番下部のところが燃えて穴があき、燃料効率は前にもまして悪くなっていったのだ。

◆ガスはなくなるばかりで、時間だけがどんどん過ぎていく。せっかく8000mまで上がって、完璧なコースで北米へ向かうジェット気流に乗ることはできたのに、時すでに遅し。残りのガスは、ぼくたちを北米へたどり着かせるために十分な量ではなかった。離陸してから13時間後の午後6時過ぎ、神田さんが無念の表情を浮かべながら、降りようと考えている旨をこちらに伝え、ぼくはそれを了承した。酸素ボンベからでてくる酸素の流量は十分なはずなのに、なんだか息苦しかった。飛び続ければもっと危ない状態へ自分たちを追い詰めることになるし、今、海へ向かうこともまたリスクが少なくない。何より、夢を自分たちの手で絶つことが、残念で仕方なかった。

◆最初は、高度を下げて海面から500mくらいのところで燃料がなくなるまで漂いながら、朝を待つ予定だった。しかし、高度を下げていくうちに横殴りの雪が降ってきて、球皮がみるみるうちに重くなり、高度を保つのが難しくなってきた。バーナーを無理に焚き続け、球皮をこれ以上傷めるのは良くないという判断から、夜の海へ降りることを決めた。18時半ごろのことだった。

◆ブレーキをかけながら着水したので、ゴンドラが真っ黒な水面に触れたときにも衝撃はほとんどなかった。ぼくたちは上部のハッチを閉め、ゴンドラを密閉し、漂流に備えた。備えたといっても、海は時化ていたので、多くのことをする余裕もなく、すぐに波にもて遊ばれることになる。中途半端にしぼんだ球皮は横になって海上に倒れ、そこに風を受けてヨットのような状態になり、ゴンドラを横にして引きずり始めた。

◆ここから地獄の9時間がはじまる。球皮に引きずられながら真横に傾いたゴンドラは、まるでジェットスキーのようにものすごい勢いで海面を走りはじめ、天井部分の閉めたはずのハッチ(蓋)から海水がざぶざぶと入ってきた。このゴンドラは気密式ではないし、ハッチにパッキンはしてあるものの、波をかぶると隙間から浸水してくるのだ。ゴンドラの床に接着してあった手作りのテーブルはみしみしと音を立ててはがれ、ゴンドラ内は大地震が襲ったようにめちゃくちゃになった。ハッチの隙間に毛布をあてながら、それを足で押さえ、一方後ろ側ではバッテリーなどの重い荷物が落ちてくるのを背中でおさえつつ、身体中でふんばっていた。

◆浸水した水がちゃぷちゃぷと音をたてはじめたのを聞きながら、船酔いで半目をあけて天を仰ぎ、(こうやって人は死んでいくんだろうな)と思った。上半身を起こそうとすると、すぐに激しく気持ち悪くなり、そうでなくともすでにぼくたちはゲロまみれになっていた。

◆どのくらい時間が経ったかもわからない。横倒しになったゴンドラが突然もとの位置に戻った。どうやらものすごい勢いで引きずられたおかげで、球皮とゴンドラをつないでいたカラビナが割れたらしい。それだけ激しい力で引きずられていたのだ。切り離されてゴンドラが元の位置に戻ってからも、ぼくたちは小山のような波のうねりの合間で、海の上を木の葉のように漂い続けた。

◆紙面に限りがあるので詳細は省くことにするが、それから数時間後、とにかくぼくたちは近くを通りかかった日本郵船の貨物船に救助された。日本郵船の船とはいえ、パナマ船籍のコンテナ船で、クルーはインド人とフィリピン人だけだった。ぼくたちは本当に着の身着のままで拾われたので、現金・財布・パスポート・カード類・PC・カメラ3台・フィルム数十本・衛星電話2台などすべてゴンドラ内に置いてきて、それらは回収されることはなかった。ゴンドラは海の藻屑となり、今ごろ、アリューシャン列島あたりの海岸に打ち上げられて、地元民が目を丸くしているかもしれない。

◆仲良くなったフィリピン人のクルーにサンダルとTシャツを恵んでもらい、インド人からは歯ブラシをもらった。8日間かけて彼らの恩を受けながら海を旅し、パスポートなど身分を証明する一切のものを持たずに、アメリカの港に到着した。入国できずに追い返されるのではと心配したが、ロサンゼルス領事館の人が迎えにきてくれて、なんとか入国。アメリカのコーストガードも入国審査官も気のいい人ばかりで、一緒に記念写真におさまったりしながら、無事に陸にあがることができた。

◆今回、海に着水後、海上保安庁と海上自衛隊ほか、さまざまな人に助けられて無事に日本に帰ってくることができた。この場を借りて、深く感謝の意を表したい。ありがとうございました。いやはや、いろいろお騒がせしてしまったが、また新しい遠征に向けて、考えていることは山ほどある。出発前、早稲田の中華料理屋でM輪さんやS根さんらに不吉なことをたくさん言われ、本当にそうなってしまって悔しいので、ぜひともいつか成功させたいと思ってはいるが、今は大声では言わないことにしよう。とにかく、皆様ご心配をおかけしてごめんなさい。ではまたいつか!(気球遠征のさらに詳しい顛末は来月号の雑誌「群像」(講談社)や「山と渓谷」などにきちんと書く予定です)。(2月13日付けメール、石川直樹)



地平線ポスト・続き

●斎藤豊さんから…2004.2.14…テキサス州オースティン発「2月の報告会、悔しい!」《E-mail》

◆就職してもうすぐ丸9年。まっとうな社会人のように見えるかもしれませんが、2002年には会社を1ヶ月休んでエベレスト・ノースコルまで登ってみたり、昨年の夏からは留学することになり、ハワイで過酷なプログラムをこなし、現在はその一つとして、テキサス州オースティンでインターンシップをしています。人生の中で、これほど勉強をした時期はないと言えるほど、勉強しています(ま、それだけしてなかった訳ですが)

◆こうして一定期間、非日常に身を置いていると、いわゆる日本社会の歪みもまざまざと見ることができると同時に、エベレストで日々悩んだ『自分が本当にしたいことは何か?』という答えも、少しずつ見えてきています。それらは、ホームページ上で、1日も欠かさず書きつづっていますので、関心のある方はどうぞ。また、メールマガジンも2月下旬から始める予定です。

◆3月には日本に帰りますが、その後は『夢をかたちに』(まるで某社のキャッチフレーズみたいですが)しようと思っています。今回、2月の報告がハワイと言うことで『江本さん、ハワイで僕んちにあれだけ逗留していた(注:ホノルルマラソン時)のに、帰国を待ってくれないとはひどい…』と思い、急ぎ投稿させて頂きました。
(↓斉藤さんのホームページは下記)
http://homepage2.nifty.com/northcol/


●大西夏奈子さんから…2004.2.6…東京都江戸川区発…村口報告に刺激されてアネハヅルうんちく《E-mail》

(村口さんの報告で、映し出されたヒマラヤを越えてわたって行くアネハヅルの映像に感動した、との声をあちこちから頂いた。そのひとつです)

◆こんにちは。アネハヅル速報です。しかしアネハヅルは、ロマンです! 先日の村口さんの映像、心だけでなく身体もふるえる思いがしましたが、実際偉大なストーリーを秘めているようですよ。私はすっかりアネハヅルのとりこになってしまいました。「姉羽鶴」と書くそうですが、それも美しい。では、現時点でわかったことを。

◆[1]鳥類の祖先は恐竜であるという説が有力で、恐竜のなかには「渡り」をしていたものもあったというから、ツルの「渡り」歴が古いことは予測できる。ツルに古来よりシベリアからインドへ渡る習慣があったならば、ヒマラヤは後付でできあがったもの。少しずつ隆起したヒマラヤを越えていくうちに、8000mにまでなった。

◆[2]高いところで「渡り」をする鳥の心臓は、ドキドキの回数を減らすことができる仕組みになっており、結果的に酸素があまり必要でなくなる。

◆[3]一部の鳥には上昇気流にのるための特別な飛び方があり、エネルギーを節約できる。

◆[4]鳥は、気嚢(のう)という肺につながる袋をもち、一度吸った空気を長い時間体のなかにとどまらせて、より多くの酸素を得る働きをすることにより効率よく呼吸をしている。

◆[5]アネハヅルの(体長90cmほど)小さな体のどこにパワーの秘密があるのか? その答えはアネハヅルが夏の間食料としていたモンゴル産のイナゴだった、との研究成果がある。

◆個人的には[1]と[5]が好きです。ところで地平線通信の村口さんの似顔絵、そっくりですね。


●風間深志さん無事帰国●

◆パリダカールラリーに22年ぶりに出場、不運な交通事故に遭遇し重傷を負った冒険ライダー、風間深志さんが2月1日無事帰国した。元日スタートのパリダカでバイク部門に出走した風間さんはジブラルタル海峡を越えてモロッコ入り、アフリカ初日の1月4日午前8時55分、スタート後わずか1.2kmの国道を疾走中、突然前方にムリな追い越しをかけてきた大型トラックが飛び出し、必死でハンドルを切ったが跳ね飛ばされた。そのまま右手の道路標識に激突、左足全体をしたたかにめちゃめちゃにやられた。「気が付いたら左足が標識にからみつくようになっていた。標識に串刺しになった、とその時は思った」と振り返る。

◆ひどい事故だった。すぐさまラバトの陸軍病院に運ばれた時は、左足切断か、と伝えられたほどだ。そこで2日間様子を診た後、6日にはパリへ移送され、以後25日間日本に帰り治療を受けられる状態になるまでその病院で手当てを受けた。幸い左足以外はほぼ無傷のようだが、治療はすべてこれから、だ。

◆恵美子夫人が11日になってパリに来てくれたのが、何としても嬉しかった、と言う。夫人のいつもの沈着は、冒険ライダーの拠りどころのようだった。

◆22年前、賀曽利隆と風間深志は揃って第4回「パリダカ」に出、この時は賀曽利がサハラ砂漠を抜けるあたりで立ち木に激突、やはり九死に一生を得たかたちでパリの病院に運ばれた。17位で完走を果たした風間は、パリに戻るなり、病院に駆けつけた。

◆その時、傷だらけの賀曽利が言ったのは「早くバイクに乗りたい」だった。今度は東京女子医大病院の一室で風間が、賀曽利に向かって「無性にバイクに乗りたいんだ」と話していた。飛行機の座席9人分を確保しての帰国。当分は病室暮らしが続くだろうが、生きて帰れて、ほんとうによかった。生きていればなんとでもなる。病院を出てラーメン屋に入り、賀曽利とささやかに乾杯した。(EMO)




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

アロハの引力

2月27日(金曜日) 18:30〜21:00
 \500
 新宿区榎町地域センター(03-3202-8585)

「ハワイはね、貧乏旅行者でもお手上げにならない、世にもマレなリゾート地なのよー」というのは、年金生活風来坊の金井シゲさん。昨年12月、120ヶ国目の訪問地となったジャマイカからハワイへ。シゲさんの目に映ったのは、予想以上に開放的で心親しめる人と風土でした。

リゾートにありがちな、バックパッカーへの冷遇も感じないし、治安も良い。そんな土地柄に、地元民だけでなく、旅行者も皆おおらかにさせる「場のエネルギー」を感じました。そんなハワイに癒しを求めて来る50代の女性に多く巡り会ったのも印象的。シゲさんが50代で旅を始めた当時、同年代の女性にはほとんど会わなかった。「今の働く女達は疲れているみたいね」とシゲさん。

今月はいつものシゲ節で、「実は奥深く、多様なハワイ」の魅力をたっぷり話して頂きます。


先月号の発送請負人:三輪主彦,江本嘉伸,村田忠彦,大久保由美子,大西夏奈子,菊地由美子,関根晧博,白根全,坪井伸吾,武田力,藤原和枝

通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section