地平線会議300か月フォーラム |
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新宿区牛込箪笥区民ホール 参加費:1000円 (前文) イントロダクション 寄せ太鼓 part.1 オープニング 寸劇もどき・地平線ミラクルマジックショー part.2 その先の旅人たち1 熱気球太平洋漂流記 石川直樹 part.3 その先の旅人たち2 マッケンジー河漕飛行 多胡光純 part.4 アンデスの風をあなたに フォルクローレコンサート 長岡竜介 part.5 その先の旅人たち3 ぼくらはなぜ旅をするのか 安東浩正 part.6 その先の旅人たち4 意識の旅へ−−カナダ極北の原野で探し求めた途(みち) 田中勝之・菊地千恵・ラフカイ・ウルフィー part.7 前代未聞大リレー・トーク 「地平線の群像」 |
●いよいよ、記念フォーラム当日。スタッフは午前9時、会場に集結、慌しく、短いリハーサル、音響、照明チェックなどに追われた。入場料を払っての参加者258人。夜に至るまでほとんど途中退出者がいなかったことが、この日のフォーラムの盛り上がりを象徴していた。
●前夜祭ではじめて披露された『地平線大雲海』が、この日ついに会場受付けに積み上げられた。1152ページ、重さ1.1キロのこの「地平線通信300号集大成」は、発行部数わずか330部という貴重本。予約注文分と当日の好調な売れ行きで、あっという間に「残部僅少!」に。それにしても、1979年8月17日の地平線会議誕生以来の歴史がつめこまれた、すごい本だ。長野亮之介画伯のイラストがすべて収録されているだけでも、たいそう価値がある。
●第180回地平線報告会「ウルトラの父、アメリカを走る」の報告者、ウルトラ・ランナーの海宝道義さんから、「大集会参加者の皆さんに」と寄贈されたTシャツも、会場で希望者に配られた。これは、04年7月に北海道で行われた100kmウルトラ遠足のために作られたもので、乾きやすい材質が使われており、ランニングに限らずアウトドア全般に向く、と大変好評だった。海宝さんは、94、95年と2年連続して北米大陸横断レース4700kmを横断したランナーとして知られ、各地でユニークな「ウルトラ遠足(とおあし)」を企画している。今回の11月7日当日も、ハワイ・モロカイ島で100km大会を主催しており、記念フォーラムには参加されなかった。記して感謝します。
●以下、5人の書き手に、当日の模様を報告してもらった。
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地平線ミラクルマジックショー |
◆300回記念のスペシャル版とあって、午前11時から午後7時半まで続く長丁場のフォーラムとなった。前日から泊りがけで参加した私は、その会場の準備から手伝うことができた。きびきびと準備が進行していく様子を見られたことも、今回の大きな収穫だった。受付準備が一段落したあたりで、外は東京の人たちが受け持ち、遠方から駆けつけた人たちは、主に会場内を任された。フォーラムがよく見られるように、との配慮だろうか。
◆会場内は会場内で、あわただしく準備が進められていた。ふと、三輪さんがど派手な蝶ネクタイをしているのが目に入った。にこにこ嬉しそうだ。次に目が合ったときは、赤いスパンコールの上下に身を包み、さらにさらに嬉しそうだった。ステージ上では、他にも怪しい衣装に身を包んだ面々が、いろいろ最終確認の最中か?? むむ、三輪さん、さらに付け耳までくっつけて、誰かに酷似していると思ったら、あ、怪物くんだ。
◆あっという間に開場の時刻となり、お客さんの入りを気にしてきょろきょろしていると、もう開幕の時間。予定より10分くらい遅れて、大西夏奈子団長率いる品行方正楽団による寄せ太鼓の演奏と共に、幕が開く。長岡竜介さんがいろいろな笛で美しい音色を奏で、長野画伯の力強い太鼓がずんずんと肺に響く。そして一点を見つめ、一心に太鼓を叩く大西団長、可憐です。彼女のおかげで「品行方正楽団」という感じがします。ほんの1時間前に初めて担当楽器を手にした、という白根全さんのカネも見事に調和。カーニバルで培ったリズム感はさすがです。
◆演奏が一段落。楽団メンバーの紹介があり、どきどきわくわく感も高まったところで、代表世話人・江本さんの声が流れる。
◆「皆さん、こんにちは。『その先の地平線地平線会議300ヵ月記念フォーラム』によくいらっしゃいました。1970年8月17日に誕生した地平線会議。毎月ユニークな報告会を開いてきました。きょうは、その300ヵ月のお祭りです」
◆一瞬の沈黙に続いて、地平線ミラクルマジックショーの始まり、始まり。上手から、黒マントの江本さんがマンボのリズムに乗って登場。ステップを踏みながら、何もはいっていないはずのシルクハットから、自慢気に赤や黄の紙の花を出してみせる。その後ろから飛び出した元気な黒子の若者3人、鈴木博子、松尾直樹、藤岡啓さんが、大袈裟に驚いてみせる。得意げな奇術師。
◆そこに、下手から真っ赤なスパンコール姿の三輪さんが現れ、超ロングのシルクハットの中から、江本さんを上回る数の花を矢つぎばやに取り出しては舞台の上に撒いてみせる。満場の拍手。お株を奪われ憤然とした江本奇術師、黒子3人に合図を送り、アヤシげな黄色い箱を引きずってこさせる。そして中に手を突っ込むと、何やら小さな石を取り出した。黒子がさっと広げた紙には、「エベレスト山頂の石」「本物」と、達筆の墨書文字。おおーっ!と歓声があがる。次はビンのようなものを出して見せびらかし、飲む仕草。なんと、「黄河源流の水」だと! さらにさらにずるずると取り出したのは、木の棒にくくりつけられた7メートルもあろうか、という皮紐。「犬ぞりの鞭」と、きびきびした動作で黒子。地平線らしい宝物の連続攻撃だ。
◆得意満面の江本奇術師に対抗して、三輪手品師はひとり大きな箱を背負って再登場。中からなにやら重そうな大きな骨を取り出す。黒子たちが広げた紙には、「恐竜の大腿骨」「30トン」「2億年」の大きな文字が躍る。「うぉー」と、場内も調子を合わせて盛り上げる。
◆またまた口惜しげな江本奇術師、黒子に指図して、舞台背後の横断幕を片付けさせる。そこに現れたのは、長いテーブルに乗せられた横長の大きな箱。そして、鈴木博子黒子に命じて黒い袋を持って来させ、中から大きな西洋ノコギリを引っ張りだした。なんとなんと、「人体切断」という大ワザを披露しようというのだ。生贄は、山岳耐久レースで大活躍の健脚娘でもある、黒子の博子さん本人。哀れ台の上の箱に押し込まれ、江本奇術師と黒子が2人がかりで、ギーコギーコと大ノコで切断にかかる。あれ、どうしたことか、なかなか切れてはくれないぞ。黒子の持つノコギリの柄がぽろりもげてしまう一幕もあって客席をハラハラさせた挙句、それでも何とか箱は真っ二つになった。ぐったりする鈴木嬢、得意顔の江本奇術師。そこへ、箱の切り口をチェックしていた三輪手品師が、「タイヘンだ」という仕草で寄ってきた。なんと、箱の切断面には、ご丁寧にも人体の断面図が‥。
◆しまった、本当に切っちゃった。江本奇術師、松尾黒子に救急箱を運ばせ、中から大きなバンソーコー(白いガムテープ)を取り出し、大慌てで二つの箱を元通りにくっつける。博子さんの様子はいかにと見守るうちに、彼女が目を開いて復活。無事、箱から救出される。そして、セットの仕掛けを怪しんだ三輪手品師によって見つけ出された「足役」の尾崎理子さんも箱から出てきて、黒子役ともども客席に向かって挨拶。盛大な拍手を受けながら、舞台を引き上げて行く。
◆と、ステージ片隅の黄色い箱がガタガタ動き出した。あれっ?「江本さーん、江本さーん」と呼ぶ声がするぞ?[網谷由美子 山形]
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◆舞台にひとつ残された黄色のマジックボックスから、「おーい」と、あの、ちょっと弦楽器を思わせる声が聞こえてくる。中から出てきたのは、極地仕様のツナギ服を着込んだ石川直樹さん。云うまでもなく、今年の冬、神田道夫さんと組んで熱気球による太平洋横断に挑戦し、洋上に着水。奇跡の生還を果たした青年だ。
◆石川さんの紹介を兼ね、まだ熱演さめやらぬと云った風情の江本さんが、マント姿のまま語り始めた。「この打ち上げを私も見送りに行きましたが、どうも、『もしかすると戻って来れないんじゃないか?』という予感がして心配でした。まだ暗い冬の朝、舞い上がり、クラゲの発光のような光を灯しながら徐々に点になってゆく気球が、儚くて不安でした」一方の石川さんは、と云えば、計器のチェックに忙しく、離陸にも気付かなかったそうだ。ふと外を見ると、人々が豆粒のようになっていたという。
◆江本さんの『予感』が、当たらずも遠からずだったことは、ビデオと話が進むにつれ、やろうとしていることの困難さと共に、わかってくる。一気に上昇するため、高度順応の暇はなく、酸素マスクを付ける。最初は医療用のものを付けていたが、息苦しく、山岳用のものに替えた。それでも、遠近感のない青の世界に浮かびながら恍惚状態に陥り、高山病の症状の中、二人で励ましあって睡魔と戦う。
◆陸から海の上に出ると、恐怖感が襲ってきた。「上を見ても下を見ても青空」な空間は、夜の訪れと共に、唐突に漆黒の闇の世界に変わる。気温は急激に下がり、完全防寒の足先に痛みが生じた。黒い空には、三日月が浮かんでいた。
◆普通サイズの8倍大のオバケ気球・天の川2号。壊れてしまった温度計。ゴンドラの外で、極寒の大気に身を晒して行うボンベ交換。いつも開いている無線。温度を逃がさないため気球内部に張られたアルミ箔ははがれ、雪雲通過で予想以上に燃料も消費してしまった。ジェット気流に乗ったところで、もはや北米大陸に辿り着くのは不可能だ。ならば、少しでも日本列島に近いうちに着水しよう。1600km、13時間のフライトの末の、自分たちの夢を自分たちの手で断つ悲しみを伴った決断だった。
◆もう少し気球が大きければ、アルミ箔がはがれなければ、バーナーが不調でなければ、そして、雪雲があれほど大きくなければ…。重なり合ったさまざまな不運が、ようやく乗れたジェット気流(高度8000m!)からの撤退を余儀なくさせたのだった。それは、綿密な準備と慎重な行動の上に、さらに天が微笑んで初めて、達成できる夢なのかも知れない。
◆上昇中のゴンドラ内の様子をはじめ今回の挑戦の光景が、装備のほとんど全てをゴンドラと共に失ってしまった中で、唯一ダウンスーツに忍ばせていて難を逃れたビデオカメラ60分テープの映像も交えて、紹介された。着水後も危機的状態は続いた。球体がしぼみきらず、風をはらみ、ゴンドラは海上を疾走しはじめたのだ。ゴンドラ内に溜まる海水(よくビデオにおさめたものだ)、船酔い、自衛隊航空機のライト、救助の貨物船、インド人の船長。着の身着のままで拾われたお二方は、船員たちに迎えられ、8日間かけてアメリカに到着。再び陸地を踏んだ。
◆冒頭で江本さんは、こんなコメントもしている。「こうやってひょうひょうとしているので想像しにくいかもしれないが、海上自衛隊の方々はじめ、いろんな人が本気で動いてくれて、助かった。本人もぎりぎりまで追いつめられたはず」
◆その言葉通り、さりげない石川さんの語り口調からは、彼がかいぐぐってきた現場の壮絶さはなかなか想像がつかない。が、それでも、すんでところで助かった。やはり運が良かった、結局は天が微笑んでくれた。そう思わずにはいられなかった。
◆石川さんの報告では、ビデオ映像に重ねて、ところどころで、先に『群像』に書かれた文章が本人によって朗読された。映像と流麗な文章が合わさることで、また別の、新たな作品が生まれる気がする。もっと聞いていたいと思った。時間的な制約と、石川さんのはにかみもあってか(それもまた味なのだが)、やや急ぎ足の朗読であったにもかかわらず、臨場感を覚える、静かな凄みが伝わってきた。ビデオにしろ写真にしろ、そのように文章と組み合わされることや、それを肉声で伝えられることに、ある種の可能性を感じさせられた。
◆将来的には宇宙へ行き、そこで山に登りたいと考えている石川さん。熱気球の旅は、今後の旅へのステップとして、あるいはこれからの旅の道しるべとしても、大切な経験となったのだろう。それは、このような言葉からもうかがえる。「世界と自分の関係がズレ始める」「新しい世界、新しい旅へ向かう」
◆登山では得られない、真下をも見ることができる視点を体験した今、そこから今後の写真表現の可能性を探っていきたいという。
◆4年前の、P2P(「Pole to Pole 2000」)という北極から南極への旅で、同行する旅仲間が彼に贈ったという言葉が、ふと頭をかすめた。「あなたの情熱が、まだ誰も知らない高みに、あなたを導いてくれますように…」[中島菊代 大阪]
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◆空という視点からの表現…。そんな方向性を語った石川さんの後を受け持ったのは、まさに今、それに取り組んでいる人だった。
◆繰り広げられる話や映像に会場中が惹きつけられたのは、その独自性もさることながら、私たちが一番聴きたかった、「自分の声に耳を澄まし、すくい取り、実現に至らしめる」プロセスについて語ってくれたこともあると思う。今回は、そのあたりに焦点を当てて、レポートさせていただくことにする。
◆聞き手は、江本さんから交代した丸山純さん。マイクを握ると、「実はまだ着いていないんです。今、この建物の屋上をモーターパラグライダーで目指しています」と切り出した。一瞬、「えっ、本当?」という空気が会場に流れる。その後、携帯電話を介して多胡さんと数度のやり取りがあり、「今無事着地しました」の報告で、聴衆の間からパラパラと拍手が起きた。ほどなく、大きな機材をしょった多胡さんが舞台袖から笑顔で登場。ここで「今のは冗談でして‥」と、丸山さんからタネ明かしがあり、客席が少しどよめいた。
◆絶妙の演出、そして見慣れぬ奇妙な装備類。巨大な木製プロペラ、エンジン、燃料、カメラ、ライフジャケット、GPS、パラグライダー、ヘルメット…。総重量約40kgの装備にまずは圧倒され、観客の目は釘付けになる。それらを下ろし、多胡さんの話が始まった。
◆荒野に憧れて旅をするうちにマッケンジー河に出会い、カヌーで川を下る旅へと形を変えてゆく。やがて流域で暮らすデネ族と交流が始まり、「心がゴニャゴニャゴニャと動いてきて」、そこで暮らす人々の息吹を内包した大地のストーリーを、写真や文章で表したいと思うようになる。
◆多胡さんの話し言葉には、独特なものがある。「感性」という言葉も随所で使われ、自分の感覚を生かすことをとても大切にしている印象を受ける。
◆撮影を続けるうち、「目線が低い」もどかしさを感じるようになる。どこまでも平らに続く原野では、イメージに見合う表現ができない。だがある日、標高450mほどの岩山に登り、そこから眺めた広がりや奥行きに、「これは好きかな」と思う。それからは、旅を続けながら、「ヨイショヨイショ」と藪こぎをし、丘を見つければ、上って撮影するようになった。
◆半年アルバイト、半年旅のサイクルを続ける中で、エンジンつきのハングライダーがあると知る。アルバイトの夜勤明け、高速バスで習得に通った。だが、ハングライダーは、カヌーに乗せられない。離陸のための助走距離も必要だ。そしてついに、モーターパラグライダーと出会う。
◆空飛びを表現手段として使いたい多胡さんは、「マッケンジー河で飛ぶことが出来ますか?」と、後に師匠となる人に単刀直入に尋ねた。彼から河の情報を詳しく訊き出して分析した師匠は、「出来る」と答えた。2002年8月に弟子入り。翌年5月の旅に向け、アルバイトのあとに講習に駆けつけての猛特訓が始まった。エンジンとパラグライダーも買った。
◆地面から短い助走で飛び立てるモーターパラグライダーに出会い、「あー、やるしかないだろう!」と思った多胡さんだったが、高度2000mから座布団1枚ほどのポイントに着地するような飛行技術を会得するのは、容易ではなかった。師匠に「俺の腕がダメならOKを出さないでくれ」と頼み、カメラを持つのは出発の1ヶ月前と決めて、それまではひたすら練習一筋に打ち込む。「カメラを両手で握ったのでは、100回に1回は恐いことになる」予感があり、片手カメラ、片手操縦を自分のスタイルとした。
◆着陸後、土地の人々と画像を共有できるという理由で選んだ1100万画素のデジタル一眼レフカメラは、大判カメラに比べれば軽いかもしれないが、素人考えでも、空中から片手で撮るには、やはりかなりの鍛錬が必要となっただろう。
◆そして画面は、2003年5月、現地到着の写真。カヌーの前に装備がずらりと並んでいる。「自分の思いを形にしたら、こうなっちゃいました」とコメント。全ての荷物をカヌーに詰めこんで(この作業だけでも、想像するとくらくらする)、「おっしゃ、やったるでー!」と出発するも、初フライトに飛び立つまで、4日もかかった。風も天候も良かったが、心が固まらなかったのだ。日本で練習していたフィールドとは、川幅も距離も、何もかもスケールが違いすぎた。それもあって、風が読めない。「ここでやらなかったら」という思いと、「川向こうから戻れなくなったら、アクシデントが起きたら、自分はどうなるのか」という不安との板挟み。
◆だが、その日はやってきた。「エンジンだけでも回してみるか」と軽い気持ちで動かしてみると、振動や煙の匂いが体の記憶を呼び覚ました。そして、日本で練習していたときの思いが甦ってきて、飛べた。
◆欲しかった景色を目の当たりにした喜び。高度300mから、世界を自由に見ることができる翼を手に入れたという実感。高所がないマッケンジー河界隈では、地表からだと決して目にできない景色が、眼前に広がった。川幅4〜5kmもある河が蛇行している。それは、天の高みから多胡さんが紡ぐ、大地の物語の始まりでもあった。聴いている私たちもジーンとなるくだりであった。(後に振り返ると、過去のフライトの中でも、このときの離陸ポイントは、最も条件が悪かったらしい。)
◆モーターパラグライダーで飛ぶ時は、必ず吹流しを立てて風を読む。それをエマージェンシーのサインと勘違いして駆けつけたデネ族の人々との間に、やりとりが生まれる。獲物の場所を伝え、土地の情報を得る。落ちたら死んでしまう、と飛行を危惧するデネの人。だが、森で暮らす彼もまた、死に近いところに在ると感じた多胡さんは、逆にそのことを問う。返答は「Believe myself」だったという。
◆命を守るために、もちろん準備は怠らない。パラグライダーが何かの事故で潰れてしまったときのために、パラシュートも装備している。他にサバイバルキットとして、ナイフ(水面に不時着してラインが絡んで溺れる可能性がある)、ノコギリ・カラビナ・ロープ(木にぶら下がったときの脱出用)、蚊よけ、ガム(気持ちを集中させる)が備えられている。
◆最後に、当日まで寝ずに準備をしたという、プロモーションビデオが流された。「いつか見てのお楽しみ」ということで、ここでは内容には触れないけれど、いろいろな意味で、見る者を「いざなう」ものであったように思う。上映直後、拍手が起こった。もう一度、見てみたい。
◆多胡さんの話の終了後、ロビーに装備類が移され、彼を囲む人の輪は昼休みいっぱい途切れることはなかった。会場入り口付近には、空からの写真が並べられ、通り行く人に語りかけていた。
◆終盤、笑顔で話した次の言葉が印象的だった。「カヌーを漕ぎ、テントを張る。飛べない日にはパンを作って焼く。森に入ってベリーを取る。離陸場所を見つけ、人と出会って、旅をする」
◆表現したいと思ってから、「何かがちがう」とささやく自分の内なる声に耳を傾け、形にしていった多胡さんは、今「心が満たされている。この世界を詰めていきたい」と語る。彼にしか表せない世界が、拓かれようとしている。[中島菊代]
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◆地平線会議の記念集会には必ず出演してくれる長岡さん。今回は新婚2年になる夫人、ピアニストの溝口典子さんのキーボードとの競演で、300回フォーラムを大いに盛り上げてくれた。
◆ステージ上のケースには、御馴染みのケーナ、サンポーニャほかさまざまな管楽器が並べられ、その瞬間、ホールは長岡ワールドに。アルゼンチンの「ワイニョT」から始まり、「コンドルは飛んでゆく」(ペルー)「インカの賢者」(ペルー)「光あふれて」(オリジナル曲)「ネグリータ」(ボリビア)と、長岡さんらしい多彩な祭りの曲が続き、最後の「花まつり」(アルゼンチン)には、品行方正楽団の大西、長野、白根、それにミラクル・マジックショーの江本、三輪も飛び入り参加、それぞれ鳴り物を手に奮闘、ついにはアンコールの「上を向いて歩こう」もこなす達者ぶりだった。[E]
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◆とつぜん中国・雲南に出かけてしまった安東さんが帰国したのは報告会の前々日。自転車による真冬のシベリア横断を本にまとめるために自主的にカンヅメになりに行った、とのことだが、ほんとに帰ってくるのだろうかと集会スタッフをずいぶんやきもきさせたようだ。安東さんといえば真冬のチベットやシベリアを自転車で駆ける冒険者。雲南とはイメージがつながらないが、 実は10年前、安東さんは雲南に留学していたのだ。雲南といえば多数の山岳少数民族が住む地。ここでの人との出会いがチベットに目を向けさせ、自転車による冒険につながってゆく。
◆巡礼者すらいない真冬の聖山カイラスを一周したチベット高原横断6,500kmのあとは、さらに手ごわそうなシベリア横断15,000km。それも冬だ。冬のシベリアなんて聞いただけでもこごえそうではないか。ヨーロッパから東に向かったのだが、「ヨーロッパは、いい道がいっぱいあるし、どうってことはない」。どうってことないって、そおかあ。私と妻は20年ほど前、ドイツで買った中古車で寝泊りしながら真冬のデンマークを走ったことがある。でかいバンなので車の中にテントを張り、羽毛服を着込み、羽毛シュラフにもぐりこんだのに、それでも寒さで寝られず、朝までふるえていた。まあ私のような軟弱者の体験と比較してもしかたがないが、ヨーロッパの冬は厳しいぞ。さすがにウラル山脈を東へ越えたあたりから、すれ違う車もどんどん減り、寒さもさらに厳しくなる。走るのは道路だけではない。凍りついた川や湖の上も行く。「行けるかどうかわからないくらいじゃないと、走る気にならない」熱い気持ちが、ダイレクトに会場の人々に伝わってくる。
◆安東さんは、この12月から来年の6月くらいまでの予定で、一段と過酷な極東シベリアに挑む。「道なんかないけど、冬にはトラック道ができるらしい、という噂がある」可能性が低いからこそ一段と気持ちを掻き立てられる。
◆いったいどこまで突き進むのか。とはいえ、安東さんには、自分の世界を「自転車による冒険」などと限定した視野の狭さはない。航空自衛隊の入隊試験を受けたり、ロサンゼルスでモーターグライダーを習ったこともある。飛行家になりたかったのだ。雲南留学中には八卦掌も学んだ。格闘家にもなりたかったのだ。いや、今だってなりたいのだ。
◆重量をぎりぎりまで切り詰めなくてはならなかったシベリア行の荷物には、ハモニカを放り込んだ。命をつなぐだけの食事に耐える一方、各地で出会う料理に尽きぬ興味を示す。「トイレの話なら二時間くらいは楽にできますよ」「人が少ないほど出会いが深くなる。シベリアでは村ぐるみで歓迎してもらったこともあります」可能性への挑戦とともに、人間に対する興味が行動の原動力になっている。
◆発想も柔軟である。「未踏峰や未踏査の地域がどんどん消えてゆき、挑戦しがいのある所がほとんどない現在、どうやってモチベーションを維持していくのか」という司会の落合さんの質問に、「いやあ、未踏峰なんていくらでもありますよ。こないだ行ったバフィン島なんて(安東さんはシベリアのあと、カナダ北極圏のバフィン島をスキーで単独無補給踏破している)そこらじゅう未踏峰だらけ。いや、世界には未踏峰のほうが圧倒的に多いでしょう。地元の人は、用もないのにわざわざ山なんか登らないもん。有名なところはないけど、マスコミ受けや記録狙いでなけりゃ、未踏峰や未踏査の場所なんていっぱいありますよ」
◆安東さんの行動は、地平線通信に断続的に載る記事の拾い読みでしか知らなかった。じつは、私はこの人の行動にある危うさを感じていた。どこまでも先鋭的で、求心的で、このままゆくと旅と心中すらしかねないのではないか、と。でも、この集会で初めて本人を見、話を聞き、ああ、この人なら大丈夫だ、想像以上にずっとでかい視野で地球と取り組んでいる、と感じた。やはりライブの場は大切だ。
◆初めてナマの本人を見た印象は、「孤高の挑戦者」というより、つぎは何をやらかしてみようかとたくらんでいる、「下町のイタズラ小僧」であった。[渡辺久樹]
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田中勝之・菊地千恵・ラフカイ・ウルフィー |
◆石川・多胡・安東の3氏に続いて登場したのが、多胡の先輩&同輩だった田中勝之・菊地千恵夫妻。同時に姿を現したのが、二人のパートナーであるオオカミ犬のラフカイ(♀)とウルフィー(♂)だった。進行役の丸山さんから“介助犬”と紹介された二匹は、大勢の観客や照明にひるむことなく、注目を集めていた。報告が始まると、ラフカイは机の下に寝転び、ウルフィーはその横で客席を見つめていた。僕はその様子を眺めながら、彼らとの不思議なつながりに思いをはせていた。
◆2003年1月、僕の元に千恵さんから1通のメールが届いた。ホームページの「空き家探見記」を読んだ感想のほか、これから東京近郊で空き家探しするという内容だった。ほんの少しアドバイスをしたあと、僕は日本縦断の旅に出発。旅の途中で連絡してみると、春から高尾の山奥で暮らしていると返事があった。山梨に入ってから8月の地平線報告会に合わせて東京を目指していた僕は、まだ見ぬ“メル友”の新居に押しかけることにする。
◆パートナーの田中さんとラフカイを交えて、ひとしきり田舎暮らしの話題で盛り上がったあと、彼らがカナダの先住民の土地に通っていることを知る。田中さんは1991年にマッケンジー川を下ってから10年以上も旅を続けていた。一方の千恵さんも、94年に初めて訪れたあと、デネ族のフィッシュキャンプで1年間暮らしを供にしたという。
◆田中家(ラフカイ小屋と呼ばれている)に泊まった翌々日、坪井伸吾さんの地平線報告会に二人を誘ってみた。田中さんは獨協大学探検部のころに一度だけ参加したことがあると言っていたが、カナダから帰国して以来、ひさしぶりに旅人たちの空気に触れたことを喜んでくれた。もちろん、オオカミ犬・ラフカイの話で江本さんが大喜びしたことは言うまでもない。そのせいもあって(?)、翌月に報告者として地平線デビューを果たし、今夏のカナダの旅から帰国直後の大集会への登場だったのだ。
◆大学時代にシベリア鉄道で旅をした田中さんは、しだいに「北の大地への憧れ」を抱くようになる。「ひとりでできなくても、大勢なら違うことができるのでは?」と思い、探検部を創設(同探検部は、消滅したり復活したりを繰り返していた)。そして野田知佑さんの『北極海へ』を読んだのをきっかけに、カナダのマッケンジー川へ向かう。ところが、手作りのイカダは10kmも進まずに沈没。
◆その3年後、今度は後輩3人を引き連れて再挑戦。カヌーを2艇並べ、その間にベニヤ板を渡したもので無寄港に挑むが、途中で食料が尽き、白夜の季節が過ぎたこともあり、しかたなく上陸する。「土地にあるものと接触し、地べたに上がって暮らしてみたら、極北の地がぐっと近くなったんです」
◆このときの旅には、千恵さん(当時19歳)も参加していた。好奇心から出かけたものの、自然に圧倒されて、最後はホームシックになったそうだ。ところが帰国してみると、「カナダに戻りたい」「原野のなかで暮らしてみたい」という気持ちがわき上がる。卒業後は3年間アルバイトをしていたが、その思いが抑えきれず、2000年から1年間、ひとりでカナダに旅立った。
◆夏から秋にかけての数か月間は、先住民のフィッシュキャンプに参加。森の中にテントを張り、川で魚を釣って薫製にするほか、ビーバー・クマ・ヘラジカ・カナダガンなどを捕って暮らした。「自分の手で殺したウサギの味は、それまで食べたどれよりおいしかった」
◆ある日、罠の見回りにひとりで出たら、生きたままのウサギが掛かっていた。千恵さんは、体調を崩している老人にスープを作るために、静かな森のなかでウサギの命と向かい合った。
◆なかでも衝撃的なのは、ロープを輪にした小さな罠でクマを捕ったときのこと。仕掛けた罠が消えていたので周囲を捜し回ったところ、2週間後に異臭を放って死んでいるクマの姿を見つける。同行した先住民は、クマの体をバラバラにして、千恵さんに森のあちこちに置いてくるように命じた。片腕をあっちへ運び、頭を抱きかかえてこっちに移動。クマの血にまみれながらも、その意味がわからなかった。あとで尋ねると、「いろんな場所に分けて置くことで、多くの動物たちがシェアできる」と教えられた。生きているものを食べるという意味、そして命と食とのつながりを、千恵さんはこのときに理解したのだろう。
◆同じ年に、田中さんはラフカイといっしょにマッケンジー川を下っていた。97年の旅でラフカイを譲り受けてから、初めてのラフカイの里帰りだった。日本でのんびり暮らしていたラフカイも、カナダの原野に入ったとたんに野性の血がよみがえる。「ラフカイといっしょにキャンプしていると、僕が見えない気配を教えてくれるんです。そういう意味ですごく安心できました」
◆田中さんは、ラフカイは野生動物と人間の仲介役だと説明する。ラフカイとの旅を通じて、動物の生命力や人間の無力さ、自然と人間のつながりを実感できたようだ。そして、そこで暮らす先住民の精神世界にもひかれていく。
◆例えば、薬草を採取するときに、彼らは植物に話しかけるそうだ。ある人の病気を治したいので、あなた(薬草)の命をいただきますと感謝するのである。薬草の成分だけではだめで、心が重なったときに病気が治ると信じられている。「精神世界と聞くと宗教のように思われるけど、単純なんです。あらゆるものに感謝することなんですよね」
◆今年の夏、千恵さんはひとりでカナダに向かった。田中さんとラフカイに見送られる、初めての旅だった。それまで通っていた内陸部を離れ、西海岸のレインフォレストと呼ばれる森に入る。トレイルを歩き終えたあと、今度はシーカヤックで海に出た。森を眺めていると、オオカミの記憶が次々によみがえってくる。そしてツアー最終日、森からオオカミが姿を見せた。
◆そして、仲間から「いい森があるよ」と教えられ、ある島の先住民の村に向かうことになる。それが、オオカミ犬・ウルフィーとの出会いだった。女ひとりでトレイルに入ることを心配したのか、おばあさんは「うちの子犬をお供に連れていきなさい」と言ってくれた。
◆ウルフィーと森に入った千恵さんは、ある日、カラスの大群が騒いでいるのを目にする。ざっと数えると50羽はいそうだった。その下の木に目をこらすと、フクロウの姿が見えた。カラスはフクロウをからかっていたのかもしれない。先住民にその話をすると、「フクロウは死のイメージ」だと言う。その直後、日本に電話した千恵さんは、祖母の死を知らされる。「おばあちゃんのことが好きだったので、帰国しようかだいぶ悩みました。でも、そのときはまだ終わってないと思ったんです」
◆その後、田中さんが合流して旅を続け、「これで終わってもいいな」と自分で納得できたので、千恵さんはウルフィーを連れて先に帰国。
◆極北の地を舞台にした二人の旅は、二つの螺旋階段が絡まるように続いてきた。そして今、「偶然の重なりは必然」と、それぞれの出会いに感謝しているという。田中さんとラフカイ、千恵さんとウルフィーが“恋”に落ち、彼らはこれからも日本と極北の森を駆け巡るだろう。今回登場した「その先の旅人たち」は、どこに向かおうとしているのか−−。[新井由己]
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服部文祥 金井重 白根全 風間深志 宮本千晴 向後元彦 森田靖郎 江本嘉伸 石川直樹 |
●この日最後を締めるセッションとして、300回の報告会に登場、現在も活躍中の行動者たちにステージに上がってもらい、それぞれの「昨日・今日・明日」を語ってもらった。
●会場にはまだまだ多彩な顔ぶれがいたが、時間の制約から全員を紹介できなかったことは、残念だった。結果的に、この日の冒頭、奇術箱の中から登場した石川青年が、最後もしめくくるかたちとなった。
[進行・聞き手]江本嘉伸 服部文祥 石川直樹 菊地由美子
[画像]三輪主彦 尾浜良太
リレートークの第一走者は、賀曽利隆さん。中国・ハルビンを拠点に中国で「北極」と呼ばれる最北端、最西端、最東端を目指すバイク旅だ。旅のお供は「made in china」の110ccバイク。これで全行程6200キロのガタガタ道を時速90〜100キロで飛ばす。西端はロシア国境、東端はゴビ・タクラマカン砂漠の東のはずれを踏んできた。
◆実はいつも、「岬を踏んだゾ」という賀曽利さんの報告を聞きながら、バイク乗りが岬や国境というエッジを目指す思いを計りかねていたのだが、今回の話で、道ある限り進むという精神なのかもしれないな、と思った。いま見えている地平線の先には、何かがあるかもしれない。「じゃあ、行けるところまで行ってみよう」と。
◆賀曽利さんにとって、20歳の頃の世界の中心はアフリカだった。アジアに目を向けるようになったのは40代以降のことだ。サハリンからエリザベス海峡を望み、韓国を一周し、中国・ロシア・北朝鮮の三国の出会う地点にも立った。
◆そうして、旅を始めた20歳から5千数百日の朝を旅の中で迎えた。走った距離は102万キロ=地球25周分。訪れた国は130ヵ国、国境越えは、もう200〜300を数えるだろうか。「国境の賀曽利」と呼ばれるようになった。いま57歳。これだけ走っても、まだこの先には新しい世界が待っているかもしれない。だから今日も「とにかく走り続けるゾー!」。
◆と、ここまで聞いて、軽快な語り口にごまかされていることに気がついた。今日の題は「息子との二人旅」ではなかったか。2500枚の中から選りすぐられた、5枚の最後のスライドには、息子さんと並んで満面の笑みをたたえる賀曽利さんの姿が写る。そのスライドの存在にいま気がついたかのように披露しつつ、時間がなくなるからこの話は一切しないなどと逃げる賀曽利さんを、石川さんが追う。親父と息子の関係というのはなかなか難しいものだが、そこんとこどうなん?
◆「約30日間、まあまあ面白い旅だったかな。でも親子旅っていうのは一度でいいかな」。親父と息子の照れくささが垣間見えた。
その賀曽利さんの紹介で、スティーブ・シール・笑みこ夫妻にバトンタッチ。笑みこさんの旅始まりは、高校生時代に乗ったスクーターだった。その延長といえるオートバイでの旅行中、出会ったおばさんの「人生やり直したいわ」という言葉に、はっと気がついた。「人生は一度きり」だと。22歳の誕生日に自分に世界一周の旅をプレゼントした。
◆まずは足元から、と日本を10ヵ月かけて一周し、渡ったオーストラリアで自転車旅を続けているスティーブに「ひっかけられた」。オートバイそのものより旅が好きになり、「エンジン付きでは早すぎる」と思い始めていた頃、最高のパートナーに出会ったのだ。バイクを自転車に乗り換えて、二人旅が始まった。東南アジアから北米、南米、アフリカ、ヨーロッパ、ユーラシアと、11年半かけて進み、中国・パキスタン国境のクンジュラブ峠(4700m)を越えたところで、思いもかけない病に倒れた。癌だった。咳が止まらなかったり、腰が痛いのも我慢して旅を続け、ゴールまであと数ヵ月というところで無念のリタイア。日本に緊急帰国し、スティーブと二人三脚の闘病生活が始まった。
◆実は、私には、笑みこさんとスティーブと三人で川の字になって寝た夜の思い出がある。寝相によって痛むという笑みこさんの腰をさすり続けるスティーブの姿に、そのときほど「二人三脚」という言葉をまのあたりにしたと思ったことはない。
◆2人はいま、奈良の山奥に移り住んでいる。病気になって、これまでの生活の悪い点を改善した。畑仕事をし、囲炉裏のある我が家に帰る生活をしていると、生命力をもらう気がする。そして−。
◆この12月、再起の旅に出る。余命半年もないと言われた命が、旅を再開できるまでに復活した。不安がないわけではないが、「私たちにとって旅は人生そのもの」。恐がるよりも、「限られた命を生かして生きたい」。その言葉に実感がこもる。
◆笑みこさんは自分のことを楽天家というけれど、私は「受容の人」なんだと思っていた。いいものも悪いものも、ときにはむごい運命さえも、全部肯定して受け容れ、前に進める人。中断されたあの地点からその先へ。“さあ、明日に向かってレッツゴー!”
ここで、青木(生田目)明美さんが愛息子・颯人(そうと)くんを抱いて登場。通信で語られていた、あの壮絶な出産記の成果がこの子なのね、と思うとなんとも感慨深い。
母性本能をくすぐる赤ちゃんの後に出てきた次の報告者は、これも文字通りの「野生児」を思わせる、フリークライミング、テレマークスキー、サバイバル山行という3つの登山スタイルを実践している服部文祥さんだ。服部さんのスタイルは、道具に頼りすぎて身体から能力を切り離してしまった現代人の限界を超えて、自然の中で自由を獲得しようという挑戦と思える。
◆服部さんは、人工登攀の発達によってどんな山にも登れる、と考えるのは錯覚だと思ったという。そして、何百人ものポーターの助けを借りて登るヒマラヤ登山にも違和感を覚えた。「いったい、『登る』ということはどういうことなのか」。純粋に追求していくと、自分から文明品をはずして山に挑戦する、フリークライミング思想にたどり着いた。裸の自分で登る。自分の内側から登りたいという気持ちが出ることがフリークライミングだ、と体で分かったという。
◆逆に、テレマークスキーは、スキーという道具を使うことで自分自身が山の中で自由になるのが狙いだ。これならヒマラヤの奥へも自力で進めるのではないか。いまなお挑戦中だ。
◆では、フリークライミング思想を日本の夏山に応用したらどうなるか。その問いの答えがサバイバル山行だ。米と調味料だけを持って、できる限り道は使わず、大きい山塊を長く歩きたい。現地調達の山菜に、イワナを釣って焚き火で焼いて食べる。この夏、日高の全山を、一度も下山することなく、デポもせずに歩き抜いた。無補給・単独行。古典的でありながら、極めて新しいスタイルであるともいえるだろう。
◆イヌイットの子は3歳にして「自分がやらなければ生きてはいけない」と悟る、という話を紹介した上で、「自分にそれを教えてくれたのは山だった」と服部さん。自分で『生きたい』と思っていなければ生きられない。だからちょっぴり本気で思っている、「山登りが日本を救う」と。服部さんを見ていると、現代人はどこまで強く、自由になれるのか、と目の前が明るくなる気持ちがした。
このあと、舞台は一転。今度の旅で喜寿を迎えた金井重さんに、石川さんから花束が贈られた。最近はいつも言われるそうだ。「あなたまだやっているの?」と。いったい私たちは、なぜ旅をするのだろうか。人類の歴史を繙くシゲさんの談−。
◆サルの人口が増加して、誰かがジャングルからはみ出さなければならなくなったとき、動いたのは誰か。ボスでも保守的なものでもない、好奇心旺盛の、いわば地平線的なサルだ。そうして、原人が猿人になって新人になり、グレートジャーニーが始まった。で、一句。
「サバンナに出て 人になる 旅はじめ」
◆シゲさんは“サバンナ”に出るまでの50数年間、苦言実行に生きてきた。いまの時代でも、働く女性には何かと苦労がある。その先駆けともいえるシゲさんの時代には、なおのことだろう。男社会の中で戦っていると、男性的な発想が身についてしまう。だからシゲさんの経歴を知るにつれ、その大らかさはどこから来たのだろうと思うことが何度もあった。
◆「旅の中でやわらかいシゲさんが出てきたのよ。私のニコニコは100万ドル。旅のおかげでシゲさんここにあり」。
◆自分の働きかけ一つで人の対応も変わる。だから人の出会いに助けられる旅先では、いつも“ニコニコ”を心がけている。今回行った中国では、長白山に登った。ツアーだが、みなのペースについていけない。息が切れる。年齢を感じないわけではない。それでも、一人旅はマイペースだ。マイペースならば旅はいつまでもゆるやかに続く。シゲ節のキレはますます冴え、今日も笑いの渦に包まれてニコニコと、めでたく節目を迎えたシゲさんであるのだった。
そのシゲさんが81年に訪れたペルーのリマで、日系ペンションの管理人をしていたのは、今や「世界でたった二人のカーニバル評論家の」白根全さん。全さんの上にカーニバルの女神が降りてきたのは、50ccバイクでサハラを横断した1987年だった。セネガルのダカールで地図を広げると、海の向こうにブラジルが見えた。「やっぱりカーニバルだよな」。わけもなく閃いた。
◆ラテンには、自然の中で体を張るのとはまた違う面白い世界が広がっている。ラテンはどこにも取り込まれない。むしろ周りを取り込んでしまう、底抜けの明るさがある。
◆後先を考えずに、いまこの場の楽しさを追求するラテンの真髄を実践して、今年も勇んでカーニバルに出かけた。2月に行ったペルーのカハマルカを皮切りに、リオ、ブラジル北東部のサンルイス、キューバのサンチアゴデキューバ、9月に行ったNYのブルックリン。アンデスの打楽器に、ヒョウ男、団扇太鼓、スチールドラムと、そのスタイルもさまざまだ。
◆カーニバルの4日間のために一年間がある、というラテンの世界。刹那的とも見えるカーニバルに全身全霊を投じさせる力は、まさに「誘惑」と呼ぶにふさわしいのかもしれない。
◆「人はカーニバルのために生きる」と公言してはばからない白根さん。いま一番の悩みは、来年のカーニバルにどこにいくのか、だそうである。
次の登場者は、先ごろのパリダカで重傷を負い、7月の報告会では病院のベッドの上から痛々しい姿のビデオ出演となった風間深志さん。あの光景がウソのような元気な姿で、椅子に腰掛けてニコニコと笑っている。その笑顔に、賀曽利さんの明るい声がかぶさった。
◆「風間さんのいいところは、適当さといい加減さ。みんながあっと驚く常識を超えたことがなぜできるのか、というと、いい加減で適当だから」。
◆まるで我が冒険談を語るように、賀曽利さんの口から澱みなく、次々と風間さんの旅が語られる。80年の元旦にバイクで目指したキリマンジャロ、チーム「ホライズン」で参加したパリダカ、高度に挑戦したチョモランマ、アコンカグア、北極点、南極点…。「こんなことをやったのは、人類史上、風間深志だけ!」。息継ぐ間もない勢いで数々のエピソードが披露されたところで、ようやく風間さんが口を開いた。「やっぱり、止まったらおしまいなんだね」。
◆地平線を追っかける地平線ハンターのつもりでやってきたけれど、十数年どこにも行かなかった。地平線を見失ったようで、行くところがなくなってしまった。しかし、その間にも走り続ける盟友・賀曽利隆の姿があった。
◆「旅はやってなきゃだめ。昔話にし始めたらおしまいだな、と痛感した。また新しい地平線への旅へ風を受けて行こうかな」。
◆足が悪くなったら、50ccバイクに乗り換えてもいい。気持ちを新たに、また旅に出ようと、今日、思い直した。左足にギブスを巻いて、松葉杖を脇に抱えた風間さんが言う。
河田真智子さんは、19歳のときに鹿児島の沖永良部に行ってから、島ばかり旅している。結婚前も島旅、結婚後も「ダンナのボーナスで」島旅。そして、夏帆さんが生まれた。仮死状態で生まれた娘は、後に「点頭てんかん」という難治性てんかんの一種を持っているとわかった。島をまわって32年、夏帆さんは17歳になった。
◆この5月、夏帆さんは喉に痰が絡んで入院した。死亡率が高いといわれる、15〜17歳にかけての、子どもから大人に変わる時期だ。ハビリテーションによって自力で食べられるようになった胃に、またもやチューブが通された。それは、親として受け入れ難いことだった。「この子は私たちの50歳くらいに相当するのだから、(再度、チューブを外す)練習をするのは無理だ」という医師の言葉に、絶望が広がった。これからずっとチューブを付けたままでいくのか、人生の生きる直線を落ちていくしかないのか。
◆「3ヵ月ではずそうね」。そう夏帆さんに語りかけて、繰り返し練習をした。いま夏帆さんの鼻にチューブは入っていない。重度の障害だから、もう17歳だから、と新しいことをする可能性を否定してはいけない、そう教えられた。
◆夏帆さんが入院すると、河田さんは病室を離れられなくなり、退院しても3ヵ月は24時間の介護が必要になるという。そういう生活を続けていると、「自分は旅に何を求めていたんだろう」と考える。就職や結婚、出産…、人生の中で、女性には好きなことを止めざるを得ないきっかけがたくさんある。「それでも好きなことを続ける。大変であっても可能性をあきらめずに頑張れる」。河田さんが島から学んだことだ。それが夏帆さんの中にも生きていることが、いま一番の自慢でもある。
◆この春、夏帆さんとの旅を写した写真展を見させていただいたのだが、その中の言葉が印象的だった。「娘との旅は、周囲に迷惑をかけているのではなく、勇気を振りまいている旅なのかもしれないと思った」。
◆重度の障害を持つ子供だから一緒に旅はできない、と諦めることはしない。そこに、可能性を否定してはいけない、という先の言葉が重なる。
◆最後のスライドは奄美大島からだった。河田さんは、今日も島旅を続けている。
リレートークも終盤を迎え、創設者の5人が舞台に上がり、当時から現在に至る数々のエピソードが語られた。普段まとまって聞く機会がない話に、改めて当時の熱い思いを伺い知ることができた。
◆現在の形に整った報告会しか知らない私には、「報告会こそ地平線会議」という印象が強い。しかし、賀曽利さんによると、「日本人の海外旅を記録にまとめたい、というのが第一。それに付随するプロジェクトの一つが報告会でした」という。
◆創立者たちが思い描いていたものも三者三様だったようだ。日本観光文化研究所(観文研)出身で、「上から仕掛けるようなものはやめにしたい」と思った宮本千晴さん、賀曽利隆さん、向後元彦さん。一方で、第二の観文研を作ってもしかたないと、年報を重視した森田靖郎さん、江本嘉伸さん。「年報が出るたびに記念の集会をやった。『地平線から』が1冊できるたびに嬉しかった。100回、150回の記念集会というんじゃなくて、年報の刊行が毎回大集会開催につながった」(江本さん)。素人には負担の大きい年報を独立させる動きもあった。紆余曲折を経て、いまの地平線会議に落ち着いた。
◆最近の行動者の報告に対しては、「自分たちが昔、探検部で目指したものとずいぶん違ってきていると感じた」(向後さん)、「当時イメージしていたよりはるかに幅が広がったように思う」(宮本さん)。
◆その一方で変わらないものもある。「自分自身で動いたものしか信用するな」(宮本さん)という「あるく・みる・きく」の精神は、いまも昔も地平線の行動者ならみな持っているし、「既成の力に反発する気持ち」(森田さん)という精神もまた然り。10年続けばいいね、と言っていた地平線会議は、四半世紀経ったいまも、時代の気分を反映しながら脈々と続いている。
◆その秘訣は、「その時点で面白がって(報告会の)活動をする人が、リレー方式に300回ずっと続いてきた」(賀曽利さん)。25年前に走り始めた人たちがいて、何百人もの人がそのリレーに加わり、バトンを受け取っては次へと手渡す。当時の宮本さんは、「集まって話を聞いて散っていくことをむなしいと感じていた。流れて消えてしまうことを続けていかなければならない予感に怯えていた」というが、結果的に流れても消えていかないものがあった。人のつながりだ。
◆私はいつも不思議に思うのだけれど、いつかバトンをつないだ誰かと、報告会の外で引き合わされることが少なくない。積み重なった人のつながりは、ごく最近になって面白がって汗をかいた私にまで及び、確実に残っていく。そのことは、始めた人たちに、そしてなにはともあれ、やり続けてきた人たちに負うところが大きい。
◆年報こそ毎年出せなかったかもしれないが、毎号続いている地平線通信というものがある。丸山さんが主導して出来上がった「大雲海」には、一級の行動者たちの25年間の足跡がしっかり詰まっていると私は思うのだが、どうだろう。
◆そして森田さんのこんな言葉に、古株も新参者も思わず深くうなずいたのではないだろうか。「地平線会議は、ぼやっとした灯台に似ている。闇夜に航海する船が、航路でときどき灯りを確かめるように、ここに来て自分たちのやっていることを確かめ合う」。
いよいよリレートークもラストだ。最終走者は、「その先の地平線」タイトル発案者の石川直樹さん。石川さんは海をフィールドとしてきた。目印になるものの何も無い海の上、海図もコンパスも使わずにカヌーで島と島を結ぶ伝統航海術に魅せられ、南太平洋の島々に通った。「星の航海術」を追ううちに、カヌーはどこから来ているのか追ってみたくなった。いま、カヌーの原材料となる大木は少なくなっており、流木に頼っている状態だという。流木の旅路をさかのぼっていくと、ニュージーランドの原生林にたどりついた。
◆舞台上では原生林の映像が流される。タイトルは「The Void」(=空白、無限、何もない)。目印になるものは何もないが、つながっている感覚がある。マオリ族の聖地となっているその森こそが、カヌーだけでない、雲やすべての源になっているのではないか。いま石川さんは、その森に魅せられ、足を運んでいる。
◆そうやって旅は続いていく。あのとき見えた地平線の下にたどり着いたら、またその向こうに見える地平線まで足を伸ばしてみたくなる。そこから見える地平線の元にたどり着いたら、また新たな景色が見えるのだろう。
◆自分の目で見て、考えて、そのことを報告する。だれかの旅を代償行為にすることではなく、あくまでも主体は自分にある。それが地平線会議なのだろうし、これからも私たちは、そういう旅を続けていくだろう。[菊地由美子]
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