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前文 | 江本嘉伸 |
Wi'la'mola 〜We are all traveling together〜 | 菊地千恵 |
意識の地平線へ向かって | 田中勝之 |
「山登りが日本を救う」ということ、もしくは田中、千恵ペアへの質問 | 服部文祥 |
地平線会議=アーキペラゴ(群島)論 | 石川直樹 |
マッケンジーを飛んで | 多胡光純 |
人はなぜ旅に出るのか ルーツ編 | 金井重 |
地平線会議の「構図」の原点 | 岡村隆 |
「飛べない巣立ち」から、の離陸。 | 森田靖郎 |
イカサマ師から円熟の道へ | 三輪主彦 |
幸福を考えて | 街道憲久 |
仲間 | 宮本千晴 |
●25周年を迎えた地平線会議。記念フォーラムに参加した人、『大雲海』を手にした人たちに、それぞれの思いを綴ってもらった。地平線を見る目は、人により、参加した時代により、さまざまだ。いくつかの文章を、「論考」としてまとめて掲載させていただいた。書き手に「地平線論」を頼んだわけではなく、編集者の勝手な括り方であることをお断りしつつ。[E]
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菊地千恵 |
◆今年の夏、カナダ西海岸周辺を巡る中で、出会ったオオカミ犬のウルフィーを連れて旅を始めた私は、内海に浮かぶある小さな島を訪れました。そして、先住民と白人が混じり合って暮らすその村で、若者達の就職や起業するためのプログラムを組んで支援している、ランディーという名の先住民の男性と親しくなったのです。
◆村外れにあるオフィスに顔を出すと、彼は何枚にも及ぶ地図やビデオや資料を引っ張り出してきて、優しそうなグレーの瞳を輝かせながら、今取り組んでいる数々のプログラムについて語ってくれるのでした。
◆この村も他の例にもれず、若者の失業率の高さは変わりません。興味を引いたのは、ランディーが単に若者がビジネスやコンピューターのスキルを学んで、職につけさえすれば良いと考えてはいないことでした。
◆テーブルに広げられた地図上の森や湖や川、海沿いのあちこちには、赤や青のマークが点在しています。魚捕りのために過ごした海辺、獲物を追って歩き回った森、越冬用のキャビンの残る湖、ランディーの祖先達がかつて生きてきた大地の歴史が記されていました。そういった場所に再び光を当て、歴史を掘り起こしながら、若者を森へ連れ出して、彼らの中に流れ続けてきた伝統を体や心で感じさせる。ランディーはそういった活動にも熱心でした。
◆「確かにビジネスを軌道に乗せて、お金を得ることは大事だと思うよ。でも、それが最優先ではないんだ。僕も後輩達も、まず『自分達がどこから来たのか、自分達は何者なのか』それを知らなければならない。でも、自分の中にその土台さえあれば、ビジネスは間違いなく後からついてくると思うんだ。僕達の文化は白人が入ってきてからずっと抑圧されてきただろう。でも、だからと言って白人の考え方や文明を批判し、対立してばかりでは何も生まれないと思う。これからはお互いの良い部分を学び合わないとね、僕達は同じ世界に生きているんだから」
◆そして、一言「Wi'la'mola」という言葉を使いました。その部分だけが現地語で、意味が分からずに首を捻る私のために、彼の説明は続きました。「英語にすると『We are all traveling together』かな」
◆彼が行い、これから行おうとしている行動はみな「Wi'la'mola」という意識の根っこがあることで、つながっていました。
Wi'la'mola。
自分の周りに築き上げてきた壁を取り払って、人は深い部分で共鳴し合いながら、人生という旅を共に続けていくのかもしれない、ランディーがくれた一言は私にとってそんな豊かさを含んでいました。
◆4ヶ月半の旅を終えて帰国すると、まるで新たな旅に向かうかのように地平線大集会が待ち受けていました。
◆過去、現在、未来を行き交い、様々な報告者の話に耳を傾けながら、地平線会議を25年という長い年月続けてきた、行動から生まれたエネルギーを伝え、広げてゆくという人の力の大きさ。参加する私の心の中に、それが深く染みこんできて、言葉にできないような深い感動が広がっていきました。
◆見知った仲間も、初めて出会った誰かも、ひとつに繋がってゆくような熱い思い。
◆「Wi'la'mola」が再び、頭に蘇ってきました。皆それぞれが自分の中にある地平線を目指して歩いているのだと思います。それが異国の地であっても、日本の日常の中であっても変わることなく。
◆地平線会議は、これまでも、これからも、たくさんの人が共に輝いていける場なのかな、そんな風に感じています。
◆最後に、地平線会議の歴史を丁寧に織り上げていって下さった先人の方々、大集会の実現に多くのエネルギーをつぎ込んで下さった方々、会場を訪れ同じ時を過ごして下さった方々、そして「ラフカイとウルフィーを会場に入れたい!」という軽率で我が侭この上ない一言を真剣に受け止めて下さった方々、みなさまに心からのお礼を伝えたいと思います。本当にありがとうございました。
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田中勝之 |
◆300回記念フォーラム、それぞれの想いが熱く繋がった瞬間に感動の連続でした。
◆報告者から会場の人々へ、会場の人々から報告者へ、そして報告者どうし、会場の人々どうしへと、あたたかく力強いエネルギーが流れ、それがやがて眼には見えない一つの大きな力になって、つながってゆくのを感じました。この地上を流れる1本1本の川が海に辿りついて出会い、ひとつになるときのように。海は、ひとりひとりが川として辿ってきた旅を受け入れ、ひとつにつなぐ揺りかご。今回の記念フォーラムは、ぼく自身もその海の中に揺られながら、様々な川の匂いを嗅いでいたのだと思います。
◆自分たちの報告を始める前に、大集会に集まった方々、地平線会議を築き上げて来た方々、そして大集会を見えるところ見えないところで支えていただいた方々に、どうしても感謝の気持ちを伝えずにはいられませんでした。はじめに「ありがとう」の言葉を発しなければ、話し出すことができませんでした。あの会場に立ったとき、25年をかけて築き上げられてきた300段の長い階段が、はるばると立ち上がっているのが、ぼくの目の前に鮮明なイメージとして沸いてきました。1段1段に立つ先駆者の顔が、じっとぼくたちを見つめているような気がしました。階段を支える1本1本の柱が、優しく応援してくれているようでした。それはひとつの大きな喜びでした。先を行った人たちが、今ここに在るぼくたちの途を拓いてきてくれたことを感じることができたからです。
◆それぞれの報告では、誰がいつどこで何をしてきたかということよりも、そこでその人が感じたことの輝きが何よりもぼくを惹き付けてやみませんでした。その輝きというのは、どこかずっと胸の深いところで、行動形態は違っていても、みな変わらない普遍のものなのだなと強く感じました。でもそれは同時に「行動」という生きた経験の蓄積があったからこそ、感じることのできたもの。そして、やはりこれから先も、さらにたくさんの人たちが「行動」を重ね、輝きを増してゆくのでしょう。旅や冒険、探検の中で見つけた輝きだけでなく、日常の暮らしの中で見つけた輝きも、それぞれがそれぞれの大切なものを持ち寄って、「その先の地平線」を「目指す」のではなく、私たちみんなの手で、心の中に「創る」ことができたらいいな、そんなふうに大集会を終えて、思っています。地平線会議は、そうした「輝き」の増幅器としての海なんですね。
◆ところで、ぼくはこの頃、身体を張った目に見える旅をする中で、もうひとつ大切にしたいものがあると感じています。それは、どんなに先を急いでいても、たとえ目的地にたどり着けなくなるかもしれないような状況になっても、捨てていってはいけないもの。大げさなものではなく、人とのちょっとした出会いの中に、その人から受け取る言葉の中に、または風の中に、川の流れの中に、雲の形に、動物の動きやその他自分を取り巻くあらゆる現象に隠れているメッセージの欠片です。ふと立ち止まって、じっと見つめてみる。考えてみる。感じてみる。それらひとつひとつが、実はあらゆる旅の底流にある「答えさがし」の途を指し示してくれる貴重なヒントだったりします。先を急ぐ余り、そうした出会いを切り捨てていったとしたら、身体だけが先をゆき、心が置き去りにされてしまいます。それが、今まで旅をいくら重ねても、ぼくの中に満たされない気持ちが残ってきたひとつの原因でした。
◆ぼくはこの夏、東京西端の山里にある自宅で日々の暮らしを旅するつもりで送りながら、ようやくそのことに気づきはじめました。どんな些細なことにも、必ず意図と意味があると。それは、その瞬間瞬間の出会いを、他のことに惑わされることなく、ひとつひとつ真剣に受け止め始めたときからはじまりました。
◆そしてさらに分かってきたことは、すべての出来事は鎖のように繋がっているということでした。ひとつでも鎖の輪を逃してしまうと、その鎖は途切れてしまう。でも、ひとつひとつ次々に現れてくる輪(出会いや出来事)を、しっかりと自分自身の中に受け止めていくことで、その鎖はどこまでも長く繋がっていきます。ぼくも千恵も、日本とカナダで遠く離れた地をそれぞれ旅しながら、そうした連鎖を共に経験していました(詳細はホームページの「カナダ旅日記」の 中に綴られています。http://www.paddlenorth.com/chie2004/ ユーザーID:chie2004、パスワード:wolfy)。振り返ってみると、これまで辿ってきた旅路ですらも、今ここに在るぼく自身に辿り着くための確かな軌跡であったことを知りました。そうして過去までが、鎖で繋がっていったのです。その連鎖は、意識をある地平線へと導いていくようでした。でも、まだまだ最後の「答え」は見えてきません。
◆今、ようやくそこへ向かう途の入り口を見つけたところです。これからの旅は、さらにその途を先にゆくためにあるのだと感じています。この地上のどこかを這いつくばりながら旅をして、大切なヒントを一つずつ見つけ、紡いでいかなければならない気がしています。
◆おそらく人類が人類として、この惑星に誕生したときから、ぼくたちはたった一つの答えを探し続けてきたのだと思います。それは「いったいぼくらはどこからやって来て、どこへ還ってゆくのか」という、とても単純な問いに対する答えです。でも、見渡す限りあたりを眺めてみても、見つからない。宇宙を見つめてみても、問いは深まるばかり。心の中で堂々巡りを繰り返しているうちに、やがてそれぞれが探し物を見つける旅に出たのではないでしょうか。人類の辿った地上の軌跡というのは、単に食料の豊富な暮らしやすい場所を求めていっただけではないのだと、ぼくは思います。そうした物理的な欲求と同時に、心の奥底にいつも潜んでいた大きな疑問への答えを追い続けてきたはずです。そして、今もぼくたちはずっと旅を続けています。ある高い山の頂に立ってみたり、長い川を漕いでみたり、自転車で果てしない原野を進んでみたり、走ってみたり、歩いてみたり… そういう生きた経験の中でこそ感じることができる不思議な力があります。自然の一部として生きることによって、風や川、動物たちや森、そして大地と空の声を聴きながら、答えへと繋がる様々なヒントを見つけてきた人々に出会うことで、少しずつ答え探しの途を見つけ辿っていくことができます。また、自らが自然の中に身を置くことで、同じ事を感じ取れるはずです。そういう途を、しっかりと自分自身の心の中に見定めるために、ぼくたちは旅をしているのかもしれません。現代文明は、物の豊かさ、暮らしの便利さのあまり、大切な疑問を覆い隠してしまいました。でも、やっぱり見つけたい、その想いだけは、きっと根強くだれしもの意識の中にしまわれているはずです。その答えはもしかしたら、自分自身の真ん中に、この地球の中心に、あるものなのかもしれません。
◆ぼくは、旅をすると同時に、そうして意識が向かう途を探し続けています。その先にある地平線を追い求めています。眼に見えるものではないけれど、確かに意識の地平線はあるはずだと感じています。ときおり人々の心が感動したり、共感・共振したりする瞬間があります。それはきっと同じ地平線を心のどこかで見つめ、共有している瞬間。300回記念フォーラムは、それぞれが輝く川となり、答えの欠片を持ち寄って「意識の地平線」を共有し、垣間見た瞬間だったのだと信じています。
◆極北のインディアンが、教えてくれたこと。その中でいちばん大切なことはたったひとつ、「あらゆるものに感謝する」心でした。日々ぼくたちの命を支えてくれる周りの生命たちに感謝する。喜びを与えてくれた人や出来事に感謝する。悲しみや苦しみをもたらすことにさえも感謝する。感謝するということは、あらゆることを素直に受け入れるということ。それが、何年も経ってようやく気づいたのですが、見えない鎖をつなぐ行為そのものだったのです。「感謝」とは、別の言葉で表すとすれば「あるがままに受け入れる」ことなのかもしれません。受け入れ、鎖をしっかり繋いでゆく。そうして途を見つけていくこと。それが、ぼくのこれからの旅の中で、いつもしっかり胸に抱いていたい想いです。
◆最後に、ラフカイとウルフィー入場の件で、とんでもないワガママを受け入れ、そのためにたくさん尽力いただいた方々に、心から感謝を捧げます。ラフカイとウルフィーも、優しく温かい素敵な人たちにたくさん出会えて、とても幸せだったと思います。そして、会場でつたない話を聴いてくださった方々、力強く支えてくれたスタッフの方々、生きることの輝きを分けてくれた報告者の方々、そして地平線会議を創りここまで導いてきてくださった方々、あの場で共振し共感できた心たちのすべてに、深く感謝の気持ちを捧げます。ありがとうございました!
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もしくは田中、千恵ペアへの質問 服部文祥 |
◆冬の厳しい北米で暮らすアメリカ先住民の子供たちは3歳ですでに、自分の命は自分で守るということを、誰に教えられるまでもなく、知っているという。寒ければ、自分で服を着て、頭を覆う布を巻き、夜を耐える。寒さに負けないように意志を持って寝具の中で過ごすという。
◆そもそも、習うとか、教えるという概念はなく、知識や能力を身につけるということは、その人の力そのものだと考えるらしい。
◆以上は田中、千恵ペアと丸山純さんが控え室で打ち合わせ中に、丸山さん所有の『ヘアーインディアンの‥』(原ひろ子著)をちょっと拝借して、出会ってしまった世界観?である。自分の登山観に一つの整理基準が加わったような気がして、頭から離れない。自分の息子が3歳であるということも関係あるのだろう。
◆出番をすぐあとに控えた三人の打ち合わせを遮って、その世界観について三人に質問した。そこで僕は、アメリカ先住民には人間以外の動物をひっくるめて表現する言葉(アニマル、日本語ではケモノ)がないこと、僕らが使う意味での「自然」という言葉もないこと、彼らの世界観が、最近流行の「自然との融合、調和」とは違うことなどを聞いて、しばし言葉を失った。
◆そんなことがあったからだと思うのだが、田中君が発表の時に先住民の言葉として紹介した「全てに感謝する」に説明が足らないような気がしている。「全てに感謝する」と聞いたとき、我々は全世界と過去と偶然と必然とのすべてぐらいの意味で考えている。だが、おそらく、先住民の頭の中では、そこに「自分の意志」みたいなものが含まれているような気がするのだ。
◆我々は「感謝する」という言葉を、他人や外からくる刺激、もしくは偶然に対して使っている。僕らの社会で感謝という言葉を自分の才能や能力に使うと、そこにはうぬぼれた感じが漂うことになる。それは、才能や能力を個人の所有物として考えているからである。だが、アメリカ先住民は、個人の能力を、草木や石ころと同じく、そこに存在しているものとして考えているような気がするのである。自分さえも事象の一つと考えているのではないかと思うのだ。
◆悪い登攀を切り抜けて、山稜に立つ(いつも僕は悪いと思った登攀が、本当にギリギリだったのかわからない。それがわかるのは落ちたときだけだからである)。そして僕は、二本の足で立ち、息をしていることを喜ばしく思う。必然と偶然と自分が持っていた意志と能力を、生き残っているという事実が歓迎する。
◆それが、先住民が言っていることと重なるのかはわからない。ただ先住民の「感謝」を日本語や英語など「こちら側の言葉」に置き換えると、そこに含まれる重要な意味が失われているような感じを押さえることができないのだ。
◆感覚としては、自分の存在そのものを客観的含めて「すべてを肯定する」という方が近いような気がするのだが、田中君、千恵ちゃんどうですか。今度意見を聞かせてください。
◆北米先住民の子供は3歳ですでに自分の生きる意志を意識している。
◆それは厳しい環境が彼らに危機感を与えているからである。危機感が彼らの中に生きる意志を生じさせている。日本で平均的に生きていくなら、危機感を感じることは、あんまりない(最近、地震がありました)。僕も19歳で初めて吹雪に叩かれるまで、本当の意味で自分の生きる意志というものを感じたことがなかったと思う。危機感を体感したことがなかったわけだ。
◆厳しい環境を生き残る体験というのは、自分の意志を意識できる体験でもある。厳しい環境というストレスを、人は文明で排除してきたわけだが、生きる意志まで失ってしまうとは思っていなかったのではないだろうか。
◆山登りには、まだ環境が与えてくれる危機感が残っている。危機感を体感する→自分の意志を感じる→世界を肯定する。これが、僕がわかりにくく喋っていた「山登りは日本を救う」という意味でもある。
◆300回記念大会はその他にもいろいろ新しい視点を与えてくれた。とって付けたようだが、本当です。
◆最後にアメリカンインディアンの古い詩を。
すべての暖かい夜
月光の下で眠れ
その光を、一生をかけておまえの中に取り込むのだ
おまえはやがて輝き始め
いつの日か
月は思うだろう
おまえこそが月なのだと
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石川直樹(大学院生) |
◆考えてみると、高校生の頃からおよそ10年以上、こんなにも長く関わりをもち続けた繋がりは地平線会議をおいて他にない。旅が好きで自己中心的、そして特異な興味を偏愛する地平線の行動者たちと同様、ぼくは何かの枠組みに所属することが不得手で、幽霊会員、幽霊部員の常連だった。なのに、地平線会議だけはおぼろげながらその関係性が続いている。その理由は、代表もいなければ、しばりつけるものもない地平線会議のアーキペラゴ的な性格に惹きつけられているからだと思う。アーキペラゴについては最後に説明するとして、より強くその性格を確信することになった今回の300か月記念大集会について書いていこう。
◆大集会には、地平線黎明期のメンバーをはじめ、歴代の報告者や現代の旅人たちが全国各地から集まった。幅広い分野の行動者たちの過去と現在と未来が照らしだされ、ぼくはその内容を想像以上の衝撃とともに受け止めることになった。
◆最後のリレートークにいたるまでのそれぞれの旅の報告に関しては、他の人が原稿を書いているだろうから詳しくは書かないが、個人的には田中さん千恵さんたちによる極北のカナダ報告がぼくにはもっとも印象的だった。「意識の旅へ」と名付けられた報告は、“より厳しくより険しく”をモットーとしていた探検や旅の世界が、徐々に変化してきていることを端的に示している。リレートークのなかで河田真智子さんの話を聞いていてもそのことを感じさせられた。
◆リレートークの最後で、ぼくは大雲海の最初のページにある『地平線会議 趣意書案』の文章に触れた。ここでその文章、「これからの人に」と「いまの人に」という部分をもう一度引用したい。
☆これからの人に
「未知の大地」や「地図の空白」がなくなったと思ったとき地理的探検は消滅していた。しかし、いつの時代にも知的探検は存在する。そしてなお「体験」の絵筆の前にあるのは純白のキャンバス。探検の手ごたえや冒険の心があなたを突き動かすとき、あなたはいったいどんな軌跡を地球の上に描くのか。
☆いまの人に
行動体験がオリジナリティーにあふれているのなら、それはすでに「表現」のレベルにある。行動表現というものの広がりについて考えてみるのもいい。
◆大集会の前日、出来上がったばかりの大雲海のページをめくっていきなり飛び込んできたこれらの言葉に、ぼくは少なからずショックを受けた。「趣意書」は地平線のサイトにもアップされているから読んだことがあったのだが、その前に「趣意書案」というものが存在していたことをぼくは知らなかった。今から25年も前に、すでにこの地点に到達していた地平線の立ち上げメンバーのそこにいたる思索の軌跡を思うと、ぼくは胸を揺さぶられずにはいられなかった。旅を続ける中で自分がもがき考えていたことが、すでに明文化され、しかもメッセージとして語りかけられている。それは新しい旅のフロンティアを求めて歩き続けた人々の凝縮された言葉であり、その上に地平線会議が発足したことは、非常に大切なことだと改めて感じるのだ。
◆宮本千晴さんがリレートークの中で、「思っている以上に速いスピードで世界が変化している」とこぼしていたが、その速さに耐えうる十分な強度をもった言葉を彼らはすでに獲得していたのだと思う。地平線会議という緩やかで、しかも良い意味でいい加減なネットワークが今日まで存続してきた根幹をぼくはここに垣間見る。
◆地平線と関わってきた10年という時間は、自分にとってたいそう長い時間に感じられるのだが、その2倍3倍の時間を、地平線会議と共に、より深くより濃密に過ごしてきた諸先輩方がいる。対等に向き合うことさえはばかられる遠い存在だった人々が、リレートークの最後に姿を現し、ぼそぼそと口を開いた。彼らこそ、この趣意書案を編み上げ、地平線会議を発足させた最初のメンバーたちだった。
◆森田靖郎さんは、地平線会議のことを「闇夜の航海で時どき灯りを確かめるように、地平線会議に来て自分たちがやっていることを確かめ、行き先を見つめ合う場」であると言った。今回の大集会には参加していないが、関野吉晴さんも実は同じようなことを口にしている。何も知らない人々やマスコミの取り上げ方がどうであれ、地平線会議へ帰ってくれば一つ一つの行動を冷静に論じられる人々がいる。地平線会議の存在自体が無言のメッセージであり、一つの指針であるという思いは今も変わらない。
◆しかし、一方で「地平線は、ぬるま湯ではないか」と付け加えるのを森田さんは忘れなかった。同じ価値観を共有する者同士が集まっていれば、心地いいのは当たり前だ。社会的に訴えるものなくして、閉鎖的になっていけば、所詮それはぬるま湯である。地平線がマイナーな存在でなくなったら、地平線は地平線でなくなってしまうけれど、社会へ働きかける努力をしないでいいわけがない。そのあたりはこれから考えるべき課題である。
◆その話とつながるかどうかわからないが、大集会を終えた後、地平線会議にはじめて参加したという女性から一通のメールをもらった。そこにはこんなことが書かれていた。
◆「みなさんの地平線会議に対する熱い思いが、ちょっと羨ましくもありました。よくバックパッカーは“自分探し”をする人に準えられますが、みなさんの旅は“自分の存在を主張する旅”なんだろうな、と。そんな強さが私も欲しい(以下略)」。
◆「自分探し」という言葉はあまり好きではないので、素直にうなずけないけれど、「自分の存在を主張する旅」というところには、多少の恥ずかしさとともに苦笑するしかなかった。リレートークの中で、向後元彦さんは“利己と利他”ということに触れて、「地平線はエゴのかたまりである」とも言っていたが、それらの言葉に救いの手を差し伸べるのは、地平線通信とそれをまとめた大雲海の存在であるとぼくは思う。
◆自分が見てきたことを伝える作業の大切さを、ぼくは今までずっと考えてきたつもりだ。旅を記録に残さなければ、それは単なる自己満足か内輪の酒のタネにしかならない。しかし、それを文章にして残したり、写真や映像として記録することによって、多くの人と体験をわかちあうことができる。地平線会議では毎月の報告会に加えて、年報や地平線通信を発行し、300か月にいたる記録のすべてが今回、大雲海という大冊にまとまった。地平線会議で報告される旅の数々は、たしかに“自分の存在を主張”したり、“エゴのかたまり”であったりするかもしれない。しかし、それが記録されることによって、何らかの形で人々に働きかけ、日の目を見ることもあるのではないか。
◆近年、アーカイヴの重要性を問う声は日に日に高まっている。向後さんが言っていたように、もし大雲海が英訳されればジオグラフィックソサエティに匹敵するような力をもって、人々に語りかけるかもしれないとも思う。来年以降、大雲海内部を自由に検索できる目次の制作予定もある。大雲海は地平線の図書館であり、博物館であり、美術館であり、何より記憶のアーカイヴでもある。大雲海が幾重にも交差するそれらの役割を担っているといっても過言ではないはずだ。
◆最後に、宮本千晴さんの発言を思い返したい。千晴さんは、地平線会議の一番大切な原則として以下のようなことを言った。「自分自身の体験や自分自身の考えしか信用しないこと。それ以外のものはいくらでも参考にしていいが、参考にしたものだけで思想を組み立てるような馬鹿なまねはするな」。机上で論陣を張り、教壇の上でふんぞり返る一部の学者・先生方に聞いてもらいたいと思ったのはぼくだけではあるまい。“あるく・みる・きく”の精神を忘れかけていないか、今一度、自分自身に問いかけたいと思う。
◆ぼくは冒頭、地平線会議はアーキペラゴ的であると言った。アーキペラゴとは「多島海」や「群島」など一つの海域に点在する島々のことを指す。核となる中央をもたず、部分としての島は異なった特性をもって独立しながら、それぞれが有機的なネットワークによって繋がり、全体としての統制を失わない。
◆時々、大陸への旅に出ながら、忘れた頃に自分の島へ戻ってきて、立ち位置を確かめる。権力や強大なものへの帰属意識は希薄で、しかし、互いに尊重しあっている。それらを繋ぎとめるのは風の便りともいうべき地平線通信であり、大雲海をひらけば記憶の糸がさらさらとほどかれていく。
◆どんな辺境の地に足を踏み入れたとしても、地平線会議という群島からの視点をぼくは忘れたくない。大陸にはからめとられない。そのような思いをもった島々が存在する限り、台風や嵐にもまれても、見えない繋がりは決してなくならないだろう。
◆「旅はやっぱりやってなきゃダメだね。やらなくなって昔話をはじめたらおしまいだなと痛感しています」。ミスター地平線こと賀曽利さんとの話の中で、パリダカに出場して大怪我を負った風間深志さんが呟いた言葉である。彼はさらに言う。「止まったらオシマイなんだよね」。風間さんの言葉は胸に沁みた。ぼくは時々灯りを確かめながら、これからも沖へ向かって漕ぎ続けていくだろう。旅は、死ぬまで終わらない。
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Air Photographer 多胡光純 |
◆白夜が続く極北の夏が終わり、暗闇が戻ってくる8月。この時期になりやっと夕日に染まるマッケンジー川の空撮に取りかかることができる。23時にフライト時刻を設定し、その時がくるまで滑走路をかねたキャンプサイトでは釣りをし、たき火で遊び、炭火でパンを焼き、コーヒーをすすりながら原野に存在する男一人の時間を堪能する。
◆日が傾き始めると大気が動き出し、異なった風がキャンプサイトに入り始めたことを吹き流しが教えてくれる。離陸の瞬間が近づく。
◆エンジンの暖気が終わり、首からカメラを下げ、いざマッケンジーの空へ。オレンジ色の遮光に染まる河原を思い切り走り離陸を決める。両肩にかかるカラビナにテンションを感じた瞬間に両足は大地を離れ、足下にはマッケンジー川が広がる。旋回するごとに上昇し高度30mでマッケンジー川の両岸に生えるエゾマツの森の頭を越えた。いままで森の壁に完璧に閉ざされていた視界が雪崩のように広がりをみせる。目に飛び込んできたのはマッケンジー川を取り巻く緑の海。森の厚みは果てなく、地平線の彼方まで続いていた。
◆グイグイと高度を上げるにつれ地平線の先に落ち行く夕日を留めることが出来た。また、落ち行く夕日に向かい進路を取るといつまでも夕日は沈まなかった。不思議だった。時の概念が吹き飛び、落日の見せる燃えるような一瞬の瞬きが永遠になった。感激に浸り風を切り飛び続けた。周囲300km、誰もいない原野に起こる地球美と一人の男が上空で対峙する。感性が激しく高揚する。体を守るはずのヘルメットやプロテクターが邪魔になり、ノイジーなエンジンもカットしたくなる。体一つでマッケンジーを取り巻く世界と対峙したいとの思いに幾度も駆られた。
◆カヌーを漕ぎ、川をなめるように旅し、河原からフライトを続ける。こんな旅をする中、マッケンジー川沿いに暮らす人々のことをさらに深く知るようになる。そのなかの一つに周囲300km誰もいないと思いこんでいた大地が、実は多くの物語とドラマを内包する大地であることに気がついた。マッケンジーを空から眺め分かりだしたスケールをそんな物語やドラマというフィルターを通して眺める。フィルター越しに広がる世界は同じスケールではあるが、ぐんと厚みが加わり、ぐっと奥行きを感じさせる景色へと僕の心の中で昇華した。自然美だけに堪能していたときとは異なる世界に出会った瞬間だった。このフィルターは僕にとって「その先の地平線」をグッと引き寄せてくれるような気がする。世界中無限大に散らばるフィルターとともに飛び立ち地球を観望する。今はこの感覚とアクションがとてもとても刺激的であり、ものすごく楽しい。自分オリジナルのスタイルに磨きをかけ、極北をはじめ、さらなる旅を世界中に求めていきたい、そう強く思う。
◆最後に、大集会ではとても駆け足というわりには時間を大いに押してしまった報告でしたが、多胡の世界に耳を傾けていただきありがとうございました。
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金井重 |
◆地平線300回大会で、ひとり旅シゲさんの喜寿を祝って花束と、会場の皆さんから大拍手を頂きました。なんたるラッキー。今年はハワイと中国・韓国でしたから、国は去年と同じ120ケ国、でも日数がふえて9月帰国してちょうど120ヶ月、それに喜寿。この三点セットが去年でも来年でもなく、絶妙のタイミングで300回大会とドッキング。これぞ兎年生まれ乙女座シゲさんに、旅神さまの粋な計らいでありました。
◆ラッキーガールも巷を歩けば「シゲさんまだやってんの」と霰がふってきます。リュック背負ってまだ目的のないふらふら旅を続けているのか、と言うのです。「そりゃあ、あんた、人生は旅ですからねぇ」と格好つけます。でもほんと、人はなぜ旅に出るのでしょう。よくよく考えると「我々はどこからきたのか、我々はだれか、我々はどこへ行くのか」という大命題にぶつかります。
◆この大命題は世界中の人が考えています。ワタリガラスが私達の祖先だと信じている人を始め、先住民の人達もみんな考え、それぞれの神話を持っています。でも人は神様がお作りになった、私達は選民なのだと言って自然や動物を自分勝手に食い荒らす、選挙に強い傍若無人の人達もいます。
◆ほんとに不思議なことに500万年前、地球では爬虫類が滅亡し、哺乳類の時代に入ったそうです。なかでもサルは、爬虫類が手をつけてなかった森林の樹上で、道具も使うサル社会を発達させたそうな。なにしろ天敵は少ない、食料は豊富ですからね。しかし、この楽国にも個体数の増加という大問題が生まれるわけです。そうなるとボスや保守的なサルは動かないでしょうが、好奇心の強い動けるサルが森からおん出るわけよ。未知の世界へ。
◆森の続きの、森と全く違うサバンナに出てきたサルに、ここで進化がおきます。直立二足歩行の猿人になったのです。学説はいろいろありですが、三輪塾長は「遠くを見ようと背のびをしたのである」と背のび派です。「地平線を見たのでしょうか」地平線学提唱の塾長は「そうじゃ」とおっしゃっています。この猿人が150〜60万年前に原人に進化し、20万年前は新人に替り、地球に広がったというわけです。
◆ヨーロッパに向かった人達がコーカサイド、アフリカに残った人達がネグロイド、片やアジアからアラスカに渡り、南米の最南端まで5万キロの旅を続けた人達がモンゴロイド。中・南米の旅では子供時代の、近所のおじさんやおばさんそっくりさんの間を歩いてきました。子供のお尻には鮮やかな蒙古斑。私達とはいとこといった間柄でしょう。同じモンゴロイドです。
◆不思議なことに、いま日本の赤ちゃんの蒙古斑はとても薄いんですよ。それからサルでなくとも、サルと同じ、いやそれ以上と思える動物、例えば狼、あの賢さとしなやかな肢体と行動力。どうして狼人になり原人になり新人にならなかったのでしょうか。爬虫類と同じ原野に生息し全く違う環境でなかったせい?環境の変化が大きな要素でしょうか。
◆サルがサバンナに出てくるのにも二説あるそうです。追い出されたのか、自ら出てきたのか。両方でしょうね。戦前の日本人は生活のために北・南米に出て行った経済移民。戦後も大国年代以降は、窮屈な日本を飛び出した社会難民よ、という人達に出会ってきましたが、やっぱり両方の要素が混ってます。
◆さて、やっと未知の世界へ旅立ち最初の人が生まれたところですが、今日はここでおしまいです。25年前好奇心に満ちた面々が、遥かなる大昔から続いてきたこの生命を受け継いで、たくましく歩み続け世界の注目を集める、地平線会議については、タイトル“カレーズの水の流れは滔々と”だけを紹介し、なかみは次までおあずけとさせて頂きます。
◆本日は“人はなぜ旅に出るのか ルーツ編”にお付き合い頂きありがとうございました。
重さんと 呼ぶ声のあり ホライゾン
三文亭しげ女
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岡村隆 |
◆あれは1978年の、たしか秋だったと思うのだが、当時勤務していたトラベルジャーナルの私のデスクに一本の電話がかかってきた。「読売の江本です。いま各大学探検部の学生たちが合同の報告会を計画していて、私のところに協力依頼がきてるんだけど、ちょっと相談に乗ってもらえないだろうか−−」。電話の主の江本さんとはまだ面識がなかったと記憶する。だが、その年の春、植村直己と北極点到達を競った日大隊に同行して、一日早い到達を「北極点発、江本特派員」の特大トップ記事で伝えた著名な新聞記者だということは知っていた。また、学生たちがその前々年、白馬の法政大学山荘で第二回目になる「たんけん会議」(全国学生探検会議)を開いて、その後は「探検情報センター」の設立を模索していたことも知っていた。
◆向後元彦さんたちが中心になって1970年に開いた第一回の「たんけん会議」に法大主将として出席し、そこから生まれた「あむかす」(あるく・みる・きく・アメーバ集団)にも参加して、季刊『現代の探検』(山と渓谷社)最終号に「全国大学探検部活動全史」を評論とともに載せた私のことを、たぶん江本さんは知った上での電話だったのだろう。指定された日に読売新聞社まで出かけてみると、まだ日大生だった渡辺久樹や法大生の浅野哲哉ら各校の学生数名のほか、森田靖郎さんが私と同じように呼ばれて来ていた。森田さんも私にとっては関西学院大学探検部でフィリピン・パラワン島探検隊を指揮した人として名前だけを知る人だった。江本さんはその森田さんと私に学生たちの報告会イベント計画を説明し、何とか成功させてやりたいからアドバイスその他で協力してくれるようにと要請した。私たちは承諾し、学生たちとともに準備に入った。そして12月、法政大学の学生会館を会場に、全国の大学探検部のほか飛び入りの社会人までを集めて開かれた探検報告会は成功裏に幕を閉じたのだった。
◆その報告会のあとも、学生たちの「探検情報センター」構想はくすぶっていた。彼らは年明けを挟んで江本さんへの相談を繰り返し、そのつど私や森田さんにも江本さんから相談が来た。私たちは相談の輪を少しずつ広げていったが、そこで出てきた結論は、学生だけではその設立は無理だろうというものだった。探検に関する情報の蓄積や活用のための機関は、もっと幅広い裾野と本格的な人的資源の中から発想しなければ難しい。そう考えた江本さんが、日本観光文化研究所の変容ですでに形を失っていた「あむかす」を念頭に、旧知の向後さんや宮本千晴さんらに相談を持ちかけたのは当然の成り行きだったろう。伊藤幸司、賀曽利隆といった「旧あむかす」の面々が相談に加わり、その会合の中から、地平線会議設立に向けての話が熟成してきた。大学探検部的な「探検」だけではなく、「日本人の探検、冒険、手作りの地球体験を記録にとどめ、関心ある多くの人の交流を促す場」としての「地平線会議」は、こうしてできた。「あむかす」やそれに先立つ向後さんら全国有志の「南極ビンソンマシフ初登頂計画」という前史があったとはいえ、当時の実態としては、まず学生たちの「探検情報センター」構想があり、その一環として企画された報告会イベントに、要請されて江本さんが関与し、さらに続いた関係を核に、旧あむかすメンバーや探検部以外の人々へと輪が広がっていったのである。
◆1978年秋の学生たちと江本さんの出会いから1979年の8月17日の地平線会議発足まで約十カ月、その間の江本さんの自宅や四谷界隈の喫茶店で繰り返し交わされた熱い議論を思い出すと、なんとも懐かしい。あれから四半世紀、折に触れてしか報告会にも出なくなったが、古顔の面々の相変わらずの元気の良さはともかくとして、次々と参加してくる若い人たちを見ていると、嬉しい半面、何だか面映ゆくもなってくる。かつて江本さんや森田さんとともに学生たちに煽られて体も頭も動かした日々のことを思い出すからだが、考えてみれば江本さんは今も相変わらず同じ立場で動き続けているのだ。25年間、次々と現れては成長していく若者たちに、実は江本さんが動かされ、その江本さんが若年寄りや年寄りを協力させて……というのが地平線会議の変わらぬ構図であった。今回の25周年イベントでも如実に現れたその構図の、原点となった経緯を紹介した次第である。
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森田靖郎 |
ヒトは、自己表現する生き物だ。
◆あの日(11月7日)、地平線会議報告会300月記念会で、私は再確認した。モノ書きである私は当然だが、エンジニアにしろセールスマンも例外なく、ヒトは自己表現するものだ。自己表現するためには、自己鍛錬が必要だ。スポーツ選手や役者を見ればわかる。私は取材がそれにあたる。だが、その前に自己発見が要る。「自分は何をするのか」という自分への問いかけだ。自己発見と自己表現は食欲と性欲ほど正しい。これは旅する皆さんに経験があるはずだ。
◆会場の地平線の旅人たちは、じつにすばらしい自己表現者ばかりだった。なかには、うんざりするほど(私には)、自己表現に時間をかけた旅人もいた(それがキャラクターだ)。私が、ここで最も心をひかれたのは、旅の成果や報告ではない。旅ごころが脈々と伝わってきたからだ。25年程前、地平線会議の立ち上げの頃が蘇る。
◆まだ30代前半の私は、自分に宿した「旅ごころ」というやっかいな魔物に取り憑かれていた。その魔物の一時凍結の場として「地平線」を言い出す一人となった。凍結……違うだろう。地平線は、まさに旅ごころの燃焼の場のはずだと思うかもしれない。
◆その頃、私は社会人として向き合っていた。学生時代に宿した魔物と一時決別し、凍結して社会人に徹する立場にあった。社会人になることを、「巣立ち」という。雛鳥が巣から飛び立って自立することだ。だが、なかには巣から飛び立てない雛鳥がいることも確かだ。
◆当時の私がそうだった。社会に出ても社会人になりきれない。旅ごころという魔物を宿した私は時限爆弾をかかえたようなものだ。魔物を凍結するために地平線会議への道を歩んだ。酒を断つために居酒屋にアルバイトするようなものだ。失礼だが、悪酔いの客を見て、酒を断つことを考えていたのかもしれない。地平線の発起人にはさすがに、魔物採集のプロがいた。向後元彦さん、宮本千晴さん、伊藤幸司さん、岡村隆さんそして賀曾利隆さんに、三輪主彦さん(第一回報告者)……。日本観光文化研究所(観文研)という魔物博物館の専門家たちの前で私は、居場所を見つけることは出来なかった。プロたちは魔物の採集と保存には手馴れていた。だが、一つだけ弱みがあった。「年報・地平線から」という気の遠くなるような作業の辛さを知り尽くし尻込みしていた(風に見えた)。居場所のなかった私は、すぐに飛びついた(ダマされたか)。いや、もとより地球上に解き放たれた(海外渡航自由化)日本人の行動記録の集積に危機感を抱いていたのはジャーナリストの江本嘉伸さんであった。江本さんが言い出しっぺであり、それに共感したものが次々と集まった。江本論に私は震えた。“記憶”よりも“記録”である。語りでは正確に残せない足跡を活字で残す。私は魔物を凍結することも忘れて、航路も着地点も燃料も考えずに離陸した。とくに冒険や探検など使い古された言葉を使わず地球体験という言葉を生み出した。だが、「年報」の不時着は、離陸時に見えていた。
◆「飛べない巣立ち」の私が、無謀にも離陸した「地平線から」はやがて失速とともに不時着した。私が不時着させてしまった。パイロットとしては失格だった。同時に、地平線会議での居“場”所を失った。地平線会議には、内なるものと外向けがあった。内なる地平線は“場”である。“場”を作る事に、観文研OBは達人だ。外向けの地平線は、自ずと場から離れて遊牧民のように一人歩きしだしたのである。だが、私自身はもう一度ここで自己発見した。年報で知り合った旅人たちから、自在に操る魔物の凍結法と解凍法を教わった。地平線会議は、たんに飛び立ったり、着地したりする場ではない。また、飛行機を誘導する管制塔ほどの拘束力であってもならない。暗い夜の海を航海する船が、そのほのかな灯りを見て、航路を確認する灯台ほどの役割でいい。山を歩けば、ケルンが目印となる。山道で迷った時にケルンを確かめるように、先人の残した知恵と経験をそこから学ぶ。そして、また旅を続ける事が出来る。地平線会議には、数多くのケルンが積み上げられ、無言、有言(この方が多いか)の地球体験と教えがある。なんども自己発見と自己表現を繰り返し自分なりの道を模索することが出来る。私は、わずかに五年間で五冊の「地平線から」しか残さなかったが、それもケルンの一つに数えてもらうことを望んでいる。
◆外向けに一人歩きし失速した「年報・地平線から」だが、いまの人材と力量とITがあるなら、内なる“場”から外向けへ発信するのは、今風に言えば出来ること「間違いない」。
◆芭蕉の句に「逆旅(げきりょ)」がある。逆旅とは、旅とは真逆にある宿屋のことである。宿は旅人を迎えるだけでなく、送り出す。「お帰りなさい」「いってらっしゃい」を、くりかえす宿屋・逆旅は、人生そのものだと、芭蕉は言っている。地平線会議が4分の1世紀にわたって生き続けるのは、旅人の集まりやネットワークだけではない。「行く」と「帰る」が常に再生、蘇る逆旅の宿屋だ。人生でいうハッピーアワーだ。インターネットやホームページでは、決して見ることが出来ない「生ケルン」が待ち構えている。先日、丸山純さんが編集・発行された「大雲海」は、まさに地球体験の宿帳であり“魔物”解体新書である。仕組みだけでなく呼吸まで伝わってくる。地平線会議は、いつのまに魔物飼育法を会得していたのか。「お帰りなさい」と出迎える旅の宿は、出船の港ほど感傷的になるから私には苦手だ。だから、めったに顔を出さない(いい訳だ)。そういえば、宿の主である江本嘉伸さんの風貌は、芭蕉に近づいて来てはいないか。
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三輪主彦 |
◆地平線報告会のあとの二次会で誰かの「MI本さんって素敵よね。一言一言に含蓄があって。感激しちゃった」との声が聞こえてきた。E本さんは「なんでMI本やKO後ら、ロートル連中ばかりがもてるんだ」とつぶやいた。私は「めったに顔を出さないところが神秘的なんだ。のべつ顔を出したらカリスマ性がなくなるよな」と言った。そうなんだ。円熟さを醸し出すには、あんまり正体をさらさず「フムフム」と鷹揚に構えなければならない。私も円熟を目指しているが、ついつい「俺も混ぜてよ」と言って地平線会議の場にヒョコヒョコ顔を出してきた。それが円熟のさまたげになっていた。若いみんなは10年も前から「もうそろそろ引退しろよ」という目で見ていた。しかし私やE本さんがそこにいないと成り立たないのではないかと、かなりの自負をもって居座っていた。
◆しかし今回の大集会をみて、世代交代はとっくに終わっていたことが分かった。私たちおっさんは、実は若者の一番後から、必死で彼らを追いかけて行く状況になっていたのだ。私たちが引っ張っていると思っていたが、後ろをみたらもう誰もおらず、みんな前に行っていた。私にはもう悔しいという思いはなくなった。MI本さんも大集会のリレートークで「長生きして見続けたい」と言っていた。もう彼ら若者には追いつけないが、後ろ姿を見失わないようにウォッチをしていようと思った。私もいよいよ円熟の境地に入る。
◆先日の300回記念の大集会は実によかった。メインゲストの石川直樹、多胡光純、安東浩正、田中勝之、菊地千恵、ラフカイ、ウルフィーの行動者たちは、いままでになかったタイプの連中だ。旧い山岳部、探検部的な垂直的思考ではなく、ごく自由に地平線的に視点を広げている。石川くん、多胡くんは空中に飛び出し、本当に視点を3次元的に広げている。さらに田中くん、菊地さんはラフカイ、ウルフィーを介して4次元的視点を手に入れようと模索している。96年の200回大集会の時には考えられなかった行動だ。地平線の時代はどんどん進んでいるのだ。これはすごいことだ。
◆300回記念のメイン行事のもう一つは「大雲海」発刊だが、これも驚いた。200回の時にも大部の「DAS」が作られたが、丸山さんの大奮闘もむなしく、当日に間に合わなかった。今回も1000ページを超すような本が、このわずかな時間でできるものかと私は疑っていた。しかし40人以上の人間をインターネットで並列につなぐという丸山編集長の新しい発想によって、みごとに当日の受付に分厚い本が積み上げられた。96年にもネットワークが使われたが、それは専門知識を持った少数のネットだった。しかし今回はE本、三輪でさえ参加できるような開かれたものだった。捕虫網みたいなネットがわずかの期間に地引き網ほどのネットに広がっていった。それはまたすごいことだった。
◆200回の時には、若い海外旅行者をだまかす怪しいイカサマ師に扮して寸劇に参加した。もうあんな恥ずかしい役はまわってこないだろうと思っていたが、今回は更にハデバデシイ衣装のインチキ手品師役が回ってきた。地平線のなかでは、私の評価はやっぱりインチキ、イカサマなのか? 円熟の渋い役はまわってこない。円熟熱望のE本さんも役回りを見るかぎり、MI本、KO後 御大に寄せられるような尊敬のまなざしは向けられていない。
◆しかし新たな状況を自覚した私は400回の記念集会にはインチキおじさんではなく、MI本、KO後さんのようなカリスマ的フムフムおじさんになって登場しようともくろんでいるのだ。E本さんもフムフム派に入ろうよ。
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街道憲久 |
◆昨夏、久しぶりにカナダ北極圏を訪ねた。その前年はタンザニア、そのまた前年はチベット。いま僕は幸福ということを考えている。
◆北極再訪はイヌイットの自治州とも言うべきヌナブット準州誕生後としては初めてだったが、旅の中身は変わらない。人を訪ね、荒野をふらつき、居候してと。数人の知人は亡くなっていたし見知らぬ若者の顔が増えていた。酔っ払いは相変わらずで、喧嘩も自殺もあった。それでも、当たり前のように友人の家でカリブーの肉を食わせてもらっている僕がいる。そんな旅がまだ続いている。
◆僕は旅に関しては浮気者ではない。いつもまずは北極へと思っている。そんな僕がチベットの高原とアフリカの草原にほいほいと出掛けた。そして僕は、いつも一つのことしか考えていないということに気づいた。人が生きているなー、と。
◆チベットではブータン国境の登山と標高5千メートルにある湖の調査に立ち会った。タンザニアでは人類歩行の足跡が残るオルドバイ渓谷で関野吉晴のグレートジャーニーのゴールに立ち会った。砂礫の高原をヤクに灌木を背負わせ行く親子連れ、小さな集落から離れてサバンナを二人だけで歩んでいく恋人たち。彼らに僕は心穏やかにときめいた。ツンドラの狩行で茶を飲むイヌイット夫婦の静謐で柔らかな顔と同様に、人が大地の中で綺麗なのだ。橙色に揺れる夕日や紺碧の空、澄み切った大気が出会った人々を美しく見せるのか。僕は人が生きるに易くないことを知っている。慟哭も諦念も凶暴も同じく人は抱えていることを知っている。それでも三つの場所に共通する思いは、言葉にすると楽園ということになる。僕はそれぞれの場所で幸せを感じた。
◆でも、と僕は悩んでいる。人がある場所で暮らしている「さま」は、そこに行き見聞して記述もしくは語れば知らしめることはできる。しかし、そこにそのように生活しているのは「なぜ」かとなると説明は難しい。喜び、悲しみ、怒り、安寧が人の数だけあり、厳しさ、やさしさ、貧困、豊饒の中で絡み合った無数の喜怒哀楽がある。だから僕はいまだに旅の報告に口ごもってしまう。見聞さえもしまい込んでしまうことがある。
◆そんな中で、地平線会議300か月記念フォーラムの会場はある種、幸福の場だった。旅の見聞を伝える人、聞く人、双方の喜びがあった。イヌイットの子が初めてカリブーを倒したことを親や兄弟、親類に伝えている様に似ているとも思えた。親の嬉しそうな顔を見る子の誇らしげでちょっと照れぎみの笑顔。認めてくれる人がいる、必要としてくれる人がいる世界。いいなと思う。でも僕が悩むというのは、それだけなら自殺する子はいないはずのに、現実の「さま」はそうではないというところなのだ。
◆答えがないから口ごもるのだけれど、ユニークな旅、パイオニアとなる旅、価値ある旅、意義ある旅であった方がいい。先人の考えおよばなかった企画を創出する知能が旅にもあった方がいい。だけど、未知は誰にでもいつもある。だから価値も意義も先送りにしたままで出掛けることがあってもいいと僕はいまただそれだけを思う。
◆僕も大兄宮本千晴の「誰もが行かないよりは行った方がいい」との哲学に誘発され、それのみを拠り所に北極行を重ねてきた。確かに行けば「さま」は見聞できる。「さま」の見聞が足りないからか、いまだに僕の旅は意義あるものにならない。価値も生まれそうにない。それでも、浮気者でない僕はまた北極に行くだろう。ただ、これからは「なぜそこに人が生きているのか」の「なぜ」を考えされられる
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宮本千晴 |
◆地平線会議300カ月集会は面白かった。飛んでる人も、走っている人も、歩いている人も、もぐり込んでる人も、命がけの人も、こつこつと日々磨いている人も、みんなそれぞれに真剣で、自分の内からスタートしているから正直で、したがって謙虚で、そのくせ全体として共感と熱気にあふれている……すごいじゃん。う〜ん、いい。思わず感動してしまった。なるほど、地平線会議はほぼ理想的に機能している。
◆なぜだ。なにがここまでこさせたのか。憧れていながら旅立てないものが集まって、飛び抜けた誰かの話を聞かせてもらうだけの場ではなかったのか。帰ってきて寝ながら反芻しているうちに、あらためて人がなにを必要とし、なにに励まされ支えられて前進できるのかを発見したような気がした。そうだ、地平線会議は継続的な「仲間」の場になったのだ。
◆向後を手伝ってマングローブに取り組みはじめたとき、一番感激したことのひとつは「仲間」の感覚だった。まだマングローブをやる人が世界中でもあまり多くはなかったからかもしれないが、マングローブをやっているというだけですぐに率直な関係になれた。そして協力し合おうという気分が自然に生まれた。
◆その昔、観文研、というよりその一部として向後が主宰していた「あむかす(あるくみるきく動あめーば集団)」という活動も、いろいろな人がいろいろなことを考えてやっていたが、つまるところ目指していたのは輪郭のない仲間のうずを多層的につくるためのしかけをしていたわけだ。そしてその原点は、賀曽利がよくいうように、こわれてスプリングの飛び出したソファであり、そこへいけばいつも似た道の先輩や同類の誰かがいて、じっくり話を聞いてくれる場があったということだろう。悩みが直接解決されるわけではなくとも、同じように模索したり悩んだりしている同類がおり、それぞれがそれぞれの地平を求めていることは分かっていた。
◆ただ、わたし自身は、おそらく向後も同じだと思うが、当時は「しかける」立場にいたために、傲慢にもサービスという意識の方が強くて、また仲間ということば自体のいかがわしさに潔癖すぎて、「仲間という感覚の共有」の創造力の大きさや人間にとっての大事さを見逃していた。人間は仲間に支えられて、考え、生きているのだ。
◆仲間にはいろんな密度がある。たとえば若い時期には学校の山岳部や探検部などでのような密度の仲間はかけがえがない。しかし人生はその先もつづいており、特定の同じ仲間の中に籠もることはできない。世の中はもっと広い。あまりにも広すぎて、あまりにもでたらめである。さまざまな屁理屈があり、さまざまな教義や押しつけがあって、すべてがいかがわしい。すると、やはり同好の士というような形で基本的な価値観や感覚を共有する仲間の存在、そういう人たちがずうっといるんだという意識が大きな支えになってくる。そういうことなのだと思う。地平線会議はその要求にかなっていたからつづいてきたのだ。
◆先頃中国新聞の大島支局の佐田尾信作さんが「宮本常一という世界」という連載をやり、本にした。父のことをあれこれ言われるのはいまだに慣れなくてあまり興味もないが、かかわりのあった各地の老若多くのひとたちとインタビューしていく記事を読むうちに、ああこの人は宮本常一という糸をたどりながら、日本人のなかのひとつの共通する価値や文化を発掘し、描写しているのだと気がついた。なるほど、父はそういう仲間を探し歩き、共鳴していたんだと。
◆地平線会議をそういう心の奥の方で連帯意識のもてる「仲間」の場、ないし輪郭のないネットワークというところまで育ててくれた世話方の人たちに改めて拍手し、敬意を払う。世話をしつづける苦労は今後もなくならないだろうけれど、もうしかけたりサービスしたりする側とその受け手という場ではない。集うものに年季や後先や高低の違い、すごさの違いはあっても、それを包み込む仲間だという意識がある。これは日本にとってこれからえがたい学校の役割をはたしてくれるのではないかと思う。
◆世話方チームの途方もないねばり、関心とネットワークの広さ、身の軽さ、基本的な謙虚さと適度なでしゃばり。世話好き。いいですねぇ。じじいになるまでつづけてください。交代は自然にできるから。
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