300号の厚み
〜 『大雲海』を手にして 〜

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『地平線大雲海』制作経緯 江本嘉伸
『大雲海』開封に立ち会って 北川文夫
岡山発
モンゴルと『大雲海』 山本千夏
ズシリ25年の重み 川原武
復刻プロジェクトを拝見して 森井祐介
ほやほやの、あの1冊‥ 松井由香里
京都発
地平線会議趣意書 川本正道
熊本発
絶妙な命名 花田麿公
趣意書案に感動 藤田光明
岡山発
伊南村から『大雲海』へ まるやまふみ
福島県伊南村発
摩訶不思議な地平線時間 前田歩未
京都発
『大雲海』読んで厳冬期のカナダィアン・ロッキーへ 田中幹也
あこがれの『地平線会議』 海宝静恵
人間の質 田中明美
森の中から 戸高雅史
長野イラストの存在感 村松直美
大阪発
励みの一冊 安東浩正
いろんないいもの 中島菊代
大阪発
元編集長の感慨 樫田秀樹


〜 『大雲海』を手にして 〜
『地平線大雲海』制作経緯
江本嘉伸 

◆2004年11月6日、『地平線大雲海』という名の、小部数だが、多分日本の歴史に残るであろう分厚い本が完成した。1152ページ、重さ1.1キロのこの本のサブタイトルは「地平線通信全記録0号〜300号」。1979年9月以来、毎月発行してきた地平線通信の全復刻本である。

◆地平線会議では、ここ数年、情報連絡、仕事の分担などについての相談などメーリング・リストが活躍している。複数のメンバーによる双方向のメールのやりとり、簡単に言えばパソコンを通しての会議室だ。丸山純を中心に「地平線HARAPPA」という情報ネットワークが稼動したのが1990年、そこのメンバーが中心となって「DAS」を完成したのが1996年8月だから、考えてみれば、案外長い歴史を持つ。そこそこのベテランがそろってもいる。

◆地平線報告会300か月を迎えるにあたり、丸山はかねて秘めていた「地平線通信全復刻」を決意した。方法はただひとつ。全国のパソコンを操れるメンバーに呼びかけての「人海戦術」である。

◆2004年1月の地平線通信で「『地平線通信全号復刻プロジェクト』に参加してくださる方を大々的に募集します」と、丸山は訴えた。「みんなで手分けをして地平線通信の各号をスキャンし、画像データにしてしまえば、版下を作らずにデータを直接印刷機に転送して、低コストで印刷することができます」そういう呼びかけだった。

◆復刻作業のためのメーリングリストは、2004年2月25日スタートした。「この復刻プロジェクトは、できるだけ多くの方に参加していただきながら、オープンなかたちで進めていきたいと考えています。これまでなかなか地平線会議の活動に踏み込めなかった人や、地方在住で日ごろの報告会や地平線通信発送などになかなか参加できなかった人が、このプロジェクトをきっかけに、地平線会議により深く関わっていくきっかけにしていただければうれしいです」と、彼は書いた。

◆次々に「やります!」と手を上げる人が出た。が、多かったかどうかはなんとも言えない。ともかく最終的に全国各地の約40人が制作メンバーとなった。うち、スキャナーを持っていない人は後日、デジタル化する時のために、テキスト入力要員にまわった。

◆不肖私も一応スキャナーを購入していたため、メンバーに認定された。丸山に助けられて、なんと第0号・第1号のはがき通信と賀曽利隆の褌姿で人気の「第67号」をスキャンしたのである!

◆以後、ふるびた通信を原資料として、全国の仲間たちが一斉に地味なスキャン作業に入った。25年にわたる通信である。いかにも膨大なページ数だった。汚れてしまった原通信をスキャンした後、黄ばんだ紙の色をどう飛ばすか、ゴミ取りをどうするかなど不慣れな人が多く、課題は多かった。

◆おまけに、8月下旬から1か月近く、当の丸山がフィールドにしているパキスタンに行くこととなった。それも大事な仕事だったから、見越してスキャン作業を展開していたのだが、さすがに気がかりだったろう。しかし、留守を武田力が頑張りきり、仕事をつないだ。

◆帰国後もそれでも何度か、「間に合うだろうか?」という場面があった。ベテランもいるが、しろうとがほとんどだ。思うように進まないのは当然とも言えた。が、「復刻本のタイトル」が話題になりはじめた9月下旬、皆は俄然やる気になった。とりわけ、最後のステージで、寝食を忘れて丸山の仕事を一手引き受けた多胡光純の頑張りがすごかった。あの当時のダイナミックなメールのやりとりは、すごい、の一語に尽きた(2人とも1日2時間ぐらいしか寝ていない)。

◆タイトルについては『地平線通信大全…No.0〜No.300』『0→300地平線通信全記録』『地平線大秘帖』などが一時候補に上がった。

◆10月8日、束見本ができた。おおっ!このずしりとした重み、しかもその割に厚くないぞ。印刷、製本を引き受けてくれた会社が、このプロジェクトに全面協力してくれていることがこの時、よくわかった。わずか330部という部数のために、丸山の情熱に動かされた周辺の人々も力を貸してくれていたのである。

◆復刻本の持ち味のひとつは、地平線の顔とも言うべき長野亮之介の絵がすべて収録されていることにある。画伯のセンスは大事だ。ある日、『大雲海』という名が、その画伯と丸山の間で飛び出した。復刻メーリング・リスト上での少しの議論のあと、よしっ、これで行こうっ!と、一気に決まった。

◆復刻本がどうやって制作されていったか、は実はたいへん面白い。が、申しわけないが、そのことがわかるのはこの仕事に参加した人間だけである。復刻メーリング・リストにはなんと2月末の立ち上げから11月7日の記念フォーラム直後まで「2123通」もの書き込みが飛び交ったのだ。しかも、その文章量の多さ、内容の熱さ、ときたら、とても紹介しきれるものではない‥。

◆私が、記念フォーラムで『大雲海』のことにふれた際、あまり地平線会議に関心のない人には買ってほしくない、と言った理由は、プライベート情報が多いこともあるが、同時に10か月に及んだ長い、熱い戦いの日々をじっと見ていたからだ。

◆これは、丸山純を中心に、世にも稀な“仲間手法”で創り出された、地平線会議の貴重な一書である。




〜 『大雲海』を手にして 〜
『大雲海』開封に立ち会って
北川文夫 岡山発 

◆3時間20分の新幹線の乗車から開放され、東京駅に着くと電話ボックスを探し回った。手帳に書いた丸山さんの携帯番号をプッシュし、コールする。「はい、丸山です」「関根邸かアジア会館かどちらにいったらいいですか?」「それでは、関根さんの方へお願いします」。中央線に乗り、新宿で総武線に乗り換えて大久保駅に着く。あらかじめネットで調べて印刷していた地図を取り出して、位置を確認して歩き出す。5分程度で着くはずだ。関根邸に着く直前の少し狭い道を曲がり、地図上の目的地付近で外から少し観察した。車庫のシャッターの上半分が閉められ、下が開いている。中には数人が作業をしているようだ。2〜3歩シャッターに近づき、中の様子を伺う。江本さんらしき声と、丸山さんらしき声がする。シャッターの下から中を眺め、「こんにちは、北川です。」「ちょうど今、大雲海を開封するところです。」そして、数十のダンボール箱のひとつの開封が始まった。出てきた現物を見て歓声とともに拍手が起こる。この厚み、辞書のようだが中身は過去の通信がすべて詰まっている。『大雲海』総指揮者の丸山さんも満足そうだ。私も過去の通信のスキャンに多少携わり感慨もひとしおだ。『大雲海』の開封に同席できた喜びを感じながら、インクの匂いのする『大雲海』を手にとり、ぱらぱらとめくりながらじっくりと感激が増加してくるのが感じられた。




〜 『大雲海』を手にして 〜
モンゴルと『大雲海』
山本千夏 

◆遠く東京を離れていても、地平線会議と繋がっていたい。参加理由はそれだけでした。丸山さんからお預かりした黄ばんだ手書きのハガキをモンゴルまで持参しました。子供の頃、大好きだったドキュメンタリー番組のディレクター・豊臣靖氏の分を丸山さんが、私に割り振ってくださったお心遣いに感謝しています。9月中旬以降は、ちっとも戦力になれず、多胡さんと丸山さんのナイアガラの滝のようなやりとりに、モンゴルのサーバーも圧倒されたのか、1日に何度もサーバーダウンしました。最高1日何通ぐらいのやりとりがあったんでしょうね? 母と国際電話で30分ほど「地平線の旅人たち」を読み合わせながら、報告会タイトルのチェックをやったのも懐かしい思い出です。半年以上ぶりの親子の肉声会話でありました。母をそろそろ「子育て」から解放してあげたいのですが、一方で、「地平線会議のママ」にまつりあげ、骨までしゃぶりつくしたい欲求にもかられます。(いい加減にして!キーッ チカママより)




〜 『大雲海』を手にして 〜
ズシリ25年の重み
川原武 

◆『大雲海』着きました。実物を手にすると25年の重みがズッシリと心に響いてきますね。途中からのスキャニング参加でしたが、メーリングリストを通じてメンバーのリアルタイムな『大雲海』追込みの盛上がりなど、かって無かったすばらしい体験を楽しむことができました。




〜 『大雲海』を手にして 〜
復刻プロジェクトを拝見して
森井祐介 

◆300回のイベントの日が迫るにつれ、メールが飛び交い、丸山さん、落合さん、武田さんはじめ大勢の皆さんの活躍を手に取るように見ることができたのにはたいへん感激しました。皆さんパソコンを手足のごとくあつかっておられました。私はわずかな期間でしたが、そのような方々のお手伝いをさせて頂きましたこと、たいへん光栄に思っています。




〜 『大雲海』を手にして 〜
ほやほやの、あの1冊‥
松井由香里 京都発 

◆分厚い『大雲海』を手にした時、これが皆さんの人海戦術で、出来上がった、ほやほやのあの1冊か…と顔がほころびました。自分の知らない世界がいかに多いか、そして楽しみながら遠い世界を歩き、走っている方々の口から出てくる言葉の重さ大きさに、我が身はなんと何もしない狭い世界で生きているのかと恥じましたが、世界は広し、価値観はいろいろ。この1冊が何か一歩でも踏み出せるきっかけとなればと念じています。




〜 『大雲海』を手にして 〜
地平線会議趣意書
川本正道 熊本発 

◆前夜祭で、たまたまマイクを握る時間をいただきました。熊本からの参加なのでつい「地平線会議・熊本」の紹介をしてしまうことになってしまいますが、自分自身は、熊本の会の創設に関わってもいなければ、現在の活動の中心でもありません。そんなわけで、熊本の話をしながら、創設時に本家の皆さんに了解をとったとは伝え聞いているものの、我々が「地平線」を名乗っていいのだろうか?という思いが少なからずありました。

◆ただ大雲海を開いて初めて目にした「地平線会議趣意書」を見て考えを新たにしました。そこには「関心のある多くの人々のコミュニケートをうながし、これから飛び出そうとする人達に何かを還元してゆきたい」という一節がありました。月に一度集まって旅の話を肴に酒を飲んでいるだけの熊本の活動も、それなりに旅人の孵化器になっていますし、何よりも「地平線会議」という名前が持つスピリットに憧れて集まったメンバーでもあります。このまま図々しく「地平線会議」を名乗らせて頂こう。そう思いました。




〜 『大雲海』を手にして 〜
絶妙な命名
花田麿公 

◆地平線復刻の作業に混ぜていただいて役にたたず、皆さん、特に丸山さんの足を引っ張ってしまいました。でも、復刻のメンバーとして扱っていただき『大雲海』を手にして感動を覚えています。それにしても、地平線会議の皆様の多士済々、熱情に触れてちょっと感動しております。現代にはあまり見られない種類のものでした。ちょっとすてきな世界をのぞかせていただきありがとうございました。

◆『大雲海』の半分以上の愛読者として生意気言わせていただけば、よくぞこの大雲海と名付けたものと感心しています。まさに地平線は雲海のように誰かが飛び出ていばっているわけでもなく皆その雨滴のひとしずくのように振る舞われているが、見渡す限りの大雲海をつくり、どうどうとたなびいているように見えます。しかも一般と裏腹の人生がその雨滴一しずくにこめられていることに思いいたせば、300号とはと圧倒されています。色もデザインも紙質にも、「らしさ」がでていて良い本です。




〜 『大雲海』を手にして 〜
趣意書案に感動
藤田光明 岡山発 

◆このプロジェクトに関わった全ての人、特に丸山さん、武田さん、お疲れさまでした。まだ全部読んでませんが、あの頃、自分はどうしてたかな、とか思いながら興味を引くバイク関係の所を少しずつ読んでいます。地平線に関わりだして日の浅い僕にとって、まず目を引いたのが、巻頭の『「地平線会議」趣意書案』特に3ページはこのまま曲でも付けたくなってしまう詩的なもの。ここに地平線会議の全てが凝縮されているような気がします。




〜 『大雲海』を手にして 〜
伊南村から『大雲海』へ
まるやまふみ 福島県伊南村発 
村の小学校で1週間前から講師として働いています

◆『テキスト入力くらいなら協力できる。』私の持っているノートパソコンと電話線を使えば力になれる!と思い、編集作業に手を挙げました。数日後、手元に届いたのは地平線通信2、4、5号など貴重なハガキ時代のコピーが数枚。入力している通信が発送されていた当時、私は小学校4年生、四国の片田舎で「やんちゃな悪ガキ」として日々過ごしていました。私が10歳の頃、四国は本州と橋でつながってなかったため、どこに出かけるにも船を使っていました。そのおかげで小学校も中学校も修学旅行は『船』で出発し『船』で戻るという船旅付き。(船に弱い私にとってはかなり過酷でした)海に囲まれた四国で暮らしながら『旅することは海を越えていくこと』なんだと小学生の頃から意識していました。だけど、まさかそんな時、世界中を駆け巡り、海の向こうの暮らしを体験したり、探検、冒険的な活動をしている人がいるなんて想像もできないことだったのです。最初に入力した通信2号は、街道さんの「カナダ北極圏にしがみついた10年」というタイトル。街道さんが居候の天才であることも文章から伝わってきて興味深いハガキでした。25年も前に北極圏にしがみついていた人は、そこで何を見て、誰と過ごし、何を食べて、何を感じていたのだろう…と、想像するだけで心がドキドキしてしまったり…大雲海には1ページごとに

◆当時のドラマが秘められているように思います。そんな素晴らしい1冊の編集に、ほんのちょっぴりですが関わらせていただけたことに感謝しています。また、地平線会議で色々な人にお会いして、たくさんの好奇心に出会えることを楽しみにしています。




〜 『大雲海』を手にして 〜
摩訶不思議な地平線時間
前田歩未 京都発 

◆大雲海の制作は、私にとって久々の共同制作でした。日々、一人ぼっちで「制作」をしている私には久しぶりの連帯感がとても有意義でした。あんな大所帯での制作は学祭以来かもしれない。スキャンは確かにめんどくさい作業でした。担当分が終了したと言ってしまえば、次が送られてきてしまう。でも終わったゾ!とは言いたい。の繰り返し。共同制作だから、逃げようと思えばいくらでも逃げられる。でも、クビを突っ込んでしまう。これがその醍醐味なので、こちらとしては存分に楽しませていただきましたが、そんな事を言ってしまうと指導者に怒られてしまいそうです…。摩訶不思議な地平線時間を体験できたのは貴重ではありましたが、この経験は今後、どう生かせばよいのだろう‥。




〜 『大雲海』を手にして 〜
『大雲海』読んで厳冬期のカナダィアン・ロッキーへ
田中幹也 

◆ご無沙汰してます。しばらくネパールに行ってました。地平線300回記念楽しみにしてたので、残念でした……。『大雲海』まだざっとしか読んでませんが、地平線通信のバックナンバー見ながら地平線会議の歴史たどってます。できればバックナンバーにとどまらず、関係者の近況を加えたら、より実用的な人生指南になるのでは。と考えながら読みすすめてます。誰でも熱中して取り組めばそれなりの感動は得られる。しかし、そのあとはきまって、あの熱い興奮はどこへ行ってしまったのだろう、という「モチベーションの冬の時季」がやってくる。でも冬の時季を越さないかぎり春はやってこない。山も冒険も過ぎ去った日々ではなく、次の段階で生かされるかどうかで、真の感動の価値がきまるのでは。それからあとはどうなんだろう、と読みながらしきりに考えてます。

◆この冬は3年ぶりにカナダにもどります。『厳冬季カナディアンロッキー北部・山スキー縦走1200km』を3、4カ月かけて踏破する予定。冒険に出かけるというよりは、ひさびさの里帰りといった気分で、出発の日を心待ちにしています。




〜 『大雲海』を手にして 〜
あこがれの『地平線会議』
海宝静恵 

◆「地平線会議」、10数年前から、通信で、楽しませていただいています。今回、300か月という歴史が、1冊の本になる。それも限定版、ということで、すぐに申し込みました。さすが、限定版、ナンバリングしてある。素敵な本でした。何だか、ワクワクしてきました。おいしいお茶を入れて、『大雲海』、少しずつ、楽しんで行こうと思っています。そして、いつか、世界を駆け巡る方たちと実際に逢ってみたい、生の声を聞きに行く時間が作れたら…、と思っています。




〜 『大雲海』を手にして 〜
人間の質
田中明美 

◆復刻プロジェクトに参加させていただき、その経過や記念イベントなど目に見える技術的な得る物はさることながら、最も考えさせられたことは「人間の質」というものでした。そういった意味で復刻プロジェクトのMLを読むたびに発達未熟の自分に落ち込み反省させられることが多々あり、それは何故か心地よい現在進行形でもあります。




〜 『大雲海』を手にして 〜
森の中から
戸高雅史 

◆地平線会議300ヶ月おめでとうございます。お送りいただいた『大雲海』をさっそく、ぱらぱらとめくり拾い読みするうちにあっという間に時間が過ぎてゆきました。自分が報告させていただいた部分もなつかしく読ませていただきました。行動し、体感し、語り、表現する場。ひとりひとりの方がそのとき、そのときに想いを語ってきた場のかけがえなさと、その継続に感動を覚えました。さらに、体験者にとっては時を経るほどにそのときの体験がさらに存在の内部で熟成されてゆき、生き方そのものに表現されてゆくのかなと感じています。そういう意味では、200回のときの報告者の方々のその後も大変興味深く感じます。

◆僕自身も、報告させていただいた当時のヒマラヤに宇宙を感じ、あの虚空の世界に登り続けた頃から次第に流れが変化し、今は清らかな水や緑に象徴されるいのち溢れる日本の自然や山々に心惹かれてやみません。しかも、ひとりでというよりは仲間たちとともにその場をともにすることが。森に歩みいり、場からの呼びかけに心を澄まし、一夜を過ごす。火を焚き、その周りに仲間と集い、太鼓を叩き、口琴を鳴らし、歌い、踊る。

◆その内、木々や岩も森の奥に佇む山々も一緒に揺れてゆく‥。やがて僕らはスピリット、マインド、ボディーの境を超えてすべてがひとつながりの世界へ。

◆それは、夜を過ごすということから、その一期一会の機会がいのちの喜びの場へと昇華してゆく祈りともいえるかもしれません。

◆そして、翌日からは奥に聳える山の世界へと肉体感覚を大切にしながら歩み入ってゆきます。すでに時間の感覚は消え、その世界に満ちている繊細でやわらかな響きとの共振を楽しみながら…。森での感覚がさらにひとりひとりの中で確かなものになってゆくことでしょう。僕らは自然や山々、縁ありその場を共にした仲間、自分自身を含めたそのおおもとの何かにふれてゆくのかな。いのちの喜びのセッション!まるで3才になる娘と同じこどもになってゆくようです。こんな世界を最近、楽しんでいます。それでは。




〜 『大雲海』を手にして 〜
長野イラストの存在感
村松直美 大阪発 

◆地平線会議の始まりと歴史と時間を感じました。読みながらびっくりしたり頷いたり感動したりため息したりと忙しい自分がいました。断片的でしか知り得なかったことが繋がり見えて嬉しかった。と、同時に300ヶ月、25年という凄さを改めて実感しました。私が地平線と出会い、読み始めた頃からの分が本全体の1センチにも満たない。ううっ。そして何より長野画伯のイラストの存在感。うまく言葉で表現できなくて寂しいですが、このイラストのない通信が想像できない...です。それからそれから、この企画を計画決行してくれた地平線会議のみなさまに感謝感謝感謝です。




〜 『大雲海』を手にして 〜
励みの一冊
安東浩正 

◆安東もぼちぼちパソコンを操るので、復刻プロジェクト長の丸山さんに「期待している」というお言葉を頂いていたのに、肝心の追い込み時に国外逃亡していたので、あまりお役に立てませんでした。でも大雲海最後のページの50音順スタッフリストで安東の名が一番最初にきているのが、申し訳ないやらうれしいやらです。いやあいいものが出来ました。これだけいろんな世界でオリジナリティを自分の意思で実行している人たちがいるというのは、励みになります。




〜 『大雲海』を手にして 〜
いろんないいもの
中島菊代 大阪発 

◆通信が届くのをいつも楽しみに待っている身にとって、今回はようやく訪れた「お手伝いできる機会」でした。でも実際は手伝うどころか、ほとんど箱から出したきりだったスキャナーを操る術を始め、仕事の進め方や本の作り方など、個々のやりとりそのものも含めて、気がつけばいろんないいものをもらっていたのでした(いや〜、参加しといてよかった…)。メンバーのみなさま、お世話になりました。ありがとうございました。いよいよカタチになった本は、中味はもちろん、デザインもかっこよくて大感激。もっぱら適当に開いたページを拾い読みしていますが、どこから読んでも楽しめるって、すごいですよね。この本の魅力の一つではないかと思います。これから、元気をたくさんもらうであろう「大雲海」、長いつきあいになりそうです。




〜 『大雲海』を手にして 〜
元編集長の感慨
樫田秀樹 

◆20代前半の頃は、毎月来るハガキ通信に、ああ、あそこにいけばこういう人に会えるとわくわくしていました。その若造がEさんやMさんに認められて、98年から2000年までの2年間、地平線通信の編集長を押し付けられ‥もとい、担当させて頂いていたので、それが、まとまって読める一冊の本になったのはやはり感慨深いものがありました。編集長時代に連載を手がけ、大評判だったのが「生田目が行く!」です。これは、未完のまま終わったのが残念ですが、今回こうやって本ができたことで、最近地平線会議に参加した人でも新たに読んでもらえるのは元編集長冥利につきます。皆さ〜ん、「生田目が行く!」は757ページから始まっていますよ! それにしても、大雲海作成に携わった人たちのパワーを見れば、これからも新しい「何か」を何でも記録できると思います。復刻に関わった皆さん、ご苦労様でした!(ちなみに僕もその一人です。(^_^;))




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