2003年11月の地平線通信



■11月の地平線通信・288号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙 10月25日は新月の夜だった。山岳耐久レース本番の夜である。奥多摩一周71.5kmのコース最高点となるのが三頭山 (1527m・36km地点)。一番の耐えどころであるこの登りに差しかかったのは、既に深夜に近い午後11時だった。ヘッドランプで照らす前方3mの世界。ふと振り返るとつづら折りの下方にいくつもの灯りが闇にたゆたう。1500人もが参加した今大会ではこの時点でも人が連なって歩いていた。

◆時折、自分の世界に人の姿がぬっと侵入してきてぎょっとする。話には聞いていたが、コース脇には、力尽きた選手たちが思い思いの様相でバタバタと倒れているのだ。荷物を背負ったまま天を仰ぐゴキブリ型、座禅を組む修行僧まがい、リュックにすがりつく系、うなだれる窓際族タイプ…。ふむ、バテ方にも個性が現れる。

◆まったくバカげている、と何度思ったことだろう。人よりエネルギーをたくさん摂って静かな山をドタバタと踏み散らして、いったい何になる?…そう問われても人を説得できるだけの明快な解答をする自信は全くもってない。弁解できない理不尽なことを時にしたくなるのだから、どうにもこうにも仕様がない。

◆第二関門、月夜見に着いたのが午前2時。やれやれ、まだ42kmかと、どかっと腰を下ろすとそのままひっくり返ってしまった。気を張ってはいるが、体はフラフラだ。第一関門ではかぶりついていたお握りを、今は見るのも気持ち悪い。そのまま崩れ落ちそうな自分をなんとかごまかし、奮い立たせる。

◆それから御前山に向かう2時間は眠気も加わって、自分の動きさえ理解できぬまま、ただ機械的に足を放り出していた。意識が遠のいてくると、突然忘れていた幼き頃の記憶が蘇ってきたりしてはっと我に返る。その繰り返しだ。木々の合間から下界の街の灯がちらちら見えるが、その文明の世界が今はあまりにも遠い。誰もが黙りこくっていた。老いも若きも男も女もみんな一緒になって、もはや自分を見繕うことも忘れてただ、ひたすらに距離を稼いでいる。恥も外聞もない。地位も名誉も金も何の助けにもならない。

◆大ダワ(50km地点)を過ぎたあたりで空が白んできた。ああ、もうすぐ夜が明けるのだ、と知ってはじめて、そんなにも光を欲していた自分に気づく。闇に慣れてはいつか朝がくることすら忘れてしまっていたらしい。大岳山頂で朝日を受けた富士山を拝んだ。醍醐丸で見た夕焼けの柔らかな光もよかったが、この強い光は何よりも精神をリセットさせてくれる。一睡もしていないことも忘れて、新たな気持ちで第三関門へ。今度はお握りを美味しくいただいて、金毘羅尾根のうだるような長い下りにかかる。「まだ走るのかよ」―。案外しぶとい自分に半ば呆れつつ、スタートから21時間50分後、ようやくゴールに辿り着いた。

◆私事だが、来春から新聞記者として働くことになった。将来を具体的に描き始めた大学3年次に地平線会議に出会ってしまったのが運のツキで、いつしか危うい山道にさ迷いこんでしまった。おかげで、入社時点までに2年間のまわり道をしたことになる。何とも無駄で、何にも換え難い財産である。ゴールゲートを目にしたら、これまでの日々が走馬灯のように駆け巡り、それら全てが清算されたような心地で不覚にも視界が霞んだ。

◆無駄のひとつともいえるこのレースをまだ経験していない人には、一度は出場してみることを勧めたい。地平線基準では軟弱・若年組の私は夏から何度もトレーニングに出掛け、その間に少しずつ、しかしはっきりと自分の体が変わっていくのを感じた。図らずも、溜めこんできた余計な迷いや不安が贅肉と共に削ぎ落とされていくのを見るのは快感だった。細く鋭くなった体に、今日からまた、いろんな人の想いや願いをくっつけて、大きく、まあるくなっていけたらいい。途端に重くなった体がスピードに耐えられなくなっても、それらを抱え込んだまま、ゆっくりゆっくり進んでゆけばいい。…などと言いながら、10年後、20年後にうっかりとリッパなことをしそうになったときには容赦なく叱咤してほしい。

◆差し当たって今日は、すっかりアスリートモードに変容した、旺盛すぎる食欲を持て余す冬一日である。(菊地由美子、4月から時事通信記者)



先月の報告会から(報告会レポート・290)
縄文山男ヒダカ自給山行
服部文祥
2003.10.24(金) 新宿榎町地域センター

◆少年時代、昆虫やザリガニ捕りに夢中だった服部文祥。彼の探求心や自然眼は、そうした日々のたわいもない遊びの中で培われていった。

◆山の世界は東京都立大のワンダーフォーゲル部から始まった。「ワンゲルでは、ずっとヤブばっかりこいでました」しかし山のピークにも憧れ北アルプス槍ヶ岳へ。北鎌尾根はいつしか雪に包まれていた。「無謀な山行だった」が、未知の体験は少しずつ彼を山の深遠な世界へと導いていった。そして知床全山をスキーで単独縦走するまでに至る。「大雪で21日間のうち動けたのはたった8日間。後にも先にも、この知床が一番しんどかった」

◆大学卒業を前に岐路に立つ。山の世界で極限を目指せばそれはいつか“死”を意味する、と考えた彼は、山のプロを目指すのではなく山への想いを表現する道を選ぶ。中小出版社に就職が決まり、一人旅に出た。「自分の力だけで旅したかった」現地で中古の自転車を30ドルで購入しインドを縦断。大手の就職に失敗したという敗北感の中で自転車のペダルを漕いだ。そしてカオスの風景の中で、地べたに這いつくばりながら生きている人々の姿を目にする。「ああ、人間どんな風にでも生きていけるんだ・・・」

◆卒業後は仕事の傍ら日本各地でフリーソロ(注:登攀具を利用しての単独行)登山を続ける。あるとき日本山岳会から「参加費90万円でK2に登らないか」と誘いを受けた。総勢18名の登山隊はK2を目指してキャラバンを開始。しかし、その登山とは・・・大荷物を背負ったポーターの日当は400円足らず。膨大な物資を大名行列のようにベースキャンプまで運び上げる。ピークアタックは山肌に安全な“道”を造りキャンプを前進させる旧態依然とした極地法。近代装備を駆使し登頂を果たした服部の心には「これが登山と呼べるのか?こんな登山に意味はあるのか?」そんな想いだけが残った。

◆「自分の力だけで自由に登りたい」新たな手法にチャレンジしていく中で、フリークライミング(登攀具に頼らず自分の手足だけによる登山)とスキーのフリーライディング(自由なルートを滑るスキー)に“自力”と“自由”を見つけた。その思想を発展させ、“食”までを自然に委ねるスタイルに昇華したのが服部流サバイバル登山である。

◆2003年8月、約1ヶ月の北海道・日高全山縦走(2000m級の峰が連なる全長150kmの山脈)に単独で挑んだ。食料は米10kgとナッツ類1kg、飴玉に調味料のみ。他は釣り竿と食用植物の知識だけが頼りだった。沢筋を行きながらイワナを釣り、食用になる山野草を探した。全行程、焚き火のカマドが調理場だった。余ったイワナは保存食用に焼き枯らし(薫製)にした。そんな食事にも飽きはじめていた時、地質調査の人々と偶然出くわす。「彼らは日帰りなのに、ものすごい食料を持ってた」このときばかりは人を襲うヒグマの気持ちが良く分かったという。1個だけもらったアンパンが胃に浸みた。

◆順調に出発したものの、早くも4日目にして疲労が蓄積していく。「ザックをおろしても十数歩あるくともうヘトヘトの状態」だった、そんな時、北海道を直撃したあの台風10号にもろに出くわした。岩場のキャンプサイトを捨てて崖を攀じ、ブッシュ帯に逃げた服部の眼下で、大増水し激流と化した沢を、ごろんごろん大岩が音を立てて流れ、木々がなぎ倒されてゆく。突風、轟音・・一歩も動けない、まさに恐怖の3日間だった。なんとか再出発した彼は、途中で出会った登山者に携帯電話を借りる。「生きてるよ!」(服部)「生きてたの・・・」(妻)たったそれだけの無事の知らせだった。

◆沢筋を下っていたとき、猛烈な腐臭を放つエゾシカの死骸に遭遇した。周囲にはいたるところにヒグマのフンが残っていた。「もう少し早くここを通っていたら、ヒグマと遭遇していたかも」と思うと身震いした。豊かな糧を与え彼の命を支えてくれる自然はまた一方で、いつでも命を奪い去る危険も同時に秘めていた。

◆23日目、様々な苦境を乗り越えた末に山を降りた。翌早朝、すでに秋風の吹く中、最終地点の襟裳岬に立っていた。広い太平洋が眼前にあった。その先に家族の姿を見つめていた。横浜の自宅へ帰ると、窓を開けた六畳間に妻と2人の幼い息子が昼寝をしていた。

◆僕がカナダ極北の森で出会った先住民の老人は「斧とヒモとマッチさえあれば生きていける」と言っていた。その森の達人の姿に、まるで文明の垢を落とすかのように山に通い続ける服部文祥の姿が重なった。そして最後に彼は夢を語った。「できれば年に10ヶ月は山にいられるような暮らしがしたい・・・」expedition (遠征) からlife (暮らし) へ。そんな生活を目指して、目下妻子を説得中だとか。(田中勝之 9月「希望砦の森から」報告者)


地平線ポストから
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ポストその1 こんにちは、
7月の報告会では、旧満州、台湾、北朝鮮、韓国、ミクロネシア、サハリン(旧樺太)、竹島の旅の話をしました。あのとき、「北方領土へ行く」と予告しましたが、旅が実現したので投稿させていただきます。10月20日、サハリンに到着してから4日待って船に乗り2日。それだけ日にちをかけて行ったので到着した国後島が地の果てのように思えました。ですが島を歩いてみて日本との近さを実感しました。野付半島や知床半島がはっきりと見えましたし、携帯電話がクリアに通じたのです。

◆2000年1月から断続的に続けていた日本と元日本の領土の旅はこれにて完全に幕を閉じました。ありがとうございました。(西牟田靖 11月8日付メール)


ポストその2
ほとんど、事後報告に近いですが、11月3日でドイツから完全撤収です。お土産頼みたかったのに・・・という人はごめんなさい。つい最近まで、全く時間の余裕がありませんでした。帰国後は、活動場所になるアトリエを探し、本格的に活動するつもりです。でも、とりあえずは帰ってからゆっくり食欲の秋でも満喫しようと思います。日本到着は、11月の半ばの予定です。また寄り道です。今回はニューオーリンズです。それでは、日本で会いましょう!(前田歩未 ドイツで本格的「木のおもちゃ」作家デビュー)


ポストその3 <太鼓の国際交流>
こんにちは!10月31日、晴海でおこなわれた「江戸開府400周年食の祭典」というイベントに呼んでいただき、和太鼓の演奏をしてきました。金曜日だったので社会人組は会社を休んでの参加でした(東京は江戸川区の埋立地、葛西にそびえる「なぎさニュータウン」という白い団地が私の地元で、「なぎさ太鼓」という太鼓チームに小学生の時から参加しているのです。

◆ある日住民の男性が「なぎさに足りないのは夏の太鼓だけだ!」と衝動で発言、またたくまに「なぎさ太鼓」が誕生しました。当初の会員は、飲み仲間のお父さんたちとその子供たち。そこから芋づる式に太鼓の輪が広がっていったのです。はじめは、太鼓のたたきかたも知らず、肝心の太鼓もない状態でしたから、近所から先生をお招きし、車の古タイヤの穴の部分にゴムを張った仮想太鼓を作ってのスタートでした。ばちはタイヤをたたいた結果真っ黒くなり、結局使い物にならなくなってしまいました。

◆その後、工芸好きの住民の方々の協力を得て、貰って来たワイン樽にニスを塗り皮を張って太鼓を手作りするなど、創意工夫の連続でした。かつては一個しかなかった太鼓が今では数十個に増え、会員は現在大人子供あわせると40人ほどいると思います。

◆最近のニュースはといえば、ン百万円の大太鼓が我がなぎさ太鼓にやってきたこと。霊感のある人によると、この太鼓にはどうやら風神様と雷神様が守り神としてついているそうで、実際この太鼓が来て以来大きな出演依頼が次々と舞い込むようになりました。

◆今月はフランス・イギリス・ドイツ・イタリア・スイスなど西欧州の各国から11月14日と28日の二度にわけて、それぞれ30名の若者が来日し、外務省の依頼で一緒に太鼓をたたくことに。その後は江戸川の河川敷でディズニーランドの豪華絢爛な花火を見物、最後は日本酒でフェアウェルパーティーの予定です。

◆来月は幕張メッセでセミコンジャパンのオープニングをつとめます。だんだん世界のお客さんの前での演奏の機会が増えてきました。来年にはトルコにおよばれしています、素敵でしょう。!どどんがどがどが。

◆毎夏の地元の納涼祭でたたく時はやさしいお母さんに守られている気分、海外の人達を前にしてたたくときは日本の文化を武器に挑む気分、どちらも一度味わうと病みつきになります・・・。なにはともあれ、今は大太鼓の借金返済のため、ドサ回り(?!)に奮闘中。

◆みんな飲兵衛なので、なかなかお金がたまらない・・・。まあ気長に。余談ですが、私たちの組太鼓(音楽を使わず、太鼓だけで演奏)の曲名は全部お酒の名前です。菊姫、蘭麝、十四代、春霞、蔵開き、エトセトラ、エトセトラ・・・。(大西夏奈子、外語大モンゴル科4年、このところ報告会皆勤)



知力と恋をかけた
奥多摩一周山岳耐久レース!!

 10月25、26日にかけて行われた奥多摩一周山岳耐久レースで、地平線会議の若手が大健闘した。体力あれば知力はついてくる、を思想とする「体力即知力学会」(三輪主彦会長、江本嘉伸主事)の呼びかけに幻惑され大枚9000円の参加費を払って参集したのは、松尾直樹、菊地由美子、鈴木博子、尾崎理子、藤岡啓(松尾の高校時代の友人の早大生)の5人。平均年齢25才、普段の暮らし振りはアスリートとは程遠く、山岳耐久レースのことなど半年前には頭の片隅にもなかったが、8月頃からあちこちの尾根でトレーニングをはじめ、少しずつ「山の民」に。
 結果、トレーニングのやりすぎで膝を痛め、無念にも出走を取りやめた松尾以外は、全員が「フルマラソンより3倍過酷」な山のレースに参加、愛知県から駆けつけた鈴木博子は、なんと「15時間10分」で「10~20代女子の部」で3位に入賞してしまった。学会長の三輪も15時間53分と、さすがの実力。藤岡18時間33分、菊地、江本も、設定通り21時間台でゴールするという。膝の痛みで松尾同様、不参加を表明していた尾崎は当日どうしても出走したくなり、22.6キロ地点の「第1関門」まで頑張った。以下、フロントを書いた菊地に続き、地平線アスリートたちの一言。

◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

■始まる前までは緊張して、夜も寝られないくらい不安でしたが、無事完走できました。それも皆で励まし合ったおかげかと思っています。そして江本さんの厳しいお言葉があったからかと(笑)

◆軽いジョギングは19歳の時からずっと続けており、最初、密かに完走するだけは自信があったのですが、一度江本さんと山に行ったとき、山を走る事の厳しさに自分の甘さを思い知らされ、完走の自信をなくし、それから今までのトレーニングを少し改善したのです。

◆「階段がいい」と言われ階段ダッシュをし、リュックを背負っての坂ジョグ、筋トレ、”コンチクショウ””負けてたまるか”と自分と戦いながら週100kmくらい走っていました。その結果膝を痛めたのですが、それも忘れることにして、地道に頑張っちゃいました。そして皆の練習報告も刺激になりました。

◆本当にやって良かったと今も感慨深い気持ちで、ゴール時点から微妙に続く興奮状態のままでいます。人が頑張っている姿を見ること、ゴールしてくる人の汚いのだけど、かっこいい顔を見ていると人の力の無限大さに感動して心がいっぱいになってしまいます。

◆皆で頑張れたとこ、同じ事に意味の無いこと、別に好き好んでやらなくても良いことをやったこと、本当はすごく意味のあることのように思えて仕方ありません。(鈴木博子)


■第一関門途中で三輪さんを颯爽に抜き去り、いい感じだなあと思っていたら、夜になって激しく失速。揺れるヘッドランプの明かりを見ているうちに、ヘッドランプ酔いを起こし、暗ーい山の中で気分もダウナーになってしまい、第二関門以降は走る気も起きず、トボトボ歩いてました……。

◆更に困ったことに脱水症状が発生。前から人より水分を摂る質と自覚してはいましたが、水を呷った一分後にはもう喉が渇いて仕方が無い。もはやタイム云々よりも、持参した3リットルのアクエリアスをいかに月夜見山まで持たせるかに神経をすり減らしていました。ゼリーや飴で口中をごまかしながら、頭の中は「水、水、水、水」の一念のみ。突然ヘッドランプの電池ホルダーが吹っ飛び、スプリングが闇の中に消えてしまったり、気が付けば歩数計がなくなっていたりというアクシデントに落ち込みながら、ふらふらで御岳山にたどり着き・・・それでも自分の中では20時間内に完走できれば御の字だったので、それなりに満足しています。(藤岡啓)


■珍しく後方から出ていったので、今熊山の登りや、入山峠の階段で結構待ち合わせ時間がかかりました。遅れを取り戻すべく、急ぎで下ったら、岩の上で滑って、腰と腕を打ちました。腕は10ほどの擦過傷で、かなりひどく腫れました。このショックで、第一関門で止める決心をしました。江本さんの「三輪さんは、気まぐれで、リタイヤ」の予想が本当になるところでした。そうきめたら気分が楽になり、景色を眺める余裕が出ました。三国峠ではすばらしい夕焼けが見え、富士山のシルエットがみごとでした。

◆ふだんよりも1時間近く遅く第一関門の浅間峠に着きました。ここで荷物を下ろし、おにぎりを食べて、下ろうとしていたら、鉄人中山さんがボランティアをやっており、なんとなく行かなければいけない雰囲気になってしまいました。腕は思ったよりも腫れてきたので、中山さんに「止める理由があるよね」と言ったら、「大丈夫ですよ」あんまり同情心がありません。

◆ここで止めたらかっこ悪いと思い直し、腰を上げました。浅間峠に着くだいぶ前に藤岡くんがニヤッと笑って抜いていきました。先週彼の強靱な走りを見て、もう私の時代ではないと感じていました。(以下次第に本来のペースで飛ばしはじめるくだりは、略。三輪主彦)


■膝を痛めて出場を諦めていたのに急に思い直し出場して色んな意味で正解でした。ここ一ヶ月、運動らしきものといえば、駅までの自転車のみだったので予想以上に体力が落ちていて自分でも驚きました。今熊山でもうバテバテ。足は上がらないし、膝をかばって他の個所まで痛み出して最悪でしたが、最後の3キロほどで女性最高齢 (71) の大山さんとおっしゃる女性とご一緒させてもらいました。彼女はゆっくりながらもしっかりした足取りで、ボロボロ足の私は気を抜けば置いて行かれる始末。彼女の後ろを歩きながら「自分がこの歳になったときに、こんなレースにチャレンジしようと思えるかしら?」など色々考えて。第一関門には一緒に到着。その後、「さあいきましょう」と声をかけられ、私はリタイアすると答えると「あらぁ、制限時間ギリギリでもいいじゃない、せっかくだから行きましょうよ」と、独特の柔らかい喋り方で語りかけられ「行きます!」って言いたいのに言えない自分が情けなくて泣きそうになるのを必死でがまんして、膝が痛いことを説明したら「じゃ、来年あいましょうね」とお別れの言葉を残して次の目標、三頭山へ向かわれました。うーん、上手く説明出来ませんが、なんだかとても、うーーん。(尾崎理子)


■やっぱり、ほら、あれですな。盛夏8月、絶妙のタイミングで失恋したのが痛かったですなぁ。

◆その後数週間、憂鬱の全てを自己の肉体に叩き付けてがむしゃらに筋トレすることしばし。10分筋トレして汗が噴き出し疲れ果て、1時間休んで汗が引くと再び10分筋トレ。それを半日。大腿四頭筋が膨れあがる。三角筋が汗に照かる。明らかにやりすぎ。そりゃーあなた、膝が壊れることだってあろうってもんでして。

◆膝が壊れて更に自暴自棄になり、毎日の腕立て回数を一気に20回増やして、今度は手首を壊しかけるに及んで、ようやく理性回復。さて、この隆々たる筋肉を無駄に鈍らせるのは、勿体ないですな。(松尾直樹)


■はじめて、中間点の三頭山をはさんで前半、後半を同じタイムで行くという「大人の走り」を完成させた。(これまでは、バテバテで前半よりラクなはずの後半に3時間も余計にかかっていた)。これは、9回も出走してきたベテランの、知的な成果というべきであろう。よくトレーニングしながら故障、大事をとって出走取りやめた松尾の無念は想像できるが、的確、勇気ある判断をした。身体を壊してまでやることでは、ないな。それにしても、師の陰を一瞬も踏むことなく駆け抜けた鈴木博子は、なんつうか、ひどい。(江本嘉伸)


◆◆◆ 山岳耐久24時間・今回のコース ◆◆◆
 五日市庁舎前 (標高170m) スタート - 今熊神社(506m) - 市道山 (775m) - 醍醐丸 (867m) - 生藤山(990m)-浅間峠(860m 22.6km地点、第1関門)- 土俵岳(1005m)-西原峠(1158m)-三頭山(1527m 36km=コース最高地点兼中間地点)-鞘口峠(1140m) - 月夜見山周回道路 (1147m 42km地点第2関門) - 御前山 (1405m) - 大ダワ (1050m) -大岳山 (1266m) - 御岳山 (929m 58km地点、第3関門) - 日の出山 (902m) - 金比羅山 (468m) - 五日市庁舎前 (170m) ゴール (合計71・5km)



山岳科学フォーラム
スケジュール

第1日(11月22日土曜日)

◆12:00 受付

◆13:00 開会セレモニー

◆13:20 第1セッション「わが国の登山文化」
 講演「近代の山・人・文学」近藤信行(作家)
 対談「登山と書物」
  小谷隆一・和田敦彦(信州大学人文学部)
 パネル討論「わが国の登山文化」
  近藤信行 小谷隆一 菊地俊朗 笹本正治 
  司会・和田敦彦

◆17:30 レセプション

第2日(11月23日祝日)

◆ 9:00 第2セッション「登山と山岳環境」
 講演「登山者の見た山の環境」大蔵喜福
 講演「山の環境保全」小泉武栄 (東京学芸大学)
 パネル討論「登山と山岳環境の将来」
  大蔵喜福 小泉武栄 土田勝義 中村浩
  司会 中村寛志

◆13:00 第3セッション「登山の将来」
 チルドレン・フォーラム「学校登山で学んだこと」
  信州の子供たち
 講演「中高年の安全登山」
  田中文男(日本山岳協会会長)
 対談「山登りが日本を救う」
  江本嘉伸・服部文祥(登山家)

◆17:00  閉会



山岳科学フォーラム

2002年の「国際山岳年」の仕事を継ぐものとして「YAMA-NET-JAPAN」を近く発足させます。その前触れを兼ねて、信州大学山岳科学総合研究所主催の山のフォーラムを開催します。「YAMA-NET-JAPAN」は「山と森」をテーマに、とりあえず今後10年、活動を続ける予定で、事務局は信州大学山岳科学総合研究所にお願いしました。遠くて参加できない方も、こうした試みのあることを知っておいてください。(江本)

 日 時:2003年11月22日(土)13時開会〜23日(祝)17時閉会
 場 所:フォーラム会場 長野県松本文化会館「国際会議室」(定員300人)
     松本市大字水汲69-2 電話:0263-34-7100
 交 通:JR松本駅前バスセンターから、路線番号6番(信州大学経由浅間温泉行)乗車、停留所
     「総合体育館」下車、すぐそば。所与時間15分、240円。
     小谷コレクション閲覧 信州大学附属図書館 (フォーラム会場から徒歩5分・当日案内あり)
 参加費無料・事前申し込み不要(直接会場へお越しになって、受付をしてください)
(詳細スケジュールは内面5ページ参照→)




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

空から見たマッケンジー河

11/28(金) 18:30〜21:00
 Nov. 2003
 ¥500
 新宿榎町地域センター(03-3202-8585)

「僕にとって、上空は“聖地”かなあ」と言うのは、“天地を結ぶ空撮作家”の多胡光純(てるよし)さん。カナダの大河に魅せられてカヌーの旅をくり返すうちに芽生えた、「この河を宙(そら)から見たい」という思い。

その夢をかなえたのは、モーター・パラグライダーでした。9ヶ月の特訓を経て、今年6月から約3ヶ月間、カヌーと新兵器を駆使してマッケンジー河空撮に挑戦。ままならぬ風の流れや、大気の「脈」にほんろうされつつも、鳥の目でしか見ることのできない、大河の顔と出会います。ヒトの視線に気付かず、ケモノ道を歩くムースの姿には、秘密をのぞいたような感動を。先住民から銃を渡され、空からの狩りを依頼されたことも。

デジタル一眼レフカメラ、キヤノンEOS-1Dsで捉えた空からの風景は、大河に生きる人々とのコミュニケーションに新たな刺激を与えます。今回の旅ではマッケンジー全流の8割、1400kmを漕破し、90回近いフライトを記録した多胡さん。今月は多胡さんの目に映った自然の絵巻物を本邦初公開して頂きます。


先月号の発送請負人 三輪主彦 藤原和枝 関根晧博 野地耕治 江本嘉伸 武田力

通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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