2003年10月の地平線通信



■10月の地平線通信・287号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙は87年10月、地平線会議に出会った。車座の会議は熱気と自由が交々(こもごも)。ぼこぼこと噴火するように女性の声、男性の声があがります。車座の中からですから誰が誰やら。それにしても卵をかかえた鮭が川の色を赤く染めながら、のぼってくる生命のエナジー。ぼーっと突っ立っていた私はあっという間に、彼らの流れにのみこまれてしまいました。

●この日以来、ぷんぷんたるフィールドの匂いにひかれて、地平線報告会に日参、いや月参りしてしまいました。そして、なんとまあ地平線会議は、とうとう20世紀を越え、21世紀に入り、この妖しげな報告会もメンメンと続いているのです。来年は300回になるというのですからまさに“地平線会議は永遠なり”です。

●冒険、探検、そして自分の足でかけるマラソンは、地平線会議メインの行動です。さて、贅肉たぷたぷ、山にも登れず、10メートルも走れないトン女に、この永遠なる地平線会議のナゾ神が“何ぞ、何ぞ”とささやいたのです。ナゾ神の啓示は『地平線会議第1回の報告会は三輪主彦さんの“アナトリア高原から”、彼は30才前半だったのー。そして24年後の先月、“二人と一匹の北極圏”を報告した田中勝之さんと千恵さんも30代前半、あ、千恵さんは20代後半だね(7、8月は受信不能地帯におりましたので飛びます)、6月荒野の自転車野郎、安東浩正さんも30代、冒険家、探検家、まさに旬の人たちじゃ。地平線は年輪を重ねてきたが、報告者は、若さと気鋭の面々じゃわい。勿論、年令に関係なくかくれた冒険家とも深い関係を結んでおるぞ。マラソンの中山嘉太郎さんは地平線会議報告のあと植村直己冒険賞を受けているし、地平線会議発起人のひとり、関野吉晴さんも旅の合間に報告会に駆けつけているわい。この報告者のスピリットあふれる多様性が地平線会議の秘密じゃよ』

●さて次なる何ぞ、何ぞです。毎月の報告会に、なぜビルの谷間から、ひとりひとりが駆けつけ、会場がいっぱいになるのでしょう。集まった人々は、どう変身し、どう谷間に戻るのでしょうか。ナゾの女神は、こうささやいた。『会場のスクリーンには報告者のバイクが映り、果てしないサハラ砂漠が映り、ヒマラヤの雪嶺が映り、ある時はアマゾンの、ある時はアラスカの風を背負ってきた報告者の生の声に、参加者も現地の風を聞き、世界のフィールドに立ってしまうでしょう。報告のあとは近くの公園に流れて、誰かが会費を集め缶ビールとおつまみが回ってくる、星空の下の2次会をやってましたね(編者注:アジア会館時代のことです)。最近は会場も2次会も変わりましたが、それでも不思議なことに、こうした報告者と一緒に地平線の旅を続けている皆さんは、ご先祖さまの採集狩猟の血がよみがえり、アラスカやグリーンランドのイヌイット、そして南米のインディオが無性に懐かしく、彼らと切り離せないアザラシも、ジャングルの鳥たちも身近に感じてしまうでしょう。地平線報告会は鉄筋ビルのジャングルで働く人たちに、自然を畏怖し自然界を愛するご先祖さまの血を呼び起こすのですよ。これが地平線の秘密です』

●ありがたいことに、たっぷりご先祖さまに近づいたしげ女は、しみじみ秋の夜空を仰ぎました。そうそう、今年は火星が超大接近の年、今年を上まわる接近は284年後です。「名月や ぐんぐん近づく 火星あり」ほんとはお月様も動いて両方で近づいたのだそうです。それにしてもさすがに劇的でした。今夜も大接近かな、と期待しましたが、二度あることは三度ありませんでした。天体の運行はそんなに甘くないのです。でも、この月の美しさはどうでしょう。たった6畳の部屋いっぱいに月光がさしこんで、ほんとに宇宙のようにひろがりました。
   月光を あびてもぐって 宇宙塵

●人工衛星から見るとちゃんと戦争をしているところが見えるのだそうです。地球がダメになったら火星に移る研究をしているグループもあるそうです。『青い地球 この星を大事にしないでは なにもうまくいかないよ』お先祖さまの声が聞こえてきました[地球放浪的俳人 金井重]



先月の報告会から(報告会レポート・289)
希望砦の森から〜2人と1匹の北極圏〜
田中勝之+菊地千恵+ラフカイ
2003.9.26(金) 新宿榎町地域センター

◆「久しぶりに都心に出てきたら、いろいろな情報が一気に入ってきて、エライ人にも会って頭が真っ白になってしまった」。陣場山の麓に小屋を借りて住んでいる田中さんはそう、何度も頭を掻きながら語りはじめた。

◆針葉樹の森とそこに暮す人々に憧れた。獨協大探険部に在籍していた91年、当時まだ自由に旅できなかったシベリア・レナ川の代わりとしてマッケンジー川に出会った。が、手探りのまま独りイカダを浮べ、シングルパドルで漕ぎ出すと、10kmも進まずに敢え無く沈んでしまう。「巨大な自然のプレッシャーに負けていた。精神的にも未熟だった」。

◆大学6年生になった94年に、探検部の後輩をひき込んでのリベンジ。寝食も排泄も全てここで、男2女2のイカダ暮らし。Fort Providenceからおよそ半分の行程であるTulitaまで700kmを1週間無寄港で下った。ひたすら下った。この船上生活を田中さんは、学生時代に住んでいた和室6畳のアパート暮らしと同じだった、と述懐する。ご飯をつくってTVを見て眠るだけだった、風呂なし・トイレ共同で1万9千円の自分だけの繭。できあいの食料を持ち込み、イカダを自分たちの殻とすると、岸辺の村々の暮らしはただ大きな風景として流れていくばかりだ。流れ、流され、通り過ぎる旅人としての自分たちと、土地に根を下ろして生きる人々との隔たりを詰める術を知らない。食料係のずさんな計算のおかげで食べ物が底を尽いた一週間め、はじめて岸に上がった。ここからが本当の旅のはじまりだった。

◆「土地にあるものと接触し、地べたに上がって暮してみたら、極北の地がぐっと近くなった」。薪をとったり、熊におびえたりというほんのささいなことが、またシンプルに暮す人々とのちょっとした出会いが胸に焼き付いて離れない。

◆それからの3年間は、極北の地に想いを残しながらも、都心の作家の事務所で忙しい毎日を送るばかりだった。学生時代よりはいい暮らしをしている、自分で記事も書いている、しかし―。「ここで出なければ北への想いはなくなってしまう」。明治初期にGood Hopeに渡り、土地の女性と結婚してそこで生涯を終えた日本人の足跡を追ってみよう。“もしかしたら有名になってガッポリ稼げるかも?”という甘い幻想のイカダから思い切って飛び降りた。

◆だが、村の生活は田中さんの魂には訴えかけてこなかった。2×4の家にはアメリカの衛星放送が入り、子供たちは任天堂のゲーム機で遊ぶ。日本と変わらぬ生活をしているではないか。

◆余談だが、先日、重さんもオススメの映画『氷海の伝説』を見て、そのエンドロールに大ウケしてしまった。ついさっきまで原始的な生活をしていたイヌイットの役者が長髪を後ろに束ね、皮ジャンを着て、ヘッドホンをしているノリノリの様子でちらりと登場するのだ。例えばGood Hopeの村でも、かなりの年配の方を除いてはほとんどの者が英語を話す。学校の授業も英語で行われるし、先住民の言葉は日常生活の中からどんどん失われていく…。それが現実なのだろうし、そのことに異論を唱えたいのではない。ただ、意気込んで出かけていった青年にとってはいささか拍子抜けする事実であろうことにもまた、ひどく納得する。

◆一方、94年のイカダに相乗りした千恵さんは2000年、村からは少し河口に下った流域のfish campを訪ねた。キャンバス・テントを張ってトウヒの枝を敷き詰めて寝床とし、魚を獲って暮らしている老夫婦である。それまでも牧場で働いたり、ラフティングのツアーガイドなどをしてきたという彼女ではあるが、基本的に日本で育ってきた女性が森の生活に入っていくというのは実際のところ何かと不都合も多かったのではないだろうか。

◆「物足りない感じがしないんですね」。水が必要ならまわりにたくさんある。薪もやはりいくらでもある。なによりも、肉体を使うことの充実感や、自分たちの食べる物は自分たちで得るという明確さが潔い。大自然におなかを満たされた。

◆面白いエピソードがある。ある日、森に熊の罠を仕掛けた。それも、横たえた枝にロープの輪を吊る下げただけの、なんとも頼りなさげな罠である。風にでも飛ばされたか、数日後には影も形もなくなっていた。ところが、である。2週間も経ってから、首を締め上げられ、すさまじい異臭を放つ熊がキャンプ近くで発見されたのだ。そのとき千恵さんが命じられたのは、バラバラにした熊の死体を森のあちこちに置いてくること。腕を、足を、そして頭を、そのか細い体でえいこらせ、と言われるままに運びながらも不思議でならない。“なぜこんなことをするのだろう?”その答えは自然の摂理に則って生きてきたインディアンならではの哲学にあった。これを一つの大きな塊のままとせずに分散させることによって、動物の力関係の強弱に係らずこの肉をshareできるようになる。腐らせてしまったものは仕方ない。しかし、本来ならば食べるために命を奪っているのだから、その責任は全うすべきなのだ。千恵さんはここでの生活を通して命、死、食の循環という、知識としてあった流れが身体感覚として身についたという。

◆現在は奥高尾で節約生活をしている二人は、「何もないと(その分頭を働かせるから)生活が面白くなるんだよ」と笑う。持ちすぎる束縛から解放されているかのような二人にとって、東京での日々は極北の川に戻るためのモラトリアムとしてのイカダなのかもしれない。そこから景色の移ろいを眺め、時がきたらひょいと大地に足を下ろすのだろう。今度は二人と一匹の家族としてだ。

◆会場では、地平線会議が生まれた24年前にマッケンジーを下った獨協大探険部OBの河村安彦さんが密かに胸を熱くし、報告会終了後、参加者たちには、夫妻がマッケンジーから連れてきた愛犬、ラフカイと会場の外で対面するという、素晴らしい“おまけ”が待っていた。[貧乏社会人暮らし1年生、菊地由美子]



地平線ポストから
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●河村安彦さん(第46回報告者)から…つくば市発

◆前回の地平線通信で久しぶりに浅野君の手紙を読み、今回訪ねてみようかと思ったその企画がマッケンジー河、それもなつかしいフォート・グットホープを中心に活動されている田中さんご夫婦のお話を聴けるとあって万難を排して参加しました。同じ大学の後輩が同じマッケンジー川に魅了され何回も通いつめる、そんな姿を見てみたいとも思いました。

◆確か二回目のマッケンジー河の川くだりで偶然再会したインディアン一家の主人アンドレーが“お前はマッケンジーに魅了された。何回もマッケンジーを訪れてそしてそこを最後の目的地にするであろう”と、なんとも自分にとってありがたい言葉をくれたことがあります。自分の心の中で少なくとも2年に一度は定期的にこの地を訪れるものと思っていました。が、83年に新婚旅行で訪れて以来ご無沙汰になってしまいました。

◆そこにこの報告会です。村の上空から上流に向かって映したスライドは1978年、荒天で北西風の吹き荒れる中パドルが空を切る三角波を必至になって下ったランパート急流を望むことが出来、一気にそのときの光景がありありと脳裏に浮かび上がってきました。滞在されたキャンプも位置関係と写真からの姿から私がバーニックの作り方を教わったご夫婦ではないかと人様の報告会の中で一人熱くなって聴いていました。田中さんの話を思い出し又、過去の写真を引っ張り出して眺めてみようかとも思っています。

◆近況です。6年ぐらい前まで、毎年正月の北上川下りを行なっていましたが、メンバーの都合がつかず、いつしかここ数年漕いでいません。いずれまた再開したいと思いつつ、最近はもっぱら会津の小屋を中心に伊那川水系の川下りと山スキーでストレスの解消をしています。そうだ、黒クマ肉が美味いという話がありましたが、我が小屋の土地の持ち主が数年前までクマ撃ちをしており、時々分けていただいていました。私もマッケンジーでその味を知っていたのでありがたく頂戴して食していました。此処に日本風クマ肉レシピを記します。クマ肉を食べる機会がある方はぜひメニューを披露してみてはいかが…白いご飯と日本酒が合いますよ!!

◆材料 クマ肉・ごぼう・人参・大根・サトイモ・酒・醤油・味醂 ごぼうが無いとあまりおいしくありません。1)クマ肉・・そのままでは灰汁が強いので軽く湯がいて灰汁をゆでこぼす。2)1 と人参、ごぼう、大根を水と酒半々で充分に灰汁を取りながらゆで、醤油・味醂(多め)をいれ、サトイモを放り込み更にぐつぐつ煮る。ぐつぐつぐつ…!! 嗚呼、よだれが出てきましたよ。また報告会にお伺いいたします。


●鰐淵渉さんから…2003.10.4…大阪府堺市発…南から北へ、日本徒歩縦断中

◆こんにちは、鰐淵です。すっかり秋の気配となりましたが、お変りありませんか? さて10月3日・午後12時40分、長崎の日本本土最西端・神崎鼻を出発してから50日。約1402km、202万5890歩を歩き切り、無事大阪の我が家に到着しました。日本徒歩縦断の旅も、前半戦が無事終了です。でもまだ旅の1/3が終わっただけです。

◆このあと冬の装備を整え、再び日本本土最東端の北海道・納沙布岬に向けて、僕は旅立ちます。帰宅予定は来年2月を予定しています。また笑顔でお会いできるよう、がんばってきます!

●以下は8月13日出発時のメール

◆なぜ逆の、しかも西から東へと歩いていくのか? 実現のしやすさも併せてみれば、北〜南のルートの方が現実的かもしれません。でもそれだからこそ多くの人々が挑戦しているし、どうせならばあまりやらないようなルートを自分は取りたい!冬の北海道にチャレンジをするのも、そこからきています。自分の日常では考える事のできない世界に飛び込んでみたいのです! 更にまるっきり逆のルートで歩いていく事で、今まで多くの徒歩旅挑戦者が出会う事のなかった世界に出会い、発見する事ができるのではないかと、そしてそれが自分の物事を見つめ考える心の成長に、少しでも役に立つのではないだろうかと思ったからです。まあ、自分自身のアマノジャクな性格もあるのですが…。


●松田仁志さんから…2003.9.29…大阪府枚方市発…地平線会議きってのスピード・ランナー、高橋尚子と「東京国際女子マラソン」を走る??

◆ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、今年の東京国際女子マラソンは25回記念大会ということで、市民マラソンの部が設けられています。申込者が多数の場合は記録を優先して選考するとのことでしたので、申し込みはしたものの、出場できるかどうか心配だったのですが、『厳正な選考の結果、ご出場いただけることになりました』という通知を受け取ることができました。

◆東京のコースはかねてより一度は走ってみたいと思っていましたので、別大マラソン以来久しぶりに、期待でワクワクしています。

◆高橋尚子選手をはじめとするトップ集団とコース上ですれ違うことができるのかと思うと、こんなよろこびは滅多に味わえるものではありません。準備期間が十分には取れないので、あせって練習量を増やし過ぎて故障したりしないように、十分注意してレースに備えたいと思っています。



編集長独白

チベットに消えた学僧、能海寛を記念する100キロマラソンが2004年10月に行われることになり、それに先駆けてこの10月11日、その試走会が島根県の能海寛の故郷で催された。参加は、17人。能海寛のこととあってはやむなし、と江本嘉伸もことし2度目の100キロに挑戦。制限時間内で完走したかどうか、定かでない。




■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

縄紋山男ヒダカ自給山行

10/24(金) 18:30〜21:00
 Oct. 2003
 ¥500
 新宿榎町地域センター(03-3202-8585)

6年にK2登頂を果たした服部文祥さんは、多勢のポーターに荷物を持たせてピークを目指す山行に首をかしげました。

なれば、当たり前のように利用している登山道だって、ヒト様の作ったものと思い当る。日本の山ならの食材も豊富。沢を遡行し、ヤブをこぎながら、本当の意味でオリジナルな山行ができるのでは? 「山男は頂上を踏むのが前提だけど、山域全体を歩くアプローチも考えられる方が楽しいですね」と服部さん。

自然環境が濃い、北海道日高山脈全山重層を目標に設定。米と調味料のほかわずかの携行食で、この8月2日入山。予定より3日遅れの24日間で下山しました。イワナやオショロコマを釣り、焚火で調理する毎日。山中で出会った地質調査隊がめぐんでくれた菓子パンが、胃に刺激的でした。台風で川床を転がる大岩の音に眠れぬ夜もあったけど、「思ったより大変じゃなかった」とか。

服部的サバイバル登山術に耳を傾けませう!


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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