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■4月の地平線通信・269号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
考えすぎるな、まず動け、結果はあとからついてくる。
●地平線会議と関わり始めた 20 年ほど前、地平線会議の御大たちはそう言って就職した僕をなじった。サハラやオーストラリアなど真夏の砂漠をバイクで旅した人間の就職は意外だったようだ。
●そして1年半後、今度は退職すると、御大たちは「樫田君、そうでなきゃいけないよ!」と無責任に喜んだ。この無責任さがたまらない。
●その後はソマリアでのNGO活動やオーストラリアの平原徒歩横断などで 20 代が終わるが、大きな転機は 1989 年の 30 歳。たった一度の滞在のつもりで訪れたマレーシア・ボルネオ島のサラワク州の熱帯雨林で見事にはまってしまった。
●マスコミや一部NGOの「森林伐採で先住民は絶望している」とのエセ情報を信じていたが、事実は逆だった。状況が厳しいからこそ人は立ち上がり、逮捕され潰されても笑う。裏切られても人を裏切らず、傷つけられても人には徹底して優しい。人間の限界のない明るさと逞しさにどっぷり浸かっていると、取材やら調査やらはどうでもよくなる。ただ好きだから行く。年に2〜3回のペースで現地を訪れた。すると、執筆や現地ガイドの依頼がマスコミから舞い込んだ。なるほど、結果はあとからついてきた。
●ところが、93年、僕は現地政府から強制立ち退きを喰らう。その後は、日本国内での取材活動や、某雑誌でのルポに関する受賞などそれなりに充実した日々を送っていた。だが、時折フと、オレの一番やりたいことはこれじゃないとの思いが湧きあがる。
●5年以上たって「サラワクに戻ろう」と決意した。追放されたらされたでいい。自分の意思で、最後でもいいから、あの地を訪れ、世話になった人々に「オレは元気だよ」と言いたかった。
●だがどうやって? しかし、強く「やる」と決めたときは不思議と助け舟が現れる。現地の知人から安全・合法な入州指南があったのだ。そして、99年春、無事サラワクに入州すると、懐かしの再会を幾度と重ね、生涯最高の旅を味わった。
●さてもう一つ。ここ何年ずっと、サラワク以外に何度でも通えるほどに惚れ込める場所に出会えないものかと考えていた。だが、どこの国に行っても再訪に至るに魅了されることはなかった。
●昨年末。かつてその一員としてソマリアで活動したJVC(日本国際ボランティアセンター)の事務所で、アフガニスタンで業務提携した現地NGOが送ってきた写真を見せてもらった。日本では決して報道されない映像の数々・・。思わず「オレ、行こうかな」と思った。だが金がない。現地ではガイド料が一日5万円前後に高騰しているそうな (どっひゃ〜) 。危険情報も山と溢れていた。だが「行く」と決めた。
●すると、3つの出版社が次々と資金提供を申し出てくれた。また、元JVCスタッフであること、さらに、JVC代表もひそかに「カシダを頼む」と連絡してくれたなどで、現地NGOの手厚い協力で、1月中旬、最低1週間以上は待つと言われたアフガン入国も1日待っただけ。実に安全・スムーズな取材を確保できたのだ。
●そして、何もかにもゼロからのスタートのアフガニスタン。これが実に魅力的だった。今度こそ幸せになるぞという叫びにも似た願いをもち、貧しくとも礼節と誇りを忘れない人々との出会いは僕を惚れ込めさせた。何度でもここに・・・と魅了される地域と再び巡り合えたのだ。
●「やると決めてやる」ことと「やり続けること」が運を呼ぶことを改めて実感した最近だった。どんな行動であれ、一番大切なのは、天から授かった自分の時間を自分の意思で決めた自分の行動で埋めていくことに尽きると思う。
●ということで、またアフガンに行きたいなあとボンヤリ考えていると、この原稿を書く数時間前、JVCから電話がきた――「2ヶ月ほどアフガンに行かない?」。これだから人生は面白い。(樫田秀樹)
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金井重 |
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◆話がうまいとの前評判を訊いて顔を出した3月の報告会、グレートジャーニーの放送後とあって、普段はあまり見かけない親子連れの方や高校生の少女も参加していた。金井重さんの報告はスライドこそ無かったが、そうした初めての方にも親しみやすい会だったのではないだろうか。
◆「しげ節」は前評判以上という印象を受けた。話の展開が巧みなだけでなく、一単語の発音までプロのそれである。地平線の報告者は必ずしも大勢に話をするプロではない。それがまたマスメディアにはない、旅人が見聞きした当地の事を演出抜き、ロマンス抜きで伝える地平線の良さでもある(GJはかなり抑制が効いているが、やはりTVというメディアの性格上、センシブルな範囲内ではあるが演出が入るのは避け難い)のだが、いかんせん聞き難いこともある。その点「しげ節」は間違いなく「聞かせるための語り」であり「聞きたくなる語り」であった。
◆前半は最近の旅の軌跡が語られた。ひょいひょい飛び出す冗談の上に、地名を片端から忘れてみたり、そこに江本氏が突っ込み、三輪氏が混ぜ返しといった調子で、暢気で楽しい報告だ。「予定通りに行かなくてもネ、気にしないんです。私もう悟ってるんですネ。これ、大変なコトなのよォ」こんな調子である。
◆冗談交りの暢気な調子そのままで、後半は重さんの宗教について思うところが語られた。文字以外の要素が重要な重さんの語りを、敢えて少ない文字数で乱暴にまとめれば、次のようになるだろう。
◆「無神論・科学万能はやめて、目に見えるものと見えないもののバランスをとっていこう。そしてこれからは教義だ民族だではなく、誰もが当たり前にもっている『命』に信仰の対象を見出す生命信仰が必要だ。教団なんて各々が自分の教団を作ればいい」
◆これほど明確なメッセージをもった報告は私の記憶にはない。そしてメッセージを受け取った以上は、受け手の我々は何らかの反応をすべきではないだろうか。「しげ節が面白いなあ、百以上の国を回るなんて凄いなあ」でも良いが、賛成・疑問どちらでも良いから、皆さんそれぞれに考えてみると良いと思う。
◆かく言う私自身の考えだが、基本的には重さんに全く同感である。誰もが命の尊さを心が震えるほどに感じ、尊重しあえれば悲しい争いは随分少なくなろう。しかし、人間の目標は生きる事だけではない。ある者は心が震えるほどに、ある思想に強く染まり、命より思想を信仰するようになる。そうした人に生命信仰だと語っても、なかなか埒が開くまい。また個々人で素朴な宗教心を持つのは昔からの理想だが、実際には人間は自然と徒党を組むものだ。教団組織も民族も人間の性質から自然と生じてしまう面がある。自由気ままな旅人が考えるほど、宗教や民族の問題は簡単にはいかない。そうした宗教の実態を、もっと現実に即して捉え、アプローチしていく必要があると思う。
◆宗教を変えてテロ・戦争を根絶するよりは、宗教は変えがたいものとして、それを前提としてもテロ・戦争が起こらないように、困難な模索を続ける事こそが必要ではないかと私は思う。
◆と、こんな感じで各々がいろいろな事を考えるわけだが、そうして考え出した事が、本当に正しいとも限らない。平和はそう簡単には手に入らない。手に入らないからこそ貴重なのであり、平和団体はデモ行進をするのであり、地平線会議はせっせとイスラム特集を組み、重さんは「しげ教」の話をし、私はそれを議論のネタにするのである。賛成も反対も、冗談話も真面目な議論も、地平線的ごった煮でワイワイやっていければと思う。楽しいしげ節、また聞きたくなる報告会であった。(マックを駆使する哲学志望の東大生、松尾直樹)
【決意表明宣言その2 アラスカレポート】安東浩正
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◆去年の地平線通信61号に決意表明その一「飛行機野郎への挑戦」と題して一筆書かせていただきました。それから早いもので8ヵ月、地球をうろついていて報告会にすっかりご無沙汰でしたが、久しぶりに顔を出したら聞かれるのは飛行機ライセンス取ったか? ということばかり。実はまだたったの 25 時間しか飛んでいません。集中して勉強すればいいのだけれど、あいかわらず自転車で旅に出たりしているとなかなか取れないです。
◆さて、チベットを中心にアジアを旅してきたぼくですが、最近は北米大陸に活動の場を広げました。2月にはオーロラツーリングと称し厳冬のアラスカを自転車で走りました。夏は多くの観光客で入域者数制限されるほどのデナリ国立公園も、冬は完全なる静寂の世界でした。なにしろ公園内に一週間滞在して、出会った生物はカリブーの群れとレッドフォックス一匹、人間はぼくだけでした。おかげでオーロラも独り占めです。
◆わざわざ厳しい季節や通常困難と思われるルートを走る自転車旅行のカテゴリーを欧米ではエクストリームツーリングと呼びます。登山でいうところのバリエーションでしょうか。夏なら快適なのに、わざわざ凍てつく厳冬期に走るなんて世間から見ると大馬鹿者なのですが、欧米にはそういったサイクリトもぼちぼちいます。日本で冬専門でやっているのはぼくと田中幹也さんくらいでしょうか。
◆アラスカのフェアバンクスに移住している日本人は個性豊かな人が多いようです。南極旅行家として知られる舟津圭三さんと吉川謙二さんの両名共にこの極北の地に住んでいるくらいですから。なんでもアラスカでなってはいけない職業は、ブッシュパイロットとマッシャー(犬そり使い)なのだそうです。マッシャーである舟津さん自らが言っているのだから間違いないでしょう。そんなアラスカに魅せられて、再び3ヶ月ほど出かけてきます。「北極海から北米最高峰へ」をテーマにプルドーベイを自転車で出発して、継続して植村直己の魂の生きる山マッキンリーに登ってきます。
◆本当はそのあとブッシュパイロットになるべくアラスカで飛行訓練の続きをやろうと思っていましたが、次の冬にぼくのやり残したユーラシア大陸自転車ツーリング最後の課題をやっつけるべく、飛行機の方は後回しです。また通信でお知らせしたいと思いますが、この旅行は 1995 年冬のチベット高原単独自転車横断以来のちょっとした挑戦になるでしょう。どうしても今その秘密のルートを知りたい人は、ぼくのウェブサイトの隠しページで、地平線ファンのあなたにだけそっとお知らせします。(そんなもったいぶるほどのものでもないけど・・・)
www.tim.hiho.ne.jp/andow/project/
その他にも梅里雪山登山調査報告書など盛りだくさんのページです。
◆えっ!決意表明その一のパイロットの方はどうするのかだって? とりあえず大空は逃げてゆきやしません。なにしろ飛行機はぼくにとって一生の課題だから急ぐ必要はないのです。いつか皆さんを空へとご招待させていただきます。すでにロスからラスベガスまでのギャンブルツアーにぼくのフライトを使いたいという無謀な予約も頂いております。この申し出そのものが立派な地平線的な試みといえるかもしれません。
◆余談ですが、ぼくの本である「チベットの白き道」の中国語版「荒野的軸心」が出版されました。台湾や香港の書店で絶賛発売中です。両方読み比べると中国語勉強のテキストになるかも。
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〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方 E-mail : / Fax: 03-3359-7907(江本) |
茂木町発(4月1日 丸山富美)
◆この春、奥会津の伊南村から栃木県の茂木町 (もてぎ ) へ移ってまいりました。丸山富美です。地平線通信を手に取られている方々、こんにちは。本日 (4月1日)、村の建設会社の小さなバスに荷物を詰め込み、大勢の村人から授かった沢山の「手みやげ」と共に、ここ茂木町へやってきました。
◆周辺の山々にまだ雪の残る伊南村を出発し、車に乗ること3時間あまり・・・道中目にする桜や新緑、温かい陽差しに感激しながら新天地に到着しました。新しい仕事場所は、サーキット場に隣接する雑木林。そこをベースにしながら那珂川や周辺の森や田圃を生かして野外教育のプログラムを創ります。同時に地域 (茂木 ) の人たちと関わりながら地元の自然を生かした技や智恵、食をテーマに「人が集まる」企画を展開していくことが私の仕事となりそうです。
◆奥会津伊南村の2年半の暮らしが、更に磨かれるような時間を創りたいと思っています。願わくば、この町の人々との地平線報告会も開催したいなあと思っています・・・どんなテーマがいいですか?何かアイデアがあればぜひご連絡下さい、そしてお近くにお越しの際はぜひお立ち寄り下さいね!
まるやまふみ【仕事場:ツインリンクもてぎ HELLO WOODS 栃木県芳賀郡茂木町檜山120-1
E-mail:(4月4日 今もまだ段ボールに囲まれている丸山富美)
マルタ島発(4月1日 滝野沢優子)
◆お久しぶりです。やっと日本語が打てました。私たちはマルタに来ています。
◆イタリアの南に浮かぶ島ですが、意外と寒いです。3日目の今日は晴れて暖かかったけど、曇っていると寒くてストーブも必要です。シチリア島も寒かったけど、ギリシャを出てからずっと天気が悪くてバイクにはつらいです。物価も高いし。
◆マルタでは初日からトラブルでした。バイクのグリーンカードがないためにバイクだけ税関にあずけています。もちろん保険会社に行けばいいのですが、運悪くイースターで3日間休み。明日なんとかなりそうですが。イースターのせいでホテルはフルだったし、バイクもなく初日はテントも寝袋もない野宿をするはめになりました。つらい。
◆ここはリゾートです。お年寄りが多いです。英連邦なので英語が通じるし、左側通行です。ガイドブックもなく予備知識がまったくなかったのでびっくりです。日本人留学生も多いそうです。
◆それにしても、物価が高い。物価のやすい国が懐かしいです。早く東欧に行きたい! それでは、また。
(マルタ島から、4月1日、滝野沢優子)
【はみだし情報】
速報!樫田氏、ついに結婚、お相手はやはり看護婦!四万十の山田高司氏も昨年すでに・・・。
【河野兵市さんの記念碑、レゾリュートに】
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昨年5月北極海で帰らぬ人となった河野兵市さんの英文記念碑が出来あがり、4月末、現地に設置するため順子夫人、愛媛県の支援者たちが北極探検の基地、レゾリュートに向かう。以下、碑文の日本語訳。
〈Hyoichi Kohno Reaching Home; From the North Pole to Japan
1997年5月、河野兵市氏は、単独徒歩による北極点到達を成し遂げた日本人初の冒険家となった。
2001年3月、河野氏は、鮭が生まれた河をめざすように故郷に還る旅、「リーチング・ホーム」をスタートさせた。この壮大なプロジェクトは6年の歳月をかけ、北極点から生まれ故郷の日本国愛媛県瀬戸町まで、約15,000キロを徒歩により踏破するというものであった。
旅の最中、河野氏は衛星を介した位置情報発信機を使って連絡を取っていたが、2001年5月16日、北緯83度56分、西経74度55分のデータメッセージを最後に消息を絶った。5月23日、北緯83度49分、西経74度49分の地点で河野氏の遺体が発見・回収された。
この記念碑には、河野氏を愛しサポートした者達の、彼の冒険精神が忘れ去られることのないようにという願いが込められている。私たちは、レゾリュート市民、捜索に協力してくれたファースト・エア、カナダ空軍およびロイヤル・カナディアン・マウンテッド・ポリス、そして遺体の回収にあたった勇気ある6名の地元市民に心からの感謝を捧げる。そして、「リーチング・ホーム」に貢献したすべての人々に感謝の意を表し、ここに記念碑を建立する。
河野氏の冥福を祈って。 河野兵市遠征隊 2002年5月〉
ルーシーの世界地図 4/26(金) 18:30〜21:00
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郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
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