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■2月の地平線通信・267号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
2月12日は、毎年私にとって少し特別な日である。ことしは昼頃、リリリ、リリリ‥、と携帯電話が鳴った。アフリカからだった。「関野です。無事着きました‥」 うへええ‥!1993年12月5日、南米最南端のナバリーノ島を出発してから8年、関野吉晴がついにアフリカのラエトリにゴールし、一息ついてからケータイ電話してくれたのだった。すでに東京から駆けつけた応援団と報道関係者は帰り、サポートに徹した白根全だけが残っている、という(例年長距離電話でリオその他カーニバルの現場から実況中継をしてくれるカーニバル評論家の白根は、今年だけはアフリカでその日を迎えた)。
●すごくいいゴールだったらしい。「最後の三日間は、タンザニアの国立公園をヌーやキリンの群を眺めながら(自転車で)自由に走れたのが実によかった」勿論、普通ならあり得ないことだが、グレートジャーニーの経緯を理解した当局が特別に許可してくれたようだ。ゴールしたいまの感想は?と、凡庸なことを聞くと「まず、やれやれ、っていう気持ち。そして、小さなことを積み重ねていけば最後には目的を達するんだ、ということですね」。さらに「現地の人、支援してくれた友人たち、いろんな人たちに支えられて自分は幸福なやつだ、とつくづく思う」、と続けた。
●準備期間をいれると、かれこれ10年になる。53才になった関野氏の体力と粘りに感心し、ついでに時間の速さを思い知った。グレートジャーニーのゴールは、まだまだ先なんじゃないか、とどこかで勝手に思っていたのだ。
●そうしたら、ケータイ電話の向うで、本人が「グレートジャーニーは、まだ終わっていないです」、と言いはじめた。なんと、まだやる気らしい。「日本人はどこから来たのか」、というようなテーマで北方ルート、中国ルート、そして南太平洋ルートの三つを考えているそうである。これまた長期戦の計画だ。「グレートジャーニーがほんとうに終わるわけではなさそう」と、ゴールのラエトリまで出迎えに行かなかった家族の気持ちがわかる気がしてきた。
●同時に、関野吉晴には4月からは武蔵野美大教授として、これまでの自分のフィールドワークを学生たちに伝える新たな仕事が待っている。かってアマゾン通いを重ねるうち、住民たちの役に立つ医師になりたくなり、横浜市大医学部に入って医師資格を取得したことがあるが、今度は、大学で教えることに挑戦するわけである。いつも自然体で新しい立場をつくってしまう行動者に脱帽。こういう人間(そんなにはいないが)が日本の大学にもっとはびこればいい、と考える。
●アフリカからの電話が終わった後、植村直己冒険賞の発表会場に急ぐ。そこでやあ、と挨拶した受賞者は、先月の地平線報告会をやってくれたばかりの中山嘉太郎氏だった。冒険賞のことなど微塵も考えていなかったこの驚くべき旅人には、この日の発表は、嬉しさより戸惑いのほうが大きかったようだ。「ガチガチに緊張しました」と、あとで言っていたが、その後も新聞、テレビに登場し、次第に全国区の顔となりつつある。慎ましやかな鉄人が、ひっぱりだこで疲れてしまわないよう切に祈る。
●さて、2月12日を「少し特別な日」と言ったのは、植村直己と司馬遼太郎という、個性的な旅好きが、12年の間隔をおいて、いなくなった日だからだ。1984年2月12日、植村さんがマッキンリーで消息を絶ち、1996年2月12日には司馬さんが突然倒れ、そのまま帰らなかった。お二人ともに、別な状況でご縁があり、忘れられない日となったわけである。ことしの2月12日は、そんなわけで例年よりさらに少し劇的なのでありました。
●最後にひとこと。アジア会館に代わっての箪笥町区民センター、とても使いやすい、いい場所です。是非一度来てください。[江本嘉伸]
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中山嘉太郎(44) |
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◆地平線会議に顔を出したのは、いつ以来か忘れてしまったくらい御無沙汰でした。何故なら、週末に山へ行くには、金曜日の晩は都合が悪く、また土曜日の早朝に仕事をする時は、前夜は早寝しなければならない。しかし、今回は木曜日で、中国のウルムチからトルコのイスタンブールまで約6699kmを152日間で自分の足で走った(昨年西安からウルムチまでの距離を足すと9374キロになる)という、中山嘉太郎さんの報告なので、行きたい条件が揃った。
◆6699kmという距離は、ランナーでない僕には想像がつかないものである。しかし、中山さんからの旅先からの便りでは、多くの人達に声を掛けられて、親切にされている様子は、手段が違うだけで、旅としての楽しさはオートバイや自転車、ヒッチハイクなどと変わらないと感じることができた。
◆中山さんの旅の基本は、荷物を背負って自分の足で移動することで、「見たい、聞きたい、話したい」気持ちを持って、習慣や食事などを通じて、現地の人と仲良くすることである。中山さんを支えたのは、寝袋を含めた旅に必要な約10kgの荷物だけではない。路上に落ちている様々な物が重要な役割を担っていた。通算386枚のコインをはじめ、シューズの補修、補強のためのタイヤのチューブや皮、ネックウォーマーを兼ねた帽子、水筒にしたペットボトル、片方ずつ柄が違う一対の靴下、その他メモや長袖シャツなどの拾い物も中山さんの貴重な味方となっていた。
◆現地の人が捨てたり、あるいは拾わないでいる物でも、必要であれば拾って済ませてしまう中山さんの逞しさは、金持ち日本人のイメージとは程遠い。だからこそ現地の人に親しみを持たれ易かったと思う。「拾うことに抵抗感がない」というけど、誰でも出来ることではないと思う。淡々として、当たり前のようにやってしまう中山さんの原動力は、もしかしたら、拾えるか拾えないかのちょっとした勇気からかも知れない。僕にしても、人前で一円玉を拾うことは恥ずかしくて、勇気がいる。しかし、プライドを捨て、拾った一円玉には「やった!」という達成感があり、もっといろいろなことが出来そうな気がしてくる。
◆小さなことでも、出来ることの積み重ねが自信になり、手が届かないような大きな夢にも結びつけられるのではなかろうか。サッカーの「小野伸二似」(本人の証言です)の中山さんと共に写真に写っている人達は、ほとんど笑顔だった。言葉がわからなくても、ふさぎ込まずに身振り手振りでもいいから、積極的にコミニュケーションを取ろうとして、子供からも言葉を教わる姿勢が、多くの人達に親切にされたようだ。国境も人種も文化も宗教も超えて、どんな人とも笑顔で接し合えたら、どれだけ紛争がなくなるのだろうか、と思った。
◆中山さんが旅したトルコでは、某テレビ番組の企画がトルコの国会で問題になった。トルコ人の花婿を探す日本人女性が探すもので、多くのトルコ人が新聞を読んで、応募したという。結局、見合う男性がいないということで、女性が帰国したことがトルコ人のプライドを傷付けた。中山さんの体を張った旅の報告を聞きながら、同じ頃に愚かなことをしている日本人が存在していたことと対比してしまった。その番組は以前、中山さんと似たコースでのヒッチハイクが人気を呼んでいただけに、尚更やるせなくなってしまった。[上村博道(サハラ・ライダー、98年エヴェレスト・サミッター)]
中山嘉太郎さん、植村直己冒険賞を授賞! 植村直己さんがマッキンリーで行方を絶った2月12日を記念して、毎年この日に発表される植村冒険賞、ことしは、なんとシルクロード9000キロを走りぬいた中山嘉太郎さんと決定、12日記者発表された。表彰式は6月1日、兵庫県日高町で。 |
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〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方 〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-303 江本嘉伸方 E-mail : / Fax: 03-3359-7907(江本) |
●大沢茂男さん(78歳)から…2002.1.1…ヒマラヤ山中発
◆第23回初泳奉仕のヒマラヤの旅、好天に恵まれ、又体調も最高調で、全目的を達成出来ました。これ偏に珠峯の女神の助けと、心温かい皆様の応援の賜と、衷心より厚く厚く御礼を申しあげます。
◆2002年1月元旦、晴、零下25度、エベレスト氷河湖5250m、木遣一声「イヤ〜山の神様お願いだ〜」黄金に輝くエベレストの氷壁にこだまして、2002年の元旦は明けた。思えば我が人生の遙かな夢、氷河湖元旦初泳、第23回を目前に、冒険の血燃える一瞬である。気合いもろとも氷湖に突入、数十秒……氷上に這い上がる。やったやった、万歳万歳。感激の涙でシェルパと抱き合って泣いた。…初泳を23年間支援してくれたサーダー一家、ヒマラヤ山中の村人、留守を守り続けた妻や心温い支援を頂いた皆さんに感謝で会わせた手に流れ落ちる涙が凍り付いたが、止めることはできない。俺はなんと幸福者だろう。
残余の人生をヒマラヤ山中の不恵の邑子に捧げようと心に誓っているうちに、元旦の夕日は足早に西の雪峯に沈んでいった。
●後田聡子さんから…2002.2.2…大阪の自宅発〈E-mail〉
…南米ひとり旅帰国報告
◆001年6月からはじめた旅の途中で25歳になった。ペルーのクスコからプーノに向かうペルー鉄道の中、約12時間。他の乗客と話すこともなく、寒そうな色の草原と、同じような色をした動物たちと、青い青い空を眺めていた。車内販売が高いことを見越して、パンやバナナを予め用意し、大好きなチョコレートだけが贅沢だった。その日はそう思っていた。
◆いえいえ。贅沢なのは、そうして過ごした時間。日本にいたら出会えない景色や人に出会うことで、気づかなかった事に気づく。きれいな景色やな、面白い人もおるんやな、で終われない。つらつらと色んなことを連想し続ける時間がある。旅に出ることの良さってそういうことだ、と思う。
◆大学4年生になり、裏方として地平線に関わりはじめ、遠くの世界の登場人物を目の当たりにするようになった。長期旅行の経験も格好のよい人生の目標もなかった私は、心がざわざわした。やりたい事をしている人は、いい笑顔になる。元気をくれる。
◆私も何かしたいよ。といって、そんな何か、すぐに見つかるわけもない。結局何十社と入社試験を受け、働き口を得た。この冬、地平線報告者はあの河野兵市さん。「冒険とは、第一歩を踏み出す勇気のこと。特別な事をする必要はなく、夢へ一歩踏み出す勇気が冒険である。」そうや、無理して焦らなくてもいいんやね。ちゃんと会社で働こう、2、3年して仕事に希望が見えてこなかったら、旅に出よう。気が楽になった。
◆案の定、私は会社に同調しきれなかった。丸2年勤めて、退職すると、地平線の方々は、オメデトウと。えっ、めでたいのかしら? 気が楽になった。どうせなら勢いのあるときに、一番遠い所に行っておこうと、中南米に旅立った。
◆いくら見ても見飽きない景色を目で追いながら、娘の一人旅を案ずるあまり「行くのなら勘当する!」とわめいた父と、父や祖母に八つ当たりされながらも黙って笑ってくれた母と、そんな親に挟まれ愚痴ばかり聞く羽目になった弟に感謝した。ペルー鉄道を作ってくれた人々や、厳しい自然環境の中で放牧を続けるインディヘナにも感謝した。私を社会人に育ててくれた会社の人たちにも、高校大学の友人や、もちろん河野さんや地平線の皆さんにも。
◆勝手に心の中でアリガトウを繰り返し、のんびり満足する。旅に出ることの良さは、色々あるが、こんなことを考えて時間を過ごせるのもその一つだろう。
●滝野澤優子さんから…2002.2.12…アテネ発〈E-mail〉
◆1月10日から2月10日までフランスのシャモニにスキーに行ってきました。物価が高く、けっこう散財しましたが、たまには先進国でのリゾートライフ(?)もいいものです。また、インターネットカフェも高くて日本語がかけないのでメールは出せませんでした。
◆フランスでは日本人女性が借りた山小屋に居候させてもらい、楽しく自炊の日々でした。ただし、残念ながら今年は雪不足で、スキー場のコンディションはあまりよくなかったのですが、天気は毎日よくて、モンブランがばっちり見えました。スキー場もスケールが大きくて、一気に2000mの標高差を降りるダウンヒルコースや、圧雪していないコースも多く、日本とはまったく違う環境でスキーを楽しめました。スイスへも足を伸ばし、マッターホルンのふもとでも滑ってきました。
◆昨日アテネに戻りました。フランスのあとだと、同じEUなのか! と改めてびっくり。トルコから来たときは先進国だと感じたのですが、ここはやっぱりアジアに近いのかなあ。
◆ここで少しのんびりしてから、エーゲ海の島を回ります。今年はヨーロッパを旅します。それでは、今後ともよろしく!
河野兵市さんを思い出して高尾山に登ろう! |
本橋成一さんの新作上映中 |
「グレートジャーニー」最終編 3月15日に放映 |
◆「グレートジャーニー8 FINAL」3月15日 21:00〜23:30
◆http://www.fujitv.co.jp/jp/b_hp/gj/
善意のヒ・ミ・ツ 2/28(木) 18:30〜21:00
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郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
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