2001年6月の地平線通信



■6月の地平線通信・259号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙どういう表現をしたらいいか、言いようのない深い衝撃である。5月24日、河野兵市の遺体発見の悲報。ほかの人なら知らず、河野兵市だけはどんなことがあっても帰って来る、との願望が100%の信念になっていたことをあらためて思い知らされた。

◆2月27日、出発前日夕、東京での壮行会で、6年がかりの長い旅だが、やはり北極だけは大変だよな、と話した。一度も日本には戻らずに故郷愛媛県への旅を続けると聞いて、ロシアのどこかに会いに行くかもしれない、とかなり本気で近い将来、現地での再会を未来の話しをした。「とにかくゆっくり、そして元気で」と言って握手を交わした時の、ぎゅっと握ってきたその力の強かったこと。翌日、「きのうはありがとうございました。今から行ってきますけん」と、丁寧に電話をくれた際、もう一度、ロシアのどこぞまで会いに行くかもしれないよ、それまで達者でな、とかなりその気になって言ってしまった。

◆日本初の北極点徒歩単独到達者として有名になったが、河野兵市はけして北極だけの人間ではない。そのことを、私たちは彼が年報「地平線から」に書いた文章や三度の地平線報告会で知っている。地平線報告会にはじめて来てくれたのは、1989年7月28日(第117回報告会)、ずばり「焦げつく青春」のテーマでだった。

◆その「焦げつく‥」をキャッチフレーズに日本を自転車で一周(16000キロを走行)したのが21才の時。1981年2月には日本を飛び出し、アラスカ・ユーコン川のイカダ下りを手はじめに、マッキンリーに登り(これが生まれて初めての登山というから私は怒ったが、以後北中南米で次々と単独で5、6000メートル峰の登山をやってのけ、88年には旧ソ連のコミュニズム峰−7495メートル−にも登頂している)ロスからニューヨークまで米大陸を180日かけて徒歩で横断し、ボストン、ニューヨーク、ホノルルの三大マラソンを完走した(これもろくにトレーニングせずにやったと聞いて私は憤然とした)。

◆その後もチチカカ湖でのアシ舟航海、パタゴニアの高緯度湿原徒歩踏破、カラカスからフェゴ島まで自転車での南米大陸中央部縦断、そしてカラコルム・ヒマラヤの800 0メートル峰・ナンガパルバットに挑戦しアイスブロックを顔に受けて27針を縫う大怪我で撤退、七年ぶりに日本に帰った。報告会の枠からはみ出してしまう31才の河野兵市の豪快な話に私たちは圧倒された。

◆2回目は95年5月30日の第187 回地平線報告会で、「乱氷帯を抜けてお家へ帰る」というテーマでだった。北極点から歩いて家まで帰ることは既に計画していて、この時はトレーニングとしてレゾリュートから北磁極まで600キロの海氷上を35日間橇を曳いて歩いてきた直後だった。北極点行をまず実行して、次ぎに極点をスタートして日本を目指す。しかし、それまでの旅と違って相当な資金を必要とする。「本職の造園師の収入では、いくら予算を切り詰めても多分50年ぐらい貯金し続けなくてはならないだろう。もちろん、留守の間の家族の生活も考えなくてはならない‥」と、「地平線の旅人たち」の中で書いている。

◆ある日、資金の問題で相談に来た時、故郷の話をした。いまの時代、中央で動くのは思ったほどの効果はないのではないか。思いきって愛媛の人たちに相談したらどうだろう。河野兵市は豪快な行動力に加えて、緻密な判断力を持つ。長く留守をしていた故郷のことは遠慮がちに既に考えていたようだったが、おそらくこの時ふっきれたのではないか、と思う。松山で味噌作りをしている後藤東二さんという優れた兄貴格を得て「北極点からお家へ帰る」のゴールの「お家」を、愛媛県瀬戸町の実家とし、愛媛県あげて草の根の支援が始まった。

◆3回目の地平線報告会は、98年11月27日、その北極点到達をなしとげてから一年半たってから来てもらった。テーマは「焦げつく北極点」。「市民運動にも例えられた草の根遠征のほかでは聴けないオハナシ」と紹介され、実際、そのユーモラスな語り口で北極の海で愛媛の小学生の手紙に泣く話が紹介されると、じんとしてしまった。あの支援のかたちは、河野兵市の人柄にふさわしい、対話性のある斬新な試みだった、と今も思う。今回、松山の事務局を訪ね「私達にはまだ悲しむ時間もないんです」と言いながら、さまざまな問題の対応に追われる人たちと会って、ああ、河野兵市は幸せだったな、とあらためて思い、そこまでやってくれた地元の人たちにただ頭がさがった。

◆河野は、地平線会議のアンケートで「私の自慢」として、「父ちゃんにそっくり、うり3つの子ども」と書いた。行動のスケールでは植村直己をはるかに上回った河野兵市。彼の「焦げつく青春」は、必ず次代に引き継がれてゆくだろう。[江本嘉伸]


●地平線はみだし情報 6月3日、地平線の韋駄天ふたり(特に名を秘す)、しまなみ海道100キロ遠足(とおあし、と読む。海宝道義氏の主催)を見事完走。三輪は3回目。江本は初の100キロ挑戦(あ、秘してない)。



先月の報告会から(報告会レポート・259)
ネパールの顔
貞兼綾子
2001.5.25(金) アジア会館

▲地平線報告会では、とんでもなく存在感のある報告者に圧倒されることがある。スライドと語りというアナログな舞台は、人そのものが全面に押し出される、恐ろしくも魅惑的な現場なのだ

▲なによりもまず、貞兼さんの風変わりな話し方に面食らった。日本語のイントネーションがなんだか異国語のようで、これほど生き生きと独自の経験を楽し気に話せる人は、どこか別の国に長く住んできたに違いない、そう確信できるほど強烈だった。

▲貞兼さんが初めてネパールに入ったのは1974年、前ビレンドラ国王が即位した2年後のことだ。当時は東洋文庫でチベット研究をされており、未だ入域できなかったチベットの代わりにソル・クーンブ地方へ入ったのが始まりだった。

▲「日本で膨大な時間をかけて文献から研究してきたものが現地では短時間で手に入る」効率の良さと、「相互批判をする基盤が整っていなかったネパールの文献資料を事実と合わせて検証したい」という思いから、当初予定していた3ヶ月の滞在予定を急遽変更し、日本へは電話一本でその決心を告げた。以来79年まで5年間にわたりネパールのトリブバン大学研究員としてチベット系民族のフィールドワークに関わることになる。

▲時にチベット人を装いながら、東はカンチェンジュンガ山麓から西はシミコットの奥まで当時の未解禁地域を含めてくまなく歩き、今ではネパール語の方言を7つ程度話す。その裏には「言葉なくして本当のコミュニケーションは不可能」という思いと「フィールドワークに出る前は1週間に1000語程のペースで方言を覚えて」から現地に向う高い意識がある。だから当然、出合った人々との関わりは深く、いつのまにかチベット名も3つになっていた。

▲言葉に対する厳密さは観察の細やかさにも現れる。例えば、赤ちゃんを背負う紐の結び方ひとつをとって、東部と西部では金具のピンでとめているのに対し中央部では結んでいるという違い。ドルポの寺院で見つけたポン教と仏教の曼荼羅が同じ壁に隣り合わせて描かれているという不思議さ。中央部から西部で行われてきた交差イトコ婚(7親等以内で結婚すること)が厳しい環境の中で小さな社会を維持していくためにいかに合理的なシステムであるか、などについて、個別の事実と同時に広域的な関係性についても実際の経験をもとに語ることができるのだ。

▲79年から81年まではパリのEcole Pratique des Haute Etudesでチベット学を修め、労作「チベット研究文献目録」などの成果をあげている。研究活動と平行して、家族のような関わりを持ちつづけてきたランタン村の村長からの依頼をきっかけに、「ランタン・プラン」というNGOを1986年に設立、その代表にも。観光開発が進み深刻化する燃料問題に対して、「自然と人の調和を展望しながら村人による薪に替わる熱エネルギーの導入に助力する」ことが目的だ。毎年1〜2人の日本の若者を現地へ派遣し、氷河の水を利用した水力発電システムを使っての段階的な電気供給とそれを利用した地場産業の拡大、同時に環境問題に関する啓蒙活動とリーダーの育成を目指してきた。

「ペンチがなくとも針金を歯で噛み切れる力を持った若者」という表現で貞兼さんは、人材を表現する。地元の活動に貢献するには、場当たり的に何かを手伝うのではなく、実際に提供できる技術なりの実力が必要、というのだ。貞兼さん自身も「50年先を見て」段階的な技術開発と啓蒙教育を慎重に手がけ、やっと次世代を托そうという若者が育ちつつある。

▲研究者としての客観的な観察眼に支えられながらも、好奇心一杯の旅人の思いにあふれる貞兼さん。さらに、人との濃密な関係性を厭わずに引き受ける覚悟が、豊かな人柄を際立たせる。それは、旅が陥りがちな安易な自己満足の対極にあって、旅の本質を思い起こさせるに余りある迫力で心に迫る。

▲膨大な知識量と好奇心と行動力の片鱗を惜しみなく楽しげに語ってくれた貞兼さん。それらを、私たちはどこまで取り込むことができるだろう。[恩田真砂美]



地平線ポスト

●山本将さん…芦屋発 【地平線ポストから】

◆2001年5月24日。この日は忘れられない日になりました。とてつもない悲しいニュースと、とてつもない嬉しいニュースが入ってきたのですから‥‥。

◆河野さんの死。本当に残念です。覚悟はしていたものの、知った瞬間には茫然自失といった状態になりました。心からご冥福をお祈りしたいと思います。

◆石川くんのエベレスト登頂成功。そして7大陸最高峰の最年少記録の更新。最高に嬉しいできごとです。彼が帰国したら、ぜひ報告会を開いて下さい。時間のやりくりして、東京まで行きます。そこでひとつお願いなのですが、石川くん報告会は金曜の夜か土曜日に開いて下さい。ぜひよろしくお願いします。


ジン・ネットがギャラクシー賞受賞

◆高世仁さんが代表をつとめる「ジン・ネット」ギャラクシー賞優秀賞を受賞。 5月31日午後5時から、恵比寿のウェスティンホテル東京で、第38回ギャラクシー賞贈賞式が行なわれ、ジン・ネット制作の「ウミガメ保護に潜む思惑」(TBS報道特集で放送)が、テレビ部門の「優秀賞」(4作品)に選ばれた。その4作品のなかから一つだけに与えられる最優秀賞「大賞」は惜しくも逃したが、昨年度の250を越すテレビ番組を対象とする選考の結果、報道番組としては最高の評価を得たことになる。ギャラクシー賞は、放送界で最も権威ある賞。なお大賞は、BSドラマアベニュー「トトの世界〜最後の野生児」(日本放送協会、NHKエンタープライズ21)。



石川直樹、チョモランマ登頂!

4月23日、石川直樹君が見事チョモランマに登頂しました。一度の挑戦で決めるとは、びっくりです。本人の了解を得て、登頂当日の迫力ある日記を転載します(長文なので登頂の瞬間にしぼって)。

石川直樹ウェブサイト  http://straightree.com/

◆セカンドステップの下までいくと、上がどうなっているかはわからない。要するにでかい壁なのだ。ファーストステップと同じように祭りのくじ引きのようなフィックスロープが張られている。どうやって登るか考えあぐねていると、カサンがさっさと登りはじめた。じっと眺める。カサンの真似をして登った。

◆一段落付くと思うとすぐに次の壁があった。はしごがかけてある壁がある。はしごから水平、つまり真横に壁をトラバースしてそこから真っ直ぐに上に上がる部分が難しかった。ぼくの前に登っていたカサンが急に止まり、「先に行け」という。登り方を知らないと、ここは永遠に登れないぞ、と言っているようだった。はしごを最上段まであがり上から垂れている数本のロープのうちカサンに言われたロープをひっつかんだ。それが当たりくじだった。

◆一つの壁を終えるごとにマスクを顔にぴったりくっつけて酸素を吸った。息が整うまで待った。ここらあたりではすでに皆ばらばらになっていた。ぼくの後ろ、先ほど書いたオーウェンやハイメ、ガイドのアンディー、アズモフの姿はまったく見えない。

◆セカンドステップを越えると、いよいよ頂上ピラミッドが見えた。まさに彼岸の世界のようだった。頂上はあの世への入り口にも思えた。いくら酸素を吸っているとはいえ8600mを越えている。意識は少しとんでいた。いつも高い山に登ると空は群青色もしくは濃紺で宇宙を感じさせたが、今回は薄いもやのようなものが頭にかかり、何かの境目にいる感じがした。ここで2本目の酸素ボンベを交換した。強い風が吹き荒れていた。
 
◆頂上ピラミッドの前にサードステップとも言われる大きな岩山があった。「セカンドステップ越えたら終わりじゃないの?」心の中で叫んだ。これももろい岩壁で、体力を消耗している身にはつらかった。なんとか登り切るとクリスがぐったりしていた。掲示板などでエベレストニュースなどの情報を端的に見ると、クリスが一番はじめに登頂したことになっているようだが、彼はマスクがうまく機能せずかなり消耗して登頂したのもぼくより遅かった。

◆クリスの前を通り過ぎようとすると、頂上ピラミッドからマルコがスノーボードで降りてくるところだった。皆の視線がマルコに集まる。「ほんとにやってるよ」はっきりしない意識の中で、マルコを追った。10mくらい滑っては止まり、息を整えている。頂上ピラミッドの傾斜はとんでもなくきつい。奴は神の領域に踏み込んだのだ。「無事戻れよ」ぼくは心の中でメッセージを送り、頂上を目指した。

◆雪の斜面にアイゼンを食い込ます。フィックスロープの継ぎ目でアイゼンを食い込ませて止まり、膝をついて休んだ。頂上までもう少しというところで、エヴェリーンが登頂して降りてきた。「もう少しよ」彼女はメンバーの中で一番早く頂上に到着していた。強い女性だ。

◆目の前に見えているピラミッドの頂上は本物の頂上ではなかった。ピラミッドを右にトラバースしながらかなり回り込み、再び少し登らなくてはならない。この最後のトラバースもまたしんどかった。下は断崖で、たるんだフィックスロープはあてにならない。雪が付いていないのでアイゼンも効かない。

◆トラバースを終え、スラブ状の岩をへたりながらよじ登ると、雪が現れた。これが本当の頂上ピラミッドだ。後ろでカサンが「あと10分だ」と囁くようにいう。両側はすっきり切れ込み、足を踏み外したらさようならだ。足がふらついていたので、時々カサンが体を支えた。二つくらい丘を越えると頂上が見えた。人が何人かいる。雪がせり出ていて、崩れるんじゃないかと思うほどの小さなスペースに見える。そこに10人弱の人がいる。
 
 「ああ頂上だ」
 一歩歩く。
 「長かったなあ」
 一歩歩く。
 「死なないようにしなきゃ」
 一歩歩く。
 「また同じ場所を行くの、やだなあ」
 一歩歩く。
 「死なないようにしなきゃ」
 一歩歩く。
 「死なないようにしなきゃ」
 一歩歩く。

◆最後には同じことを何度も考えていた。夢遊病のようだった。

◆頂上に立った。5月23日午前9時40分。少しの風。10人ほどの人がいた。主にネパール側からの登頂者だった。ネパール側からのルートが見えた。少しだけあっちにも行ってみたいと思った。ヒマラヤの山々が眼下に見えた。ここより高い場所はどこにもなかった。

◆その日中にC3まで戻った。C4で酸素が切れてC4からC3まで無酸素だった。 8300mから7900mまで酸素ボンベ無し。3歩歩いてはへたりこんだ。このときが、何より一番きつかった。C3に着いたのは午後7時前、暗闇に近かった。



◆河野兵市さんはの告別式は、6月1日、カナダのエドモントンで順子夫人はじめ家族、親族の手でいとなまれた。「お別れの会」が、7月1日(日)午後1時から松山市本町1丁目の南海放送会館で行われる予定。6月30日(土)と1日には、同会館内で河野さんの20年の旅と冒険の暮らしをテーマに遺品、写真などの展示がされる。なお、6月23日には地元瀬戸町でも思い出の会が開かれる予定。



◆旅先で不明を知り、エジプトから「ほんとですか?」と電話をかけてきた白根全は電話の向こうで絶句し、金井しげさんは、「ほんとに残念です」と故人をしのんで二句を。「しんしんと 深きクレバス 白夜かな」「クレバスの 深き眠りや 虎が涙」



◆下関の河野典子さんからは「河野さんのこと、ショックでした。私は会ったことも話したこともない方でしたが、地平線通信で冒険の情報を得ることができていたので身近な人のような気になっていました。本州の端の下関でから応援してました。−人はいつか死ぬ−私は、看護婦なので人の「死」を考えることがありますが、どんな思いで死んでいくのか、どんな死に方が良い死に方なのか…。どんなに考えても答えはないのです。河野さんは…。地平線のみなさんの気持ちをお察しします。御冥福をお祈りします。 河野典子」とのメールを頂いた。


●関野吉晴写真展「グレートジャーニー7」開催!

6月21日(水)〜29日(金)11:00〜20:00
 オペラシティタワー2F(東京都新宿区西新宿3-20-2、京王線初台駅から徒歩1分)


●関野吉晴講演会

6月30日(土)17:00〜18:30 原宿クエストホール3F(渋谷区神宮前1-13-14)
問い合わせは、いずれも03-3359-0609 グレート・ジャーニー応援団事務所へ。




今月の地平線報告会の案内(絵:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

神々の楽園

6/22(金) 18:30〜21:00
 June 2001
 ¥500
 アジア会館(3402-6111)

東チベットの横断山脈の主峰、梅里雪山(6740m)で京大隊の大量遭難があったのは、'95年。日中あわせて17人の犠牲者が出ました。

小林尚礼さんは翌年の再挑戦隊に参加。そして敗退。98年に遺体収容に出向いたのをきっかけに、99年から単独で現地の明永村に通っています。隊として入った時と違い、村人の顔が見えるようになるにつれ、山を聖山と崇める人々の生活に魅かれていきます。

登山隊の姿は、彼等にとっては「親の頭を踏みつけようとする」者と映っていたこともわかってきました。しかしこうした伝統的な価値観も、村の観光地化で変化しつつあります。

今月は、カメラマンとして村を記録し続けている小林さんに、現地の魅力を伝えて頂きます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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