2001年5月の地平線通信



■5月の地平線通信・258号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙 地平線会議の皆さま、お元気ですか。僕は今、中国雲南省がチベット自治区と接する辺り、徳欽(ドゥーチン)という街にいます。ここは海抜3300mのチベット人の街で、日本隊が遭難したことで知られる、梅里雪山(標高6740m)の山麓に位置します。同じ山岳会に所属していた僕は、仲間たちが逝った雪山の、真の姿が知りたくて、一昨年から1年の約半分をこの地で過ごしてきました。拠点にしているのは、雪山から流れ出る氷河の末端に位置する、明永(ミンヨン)という名の農村で、その村長の家に宿泊しています。彼と出会い、信頼するようになってから、僕のカワカブ(梅里雪山の現地名)通いが始まったと言っても過言ではありません。予期せぬ出会いでしたが、その中に秘められていた力に、出会いの不思議さを考えています。

 「峡谷の国」と称されるこの一帯で、明永村は谷底にあるため、標高の高い街よりも一足先に春が訪れます。今回僕が到着した3月中旬には、桃の花が満開で、そのあと真っ白な梨の花、桃色のすじが入った林檎の花と続きました。2年前の夏から撮影を始め、全ての季節を撮ってみようと計画してから、ようやく季節を一巡りしたことになります。

 ここはチベットとは言っても、温暖で雨の多い場所なので食物は豊かです。様々な果実や野菜、春の山菜やきのこ、胡桃やとうもろこし、豚や鶏、山羊とヤク・・・。でも僕は、チベット人の伝統的な食べ物も好きです。冷えきった朝に、空腹の状態で飲む熱いバター茶、自家製の蜂蜜をつけて食べるツァンパ(裸大麦を炒って製粉したもの)、夕食前のひとときに家族全員がそろって飲む地酒(裸大麦の焼酎)。その地で育ったものを素直に美味いと感じるとき、その土地に受け入れられた思いがしますよね。

 2週間ほど前に、2人のお婆さんが続けて亡くなりました。1人は、50歳になったばかりの女性ですが、既に孫が6人いるのでお婆さんです。昨年暮れから病院に通うようになりましたが、今年に入ってお金が続かなくなり、自宅で療養していました。リンパ腺が大きく腫れて苦しい状態が1カ月以上続き、ついに力尽きたという最後でした。その3日後、その女性のお母さんが後を追うように他界したのです。お母さんの方は70 歳を過ぎていましたが、1週間前までは元気で、僕に冗談を言いながら写真を撮らせてくれていたのに、信じられない結末でした。

 2人の葬式の日、僕は最近忘れかけていた、村の人たちとの壁を想い出したのです。半年以上一緒にいると、村中の家に出入りできるようになり、結婚式や正月祭りにも招かれるようになりましたが、人の死という崇高な場面には、立ち入ることができませんでした。自分にその勇気がなかったし、村長もそれとなく諭してくれたのです。その土地で生活することに責任を持つ人と、傍観者との当たり前の違いを、再認識したでき事でした。「チベット人の信じる『聖山』とは、どんなものだろう」という素朴な疑問から始めた旅ですが、彼らの生き様に、僕は人生を学んでいるのかも知れません。

 今、徳欽や明永村に、観光客の増大による近代化の波が押し寄せています。電気と道路が通じ、村の半分以上の世帯にテレビが入り、電話が通じるようになりました。これからこの地は大きく変貌し、伝統的なものは姿を消してゆくのでしょう。しかしこの峡谷の国には、日本と違うものが1つあります。聖山カワカブの存在です。家の窓からその神様はいつも見えるのです。そして、雪山という大きな自然によって生かされていることを、視覚的に認識できる場所です。これからの変化の中で変わらないものはあるだろうか、カワカブは神様であり続けるのか、この地を撮影する者の責任として、僕は末永く見守ってゆけたらと思っています。[桃の花咲くチベットから・小林尚礼 2001年4月23日]


【シール・エミコさんから】「4月26日の手術は、大成功でした。(略)食べた後、腸の中でハチが暴れてるような痛さを感じました。トイレまでの63歩が大〜変(お腹おさえながらおばあちゃんみたい)で、一日中べッドでゴロゴロ、あざらしさん状態。そして、よく寝まーす。(略)この後、放射線治療がはじまる予定です。退院は夏かしら!?」とのこと。テレビ出演を含め、早くも活躍中!



先月の報告会から(報告会レポート・258)
水の住処(すみか)を求めて
丸山富美
2001.4.27(金) アジア会館

最近、地平線報告会に若手の参加者がふえている。1月の石川直樹報告会の時に初めてやって来た、地平線会議のWebサイト(ホームページ)で知って来た、という人が多い。今回の報告は、そんな中の一人、報告者の丸山富美さんの若い友人に書いてもらった。


 地平線会議は本当に軽い気持ちで参加してみた。「富美さん(以下このように表記します)がせっかく誘ってくれたのだし、伊南村の地酒が飲めるのだからちょっと覗いてみよう」ぐらいの気持ちで。しかし参加してみて仰天。僕以外の参加者は、富美さんだけでなく皆ワールド・ワイドな「地平線を歩く人たち」であったことに後になって気づいた。なんだかすごい所に来てしまったと思ったけれども、ともかく報告しよう。

 この日の話は、二部構成になっていた。前半は富美さんのこれまでの生い立ちを辿ったスライド上映、後半は富美さんが現在住んでいる、福島県・伊南村で昨年「地平線報告会」が開催された時のビデオを上映しながら、現在を語るというものだった。

 富美さんは、1969年10月23日徳島県徳島市に生まれる。「23」にちなんで「富美(ふみ)」と命名されるが、出生時の体重は2340gと、今の富美さんを想像すると意外にも少ない数字だ。

 富美さんと「水」は今後密接な関係になってくるのだけど、幼児期は「潮の香りが好きになれなかった」という理由で海にはあまり行かなかったらしい。その海嫌いの少女がいずれ世界地図の上を縦横無尽に歩きまわる「地平線の人」になるのだが、それはもう少し先の話。

 そんな富美さんも大学生になり上京する。ところが水がまずくてどうしても飲めなかった、煮沸してもダメ。それだけはどうしても馴染めなかったそうだ。

 卒業後ワーキングホリデービザを取得し、渡豪する。1年間という期間限定ではあったが、海外の土地の人と生活を共にするのは初めてのことで、手さぐりで言葉や文化を体に染み込ませてゆく。その後タイへ行き、その中で異文化への興味・関心を急速に高め熟成させて帰国。その後これからの人生を模索し西表島で生活するも、「組織の中で自分を試してみたい、さまざまな出会いを通じて自分の価値観を高めたい」という思いから単身上京。ビルのジャングルの中に生活の場を移す。

 上京後は「自然」と「異文化」をテーマに掲げて現場での環境教育を実践するエコクラブというNPOでしばらく腰をおちつけることになる。その団体を通じて、電気もガスも水道もない南太平洋のヤップ島でコミュニティーの中に入れてもらい、そこで参加者として、またスタッフとしても生活を共にすることになる。「豊かさって何だろう」という命題を掲げたそのプログラムを経験したことは、価値観を今一度問い直すだけのことはあったようだ。

 その時のことを富美さんはこう語った。「沢の水にしろ、川の水にしろ、身近にある美味しい水と共に暮らせることは本当に豊かなことだと思います」。

 美味しい水を求める富美さんは、本当に豊かなのだと思う。滝が大好きな富美さん。おいしい水を飲むと「うまーい!!」と言って本当に嬉しそうな顔をする富美さん。いずれの富美さんもみんな輝いている。僕もそれを用いて豊かさについて考えてみたりしたけど、なんとなく分かったつもりでもはっきりとは分からない。それをはっきりと言える富美さんは、やっぱり味わい深い人だ。豊穣なんだ。いままでの人生のいい事も悪い事もしっかりとかみしめて、自分の栄養にしている。なんか、いいな。

 さて、話は再び富美さんへ。しばらくその後、東京で暮らしていたが、そこでの生活に悶々としていた頃、伊南村の人から「そんなに自然のことで悩んでいるなら伊南村へ来い」という誘い(?)を受け、何かがうまれてきて2ヵ月後、村の人になる。そして昨年の9月23〜24日にかけて、地平線報告会が同村の「大桃の舞台」という文化財で開催された。

 参加者は村内外あわせて300名ほど。あいにく雨だったが、その活気はビデオを通しても伝わってきた。しかも後半はみなさんほとんどへべれけ状態で座がかなり乱れていた感じがしたけれど、なんだかすごく楽しそうだった。地酒や地元の山菜・野菜を使った料理がふるまわれていた。富美さんの言う「豊かさ」は伊南村にもしっかり根づいているのだろうな。みんないい表情してたし。

「どう生きていいかわからなくなっちゃたもんね、もういいや」という人。ぜひ伊南村へ行ってみて下さい。ぜひ富美さんに会ってみて下さい。あなたの中にある「豊かさ」の種が少しは発芽することでしょう。[岡田涼平・東洋大四年]



地平線ポスト
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どうしたことか、地球のあっちこっちを歩いたり、走ったり、登ったりしている元気者からの便り(私信も含む)が4月から5月にかけて相次いで届いた。今回の通信は、自力移動したい人たちの特集となってしまった。なんだか焦るぞ!(E)


【その1】
世界で唯ひとり連続登山を続けている三重県小俣町の「毎日登山家」、東浦奈良男さん(76才)から俳句

  前へ横へ 傘は試練の 春嵐
        (5月8日付け書簡で)
 1984年10月25日の定年退職翌日から毎日登山を決意、以後、風雨も大雪も病気もおして、自宅から10キロ離れた山々をひたすら登り続けている。ことし3月30日にはついに前人未到の「連続6000日登山」を達成。4月30日現在6030日。


【その2】
2000年夏、突如会社を辞めて中国大陸走り旅を敢行した山梨県の中山嘉太郎さん(第252回地平線報告者)が2000年暮れから今度は南米大陸を舞台として走り旅を続けていたことは、これまでの通信でもお知らせしたが、なんと4800キロを走り抜いて4月中旬帰国した。

 昨年の暮れに世紀をまたぐ自分自身のイベントをするべく準備もそこそこに、アルゼンチンのブエノスアイレスに飛行機で降り立った。もちろん荷物を背負って走る為だ。

 大まかな予定は「ほとんどヨーロッパのブエノスアイレスを出発し、教科書で習った広大なパンパ→チリ北部に広がるアタカマ砂漠→標高4000m前後のボリビア高地→神秘的なチチカカ湖畔を通ってインカの都クスコをゴールとする4400km(最終的に4800kmになった)。1日平均50kmを想定し、約90日」。

 いつもの事だが初めての土地で言葉(スペイン語)や治安が不安で胃がキリキリ痛くなる中を出発。走り始めると走る術(どこで食べて飲んで、どの辺に町があって、どこを走るか等だがもちろんその土地の言葉や生活様式も含む)を学び習得しながら毎日毎日が勉強になり、不安は1日1日なくなった。

 しかし土地や国が違うと今迄学んだ走る術がほとんど生きなくなり、走る術を変更せねばならない。今回は平原・砂漠・高地と大きく3つの地域を経験したおかげで新鮮な毎日となり、長期の旅にありがちな“飽き”は全くなかった。実は毎日自分の成長に驚きさえあった(自画自賛ですみません)。但し、後半の砂漠や高地が半端じゃなくでかいのでしんどかった。腰痛や高山病に悩まされて停滞も経験し、今迄の様にだた前進あるのみじゃない事がわかったのも収穫だ。走り旅に関しては、この年(年齢)になってもいまだに尻の青いガキなのだ。

 さて、結局99日かけて4800kmを走ったが、中国シルクロードを走り終えた時に感じた「もう明日から走らなくてもいいんだ、でも寂しいな」という気持ちは湧かなかった。「走り終えてうれしいな、少し休みたい」だった。精神的にも肉体的にも私の限界に近かったのだろう。しかし、徐々に回復しつつある今(実はだらしなくデブになりつつある)、またどこか行きたいなと地図を前にしている毎日だ。そして今回改めて感じたが、世間には全く貢献しないが、荷物を背負って“見たい聞きたい話したい走りたい”の走り旅はおもしろい!! 私のこんな旅形態は当分止められそうにない。

◆中山さんのデータ。12月14日ブエノスアイレス出発。目的地とするクスコに3月24日着。この後高度障害でカットした300kmに再挑戦したため本当に4800kmを終えたのは4月6日。全日数114日間のうち走ったのは99日。アルゼンチン1370km・27日、チリ2430km・51日、ボリビア430km・9日、ペルー530km・12日。その間にバス移動7日、休養8日。宿泊は、安宿38泊、野宿41泊、その他の家屋20泊。走っている期間にかかった費用は1ドル120円換算で14万円程度(出発時の1ドル110円なら13万円程度)。


【その3】
カナダ・ロッキー山脈の冬にまたまた自転車でぶつかっていった究極の単独自転車行者・クライマー、田中幹也さんから

 江本さま ごぶさたしております。今冬のカナディアン・ロッキーは過去30年来最悪の雪質(雪崩が起きやすくクレヴァスも埋まっていない)のため当初の予定を大幅に変更しました。まず1月〜3月にかけて、カナダ北東部ラブラドル半島を自転車で踏破(冬の自転車による記録は世界初)。前半は連日マイナス40度C、耐寒温度はマイナス85度Cを記録。後半は後半で連日吹雪となり、湿雪と大雪のなかのサイクリングとなりました。

 4月〜5月には、ロッキー山脈の西となりにあるセルカーク山脈の山スキーによる長期縦走を考えていたのですが、ロッキー同様雪質が悪くあっさり中止しました。というのは口実で、偵察段階ではやくもシュルンドに落ちてしまい、志気が消え失せたというのが本音です。とりあえず報告まで。4月11日 田中幹也


【その4】
あの、ソロ・女性ライダーの滝野沢優子さんから

 江本さん、地平線会議の皆さん、お久しぶりです。私は現在犬と一緒に歩いて四国八十八ヵ所の遍路道を旅しています。今日で23日目、2度ほど無料接待所に泊まったほかは全部テント泊で、お風呂にもなかなか入れない毎日です。寄り道もできずにひたすら歩く日々ですが、これまでのバイクツーリングとは違った新鮮な感覚で旅をしています。

 荷物が重くて1日25〜30キロ進むのがやっとという状態ですが、私も意外と歩けるんだなあ、と感心しています。歩きの遍路さんとも多勢出会い、中には3年間ずーっと15周目という人もいました。遍路が趣味のような人も多く、「月間へんろ」という雑誌もあるくらい(知ってましたか?)なんですよ。それにしても高知に入って雨ばかりでつらいです。

 きのうまではずっと強い雨だったのに、今日は一変して真夏の暑さ。セミまで鳴いています。ポコ(江本注:犬の名です)も暑さがつらいようでかわいそうですが・・・。あせらずゆっくり行こうと思います。6月初めには終了予定です。追伸 昭文社のHP上に旅の様子を毎日アップしてます。http://www.mapple.co.jp/touring/を開いてもらえると、四国の旅コーナーがあります。ぜひのぞいて下さい。(5月9日の消印で高知・下田局発)


【その5】
日本ウルトラランニング登山クラブ会長、香川澄雄さんから

 4月15日に帰国しました。赤道直下のシンガポールからマレーシアの西海岸をクアラルンプールまで走る計画でしたが、10kgのザックを背負っての走りを実際に体験してみると、暑さに堪えて走る根性が無く、走ったのは初日の約1時間のみ、その後は椰子や名も知れぬ常緑樹の中の車道をとぼとぼ5時間歩いて、ついに堪らず車に乗ってその日の宿泊予定地に向かいました。そして、そこに宿が無いことが分かるとまたバスに乗って次の宿泊予定地に向かい、宿が見つかるとザックを宿において手ぶらで走って市内見物をしました(ザックなしでは、日本の夏と同様で快適に走ることが出来ました)。

 それを繰り返しているうちに12日も早く目的地のクアラルンプールに到着し、その後ペナン島、シンガポール、台北を走りながら見物しそれにも飽きて、予定より15日も早く帰国しました(毎日交通機関で移動しながら、20〜39キロの走り旅を楽しんで帰国。2003年にチョモランマ登山隊に参加する計画)。


【その6】
チョモランマベースキャンプから石川直樹君のメール日記。すでに7000メートルのノースコルに2度登り、7600メートルのキャンプにも1泊、高度順化トレーニングを終了。いよいよ頂上をめざす行動にはいった段階で

[2001年05月10日(木)]
 今日、というか“今”出発することになった。明日1日でABCまで行こうと思っていたが、チームの半分以上は中間キャンプに1泊するので、ぼくも中間キャンプに1泊してABCに向かうことにしたのだ。22キロのあの道のりを1日で行くと8時間はかかる。高所での登り8時間は次の日の消耗が激しくて、やるには少し考えなくてはいけない。中間キャンプ1泊は正解だろう。

 Pole to Poleの仲間、ハイジからメールがきた。ぼくらが北磁極を出発しレゾリュートに戻ったのが5月上旬だった。そのメールにはちょうどレゾリュートに戻った日の日記が添付されていた。あのこはアメリカ人にしては面白い感性をもっている。彼女の中であの旅は日に日に成長し、大きくなっているのかもしれない。再会するのが楽しみだ。

 変更とお知らせが少し。本の発売日が5月25日から28日に変わった。総ページ数450ページを越える重い本になりそうだ。どうぞよろしく。

 5月14日午前10時55分より、J-WAVEのラジオに生出演する。ABCからアタック直前の心境を話すらしい。

 今、日本時間の13時30分よりNHKの短波放送の収録がある。短波ラジオを聞いているのは外国にいたり山にいる人たちだから、同じ山にいて聞いている人がいるかもしれないなあ。

 今、最後の長い登りが始まる。究極の高みへ。

※注 本とは、石川君が「Pole to Pole 2000」の日々を綴った「この地球(ほし)を受け継ぐ者へ」(講談社・1700円)。5月28日発売予定。



●賀曽利隆さんの『バイクで駆ける韓国3000キロ』(JTB刊/1500円)刊行。昨年9月の、世界初バイク持ち込み韓国ツーリングの模様を。

●5月12〜13日に伊南村で開催された「お花見の会」は、春が遅れて「ブナ新緑の会」に。おいしい料理と地酒で盛りあがりました。なお『地平線報告会 in 伊南村』は残部あり。郵便振替口座「00120-1-730508」、加入者名「地平線会議・プロダクトハウス」まで。カンパ+送料で600円。


今月の地平線報告会の案内(絵:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

ヒマラヤの朝

5/25(金) 18:30〜21:00
 May 2001
 ¥500
 アジア会館(3402-6111)

 ネパールヒマラヤ山麓には、約13のチベット系少数民族が暮らしています。貞兼綾子さんは、あまり知られていなかった彼らの文化を訪ね、一帯を歩き尽くしてきたチベット民族学者。'74年にヒマラヤ山系のランタン谷を初めて訪れて以来、貞兼さんはネパールのチベット世界に関り続けてきました。

 英国の探険家が「世界で一番美しい」と評した渓谷の最奥にあるランタン村は、標高3500m。人口500人。'86年からは、支援プロジェクト「ランタンプラン」の代表として、村の自立を応援してきました。渓谷の流れを利用した水力発電を試作。「1ボルトの豆電球が点いたとき、村の心にも灯がともったのよ」と貞兼さん。

 今月は貞兼さんに、ヒマラヤのチベット文化の魅力を語って頂きます。


通信費(2000円)払い込みは郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります)


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