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■4月の地平線通信・245号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)
へえ、おとなしいんだねえ!と話しかけてきた小学生のポケットが・ピロロ・・と鳴り出した。「もしもし、うん、・・」とやっている。あれあれ、子どももケータイつきかよ。
◆2000年の春4月。無情にも、「四谷・地平線花見会」は雨で流れたが、ことしはいい桜だった。思わず、迎賓館前で七才になったわがオオイヌと桜の写真を撮ってしまった。岩合光昭さんからもらった「日本の犬」という写真集の表紙、富士と桜を背景にりりしく柴犬がうつっている写真を思い出したのだ。そのうち「四谷の犬」という写真集を出してみたい。
◆そんなこんなでこの春、日本のケータイ電話の数がついに固定電話を抜いたんだそうだ。あんなもの持ったら自由でなくなるわい、と真っ向から否定していた私も実は昨年9月以来、ヒソカニ利用しておる。いつもいつも所在不明では仕事にならない、自由であるためには仕方ないか、と前向きに判断したためだ。
◆で、3月28日夜、いつものように、アジア会館の地平線報告会にいたら、突然そのケータイが鳴り出した。「せきのですが、いまうらんば一とるにつきました・・・」 ん、せきの? うらん・・? 次の瞬間、聡明な頭は素早く回転し、ゴビのラクダ遊牧民のもとにたどり着いたあの関野吉晴が、いったんウランバートルまで戻ったことを理解した。用あっての電話なのだが、それにしてもグレートジャーニーの現場からアジア会館に直接というのは珍しい。関野吉晴は、地平線会議を発足させた時からのメンバーで、アジア会館には無論縁がある。
◆報告者の神長君の話を数秒中断するかたちになって悪かったが、つい会場のみんなに口走ってしまった。「いま、モンゴルの関野吉晴氏から電話がはいってるんだ・・」 ついでに、先方にも「実は火曜日だけど、いま報告会の会場なんだよ」と言ったら、とても驚いていた。
◆3月なかば、関野吉晴と3日ほど行動をともにした。いや、ともにした、というのは違うな。彼のモンゴル“雪中自転車行”に四輪駆動車でついていったのだ。1993年12月にスタートしたグレートジャーニー。いつかどこかの現場で、と思っていたが、ついにモンゴルまで来てしまった。私としてはちと遅かったが、ともあれ一緒のゲルに泊まり、グレートジャーニーを、ほんの一瞬でも共有できたことは、喜びであった。
◆関野がいったんウランバートルに戻った理由は、ひとりのモンゴル女性の死にともなう、いたましいものだった。そのことは、今月の報告会で手短にふれることにする。テレビを見た人には「プージェのおかあさん」といえばわかるかもしれない。ともかくも、彼が受けたショックは小さくなかったことがモンゴルで会った時の口ぶりからうかがえた。グレートジャーニーは、さまざまな生と死に出会う旅でもある。
◆春は旅立ちの季節。先月のこのフロントで、フレッシュウーマンの大井田ひろみさんが、いい文章を書いてくれた。「素晴らしい」「感動した」「記者になっても変わらないでほしい」などの反響があったことを奈良に赴任された新聞記者一年生に伝えたい。
◆ただ、小生の「リタイアうんぬん」の表現で、思いがけず、あちこちから手紙やお菓子を頂くはめになったのにはびっくりした。そうか、春3月で・・と思った人が多かったのだな、と納得したが、前にも書いたように 10月の誕生目をもってですから念のため。それに、私にとってはその瞬間は、皆さんが思うほど重要ではない。さらに自由になる、という点は楽しみではあるけれど、いまやっていることを続ける、という点ではまったく変わらないからだ。お気遣いなきように、ね。(江本嘉伸)
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神長幹雄 |
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◆売れる本とはどんな本か。それは「面白くで為になる本」「感動させて得(した気分に)させる本」だと「山と溪谷社」編集者の神長さんは言う。そうした本を作る為の編集者の心得は次の6か条だそうだ。
◆[1]外に出る:机に座って資料を広げたりやパソコンをいじるだけでなく、外に出ていろんな人と会って話をしたり、いろんなものを見たり、いろんなもの感じたりすること。
[2](集めて)捨てる:いろんな情報をできるだけかき集め、吟味・分析してエッセンスだけを残し余分なものを捨て去る。しかしながらこの捨て去るということが実に難しい。ついあれもこれもと盛り込んでしまう。いかに捨てるかが大事なところ。
[3]己の感覚を信じる:いろんな人のさまざまな意見、感想などに耳を傾けることはもちろん必要だし大切なことだが、最終的には自分の感覚を信じるしかない。自分の感覚を磨く方法はいろいろあるが、その分野での一流の人に付き合うのが最もよい。
[4]二重の目をもつ:編集者の目と読者の目と二つの視点を持つことが大事。編集者の目は当然として読者の目を持つということは、ある一定の読者層をイメージして、今どんな本を読みたがっているかを彼らの側に立って想像力をめぐらすことだ。
[5]体力仕事である:編集とは肉体労働なり。知的な仕事だとは少しも思っていない。従って、出来るだけ体を鍛えておくことは必要なことだ。先日、練習の時間も無いまま佐倉マラソンに参加したが、約3時間半で完走出来て自信を持った。
[6]売る努力をする:普通、校了を終えるとその本に対して急に冷たくなり次の本の編集へと興味が移ってしまう。最後まで面倒を見ないといけない。実際に本屋の店頭に立ってどんな人が買っていくのかなどの売れ行きを確認したりすることが大事。
◆最近本が売れないとはよく聞くが、バブル崩壊後はほんとに売れないそうだ。そめため本の点数が大変多くなった。つまり本の寿命が短くなったということだ。また、携帯電話・インターネットなどの影響で新聞・本の活字を読まなくても平気な若者が多くなったことも原因か。ともかく、質の高い本を出版して生き抜いていくしかないとのことで、本好きとしてはこういう編集者がいてくれること自体が有難い。
◆一方で旅人としての神長氏はといえば、小田実「何でも見てやろう」の世代に属し、学生時代にアルバイトで得たお金で73年から74年にかけてアメリカへ旅立ったのが始まり。殆ど事前準備・調査なしで英語はロスで勉強すればいいやとか、シスコとロスは(飛行機で1時間くらいかかるが)歩いても1日くらいの距離だろうとかいったアバウトさ。
実際に現地に行ってみて、コリャイカンというのでミシガン州立大学で半年英語の勉強をすることに。日本人は一人もいず、寮ではアメリカ人といろんな議論を交わす。第二次大戦の話ではパールハーバーと広島を同列に論じることに違和感とアジア人への蔑視を感じたそうだ。前者は奇襲とはいえ車事施設への攻撃であるのに対し、後者は戦争とはいえ一般市民を含めた無差別攻撃・大量殺戮ではないか。時はベトナム戦争の最中であった。
◆お金がなくなり、ニューヨークヘ出て稼ぐことに。サンドイッチ工場のユダヤ人経営者にかわいがられ楽な仕事につくことができた。当時アジア人の賃金(2ドル)ば白人(4ドル)の半分であった。半年働いてお金も貯まり日本へ帰ることになった。アメリカで様々な形でのアジアへの差別と蔑視を感じて、これは是が非でもアジアを見なければならないという一種脅迫観念にも似た思いに駆られての帰国であった。
◆マスコミ関係に就職しようと各社をまわり、「山と溪谷」社に入社。その後は1年に10日〜2週間位の日程で2カ国位をまわる旅を大体毎年続けている。振り返って、以前から一緒に仕事をしたいと思っていた人たち――本多勝一、沢木耕太郎、本田靖春、佐瀬稔(故人)、近藤紘一(故人)――とは、一人(近藤紘一)を除いてそれが出来だとは何ともうらやましい。氏の好奇心と情熱と足(実際に自分の足を使うこと)の賜だろう。
◆インターネット、コンビニ、携帯電話など便利でヴァーチャルな世界が広がり、若者は余り汗を流さなくなった。単純作業をしなくなった。コミュニケーションが下手になった。われわれはこのような状況下で何をなすべきか。発信するべきことは言語を問わず恥かしがらずどんどん発表すべきだとの意見には勇気づけられる。(難波賢一)
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■地平線ポストでは、みなさんからのお便りをお待ちしています。旅先からのひとこと、日常でふと感じたこと、知人・友人たちの活躍ぶりの紹介など、何でも結構です。E-mailでも受け付けています。 |
[しげさん、ツアー初体験!]
ツアーでブータンに行ってきました。ブータンはとてもよかったですよ。空も海も。あ、これはのりすぎ、ヒマラヤだから海はないのよ。でもちゃんと山に桜も咲いています。添乗員さんの「ワイルド桜です」にへえーつ、そういうものなの、色は山桜より濃く花も小さいから桜の原種? 峠は素敵よ。あっという間にたくさんのタルチョーが霧の中。古刹タクツァン僧院の山道はやっとの思いで展望台までたどりつき、パロのお祭り最終日のトンドル(大掛仏)を拝んでありがたーくなりました。
ツアーの中には東都の大学のチベット仏教の先生もいて、その先生と同じくらい熱心な人もいて、勿論旅行だけが好きという人もいて、いうなれば修学旅行。中には去年5回あちこちのツァーに参加したという人もいます。ツァーは日程がぴっちりつまっていて、それを毎日セッセとこなします。参加者は日程を完全に消化してウーン、行った、見た!と一応の充実感で大喜び。個人旅行者ならたっぷり2週間から20日のところを1週間でまわります。(ブータンは個人でもガイドと車がつきますが)ウロウロと旅をして人生をムダにしてきたかな、と思うほどムダなしです。
世の中とムダな時間。これば永遠のテーマです。
4月6日 ムダ道の 金井 重より
地平線様。通信、いつも楽しく読んでいます。報告会もたまにですが、参加していつもいいな!と思っています。世の中にはたくさんの情報やサークルがありますが、私は地平線が大好きです。何でかなあ?と思うと、ひとつは旅が、世界中が興味が尽きない、という事と、またどういう旅をしたか旅した人の体験が興味深い事と、もうひとつは、これが私にとって地平線の一番の魅力だと感じているのですが、江本さんはじめ地平線に集まっている人たちの乗り、や考え方、そしてハートを感じるところがとても好きなのだと思います。これからも是非地平線を続けてください!
4月3日 三鷹市 村岡鈍子
ノノの奇妙な冒険――第3回 |
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▼我々日本人メンバーは11名、これにアニャーニャ博士を含むコンゴ人調査員(監視役かな?)3名、ボア村のガイド3名の総勢17名。この大人数が1ヶ月以上テレ湖で暮らすわけだから、当然大量の食糧がいる。肉や魚類はガイドが現地で獲ってくれることになっているが、主食はもちろん必要だ。
▼コンゴではマニオック(キャッサバ)と呼ばれるイモが主食だ。これば正確に言えばちょっと違うがヤムイモのようなもので、種類によっては毒もある。水にさらして毒抜きしたものを食べるが、すっぱ味があり食感はういろうに似ている.ボア村にはないが周辺の村では米も栽培されており、多少高いが常食もされている。そこで我々はマニオックと米をメインの食糧として計算し、持って行ったわけだが、テレ湖に着いて調べてみると、明らかに足りない。
▼大量の食糧、そして機材(充電用の発電機やそのためのガソリン、調査用のゴムボートなどもあるのでものすごい重量だ)を運ぶのは我々だけではとてもできない。当然ガイド以外にも30名以上のポーターを雇わなければならなかったのだ。つまりテレ湖への道のりは50名近い大キャラバンだったわけである。一応班編成をしてまとまって進むつもりだったが、ジャングルに慣れた彼らの足は速い。迷わないようについて行くのが精一杯で全体を把握して行くなどとてもできない。
▼そして、あとで発覚したことだが、我先に勝手に走って行くポーター達が食糧を隠し、帰りに持っていったというのが食糧不足の真相であった。おかずについてはガイドが狩りをして用意してくれたのだが、これが文字通り、ありとあらゆる物が獲物なのである。コンゴ地方にはアフリカでも数少ない“サル”を常食している人々が住んでいる。狩られた猿は毛を焼かれ薫製にされて市場で売られているのだ。猿だけではない。その時我々の食卓にのぼったものは、ワニ、カメ、大蛇、カワウソ、虫等々、何でもアリだった。(続く)
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4月6日、レゾリュートから北磁極へ飛ぴ、第一歩を踏み出した模様。
いきなり、乱氷帯と強風に阻まれた。
<The team reports by radio that they are in very heavy sea ice pressure ridges, making travelling difficult. They have travelled 8 miles in 3 fulI days. They are all well and in good spirits. Temperatures are in the minus 30 degrees Celcius range with winds from the north. Friday 7th April>
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4/28(金) 6:30〜9:00 P.M. アジア会館(03-3402-6111) \500 カワイソーの裏側 モンゴルは今冬、深刻な雪害に悩まされています。ゾドと呼ばれるこの天災の影響が一番大きいのは家畜。牧草の不足から、すでに180万頭の被害がでました。 |
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議(手数料が70円 かかります) |
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