The Chiheisen News 97


■悲報! 広島三朗さん、カラコルムで遭難
雪崩による爆風により、スキルブルム峰(7360m)のベースキャンプで

【NIFTY-Serve「地平線HARAPPA」より転載】

00323/00323 PEG00430 丸山 純 広島三朗さんが亡くなりました
( 1) 97/08/21 15:25

これまで山の遭難でいくつもショックを受けてきましたが、今日のはいちばん重い。我が家はテレビを見ないので知らなかったのですが、今朝、別件で江本さんに電話を入れたところ、昨日はどうも(写真展の打ち合わせがありましたから)、なんて挨拶はそっちのけで、「おい、広島サブローが逝っちまったぜい」と告げられて、頭のなかが真っ白になりました。

これまであちこちに電話をかけ、また電話がかかってきましたが、いまようやく、少し気持ちが落ち着いてきたところです。こんなときに書けるかという気分でもありますが、逆に書いていると少し気が紛れるかなと思い、マックに向かっています。

地平線会議の仲間というとあまりにも一面的ですが、登山家で、パキスタン通い50数回を誇る広島三朗(みつお。サブローはあだ名です)さんが、カラコルムのスキルブルム峰(7360m)で亡くなりました。もうみなさんテレビのニュースなどでご存じのことと思いますが、無事登頂を果たし、登山活動を終えて戻ってきたベースキャンプ(5300m地点)を雪崩によって引き起こされた爆風が襲い、テントごと数十メートルも吹き飛ばされてしまったそうです。ほかの5名の隊員も含めて、遺体はクレバスに落ちていて、まだ収容の見込みはたっていません。

『ヒマラヤの名峰』(平凡社)などでスキルブルムを調べてみましたが、写真を見ると、ピラミダルなかっこいい山で、とくに頂上付近がにょきっと、まるでロバかなんかの耳のように突っ立っていて、印象的です。「スキル」とは地元のバルティ語で「真ん中」という意味だそうで、「中央の山」ということですね。パキスタンと中国との国境に連なる、K2からムズターグタワーへと続く稜線上の、まさに要の位置にあります。初登頂は1957年。オーストリア隊です。

この隊のメンバーはベテランばかりのようで、1977年のK2隊の隊員が中心となって、登頂20周年を記念して企画されたものです。今回、いっしょに亡くなってしまった原田達也さんが副隊長(登攀隊長)で、中込清次郎さんも土森譲さんも当時の隊員でした。

それが、ベースキャンプにいながら、なぜ雪崩による爆風にやられたのか。広島さんと同様、パキスタンの登山の草分けで、おとといパキスタンのトレッキングから帰国されたばかりの雁部貞夫さんと電話で話しましたが、今年のパキスタンは雪がひじょうに少なく、いつもは真っ白に輝いている高峰の南向き斜面が、黒々としていたそうです。前にも書きましたが、いつもは12月中旬から5月中旬まで雪で閉ざされているレワライ峠(ロワライ峠・3118m)が、今年は2月の末からオープンしていたほどで、これも異常気象の一環なのかもしれません。

雪が少なかったので、岩に貼りついていた氷がむき出しになり、不安定になって崩落したのではないかと、雁部さんは見ています。それも、ベースキャンプの近くではなく、かなり高いところのものではないかとのことです。

広島さんは高校の先生という立場をうまく利用して、休みごとにパキスタンに出かけていました。若い頃は、許可がむずかしい国境近くや部族地帯の山域へ外国人として初めて(戦後初も含めて)入ることに情熱を燃やし、「広島三朗の前にここを通った人はいないし、その後も一人もいない」と、よく言われたものです。独特の笑顔と度胸と人間的な魅力で、規則の上では絶対に行けないところへも、ずんずん入り込んでしまう。パキスタンの観光省の役人も現地の警察も、広島さんの手にかかればころりです。で、なぜあいつを通らせたと、あとで問題になるので、後続の人間はもう行くことができない。それでいて、また広島さんが行くと、「サブロー、サブロー」と笑顔で迎えて通してくれる。

そんな独特の才能を発揮したのが、77年の日本山岳協会によるK2登頂でした。さまざまな事情から、登頂せずして帰れないプロジェクトとなった巨大な隊ですが、この遠征の実現のために、パキスタン側との交渉と日本での資金集めで、広島さんは4年間、死の物狂いで頑張ったようです。

広島さんは一時は先鋭的なクライミングもしていたようですが、パキスタンに魅入られてからは、むしろ探検的な登山をする人でした。ですから、第一次・第二次のアタック隊員には選ばれなかった。そこで、隊長に直訴して、第三次アタック隊員に選ばれ、見事登頂を果たします。あいつは強引に割り込んで、みんなに頂上まで押し上げてもらっただけだ、という批判をする声も一部にはあるようです。しかし、パキスタン側を説き伏せ、パキスタン人隊員やポーターと裸で付き合って隊を動かし、莫大な遠征資金を集めてまわったのは、広島さんです。K2は俺の山だ、と広島さんは思い込んでいたのも無理はない。

いろいろ批判が出ることは承知のうえで、新貝勲隊長が広島さんをアタック隊員に選んだのは、当然と言えるでしょう。それをはらはらしながら見守っていたのが、原田登攀隊長でした。いま、広島さんが書いた『K2登頂 幸運と友情の山』(実業之日本社)を見ると、そのあたりのいきさつを原田さんが前書きとして書いているんですね。そのお二人とも同時に亡くなるなんて……。

広島さんは天真爛漫に生きている人で、やりたいと思っていることにはとことん進んでいくタイプです。並外れた大声で、どこでも、相手がだれでも遠慮なく、自分の意見をはっきりと言い、通します。もともとの性格に、パキスタンで鍛えられた日本人離れした交渉能力が加味されたのでしょう。だから、悪く言う人もいますが、その分、慕う人も少なくありません。これから先、広島さんが常にリーダーシップをとってきた日本パキスタン協会のさまざまな活動や、一昨年から広島さんが引き受けて若い人たちが次々と加わってきたヒンズークシュ・カラコルム研究会の集まりなども、ずいぶんさびしくなると思います。

高校の先生をずっとやってこられたせいもあって、広島さんは若い人の育成にすごく熱心でした。地平線会議についても、そういう観点から応援してくれていたようです。地平線報告会には、1986年の11月に報告者として登場し、イスラムの密教とも言える聖者崇拝について、話してくれています。夏は北部山岳地帯を歩き、冬は聖者廟を訪ねてパキスタンの南部を歩くというのが、最近のスタイルでした。

とにかくパキスタンが大好きで、『地平線の旅人たち』(p.142)でも、パキスタンに行く人がひとりでも増えてほしいという、切なる思いが伝わってきます。『地球の歩き方』のパキスタン編をほとんどひとりで作り、毎年の改訂に情熱を燃やしていたのも、その現われですね。今度の登山では、パキスタンの英国からの独立50周年の記念日に登頂を狙っている、と言っていたほどです。

『旅人たち』にも書かれていますが、当初はK2の20周年を記念してチョゴリザ(7668m)に登るという計画であったようです。昨年秋のヒンカラの集まりでもチョゴリザへ行くという話を聞いたような気がします。どんな事情でスキルブルムになったのかわかりませんが、ヘルマン・ブールが遭難死し、京大隊が1958年に初登頂したチョゴリザに挑んでいたらどうだったかと、ちょっと複雑な思いを抱いています。前回はイスラム聖者学会としての報告でしたから、そろそろ広島さんに、K2以降の山登りについて地平線報告会で語ってもらってもいい頃だなと、そのときふと思ったのですが……。

日本でもショックを受けた人がたくさんいるはずですが、パキスタンでもこれは大きなニュースとなっていると思います。登山関係者はもちろん、政府高官からあちこちのホテルの従業員、山奥に住む土地の人たち(元ガイドやポーター)まで、あのサブローが死んだなんて、だれも信じられないと言うに違いありません。遭難からはいちばん遠い登山家だったように感じられてならないのです。テレビで広島さんの顔写真を見ても、まだ信じられません。クレバスの奥からのっそりはい上がって、「やあ、おもしろい体験をしちゃったぜぃ」と笑顔を見せてくれるような……。

なお、今度の遭難で亡くなった方のうち、広島さんと中込さんが、怪我をされた鎌田実さんと松田謙介も、去年秋のヒンズークシュ・カラコルム研究会の席で『DAS』を買ってくださっています。そういう意味のショックもありました。これまで挨拶を交わすだけだった原田さんとも、あのとき初めてちゃんと話をしました。

今年の『地球の歩き方』には、わざわざおととし亡くなったチトラルのブルハン・ウッディーン殿下といっしょに写っている写真を掲載し、哀悼の意を表した広島さんが、今度は亡くなってしまいました。9月にチトラルに行ったら、まずブルハン殿下の墓前にこの悲しい事実を報告しなければと思っています。

ご冥福を心からお祈り申し上げます。

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地平線通信214(97年9月号)より転載
広島さん、安らかに

■「おい、広島サブローが逝っちまったぜ!」。8月21日の朝、別件で江本嘉伸さんに電話したところ、いきなりこう告げられて、広島さんはいったいどこへ“行”ったんだろう、などと0.5秒ほど考えてしまった。あの広島さんと“逝”という字は、どうしても結び付かない。それが、もう会えないという意味なのだとわかったとたん、頭のなかが真っ白になり、その日はなにも手につかなかった。

■広島三朗(みつお。サブローはニックネーム)さんは、1986年11月の地平線報告会に登場し、イスラムの密教とも言える聖者崇拝について報告してくれている。昨年刊行の『地平線の旅人たち』にもそのあふれる思いが綴られているが、パキスタンの自然と人々にとことん惚れ込んでしまっていた。パキスタン通いは、通算55回を数えるという。夏は教員仲間らと北部山岳地帯の登山やトレッキングを楽しみ、冬は聖者廟を訪ねてパキスタンの南部を歩くというのが、最近のスタイルだった。

■今日のように開放地域が増えてカラコルムやヒンドゥークシュを気軽に歩けるようになる前、広島さんは「ミスター・ノーパーミッション」と呼ばれていた時期がある。国境が近くてとうてい入域許可など降りないはずの峠も、あの日本人離れした物怖じしない態度と底抜けの笑顔で、なんなく通り抜けてしまうからだ。あとでほかの人間が出かけても、追い返されるだけ。77年のK2隊の実現に際しては、ルートの偵察に、現地との交渉に、そして日本での資金調達に、この並外れた能力が大活躍した。国境とか官僚主義とか縄張り意識とか、そういう人為的な障壁にぶつかると、めらめらと闘志が湧いてくるらしい。

■それでいて自然にたいしてはどこまでも謙虚で、登山のスタイルも慎重だった。けっして無理はせず、山のご機嫌のいいときに登らせていただくというスタンスを貫いた。また、若い人たちの育成にも熱心で、自らの行動で示すことによって夢と情熱を与えたいと、いつも張り切っていた。

■パキスタンに行きたいという人には、昔から実戦的で詳細なアドバイスを惜しまなかったが、さらにそれを押し進めて、あの分厚い『地球の歩き方―パキスタン編』をほとんど一人で執筆した。最近は改訂にも情熱を燃やしていたが、今年の号には、大の親日家として知られるチトラル王家のブルハン殿下が一昨年亡くなったのを偲んで、いっしょに並んで写った写真をわざわざ掲載している。ところがその広島さんも、亡くなってしまったのだ。

■今月の28日、鎌倉で合同のお別れの会が開催される。ちょうどその頃、私はチトラルに到着し、ブルハン殿下の墓前にこの悲しい事実を報告していることだろう。広島さんがお気に入りだったあの写真の場所、ドロムツ館のチナール(スズカケ)の木陰で風に吹かれながら、あらためてご冥福をお祈りしたいと思っている。[丸山純]

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