れんさい・地球探検シリーズ…4

地球探検シリーズでは、世界じゅうのさまざまな土地を探検している「地平線会議」の仲間たちの行動をしょうかいしていきます。



世界の戦場をかけめぐる
                              惠谷治さん

今回登場していただく惠谷治さん(39)は、早稲田大学探検部出身のジャーナリスト。ペンとカメラを武器に、アフリカ各地やアフガニスタンなど、危険に満ちた世界の戦場をかけめぐって、独立と平和をめざして戦う民衆や兵士たちを取材しつづけています。

「ここからアフガニスタンです」。

 ゆるやかな峠をこえたとたん、案内のゲリラがぽつんと告げた。国境といってもなにか標識があるわけではない。まるはだかで1本の木も生えていない岩山がどこまでも連なり、これまで歩いてきたパキスタン側とまったく同じ風景がつづいている。 惠谷さんがハザラ族の男に変装し、歩いてアフガニスタンに潜入したのは、1980年3月のことである。急激に社会主義化を押し進めようとするアフガニスタン政府と、その手助けのために派遣されたソ連軍を相手にして、反政府ゲリラたちは、山がちな国土のあちこちで激しく抵抗をつづけていた。

「パキスタン西部のペシャワールという街に、ゲリラたちは武器や燃料などを仕入れるための本部をもっています。そこに取材を申し込み、ゲリラが支配している地域の戦場まで連れていってもらうことになりました。アフガニスタンにはさまざまな民族が住んでいますから、だぶだぶの現地服を着て頭にターバンを巻き、ひげを伸ばせば、日本人だと疑われる心配はまずありません」。

 たび重なる検問を変装のおかげで無事にくぐりぬけて国境をこえ、ゲリラたちの秘密基地を転々と取材した。実際の戦闘のようすを確かめたくて、銃弾の飛びかう最前線へも何度か行ってみた。身をかくすものが何もないところでソ連のヘリコプターに空から攻撃されたり、暗やみを利用して敵の戦車を爆破した直後、自分だけ少し逃げおくれてあわやという思いをしたり、きわめて危険な命がけの取材だった。

「やはり最前線まで行くのは、何回経験してもすごくこわいものです。ほんの数センチのところで銃弾がそれて助かったことも、何度かあります。しかし戦争の真実のすがたをきちんと伝える記事は、そこまでしなければとても書けません」。

 アフガニスタンは、現在は農民が7割を占めるといわれるが、もともとさまざまな部族からなる遊牧民の国だった。人びとは武勇を尊び、イスラム教を熱心に信仰している。

「イスラム教徒は、ただ1人の絶対の神に向かって1日に何度も祈りをささげます。となりでたばこを吸っている者がいてもまったく気にしないで、神と自分の2人だけの世界にはいっていくんです。これまで旅や取材をした土地のほとんどがイスラム教の国で、いつもそのすがたに感動してきましたが、アフガニスタンのゲリラたちの信仰はひときわ深いようです。自分たちの戦いを“聖戦”と呼び、死をおそれることなく、神のために戦いつづけています」。


●父の影響であこがれた外国
 惠谷さんは東京に生まれたが、幼稚園のときに広島県の尾道に引っ越し、造船所のある向島という島で少年時代をすごした。外国船がよくやってきて、そのたびに海の向こうへ行ってみたいとあこがれたという。

「わたしの父親は、太平洋戦争中に日本軍の士官としてインドネシアにいたそうで、幼いころからそのときの体験談をよく話してくれました。言葉さえできれば、外国人とも簡単に心を通じ合わせることが可能なんだということをくり返し聞かされたおかげで、自分も外国へ行くのが当然のように思いこんでいたようです」。

 学校が終わるとまっすぐ家に帰り、1人であれこれと考えごとしているのが好きという、もの静かな少年だった。あまり運動が得意でなく、中学では新聞部にはいって、取材から割り付け、印刷までを1人でこなしたり、郷土研究部で古老の話を聞いてまとめたりしていた。

「そんな少年が高校に入学したとたん、先輩からラーメン1杯おごるからとたのまれたのがきっかけでラグビー部にはいってしまったので、みんなびっくりしたようです」。

 全身でぶつかりあうラグビーの魅力に惠谷さんはすっかりとりつかれてしまい、どんな雨や雪の日でも休まずに練習をかさねた。チームも見違えるほど強くなり、県大会で2度も優勝する。その一方で勉強にもはげみ、いつも成績はトップクラスだったそうだ。


●三原山の火口探検
 早稲田大学に入学した惠谷さんは、外国へのあこがれから、探検部に入部した。部員たちは世界の秘境をつぎつぎとおとずれていたし、夏休みの合宿は韓国でやったりして、世界をみつめたその活発な活動には、目を見張る思いだった。そんな自由な空気のなかで惠谷さんが始めたのが、伊豆大島の三原山の火口探検である。 1968年7月に第1回めの探検をおこない、噴火口から90メートルの深さまで降下して、はるか下に神秘的な溶岩湖を確認した。

「真っ赤なマグマがおどりくるい、地球内部のエネルギーが勢いよくほとばしり出てくるようで、まさに、地底に太陽を見た、と思いましたね」。

 小さな爆発がおこっても命とりになるという、きわめて危険な降下だったが、卒業するまでに合計4回の探検を試みて、大きな成果をあげた。


●青ナイルの水源をもとめて
 1973年の12月、惠谷さんは2人の後輩とともに、青ナイルの水源地帯をめざして、エジプトのカイロを出発した。世界で一番長い河川であるナイル河は、スーダンで白ナイルと青ナイルに分かれるが、本流の白ナイルは、早稲田大学探検部の先輩たちが、アフリカ中央高地の密林から流れだしていることを4年前に発見していた。そこで惠谷さんたちは、支流の青ナイルのほうの源頭をつきとめようと考えたのである。

「もっとも困難だったのは、スーダンのはずれからエチオピアに西部にかけて、交通機関がまったくない土地を2週間がかりで歩いて横断したことです。ライオンや毒ヘビ、サソリなどの危険があるし、マラリアもはびこり、おまけに山賊まで出るといわれてたので、後輩2人は遠回りの安全なコースへ行かせ、1人でロバを連れて出発しました」。

 暑さがひどく、野宿している近くにライオンがやってきたことはあったが、無事に歩きとおして後輩たちとも再会し、水源地帯へと向かった。

「ところが、ようやくたどり着いた青ナイルの源頭は、のどかな丘陵地帯の森のなかにあり、土地の人ならだれでも知っているところでした。きびしい旅のあとだけにそれなりの満足感はありましたが、なんだかとてもむなしい気がしましたね」。

 当時の惠谷さんは、より大きな危険のなかに自分を置くことを常に考えていたという。危険とは死に近づくことだが、それが逆に生きている実感をもたらしてくれる。今回の旅は物足りなく感じられた。
 旅が終わりかけたとき、エチオピア北部のエリトリア地方が、エチオピアからの独立をもとめて戦っていることが頭にうかんだ。

「そうだ。戦争というのは、ライオンなんかよりずっと危険なものに違いない。しかも戦場に着くまではライオンのいる土地を旅していかなければならないわけだし、もともと政治に興味があったので、今度はエリトリアに来ようと決心しました」。


●エリトリアから世界の戦場へ
 日本に帰国し、1年間働いて資金をかせいだのち、1975年の11月、惠谷さんはゲリラ組織の手引きで、念願のエリトリアに潜入した。

「サバンナの草原から砂漠、高原地帯と、エリトリアの全域をジープで走りまわり、人びとの暮らしぶりや最前線の戦闘などを取材しましたが、これこそ自分がやりたかったことだと、つくづくと実感しましたね」。

 空と陸から攻撃をつづける強力なエチオピア政府軍に対して、ゲリラたちは地形や暗やみをたくみに利用して奇襲をかける。このような戦場に外国人ジャーナリストを連れていくと足手まといになり、そのために味方が命を落とすかもしれない。

「それでも最前線まで連れていってくれるのは、こいつは絶対信用できる男だという、人間としての信頼関係ができあがるからです。ばらばらといっせいに退却するときに1人とり残されたら、もう完全にアウトですからね。ぎりぎりの状況でもわたしの存在を忘れないでいてくれるぐらいの関係になっていないと、とても最前線までは行けません」。

 信頼関係をつくるために、惠谷さんは、現地で使われている言葉は2週間で覚えるようにしているという。まず文字と数字を覚えて、地図や標識が読めるようにし、さらに簡単なあいさつ語を覚えると、ちょっとした取材には不自由しない。
 またゲリラたちが知らない最新の武器について、射程距離や破壊力、使い方など、こまかい知識を教えてやったり、戦場でも足手まといにならないという体力も示して見せる。

「ここまでやってはじめて『それじゃ、おれたちといっしょに死んでもいいなら最前線に連れていってやろう』ということになるわけです。ライオン相手ではなく、こういう人間とのやりとりがおもしろいんですね。行く先ざきでこれを0からくり返して、前線のようすをさぐるわけです」。

 こうして、探検部でつちかった経験を生かした、惠谷さんならではの取材をつづけた。そして3年後にも2度めのエリトリア取材をしたあと、惠谷さんは西サハラ、アフガニスタン、西ソマリ、チャドなど、世界各地の戦場に足を伸ばすようになる。さらにソ連や東ドイツ、北朝鮮などへも出かけて、秘密のベールに包まれた国ぐにの実態をさぐり、その成果を何冊かの著書にまとめあげた。

「戦争をしている地域というのは、歴史的にも地理的にもさまざまな問題があった土地で、過去のしがらみが現在まで尾を引き、真実のすがたというのはなかなかつかめません。そういうなぞだらけの土地へ実際に行き、人びとの心をさぐっていくと、未知のことがらが少しずつ解明できる。いまジャーナリストとしての困難な仕事をつづけているのも、そんな探検としてのおもしろさをあじわえるからなんでしょうね」。

〈『こどもの光』1989年4月号〉



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