99年9月の地平線報告会レポート


●地平線通信239より

報告会レポート・239
「ジャーニーラン」新しい旅の始まり
田口幸子+中山嘉太郎
1999.9.24(金) アジア会館

◆「会場が取れていない」という、まさかのアクシデントに見舞われた今回の報告会。他の部屋も空いていなかったため、アジア会館の食堂をお借りして行われた。

◆中山嘉太郎さんは、韓国のソウル〜釜山(約500km)を、8日間で走破した。走りながら歩道のレンガの凸凹が気になったなんて、実際に走らなければ感じることができないことである。正直なところ私には、「500km走った」と聞いてもすぐにピンとこなかった。距離というものの感じ方は、人によって、そのときの状況によって違ってくるのであろう。中山さんにとっての500kmとは、どれだけのものなのだろうか。それを中山さんは気負うことなく話す。その口調からは、走ることへの想いが伝わってくる。

◆だが、500kmで驚いている場合ではなかった。中山さんは、日本でただ1人のデカトライアスロン完走者だ。デカトライアスロンとは、38km泳ぎ、1800km自転車をこぎ、422kmを走る、というもので、中山さんは約12日間で完走。しかも、変わりゆく景色を楽しみながら自転車で1800km走っていたのではない。1800mのトラックを1000周。水泳も、プールをひたすら往復するとのこと。その時の記録がきちんと残っている。人間にはこれだけのことができるのだ。

◆田口幸子さんの「遊ぶのが下手っていうことは、生きるのが下手っていうことなんです。」「引退したら遊ぼうなんてことは言わず、公私混同しながら遊ぶ」という言葉が印象に残っている。

◆田口さんは、サハラマラソンに出場し、見事完走。全装備を背負い、214kmを7日間で走りきった。もともとクロスカントリースキーがメインであったが、その後自転車レースやマラソン大会にも出場し、数々の成績を残している。登山も楽しむ。山菜とキノコ採りの名人で、釣りもかなりの腕前だとか。

◆田口さんご自身は、自ら進んで経歴についてお話するつもりはなかったようだが、経歴を聞くと、国際舞台で活躍するとはこういうことをいうのだ、と思わずにはいられない。モンゴルの国会で表彰されたこともある方なのである。

◆国連職員の時は「北欧で会議があれば、そのついでにクロスカントリースキーのレースに出てくる」、JICA職員の時は「ダム建設地を視察に行けば、山に行ける」――これが田口さんのいう「公私混同しながら遊ぶ」ということだ。ただ遊ぶだけでもなく、「仕事が忙しいから何もできない」と嘆くのでもない。時間の使い方がとても上手なのだろう。さらに「仕事は5年くらいで変えた方がいい。その方が緊張感がある」 とも。

◆今は、指圧師としてボランティアに励んでいる。地平線会議の人たちへのメッセージとして、「もっと社会に還元しろ、と言いたい。もっと周辺の人たちとシェアしよう。そうすれば、今より生き生きする人が増えるはず。それがこれからの<いい遊び>だと思う。1人で嬉しがっているだけでなく、社会に還元する方法を考えよう」と。

◆仕事も趣味も、自分がやりたいことはする。1人で楽しむだけでなく、社会に還元する。そのような生き方に、憧れつつも実行できないでいる人が多いように思う。それを実践しているのが、田口幸子さんにほかならない。

◆中山さんも田口さんも自らの限界に挑戦した結果、「日本で初めて〜を成し遂げた」という記録を持っている。「生命」という視点から捉えれば、限界に挑戦することは大切なことだ。なぜなら、自分たちの限界の幅を広げていくことによって、様々な環境下で自分たちが生き延びる可能性を広げることになるからだ。ただ、人間はその途中で記録に残そうとする。何かを表現しようとする。どうして人は何かを表現し、伝えようとするのか。それは、漠然としていたものを何らかの形にすることによって、自分という人間が、ここに確かに存在したということを残したいからではないだろうか。100%完璧にはできないかもしれない。しかし、敢えてそれに挑戦するのが人間なのではないか。アジア会館からの帰り道、そんなことを考えた。[大井田ひろみ]



《企画者からの一言》

「20年目の地平線」の第3弾として「新しい旅の始まり」を語る企画をしました。バーチャルな旅が主流になる中で、自分の足で体験をしていくという「地平線会議」本来の旅を見直すことが、新たな旅の出発になると考えたからです。田口幸子さん、中山嘉太郎さんは私が見るところでは、賀曽利隆さんと甲乙をつけがたい世界的「遊び人」です。彼らを通して新たな空間概念、思考感覚を聞くことができて幸せでした。終わったあとで田口さんが「三輪さん、自分の言いたいことを私らをダシにしてしゃべりたかったんだろう」と言いました。まさにその通りで、私の企画は大成功でした。

※始まる前、なんとアジア会館の会場を予約していないことが分かり大慌てをしました。「地平線会議は場所も決めずに人を呼ぶのかい?」と言われてましたが、食堂の一角をお借りして無事開始。講師のお二人には何ともお詫びのしようなし。この場を借りて陳謝。アジア会館のみなさまにも感謝。台風の中ご来場のみなさまには江本さんのお詫びビール。[1979年9月、第一回報告会登場の三輪主彦]


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