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棚橋靖(35) |
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◆報告者の棚橋靖さんが、会場のアジア会館に駆けつけたときは、もう午後6時半をまわっていた。カラコルムから帰ってきたばかりなのに、報告会の翌日にはネパールへ行く仕事があって、その準備で大変だったらしい。大急ぎでプロジェクターにスライドをいれる作業をやっつけて、さて、それから始まった。
◆学習院大で山岳部暮しを送った棚橋さんが、8000mの高度を知ったのは、90年のチョー・オユー(8201m)だった。当時 27歳、「学習院大学西蔵登山隊」に参加、第1次アタックに選ばれ、見事に登頂を果たしたのである。もともと「登山よりは冒険と旅の世界への関心が高かった」ので、このあとアジアの各国をさまようこと1年半、でも2年後には、ガッシャブルム1峰(8068m)をめざす「早稲田クラブ登山隊」のメンバーとなっていた。7900mで断念したこの登山に続き、K2(8611m、94年)、カンチェンジュンガ(8586m、95年)、ダウラギリ(8167m、 97年)と、以後棚橋さんの挑戦は、すべて退けられてしまった。97年6月には北米大陸最高峰のマッキンリーに1週間のうちに別ルートから3度登頂、という離れ業をやってのけたほど、力はつけていたのにだ。
◆そして今年、ナンガ・パルバット(8126m)単独登頂をめざした。単独での登山許可がやっかいだったので、「太陽と風の会」隊という、男女3人の日本隊のメンバーに「独立隊員」としていれてもらっての挑戦だった。7月26 日、5600m付近でその大宮秀樹隊長が滑落死する事故が起きた。どうするか。棚橋さんは、撤退することは考えられなかった、という。他のメンバーと相談し、事故の処理を済ませたあと、ひとり、頂きに向かった。ただし、当初の目標だった、メスナー・ルートを変えて、西面一般ルートから。無論酸素の助けなしのアタックだったが、身体は快調だった。そして8月10日、ついに登頂。8年ごしの8000mの風を、感動とともに味わった。
◆棚橋さんのトレーニングに、富士山速攻登山がある。若いヒマラヤニストたちとともに競争して登った時には御殿場口から2時間40数分で登った、というから相当にタフだ。
◆が、ヒマラヤに限らず、アフリカ、南米、と棚橋さんの夢は広がる。報告会でもその一端がスライドとともに披露されたが、テレビ取材斑として異郷に出かけることも多い。[photo :報告会終了後の受付の前で。 翌日にネパールに出発するため、ザック姿]
◆8000mのてっぺんと、辺境の旅の両方を体験した、慎ましやかな独身30男は、いい笑顔をしていた。[ホライゾン]
●NIFTY-Serve「地平線HARAPPA」のログより
01246/01247 PEG00430 丸山 純 遅れ馳せながらの報告です
( 1) 98/10/05 11:15 01181へのコメント
●なんとなく書きそびれてしまいましたが、先月25日の地平線報告会について、ちょっと感想を書いておきます。
私は30分ほど遅れてしまって、着いたときにはもうスライドが始まってしまっていました。ちょうど昨年(だったと思います、なんか記憶が薄れてしまった)のマッキンリー(デナリ)登山の話だったんですが、これは予定では戸高さんといっしょの行動のはずだったんだそうです。
ところが、成田に着いたら、パスポートがない! けっきょく棚橋さんだけ、 3日後の便で現地に向かうことになったとか。これまで私も何度も(年に2〜 3回)、空港でパスポートや航空券がなく、目の前で飛行機に行かれてしまうという悪夢にうなされたことがありますが、現実にそれをやっちゃった人に直接会ったのは、棚橋さんが初めてです(^^;。
●長野君の地平線通信の案内では、棚橋さんはあくまでも先鋭的な登山家で、これまでの一連のヒマラヤ遠征の話をしてくれるように書かれていましたが、続いて見せてくれたスライドは、本格的な山の写真だけでなく、テレビの取材(ニュースステーションによく登場する大谷ディレクターのチーム)などで訪れた、世界各地の辺境に暮らす人々や風景の紹介がずいぶんと混じって、とても楽しいものになりました。
エチオピアの最高峰を登りに行ったときに出会った、荒涼とした台地に住む原始キリスト教(コプト)を信じる人たち。ムスタンのさらに奥へと向かった夏と冬のネパールの旅と、雪山を湖面に写してひっそりとたたずむ、宝石のような青い湖。平坦な雪の台地をスキーで何日もかかって進んで登った、グリーンランド南部のウエムラ峰の登頂と、地元のホテルにあった植村さんのレリーフ。高度も低く、湿度が高くてじめじめした東チベットに住む、どこかインド的な風貌のチベット人の少女たちと、ゴルジュとなって流れるヤルツァンポーの大屈曲部。そして西チベットにそびえる聖山カイラスと、透き通る聖なる湖、テントで暮らす人々、ゆったりと流れるヤルツァンポー……。
ご本人は「実質的には雑用係ですから、あくまでもプータローなんですよ」と謙遜されていますが、テレビ取材の裏方として、こうした自然環境の厳しい、なかなか個人では入ることのできない土地を旅することができるのは、貴重な経験になったんじゃないかと、つくづくうらやましく思えました。とくに、ネパールやチベットの高所に何度も行っているのは、高所順応という意味でも、役に立ったんでしょうね。
●そしていよいよ、昨年のナンガパルバットの話になりました。最初の部分を聞き逃してしまったのでよくわからないのですが、棚橋さんは最初の90年のチョー・オユーは登頂したものの、92年のガッシャブルム、94年のK2、95年のカンチェンジュンガ、97年のダウラギリと、ヒマラヤの8000メートルに出かけては、さまざまな理由で(とくに自分の実力のせいではなく)失敗しています。だから今度のナンガは、とにかく登頂したいという気持ち強かったのだそうです。
いまのパキスタンの登山では、個人では許可が出ませんから、3人から成る日本人パーティと表向きはひとつの隊を構成し、イスラマバードから陸路でカラコルムハイウェイを行き、麓の村で小さなキャラバンを仕立ててベースキャンプ入り。本隊のベースキャンプの一角に張った、棚橋さんの小さなテントを見ていると、これが8000メートル峰の登山とはとても思えないくらいです。
当初はメスナーが登ったルートからの第2登をめざしていたのですが、まず高度順化のためにノーマルルートを登っていたところ、別行動をとっていた本隊の隊長(26歳で昨年秋に結婚したばかりとか)が滑落するのを間近で目撃。そして遺体を下まで降ろし、ヘリコプターでイスラマへ搬送することに。隊長が死亡したので、当然他の2人は登山活動を中止して山を降りたのですが、棚橋さんは残って登山活動を継続することを決意します。
ただし、当初めざしていたメスナールートは、やはり事故のショックで気力的に無理と判断し、ノーマルルートからの登頂に切り換え、天候の回復を辛抱強く待ちながらじりじりと高度を上げて、月明かりに照らされながら最終アタック。そして、あいにくの雲のなかでほとんど視界はありませんでしたが、なんと朝の9時(8時でしたか?)には頂上に着いてしまいます。
棚橋さんは登頂には成功していなかったものの、日本の登山界では最強の一人と言われているらしく、富士吉田から2時間で富士山頂についてしまうほどだとか(←↑→このあたりの数字はちょっと自信ありません)。9時に頂上に着いたというのは、とんでもないスピードなんだそうです。
●その後は質問の時間になり、1997年5月の第210回地平線報告会の報告者で、 95年にナンガの北面ルートからの登頂に成功した千葉工業大学隊の隊長の坂井広志さんや、ヒマラヤの高所を走ろうと準備しているウルトラランナーの香川澄雄さん、そして江本さんらから、いろいろ質問が出ました。とくに江本さんが、なぜ仲間が滑落死したのに中止せずに登ることにしたのかと聞いたときには、一瞬会場が、シーンと静まり返ってしまいました。
慎重に言葉を選びながら棚橋さんは当時の気持ちを語ってくれましたが、登山関係者相手の報告会と違って、あくまでも一般相手の集まりですから、ずいぶん答えるのに苦労されていたようです。私もいまとなってはうまくまとめられませんが、これまでの失敗続きのなか、ここでなにがなんでも8000メートルの頂に立っておきたいという強烈な意志があった、ここで登っておかないと以後の登山人生に決定的な転換期になってしまうと彼が自覚していたことが、強く印象に残っています。
これはあくまでも私の個人的な感想ですが、ここまで強い棚橋さんの意志は、きっと亡くなった隊長さんもわかっていたはず。自分のせいでまたもや棚橋さんが敗退することとなったら、きっと彼も残念に思ったのではないか。少なくとも、遺体を困難な場所から降ろしてきたことだけでもじゅうぶん務めを果たしたのではないかと、そんな印象を持ちました。
●念願の登頂を果たしたいま、これからなにをしたいと思っているのかという質問には、今回ノーマルルートからの登頂になってしまい、まだまだヒマラヤ・カラコルムで困難な登攀にチャレンジしたいという気持ちがあること。ただ、クライミングだけではなく、山に住む人たちを訪ね、その暮らしを見ることにもやっていきたいという回答が返ってきました。[photo :棚橋さんに質問をする坂井広志さん。95年にナンガパルバットの北面ルートからの登頂した千葉工業大学山岳部隊の隊長]
●そうそう、ちょっと余談めきますが、今回棚橋さんが見せてくれた写真のなかに、すごく強烈なものがありました。毎年何隊も登山隊が入るナンガパルバットのノーマルルートは、ザイルやフィックスロープ、ラダー(ワイヤー梯子)などがそのまま置き去りにされているんですね。それが雪の下から顔を出して、まるで色とりどりの紙テープを上から投げたように何本も垂れ下がっていて、クライマーはいやでもそれをつかんで(強度が落ちているだろうから、何本もわしづかみにして)登っていくんです。
自分がめざすルートではなく、あくまでも高度順化のためにノーマルルートを登っているにすぎないから、先人の残したものを利用して登ってもさほど気にならないのかもしれませんが、あんなところまではるばる出かけて“ゴミ”を相手にしなければならないのかと思うと、ちょっとやりきれない気持ちがしました。
7月の続さんの報告でも、酸素ボンベの散らばる汚いテントサイトの写真がありましたが、いまや俗世をはるかに離れた8000メートルの世界でさえ、こんな状態なんですね。同じ山に複数の隊が取り付いていて、近くをせっせと登り降りしていては、せっかくの単独登攀もだいなしでしょう。だからこそ、戸高さんはあんなスタイルを貫き、山との一体感をたいせつにしているのだなと、つくづくと感じました。
●どうも10日ほど過ぎてしまったので記憶があいまいです。新井君、武田君、もし気になるところがあったら、指摘してください。[photo : オペル冒険大賞事務局の仕事を終え、いまは山にこもってガイドをしている菊地夫妻がひさしぶりに顔を出してくれた]
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