98年7月の地平線報告会レポート



地平線報告会225から
月へのベースキャンプ
続素美代
98.7.31(金) アジア会館

報告会会場風景◆確か80年頃に「ちょっとエベレストまで」という本を読んだ記憶があります。内容は普通のウィークエンドクライマーが休暇をやりくりしてエベレスト=チョモランマの登頂に成功するというお話だったように思います。今回の報告者である続さんのエベレスト登頂はどことなくそんな軽いノリで成功してしまったような印象を世間に与えている感じがします。

◆偶然、飛行機で隣り合わせたドイツ人のクライマーに誘われて、90年、チョモランマへ行き、全く初めての登山なのに、キャンプマネージャーとして7000mを経験します。よほど、高所に強い体質なのでしょう。その後もヒマラヤ、カラコルムなどをトレッキングして回り、肉体も精神もヒマラヤに順化していくのを自覚します。そして92年夏、チョオユー(8201m)の無酸素登頂に成功します。これはもう立派な登山家でしょう。

◆93年夏、ブロードピーク(8047m)登山隊参加。95年春、日本大学エベレスト登山隊に取材班として同行。96年、IMAX(アイマックス)映画「エベレスト」出演のため、ネパール側よりエベレストに挑戦。天候の急変でエベレスト史上最大の悲劇があったことはまだ記憶に生々しいところです。ロブ=ホール、スコット=フィッシャーなど英雄の死、ベック=ウエザーズの奇跡の生還。そして、日本人女性としては二番目、女性最高齢の登頂者となった難波康子のサウスコルでの死。そうしたショックを乗り越えて登頂を目指しますが、咳込んで肋骨を折り、安全を優先する隊長の命令によりサウスコルで涙をのみます。登れる自信があったので、相当残念だったようです。

◆同じ年の夏、ラッセル=ブライス(ニュージーランドの登山家・冒険家)の公募隊に参加してチョオユーに二度目の無酸素登頂を成し遂げます。

◆97年春、ブライスの公募隊で再びチョモランマへ中国側からリターンマッチ。しかし、この年はBCからずーっと体調が思わしくなく、結局8400m地点で断念します。

◆98年春、三度、チョモランマへ(この時もブライスの公募隊)。今度こそは決着をつけねばならない。あの96年春に起こった諸々に区切りをつけねばならない。恐らくこんな気持ちだったのではないかと忖度します。4月中旬、ネパールのカトマンドゥから中国側に入ってBC建設。体調も良好で荷揚げにも参加。天候も概ね良好。そして遂に5月25日、チョモランマ山頂(8848m)に。「…多くの人の支えがあってこそ辿り着いたチョモランマの頂上だ。
『長かったなあ…』。これまでの思いが一瞬、頭の中を駆け巡った。…中略…。ただ気持ちはとても軽くなっていることに気がついた。何かとても大きな荷物を降ろした時のように…」(『山と渓谷』98年8月号』)。北稜ルートからでは日本女性初、女性登頂者としては日本で三人目の快挙が成し遂げられたのです。

体験を語る続さん◆こうして彼女の登山歴を追ってみると、至極当然のようにエベレストへ登れた気がします。年齢的にも30歳と、最も強い時期に当たっています。彼女の言葉によれば、90年から98年のエベレストに至るまでのほぼ三分の一の年月はヒマラヤに行っていることになるそうです。理想的といっていい順化(肉体的・精神的)の環境でしょう。エベレストに登るのなら、エベレストやその周辺でトレーニングをした方が日本でするよりも効果ははるかに大きいはずです。


◆高所登山には天性の素質をもっているようですが、二度とエベレストには登りたくないといっています。今後、彼女がどんな事をやるかやらないかとても気になるところです。また、山をやるもよし、月に行くもよし、全く違う何かもよし、何もしないもまたよし。

◆「エベレストに登頂したという経験は、その人間を幸福にするか不幸にするか」(『エベレストを超えて』;植村直己1982年より)[難波賢一](地平線通信225号より転載)

 



●NIFTY-Serve「地平線HARAPPA」のログより

00999/00999 PEG00430 丸山 純 世界の一流だけを相手に
( 1)  98/08/03 15:31 00993へのコメント

報告会が終わって●さきおおといの地平線報告会、私のように山をやっていない人間にとっても、たいへん興味がありました。日本の山岳界ではほとんど無名の女性が、いきなりチョモランマに登ってしまった。

でも、なんといっても8848mです。7000mあたりまでは体力さえあれば素人でもなんとか行けるかもしれませんが、そこから先の高度となると、話はまったくちがってくるはず。同じ8000m峰といっても、エベレストやK2と、8000をちょっと越えたぐらいのその他の山では、ぜんぜん困難さが違うという人さえいます。

続さんという方、いったいどんな経歴の持ち主なんでしょうか。

●ちょっと遅れて行ったので、以下は途中からの理解にすぎませんが、松田さんをはじめ、みなさんも興味津々だと思いますので、ざっと聞いた続さんの経歴を紹介しておきます。たぶん、途中の経緯を端折って話されているので、ウッソーという感じに聞こえてしまうかもしれません。でも、だいたいはこんな話でした。

【1】きっかけは飛行機のなかでの会話

それまでフランス語の勉強をしていた続さんは、大学の最後の年、みんなが就職活動をしていた時期にフランスに出かけます。1989年のことでした。そして帰りの飛行機のなかで、ドイツ人の登山家(山岳ガイド)に出会います(この人の名前、何度も出てきたのですが、聞き漏らしてしまいました)。

その年の冬、就職が決まった続さんのところに、その登山家から国際電話がかかってきます。チョモランマ登山に出かけるので、そのキャンプにいっしょに来ないかという話のようだったけど、英語だったんでよくわからず、どうやらどこかで待ち合わせる約束をしてしまったらしいので、とにかく“卒業旅行”を兼ねて出かけることにしたそうです。飛行機のチケットも、1ヵ月のものを買い、帰国の便も予約も済ませていました。

それまで山に登ったことのない続さんに、なぜその登山家が誘いの電話をかけてきたのかは、いまだにわからないとのこと。いいな、登ってみたいな、行ってみたいなという話は、いちおうしていたそうですが。

【2】初めての“登山”で7600mまで登る

ネパールやチベットの位置もよくわからないまま、続さんは遠征隊に加わりに出かけていきます。そしてベースキャンプでぶらぶらしているつもりが、なんと7600m地点まで登ってしまう。これが初めての登山体験だったそうです。”初めての山”がなんと世界最高峰とは……。クレバスを見るのも、登山装備を使うのも、ラッセルをするのもこれが初めて。靴は軽登山靴でした。

このときは、登山隊内部でのエゴを見せつけられたりして、登山があんまり好きになれなかったようですが、その後は帰国せずにネパールのあちこちをトレッキングしてまわり、だんだんヒマラヤのもつ壮大な自然に魅かれていったようです。

【3】ヨーロッパ暮らしと宝くじ

就職先にはチョモランマのBCから、期日までに帰れないと手紙を出しておいただけなので、「もう来なくてけっこう」と断わられてしまう。で、日本にいても仕方がないと、親のスネをかじりながら、しばらくドイツで暮らしていたとか。アルプスの山々に登りにいき、クライミングやスキーなどもかなりやったみたいです。

呆れてしまうのは、ドイツで宝くじを買ったら、かなり高額の賞金があたってしまったということ。これだけならまだしも、帰国して日本の宝くじを買ったら、さらに高額の賞金があたってしまった。なんたる強運の持ち主でしょうか。う、うらやましい……。

その後の生活のことははっきり聞けませんでしたが、続さんはどうやら登山隊に同行する取材陣の通訳や、山や辺境に出かける取材のコーディネートなどを仕事として、活躍していたみたいです。

【4】チョー・オユーに無酸素で登頂

動機とか経緯とかはよくわかりませんが、ドイツ隊の一員として、92年夏にはチョー・オユー(8201m)に出かけます。このときも最初はBCぐらいまでという話だったのに、調子がよかったので隊長に誘われ、なんと無酸素で頂上まで行ってしまったそうです。

チョー・オユーには、96年の夏にも、同じく無酸素で登頂しています。

【5】アイマックス登山隊でエベレストへ

(たぶん95年頃に)取材の仕事で出かけた際に、チョモランマ(エベレスト)の姿を目にして、この山だ、と心に決めたそうです。そして、96年にはアメリカのテレビチーム(バーチャルリアリティを応用したIMAXシアターで上映するため)の一員に加わり、裏方ではなく“出演者”として、エベレストの頂上をめざしました。

このときの突然の荒天で、ニュージーランドの公募隊に参加していた難波康子さんが登頂成功後、亡くなります。続さんは難波さんと7000m地点ですれ違って言葉をかけていますし、遭難後は生存者の救出や看護に活躍されたようです。

天候が回復してふたたび頂上をめざすことになったとき、肋骨の1本が折れ、1本にひびが入っていた続さんは、最終登頂メンバーからはずされてしまいます。自分であきらめたのではない、他人に可能性を閉ざされたくやしさが、その後の2回のエベレスト(チョモランマ)挑戦につながっているそうです。

その無念を晴らしに出かけたのが、二度目のチョー・オユーでした。最初にチョモランマ登山に誘ってくれた、ドイツ人ガイドが率いる隊でしたが、荷上げなどもほとんど別行動で、ひとりで登ったようなものだったそうです。

【6】三度目の挑戦で頂上へ

続さん97年春に今度は中国側からチョモランマに挑戦したが、8400m地点で断念。そして今年、公募隊に加わって3万ドル(約420万円)を払い(ネパール側からだと6万ドルだとか)、5月25日、ついにチョモランマの頂を踏むことに成功しました。ガイドで隊長のラッセル・ブライス氏の好リードのおかげだったとのこと。

朝日新聞を読んでいる私はよく知りませんでしたが、続さんは登頂直後、ABC(アタックベースキャンプ)まで降りて、そこからインマルサット(衛星電話)を使って読売新聞に電子メールとデジカメ画像を送信して、登頂を知らせているんですね。ずいぶん大きく紙面を飾ったみたいです。

続さん本人は、今回の登頂をあまり華々しく取り上がられたくなかったようですが、メールとデジカメ画像のおかげで一気に情報が広まってしまったと、ちょっと照れ臭そうに話していました。

【7】登頂を可能にした要因

身長はあるものの、続さんはいかにもきゃしゃな感じで、こんな人がエベレストまで登るのかと、驚かされます。体力のある人なら誰でもその気になれば登れる時代です、と謙遜する続さんですが、自分が登頂に成功した要因として、まずは親からもらった心肺機能を挙げています。

それから、二度のチョー・オユー無酸素登頂をふくめた登山経験、とくに90年以降の人生の1/3は標高4000メートル以上の高地で過ごしていて、からだが高度順化していることも大きいだろうと分析していました。なるほど、これはすごいなと思います。

私は、それに加えて、彼女の性格的なものが大きいと感じました。欧米の個性的な登山家たちといっしょのチームでやっていくのは、言葉の問題も含めて、
いろいろとたいへんなことも多いはず。イスラマバードやラワルピンディで出会う欧米のクライマーたちのなかには、体力も人生観も日本人とかけ離れた、ぶっ飛んでいる人たちもめずらしくなく、圧倒されるような気にさせられますが、続さんはそんな連中のなかにうまく溶けこんで、それでいて自分を失わずにやっていけるタイプなんでしょうね。

●よく、骨董の世界で一流になるためには、本物中の本物だけを見るようにしなければ真贋を見極める目が育たないと言いますが、続さんの場合も、初めての山がエベレストで、その後もヒマラヤやアルプスで一流の登山家たちとばかり過ごしているからこそ、登山を始めてたった2年で8000m峰に無酸素登頂できたし、自然に世界最高峰へと向かうことになったのでしょう。

大きな夢があるならば、いきなり世界の一流のなかに飛び込んでいくべきだということを、つくづくと思い知らされた報告会でした。

難波さん●なお、この報告会では司会というほどではありませんでしたが、江本嘉伸さんがいろいろ質問をしたり、話のきっかけをつくったりして、活躍しました。また難波康子さんのご主人の賢一さんが最後に前に出て、遭難時の続さんの活動にお礼を述べたあと、昨年ニュージーランド隊が好意からシェルパを貸してくれ、康子さんの遺体を降ろしたことなどを簡単に報告してくれました。

●報告会後の二次会ですが、最近満員で入れないことが続いた近所の居酒屋ではなく、なんと横田明子さんのお父さんがアジア会館のすぐ近くで経営しているコーヒーショップを9時半から貸し切りにしてもらい、ビールやおつまみなどを持ち込んで、たのしく過ごしました。


二次会風景1二次会風景2←←まずは乾杯/←カウンターで食べ物・飲み物を準備

二次会風景3二次会風景4←←奥の部屋/←カウンターの向かいの手前の部屋



01000/01001 QFFXXXXX 松田仁志 RE:世界の一流だけを相手に
( 1) 98/08/04 23:19 00999へのコメント

 ここ10年くらいの間にヒマラヤ登山のスタイルがずいぶん変わってしまいました。いや、正確に言えば『変わった』というよりは『様々なスタイルで登られるようになった』という方が適切なのでしょう。
 今、ヒマラヤの8000m峰を目指す登山者でいちばん数の多いのはいわゆる『公募隊』の隊員でしょう。あの田部井淳子さんでさえ公募隊でチョー・オユーに行かれていますし、今やすっかり市民権を得たスタイルと言えると思います。
 難波さんが遭難された1996年のことは、同隊へ取材のために加わったジョン・クラカワーが『空へ』で詳しく報告していますが、ここにもIMAX隊で参加されていた続さんの名前は登場しています。

 ぼくは中学の頃に山を始めて、ちょうどその頃は植村直巳さんのエベレスト登頂や三浦雄一郎さんのエベレストスキー滑降、山学同志会のヨーロッパアルプス三大北壁冬季登攀などに心を揺さぶれた世代で、その後のメスナーを筆頭とするアルパインスタイルに憧れてきたので、難波さんや続さんのよう方々のことは登山とは違う世界のことのように感じてしまいます。

 でもこれはおそらく一種の『ねたみ』なのでしょう。あの小西政継さんでさえ50代になってからは8000m峰のピークハントに熱中されていましたし、メスナーにしてもチョモランマ単独登頂のあとは明らかに全8000m峰の登頂が主目的になっていました。
 ぼくもまだ頭では『8000mへ行ってみたいけど、やるなら無酸素』と思っていますが、もし現実に目の前にチャンスが巡ってきたら、たとえボンベを担いででも行きたいと思うに違いありません。

 続さんご本人はぼくのような三流山ヤが持っているようなこだわりなんかまったくなく、『エベレストに登る』ということの社会的な意味なんかさらに関係なく、ただひたすら個人的な目標として目指されたのでしょう。
 それにしてもいきなりチョー・オユーの無酸素には驚かされます。ぼくは個人的にはキリマンジャロの5895mが最高ですが、5000mを越えてからはかなり苦しかったです。もちろん高度順応なんかはまったく無しにいきなり登ったせいもありますが、とにかく身体を休めてもまったく楽にならないというのは初めての経験でした。
 高度順応能力というのは先天的な要素がかなりあるようで、キリマンジャロのような技術的に容易な山では、ヨーロッパアルプスを庭にしているようなベテランが頭を抱えて座り込んでいる横を、山なんかほとんど経験のない冷やかし半分のような人が何気なく登って行くことがしばしばあるそうです。

 続さんの成果には心から拍手を送りたいとおもいますが、難波さんの最後との違いはほんの紙一重と思います。山はまったく同じ季節でも、その時の天候次第でハイキングが疲労凍死になったりします。決してヒマラヤ登山が容易になったわけではないということだけは忘れずにいたいものです。



01003/01004 PEG00430 丸山 純 純粋な気持ちをたいせつにした結果
( 1) 98/08/05 14:42 01000へのコメント

●いつもは印象記みたいなかたちで報告していますが、今回はぜひみなさんに、私の味わった驚きを追体験していただきたくて、あんなスタイルで長々と報告会について記すことになりました。

次回の「地平線通信」では、難波賢一さん(難波康子さんのご主人)がレポートを書いてくださるそうですから、そういう専門家のレポートと、あくまでも素人の私のものを合わせて読んでいただくと、よりいっそう、続さんの行為について、考えてみることができるのではないでしょうか。

期待どおり松田さんのコメントもいただけて、書いてよかったなとつくづくと思いました。#1000にふさわしく、けっこう力の入った文章で、たいへんだったのでないでしょうか。ありがとうございました。

●しかしまあ、続さんのようなスタイルって、これまでの地平線会議にはまったくなかったものですね。

地平線会議には、やはり探検部の伝統が色濃く投影されています。軍隊式にひたすら高峰を登ることをめざす山岳部から分かれて、たとえ標高は低くても、誰も登っていない、地図にも所在がはっきりしないような山を自由に登ろうとして、探検部ができたわけです。

でも続さんは、チベットがどこにあるのか、どんな国なのかも知らないでネパールに出かけ(註・いまは中国のチベット側からチョモランマを登るのも、北京→ラサ経由ではなく、ネパールのカトマンズから陸路で入ることが多いようです)、タクティクス(登攀のための戦術)や食糧調達、相手国政府関係との折衝なども済んでいる、すでにきちんと組み立てられた登山隊に参加することから、登山人生を始めます。

●今西錦司さんでしたか、西堀栄三郎さんでしたか、「日本を出てしまえば、その登山はもう8割方成功したようなもの」と言っていますが、探検的登山を志向する人たちは、その遠征を実現するプロセス全体に魅力を感じているわけで、ただ山を登る登山行為そのものだけでは、相手がいくら8000mでも、満足できないでしょう。

たとえば、東京農大で山岳部と決別して探検部をつくった向後元彦さんは、探検部の遠征隊で出かけたネパールでぶらぶら暮らしているうちに、山岳部の遠征隊に招かれ、けっきょくガイドと2人だけで6000メートルの未踏峰の登頂に成功してしまいますが、お膳立てされた遠征に参加して登頂させてもらったという、後ろめたさを感じています。

しかし、いまの時代、こうした探検的な登山をやれる地域は、ビルマの一部などを除いて、ほとんど残っていませんし、大半は雪と氷と岩の無機的な世界とはややかけ離れた山登りになるでしょう。それが性に合わないという人も、もちろんいるはずです。

●中学・高校のころに本多勝一さんの『冒険と日本人』や『山を考える』を読んで、ヨーロッパアルプスでのガイド登山について書かれた部分にびっくりした記憶があります。お金を払ってガイドに案内してもらいながら山を登るなんて、当時は信じられない気持ちだったのですが、まさにいまはあれが、ヒマラヤを舞台にして盛んにおこなわれる時代になりました。

でも、それは当たり前という気がします。松田さんが、「もし現実に目の前にチャンスが巡ってきたら、たとえボンベを担いででも行きたいと思うに違いありません」といみじくも書かれていますが、8000mという特別な世界を体験したいという思いは、ひじょうに純粋で、押さえつけることなんてできないものなんでしょう。そういう気持ちがあれば、それを実現させてあげたい、それを利用して金を稼ぎたいと考える人が出てくるのも当然です。

●こういう純粋な気持ちをたいせつに育てていくのが、いまの時代にふさわしい生き方なのではないかと、今回つくづく思いました。単独・無酸素・未踏ルート・厳冬期などの条件にこだわると、もう超人でしかできないことをめざすしかありません。そのためには、多くのことを犠牲にし、そういう人生を生きるしかなくなるでしょう。そしてそれは、死の可能性が異常に高い。

でも、続さんのように、あくまでもマイペースで淡々と自分の人生のなかで興味をもった行為にその都度挑戦していくほうが、いまの私の気分としては、より大きく共感できるような気がしています。

●「地平線通信」の長野君の紹介文にも書かれていましたが、続さんは、いつかは、月に行きたいと思っているようです。このあたり、聞き漏らしてしまいましたが、これも象徴的ですね。

私の子供の頃の夢は、自分で設計して、コンコンとそのへんの工具を使って手作りでロケットや宇宙船を組み立て、それに乗って火星や木星に行くというものでしたが、もちろん、これはどこから見ても究極の探検ですし、成功したら、たとえ一番乗りじゃなくても、その満足感はどれほど大きいことか。でも、実現は絶対不可能(^^;。

人類として初めて月に降り立ったアームストロング船長は単なるロボットで、裏方をつとめた科学者たちこそが、真のパイオニアなんだと、当時の私は思ったものですが、いまは、なんだかんだ言っても、やっぱり自分のこの足で月面を踏みしめることに意義を感じてもいいじゃないか、代わりの人間はいくらでもいたわけだけれども、あの時点で、人類のなかで最初に月に降りる人間として選ばれたのは、それはそれでたいへんな意味があると、考えるようになっています。パイオニアワークにこだわりすぎると、自分の純粋な気持ちを踏みにじることにもなりかねないと、最近は強く感じています。

●そんな意味で、今回の報告会、大きな刺激を受けました。新井君がビデオを撮ってくれていますので、興味のある方はご覧になるといいと思います。


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