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カソリトレイル72000/賀曽利隆さん
1997.01.31/アジア会館
●カソリックという宗教がある。この信者は皆、魅き入られるように、バイクと温泉にはまっていく。
●もう20年も前か、18歳の私は図書館で一冊の本に出会った――『アフリカよ』。あの、読んでいる時の、心を突き上げられるような思いは今も忘れられない。
●17でアフリカ行きを決め、一日2時間の睡眠以外を全てバイトに費やし資金を貯め、灼熱のアフリカを、人々の優しさに触れながら、ギラギラと進んでいく二十歳の魂がそこにはあった。まだ1960年代。驚くことは、その人、賀曽利隆さんのエネルギーはその後30年間、一秒たりとも衰えていないことだ。
●不肖私もカソリック信者になり、20代の前半、サハラにオーストラリアの砂漠にバイクを走らせた。だが、カソリックの教えは厳しかった。
●その1。『テント持つべからず』。オーストラリアの砂漠で予想外の暴風雨が襲ってきた。万が一にと持参していたツェルト(簡易テント)を設営し、ツェルトのポールを握り締めながら私は夜をあかした。
●その2。『主食は米、おかずは塩と景色』。アフリカは行く先々でメシをご馳走になるからいい。オーストラリアでこれを実行した。確かに塩かけメシはうまい。しかし、これを三日ほど続けたある日、米を炊いている時に腹から胸にかけて熱いモノが込み上げてきた。「う、胸焼けだ!」。胸焼けの体に米はつらい。私はすぐさま100キロ先の果物屋へと向かった。青空の中で教祖の顔が笑っていた。
●その3。『文章の最後は「ゾーッ!!」で締める』。これは恥ずかしくてできないゾーッ!!。
●結局、私はカソリックを破門された。だが教祖の賀曽利さんは、御歳49にしても、これを貫いている。うーん…。
●今回の旅は賀曽利さんにとって23年ぶりのオーストラリア。出会う日本人ライダーたちは、ほぼ23年前の賀曽利さんくらいの年ではないだろうか。その若いライダーたちが賀曽利さんよりもハードな旅をしているかと問えば、足元にも及ばないだろう。
●2週で7万2千キロという距離もそうだが、例えば何気なく話してくれた「シンプソン砂漠横断」にしても、あれは本当に大変なルートだ。恥ずかしながら、当時23の私はあのルートだけは諦めた。何せ地図に道らしい道は載っていない。現地に行っても標識らしき物も車の轍すらない。
●賀曽利さんが他の人よりも強いのは、「行きたい!」という願望と「行くゾーッ!!」という元気と「何とかなるよ!」という気楽さの三点セットである。でなかったら、アデレードからダーウィンまでの3200キロ一気走りなんてバカをやれるはずがない。
●そしてもう一つ。徹底的に「人間が好き」なのだ。私の場合はどうしても人間に好き嫌いがある。気に入った人間とは仲良くし、そうでない人間とは付き合わない。それが普通かとは思うが、賀曽利さんはその目に入る人間全てを好きになってしまう。みんないい人なのだ。初めて会う人でもほんの1分で誰でも友達にしてしまう。この点で私はカソリック失格である。
●質問への答弁で、賀曽利さんは「南極へは行かない」と言った。冒険には興味はない。あくまでも、人のいるところが好きなのだ。「国境通過に賄賂は使わない」とも言った。賄賂をねだるような役人でも、その人を同じ人間として接し、友人にしてしまうことで国境を抜ける。「人間を好きになりきる旅人」としては、今後100年くらい日本からこういう人はもう、金井シゲさんを除いては、出てこないかもしれない。
●それでも、賀曽利さんが唯一、顔をしかめる人間がいる。元巨人軍の江川卓である。−−「江川はとんでもないですよ!」。だのに、なぜか賀曽利さんは読売新聞を取り続け、巨人ファンなのである。また皮肉なことに、賀曽利さんの耳と江川の耳は似ているのである。このへんが、弁慶の泣き所なのだろう。
●さて、間もなく50代に突入する賀曽利さんは、アフリカ縦断、中国、シベリア、中央アジア…と終わりなき旅を続けたいと語る。たぶんやってしまうだろう。今回の報告会は、20代だけ元気がよくて、落ち着いてしまう我ら30代へのゲキだと受けとめたい。地平線の20代、30代の皆さん、50代のカソリに負けていられないゾーッ!!。[樫田秀樹]
●NIFTY-Serve「地平線HARAPPA」に書き込まれた感想
なんだかブワーっと書いたので、変な所もあるかもしれません。記憶だけで書いてますので、新井さんと尾田さんにデータのフォローをお願いしたいです(^^;)。怪しいのは、最初賀曽利さんがオーストラリアに行った年。ケアンズ七夕組という名。吹雪におそわれたのはココルクリーク(タスマニア島最南端への道)だったか。雨の中記録をつくろうとして走ったコースはアデレード=アリススプリングスだったか。とかです。
2階にあがると、丸山さんがせっせとカレンダーに折り込みを入れている。尾田さんと一緒に折り込みの手伝いをし、会場へ入ると既に椅子の空きは無かった。流石に賀曽利さんの報告は人気がある。
手慣れた感じで、報告が始まった。事前に渡されたコース図は、まるでオーストラリア大陸のロードマップのようだった。2つの大陸の図には、違った道が縦横に走っている。これは実は、賀曽利さんが走ったルートの線だった。賀曽利さんは、今回2周している。それを1周目と2周目としていた。
1周目は96年5月25日から8月3日。世界最長のハイウェイ、R1を完全走破し、大陸中央部のスチュワートハイウェイを往復、オーストラリアの東西南北の最端の地に立つという壮絶なルートだった。この全行程は36,084km。
2週目は96年9月15日から11月15日。未舗装路を中心に全行程36,110kmを走破し、うちダート部分13.019kmという途方もない走行距離となる。
当初「オーストラリア50000キロ計画」と銘打って渡豪された賀曽利さんのこの旅は、結果的にトータル72,000kmにまでなってしまった。
使用したバイクはSUZUKI DJEBEL250XCという最新型をメーカーより2台スポンサードして貰い、まったくのノーマル車で、それぞれで1周した。
いきなりの氷点下、降雪に耐えたココルクリークへの道。
大雨の中、アリススプリングスとアデレードを無睡眠無休憩で走破する話。
些細な溶接のバリが原因の数度のヒューズ切れによるマシントラブルの対応。
荷物の90%以上がガソリンと水だった灼熱のシンプソン砂漠越え。
雨期に入った後の川越え。
ロードトレインを追い抜く時の砂煙との戦い。
ブッシュによる数え切れない程のパンク修理。
日本人ツーリストのケアンズ七夕組とのジャム。
苦労の話はつきないが、その後の73年(?)に行った初めてのオーストラリア大陸への挑戦の話がまた面白かった。
バンコクからマレー半島を下り、島を渡ってオーストラリアへ。この頃ヨーロッパのモーターサイクルツーリストがこぞってトレースしてきたルートだったが、イラン・イラク戦争などを含めて、今では陸路でヨーロッパからこのルートを通って来られなくなった幻のルート。それを賀曽利さんがヒッチハイクやバックパッキングで渡り、オーストラリアに入るまでの話。
そして、ハスラーで走った初めての砂漠の話が続いた。
最後に、賀曽利さんの「あぁ黄金の40代」というテーマに基づいて、20代は海外を走り、30代は日本を走り、40代は海外と日本の両方をまんべんなく走り、そして来る50代へ向けての抱負を、ホワイトボード2枚に経歴を書きながら、熱く語っていた。
江本さんが言った、いつもガンガン行っちゃうという話ばかりじゃ、という質問に対して、賀曽利さんは、50代も今まで以上にガンガン走りますよと力を込めて言った言葉が、鉄人賀曽利ここに有りというの事として、オーディエンスにはしっかりと感じる事ができたようだ。皆笑い声と共に、頷く頭の動きがそれを語る。
賀曽利さんの強さと走る楽しさを感じる事のできる、7回目の地平線報告会だった。立ち見客が目立った、熱気溢れる楽しい報告会だった。
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