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残念ながら、この月の分も、翌月の地平線通信に報告が載りませんでした。原稿を依頼されていた某氏が多忙で締切に間に合わず、けっきょく落ちてしまったようです(^^;。
地平線HARAPPAのほうも、ちょうど「地平線カレンダー」をなんとか当日間に合わせたばかりのところで、その評判や販売、発送についての話が集中し、報告会の模様は書き込まれていません。
1995・神戸・ある避難所の記録 1996年/ドキュメント・アイズ ビデオ作品 ナレーター:小室等 プロデューサー:三好亜矢子 |
以下、半年近く経ってしまってから、うろ覚えの記憶をもとにして書く、「印象記」です。
当日は、刷り上がったばかりの「地平線カレンダー」の販売があったため、会場に入ったのが遅れてしまい、なぜこの映画(「すきなんや、この町が」)を撮るようになったのか、そのあたりの話が終わりかけて、ちょうど上映が始まるあたりでした。
地平線通信の案内で読んでいたせいでしょうか、住民代表が体育館のステージを降り、ずらりと両側に段ボールが並んでできた“大通り”を歩いて“路地”を曲がり、“家”に帰っていく冒頭の場面が、鮮明に印象に残っています。「公」の顔からだんだん「私」の顔へと表情が変わっていく。この映画を撮ろうとスタッフが決意をしたという、深く、ドラマチックなシーンでした。
作品としての「すきやねん、この町が」を観てはじめて、なにが問題なのかがわかってきたように思います。新聞報道などでは、住民エゴのようにさえ伝えられていた、仮設住宅への入居拒否。なぜ不自由な体育館で生活することに、そこまでこだわり続けているのか、それまでは理解できなかったのですが、震災前の神戸の下町が、人と人との温かいつながりを残した、日本のなかでもめずらしい、とても暮らしやすい町だったからなんですね。
住民の方々が求めているのは、そういう人間的な関係なのだということが、ひしひしと伝わりました。そして、空っぽの、カタチだけの街を造ろうとしている行政側への怒りも湧いてきます。
もっとも、失礼ながら、ただ作品を観ただけではここまで深く感動はしなかったかもしれません。駆け足で上映したのち、スタッフに会場からさまざまな質問が飛びました。とくに興味深かったのが、なぜ体育館でいっしょに泊まらず、夜になると校庭に張ったテントに戻ったのか、ということ。演出の三好亜矢子さんは、もっと踏み込んだシーンを取材しようともどかしい思いをしていたようですが、実際に撮影を担当している男性のスタッフにとっては、プライベートな時間を確保できる唯一の機会だったこと。さらに住民の側にも、夜は撮らないということでの、くつろげる時間でもあったそうです。
このあたりの、撮る者、撮られる者の関係をめぐる、一人の行動者としてのなまの声が聞けて、作品の味わいを深くしてくれました。(丸山純)
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