2026年3月の地平線報告会レポート


●地平線通信564より
先月の報告会から

原始の川をパドる愉悦

河村安彦

2026年3月28日 榎町地域センター

■報告会は、江本さんの紹介から始まった。1978年12月2、3、4日の3日間、法政大学で開かれた「全国学生探検報告会」。新聞記者だった江本さんは3日間通い詰め、報告者のひとりだった学生・河村安彦さんと出会った。マッケンジー川を単独で下った河村さんの話は探検報告会の“目玉”として読売新聞の社会面に大きく取り上げられた。この探検報告会をきっかけに翌年1979年8月17日、地平線会議が正式にスタートした。あれから40年以上が経った。年齢を重ねても動き続けている地平線の仲間たちの生き方について江本さんは「人間として正しいこと」と呼んだ。目指してそうなったわけではない。ただ、それぞれが夢中で動いているうちに、気がつけば40年が経っていた。私はそういう人たちの場所なのだと思った。

河村さんは2月に71歳になった

◆渋谷生まれ、多摩川沿いの団地育ち。女子美出身の画家だった母が自然を愛し、幼い河村さんをよく川や空き地へ連れ出した。小学校高学年のころから多摩川で雑魚釣りを覚え、高校時代には1人で奥多摩湖まで通うようになる。バスで行って、帰りは駅まで10キロ歩く。釣りよりも、「その過程が楽しかった」と河村さんは言う。後にマッケンジー川を下ることになる人の原点が、駅の帰り道にあったとしても、不思議ではない気がする。

◆高校時代のある日、ふらりと寄った本屋で高木公三郎先生の『携帯ボートの楽しみ方』を手に取り、木と布でできた小舟で川を旅する紀行文に引き込まれた。大学1年で神保町のミナミスポーツに展示されていたファルトボートを見つけ、土方のアルバイトで貯めた7〜8万円で購入。毎週のように御岳へ通い、沈没しながら多摩川を下り続けた。20キロのカヌーをびしょびしょのまま背負って電車に乗り、濡れたお札を駅の窓口ガラスに貼りつけて切符を買う。笑いながら語るその情景は、若い日の川との付き合い方そのものだった。

マッケンジー川との出会い

◆大学時代に出会った2人が、河村さんの旅の姿勢をかたちづくった。クライマーから川下りへと転じた大倉大八さんと、河村さんの高校時代の同級生の従兄弟にあたる野性児の友人だ。2人に共通していたのは「旅」として向き合う姿勢だった。頂上でも最短距離でもなく、道中に広がる景色の中にいること自体が目的だった。大倉さんとの旅ではバーナーを一切使わず、すべて焚き火だった。北海道・手塩川を3月に下ったとき、畳ほどの氷が川面に立ち「このまま死ぬな」と思いながら薄氷の岸に大の字で張りついた話を、河村さんは笑いながら語った。「でも楽しかったです」。

◆そういう旅の作法が体に刷り込まれていたから、マッケンジーへ向かうことに抵抗はなかったと言う。学生時代のアルバイト帰り、八重洲ブックセンターで偶然手に取ったカナダ・ヌナブト準州の100万分の1の地図。そこには川と湖と沼だけの世界が広がっていた。アルバイト代を貯めては地図を買い足し、6畳間に敷き詰めた末に行き着いたのが、当時あまり知られていなかったマッケンジー川だった。1971年の単独下り(約3,400キロ)を皮切りに旅を重ね、2018年には盟友・大倉さんの死をきっかけに同じ川へ戻った。1983年の旅では妻と2人で水の澄んだ静かな区間を選んでいる。照れ臭そうに「自分がどんなことをやっているか、カミさんに見せるのもいいかな」と河村さんは言った。

そして今回は、コッパーマイン川だった

◆2018年に再び北米を訪れた河村さんが目にしたのは、白人が地元のインディアンにログハウスの建て方を教えている姿だった。幻滅した。あのころの光景はなくなっていた。40億年前から存在するというローレンシア台地、その古い岩盤の上を流れるコッパーマイン川を、開発される前に自分の目で見ておきたい。そういう思いがこの川を選ばせた理由のひとつだった。

◆セロン川、バック川、コッパーマイン川。3本の川はいずれもコッパーマインの850キロに近い長さで、人のほとんどいない土地を下ることができる。バック川は激流の迂回箇所が20か所以上ある。コッパーマインを選んだのは消去法でもあったが、年に1〜2パーティーしか下らない川であることが河村さんにとってむしろ理由になった。70歳になった体が、動き出した。

◆7月10日、セスナでラック・デ・グラ付近に降ろされた。飛行機が飛び立つと、あとは河村さん1人だった。「心を落ち着けなくちゃ」と思い、コーヒーを飲んだ。岸辺にはまだ氷が残っていた。船はアルミのフレームに布を張ったファルトボートだった。前回の旅では帰国後に体重が17キロ減っていた。今回は食料をたっぷり積んで出発した。それでも10キロ落ちて戻ってきた。

そこに至るまでの時間の中に本当のものがある

◆旅の終盤、ブラッディフォールズという急流箇所で船をかついで陸路を迂回した。船を降ろしたとき、リブ(船の骨格部分)が折れているのに気がついた。アルミのパーツは現地での修理が利かない。組み直せなかったら残り15キロを歩くしかない。「ヒヤッとしました」と河村さんは言った。荷物すべて合わせれば80〜100キロになる。何往復もしながらようやく運び終えた。クルクトゥックの村に上陸したとき、旅は終わった。4週間の旅だった。

◆報告会の後、酒の席で河村さんはこんなことを話してくれた。旅の準備をする時間も、道中に出会う光景も、自分にとっては旅そのものだと。目的地に着くことよりも、そこへ至るまでの時間の中に本当のものがある、と。そしてマッケンジー水系にはまだ陸路で越えただけで川を下っていない空白がある。その空白を埋めて、いつか線を結びたい。河村さんはそう言った。頂上に立つことよりも、どんな過程を踏んでそこへ至ったかが、その瞬間の実感を決める。私はそう思っている。だとすれば、半世紀かけて水系の地図を埋めようとしている河村さんの旅は、まだ途中なのだ。[東雅彦 初めての報告会レポート、緊張しました]

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


報告者のひとこと

極北の分水嶺の向こう側を見てみたい

‘■地平線報告会で報告をさせていただくのは、確か今回で3回目だったと思います。1978年にカナダマッケンジー川をピース川の上流からイヌビックまで漕ぎ下った旅の報告は法政大学で開催された全国学生探検報告会でした。この翌年に各大学探検部や山岳部のOBが主導して一般人を含めた既成の概念にとらわれない旅や探検、冒険の報告の場として地平線会議が発足したのでした。私が社会人になってから1981年、1983年、2018年と過去に下ったマッケンジー水系の旅毎に報告させていただいております。

◆1900年代後半の旅は、カナダ内陸部のインフラの整備が始まったころでした。カナダインディアンであるファーストネーションや開発初期の白人との混血のメティーが、ピース川がアルバータ州に入った中程の陸路から孤立した集落で狩猟や漁労を主体とした生活を送っていました。

◆今回のコッパーマイン川の川旅のきっかけとなったのは、2018年の旅でした。それは1978年の旅のコースを40年ぶりになぞった旅でした。しかし、そこで見たものは自分が再会したかったあの当時の、川に向いて生活している彼らの生活を期待していたのだけれど、インフラが整い、どう考えても原野や湿原に無理やり伸ばしたとしか考えられない道が彼らの本来の姿を変えていました。それは見るも無残な「近代化」という破壊の姿でした。数えきれないほどの愕然として呆然とする変わりざまを見て「マッケンジー水系の旅」というテーマの延長で、無垢な自然が残っている分水嶺の向こう側の旅も加えることにしました。

◆カナダ北西準州の東からヌナブト準州のほぼ全域そしてグリーンランドにかけて広がる40億年以上前の古い岩盤の大地はローレンシア台地と呼ばれ、岩盤が風化して無数の湖沼とそれをつなぐ水路そして地衣類と低灌木の世界。もう、興味を持てるような、地域に密着した人の生活を垣間見ることはあきらめました。かわりにいまだ定住する人もいないバレーン(不毛地帯)を流れる川を目指すことにしました。しかしそこは2025年末にアメリカ合衆国の大統領が食指を伸ばした貴重な鉱物資源が豊富に眠る土地なのです。

◆グレートスレーブ湖の北にある州都のイエローナイフの人口の80%が鉱山関係者です。私が旅したコッパーマイン川の源流に位置するLac De Grasの東には世界有数のダイアモンド鉱山があり採掘終了後は埋め戻すことを条件に巨大な露天堀鉱山がいくつかあるのは、Google Mapでもはっきり見ることができます。採掘の機械が動いている以上、もう原始の川ではないのかもしれません。このコッパーマイン川を下っている途中、突然銀色に輝くいくつかのタンクと建物が建っているのを見ました。おそらく何らかの鉱山開発の基地かもしれません。しかし今のうちに、行って、見て、聞いておかなければ瞬く間に見るも無残に変貌してしまう、そんな危機感をもって挑んだ川下りでした。

◆私のマッケンジー川水系の旅にまた一つの線が加わりました。しかしまだすべては完全に線が繋がってはいません。すでに今年で71歳、高齢者となって体のいたるところにガタはきています。が、少なくとも本流の流れだけでも線で繋げたいと次の計画を画策しているところです。[河村安彦

イラスト-2

 イラスト ねこ


to Home to Hokokukai
Jump to Home
Top of this Section