2025年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信559より
先月の報告会から

バレエから見たロシア

梶彩子

2025年10月24日 榎町地域センター

■職業、バレリーナです!と言い出しそうなぐらいバレリーナ然とした梶彩子さんが今回の報告者だ。実際はロシアバレエの研究者で、母校の東京外国語大学でロシア語を教えながら早稲田大学文学学術院で研究をしている人だ。

◆彩子さんはこれまで短期を含めると4回ロシアで学んでいる。1年間の語学留学、2年間の修士課程、そして博士課程在籍中にも1年資料収集のためロシアに渡っている。主に滞在したサンクトペテルブルク(以下ペテルブルク)は、18世紀初頭から1922年までロシア帝国の首都だった。4回の滞在期間にロシアでは大きな変動がいくつかあった。語学留学中にロシアはクリミアを強制合併しG8から離脱した。そして資料収集のための滞在前にコロナのパンデミックがあり、帰国後すぐの2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が開始された。彩子さんがロシアにかかわってきた15年余りというのは、1991年のソ連崩壊から欧米化・グローバル化してロシアが復活していき、それがまた徐々に崩れていった時期なのだ。

◆2歳のときにビデオで見たボリショイバレエの『くるみ割り人形』と『白鳥の湖』が、彩子さんをバレエ狂いと自称するバレエ研究者に駆り立てるきっかけになった。一巻のビデオが人生のテーマにかかわることになるとは、これをプレゼントしてくれたおじい様も驚いたのではないだろうか。その影響もあって9歳のときに習い始めたバレエだったが、バレエそのものよりも「今自分が踊っているバレエは、いつのどの作品から取られたものなのだろう」というようなバレエの背景により強く惹かれていった。

◆戦後日本に伝わったバレエは、他の国とは違う発展の仕方をした。男系継承する伝統的な舞踊に対し、富裕層の令嬢たちが“研究所”と称するバレエ団の組織を立ち上げたのだ。政府の援助ではなく、習い事として通う生徒やその父母の財力により成り立つ芸術として普及した。時代は変わり裕福な家庭の援助にばかり頼れなくなっている昨今、日本のバレエ界が抱える問題は深刻だ。難しい技術習得のために必要な制度が成熟していない日本では、職業的自立を目指す人は良質な教育を提供する海外のバレエ学校に留学し、そこのバレエ団に就職するのだ。そういう人たちにとってバレエ先進国であるロシアは魅力的な国なのだ。

◆彩子さんが札幌で通ったバレエ学校は、日本にバレエを伝えたロシア人バレリーナ、オリガ・サファイアの最後の教え子である佐藤俊子先生が開いた教室だ。サファイアはペテルブルク出身で、本名はオリガ・イワノヴナ・パヴロワという。日本のバレエの黎明期に重要な役割を果たしたロシア出身バレリーナの一人だ。彼女は1936年に日本人外交官と結婚して来日し、日劇でバレリーナとして活躍した。バレエ教室の入口には、大きく引き伸ばされたサファイアの写真が貼られている。幼い彩子さんはその風貌や衣装に心を奪われたという。また、佐藤先生がサファイアについて書いた著書、『「北国からのバレリーナ」——オリガ・サファイア——』を小6のときに読み、当時はもうなかったレニングラードという名の町に思いをはせたそうだ。また、愛読書だったハリーポッターに描かれているようなイギリスをはじめとするヨーロッパにも強く憧れるようになった。

◆中、高と英語が得意だった彩子さんはやがて東京外大を目指すようになり、志望学科をロシア語に決めた。入学後の2012年2月から1か月間ロシアに短期留学することにした。モスクワに3週間、サンクトペテルブルクに1週間滞在。将来どちらの町に留学したいかを決めるのが目的だった。最初に行ったモスクワ国立大学の寮の部屋は簡素でわびしく、設備も古かった。売店の店員の対応は辛辣だったし、通りで轢死体を目撃するなど、不便な経験や寒々しい思いをいろいろ味わったモスクワ滞在だった。

◆次に行ったペテルブルクでもあまりいい思いはしなかった。しかし、得難い経験はあった。特に印象に残っているのがモスクワのマールイ劇場で観た演劇『皇帝ボリス』だ。主人公ボリス・ゴドノフは歴史上の人物で、下級貴族から皇帝にまで上り詰めた人である。民衆からの圧迫や強迫観念により徐々に発狂していくという内容だ。恋愛や美を体現するバレエとは違い、演劇は現実的な人間の苦悩を表しており、やはり言葉の力はすごいと実感した。3年生の時にペテルブルクに1年間語学留学した。縁あって知り合ったおばあさんが管理するアパートに住むことになったのだが、この人にもソ連崩壊の傷跡が生々しく残っていた。ペレストロイカ後の社会体制についていけないことを危惧した夫が、病気の治療を放棄することで死を選んだのだ。

◆彩子さんは、著名な振付家グリゴローヴィチについて書いた卒論で東京外大を卒業した。グリゴローヴィチは、ソ連らしい壮大なバレエを作る才能が認められ、ボリショイ劇場で30年にわたり活躍した人だ。彩子さんは卒業後、サンクトペテルブルク国立大学の歴史学研究所という大学院で2年間学んだ。ここで学んだことが、ロシア留学の中でもとりわけ鮮明に記憶に残っているという。ロシアの大学の授業では、板書やスライドはほとんど使われない。先生がしゃべることをひたすらノートに取るというスタイルだ。期末試験も口頭試問の形式で行われる。なかなかロシア人のように話せるようにならなかった彩子さんにとって、心理的プレッシャーの大きい授業であり試験であった。この2年間の大学院生活の合間には、民間のバレエ教室にも通っていた。勉強だけではない充実した日々が窺える。修了を記念して撮った学科6人の写真と、学部全体の写真を見せてもらった。後者の写真がこの後忌まわしい事件を紹介する際に再度見せられることになる。

◆修士課程で研究したのがレオニード・ヤコプソンという振付家だ。ヤコプソンはレニングラード(現ペテルブルク)を拠点とした人で、権力や当局に媚びずに自分が作りたいものを作り、実験的なものも手掛けたそうだ。たとえば『タリオーニの飛翔』は、19世紀に流行したロマン主義バレエへのオマージュの作品だ。黒子のような役割の黒い衣装を着た男性四人が、女性を持ち上げて飛んでいるかのように見せる。ヤコプソンは、権力には愛されなかったが、死ぬまで自由な創作姿勢を貫いた不屈の振付家だった。

◆彼は帝政時代だった1904年にペテルブルクで生まれ、少年期にロシア革命を迎えた。革命の余波を受けて難民になった800人の子どもたちとともに、日本の船舶会社社長の勝田銀次郎氏が私費を投じて仕立てた船で、アメリカの赤十字社の支援のもと、世界一周の航海をすることになった。「陽明丸」と名付けられた船は、ウラジオストクを出発して室蘭に立ち寄った後サンフランシスコに渡り、パナマ運河を経由してニューヨーク、そこからフランスのブレスト、そして当時ロシア領だったフィンランドのコイビスト港に戻っていった。1920年に出発してから3年の歳月をかけてようやく子どもたちは故郷にもどることができたのだ。

◆まだバレエを始める前の多感な時期に世界を見た経験は、彼の作品にどういう影響を与えたのだろうか。しかし渡航歴がスパイ容疑に問われるのを恐れ、晩年になるまで口を閉ざしたままだったそうだ。日本とのゆかりがあるヤコプソンだが、ジャポニズムへの関心はなかったという。ただ一つ『ヒロシマ』という作品がある。丸木位里(いり)、俊(とし)夫妻の『原爆の図』という有名な絵にインスピレーションを受けて作られたそうだ。原爆は冷戦下のソ連では奨励されていたテーマではあったものの、このバレエ作品は焼け爛れた原爆被害者の悲惨さや苦痛をリアルに描いたもので上演禁止になってしまう。踊り継ぐことでしか後世に残せないバレエだが、存命のダンサーをたどってなんとか再演できないかと彩子さんは考えているそうだ。

◆日本と意外なつながりがあるヤコプソンだが、彼を研究対象にしている人はほとんどいない。そんな中、ヤコプソンの一人息子家族がエストニアの首都タリンに住んでいることがわかった。タリンはペテルブルクと同様フィンランド湾沿いにある。彩子さんはニューヨークでその息子の息子、つまり孫を紹介してもらう機会に恵まれた。彼が日本に来たときに丸木美術館を案内し、今年の夏には彩子さんがタリンの息子一家を訪ねヤコプソンの資料をいろいろ見せてもらった。

◆彩子さんはこれまで、運の良さと人に恵まれたことだけで、ロシアという一筋縄ではいかない国の研究をやってこられたと感じているそうだ。しかし、ロシアに嫌気がさしたこともあった。その中でも特に衝撃的だった事件がある。それは彩子さんが2019年に修士課程を終えた1年後に起きた。同じ学年に才色兼備の女子学生がいた。名前はアナスタシア、愛称はナスチャだ。そのナスチャが、ペテルブルク大学歴史研究所の准教授に殺害されバラバラにされたのだ。二人は愛人関係にあったらしい。前述した修士課程の卒業写真では右端に、まるでウエディングドレスのような白い服を着て写っている。同級生にとって彼女は、きれいな人である以前に努力家で将来有望な研究者の卵だった。

◆彩子さんは彼女と個人的な交流もあっただけに、もっと打ち解けて語り合えていたらと後悔は後を絶たない。この犯人は、あるオリガルヒ(政治力と富を兼ね備えたロシアの新興財閥)と密接なつながりがあるといわれており、ナスチャの事件はもみ消されるのではないかと同級生たちは危惧した。オリガルヒに隠蔽してもらった別の愛人女性に対する暴行事件の前例があったからだ。しかし狂気に満ちた准教授が起こした、ここで詳細を伝えるのが憚られるような残忍な事件は、社会的な反響の大きさ故、隠蔽されることはなかった。隠蔽されなかったもう一つの要因として、警察官であるナスチャの母親自身が現場検証を行ったこともある。

◆そして彩子さんには、この事件が起こった背景に思い当たることがあるという。ロシアにはDVを取り締まる法律がないのだ。前述の通り、この犯人が女性を暴行するのは初めてではない。もしその当時きちんと捜査が行われ相応の刑罰を受けていたなら、ナスチャは死なずにすんだかもしれない。以前ロシアにも反DV法制定の動きがあったが、その最終段階で阻止した人物がいる。それが、ロシア正教会の総司教、キリルだ。阻止した理由は、政治の中枢を担う政治家の多くが日常的にDVを行っているからだといわれている。犯人はあと6年で刑期を終える。これもロシアの暗鬱な側面のひとつなのだ。

◆そして2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。同級生たちのうち、何人がロシアに残り何人が生きているのかもわからない。ロシアは絶望的な命のやり取りを、現在進行形で継続しているのだ。このような絶望感の中にあっても、彩子さんは研究者としてロシアを知ろうとしなければいけない。母校のロシア語科にはそれでも入学してくる学生たちがいて、彩子さんは学生と向き合うことで力を得ているという。

◆更に重苦しい話は続く。去年9月にペテルブルクに行ったときのこと。一見街並みは平和そうだったが、店内にはオーウェルの近未来ディストピア小説『1984』を思わせるバッグが売られていたように、そこここに密かな抵抗が見られた。“密か”にする理由は、戦争を公に批判すると「ロシア軍侮辱罪」に問われるからだ。

◆バレエ『白鳥の湖』はロシアのプロパガンダ芸術の一つであるが、この作品には別の文脈もあるという。ソ連時代にブレジネフが亡くなったときを皮切りに、国のトップが亡くなったときや有事の際には必ず、ニュース番組がこの白鳥の湖全編の映像に差し替えられるのだ。逆の見方をすれば、白鳥の湖が流れるのは国の一大事だということだ。1991年に、ゴルバチョフ大統領に対する8月クーデターが起き、ソ連崩壊につながったときにも三日間白鳥の湖が放映され続けた。

◆ところで『白鳥の湖』中に「四羽の白鳥の踊り」という場面がある。優雅に踊るシーンが多い白鳥の湖にあって、四羽の白鳥が手をつなぎ合って速い動きで踊り続けるこの場面は印象的だ。一般的に「四羽の白鳥の踊り」は決して白鳥の湖の代表的なシーンではないが、半ば強制的に見させられたソ連の人々にとっては、特徴的なこの踊りが脳裏に焼き付いたのではないか。そして今、この場面が引用されているという。

◆Noize MCという海外から発信しているロシア人ラップ歌手の曲に、「白鳥の湖協同組合」というものがある。この協同組合というのは、プーチンが自分の別荘がある地域に作った組織で、政府の要職は組合員で占められているというものだ。ライブ映像では、「四羽の白鳥の踊り」のメロディーにのせて、プーチンの失脚と白鳥の登場を願う歌詞が繰り返しがなり立てられ、大勢の観客が手をつなぎ会場が一体になって歌い踊っている。さらに過激な若いアーティストがいる。つい最近、ペテルブルク中心部のネフスキー大通りで、18歳のロシア人歌手Naokoが「白鳥の湖協同組合」をはじめとする反体制派の曲をひっさげ路上ライブを決行した。映像では彼女の歌に合わせ、若者たちが例のメロディーを歌っている。Naokoには13日間の拘禁刑が言い渡され、この後ロシア軍侮辱罪に問われれば10年ぐらい刑務所に入る可能性もある。

◆おそらくこれがウクライナ侵攻以来最も印象的なプロテストだろう。侵攻が始まったときNaokoは15歳だったはずだ。戦争のプロパガンダを聞いて思春期を過ごし、やがてそれに反発して「人間であり続ける」ことを選び、国内外のロシア人を勇気づけたのだ。ライブ映像でわかるように、プロパガンダに毒されることなく普通の考え方ができる若者がこんなにも多くいるというのは大きな希望だ。彩子さんは、一線を越えてしまったロシアが絶望の中にあっても、未来をあきらめるのはまだ早い、と締めくくった。[瀧本千穂子


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