2025年1月の地平線報告会レポート


●地平線通信550より
先月の報告会から

嬉しくて悲しい/シリア緊急報告

小松由佳

2025年1月25日 榎木町地域センター

■2025年初、数えて513回目となる今回の地平線報告会に登場してくれたのは、元日にシリアから帰国したばかりのフォトジャーナリスト、小松由佳さんだ。彼女は2008年以降、砂漠に生きる人々の暮らしを記録するためにシリアを訪れ、それを写真家として記録してきた。昨年12月8日にアサド政権が崩壊したことは記憶に新しいが、政権崩壊から1週間と経たないタイミングでシリア現地を訪れたという貴重なレポートを、地平線報告会という場でお話しいただいた。

◆由佳さんが取材のために日本を発ったのは12月7日。当初はシリア人難民の移住先での暮らしぶりを取材するつもりで、イギリス、フランス、ドイツで取材の予定を組んでいたものの、飛行機の乗り継ぎのために韓国にいたタイミングでアサド政権が崩壊間近というニュースが飛び込む。反体制派がダマスカスの1キロ手前まで来ていて、24時間以内に確実にアサド政権が崩壊するだろうという報道が出始めていたのだった。

◆そこから15時間のフライトを経て、ロンドンの空港に到着したのが12月8日の現地時間午後4時半、シリア時間昼12時。スマートフォンに電源を入れた途端にアサド政権崩壊というニュースが入ってきた。53年間にわたって独裁を続けた政権が崩壊するという歴史の重みをそのときに感じ、今すぐにでもシリアに行きたいという衝動に襲われた由佳さんだが、それでも気持ちを抑えて予定していたロンドンでの取材を始めた。

◆しかしイギリスに来て3日目、フェイスブックで見たあるコメントをきっかけに由佳さんは考えを変えることになる。「シリアに行きたいけれどヨーロッパで難民取材をしなければ」という由佳さんの投稿に対して、「一生に一度の機会かもしれないから見逃さない方がいい」とコメントをしてくれた人がいたのだ。しかし、8歳の長男を連れてきていたため、今シリアに行くことで息子の身に危険が及ぶリスクが拭えない。しかし今行かなければ、時代の転換点に立ち会えなかったことを一生後悔することになる。

◆それでもやはり今シリアに行くのであれば、由佳さんにとって外せない条件が一つあった。それは、シリア人の夫ラドワンさんも取材に同行してもらうということだった。生活を切り詰めてシリアへの取材費を捻出している由佳さんにとって重要なのは、コストに見合う価値のある取材ができるかどうかという一点に掛かっていた。ただ単にアサド政権崩壊後のシリアをレポートするだけであれば、大手メディアの報道に任せればいい。もし夫が同行してくれるならば、13年ぶりに祖国の地を踏む難民という当事者の視点で取材することができると思ったからだ。

◆夫のラドワンさんは13年前に徴兵により政府軍兵士となったが、同胞に銃を向けることを拒否して軍を脱走している。アサド政権下では、脱走兵は死罪となるため、二度と祖国に戻れないことを覚悟した上で脱走し、難民となったのだ。

◆シリア行きを決めた3日後、12月16日に夫のラドワンさんとレバノンの首都ベイルートで合流し、長男も含め3人でシリアに向かった。ベイルートから車で1時間ほどで国境に到着したが、アサド政権崩壊によりパスポートさえあればもはや誰でもシリアに入国できるのだという。由佳さんは2年前の2022年にシリアで取材を行った際はビザ取得が非常に困難だったため、これだけでもかなり大きな変化だ。

◆国境を越えてダマスカス市内に入ると、街中にも政権崩壊による変化が多くみられた。アサド政権下においてはいたるところで飾られていたアサド大統領のポスターも路上に廃棄され、今では反体制派の国旗が街中にあふれている。放置されたたくさんの軍事車両がホムスの方を向いており、最後の激しい戦闘が反体制派と政府との間で行われたことを物語っていた。こうした戦車や軍事施設はアサド政権下では撮影厳禁だったが、今では記念撮影をしたり、戦車に登っている人までいる有様だ。

◆不安に感じた由佳さんがシリア人に確認すると「アサド政権が崩壊した今、これはもう私たちのものだから大丈夫」とのこと。アサド政権の旗は燃やされ、反体制派のヒーローがプリントされたTシャツを売っていて、それを着て歩く人々がダマスカス市内には溢れていた。治安は良く、数日前まで滞在していたイギリスよりも安全だと思えるほどだった。こんなに短期間で時代が大きく動いたことに由佳さん自身も非常に驚いたが、それは現地のシリア人も同じだったようだ。街でインタビューしたシリア人たちも歴史の激動を目の当たりにして、とても信じられない思いだと語っていた。

◆シリアに入って2日目、由佳さんには必ず行くと決めていた場所があった。それが、夫のラドワンさんの兄であるサーメルお兄さんが収容されているというサイドナヤ刑務所だ。サーメルお兄さんは、由佳さんがシリアで何度も取材を重ねてきた大家族、アブデュルラティーフ家の六男で、冗談が好きでいつも陽気なお兄さんだった。アラブの春がシリアに飛び火した2011年頃、反体制派の若者たちと共に「シリアに自由を!」と叫んで投獄され、それ以降行方知れずになっていたのだ。

◆実はシリアに入る前にサイドナヤ刑務所の名簿を確認していて、サーメルお兄さんが2013年10月30日に亡くなっていることはすでにわかっていた。それでも、サーメルお兄さんがどんな場所でどんな時間を過ごしたのかを知るため、サイドナヤ刑務所に向かった。ダマスカスからサイドナヤ刑務所までは車で1時間、タクシーでの往復料金は150ドル。シリア人の平均月収は40ドルであることを鑑みれば、かなり高額だ。サイドナヤ刑務所にはすでに多くの人が集まっており、行方不明者を探しに来た人々、ジャーナリスト、ユーチューバー、あるいはピクニック気分で来ている人たちもいた。

◆由佳さんたちは、刑務所の中に入っていく。中は真っ暗でほとんど何も見えなかったが、その中の一室に、激しい異臭が漂う部屋があった。地面にはドロドロした液体が溜まっており、由佳さんは撮影のために部屋の奥にまで入っていったが、3メートルほど進んだところでドロドロの液体に足を取られて進めなくなった。その場にいたシリア人たちによれば、なんと人体の一部が腐敗したものだという。その部屋には、囚人の遺体をカットするための大型の機械があり、そこで処理された人体から流れ出たものが液体状となり腐敗した。それが、「ドロドロ」の正体だった。“人体の腐敗臭”を初めて嗅いだ由佳さんは絶句し、息子に「これはなんの匂い?」と聞かれても答えることができなかった。

◆サイドナヤ刑務所は、非常に劣悪な環境だったことが知られている。ここに送られた囚人はまず最初に、半地下の雑居房に収容される。その3メートル×4メートルほどの空間の中に10~20人もが収容され、真っ暗で灯りもなく、非常に寒く、食事も一日あたり、3人で1枚のパンを分け合うだけである。それだけでも地獄だが、毎日ひどい拷問が行われる。元囚人によれば、サイドナヤ刑務所での最大の死因は、看守たちによる撲殺だったという。最初に収監される地下の雑居房では次々と囚人が死亡していき、生き残った者だけが、2階以上にある雑居房に送られる。しかしそこでも、囚人たちは飢餓と恐怖と暴力に直面し続ける。サイドナヤ刑務所は、「人間虐殺の場」と呼ばれてきた。ここに送られた囚人の75パーセントが生きては帰れないと言われ、幸運にも釈放された人々も、その半数が精神に異常をきたしているとされる。アサド政権下、このサイドナヤ刑務所をはじめ、シリア各地の収容所に送られた市民たち約10万人が、今も行方不明になっている。

◆後日、サイドナヤ刑務所から生還したという2人の元囚人にインタビューする機会を得た。由佳さんは彼らに「どのようにサイドナヤ刑務所を生き延びたのか、囚人たちの生死を分けたのはなんだったのか」と尋ねた。彼らによれば、まず痩せていたり、身体が頑丈ではない者が先に亡くなっていったという。激しい拷問を毎日受けるため、どんなに精神が強くとも、拷問に耐えうる頑丈な身体でなければ生き残れなかった。また、“物事を深く考える人”は、人よりも早く精神に異常をきたして亡くなっていった。教養のある人ほど、この環境の不条理さに耐えられず、精神に異常をきたす確率が高かったらしい。そして精神に異常をきたしてから亡くなるまで、そう時間がかからないのだという。サイドナヤ刑務所では、そうやって亡くなった囚人を見せしめのため、雑居房にしばらく放置していた。そうやって放置された死体を見ながら、だんだん何も感じなくなり、そこで生きのびるため、人間らしい感情を失っていかなければならなかったという。由佳さんは衝撃のあまり、インタビューの途中で涙を流す2人の写真を撮影し忘れた。取材中に撮影し忘れたのは初めての経験だったという。

◆サイドナヤ刑務所での取材を終え、ダマスカスに戻ってからシリア中部のホムスという街に移動した。ここはシリア第3の大都市で、経済の中心地、交易の拠点でもあり民主化運動が盛んだった街の1つだ。ここで、由佳さんの友人であるシリア人女性とその家族に会うことになった。彼女はもともとパルミラで養鶏場を運営していたのだが、空爆で街が破壊されて生業を失い、今は最低限の生活を送っているのだという。

◆電気も1日30分しか使うことができず、燃料を買うお金がないため厳冬期でも防寒具を着込むことで凌いでいるそうだ。今でも生活は貧しいが、アサド政権が崩壊してからは政府に脅かされることもなく、自由を謳歌していると彼女は語った。そして物価にも変化があった。アサド政権下では政府系の企業が間に入って手数料をせしめていたことで食料品の価格が高騰していたようだが、今では目に見えて物価が下がったのだという。

◆ただ、彼女にとっての最大の懸念点は、アサド政権下で政府の協力者として働いていた息子が反体制派に逮捕されるのではということだ。息子もそれを恐れていて、今はずっと家に引きこもっているのだという。当時、政府系の仕事は給与が良かったこともあり、生活のためにその仕事をせざるを得ないという事情があった。しかし、そのような人々の働きによって、アサド政権下では多くの人々が殺され、大切な人を失う苦しみを味わうことになった。彼らが反体制派の裁きを受けるかもしれないということに対してどう思うか、由佳さんが夫のラドワンさんに聞くと「それも彼の選択だ」とのこと。政権崩壊後の今、シリアの人々は微妙な立場に置かれているのだ。

◆その後、夫ラドワンさんの故郷であるシリア中部のオアシス都市・パルミラへ向かった。パルミラに向かう道中、夫のラドワンさんは「今改めて振り返って、アサド政権に屈しなかった自分の選択を誇りに思う」と話した。ラドワンさんはもう二度とシリアに戻れないことも覚悟の上で、それでも民衆を弾圧することを拒否して脱走兵となった。それによって、13年間シリアに帰ることができなかったが、今は自分自身に対して誇らしい気持ちで故郷に帰ることができる。だから自分の判断は間違っていなかったし、そういう判断ができた自分に対して誇りを感じると語っていた。

◆2年前にも由佳さんはパルミラを取材していたが、そのときには親族の家に軟禁状態で、ほとんど身動きが取れなかったのだという。それに比べて今ではまったくの自由で、こうなるのであれば2年前に無理して取材しなくても良かったのではと思ってしまうくらいに拍子抜けした。

◆夫の親族の家で、由佳さんとラドワンさんを迎えるためのパーティが開かれた。たくさんの料理が準備されたが、予定よりも多くの人が集まったことで、料理は男たちに食べ尽くされてしまった。たくさんあったはずの料理のうち、由佳さんの食べる分はほとんど残されていなかったことをラドワンさんに愚痴ったとき、「女だから仕方ないよ」と言われ、由佳さんは、夫の考え方がイスラムの伝統的なものに回帰しつつあることに気づいた。

◆由佳さんが夫と共にシリアの土地を踏んで思ったのは「夫はいつかシリアに帰るのかもしれない」ということだ。シリア行きを提案したとき、ラドワンさんは、13年ぶりに故郷に戻れることを喜ぶ一方で、「空爆でボロボロになったシリアを見たら、過去の美しいシリアの記憶が失われてしまう」と危惧していた。しかし、今回の帰郷によって考えが変わったのだという。ラドワンさんは、いつかシリアに戻って生活する未来を考えているようだった。いつかそうなるかもしれないとは思っていたけど、その日が決して遠くないかもしれないということを由佳さんは悟った。アサド政権崩壊という歴史の大きな転換点に立ち会うとともに、由佳さん自身の家族としても変化の予兆を感じさせたシリア取材であった。

◆私が初めてシリアのことを知ったのは、2010年に見たNHKの旅行番組だった。古都アレッポのマーケットはとても賑やかで、鮮やかな色彩に溢れる異国情緒が漂う美しい街だった。大学受験で1日中勉強浸けだった当時の私にはとても眩しく映り、大学生になったらいつか訪れたいと思っていた。しかしその翌年、私が晴れて大学に入学したころにアラブの春が勃発し、シリア内戦へと突入。淡い憧れを持っていた異国の地が、もう絶対に訪れることができない場所になってしまっていたのだ。

◆今回レポートを書くにあたり、由佳さんが2020年に執筆された『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)を拝読した。家族を愛し、砂漠を駆け回って自由に暮らすシリア人の生活が由佳さんの視点から瑞々しく描かれ、ノンフィクションでありながら文学のような繊細さが漂う美しい作品だった。ラドワンさんをはじめとして難民たちが祖国を離れた13年間はあまりにも長く、戦争で大切な人を亡くした悲しみは消えない。美しかったシリアの街は傷つき、シリア人同士の分断も残っている。それでも、止まった時間が再び動き出したことを祝福したい。シリア人の家族と暮らし、当事者として独自の視点でシリアを取材し続ける由佳さんの今後の報告から目が離せない。[貴家蓉子


報告者のひとこと

アサド政権崩壊の現場から

■2024年12月8日夜、取材先のロンドンの空港に到着した私は、スマートフォンに流れる報道に目を疑った。半世紀にわたって独裁を維持したシリアのアサド政権が、崩壊したというのだ。これは大変なことが起きた、というのが正直な思いだった。

◆シリアでは2011年以降内戦状態が続き、空爆や戦闘などによって50万人以上が死亡、500万人が難民となり、国内では720万人が避難生活を送っていた。こうした中での政権崩壊は、内戦の終結とともに、国外に逃れた多くの難民が故郷に帰還できる可能性を示すものだった。これまで難民の取材を行ってきた私は、このシリアの歴史的展開に興奮した。

◆今すぐ、シリアに向かいたい。しかし懸念は、8歳の長男を連れていたことだ。政権崩壊後、シリア国内の軍事施設を標的にしたイスラエルの空爆も数多く、混乱状態のシリアに子連れで入ることは躊躇された。その打開策ということもあり、夫も同行することになった。

◆シリア中部パルミラ出身の夫は、2011年に徴兵された。しかし同年、国内で民主化運動が拡大し、政府の立場から市民を弾圧する任務を負うことになる。悩んだ夫は、2012年に軍を脱走してヨルダンに向かい、難民となることを選んだ。そのため政権が倒れない限りは、二度とシリアに戻れない身となっていた。しかし政権崩壊により、その軛がなくなったのだった。

◆2024年12月16日、政権崩壊から8日目のシリアに、夫と息子と共に入国を果たした。夫にとっては13年ぶりの祖国だ。これまでアサド政権の恐怖支配の下、市民は厳しい言論統制を受けてきた。しかし今回目にしたのは、抑圧からの解放に歓喜し、自由に思いを語り合う人々の姿だった。かつて権威の象徴としてあらゆる場に掲げられていたアサド前大統領の写真は路上に捨てられ、街中には、政権を打倒した反体制派の国旗が、人々の大きな期待とともに掲げられていた。

◆二週間の取材期間、夫の故郷パルミラにも立ち寄った。タクシーの車窓にパルミラの街が近づくと、夫は、自分が誇らしい、と話した。市民の弾圧行為に加担しないことを決め、国を離れ難民になったこの13年間は、簡単な道ではなかった。しかし今、自分の決断に誇りを持って故郷に帰ることができる、と。しかしそうした夫の前に現れたのは、空爆によって市街地の8割が破壊され、瓦礫となった故郷だった。「とても嬉しくて、とても悲しい」。故郷に帰ってきた喜びと、故郷の悲惨な現実への悲しみに、夫は立ち尽くした。

◆家や街は再建できても、亡くなった人々はもう戻ってこない、と夫は言う。2012年に政治犯として逮捕され、刑務所での死亡が確認された夫の兄サーメルや、2021年にトルコで難民として亡くなった父親もその一人だ。今後シリアに平和がもたらされても、以前と同じ日常を送ることはもはやできないという。14年間の内戦によって人々が失ったものには、二度と手にすることができないものも多いのだ。

◆シリアでは今日も、破綻した経済と崩壊したインフラのなかで、国民の9割が貧困ライン以下の生活を送っている。空爆で破壊され、瓦礫と化した多くの街をいかに再建するのか。国内に存在する多様な宗派がいかに手を取り合い、ひとつのシリアを目指していけるのか。

◆半世紀にわたって続いた独裁政権と、14年にわたる内戦。それらが残した負の遺産と向き合いながら、シリアの人々は今、困難な再生の道を、希望と共に歩もうとしている。[小松由佳

追記 今回、政権崩壊後のシリアに立つことができた幸運に、心から感謝しております。そして、突然の取材地変更について、多くの皆様に取材カンパをいただき、応援いただきました。おかげさまで一生忘れられないだろう取材となりました。皆様、本当にどうもありがとうございました。これからも、シリアの人々が、故郷とどのように繋がりながら生きていくのかを取材していきます。

イラスト-1

 イラスト 長野亮之介


K2の後も、ずっと登り続けている

■シリア政権が崩壊して間もないこのタイミングで、まさにその現場に入った小松由佳さんの話を聞く機会に恵まれた。小松さんの報告会が終わり、私たちは歴史から何を学び、何を活かすことができなかったのかと今も考えさせられている。10年以上の長きにわたるシリア内戦では、政権に不満を抱く自国民への徹底的な弾圧、監視と密告、それに伴う人々の分断が続いた。特に衝撃的だったのはナチス・ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所以上に非人道的と言われるサイドナヤ刑務所を訪問した際の描写だ。サーメル兄も収容されたこの刑務所では拷問、処刑、餓死などのおぞましい所業で10万5000人以上が死亡したとされる。この現代になぜこれほど大規模かつ非人道的行為が続き、そしてシリア政権崩壊まで根本的解決を得なかったのだろうか。この現実の前には、どんな国際的な枠組みも薄っぺらく感じられてしまう。政府と反政府、そして宗教や民族間の対立と分断が続いたシリアから考えさせられることは多い。

◆一方で、前向きな気持ちにさせられたのはアサド政権崩壊後のシリアの新指導者、ジャウラニ氏による「今までのこと(旧政権協力者の処分)は水に流そう。これからシリアが目指したいのはこれまでのような対立でなく復興だ」との訴えだ。人々が様々な立場で長年争い続け、分断のしこりが残るシリア。夫のシリアを想う気持ち。懐かしき人々とシリアで直接再会できる喜び。アサド政権崩壊直後の激動のシリアへ夫のラドワン、お子さんと共に入国され、無数のシリアスな状況を見たにもかかわらず、小松さんは俯瞰した冷静な視点と温かな眼差しを持っていた。それ故、語る言葉は一言一句に深い意味を持っていた。報告会中の小松さんに会場の誰も割って入ることなどできなかったのではないだろうか。一歩深く、さらに一歩深くと話をされ、真摯に、そして覚悟を持って生きている小松さんの姿勢が伝わってきた報告会だった。[福井から駆けつけた 塚本昌晃


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