■チャドで友人からプレゼントされたバティック(ろうけつ染めの布)で仕立てた、民族衣装グランブーブーをまとって登場した坂井真紀子さん。学生時代からアフリカに惹かれ、彼の地に行くことを目標に生きてきた真紀子さんのアフリカ歴は、かれこれ30年余りになる。
◆NGOのスタッフ、第2の学生生活を経て、研究者、大学教員となった今も「地元の人とおしゃべりするのが楽しくて、彼(女)らのことを知りたくて、アフリカと関わっています」という本人の気持ちが、話の端々から伝わってきた今回の報告会。前半はこの春、写真集にまとめた現在の主たる調査地・カメルーン西部の伝統的な定期市にまつわる話が、そして後半ではアフリカへと至る自身の道のりが語られた。
◆真紀子さんが2015年から通っているのは、バミレケという民族が暮らす、カメルーン西部メヌア県のチャン市。それまで調査に通っていたチャドの治安が悪化し、入国できなくなったことがきっかけだった。山がちで耕作地が少なく、畑を継ぐ長男以外は出稼ぎに行く人が多いチャン周辺は、伝統的なチーフダム(首長領)が存続している地域でもあるという。
◆チャン周辺の定期市の最大の特徴は、8日間を周期とする暦で市が立つこと。各村では、市の曜日が決まっているだけでなく、近隣の村では、市の立つ日が重ならないよう配慮されている。「商人は各市を巡回するし、普段は畑をやっている人も、市に合わせて行商に出る。定期市はバミレケの人の生活の、大事なサイクルになっています」
◆行政や学校では、週7日の暦が使われている中、市場の必需品が7日暦と8日暦を合わせたカレンダー『MELE ela YEMBA』だ。カレンダー自体は昔からあったけれど、ポケットサイズはきっと売れる。そう閃き、30言語でカレンダーを制作した男性Dongmoさんは、売上で家を建てるほど財をなしたそうだ。
◆そもそも市場とはどういう場なのか。神(聖)の世界と人間(俗)の世界の境界に位置し、世俗の縁や文脈から断ち切られた場について、真紀子さんは「たとえば彼氏のために愛情を込めて編んだマフラーは、想いが強すぎて重いですよね。そういうものを断ち切った無縁状態で、モノの価値だけを見て交換・売買するのが市場です」と、説明する。
◆では、市場とスーパーマーケットの違いは何か。個と個がやりとりする市場は、モノだけでなく情報・文化が交流するコミュニケーション・システムであり、その周期性は生活のリズム、社会の脈拍になる。もうひとつ、なるほどと思ったのは、市場では生産者が交易者兼消費者でもあるということ。「スーパーに来る人は消費者でしかないし、売り手も資本主義的競争にさらされています。でも、市場では普段、畑で野菜をつくっている人が、市の日には野菜を売り、帰りに夕飯の材料を買うときは消費者になるように、3つの役割を体現しています」
◆ところでこの定期市、誰でも商売できるのだろうか? 屋根や物入のある場所は1年契約、ゴザを敷いて路上で販売するのは1日契約などカテゴリーがあり、それぞれのキャパシティに合わせて市に出られるそうだ。
◆カメルーンの首都ヤウンデからチャンまではミニバスで7〜8時間。フィールドワークでは宿や食事も重要で、現地に到着すると、真紀子さんはまず食べ物を探し、夜の外出のリスクなどをチェックする。そして宿のオーナーやカフェに集まる人を伝手に、人間関係を広げていく。かつてコーヒー栽培で潤っていたこの地は、90年代の自由化でコーヒーの価格が暴落。雨が多く冷涼な高原地帯では、代わって近隣諸国に輸出するほど野菜栽培が盛んになっている。これを可能にした救世主が、バイクタクシーだ。道が整備されていない山間の畑から収穫物を運ぶ手段として、バイクタクシーが登場したのは2000年頃。中国から関税なしで入るようになったバイクが急増したことが、その背景にある。失業者や、次の仕事までのつなぎとしてライダーになる人が多かったバイクタクシー。ただ最近は供給側が過当競争となり、小銭稼ぎも大変になっているという。
◆市場調査の一環で、野菜売りの女性に話を聞き、仕入れに同行する。畑を見に行き、仲良くなった人の自宅を訪問し、一夫多妻の家庭の、夫の立場を垣間見る。真紀子さんはそのお宅で、夫のお母さんから「私のお葬式に来てね」と、いわれている。金曜日から日曜日は葬儀に参加するため、大学の先生たちも毎週、地元に戻ってしまうように、カメルーンでは葬送の儀が盛大におこなわれる。
◆なぜ伝統を守り続けるのか? 真紀子さんの問いに「定期市も8日暦も、自分たちのアイデンティティだから、絶対なくなりません。僕らは見える世界(この世)と見えない世界(あの世)を行き来しているんです」と、学生は答える。カメルーンでは政治不信が強く、一般市民は自分たちで経済を回すことを信じている。「葬儀を介して都市と農村を往復し、次の世代に価値観と習慣を共有する。すごいなと思います」。調査地チャンの伝統市をテーマにした前半の報告の終了前に、写真集を編集した丸山さんが「宝の山」と称した真紀子さんの写真について解説した。制作にまつわる裏話のあれこれは、記録の意味をあらためて考えさせてくれるもので、地平線への寄付として用意された写真集40冊は、あっという間に報告会参加者の手にわたった。
◆「何か目的のためというより、彼(女)らを知りたいという好奇心から、日常の延長でアフリカに滞在しています」。報告会冒頭での発言が腑に落ちた前半に続いて、「今回、こうして地平線会議で報告する機会を得たので、自分がアフリカに辿り着くまでを振り返ってみます」と、後半がスタート。表面的なことではなく、その人が何を大事にしているかを知りたい。そんな思いでフィールドワークをしている真紀子さんのスタンスを象徴するのが、セネガルのある村を、初めて訪問したときの出来事だ。到着してすぐ女性たちの輪に溶け込み、「10年くらいここにいるみたい」といわれたように、どこででも、すぐその場になじむ真紀子さんは、人と接する際に邪魔になるものとして、肩書や所属を挙げる。「相手の話を聞くとき、聞き手がつい自分の成功体験を話していることもあるので、フィールドワークではそういう自我を出さないように心がけています」
◆真紀子さんがアフリカに惹かれた1980年代後半の日本は、バブルの絶頂期。アフリカに関わる=援助するという当時の空気に対して、「アフリカを援助の場にすることへの違和感がすごくありました」と話す。お金の有無は物事の本質と関係ないのに、なぜそこで優劣を決めようとするのか。今も経済成長とは別のところで社会をつなぐ何かを探しているという。
◆自分がなぜ、今の自分になったのか。考えると、やはり大きいのは家族の存在。町工場を運営する祖父のもと、ひとつ屋根の下に9人が暮らす大家族は、人から「交差点の真ん中にいるみたい」といわれたように、アフリカに通じるものがあった。その一方、病弱な父親のひとことから、いずれ母子家庭になったときに右往左往しないように、真紀子さんは小6のときから「葬式イメトレ」をしていた。
◆祖母の介護が始まったのが中学3年。高校から大学にかけて、父親、母親、祖母と3人の肉親を亡くした真紀子さんは、2人の弟と年が離れていたこともあり、この間、介護や看護、家事など、家族の世話を担っている。なぜ自分だけが? そんなモヤモヤもあったものの、『道元入門』を通じて、人間の心身を支える仕事なのに光が当たらず、お金にならず、けれど生きている限り続くシャドウワークの大切さに気づいたのはこの頃だった。家族のことが片づかなければアフリカに行けない。そう思っていたとき、道元のことばとともに自分を支えたのがビリー・ジョエルの「Viena waits for you」で、ウィーンをアフリカに置き換え、語学の勉強など、アフリカ行きのためにできる準備を進めていた。
◆真紀子さんの大学時代から就職期は、バブル期とほぼ重なる。「お金がすべて」的な資本主義への怒りは、アフリカだけでなく、ベトナム、パレスチナなど、第三世界への関心にもつながっている。この時期、影響を受けたものとして、犬養道子の『人間の大地』、和崎洋一の『スワヒリの世界にて』、母子でお世話になった早坂泰次郎教授の心理学のゼミなどを挙げる。「『人間の大地』に書かれた、先進国の生活様式が地球の裏側で貧しさを生んでいるという話は、その通りと思いました」
◆敵情視察で入社した総合商社を9か月で退職すると、海外留学生の多いアジア学院で1年間、ボランティアをしながら有機農業を学んだのち、ついに念願のアフリカへ。半年間で6か国を巡ったのち、長期滞在しようと、94年には、砂漠の縁で植林活動をしている「緑のサヘル」のスタッフとしてチャドに赴任した。PC導入、現地スタッフのために労働法規を学ぶなど、チャドでは事務方=シャドウワークが中心で、なかなかフィールドに出られなかったが、そこで圧倒されたのが地元の女性の生活能力の高さだった。チャドのことを知りたい、開発援助についても再考しようと、5年弱いた「緑のサヘル」を離れ、30過ぎてパリに留学。国立の大学院大学のアフリカセクションに飛び込み、のちに恩師となる在野の人類学者を紹介された。開発援助に一家言ある恩師は厳しかったが、博士論文までお世話になっている。
◆チャドで、On the Job Trainingで耳から学んだフランス語をブラッシュアップしようと、真紀子さんはパリに移住後、すぐ語学学校に通っている。フィールドワークをしっかりおこない、フランス語で論文をまとめるためだったが、その前提にはつねに「ことばを大事にしたい」という気持ちがあった。コーディネーターという肩書があったNGO在籍時は、村人とも距離があったけれど、貧乏な学生として村に寝泊まりすると、それまで聞けない話を聞くことができた。パリでは週末ごとに持ち寄りパーティをしたり、朝市巡りをしたりと、生活を楽しみつつ、時間はかかったけれど、フランスで博士号を取得した。
◆帰国後、3年ほどのフリーの時期は、山仕事のボランティアに注力。「週末、ここに通うためにも仕事をしないと」と、思ったところで、2011年に東京外国語大学国際社会学部に新設されたアフリカ地域専攻で教えることに。なかなかフィールドに出られないジレンマを抱えつつ、現在に至っている。
◆調査地カメルーンでの詳細なフィールドワークの話から、アフリカへ至る道のりまで、ライフストーリーを交えて語られた今回の報告会。現地でも台所に入って女性とやりとりするなど、家族が大変だった時期のさまざまな経験が関係性づくりに役立ったのかもしれないと、真紀子さんは振り返る。
◆若い時期に3人の肉親の介護と看取りをしてきた経験は、一期一会を大切にする生き方にもつながっている。「この人に、また会えるだろうかと思うと、一歩踏み込むことができるし、そうすることで相手が今、このときに発することばを受け取ることができると思います」
◆語学が堪能で、40過ぎまで定職に就かなかった真紀子さんの自由人ぶりに、尊敬する文化人類学者の西江雅之さんを思い出した。肩書や所属に縛られず、つねに個として他者と向き合い、関係を結ぼうとする。オープンでフラット、何より世界に対してフェアであろうとする真紀子さんの話に、希望と勇気を感じた報告会だった。[塚田恭子]
■9月末の報告では、私のフィールドでの写真を元に、カメルーン西部州の定期市の面白さや出会った人々とのエピソードをみなさんと共有することができました。これはひとえに丸山純さんが、調査資料の中に埋もれていた私の写真に、丹精込めた編集で命を吹き込み、すてきな写真集にしてくださったおかげです。自分がフィールドで撮る写真は記録用なので、これまで特に誰かに見せることはありませんでした。今回、丸山さんからのコメントをはじめ、感想を多数いただいて、私が無意識にファインダーに納めた市場の商品や風景、人の表情が、新しい意味を持って迫ってくる、そんな不思議な体験をしました。
◆そして、写真一枚一枚をとおして、そのときの記憶が戻ってきました。市場のおばさんのにっと笑った顔、カフェの客たちと馬鹿話で盛り上がったこと、炭火焼きの魚をはじめて口に入れたときの驚き……。そうだ、私は確かにあの場所にいて、その場、その瞬間が大好きだった。あのときの「袖振り合うも多生の縁」が、写真の隅々に残っていたとは驚きでした。なくしたことすら忘れていた大事な宝物を発見した気分です。そして自分の撮った写真を見返す暇もなかった日常にため息がでました。
◆報告の後半では、アフリカに通うようになるまでの道のりについて話をしました。アフリカについて話すことはあっても、まさか自分の家族の記憶を、大勢の方々の前で話す日がくるとは思いませんでした。でも振り返ってみると、10代のころから、家族の中の出来事を反芻しながら生きてきました。私の人生の冒険は、むしろ家族との物語、祖父母、両親、弟たちと「家族」のしがらみと格闘しつつ、「待ってろ、アフリカ!」と意気込んでいた日々だったのかもしれません。自分の人生の前半と後半をつないだら、憑き物が落ちたような脱力感が襲ってきました。家族の介護や死から得たことは、私なりのアフリカとの向き合い方につながっていました。あのころの自分が、やっと納得したようです。会場でうなずきながら温かく耳を傾けてくださったみなさん、ありがとうございました。あの不思議な一体感はなんでしょうね。地平線の“場”の力でしょうか?
◆事前の打ち合わせから、当日の機材のセッティング、進行、二次会の手配まで、江本さんをはじめ地平線のみなさんには大変お世話になりました。この場を借りて、心よりお礼を申し上げます。[坂井真紀子]
■9月28日の地平線報告者は、アフリカ研究者の坂井真紀子さん。私にとっての坂井さんは、最初の出会いが、今年3月の地平線報告会後の北京で座った席が隣だったことで、それに続き2回目は、8月の報告会会場で空いていた椅子に座ったら隣が坂井さんだった。しかも次回の報告者であり、テーマはアフリカ! 国は違うが、私がかつてバックパッカーとして旅したことがある地域の話だ。これはもう、聴きに行くっきゃないでしょう。
◆坂井さんの報告は、学者さんならではの知性と、人としての奥深さを感じさせられる内容で、こちらも聴いている端から「つっこみたいこと」が次々と湧いてきた。そして質疑応答コーナーでは、ありがたいことに一番に質問させてもらう機会をいただいた。が、実は私には大きな質問が2つあったのに、ひとつに絞ってしまった。
◆それが失敗だったと気づいたときは、後の祭り。なぜなら、その回答から、日本人にとって最も遠い世界のひとつであるアフリカの人たちの考え方を、あの報告会の場で共有したいという思いが強かったから。なのでこの場を借りて、報告会当日は残念ながら時間切れでできなかった質問と、後で聞いたそれに対する坂井さんの回答を共有させてください。
◆それは、死者の葬り方に対する感覚の違いについて。ちなみに報告会当日の質疑応答コーナーで、葬儀の方法などについては他の方によっていくつか質問がされ、土葬か火葬か、という質問に対しても、「土葬」です、という回答は共有された。そこで私があの場で共有したかった質疑応答は……。
◆Q:日本で行われている「火葬」は、現地の人達に理解されましたか? A:いいえ(補足:死者を焼くということは、彼らにとっては、人としての理解の範疇を越える行為である、ということ)
◆やっぱりそうかー。あー、すっきりしたー。ありがとうございます。この続きはまた![中井多歌子]
■坂井真紀子さんの報告会は、他用重なる中、行ったかいがありました。楽しかったですし、心に残りました。マーケット、市場なんてあまり関心ないな、などと報告会の前には思っていたのに、マーケット再発見! どれだけ人が関わる催しか、それぞれの人生、生の交流の場になっているか、面白い!と。
◆たしかに、私の住む東京都三鷹市にはまだ農家(多くは相続税対策とはいえ)があちこちにあり直売所をしていて、そこで生産者の方と出あうと、いつも楽しくて心が晴れる。実家の新宿一丁目(旧花園町)界隈も、私の幼いころは、どこも平家で路地があり商店街があり、今でもそのころから顔見知りだった人に道で出あうと、なんか不思議な親しみがある。などの思いが巡り……。
◆そして、今は、新宿の地元の商店街は消えて、大きなスーパーマーケットができ、さらに最近はセルフレジがほとんどとなり、買い物に行くことは、単にお金と物(ストーリーのわからない商品)の交換だけになって……それは、都会の孤独をますます助長しているのではないか。
◆一方、地元の、さらに生産者も参加している市場は、人の営みと交流の場であり、どれだけ貴重であるか、面白いか、ステキか。もしかしたらマーケットをとおして、今、誰からも取り残された人たちも何らかの役割が持て、参加し、みんなの一員になれる、そんなこともあるかも……。今回は、こんなことをあらためて思った報告会でした。
◆私がこんな風に感じたのは、坂井さんが「冒険したくてアフリカに行っていたのではなくて、そこの人たちとお話したくて。深く話を聞きたくて」という気持ちや、「自分の話を聞いて聞いて、という自分の欲求を満たすことには、気をつけていた」という知性があったからのように思いました。
◆話をしたくて行きました、という言葉がなんだかとてもよかった。これは、人の心に潜む自然な気持ち、私は心から共感しました。なのに、それがなんだか難しくなってしまっている日常。たくさんの人間たちがいるのに……。今回の報告会は、この点でも深く心に残りました。
◆この16年間、私は実家の両親の日常の補佐ヘルパーをしていますが、シャドーワークという単語を初めて知ったことは、衝撃でした。坂井さんは、若いころシャドーワークをし、やり遂げて、それから、自由に自分の人生を拓いてきた。私は、若いころからブラブラ暮らして、人生後半にシャドーワークにどっぷりは案外葛藤も多く、でもそれまでまるで知らなかった社会の人生のいろんなことを体験できています。シャドーワークは、今自分の成長のために必要なことですね〜。
◆以前、たまたま江本さんと二人でお話したときに、江本さんから地平線会議は冒険の報告会や集まりでもあるけれど、深いところでは一人一人の人生の探求を共有する場なんだ、というように聞いて感動したのですが、今回の坂井さんの報告会ではそのことをあらためて思い出しました。[秋葉純子]
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