■今回の報告者は石川県能登半島出身の写真家、東雅彦さん(47)。能登半島の先端付近、奥能登とよばれる輪島市町野町(まちのまち)出身で、現在は東京都在住。今年の正月、実家に帰省中、最大震度7の令和6年能登半島地震に遭遇する。それもまさに震源地付近で。目の前で大きな日本家屋が倒れ、土砂崩れや地割れで道が寸断される中、半島をさまよう経験をする。まだ震災の記憶も生々しい中、能登半島地震に遭遇した当時の状況や感じたこと、そしてご自身のルーツやそれを培った奥能登の風土について東さんに語ってもらった。
◆町野町にある実家は海岸線から車で5分ほど内陸に入った山あいに位置している。小さなころから自然の中で遊ぶうちに体力がつき、「輪島市陸上競技大会」の100m走では中学1年生にも関わらず学校の代表として出場するまでに。12秒6を記録し3位に入賞した。
◆高校は輪島実業高校機械科に入学。高校にボクシング部もない中、ボクシングを志す。校内の格技場を使って、志を同じくする友人と見よう見まねでボクシングの練習を続ける日々。ついにはボクシング部のある他の高校への練習参加を運動部の顧問に直訴するも「今までに例がない」という理由で却下され、高校生活は虚しい思いが残った。
◆ここで東さんから往時の町野町のお盆の様子がスクリーンで紹介される。巨大な長方形の灯籠が映し出される。キリコというそうだ。キリコとは縦長の長方形の灯籠のことで、高さは2階建て相当(最大で高さ16m、4階建て相当!)の巨大なもので根元に担ぎ棒が設置されている。それを20人前後で担ぎ上げて子供たちが鐘をカンカンカン、太鼓をドンドンドンと叩きながら練り歩く熱狂的な夜祭りだ。豊作や大漁を願い、毎年7月から10月にかけて、能登半島の約200もの地区で、この祭りが繰り広げられる。
◆祭りの期間中は街全体が浮かれており、活気があり、楽しい雰囲気が漂っているそうだ。スクリーンに映されたキリコ祭りの映像からは(震災前の)町野町の人々の熱さと結びつきが伝わってくる。半島という地理的閉鎖性の中で人々は助け合いながら生活し、結びつきを深め、神事や祭礼に対して地域全体が一体となって深く関わり合う土壌が形成されたのだろう。
◆高校卒業後、東京へと上京。歯科技工士専門学校へ入学するという大義名分で昼は学校に通い、夕方はガソリンスタンドでのアルバイト、そして夜は念願のボクシングジムへと通う。ボクシングジムで感じたのは、ボクシングは才能がモノをいう世界。努力だけでは埋まらない溝がある。ボクシングをずっと続けていけば自分は日本ランカーにはなれるかもしれない。しかし天賦の才をもつ者たちがさらに努力を重ねることでその先の「世界を目指す」現実を目の当たりにした。凡人の自分とは雲泥の差があることを身に沁みて感じた。
◆それで19歳ごろボクシングも専門学校も辞め、故郷の町野町へ戻った。電子部品を作る会社に就職したが3〜4か月もすると「やっぱり上京しようかな」という気持ちが湧き、お金を貯め1年後に再度上京。そんなフラフラした気持ちでは何者にもなれるはずもなく、20歳から25歳の夏まで夜な夜な渋谷で遊ぶ日々。シルバーアクセサリーの販売、写真のレタッチやバナー制作をしながら日銭を稼いだ。25歳までただただ遊んでいると、ある夜、自分は何もやってないなと気づく。自分は空っぽだと思った。
◆そんな時期を支えたのがカメラだ。高校のときから新聞配達のアルバイトをしてカメラを買うほど写真に興味があったことを思い出す。高校当時、祖父から譲ってもらえず遺品になってしまった一眼レフカメラを手に26歳の夏、一念発起しオーストラリア・シドニーへと渡る。
◆シドニーでは語学学校に入学し、現地の家族のもとで3か月のホームステイを経験する。余談だが今回の筆者の私=塚本と出会ったのはちょうど20年前のこの語学学校で、だ。当時のクラスは韓国、タイ、日本等のアジア出身者を中心に南米や欧州と様々な国の出身者たちが入り混じっていた。初めて東さんを見かけたときに、当時は珍しかったロン毛にひげ面だったため日本人かどうか確信が持てず「Are you Japanese?」と声をかけたのが最初の会話だった。当時、学校では私が一番若く、5歳上の東さんはお兄ちゃん的な存在だった。
◆シドニーには約1年間滞在し現地の写真事務所での撮影を仕事とした。その後タイを経由しインドのコルカタやラダック、ネパールを旅する。
◆能登へ帰省した12月29日の時点で、街に入ると電柱が大きく斜めに傾いていた。一週間前の大雪のためだ。すでに地盤が影響を受けていたのだろう。そして12月31日には雨が降りさらに地盤が緩んだ。年の瀬は独り身の父と弟の3名で紅白を見ながら鍋を囲んだ。
◆1月1日。遅めに起床し、(能登半島の海近くの)岩倉寺へと向かい初詣を済ませた。例年であれば元日は母方の菩提寺である佐野寺へと初詣に行くが、訪問していないことに気付き、一旦内陸側の佐野寺へと戻り初詣を済ませた。この行動が命の分岐点となる。佐野寺へと戻っていなければ、後述する大谷峠での撮影が終わる時間が早くなり、その後訪問する予定だった珠洲市飯田の海沿いの土産物店で地震と津波に遭遇するところだった。飯田は津波に飲み込まれた街だ。
◆15時45分。海岸近くの高台にある大谷峠で、ライフワークの水平線の撮影を終え、大谷峠を(内陸側の南方面=珠洲市側へと)車で下っていく。
◆16時06分。最初の地震。車が垂直に3度跳ねた。運転中の車内からは何が起こったのかわからず、そのまま大谷峠を下る。
◆16時10分。2度目の地震(最大震度7)。大谷峠を下り若山地区に入ったところで大きな揺れに襲われ思わず車を停める。あまりの揺れの強さに目の前の大きな日本家屋が軋みながら音を立て潰れる瞬間を目撃する。その直後、各地の友人たちからLINEやSNSで津波が来る旨の連絡がある。できるだけ高い場所へと避難するためUターンし再び大谷峠へ戻る。道路はひざ丈くらいの高さで上下にズレて地割れしており数台の車が立ち往生していた。大谷峠で30分ほど避難していると(車が通れないため)反対側の輪島市側から歩いてくる人と出会う。「輪島側はどうですか?」と訊くと「ダメや、輪島側からは道路が割れて車が入ってこれん」。
◆17時も回り、暗くなってきたので、大谷峠から珠洲市側(若山地区)へと再び下って行った。ここから迂回路を経由し実家へ戻れないか試行錯誤するが、どの道も土砂崩れや地割れで進めない。車が道路を通れないため、人々がぞろぞろと歩いてくる。5〜6本の迂回路を想定して車で進むがどの道路も所々地割れがありセンターラインを無視して進まなければならない。夜も暗くなり地割れもある中、車でも時速10キロ程度しか出せず、所々、車から降りて進めるか確認をした。グーグルマップでも出てこないような生活道路も含めて迂回路を探していると警察や消防も同じことをしていた。土砂崩れで進めない、電柱が倒れており進めない道が多発。震災後の数日間、ニュースでは輪島市の朝市エリアの火災の映像がひたすら流れていたと思う。奥能登の珠洲市側の報道が無かったのは報道陣も現地に入れない、進めないのが理由だったからだ。
◆迂回路を1つ2つ進んでいくと、潰れた建物の下で人が生き埋めになっている場面に遭遇する。外にいる娘さんが父親の名前をよぶと「うぅ〜、あぁ〜」と辛うじて返事をしていたがそのうち聞こえなくなってきた。さらにその向こう側の家でも生き埋めが発生していた。娘さんが警察や消防に電話してもまったくつながらない。どうしようもない。助けることもできない状況を目の当たりにする。
◆ちょうど、迂回路を探していたパトカーが通ったため、人命救助をしたほうが良いかと訊いたが、警察は「素人が触るもんじゃないから」と言い、生き埋めになっている方の名前や年齢を確認し、警察のネットワークへと登録した。しかし登録ができただけで、その後どうなったのかはわからない。自分はこの場にいても何もできないと悟り、その場を後にし、迂回路を探し続けた。生き埋めになっていた方のうめき声は今も脳裏に染み付いていて忘れることができない。無力感だけが残った。
◆夜も深まる中、海岸線の道、内陸の道とあらゆる迂回路を想定したが、迂回に失敗し続けた場合はガソリン切れも懸念されるため、実家へ戻るのを断念。車中泊をした。翌朝明るくなるのを待って実家へと車で向かう。はたして、道路はかろうじて復旧していた。工事業者が夜を徹して、地割れした道路に砂利を詰め、障害物を取り除き応急処置をしてくれたからだ。そうして最初につながった道が能登町の天坂から輪島市の町野町へとつながる道だ。その天坂は、以前東さんのお母さんとおじいちゃんが交通事故で亡くなった場所だ。何かの導きか。もし震災当日、母親ゆかりの佐野寺へと初詣に戻っていなければ、珠洲市飯田の海沿いの土産物店で、津波に飲み込まれてしまっていた。生かされたと思った。
◆2024年元日の夕方。令和6年能登半島地震が発生した際、福井市の私の家も何度も大きく揺れた。東日本大震災発生時の東京と同じ震度5強だった。水槽の水がチャプチャプと床に溢れ、大きく揺れ今にも倒れそうになる壁面棚を全身の力を使って押さえ、転倒を防いだ。恐怖を感じるほどの大きな揺れから始まった2024年は一生忘れられない年となるだろう。
◆今回、東さんには自身の生い立ちと能登の豊かな風土、そして震災当時の状況を詳細に語っていただいた。残念ながら時間が足りず、語り尽くせなかったことが多かっただろうと思う。報告会後に東さんに「能登の復旧の進捗状況はどんな感じですか? 今年のキリコ祭りは開かれますか?」とつい訊いてしまった。返ってきた答えは「復旧はほとんど進んでいない。家族が亡くなった人もいて、家も仕事も失い、まだまだ先のことを考えられる状況ではない」。
◆それが現地の方たちの偽らざる声だろう。震災からもう5か月が経った。しかし現地の被災者からするとまだたったの5か月だ。高齢化や過疎化が進む中で、復旧そしてその先の復興までの道のりや先行きが見えてこない。復旧・復興は10年単位の長い道のりだ。心の整理がつかないことも多いと思う。今回のリポートを書いているさなかの6月3日には、震度5強の大きな揺れが再び能登半島を襲った。1月の地震で辛うじて建っていた家々の倒壊が相次いだ。
◆人には誰しも故郷がある。アイデンティティーを育んだ心の拠り所となる地だ。人々の結びつきが強く、結(ゆい)の文化が残る能登半島で発生した今回の大きな震災。過去の先人たちがそうしてきたように、災害の多いこの土地でたくましくもしなやかに元に戻ろうとする当地の人々に我々なりの継続した支援が求められている。[福井市 塚本昌晃]
■迂回路が尽きてしまい車中泊をしているときに命の分岐点を実感することになったことを経て2024年1月2日朝、生かされたと思ったことについてのディテイルを補完させていただければと思います。そうするには母の死に触れなければならない。母の死については、ほとんど誰にも話をしていないし正直、この出来事の整理も心の整理もできずに11年間の月日が流れている。5月31日の報告会で初めて人前で触れることになった。
◆2013年1月15日に母は永眠した。私は2012年の暮れから1月7日まで町野町でのんびりしていた。弟は毎年仕事があると言って盆も暮れも帰省していなかった。2012年の暮れは私の勘が働いたのか、なんとしても連れて帰ろうとお盆が過ぎたころからチクチクと今年は必ず連れて帰るぞと呪文を唱えるように繰り返していた。
◆その甲斐があって弟は30日から2日まで休みを取ることができた。10年ぶりの家族の団欒。みんな揃って大晦日と正月を過ごせた。両親は本当に嬉しそうにしていた。私は2013年、新年を迎えた日に「そうだ家族写真を撮ろう」と思った。何年ぶりの家族写真になるのだろうか。というか写真館で撮影したことがないのだから、みんなが1つのフレームに収まるのは初めてのことなのではないだろうかと気がつく。
◆2日に弟を金沢駅に送り私は町野町に戻り7日までのんびりと母と映画を見たり一緒にコーヒーを飲んだり話をしたりして過ごした。2013年1月15日、都内で早朝ロケ撮影だった私は14時過ぎに撮影が終わり、ふと正月ぶりに母へ電話でもしてみようかと思ったがまぁいいやと電話をたたんだ。自宅帰りにTSUTAYAに寄ってレバノンという作品をレンタルしてお惣菜を買って帰宅。シャワーも浴びてさてとビールでも飲みながらビデオでも観ながら夕飯でもとしたところで父からの電話が鳴った。
◆違和感しかない。父から電話があったことなんてこれまでになかったのだ。電話に出ると父の声は震えていた。「驚かんと聞かしやぁ、オカン死んでもたー」。?思考が追いつかない。つい先週まで2人で話しあい笑っていたではないか。死んだ? 最初で最後の家族写真になったってことか? とか色んなことが脳裏を巡った。心ここに在らずの状態で弟には俺から伝えとくから、そっちも気をつけて事を進めてくれと電話を切った。
◆交通事故で即死だったそうだ。深刻な面持ちの弟と合流。私の顔を見て、じわじわと目を赤くする弟。堪えているのだ。私が仕事終わりに電話していれば事故のタイミングはズレていたのにとか、なんだかわからないけども涙が止まらなかった。ドライバーは母のお父さん、助手席に母。私はじいちゃん子だった。2人は天坂をのぼって町野町へ戻る帰路で逝ってしまった。
◆2024年1月2日10時、陸の孤島化していた珠洲市宝立地区から最初に通じた道は母とじいちゃんの没地に繋がる天坂だった。1日に母の実家がお世話になっている佐野寺さんへ挨拶に行っていなければ私と弟は津波に流されていたと思う。こうした出来事の1つ1つがあって子供のころにしてもらったことがあって導かれているようで、生きなさいと言われているようで、私は生かされたのだと思った。[東雅彦]
追記:6月3日、浅い眠りの中、報告者のひとことを草案しているとギューンギューンギューンッとスマートフォンから警報が鳴り響いた。どうやらJアラートと揺れにトラウマがあるようだ。能登か!飛び起きた。老眼でよく画面が見えないけれども富山湾のようだ。父親の避難先の近くだ。この日は午後一番で中目黒に作品を設置する予定があった。設置が完了したところで父へ電話。「今朝、富山湾で強い揺れがあったそうなんだけど大丈夫か?」と聞くと父「わりと揺れたわ。でもこの地震、輪島で震度5強じゃなかったかあ」と情報が修正されたのか私に届いた緊急地震速報は富山湾と記されていた。だとしたらと故郷で在宅避難している親戚に電話。無事だった。よかった。畑物の出荷作業のパッキングをしている最中の地震だったそうだ。「怖かったわいやぁー、この間の地震よりも怖かったぁ」と話す。横揺れだと感じたそうだ。私の実家は半壊の証明書が出ている。親戚の恐怖を聞いて、1月2日の夕方になんとか辿り着き、一晩を過ごした日のことを思い出した。空から鉄球が地面に落下したようなドーン、ドーンと不気味な音が響きビリビリ、ギシギシと軋む家屋。あの日のダメージと度重なる余震で家屋のダメージは蓄積されているし、親戚の恐怖も不安も募る一方だろうと思う。私も実家で在宅避難をしなければいけないとなると正直ひるむ。6月3日、この地震で親戚の在所の被害は作業場の崩落。死傷者がなかったのは幸いだけれども堆積されていくダメージに恐怖の迷宮は深まって出口も光も見えてこない。そんな心境だ。
■能登の地で、先祖代々160年も続く家に生まれた東さん。語られた生い立ちの中で、強烈なエピソードが……。小学生のときに弱視と診断され、成長過程でいずれ失明となるだろうと医師に告げられ、そこでお母様が愛情を注ぎ込み、毎日欠かさずに作って与えてくれたのは『にんじんジュース』と、目に良いと言われている『プルーン』。そして、遠くの緑多い山々や、夜の星空を眺めることを続けた結果、劇的に視力が回復したということ……。それは、後に写真家を志すこととなった、東さんの写真家の命ともいえる大切な目を、まず子供時代に『お母様と能登の自然に、救われ、生かされた』という経験。
◆そして、能登震災当日の1月1日。毎年の元日の過ごし方の通例とは違った、『何となく取った行動ルート』によって命拾いしたということは、必然的偶然のような、代々のご先祖様が土地から放ったのかもしれない何かを、もしかすると、直感的に感じ取っていたのだろうか? また、車での移動が八方塞がりになった中、最初に繋がった道は、お母様が事故で亡くなられた場所へ向かう道だったということも、きっとお母様から導かれたのでは……と、思わざるをえない。
◆『導かれた道』『救われ、生かされた命』。そのことを心底感じ取った感覚から、何を見つめ、何を表現していくのか? それは写真家になった東さんが、能登のご先祖様、お母様、能登の土地から東さんに託された『使命』なのではないだろうか? 東さんの瞳のレンズは、何を写していくのか? 東さんのこれからの表現活動に期待して、注目していきたいと思いました。[中川原加寿恵 大西暢夫さん監督作品『水になった村』の舞台、岐阜県徳山村に伝わってきた盆踊りの継承に携わっています]
イラスト ねこ
■久しぶりの平日夜開催だったので、仕事を早く切り上げて参加しました。今回の報告者は能登出身の写真家、東雅彦さんです。能登で幼少期を過ごした東さんの生い立ちのストーリーから始まり、2000年代初頭の東京、オーストラリア、インド、能登……と東さんの美しい写真作品とともに彼の足跡を辿ることができた贅沢な報告会でした。
◆能登といえば、もう10年ほど前の大学生のころ、旅先で立ち寄ったことがあります。「蛸島キリコ」という祭りに地元民に混じって乱入したのですが、その熱気とエネルギーに圧倒された記憶があります。私が参加したとき、祭りの参加者みんなにエンドレスに缶ビールが提供されました(それも発泡酒ではなく、アサヒスーパードライ!)。実は、当時20歳だった私は、ビールの美味しさがまだわかりませんでした。ビールと同時にお酒が飲めない人用にファンタも配られていたのですが、祭りでアルコールが入らなければ興が乗らないと思い、ガンガン飲んで騒いだところ、その祭りが終わるころにはビールが大好きになっていました。今では私はお酒が大好きなのでもう遠い過去のように思えますが、思い出してみればあれが私とビールの最初の馴れ初めだったのです。
◆祭りではビールだけではなく、それぞれの民家で立派なご馳走が準備され、私もよそ者ながら御相伴にあずかりました。能登の人々は、県外に出ていても一年に一度の祭りのために必ず戻ってくるほど地元が大好きだということを宴会の席で何度も聞きました。ほんのわずかな接点ではありますが、そんな思い出のある能登が被災したということで、ここ十数年に日本各地で何度か起きた震災の中でも、特に感じ入るところがありました。
◆2023年から2024年にかけての年末年始は、私自身もバタバタでした。年明け締切の仕事が終わらず、年末ギリギリまで家で子どもの世話をしながら仕事をしていて、鏡餅も正月飾りも大晦日の夕方に焦って購入する始末でした。ようやく仕事にキリがついたところで年始を迎え、テレビを見ながら昼寝をしていたら大地震。しかも、大地震で番組もすべて地震速報に差し替えられて世間が騒然とした中で子どもが高熱を出し、元日から営業している小児科を急いで探して受診することになりました。年明けに保育が始まってママ友に話を聞くと、その家の1歳児も元日に熱性けいれんで救急車を呼んだとのこと。
◆能登に帰省して過ごしていた東さんも、年末はカメムシが大量発生したりタヌキが出没したり、といつもと違う様子だったと報告してくれています。地震直前に撮影した水平線の写真がモノクロームだったというのも、なんだか象徴的。「いつもと違う何か」というものを、感じ取っている人は少なくなかったのかもしれません。
◆5分遅れで報告会会場に到着しましたが、受付の方が「今日は赤ちゃんいないの? 残念〜(笑)」と言ってくださいました。報告会に息子を連れてきたのは、500回目の報告会が行われた11月が最初で、週末は何かと忙しくて以後一緒に来る機会を逃していました。あれから半年も経ち、1歳を少し過ぎたばかりでまだ歩けなかった息子も、今では達者に走るようになりました。子どもの成長は早いものです。また息子を連れて報告会に伺います。[貴家蓉子]
■震災後、3度目の能登半島をまわってきた。5月15日から5月16日までの2日間で能登国の式内社とその論社の47社をまわった。能登国は羽咋郡、能登郡、鳳至(ふげし)郡、珠洲郡の4郡からなっているが、郡ごとにまわった。羽咋郡の中心は羽咋、能登郡の中心は七尾、鳳至郡の中心は輪島、珠洲郡の中心は珠洲になる。
◆バイクはスズキのVストローム250。すでに地球8周分の24万キロ近くを走っている超タフな相棒。カソリの手足のようなものだ。午前2時に神奈川県伊勢原市の自宅を出発し、新東名→圏央道→中央道→長野道→上信越道と高速道路を走りつなぎ、9時には北陸道の金沢森本ICに到着。ここまで我が家から530キロ。金沢森本ICが今回の能登半島の出発点になる。
◆金沢森本ICから国道159号で能登半島に入っていく。まずは「羽咋郡編」。宝達志水町の手速ひめ神社が第1社目。霊山の宝達山(637m)の山麓にある。苔むした石段、うっそうとおい茂る森。地震の影響はほとんど受けていない。つづいて相見神社、志乎神社と宝達志水町の3社をめぐった。宝達志水町から羽咋市に入ると、羽咋神社、椎葉円ひめ神社(円井町)、大穴持像石神社、気多大社、椎葉円ひめ神社(柴垣町)の5社をめぐった。
◆気多大社は能登の一宮。大穴持像石神社は気多大社のすぐ近くにあるが、ここは民俗学者折口信夫ゆかりの神社。「知らなかったなあ……、気多大社は何度となく参拝しているのに」。志賀町では諸岡比古神社、神代(かくみ)神社、百沼比古神社、奈豆美ひめ神社の4社と奥山峠を越えた能登町の瀬戸比古神社をまわった。「羽咋郡編」では全部で13社をめぐったが、13社ともそれほど地震にはやられていない。
◆高浜(志賀町)の「はしみ荘」に泊り、翌日は「能登郡編」を開始。出発は5時。羽咋市大町の御門主比古神社を参拝したあと中能登町に入り、能登ひめ神社、くて比古神社、白比古神社、鳥屋比古神社、天日陰ひめ神社、伊須流岐(いするぎ)比古神社と6社をめぐる。それほど広くはない中能登町に6社もの式内社と論社があるのは驚きだ。中能登町の文化度、歴史度の高さを感じさせる。そのうち天日陰ひめ神社は能登の二宮、伊須流岐比古神社は霊山の石動山(564m)の山上にある。
◆中能登町から七尾市に入ると藤原比古神社、久志伊奈太伎ひめ神社(飯川町)、久志伊奈太伎ひめ神社(国分町)、能登生国王比古神社、御門主比古神社、阿良加志比古神社、宿那彦神像石神社、伊夜ひめ神社、荒石比古神社、白比古神社、菅忍ひめ神社、藤津比古神社12社をめぐった。さすが能登国の中心の七尾市だけあって数が多い。そのうちの伊夜ひめ神社は能登島にある。七尾市内の神社になると鳥居が倒壊していたり、ご神燈や狛犬が落下している神社が多くなる。
◆最後に志賀町北部の諸岡比古神社と瀬戸彦神社の2社をめぐったが、ともに大地震の影響をまともに受け、かなり激しくやられていた。それでも社殿は倒れずに残っていた。志賀町はこのことからもわかるように町の北部の富来を中心とする一帯と、町の南部の高浜を中心とする一帯では大地震の揺れの度合いが違っていることがよくわかる。
◆2日目は全部で21社をめぐり、「はしみ荘」に連泊。翌日は4時30分に出発し、能登半島横断の県道3号で田鶴浜(七尾市)へ。そこから国道249号を北上する。のと鉄道の能登中島駅で止まり、そして中島の町に入っていく。ここでは久麻加夫都阿良加志(くまかぶとあらかし)比古神社を探したが、なかなか見つけられない。
◆自転車に乗った女性に聞いてみると、中島町の宮前にあるという。なんともラッキーなことに「私はこれから宮前まで行くのですよ。よかったらついてきてください」といわれた。中島の町から約2キロ、自転車の後ろについて走り、久麻加夫都阿良加志比古神社を参拝した。
◆中島から国道249号をさらに北上し、穴水町に入ると、「鳳至・珠洲郡編」を開始。穴水の中心街にある穴水大宮(辺津ひめ神社)へ。鳥居や玉垣は崩れ落ちているが、拝殿はしっかりと残っている。
◆穴水町ではつづいて川島の美麻奈比古神社、中居の神杉伊豆ひめ神社、甲の加夫刀比古神社とまわったが、どこも激しくやられていたが、それでも社殿は残った。穴水町から能登町に入ると、藤波の神目(かんのめ)神社はみつけられたが、布浦の加志波良比古神社が見つけられない。赤崎海岸の灯台まで行ったところで断念し、珠洲市に入った。
◆珠洲市の2社、古麻志比古神社と珠洲の地名の由来にもなっている須須(すず)神社を参拝すると、県道6号で輪島市の町野町へ。ここは先月の報告者で地平線通信に「能登半島地震」を連載されている東雅彦さんの故郷。町は壊滅し、大地震から138日たっているが、ほとんど手つかずの状態。そんな町野をグルグルまわったが、石瀬比古神社を見つけられない。
◆壊滅状態の町中にあるGSは営業していたので、そこで給油し、石瀬比古神社を聞いた。すると、ちょうど給油中だったゴミ収集車のお二人が「それならサンサにあるよ」と教えてくれた。町野から3キロほどだという。「ちょうど収集が終わったので神社まで案内しよう」と言ってくれた。助かった。心やさしき能登人よ。「サンサ」は難解地名で「真久」と書く。真久の家並みの途切れるあたりに石瀬比古神社はあった。
◆鳥居は倒れ、荒れ放題の状態。それでも神社前の水田では田植えが終わっていた。町野町にはもう1社、式内社がある。西時国の石倉比古神社だ。霊山の石倉山(357m)の山上にある。舗装林道を登っていったが、大地震による落石、山崩れの連続で、身の危険を感じてそれ以上登るのは断念した。
◆町野町を後にすると輪島へ。中心街の鳳至町にある住吉神社を参拝。鳥居は崩れ落ち、常夜灯も崩れ落ちている。青銅製の狛犬は残った。拝殿は身ぐるみを剥がれたような悲惨な姿になり、本殿は倒壊している。あまりにも痛ましい。それはまさに能登半島地震で壊滅状態になった輪島の町を象徴するかのようだ。
◆「鳳至・珠洲郡編」の最後は門前町(輪島市)の道下(とうげ)にある諸岡比古神社。ここも鳥居は倒れていたが、拝殿は残った。「鳳至・珠洲郡編」では全部で13社をまわったが、そのうちの布浦(能登町)の加志波良比古神社と西時国(輪島市)の石倉比古神社には行けなかった。加志波良比古神社は事前の調査ミスで、能登町の布浦ではなく、宝立町の柏原(珠洲市)にあることがわかった。残りの2社には必ず行こう。「また、次だな!」。帰宅早々、震災以降、4度目の能登半島を計画するカソリだった。[賀曽利隆]
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