2023年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信535より
地平線報告会500回記念集会

『つなぐ 地平線500!』全記録

2023年11月23日 新宿歴史博物館講堂

『五百螺函』表紙

■会場で配布された資料の表紙には、長野亮之介さんによって、大きな渦巻きが描かれている。その渦は家や車、ピッケルや長靴を巻き上げている。渦の始まりは猫が吹く法螺貝。猫の後ろには、象、ライオン、白熊、と様々な動物がいる。動物たちと相対するように、どこかで見たような顔の坊主頭がゾロゾロと行列を作っている。資料のタイトルは「地平線・五百螺函」。これまでの報告会、500回分の全記録が並んでいる。この資料を眺めながら、自分が初参加したとき、印象的だったこと、出会った人々など、自分と地平線のつながりを思い出していた。

オープニング

◆12時半、長野亮之介さんと大西夏奈子さんの司会進行でいよいよ開幕。品行方正楽団の演奏で喜多郎の「シルクロード」が会場に響く。雄大なシンセサイザーの電子音が懐かしい。つづいて、三味線の音から始まる「安里屋ユンタ」の演奏。スクリーンに歌詞が映し出されると、会場全体にみんなの歌声が響いた。

地平線報告会の歩み

◆最初のパートでは丸山純さんが地平線会議の歩みを振り返った。1979年9月の第1回から2023年11月の500回記念集会まで、44年3か月間。会場のスクリーンには、これまでの報告会予告の全てが一覧できるように投影された。びっちり並んだ予告の図には、その一つひとつに旅のストーリーがある。報告者がいて、絵や文章を制作した人がいる。長い年月で、天に旅立った人もいる。地平線会議44年3か月の歩みには、さまざまな形で関わってきた人々の重みがあった。

78年12月の学生探検会議

◆次のパートでは1978年12月に開催された学生探検会議について、日大出身の渡邊久樹さん、獨協大出身の河村安彦さん、東京農大出身の山田高司さん、3人の探検部OBによるトークが始まった。渡邊さんは日大探検部創設10年のタイミングで入部した。強い志があったわけではなく、探検の楽しそうな雰囲気に惹かれたそうだ。河村さんは獨協大に入学した当時探検部はなく、アドべンチャークラブを立ち上げた。釣り好きだったこともあり、日本中の川を下り、世界に目を向けてマッケンジー川を下った。山田さんは当時20歳の1年生で、1978年の冬頃には探検で生きていきたいという気持ちだった。3人が探検部に入った経緯と、学生探検会議に参加した当時の気持ちに触れた。その後の大学探検部と地平線会議発足のつながりについて、各人が感じていたことが語られた。地平線会議は探検部出身のレジェンドが大勢いるイメージだったそうだ。

原点を語る

◆つづいて、「原点を語る」というテーマで、関野吉晴さんと岡村隆さんの対談が始まった。2人は1978年12月の学生探検会議に探検OBとして参加。そのとき、関野さん29才、岡村さん30才。関野さんはOBとして「アマゾン川源流最近の行動報告・インディオと遺跡群」という報告をした。学生探検会議は探検部の学生たちが江本嘉伸さんに相談をして、読売新聞の社屋に岡村さんや関野さんが呼び出され、学生と大人たちを結びつけて、実施につながったそうだ。3日間の会議の最後、宮本千晴さんが学生に向けて、「みなさんはこれから卒業して、この体験をどう次に繋げていくつもりですか?」と問いかけた。30才になっていた岡村さん自身、どう生きていくのか問われた気がした。

◆岡村さんには探検家として生きていきたい、という思いがあった。しかし生活とのバランスの中で探検から離れる時期もあった。そのとき、探検への思いのよりどころは地平線会議という場だった。関野さんは地平線会議に特殊な雰囲気を感じていた。お金をもらって受ける原稿依頼を断ることはあっても、地平線通信の原稿はお金をくれないのに一生懸命書いてしまう。関野さんにとって地平線会議は「認めてもらえると嬉しい人たち」がたくさんいる場所だった。

◆対談は二人の近況と今後やりたいことへと進んでいった。関野さんが行動をする時は、いつも自分の中から湧いてくる何かがあり、体が動いてしまうそうだ。アマゾンの人たちはナイフ1本あれば森の中から材料を調達して、生活に必要な衣食住を得ることができる。関野さん自身もアマゾンであればナイフ1本でどうにかできると思っているそうだ。しかし、いま関野さんが考えていることは、日本でナイフを持たずに徒手空拳で衣食住を得るということ。石器だけで、家を作り、罠を作り、釣り針を作る。グレートジャーニーでできなかった旧石器時代の暮らしを体験してみたいという。一方、岡村さんはスリランカの遺跡探検を始めて50年の節目だった。今年スリランカに行く予定だったが、結局体調が優れず行けなかった。自分は現地に行けなかったが、後輩が行ってかなりの成果があったので、それを報告書にまとめる予定だそうだ。

◆他の場所では語らないことを、地平線報告会では語ってくれる人がいる。そして、地平線には突出した人だけでなく、様々な人がいるので、若い人は自分の感性に合った人を見付けて追ったらいいと伝えた。最後に岡村さんは、関野吉晴になるということは難しいが、私のような探検人生であれば真似することはできると言った。大学探検部時代に知り合い、50年以上の時を仲間として過ごしてきた。この対談では、お互いの行動に対する理解や、志や理想への共感が、ふたりの言葉に滲み出ていたように思う。仲間と価値観を共有しながら、一緒に年を重ねていく、そのことの豊かさを感じる対談だった。

リレートーク 500人の報告者たち

◆リレートークのセッションでは、江本さんが来場者の中から即興で指名。1人3分で自由に話してもらい、合計18名が発表した。短い時間の中で、次々と話し手が変わり、アドリブで進行するので、会場はゆるやかな緊張感と展開の面白さに包まれていた。ジャズセッションのような会場の雰囲気を、発表者の順に伝えたい。

◆1人目は「500回おめでとう」と花束を持って現れた河田真智子さん。これまで50年に渡って島を旅してきた。障がいを持って生まれた夏帆さんを育てながら、島旅を続けてきたこと。娘と島が支えだった。コロナ禍で外出できなかった時期、これまでの写真をまとめ、医療と旅の本を出したそうだ。

◆2人目は賀曽利隆さん。地平線発起人6人のうちの1人と紹介されて、「これが僕の正装です」と、ジーンズにウインドブレーカー姿でステージに上がった。賀曽利さんは生涯旅人としてバイク旅を続けてきた。行動の原点は地平線で、これまでバイクで走った距離を合計すると、182万キロに到達したそうだ。

◆3人目は三輪主彦さん、夫婦で「ROUTE80」のTシャツを着て登場。実は傘寿を迎えて、80歳を記念したTシャツだった。三輪さんは1979年9月に開催された地平線報告会第1回目の報告者。当時、勤務先だった学校で、謄写版を使い600枚のハガキを印刷したそうで、報告会には99人が集まったという。

◆4人目は第59回報告者の三輪倫子さん。台湾子連れ旅で子どもたちを海で遊ばせたことについて振り返った。倫子さんは「主彦ばかり苦労してきたように思われていますが、実は私が年報の発送やクレーム対応、事務仕事をしていたんです」と。家庭内で地平線会議を支えていたというエピソードの紹介だった。

◆5人目は佐藤安紀子さん。翌日に今年8回目のアフリカ行きを控えているというタイミングでステージに上がった。そんな状況も地平線らしい。佐藤さんは魚のすり身をコートジボワールで普及させる活動をしており、すり身の加工食品を作って、売って、生活するところまでを含めて、研修を実施しているそうだ。

◆6人目は田中幹也さん。幹也さんは地平線通信で『充足感と挫折感と』のタイトルで連載している。ステージに出るとステージから会場の様子を撮影して、「時間稼ぎをしているんです」と。最近聞かれてうざったかった質問について触れ、「ここ20年は活動らしい活動はしていない。だからといって自殺する勇気もない。ただ生きているだけです」と述べた。

◆7人目は白根全さん。79年から83年はほとんど日本にいなかったが、南米で山田高司さんや金井重さんに出会った。帰国してから地平線報告会に顔を出すようになったそうだ。その後、年報の編集長を任されて86年から90年にかけて『地平線からvol.6、7、8』の3巻を制作した。

◆8人目はサバイバル登山家として有名な服部文祥さん。探検や登山はサスティナブルじゃない活動の最先端という認識があった。これからは地球を守る活動につなげていかないといけない、と話した。

◆9人目の服部小雪さんは第483回の報告者。地平線会議が服部文祥の妻としてではなく、個の存在として見てくれたことに感謝しているそうだ。

◆10人目は今年の大晦日で野糞歴50年の伊沢正名さん。野糞を通じて、自然と人間の共生や命が循環する糞土思想を実践してきた。この4日間で歯が2本抜けるなど身体の衰えも感じているといい、いかに幸せに死ぬかを考えているそうだ。

◆11人目は今井友樹さん。今週ツチノコをテーマにしたドキュメンタリー映画が完成したそうで、地平線は共感してもらえる場所であり、激励してもらえる場所。わかってもらえる場所だと感じている。

◆12人目は小松由佳さん。この日も2人の息子と一緒に来ており、会場に来るまでに自分のエネルギーの70%を使った気分だと話した。近年は子連れでトルコ南部のシリア難民コミュニティを取材してきた。自分の生き方を貫くことの美しさを地平線会議の人々から見せていただいている、と語った。

◆13人目は中島ねこさん。屋久島に通っていた時期に写真と短い文章を創作していた。最近は地平線通信にもイラストを投稿している。恥ずかしがり屋で早めにステージを降りた。

◆14人目は極地冒険家の荻田泰永さん。最近は冒険研究所書店を経営している。荻田さんは2001年頃に初めて地平線に来て、2010年に初報告して、その後5回報告をしてきた。若いころ、地平線会議は刺激を受ける良い場だった。最近若い人が少ないように感じるので、もっと若い人に来てほしい。

◆15人目は高沢伸吾さん。アラスカのポイントホープで鯨取りをして30年。1年のうち3か月を現地で鯨漁、カリブー猟、崖の下の卵取りをやって過ごし、今は動物の解体を教えたりもしているそうだ。高沢さんは実は会社員だが、毎年3か月間の休暇をとって、ポイントホープに滞在している。

◆16人目は樫田秀樹さん。最近はリニア新幹線の問題に取り組み注目されている。マレーシアのボルネオ島の熱帯雨林がライフワークで、通い始めて34年以上になるそうだ。熱帯雨林の伐採が深刻で奥地まで村が壊されている。しかしブルネイには森が残っていて、移動狩猟民のプナン人と行動を共にしたいと考えている。

◆17人目は新垣亜美さん。彼女は東日本大震災3.11のあと、4月に現地の様子を伝えた。東北RQが常駐スタッフを募集したとき、「このひとが行けます」と江本さんが推薦。被災地に長期滞在しながら復興支援を行った。地平線には10代のころに初めて参加、今は森井祐介さんの後を引き継いで通信のレイアウトを担当している。

◆18人目は高世仁さん。数年前に経営していたTVドキュメンタリーの映像制作会社が倒産、70歳の今は好きなことを自由に仕事に打ち込んでいるそうだ。今のTV報道について、「日本のTVや新聞は危険な現場から真っ先に逃げる」「大事な時に現場に入っていない」と指摘。日本人の報道が現場に行くことの重要性を訴えた。実は12月の報告会の報告者でもあることが江本さんの口から伝えられた。

◆18人が3分づつ話したリレートーク。一人ひとりの個性や活動の独自性が際立っていた。そして、一人ひとりの地平線への思いが、発表者の言葉の端々に表れていて、500回分の時と人と思いが凝縮された場だった。江本さんも「500回やってきて意味があったと思う。いつまでも自分がやっていていいもんじゃないだろうと考えることももちろんあるが、もう少し続けていこうと思う。今日はいろんな人が出てくれて嬉しかったです」とリレートークのパートを終えた。

支え続ける人たち

◆次のパートでは落合大祐さんに司会進行をバトンタッチ、地平線を支えつづける人たちにフォーカスして紹介していった。地平線通信の編集チーム、レイアウト、毎月の印刷と発送、報告会場での役割、デジタルネットワーク構築や電子機器の準備など、仲間の得意分野を生かしていろいろな仕事を担当している。そういう人たちに支えられた地平線であることを実感するパートだった。

明日に向けて

◆「明日に向けて」のパートでは、引き続き落合さんが地平線に顔を出している若者たちを紹介した。長岡祥太郎くんのビデオレターからスタート。神津島での高校生活を美しい映像と心のこもったナレーションで届けてくれた。祥太郎くんは離島留学をスタートしてから、2年8か月に渡って地平線通信に「島ヘイセン」を書いているが、10メートルの崖から見事海に飛び降りる場面などその言葉が映像となって鮮やかに映し出された。

◆次にステージに上がったのは小口寿子さん。彼女は法政大学のワンダーフォーゲル部出身で、学生時代から山で働きたいという思いがあり、今年の3月から長野県で林業に携わっている。山の中にいると幸せだと思える瞬間がある、という言葉が印象的だった。

◆つづいて、下川知恵さん。彼女は早稲田大探検部時代にインドネシアに通い、第468回の報告者でもある。最後に現地に行ったのは1年前。そのとき、いいカメラを持って行ったが、人に対してカメラを構えるのが苦手で、結局はスマホで大切な仲間たちを撮った。そのときの写真と現地のエピソードを紹介しつつ、今後もっと現地に近づいていきたいと言った。

◆つぎに声がかかった木田沙都紀さんは武蔵野美大で関野さんのもとで学び、カヌー作りにも関わってきた。現在は中学校で美術教員をしているそうだ。

◆つづいて、竹内祥太さん。北海道大学の山岳部出身で取り組んできた山の写真を紹介してくれた。雪山でスキーを履いて長距離を歩く、北大山岳部のスタイルが印象的だった。今年から東京で働き始め、現在は国土地理院で働いている。仕事と山を両立することのジレンマ、長期山行への未練を埋める形で地平線に来ている。地平線は資料や情報を得るだけの場所ではなく、生の声が聞ける場所。行動者の生き様に触れられる場所、と語った。

◆このパートの最後は安平ゆうさん。彼女は九州大学の山岳部に所属し、大学を休学してヒマラヤのアイランドピークに遠征している。日本から落合さんがビデオインタビューを実施、下山してカトマンズのホテルに滞在中だった。安平さんは山岳遠征で喉を喉を痛めたそうで、声音が聞き取りにくかったので、改めて通信に活動レポートを書いてもらう予定だ。

エンディング

◆記念集会の最後は「地平線会議」の名付け親でもある宮本千晴さん。締めの言葉として、3つの切り口で地平線について語った。一つは長く続けてきたことへの驚嘆。江本さんや支え続けてきてくれた人への敬意。二つ目は、話してくれた人、書いてくれた人に共通する使命感への信頼。使命感とは仲間たちにとって大事なものを、自分自身が切り拓くという密かな気持ち。使命感を持つ者たちの連帯感が、報告会に参加してくれた人の共感を呼ぶのだ。

◆最後に、地平線会議は一つのアンテナの機能を果たしているということ。地平線の行動者たちは「世の中はこれでいいのか? 人間はこれでいいのか?」という、本質的な問いに対して、手探りで進んできた。このアンテナの強みは、動物的な衝動と直感に基づいた身体性を伴う行動ということだ。自分の信念に基づいて行動する人たちが孤独に陥ることなく、地平線には「わかってくれる奴らがいる」という気持ちで繋がれたら、ありがたい、と締めくくった。

報告会に参加して

◆地平線会議に集まってくる人の価値観は多種多様。なのに、何か共通する気配がある。みんな大切な何かを持っていて、お互いに尊重し合う空気感、自分もここにいていいんだと思える安心感がある。500回記念集会で地平線会議の長い歩みや人々の思いに触れて、自分自身も内面から湧き上がってくる何かを大切にして生きていきたいな、と思った。[山本豊人 1978年12月、学生探検会議の月に生まれた]


この機会にひとこと

新「3バカ・タカシ」

■木漏れ日さす比叡山の参道に、赤や黄の楓の葉が舞い降りる中、スマホの呼び出し音。11月26日お昼前、江本さんから「やあ、23日はお疲れさん。『3バカ・タカシ』に新任されたと聞いた。地平線通信の原稿100字の予定を山田は500〜1000字にする。月末までによろしく」「はい、いま京都にて土佐清水市の小中学校の同窓会で紅葉見物中です。卒業50周年、地平線は報告会500回。5つながりですね。ちなみに昨日は琵琶湖の探検部同期の竹村有機農園40周年収穫祭で50人強の新旧会員さんが来てくれてました。何事も長く続けると、滋味が出ていい風景になりますね」。

◆500回報告会場にて、三輪さんに言われた。「森本孝が亡くなったので、『3バカ・タカシ』に欠員が出ていたが、今日をもって山田高司を新『3バカ・タカシ』に任命する。賀曽利隆と岡村隆には了解とった」。

◆報告会の後は、3人での記念撮影が長く続いた。バカと言われることになんの異存もない。1985年、青い地球一周の河川行の第一弾、パンアフリカ河川行に旅立つ小生を探検部の先輩は「バカとは思っていたがそれ程とはなあ」と嘆いた。砂漠化と飢饉を目の当たりにして、1991年からチャドで植林支援、さらに1997年から四万十ベースにナイル源流の植林支援を始めたら同じ先輩に「バカもそこまでやると絵になってきたな」と褒められた。

◆2007年ごろ、四万十の山にて「おい、こいつは大したもんぞ。ワシら金のために山仕事しよるけんど、山田は日本の山をようにしようと仕事しよるぞ」「金にもならんに、ただのバカよ」「バカはバカでも大バカぞ。日本どころか地球の森をようしようと考えちょる。外国からも客がしょっちゅう来よるぞ」「そうか、そりゃワシも弟子にしてくれや」「いかん、おんちゃんはワシの師匠やけん、弟子にはできん」「バカに付ける薬はないとは、よう言うたもんよ。まあ家族はたまったもんやないろねや」。沈黙。賀曽利さんも岡村さんも、さぞや家族に……。

◆八女市の小生の接木の師匠は言った。「どんなに使っても、死ぬまでは持つから、命は惜しんじゃいかん」。どうやら、バカは続くよどこまでも。大谷選手より20年以上前から川と森の二刀流でやってきた。違うのは収入が、ゼロ4桁ほど違うこと。ただし小生は本当は地水火風空の五刀流。サッカー日本代表の元キャプテン長谷部誠選手は言った。プロは「我慢や努力を秘密にすべきだ」。小生も思う。「プロの行動者を目指すなら、善行や精神に関することは見せたり話すものではない」。そんなことは当たり前。だから僕は、地水火風空の善行や精神に関することはできるだけ言わない。5つながりの「野生の五輪書」詳細についてはまた次回。ぼちぼち1000字にてこれで終わり。[山田高司

イラスト-1

 イラスト ねこ

数少ない若者

■地平線は年寄りばかりだ。若者が少ない。そんな意見に、まわりを見回し、うなずきつつ、自分だけは年寄りのうちに数えていない。あるいは、数少ない若者のひとりであると考えている。そんな人々ばかりだなあ。[渡邊久樹

川に生きる人生

■随分と長いこと川に携わっている。流れる先を知りたいと上流から下流までの過程を水面から眺め続けている。なぜ継続しているのだろうかと自問してきたが、その答えは地平線会議とそれに携わる人だったと気が付いた。[河村安彦

明日に向けて期待する

■地平線報告会500回記念、高齢化が進む。宮本千晴、江本嘉伸、向後元彦さんはご意見番として健在だが、70、60代は賀曽利隆、新谷暁生が気を吐いているが下り坂。それに続く、50、60代は山野井泰史、服部文祥、角幡唯介、荻田泰永、平出和也、大西良治、田中彰、吉田勝次、八幡暁と国際級のスターが揃っている。それに続く若手がいないと思っていたが、「明日に向けて」で、まだ小粒だが、有望な若者が続いていることがわかって期待が持てた。[関野吉晴

イラスト-2

「地平線500!」が繋いでくれた探検人生

■11月23日は5月の発病以来、初めて地平線の仲間と会い、人前で話をする機会となった。前々日まで通院治療期間で、おまけに帯状疱疹も発症、激痛期は過ぎていたが、正直、出ていくのはしんどかった。それでも仲間の皆さんの顔を見ると、以前と変わらぬ感覚が戻り、元気も出てきたのが不思議だった。

◆関野吉晴との壇上の対談では、与えられた50分の間に話をまとめる「進行」にばかり気が行って、まともな「対話」になったのかどうかさえ自信がない。地平線会議発足当時に関野が何をして何を考えていたか、その一端が掘り起こせたのなら良かったとは思うが……。

◆多くの人の3分間スピーチの中身の濃さ。とりわけ最後の宮本千晴さんの言葉の重さ。それらを感慨深く聞きながら、500回を数えた地平線報告会の、皆さんにとっての意義と、私自身にとっての「意味」を考えた。500回のうちには欠席した回も多いのだが、私にとっては、報告会を通じて「地平線会議がいつも、すぐそばに存在している」という感覚が、支えてくれていたものは計り知れず大きい。探検の現場から長く離れている期間でも、途切れず催される報告会とその熱気が、私の「現場感覚」を想起させ、自身を「現役」でいさせてくれたからだ。

◆集う人々を、そして歴史を繋いだ500回の報告会は、私の危うい探検人生をその世界に繋ぎとめてくれるフィックス・ザイルでもあった。そのルート工作をしてくれた、今もしてくれている江本さんら先輩方や仲間たちに感謝しなければならない。今回の記念集会を企画運営してくださった皆さんへの感謝とともに、そのことを忘れることはないだろう。皆さん、ありがとうございました。[岡村隆

羨望のフィックス・ザイル
  ――関野吉晴 vs 岡村隆・対論を聴いて考える

■地平線会議の誕生以前から探検活動を続け、いまなお現役として活動している偉大な両名の対談。タイトルは「原点を語る」。学生探検会議を主催した学生たちは会場で宮本千晴氏からこう問いかけられた。「卒業して、どうするんですか」と。どう探検とかかわって、どう生きていくのか、どう繋げていくのか。まさに大学生活を終え、登山から離れつつある自分に対しても問いかけられた気がした。彼らは当時何を考え、どう行動してきたのだろう。悶々とした自分の状況をあてはめながら両者の話を聴いていた。

◆関野吉晴さんは当時大学3年生。一橋大で8年、横浜市立大で6年の計14年の大学生活から現在に至るまでアマゾン川やアフリカなどの第一線に身を投じてきた。医者を志したのも現地人とより近い距離でいるためだった。年2回、2か月の長期休暇はもちろんアマゾン、医師国家試験の結果を知るのも帰国後だったという(笑)。結局在学期間の1/3、二年間をアマゾンに費やした。テントの中、ヘッドライトの灯を頼りに医学の勉強を重ねながら。さて、卒業後どうしようと考えていたのか?

◆「明確にはない、もともと南米は10〜20年やろうと思っていた」。すさまじい活力だ、と思う。「やってるときは考える暇もない、計画もないからこそアイデアが沸いてきたらまたやってしまう」。そして気づいたら年を取っていたとのこと。これほどの活力と情熱を持った人こそが、さあここで一区切りということもなく、第一線に身を投じ続けてきたに違いない。あくまで自分の本心に従っているだけなのかも。好きなことをやりたい!

◆岡村隆さんは地平線会議発起人の一人でもありスリランカの遺跡調査に携わっているが、当時は調査から少し距離を置いていた時期だった。「探検で飯は食えない」と悟ったという。こうして出版社に就職しいわばカタギの世界に戻った格好。それでも江本さんたちと学生探検会議に参加、熱意を持った学生を支えるため、地平線会議の立ち上げに向かっていく。おふたりとも年報や報告会など初期から地平線会議を支えてきた。さて、500回を迎えた今、両者にとって地平線会議とは? そして現在のことを語っていただいた。

◆「特殊な雰囲気」と語る関野さん。プロの集まりではないが物知りがたくさんいる。探検部には先輩がいなかったこともあり、関野さんにとって心強い存在であったようだ。「茶の間で不特定多数に評価されるより特定多数に叱咤されたい」

◆現在やりたいことはタイムトラベルだ。「自分で作ったものを持っている人はいますか」会場で問われてはっとした。買ったものばかりだ。これって生きてるっていえるのか? 自分で作ったもので生活し、自然の循環の輪に身を投じる。闇夜の中何を思うのか知ってみたい。それこそがやりたいことだ、と語る。旧石器時代までさかのぼりたいそうだ。なんと当時の土器が見つかったのでお茶も飲めるだろうとのこと(笑)。最後にメッセージ。「若い人にどんどん報告会にでてほしいし、地平線でしか話さないこともあるので聴きにきてほしい。この人みたいになりたい、という人を追っていけばよい」

◆探検の世界から離れることもあった岡村さんにとっては、すぐそばに地平線会議があったことで探検の世界とつながっていられたし、視野も情報も増えたと語る。現在もスリランカ調査は続けており、直近の調査ではご自身のスリランカ行きこそ流れたものの後輩たちのおかげでかなりの成果をあげることができた。

◆最後にメッセージもいただいた。曰く、山や探検を続けていくのも難しいし、関野さんのように第一線に立ち続けるのは大変に難しいが自分は地平線会議というフィックス・ザイルをたどってきた。その結果今の人生がある。細い人生でもよい。地平線は太いザイルだ。分岐点に立つ自分には響く言葉だった。たしかに今を生きる二人の貴重な対談だった。自分のために用意された企画のように感じるほど一つひとつの言葉に考えさせられた。さて、自分にとって地平線会議とは何か。

◆今年、北海道を離れそれなりに力を入れたつもりの山からも離れた。といっても報告会でしゃべれるような遠征やビッグウォールとも無縁だった。今あるのは恐れていた一社会人生活。このまま終わりたくない、せめてこの世界で今を生きる人たちと関わっていたい、というのが地平線会議に抱いていた希望だったのかもしれない。

◆さて、通い続けて当然うらやましくなる。報告者は歴戦のジャーナリスト、研究者、探検家たちなのだから当然だ。でもそれ以外に得るものも大きかった。生の声を聴くことで知るその人の考え方や生き様、自分でいいのかと後ろめたげに引き受けたレポートの作成も、アウトプットを通じて自分の考え方が明瞭になり、世界が広がっていく。

◆今、伝える方にも興味がでてきた。僕の周りだけかもしれないが、シャイな人が多いし、自分から何かを発信するのが苦手な気がする。初登とか一種の名誉欲求はあっても発信していく気はあまりないのかもしれない。それでも自分にとってそういう人たちの言葉から得るものは大きいのだ。特定多数でいい。なにも具体的なアイデアはないがもう少し、情報共有の手助けになれるようなことができないものか。もう少し、地平線会議というフィックス・ザイルをたどっていたい。[竹内祥太 25歳 国土地理院]


つなぐ地平線の人々
『つなぐ 地平線500!』

いちばんの目的は「年報」を出すことだった

■地平線会議報告会の500回記念集会は大盛況。ほんとうによかったですね。第1回目は1979年9月28日のことで、報告者は三輪主彦さんでした。報告会の担当は賀曽利隆。参加者は99人で参加費は500円。会場は青山のアジア会館でした。この第1回目の報告会は地平線会議の発足式も兼ねたのです。

◆参加者の内訳を見ると、観文研(日本観光文化研究所)が15名、三輪グループの沙原の会が10名、芝浦工業大学探検部が8名、法政大学探検部が4名、その他が62名で、その他の多くは観文研の「あむかす集会」の参加者でした。このことからもわかるように、地平線会議の報告会は「あむかす集会」の延長線上にありました。案内のハガキ通信は500枚ほど出しましたが、その名簿は「あむかす集会」のもの。賀曽利は月1回の「あむかす集会」も担当していたのです。

◆地平線会議のいちばんの目的は日本探検冒険年報のような「年報」を出すことにありました。伊藤幸司さんが担当した「地平線放送」も、賀曽利隆が担当した「地平線報告会」も、ともに年報を出しやすくするための環境作りだったのです。

◆観文研の所長は民俗学者の宮本常一先生でした。宮本先生は若き探検家や冒険家が大好きでした。真っ先に地平線会議への「1万円カンパ」をしてくださいました。宮本先生は1981年に亡くなられましたが、今回の500回記念をさぞかし喜ばれていると思います。今回の大盛況の500回記念の最後を締め、格調高く話してくれたのは宮本先生のご子息の宮本千晴さんです。ぼくはまさにそこに、『つなぐ 地平線500!』を強く感じるのでした。

◆ここからは私事です。当日の会場ではうれしいことがありました。森本孝さん亡き後、「3バカ・タカシ」は賀曽利隆と岡村隆さんの「2バカ・タカシ」になってしまいました。それが500回記念集会のおかげで、山田高司さんが加わることになり、新「3バカ・タカシ」が誕生したのです。一番若い山田さんが我らの顔になります。「3バカ・タカシ」はパワー全開で暴れまくりますよ。

◆500回記念の大集会のあとは、チベット料理店での2次会。ここも大盛況で何人ものみなさんが店の外のテーブルに座るような状態でした。宴もたけなわのころ、ぼくはそっと抜け出し、東京港の竹芝桟橋へ。東海汽船の「さるびあ丸」に乗船したのです。22時の出港5分前には「ジャーン、ジャーン、ジャジャジャーン」と銅鑼が鳴りました。それは報告者のリレートークで大西夏奈子さんが遠慮がちに鳴らした銅鑼よりもはるかにド迫力、腹の底に響きました。高波と大風に泣かされた伊豆七島の旅でしたが、新島、式根島、神津島の3島の式内社めぐりを終えることができました。[賀曽利隆

44年前、一番最初の報告会

■1979年8月に地平線会議が発足し9月から毎月報告会を始めることになった。1か月の間に報告者、会場を決め案内文を郵送するという綱渡りができたのは賀曽利隆という有能で能天気な担当者がいたからだ。8月末に「三輪さん9月24日誕生日でしょ! トルコの報告してね!」「案内はこの人達に発送して」と怪しげな600人の名簿を渡してくれた。

◆江本さんの新聞記事の後押しもあって9月の第1回報告会はなんと99人もの人が集まった。海外に関心が集まるようになった時代とはいえわずかの期間にこれだけ人が集まったということは地平線会議の秘めたる力であった。しかし初回の会場の反応は「いくらかかりましたか?」「なにが美味しかったか?」など月並みなものであった。

◆惠谷治は「それは地平線の方向性とは違う」と第2回に熱烈報告会を行い本来目指す方向に修正を行った。その後の報告会は論議がエキサイトすることもあり、熱い時代が続いた。しかし近年会場は“大人”が多く論争がまったくないことが気になっている。服部文祥や田中幹也、関野吉晴が行動で様々な可能性を試している。でもWBCで大谷選手が「憧れるのをやめましょう」と言ったように、彼らに憧れていたのではいつまで経っても越えることはできない!のだ。

◆若者だけではない、年寄りでも構わない。彼らをうち負かす人は出てこないだろうか。いつまでも江本、関野、賀曽利の時代ではなかろうに、と言われながらもまだ超人的な活動を続けているのは驚きだ。打ち破る壁は高い。[三輪主彦 第1回報告者]

62回から描き出した通信イラスト

■探検部でも山岳部でもなく、人類学も民俗学も知らないのに、細い人脈から偶然地平線会議に辿り着いた。どうやって食ってるのか不明だが博識で元気な先輩たちの姿に「好きなことをやっていればなんとかなる」と勇気づけられて今に至る。通信イラストは62回から描き始めたが、まさか500回まで続くとは。今回のイベントが成立したのも地平線会議のスンバラ式人脈のおかげ。このつながりは人生の宝だと思っています。おめでとうございました。[長野亮之介

『世界探検全集』復刊に考える

■自分なりのオリジナリティ溢れる登山を実践している若者に山で会うことが少なくなった。山は自己表現の場ではなく、レクリエーションのフィールドになったのだと思う。私は山で自己表現することに喜びを見いだしてきたので、野望系の登山者が減ったのはさみしいが、登山が時代に合わせて変わっていくのは、私の評価とは関係がない。地平線会議もオッサンたちが面白いと感じることを発表する場ではなく、時代に合った活動の報告になるように時代に合わせて変わっていくべきなのだろうか。いったいどう変わっていけばいいのか、それは地平線会議なのか、私にはなんともいえない。

◆角幡唯介、荻田泰永が力を貸して復刊中の『世界探検全集』(河出書房新社)に私も加えてもらって、角幡君と対談した。その中で「われわれ登山者や探検者には、地球を科学文明的に消費するための急先鋒として世界の秘密を暴いていったという側面がある」と意見が一致。その対談は探検全集をすべて買うともらえる付録(17巻)に収録されている。

◆かつて世界を消費する急先鋒だった登山者や探検者は、いま、人力にこだわることで世界をどうしたら健全に保てるかを間接的に模索している(われわれは逃げ切り世代と若者に批判されているが、少なくとも私は逃げるつもりはない。戦う)ということまで、言及できなかったことを対談後に悔やんでいたら、同じ17巻の中で山田高司大先輩がそうした活動を報告していると担当編集者が教えてくれた。荻田君の極地探検概説も掲載されているので、是非手に取ってみてください。全部買うのは現実的ではないので、図書館で17巻だけチェックするのが現実的だ。なお、世界探検全集はそこそこ売れているということです。オリジナルな登山をする若者は減ったように感じるのに、いったい誰が古い探検記を読んでいるのだろう。[服部文祥

地平線報告会の歩み『五百螺函』

■『地平線・五百螺函』を作っている最中、裏表紙は11月の地平線通信に載った亮之介の絵をドーンと載せようと決めていた。宝船の舳先に立った江本さんが進むべき方角を指さしているという、この記念集会にふさわしい絵柄だ。そのいっぽうで、これまでの500回の歩みをなんとかヴィジュアル的に表現できないだろうかとも考えていた。

◆ふと思いついたのが、報告会予告の葉書とイラストを読み込んだマス目を500個、隙間なくびっしりと並べることだ。44年3か月という歳月を一望のもとに見渡したら、さまざまな思いが湧いてくるに違いない! ところがページ数の関係で、『五百螺函』の裏表紙はやっぱり宝船を使うことになった。

◆そこで、当日の冒頭で受け持った「地平線報告会の歩み」というコーナーで、この渾身のマス目画像を上映したのだが、なんと会場のプロジェクターとの相性が悪くてグレーの部分が真っ白に吹っ飛んでしまい、何の感動も引き起こせなかった。品行方正楽団の2曲目が始まるまで舞台の裏にこもって、4倍の面積で全部のスライドを必死で作り直したのに、まったく効果なし……。

◆そのショックで頭が真っ白になって、岸本佳則さんの熱意で1996年8月に「拡大神戸集会」が実現し、以後、東京を離れた報告会や写真展が次々と開催されることになったという、肝心の台詞を言い忘れた。後悔の残る500回目となった。[丸山純 この画像、地平線のウェブサイトでご覧いただけます]

イラスト500

イラスト 長野亮之介
(『つなぐ 地平線500!』予告より)

みなさん、かっこよかった!

■かっこよかったなあ、登壇者のみなさん。特に岡村隆さん。進行、質問のしかた、言葉選びにしびれました。地平線会議のことを山にはられた太いフィックスザイルにたとえ、離れている人にエールを送る優しさにも![日野和子

「五百螺函」は役立つ!

■会えた♪ということだけでも参加した甲斐があった。場をつないでこられた先人たちに感謝! そして「五百螺函」はとても役立ちました。時系列が確認できてイメージしやすかったです。スバラシイ!![掛須美奈子 千歳から参加]

「つづくつづく地平線!」

■緩いんだかきっちりなのかわからない構成と濃い登壇者。大らかな会でした。「つなぐ 地平線500!」を反芻していたら、いつのまにか「つづく地平線500!」と変換されて、「つづくつづく」とつぶやいていました。[中畑朋子]

地平線の人物絵巻

■紙面で出会って記憶に残る人々が、次々壇上に踊り出てきました。わずか3分の持ち時間でも、ぐっと惹きつけられるそれぞれの味わい。間に入るドラの音も軽快で、地平線会議の人物絵巻をみるようでした。最後の若者パートも実に新鮮![三好直子]

祭り囃子

■お祝いの祭り囃子を会場に響かせることができました! 今回は準備期間がなく、欲張らずに開き直ってコンパクトにしたことで、逆に皆さんの素の魅力が際立ったのではと思います。地平線はいい集いだなとしみじみ……(^^)。[車谷建太 津軽三味線弾き]

『地平線から・1979』の表紙

■これまでの僕の地平線のイメージは、茫漠とした大地と広い空の境目があるような感じという程度であった。しかし今回の報告会ではじめて目にした『地平線から・1979』の表紙を目にしたとき、僕の想像がぶわっと膨らんだ。その表紙には茫漠とした砂漠の大地の中を2頭のラクダを引き連れて歩く二人の姿が写っていた。どこに向かっているのだろう? どんな生活をしているんだろう? そして、この人たちと一緒に過ごす体験は自分の心に一体どんな世界を開いてくれるのだろうか? 僕の連想はとめどなく広がった。理屈を抜きにして地平線会議の魅力を理解できた瞬間であった。[今井友樹]

ロバの顎骨製打楽器キハーダのデビュー

■前々日の午後に40時間がかりで南半球より帰国、その足で品行方正楽団の音合わせリハに参加。4年前にアンデス山中のカーニバルで衝動買いした、ロバの顎骨製打楽器キハーダの舞台デビューとなる。が、演奏中から超絶時差ボケに襲われ、その後の記憶は定かではない。

◆年報編集は原稿料もインタビュー謝礼も写真使用料もゼロ、製作費も経験も人脈もないまま逃げ遅れて編集長を申し付けられた。当面の目標は誤字脱字削減の1点だったが、その内これぞ前人未踏のパイオニアワークではないか、という思いに取りつかれてきた。先輩が後輩をこき使う体育会系的なノリは排除し、表紙のデザインも敢えて統一しない。試行錯誤しながら、未知の領域を開拓していく不思議な高揚感に燃えた日々であった。

◆意味不明な使命感に燃えたり、完成したときの達成感に痺れたり、というのもあったが、それより何より記録が刻まれ蓄積されていくことの重さを実感していたのかもしれない。その当時、編集作業を手伝ってくれた懐かしい顔に会場で遭遇し、繋いできた500回に登場した面々を思い出し、あらためて地平線会議のヤバさを再認識したのであった。ちなみに、二次会のタシデレ以降も含め不規則発言はすべて時差ボケのせいです。何とぞ、よしなに。[Zzz-全@カーニバル評論家]

21才だった私が

■500回の重みは、21才だった私が65才になり、38才だった江本さんが83才になったということ。4月から報告会再開後、会場取りも担当している。覚え書きによると9月12日に歴博が11月23日祝日なのに空いてることがわかり、そこから500回記念が動き出している。怒涛の驚きの2か月であったが、タイトル『つなぐ 地平線!』含め、これ以外のプランが考えられない。[高世泉 受付係]

悠久の時に想いを馳せて

■品行方正楽団のオープニングの曲目はシルクロードのテーマ「絲綢之路」、竹富島の古謡「安里屋ゆんた」でした。今回は会場の制約で和太鼓が使えず、楽団本来の楽器編成ではなかったのですが、500回という歴史、悠久の時に想いを馳せて、2曲をお届けすることができました。機材運搬、搬出入のお手伝いをして下さった皆さん、直前の無茶振りにもかかわらず、写真スライドショーと歌詞の映像をサポートして下さった落合さん、どうもありがとうございました。[長岡のり子

地平線360度

■『つなぐ 地平線500!』の2日後、車谷建太氏が、品行方正楽団で使用したPA機材一式を世田谷にある私のスタジオまで車で届けてくれた。かなりの大荷物である。私は車の免許は持っていないので、車谷氏に運んでいただけなければ楽団の演奏は不可能だったろう。感謝の気持ちも込めて、その日は打ち上げ日とした。車谷氏には、宴会のためいったん車を戻し、再び電車にてご足労いただいた。白根全氏と、ちょうど近くの狛江にいた長野亮之介氏も合流し、のり子飯でたのしい演奏の反省会となった。

◆地平線会議は、探検、冒険、エクスペディション、山、谷、河、湖、海、森林、草原、砂漠、湿地、氷河、極地、気象、いきもの、地球等々多彩な自然界のキーワードでつながっていて、またそれと共に、織、編、狩猟、漁労、牧畜、農業、食物、脱糞、林業、住居、祭、宗教、戦争、生、死、焼き物、道具、書、音楽、彫刻、絵画、手工業、写真、映像、発掘、歴史、語学、科学、医学、(経済学は除く、)飛行、航行、走行、輪行、歩行、報道、通信、コミュニケーション等々、主に人間界の文化面に関する多くのキーワードでもつながっていることにあらためて気付かされた。地球全体いろいろな360度の視点が地平線会議にはあり、本当に凄いことだと感心した。

◆次につなげるにあたり、この多彩な面々を一堂に会し「地平線大文化祭」を催すべきであると酔った勢いで述べると、長野氏をはじめ皆さんに賛同の辞をいただいたようだった。夕方から飲み始め大いに気焔を上げ、散会はいつものように終電直前であった。[長岡竜介 ケーナ奏者]

生きる極意は死なないこと

■満席の会場。あちこちに見えるその筋の大御所の姿。ものすごい体験をした人ばかりだし自分に声がかかることはなかろうと油断をしていると名前を呼ばれる。壇上から見渡せば、若者の姿もあるにはあるが、年寄りが多い(自分自身若いとは言えない年齢だが)。しかし目の前にいる年寄りは矍鑠とし年相応には見えない人たちばかり。その姿を見て「生きる極意とは死なないことだ」という80代後半で今も潜り続ける現役ダイバーの言葉を思い出す。この会場にいる若い世代がこの「極意」を受け継ぎ、数十年後の地平線会議記念大会で今回のように「年寄りばかりだな」と言えると面白いな、と思う。色々な人を巻き込んでの更なる発展を期待しています。[高沢進吾

ケンタッキーを買ってしまった

■神保町から紅葉の靖国通りを抜けて、五百羅函集会に参加しました。会場には地平線が誕生のころから関わっている世代の方から、息子くらいの若者たちもいて、時の流れを感じました。こうしてさまざまな活動をする方々がラフに話をするという場は、今の世の中ではなかなか稀な存在なのではないか。江本さんのジャーナリストとしての執念と、慈愛の心の恩恵を受け、自己表現の場を与えられたことをありがたく思います。一方、若者の未来は暗い。この先、少なくとも地球を壊す行為には加担しないで生きていきたい、と会場で考えていたのに! 文祥と別れて帰る途中、魔が差してケンタッキーを買ってしまいました。[服部小雪

こういう生き方してる人は老けない

■「500人の報告者」の本人登壇が佳境を迎えたころ、隣の友人がボソっと呟いた。「こういう生き方をしてる人たちって老けないんだなぁ」。感じたのは皆様のパワーとつなぐ大切さ。地平線の大事な核がハッキリと見えた。[塚本昌晃 福井から]

石器野原人 vs インディ・ジョーンズ岡村対談

■品行方正楽団、オープニングが「絲綢之路」とはニクい。あの番組が始まったのも地平線発足のころでした。石器野原人 vs インディ・ジョーンズ岡村対談で、お二人の古の人々への憧憬に共感し、続く新旧のメンバー紹介では、改めて多士済々ぶりに感嘆しました。

◆そして、節目節目で聴く千晴さんの言葉。地平線にとっての道しるべです。トラならぬ「ドラ最強!」の昼の部と、人々のさざめきに酔った夜の部の各4時間。堪能しました。今回も不思議な集団の不思議な仲間たちに感謝です。(

※五百螺函の微細文字、スマホで拡大したら読めました。地平線で『細部に宿り給う』のは、やっぱり丸山さんですね)[久島弘

適正な分母とは

■人間にとって適正な分母はどのくらいか。折に触れて考えていたので、人間もゴリラも分母が200になると分裂する、は、なるほどでした。野生動物に倣い、その生を実践されている関野さんの話が今もリフレインしています。12月の高世仁さんの報告、メディアを通じて伝えられることとの違いもあると思うので、その辺りを聞けることを期待しています。[塚田恭子

あー濃かった!

■リレートークでは、折角機会をいただきながら、あっっと言う間に終えてしまいました……。ちゃんと伝えられなかったクヨクヨをこちらを借りて救済。「私の報告会では、車谷建太さん・加藤士門さんに音楽でコラボしてもらいました♪」。「地平線会議参加当初、例えば丸山さんと武田さんが“くん付け”だったり、画伯と呼ばれる人がいたりするのが内心ちょっと不思議でした。20年あまり経った今ではさすがに馴染んでいますが、今日はそんな当時の感覚を思い出しました」。『写真詩』から『マンガスケッチ』(双方江本さん名付け)に変わっても、届ける心持ちは変わらずです(いつも大目に見てくださってありがとうございます!)。これからも「勝手に使命感」携えて。またの報告会(+北京かな)とみなさまにお会いできることを楽しみに。あー濃かった![塚田恭子 大阪から]

正直に生きたモン勝ち

■1981年。大学4年生の私にとって地平線会議は革新的な場だった。その前年、バイクでのアフリカ旅の途上で出会った大学生の「長い旅は卒業したらできない。だから今やるしかない」との言葉に違和感を抱いていた私に、地平線会議はまさに、会社員でもプータローでもどんな立場でも自由に生きられると教えてくれたのだ。以後、会社員は延べ3年やっただけで、バイク旅、ソマリアでNPO活動、ボルネオ熱帯林での住み込み、そして取材の世界へと、自分に正直であれと関心の方向性を変えて生きている。1980年代に出会った地平線の元若者たちは500回集会でもパワーに満ちていた。世の中は正直に生きたモン勝ちだとつくづく思う。来たれ、新たな若者たち![樫田秀樹

初参加ただびっくり

■地平線500でお聞きしたお話は、旅を全くしない私には、とても刺激的で、カチコチの脳がメリメリいってました。冒険をする人々の熱い気持ちが、会場に溢れていて、とても楽しい時間でした。ありがとうございました。[三笠民子 地平線会議新人]

まだまだ前進できる

■どの年代も言えることを言う。やれることをやる。和太鼓の小さな音が心に響く。大きな音が心をはずませる。そんな地平線が続きますように。私は久しぶりの参加で活力満タン。まだまだ前進できるな。[渡辺京子

その裏にある使命感

◆ 丸山純さんが紹介してくださった、地平線会議発足当時の宮本千晴さんの言葉が印象的だった。「民衆の認識のレベルはマスコミの形で与えられるのでは不十分。直接知っている、少なくとも直接口をかわせる間柄の体験がかわされることで、初めて心の中で積み重なりうるんではないか」。さらに宮本さんは会場でこう語られた。「地平線会議を『やりたいからやっている』と言うが、その裏には連帯感や使命感がある。それが聞きに来る人たちに『教わるものがある』と思わせている」。

◆私自身、東日本大震災ボランティアへ行くきっかけだけでなく、人生の節々で地平線からたくさんのパワーをもらっている。改めてこの繋がりに感謝したい。そして昨年8月から担当している通信レイアウト。関野吉晴さんが「地平線通信に載っている文は1つ1つ違う顔を持っている」と表現してくれた。通信読者が各々の心に響く話や書き手に出会うことができたら嬉しい。そう思いながら「少しでも読みやすく」と掲載順を考えたり、Wordでちまちまと字の大きさや行間などを調整している。

◆11月号で佐々木陽子さんが通信のことを「意外にも読み易い」と書いてくださり励みになった。これからもよろしくお願いします。[新垣亜美

生涯反抗期みたいなひとも居るのに

■「地平線会議」は人間関係の賜物だとおもいます。「ひと」その人がみえてくるのがすばらしいとおもいます。とっても好き勝手な個人の集まりだともおもいます。生涯反抗期みたいなひとも居るのに、なんで、こんなイベントが成せるのであろーかと毎度不思議におもいます。役立たずのぼくは今後も「冗長」を担いたいと想います。[緒方敏明

逃げ切りしない

■印象に残ったのは、私とほぼ同じ年齢の服部文祥さんからの警告、「若者は、私達を逃げ切り世代として見ている、私達は次の世代にどんな地球、社会を残せるか」です。少子高齢化、地球温暖化、格差の広がる世界経済、すべて50代以上の大人の責任です。世界を自由に旅する女性たちの言葉も新鮮でした。やはり、私を含め誰もが、母の懐の深さには敵いません。これからも元気のある女性や若者の話を聞かせてください。私もいつか地平線会議で話ができるような旅をしたいと思っています。[田村隆幸 50代 宇宙物理学の研究者]

これからアビジャンに

■盛大な500回記念報告会でお話しさせていただき光栄でした! 第1回の三輪先生のように1万円、払わないといけませんね?! 次回に持参します。いまパリの空港です。これからアビジャンに向かいます。今回は50日超、アビジャンで年越しします。ちょっと楽しみでもあります。それではハッピークリスマス、よいお年をお迎えください。追伸・これからの地平線会議が話題になっていましたが、江本さんに引退はなし。できる限り続けていただきたいです![佐藤安紀子

地平線報告会「1000回」へ向けて

■30年前のアジア会館は敷居が高かった。500円がもったいなくて、通路で聞き耳を立てたこともあった。インドネシア、ペルー、モンゴル……。アンテナに少しでもひっかかる報告者のときは6時半より前に来て前方に陣取り、そうではないときにはパスした。通信費の年2000円も払えなかったあのころ、私はどうやって毎月の報告者を知ったのだろう。ネットはなかったけれど、街はバブルで人づてに情報が流れてきた。

◆「地平線」の看板だから、ではない。興味をかき立てられる生の話を聞きたくてアジア会館に通ったのだ。いまはどうだろう。テレビを点ければ美しい絶景、刺激的な番組が観られるし、地平線でなくても武蔵境の公民館や大和の書店で数多くトークが聞ける。YouTubeは言うまでもない。だけど、それだけでは足りない。もっと遠くへ、もっと深い、激しい挑戦の話が聞きたい。そして私も飛び出したい。地平線報告会が1000回へ向けて、そうした欲求に応える場にできればと思う。[落合大祐

私の憧れ

■父は、平凡な会社員が実現できないことに果敢に挑戦している人が大勢いて眩しい、と地平線会議に憧れを持っていた。しかしダイナミックに活動しているかっこいいサラリーマンも少数いることを知った。私はリーマンの星にも憧れる。[瀧本千穂子

アンカー

■「地平線会議はアンカーだ」といった言葉が印象に残りました。プロじゃないけど人生を賭けて冒険・探検をしてきているレジェンド。登山や人間社会の問題に足を踏みいれて活動する若人。ここで繋がってるんだなあ。[北川文夫 岡山から]

本気じゃないと許されないコワさ、そして遊び心……

■私は300回あたりから地平線通信の制作チームにいつの間にか巻きこまれ、手弁当でワッといろいろなものを作り上げる皆さんの熱量に圧倒されてきました。通信に関して思うのは、毎月錚々たる方々が(原稿料ゼロで)本気の文章を送ってくる媒体ってすごい!ということ。報告会もですが、受信する側が本気なので、発信する側も本気じゃないと許されないコワさが地平線会議にはあります。年齢や地位に関係なく、ただその人のホンモノが見たい。殺気だった緊張感と、報告会後の二次会や大集会のような遊び心とのバランスが絶妙です。先日の大集会は44年かけて醸造されたそんな空気に包まれながら、走馬灯のように500回の歴史を熱っぽく駆け抜けた4時間でした。自分含め、人びとを何十年も惹きつけつづける磁力の正体は何だろうと考えていますが、よくわかりません。[大西夏奈子

時間きっかりを讃えた裏方たち

■『つなぐ 地平線500!』、個人的に印象的だったのは、終了後にスタッフみんなが内容のことよりもまず時間通り終われたことばかりを讃えていたことです。内容は絶対面白いに決まっている。しかし44年にのぼる歴史を4時間で語り尽くすなんて最初から無理な話。結果として時間のことに心配が集中するのは、実に地平線会議らしいと思いました。[杉山貴章

お題そのものの4時間

■当日受け取った配布資料にある報告会の全記録、通信の一覧、報告会予告面の一覧に圧倒され、オープニングの演奏に酔いしれ、地平線会議の始まりから今へとつながる対談に聴き入った、あっという間の濃い4時間。タイムキーパー目線で思えば、制限時間に対し、見事な時間配分でまとまる話に感嘆し、期待通りドラ音も鳴り、その音を聴かせてもらえたことも楽しかった。『つなぐ 地平線500!』そのお題そのものの記念集会。ありがとうございました。[村松直美

イラスト-2

探検部で得た、人生の嗅覚

■大学入学とほぼ同時に入会し、ボルネオや地平線会議に出会うきっかけとなった早大探検部。1年半というごく短い期間の在籍でしたが、そこで濃い時間を過ごし、この500回記念集会に足を運んだ一人として書きます。

◆まず、探検部の同期や先輩たちは皆元気です。2017年11月に報告したカムチャツカ隊の隊員は今、テレビ局員、ベンチャー企業役員、DJ、税理士の卵など、それぞれの道を歩んでいます。先輩には、記者になり探検部時代のテーマを取材し続けている人、奥多摩に自分で平屋を建て、日々猟犬と山を駆けながら学者を目指している人も。本当に皆、色々です。そしてわたしも、この春から働き始めた一人です。

◆集会では「就職したら負け」というキーワードも登場しましたが、こうして社会に出たことで、自身の欲求を再確認できています。探検部で得たと思うものは、人生の嗅覚です。求めるものにどこまでも愚直に向き合った鮮烈な時間が、進んだ先で、「本当にここなのか」と問い直してくれています。ボルネオや、インドネシアへの引力をひしひしと感じながら、仕事する毎日です。時間はかかっても、寄り道しても、自分を呼ぶ地平に向かっていきたいと思います。[下川知恵 26歳 名古屋から]

損得抜きの救世主たち

■「こんなことして何になる?」をやらかすことこそが、役立ちそうなことだけをやるAIを凌駕し続ける、人類最大の美徳。地平線会議は“損得抜きに自分の道を模索する探検家”という“救世主”達の集う場所! 祝&謝![地球元気村通信 中井多歌子

受け入れてくれる場所

■うんこを食べた話に興味があって、関野吉晴さんに詳しく聞きました。冊子に自分の名前を見つけて感激! 生活に紛れてご無沙汰していたこともありましたが、こうして受けいれてくれる場所があって人がいて、幸せです。[柏木志津子

参加者全て「友人」という奇蹟

■500回という長い年月にふさわしい多彩な参加者の全てが私の「友人」か「友人の友人」というあり得ないほど貴重な場でした。会えば懐かしくて、でも時間の隔たりを感じることもなく話せる地平線会議は最高です![岸本佳則 大阪から]

きっぱり時間厳守

■地平線会議の自由人たちは、ときに時間を忘れてエンドレスとなるため、私がいちばん心配したのは、17時に会場を退出できるかだった。予定どおり30分前に終了し、撤収・復旧を終えたのはぎりぎり5分前だった。[武田力

サーメルのいたずら書き

■「書いていい?」とおもむろに取り出した筆で、サーメルが僕の左手の甲に自分の名前を書き出した。由佳さんの初めての報告会(451回)では、ベビーカーの中にいたサーメル。時の流れを感じた500回目の報告会。[光菅修

「使命」が見えた初地平線

■初めての報告会は、皆様の今までの繋がりを感じました。素晴らしい信頼と友情です。私も若いころは山登りに夢中でした。山関係の仕事にあこがれたこともあります。しかし結局「趣味」にとどまっています。そこには使命がないからだと気付きました。◆地平線にも若いメンバーが次々と現れて、活気に満ちています。でも、今日のベテランの方の話しには、好きだから登るとか行きたいから行くということだけでなく、「〜のために」という現地の人や環境のために行動していることが感じられました(最後に宮本さんが使命ということを話されて納得できました)。だから、若い人たちもきっとこれから使命が見えてくると思います。 私も使命が果たせることをしっかりやっていきます。◆本当に刺激的な時間を過ごせました。夜行バスと新幹線の日帰りはちょっとキツイけど、またチャンスがあれば参加します。ありがとうございました。[河野典子 看護師 下関から]

この日「しあわせな死」への最期の旅が

■500回記念集会の日は私にとっても大きな記念日になった。この日の昼オニギリを食べて前歯が折れる。とうとう物が噛み切れなくなり、8年前の舌癌以来刺激物も一切ダメで、二次会の食事ではほとほと困り果てた。だが治療などせず、野生動物のように食えなくなったら死ねばいい。生きるための食は他の生き物の命を奪うこと。その責任を果たすため、命を返す野糞をし続けて半世紀、自然の中での命の循環を食とウンコで解明した。理想は自然の中で野垂れ死に、野糞のように土に還って他の生き物の命になること。死は終末などではなく、命は他の者に託せば無限に循環する。この日遂に「しあわせな死」への最期の旅が本格的に始まった。[糞土師 伊沢正名

何が直に訴えかけてくるのか

■今のようにインターネットがなく情報を得るツールが限定されていた時代。学生探検会議や地平線会議が誕生したころ。「探検」という言葉が一般的にはまだ遠くに捉えられていて探検部ができてまだ10年もするかしないかの時代のことは、想像したことがなかった。私が大学で部活動を選んだときは、山岳部とワンゲル部、そして探検部は並んで選択肢のうちに入っていたし、これらはみんな半世紀以上の長い歴史伝統を持つという印象が今もある。私にとってはあたり前にあるものがその当時はあたり前にはなく、探検という行為そのものがまだ不確実で、行為者本人も不安定な感覚を持っていたのかもしれない。

◆岡村隆さんが「探検の活動ができていないとき地平線会議は自分が探検と繋がっているためのよすがのようなものだった」と仰ったことが印象に残っている。誰かにとってたしかに必要なもので、情報を共有するために結成されたとしてもそれ以上に探検という行為と繋がる場として地平線会議は大切な役割を持ってきたのではないか。動けていないときも地平線で知って感じて考えていたことは、探検という活動のどこか一部分を担っていたのではないだろうか。探検という行為をするために必要なものであったのかもしれないと感じた。

◆プロの冒険・探検に限らず、その言葉に限定されないいろんな人生の探究が、地平線会議では語られる。遠くの存在としてではなく目の前で語られる生きた言葉の重みはやはり自分の生に直に訴えかけてくるものがあると、久しぶりに来た第500回報告会で感じた。[小口寿子 24歳 山仕事作業人]

帰国しました また西穂です

■11月28日にネパールから帰国しました。23日に行われた報告会で、私の動画を流してくださったそうですが、聞きづらかったとのこと、本当に申し訳ありません。下山時から咳があり、カトマンズに帰るとあっという間につぶれてしまい、あのような声になってしまいました。

◆体調管理について反省しています。とはいえ、アイランドピークへのアタックは成功し、その後の三つの峠越えも歩き終えました。アイランドピークの雪渓に取り付いてからは、常にフィックスロープが張ってあり(ナイロンザイルが半分以上)、岩と雪の部分もユマーリングで登りました。

◆完全なるガイド登山で、クライミングシェルパは強かったです。私がお世話になったシェルパは25歳と若く、ポーターとして数年修業を積み、ガイドになるための研修(クライミングやセルフレスキューなど)も受けてきたそうです。クーンブ地方には、トレッカーやポーター、ヤクやゾッキョがたくさんいました。まだまだ整理が追い付いていません。そうこうしていると、年末年始に西穂山荘で働かせていただくことになりました。もう師走ですね。何卒ご自愛ください。[安平ゆう 22歳]

「これでいいのか」という自問、使命感

■みんな偉いなあ、凄いなあ、と思う。しかもずっと続けている。たいしたものだ。おれにはできない。それが地平線報告会500回集会での一番の感慨だ。一方で、これでいいのだろうかとは常に思う。年寄りが増えた。それはいい。歳に合わせ、歳を活かして開拓をつづけている人たちもいる。これでいいのかはそれよりも根深い不安だ。これじゃあだめだ。多くの人がそう感じていると思う。すでに崩壊は始まっている。そう見る人も少なくないだろう。ならば、何を、どう? さまざまな警告と提案が聞こえる。だがいずれも片目をつぶった辻褄合わせだ。根は人類がはびこりすぎており、人類は十分に質が悪い生きものだということにある。

◆だから多分明快な解はなく、成り行きだけがあるのだろう。自分が考えるしかないなら、せめて目を見開いて成り行きを見たい。バーチャルではなくリアルで。できれば手触りや声や匂いや味や雰囲気への連想とともに、広く、遠く、身近に。自分で気づきながら。とはいえ助けになり励まされ希望にもなるものはある。身近だと思える人たち、仲間だと共感できる人たちの行為や生きざま、発見や考えだ。地平線会議のはじめからずっとそう考えてきた。

◆たとえば報告会で語ってくれ、通信に書いてくれた人たちだ。人間らしい、生きものらしい喜びと感動ではまり、切り開き、敬服すべき意欲と意志で探求しつづけている。迷いと生活。楽ではない。その意志の背後にそれぞれの「使命感」を感じる。命じられたり、思想の論理で与えられた使命ではない。それぞれが独自の道にはまって発見し、独自に切り開きつづけたが故の世界観が自分に任じた役割と使命感だ。自分がやらなくてどうする。でも自分だけの使命感だから人に言うものではない。

◆で、その使命は誰のための? 最初は同志や仲間だったかもしれない。道によっては、いや人としてのです、というのが実感だろう。でも多くはどこかに日本人としてとか、あってほしい日本のためにを意識する。いずれにせよこの使命感は個人が勝手に感じるようになるものだというのが肝だ。だからこそ、話を聞くものは勝手にわれわれを代表するものとして共感し、敬意を感じ、憧れや感謝の念を持つことができる。

◆人間には個人と個人の間のこういう関係があり、それは昔からわれわれのアンテナだった。切り開くものは本能の喜びと納得のままにつっこみ、はまればよい。でもその先で出会ってしまう使命感と「誰のために」はおのずと深く広くなっていく。「これでいいのか」が深まっていくにつれて。地平線会議はいい加減な場だからあてにできる。無責任だがそう思う。[宮本千晴

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