■7月の報告者は、昨年の今頃まさに南極で「越冬」真っ最中だった澤柿教伸さん(56歳)。第63次南極観測隊越冬隊長としての任務を全うし、この3月に帰国した。氷河地形学・氷河地質学の専門家として、20代のころより計4回の南極越冬を経験。30年間に渡り最前線の現場に立ち続けている、まさに「南極観測の生き字引」と呼ぶにふさわしい存在だ。「報告会予告に向けた取材の際に長野さんと話していて、引き出されたものがあって」とのことで、生い立ちから最新の現場報告まで、南極一直線の人生をたっぷり語っていただいた。
◆1966年、母の実家のある石川県羽咋市で誕生。奇しくもそこは、日本初の南極探検船「開南丸」の船長、野村直吉の出身地だった。富山県上市町で平安時代から続く浄土真宗のお寺の長男として、「愛してやまない、様々に表情を変える立山連峰」を仰ぎ見ながら育つ。剱岳で遭難した方の法要が寺で営まれるのを見て、子どもの頃から「山は怖い。でもあんなに綺麗なところなんだから、やめられないんだろうな」と思いながら過ごしていた。
◆高校生のとき、星降る夜道を自宅へと歩きながら詠んだ歌がある。「月光の紫に 眠る剱岳 雪鳴らしゆく 玻璃の夜の家路(みち)」。和歌は住職の祖父に訓練され、橙庵(とうあん)という名もつけてもらった。雄大な自然の中で生きる喜びを全身で感じながら育った青年時代だった。
◆このころの愛読書は「探検と冒険(朝日講座)」全8巻。今も折に触れて読み返す。澤柿さんは「本や人との出会いが、今の私につながっている」と振り返る。特に記憶に残ったのは、白瀬矗、アムンセン、スコットの3人が同時期に南極点を目指した1911年の「南極点到達競争」だ。南極点一番乗りはアムンセンに譲ったが、この時の白瀬の功績のおかげで、約50年後、日本は敗戦国という不利な立場にも関わらず国際社会から黎明期の南極観測に参加する権利を与えられる。それが1956年の第一次南極観測隊発足、そして昭和基地建設へとつながっていくのだった。
◆南極探検についての本を読みふけるうちに、そこに登場する人物に北大出身者が多いことに気づいた。第一次南極観測に参加した富山県芦峅寺出身の山岳ガイド、佐伯富男。昭和基地が建つ東オングル島と西オングル島の間にある小さな瀬戸の発見者で、「中の瀬戸」という地名の由来になった中野征紀医師……。「北大に入れば南極に行けるかもしれない」という考えは、高校生らしい自然な発想だった。
◆北大に進学した澤柿さんは、第一次南極越冬隊員で地質学および犬ぞり担当だった菊池徹が在籍した理学部地質学教室に入る。菊池は映画「南極物語」で高倉健が演じた主人公のモデルとなった人物だ。卒業後は「寒冷地の野外研究者」を目指し、大学院環境科学研究科へと進学。ここは「環境科学」という名称が初めてつけられた、その分野の最先端をいく大学院だった。
◆「開拓者は矢を受け、入植者は土地を手に入れる」という格言がある。澤柿さんの研究モットーは「…されど、開拓者たれ」。その言葉を体現するかのように、ヒマラヤ、パタゴニア、ヨーロッパアルプス、スバールバル、グリーンランド、カムチャツカと、世界中を飛び回って地質調査に明け暮れた。
◆1991年、北極圏にあるスピッツベルゲン島(ノルウェー領)で行なった現地調査の映像が映し出される。大自然の中に身を置く澤柿さんは実に活き活きとしていた! しかも地平線会議でもおなじみ、研究室の4年先輩にあたるというハワイ在住の極地環境研究者・吉川謙二さんの姿もある。
◆20代の若かりし2人は、急きょ現地入りすることになった指導教員を迎えに行くため、なんとゴムボートで川を下って空港へ向かう準備をしているところ。川と河原と岩山しか見当たらない極北の大地の中、この川下りは一体どんな旅だったのだろうか。続いて映ったのは、人ひとりがやっと入る大きさの氷の穴を掘り、その奥に潜り込んでいる吉川さんの姿。氷の内部構造を調査しており、穴が潰れるのが怖いので、ときどき澤柿さんが生存確認をしに行ったという。
◆澤柿さんは、自らの研究内容を「『氷の下の見えない作用』や『過去の現象』を、科学的理論と想像力で復元する」と言い表した。30年以上も前、地球のてっぺん付近の大自然の中で、日本の若者2人は本当に楽しそうに過ごしていた。毛糸帽を被りスコップを担いだ吉川さんは、満面の笑顔だ。こんな映像を見せられると、現地で自らが見たことをつなぎ合わせ、壮大な地球の歴史を紐解いていく地質学研究の面白さが強烈に伝わってくる。フィールドワーカーとしての澤柿さんの根底にあるものを見た気がした(澤柿さんと吉川さんの調査話は、2023年4月の地平線通信528号に記載あり)。
◆また、年間100日以上を登山に費やすほど打ち込んでいた北大山岳部での経験も、現在の南極研究に活かされている。南極にはつるつると磨かれたような岩があり、それは氷が削ってできたとする氷派が優勢だった。しかし澤柿さんは、それが学生時代からの沢登りで見慣れている「水が作った地形」だと考え、劣勢の水流派=「開拓者」として矢を受ける立場にいた。すると近年、南極の2000m級の氷層の下に液体の水が存在することがわかった。澤柿さんの読み通り、水流派が巻き返しつつあるのだという。
◆初めて南極越冬隊に参加したのは1993年の34次隊、大学院博士課程1年のとき。一緒に調査をしていた極地研究所の先生に声をかけられたのがきっかけだった。27歳の澤柿さんは、1次隊以来36年ぶりにボツンヌーテンという山に登った。「憧憬の 雪原に立ちて 夢はたし 日高に眠る 友と語らう」。一緒に南極に行きたいと常々語り合っていた山岳部の学友は、日高で亡くなった。彼も来られたらよかったと、思わず出た歌だった。
◆大学院卒業後は北大研究室の助手やカナダの大学への在学派遣などを経て、2015年に法政大学社会学部教授・国立極地研究所客員教授として着任した。地平線会議にも積極的に参加し、法政大学の「探検と冒険ゼミ」に所属する若い学生たちを報告会へと導いている。ゼミ生たちによる毎年の研究発表会では「地平線会議を40年支えた人たち」「ランタンプラン」など地平線会議に関連したテーマを取り上げた。地平線会議代表世話人である江本さんが「山の日」施行に向けて書かれた論考を読み、学生たちと共に「人間の生きる力」を見つめ直した事もあったという。地平線会議とのつながりが深まる中、荻田さんの北極ウォークに参加する学生も出てきた。
◆副業としては、南極観測の若い後継者を育てるための教科書作成、フィールドワーカーと社会の活動をつなげるNPO法人としてシリーズ本の出版、雪崩事故防止研究会の活動など、研究者でありながら「若者に伝える場」を多岐に渡って作られているのが印象的だ。
◆大学院時代の34次隊(27歳)を筆頭に、研究者としての道を進みながら、47次(39歳)、53次(45歳)、そして今回の63次(55歳)と計4回の南極越冬を経験した澤柿さん。南極に何度も行く人はいるが、「20代の頃から、程よい間隔で30年間に亘って行けたというのは非常にまれ」という。古い時代も新しい時代も知る、貴重な存在だ。
◆南極観測は国家事業であり、各省庁や研究機関が参加して「オールJAPAN」でことに当たる、横つながりの巨大な組織。そのいちばん末端の実行部隊が南極観測隊だ。そして、それを指揮するのが観測隊長と越冬隊長。
◆2021年秋出発の第63次南極越冬隊は、準備期間も含めてコロナ禍の真っ只中にあり、イレギュラーな対応が多かった。封鎖された環境である南極生活にコロナを持ち込むわけには行かない。出発前の10月末から14日間の隔離生活を送った。そして11月10日、南極観測船しらせは、いつもの晴海埠頭ではなく横須賀の自衛隊基地からひっそりと出航した。
◆昭和基地のある東オングル島までは、日本から約14000km。ひたすら南へと進む。寄港地のオーストラリアでは外国人は完全にシャットアウトされ、軍港で燃料補給だけを受けた。日本で隔離生活を始めて1か月半以上が経過した12月16日、ようやく昭和基地に到着した。
◆しらせが接岸しているのは、南極の夏に当たる12月中旬から2月の2か月間だけ。実は今の南極観測隊の主力は、この2か月間だけ効率よく活動して帰る夏隊だ。越冬隊30名に対し、夏隊は80名もいる。しかし、夏隊が観測に100パーセントの力を出せるのは、越冬隊が1年間昭和基地にとどまり、設備の維持や研究の下準備など全部お膳立てしているからこそ。「それが越冬隊の役割」と聞いて意外に思ったのは、私だけではないだろう。
◆そんな越冬隊のサイクルは、12月中旬に南極入りし、2月にしらせが帰国する際に「置いてきぼり」にされて越冬。翌年12月にやって来たしらせが連れてきた次の観測隊に引き継ぎをし、2月に南極を離れる。南極滞在期間は通算14か月。今回は全行程512日、隔離14日だった(南極到着前後のエピソードは、2022年1月の地平線通信513号に記載あり)。
◆第63次南極越冬隊は32名。さらに直前でコロナ感染者が出た時に備え、4名の交代要員をお願いしていた。越冬隊長1名、観測部門13名、設営部門17名、同行者(報道)1名という構成だ。昔と違い、実際に観測に従事するのは半分以下。設営部門は車両、発電機、建築土木、通信、野外観測支援、医療、調理などで、生活環境の構築や観測活動のサポートを担う。今回同行した医者は2名とも女医で、これは史上初のこと。その他の隊員は全員が男性だったので、いつもは女性隊員のために日本とインターネットで医療相談用のホットラインを作るところ、今回は男性用のホットラインを作ったという。
◆昭和基地は国際的にも重要な観測拠点であり、観測部門のうち気象庁から派遣された5名は、3交代制で24時間途切れなく定常観測を続けた。その他にも個人の研究や、1000本のアンテナを立てて行う大掛かりな大気観測、地震や重力の長期的な観測など、やるべきことは数多い。
◆南極観測は6年をひと区切りとして進められ、63次隊は第IX期6か年計画の最終年度を担った。6年間の総ざらいをし、次の6か年に引き渡す役目だ。トピックとして、いくつかの成果が紹介された。
◆昭和基地にある約60もの建物を30名ほどの越冬隊員で管理するのは非常に大変なので、観測に関わる様々な部門の建物を集約して3年前に新しい建物「基本観測棟」が完成していた。今回、シャッターに不具合があり使用できていなかった放球デッキ(高層気象観測のため1日2回気象隊員が気球を上げる)の修理を終え、本格利用を開始できた。旧放球棟は、第64次夏隊が解体する。
◆大気観測用のUAV(無人航空機)を気球につなげて上空数万mまで上昇させる「エアロゾルUAV観測」。飛行機は成層圏での観測終了後に気球を切り離し、プログラムに沿った自律飛行で昭和基地へ帰ってくる。飛行機が行方不明になって探しに行ったりもしたが、計4回の飛行を成功させることができた。
◆観測の付随業務や、生活のためにやらねばならないことも多い。雪がほとんどない3月4月は、冬ごもりの準備として燃料を保管場所へ運び、タイヤで走るタイプの車は車庫に格納する。火事で住居を失うと命取りになるため、限られた水で初期消火できるように消防訓練は頻繁に行う。年間を通して氷点下という気候の中での作業はさぞ大変だろう。
◆今回、基地内をリフォームしてスタジオを新設した。隊員の出身校などに向けて開催する南極教室を始め、情報発信も越冬隊の重要な任務だ。夏隊で同行する学校の先生たちや報道関係者にも新しいスタジオを使ってもらった。屋外中継についても、これまではマイナス30度の中ポキポキと折れてしまうカメラケーブルとの戦いだったが、近年性能が飛躍的に上がっているスマホの電波「ローカル5G」を使用することで、基地から離れた場所での中継が手軽に行えるようになった。
◆自然現象に合わせ、臨機応変な判断を求められる場面も多かった。気温がプラス4℃を上回ったことによる、まさかの雨漏り事件。季節外れのブリザード、行動を制限される海氷の流出……。自然の巨大な力に翻弄され、隊員の安全とミッション遂行を背負った隊長としての緊張感は相当なものだったに違いない。
◆そんな張り詰めた日々を乗り越えるためでもあるのだろう、雪と氷ばかりの南極で少しでも生活感を出そうと、季節行事はきっちり行った。ひな祭りやお花見(ちり紙で桜の木を作った)、鯉のぼり、七夕。南極名物そうめん流しは、氷山に溝を掘ってお湯を流す。めんつゆとお箸を持って氷の大地にひざまずく隊員たちは、手袋をしたままで、ちょっと食べにくそう。全天を覆う緑色のオーロラは冬の楽しみの1つだが、マイナス30℃の寒さとの戦いだ。
◆海洋生物調査という名目で釣りもする。電動リールを工夫し、水深600mにいる深海魚のライギョダマシを3匹同時に釣り上げた。これは観測隊史上初めてのこと。魚拓をとり、美味しく食べた。
◆日本で夏至を迎える6月ころには、南極の冬至をお祝いするミッドウィンター祭が開催される。外が暗くて仕事ができないこの時期に4日間を遊び倒す、越冬隊の一大行事だ。隊長による開会宣言と氷のお椀への聖火点灯を皮切りに、専用コースを作ったボブスレー大会、クイズ大会などが繰り広げられた。メインイベントは、全員が正装で参加するディナー。ちょっと改まった形でフルコースの食事をして、越冬後半戦に向けて英気を養った。
◆南極では基地間の国際交流も盛んだ。世界各国の南極基地とシーズナルグリーティングカードを交換したり、昭和基地のオリジナル映画を作って南極映画フェスティバルに参加したりと、越冬同志たちとの関わりを楽しんだ。初開催の南極越冬基地スポーツ対抗戦のダンス部門では雪の中みんなでよさこいソーラン節を踊り、パワー系競技では入賞もした。
◆ここ数年、基地間で小型航空機を飛ばす“DROMLAN”という南極の中だけの国際航空網が活用されている。飛行機の管制業務、天候などの情報の通信業務などをインターナショナルに行うのも最近のミッションのひとつだ。昭和基地沖の海氷上を雪上車でならして滑走路を整備し、5便を受け入れた。ここでもコロナ感染対策のため、昭和基地にやってきた人は1週間別の建物に隔離し自炊生活してもらってから初めて接触するようにした。
◆南極地域の利用について定められた南極条約の締結から、昨年で60周年を迎えた。日本を含めた原署名国は12か国だが、今や加盟国は46か国。これは地球上の人口の約80パーセントに相当する。以下、4つの基本原則。「南極の平和利用」「科学調査の自由と国際協力」「領土権・請求権主張の棚上」「核爆発・放射性物質の処理の禁止」。
◆観測隊はこの条約のおかげで自由を享受できている一方で、実行部隊として、条約が南極の現場できちんと守られているかを監視する役目も担っている。澤柿さんは「自由とは、各国が監視しあった中で初めて成立するものです」と、きっぱりと言い切った。
◆観測隊が国際戦略の最前線にいることを象徴するような出来事があった。63次隊を乗せたしらせが氷を割って作った航跡を使い、なんと中国の船が入ってきたのだ。中国からは何の連絡もなく、これは明らかに南極条約違反である。彼らは昭和基地の30km先に小屋を建てて帰っていった。
◆澤柿さんには、30年前に一緒に南極で越冬した同い年の中国人研究者、ヤンさんという友人がいる。南極越冬から帰国した後、彼は中国の極地研究所で長らく所長をしていたが、今回の件が起こる直前に退職していた。「おそらくヤンさんは、日本に近すぎるということで更迭されたのではないか。彼が所長だったら、私に連絡しないはずがない」。このように、非常に微妙な国際関係の瀬戸際に置かれているのが昭和基地なのだ。
◆澤柿さんは「査察制度や事前通告制度をちゃんと運用することで南極条約は維持されている。これがなかったらやりたい放題の大地になってしまう」と警鐘を鳴らす。ちなみに外国の観測隊員が昭和基地に査察に来るのは大歓迎だが、実は外国人から見ると、昭和基地は立地的に「行ってみたいけれど、なかなか行けないところ」なのだという。というのも、地図上でインアクセスシブル(到達不能)と表記されていた土地をあてがわれた日本が何とか建ててしまったのが昭和基地だから。へえ〜!
◆領土権が凍結されている南極はどこの国のものでもないのだが、歴史的な経緯や地理的要素などから、自国の領土だと主張する国もある。一方で、日本は完全に南極条約を守り、領土権は主張していない。そういう立場からすると、今後起こるかもしれない各国間での領土権争いの仲介や調整役として、日本の重要性は増していくのではとも考えている。
◆領土権に関しては、帰国前のコロナワクチン接種の際にも一悶着あった。昭和基地は日本の領土ではないので、国が購入し供給しているコロナワクチンは基地内では打てないと言われてしまったのだ。ウイルスのいない南極で過ごすと、帰国後すぐに風邪をひいてしまうくらい免疫力が低下してしまう。何としても帰国前にワクチンを打ちたかった。
◆ここで解決の糸口になったのが、旗国主義という考え方。飛行機や船舶など、移動しているものの中はどこの国かという話だ。観測船しらせは日本船籍なので、船に乗ったらそこは日本!ということで、帰国途中のしらせの上で、ようやくワクチンを打つことができた。
◆越冬生活を振り返ると、隊長として隊員たちに様々な苦労をさせたと思う。夜も寝ないような重労働を課さなければならないことや、悩みに答えられなかったこともあった。だからミッドウィンター祭でサプライズプレゼントされた盾に、自らの座右の名「開拓者は矢を受け〜されど開拓者たれ」が刻んであったのを見たときは、隊長として合格点をもらえたようで心から嬉しかった。さらに厳しい越冬後半戦も無事に乗り越えた63次隊は、帰国後に作成した記念アルバムのタイトルを「開拓者」とした。澤柿さんの南極にかける情熱が隊員たちに伝わった証だ。
◆ペンギンの群れの中で最初に海に飛びこむ1羽を「ファーストペンギン」と呼ぶ。南極の開拓者を言い表した「ファーストペンギンたれ」という澤柿さんからのメッセージは、これから南極観測に参加する人や南極に憧れる人たちの心を鼓舞し続けることだろう。
◆澤柿さんのお話を聞く中で、南極が持つ様々なギャップがたまらなく面白かった。生命を脅かすほどの厳しい寒さを恐ろしく感じる一方で、美しい自然と生き物たちの営みに心がときめく。また、国際的、科学的に最前線の現場でありながら、そこで生活するためには泥臭く地味な労働もすべて自分たちでやらなければならないという圧倒的事実。そのような環境をメンバーが協力して乗り越えていくことが、越冬隊の大変さであり、醍醐味の1つでもあるのだろう。
◆報告会終了後の会話の中で、澤柿さんは「越冬隊には、研究に打ち込み、情熱を語れるような人が必要」と話された。誰かの熱意に自然と周囲が巻き込まれていくことで、自発的に協力し合えるチームを、南極生活30年の中で見てこられたのだろう(これってまさに地平線的?)。そして澤柿さん自身もきっと、熱く語り、率先して動き、南極越冬生活を楽しむ姿を見せてくれた越冬隊長だったに違いない。これからもずっと開拓者であり続けて欲しい。南極の涼しい風を感じようと思って参加した報告会だったが、澤柿さんが届けてくれた南極の風は激アツだった![新垣亜美]
■準備期間を含めて足かけ3年余にわたって従事していた南極観測隊のほとんどの期間はコロナ禍中で、500日あまりにわたって地の果てに隔絶されていた南極滞在中は当然として、国内準備期間でも、在宅リモートワークか観測準備室に隔離され、社交がまったく停滞してしまった日々だった。この間、地平線報告会も対面での開催はずっと中断していたので、帰国直後の4月に再開された報告会は私にとっても地平線諸氏にとっても、長いトンネルを抜けたあとの久しぶりの再会であった。実際、地平線諸氏との久しぶりの対面は“南極に行っていたから”という意味でのブランク感はまったくなかったし、皆さんから「太りましたね」という反応をいただいたことも、恥ずかしさ以上に親しみと労いが感じられて非常に嬉しかった。
◆越冬隊長職は3月末で解かれたものの、この7月で帰国して4か月が過ぎたというのに、報告書のとりまとめをはじめとして、お世話になった各所への挨拶回りや報告会でのプレゼンなどの残務が、いまだに絶え間なく続いている。これもほぼ無給のボランティア。所属する学会の活動や大学の校務や講義も帰国翌日から始まったため、一年半のブランクを埋めるリハビリをする余裕はまったくなく、南極と大学の二足のわらじをはいた状態のままで否応なしの娑婆への順応を強いられることとなった。
◆そんな最中に江本さんから7月の報告者としての依頼がやってきた。南極残務と学務が山積みで、正直なところ地平線での報告の準備が間に合うかどうかまったくの挑戦ではあったのだけれど、隊長としての立場で通り一遍の「きれいな成果報告」を繰り返している日常に飽き始めていたというのと、これまでにゼミ生を連れて報告会に参加させてもらってきたことへのお礼をどこかでしなければと常々考えていたこと、そして、これまでの報告者に比べれば地平線らしいことはなにもできていない自分のバックグラウンドを知ってもらうための機会にもできるのではないかという期待もあって、躊躇することなく引き受けることにした。
◆報告会開催アナウンスにむけた事前インタビューで長野亮之介さんと話しているうちに、長野さんの巧みな話の聞き出し術につられてあれこれしゃべっていたらあっという間に2時間が過ぎていた。そうか! 今しゃべったこれをそのまま話せば地平線らしい私の報告になるんじゃないか、と気づかされた。あとは一気に材料をあつめて流れを調整して……といい気になって作業していたら、肝心の校務資料の作成や授業準備のほうが間に合わなくなって右往左往したり、と、なかなかスリリングな直前数日間となってしまった。
◆こうしてあたふたと準備した内容を報告会当日に見直していたら、とても時間内には収まりそうにない分量に膨れていたことにハタと気づき、出だしから1.5倍速の弾丸トークになってしまった。聴衆の皆さんには大変申し訳ないことをしてしまったと反省している。地平線報告会がくだけた場所だというつもりはけっしてないのだけれど、地平線でなければ話しても意味のない(くみ取ってもらえない)話というのはやっぱりあって、今回はその部分をおもいっきり放出させてもらえてすっきりできた。二次会・三次会での四方山裏話の部でも、(他の講演会や報告会には期待すべくもない)地平線ならではのツボを押さえた感受性豊かな交流ができて、あらためて自分の居場所を再確認した次第。猛暑の中足を運んでいただいた皆様に心より感謝いたします。[澤柿教伸]
■澤柿さんの報告会の中で突然「国際山岳年」のポスターと「山の日」についての私の論考の表紙がうつし出された。2002年は(日韓W杯開催の陰で目立たなかったが)「国際山岳年」であった。「We are all mountain people(我ら皆山の民)」というスローガンのもとに各国で山岳をテーマに委員会ができ、日本でも国際山岳年日本委員会が組織された。田部井淳子さんを委員長に、江本が事務局長となって「山岳」をテーマに各地でさまざまな催しが実行された。
◆その中で私は「この機会に日本に山の日を」と訴えた。朝日新聞のコラムに「日本に山の日を」(2002年5月13日付け『私の視点』)と書かせてもらい、7月には静岡県富士宮市での「富士エコフォーラム」で小学生たちに「日本に山の日を」と読み上げてもらった。当時、すぐには具体的な動きとはならなかったが、やがて政治家たちが動き出し、2011年の3.11東日本大震災後、具体化した。
◆2014年5月23日、毎年8月11日を祝日「山の日」とする祝日法改正案が賛成多数で可決した。澤柿さんがスクリーンで見せたのは当時私が日本山岳文化学会の会報に書いた「祝日としての「山の日」は何を意味するのか。山の世界は2年後の実施に向けて何をするのか」という長いタイトルの論考の表紙である。ことし8月11日の「山の日」は沖縄を主会場に実行される。「山の日」について考えていることは、別の機会に。[江本嘉伸]
■私はこれまで、「大学教授」としての澤柿先生しか知りませんでした。特に文系学生である私からすると、専門的な用語を使い世界中を飛び回って研究している先生は、まるで別世界の人のように見えていました。しかし、今回の報告会では、私の知らない先生の姿がたくさん詰め込まれていました。浄土真宗のお寺の長男として生まれ、高校生で南極に憧れを抱きながらも、大学では勉強より登山に熱中……。遠い存在だと思っていた先生が、私と同じように子どもだった時期も、新しい出会いに感動した瞬間もあったことに気づかされました。報告会が終わったときは、失礼ながら「先生も私と同じ人間だったんだ」と思い、すこし嬉しくなってしまいました。
◆大学1年生のころに受講していた授業で、澤柿先生は「情熱をもって夢を育ててほしい」というお話をしてくれたことがあります。いろいろな出会いから生まれた目標に向かって、一所懸命やることが大切だと、私たちに伝えてくれました。このときのお話を思い出し、ひたむきに努力を積み重ねてきたからこそ、今の澤柿先生があるのかなと思いました。
◆私は、社会学部の学生で、澤柿先生が専門としている内容はなかなか理解ができません。しかし、先生はいつも「どうしたら文系の学生にも伝わるか」「社会で生き抜く人間に育てられるか」を考えて講義をしてくれています。私たち学生は、それをしっかり受け止め、学びを深めていくことで応えられるはずです。まずは出会いを大切に、そしてたくさん学び、澤柿先生のように世界で活躍する人になりたいと思います。
◆地平線報告会を聞くのは4度目となり、さらに今回は初めて2次会にも参加させていただきました。人生の先輩方からお話を聞くひとときは、私にとって新鮮で、面白くて、勉強になることがたくさんあります。自分の世界がどんどん広がり、まるで冒険をしているような気持ちです。この経験を自分の力に変え、自ら冒険に出かけられる強さを身につけていきたいと思います。これからの地平線会議でどんな発見ができるのか楽しみです。[澤柿ゼミ3年 杉田友華]
■いつか参加したいと思っていた地平線報告会に今年からようやく参加することができた。4月の報告会、前席の方のジャケットには「JARE」のロゴとよくみると「SAWAGAKI」の刺繍が……。声をかけると案の定、部活と大学院の大先輩である澤柿さんであった。直接お会いするのは初めてであったが落ち着いたしゃべりぶりからはなんとなく懐の深さとルーム(山岳部の自称)を出た人間の波長を感じられた。3回目の今月はその澤柿さんの報告であった。
◆多摩ニュータウンで家と団地に囲まれて育った自分はただ広大な大地にあこがれて北大に、山岳部に入った。山岳部では夏、冬、春の長期休暇を利用して1〜2週間程度のメイン山行を行う。夏は沢靴、冬は骨董品化しつつある旧式ジルブレッタスキーを履き、沢から沢、山から山を繋ぎながら繰り広げる水平的、旅行的な山行にすぐに取りつかれた。休日は山、平日は山行記録や書籍漁り。北大の山岳館はあらゆる登山者、探検家や冒険家の書物の宝庫だ。夜になればストイックにアルコール摂取。1留、大学院進学を経て計7年の札幌生活はあっという間に過ぎ去った。
◆就職して断腸の思いで北海道を離れたところで折よく地平線報告会が再開されるとのニュースが。成し遂げたことよりも彼、彼女らが考えたことや行動原理の方に興味を惹かれており、その声を直接聴ける機会に飛びついた。今回は澤柿さんの南極越冬隊の報告会。「開拓者たれ」のモットーのもとに生きる澤柿さんのトークに引き込まれた。記念品のエピソードは隊長としていかに素晴らしかったかを象徴するものに感じられた。
◆率直な感想を言うと、「うらやましい、自分も行きたい」に尽きる。大学院ではコロナ禍、戦争もあってロシア極東での海外調査は叶わず、後ろ髪をひかれながら就職した。また、北大山岳部式山行に取りつかれた自分にとって南極はまさに水平的旅行の極致というべき場所であった。チャンスがないわけではない。就職先の国土地理院からは夏隊に職員1名が参加し測量業務に従事している。いかにも後追いペンギン的な思考だけど、せっかくファーストペンギンが切り開いた道を利用しない手はあるまい。[竹内祥太 国土地理院研修中]
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