■コロナ禍にお住まいを鎌倉から日光の森の中に移されたチベット学者の貞兼綾子さん。今年2月8日から3月7日にかけて4年半ぶりにネパール・ランタン村を訪れた。2015年4月25日にネパール中部を襲ったM7.8のネパールゴルカ地震。ランタン谷は壊滅的な被害を受け人口の4分の1ほどが還らぬ人となった。貞兼さんが家族と称す大切な人たちが暮らす美しい村が消えた。いてもたってもいられなかった貞兼さんは地震の1か月後にはランタン谷に向かい、村の若者たちと共に復興に尽くしてきた。しかしその活動はコロナのために停滞してしまっていたのだ。
◆会場に入ると江本さんはじめ丸山さん、長野画伯までがゾモTを着ている。江本さんのピンク色のゾモTの似合うこと! 貞兼さんは開口一番「私も着てくればよかった!」。今回のランタン行きは地震直後からコロナ前最後に行った2018年5月までの牧畜やキャンチェン・ゴンパや村の復興サポートの検証のためでもある。牧畜が時代の流れとともに観光業に押されてきていたところに地震でゾモ(牛とヤクのハイブリッド種の家畜。乳量が多い)を失ってしまった。生活の糧を失い途方にくれるゴタルー(放牧専従者)たちのために貞兼さんは2016年にゾモ・ファンドを作り、頭数を増やして新しいチーズの作り方を教え、酪農組合を立ち上げた。ランタン村ではゾモの頭数も増えミルクも増産したが定期的なフォローが困難でクオリティを保つことやチーズ販売のシステムを作るまでには至っていない。
◆当時、江本さんの発案でTシャツを作って応援しよう!と地平線有志たちで「ゾモ普及協会」を始動。報告会のたびに皆が購入してくれてゾモを増やすことに多少の貢献はできた。南極越冬隊でもゾモTを着用してくれて、「ハナちゃん」という可愛いゾモがゴタルーのもとに届いたことが思いだされる。今日はメンバーがゾモTを着ての応援♪と私自身も嬉しくなった。
◆2019年〜2022年にかけては再訪できず、観光業で成り立っていた村人は生き延びることができるのだろうかと心配していたが、彼らはなんと!放棄していた畑を耕しだして大麦・馬鈴薯・蕎麦を作っていた! ランタンよりずっと低い場所の共同体から種子や作物を分けてもらい、バターや乾燥チーズと交換しながら新しい関係をつくっていた。貞兼さんはコロナ禍での暮らしを悲観的に考えていたのだが、彼らは明るく、痩せてもおらず、「心配して損しちゃった!」と嬉しそうに語った。
◆地震以前のランタン谷の様子と地震直後の状況をまとめた映像が流された(2016年/ランタンプラン展示用/映像作家の小川真利枝さん編集)。雪を纏ったランタンリルン。石造りの家々。角を曲がる少年。「この少年が今は30代の立派なお坊さんになっています」と貞兼さん。雨乞いの祈りの声。キャンチェンゴンパ。祭りの歌声が響く中、放生された聖なるヤクがゆっくりと山へ帰っていった。一転して画面が変わると一面が土色になってしまった。ランタンリ登攀中の大阪市立大が撮影した地震4日後の映像だ。美しかった村は氷河と土砂に覆われて創世記の地球のようになってしまった。
◆あれから8年を経て今年2月のチベット正月の準備や家族の写真。「息子のテンバと奥さんです。奥さんは頭ひとつ背が高いんです。二人の子供がいます。右がソナムリンチェン19歳とミンダパルモ17歳です。テンバの母のリクチーには内孫が11人いるんです。だからお年玉を11人分用意しました。一人2000ルピーずつ」。貞兼さんは1975年からランタンに通ううち、テンバの両親の家に寄宿するようになった。4人の姉のうち3人亡くなった後、テンバが生まれ、弟、妹が生まれた。しかし今はテンバ以外皆亡くなってしまった。当時子どもたちからチチ(母方の叔母)と呼ばれていた。今、テンバの子どもたちからはイビ(お婆ちゃん)と呼ばれている。貞兼さんは地震で亡くなったリクチーに代わって一家を見守っている。一家の母のような存在なのだ。
◆「こちらは1975年からの古いボーイフレンド」と僧侶3兄弟と貞兼さんのスナップ。先祖はブータン。宗派はドゥクパカギュ。長男は台湾で仏画を描きその財産でスワヤンブーの近くに寺を建立。その寺は今は三男が守っている。イギリス在住の次男は里帰り中で4人揃っての何十年ぶりかの再会だった。知らない人はなぜ何回もあのような遠い所に行くのかと思うだろうけれどもやめられないの。故郷へ行くのをやめなさいとは言えないでしょう。貞兼さんはこうやって懐かしい人たちとの親交を続けてきた。
◆若者たちの教育程度は高く10学年卒業時の統一資格試験の結果、多数がサイエンス系に進み専門学科を学ぶために海外に出ていく者も多い。テンバの娘は医者を目指している。貞兼さんは笑顔で並ぶ写真の少女たちを「みんな私の孫筋です」と紹介し、孫にもらった「鬼滅の刃」や「NARUTO」のキーホルダーを誇らしげに掲げた。日本のアニメは大人気のようだ。
◆建設中のセンターハウス(酪農組合作業所)からは村が一望できる。村の斜め上の山肌から氷河などが落ちてきたことが写真でもわかる。ランタンプランの主要メンバーでもある澤柿教伸さんが「建物が危ない方に増えていますね」と述べられていたが、ハザードマップで安全だろうと思われるのは以前に村があった最終ライン。
◆地震後すぐに日本の自然科学者(防災・雪氷・氷河)が現地に赴きハザードマップを作成して、国立公園もデブリの所に立ち入り禁止の壁を作ってはいるのだが、少しぐらいの誤差は良いだろうとどんどん広げてしまう。村では青いトタン屋根(韓国などの支援物資であろう)の建物が目立つ。あるジャーナリストが村を見て「なんと醜い。クンブは綺麗です」と言ったとき、貞兼さんは自分が責められているように感じたそうだ。しかし、地震後すぐに組織された再建委員会の若者に訊いてみると「美しいと思う」だった。美意識というものは押し付けることができない。他の地域をたくさん見て彼ら自身が「美しい街」というものがどういったものなのか気づき修正していくしかない。村には銀行(以前はホテルだった建物)もできていた。ランタンリルンの氷河を利用した水力発電による電力も得てあちこちで家が建設中だ。
◆ランタン村の人々にとって心の拠り所であるキャンチェン・ゴンパの再建は何ものにも代え難い。まずゴンパなのだ。老若男女村人総出で重い建材を運び、白土だらけになって塗装をした。そして2018年4月25日に落慶法要が執り行われ、村人たちの切なる願いは叶った。中心の4本の柱は以前の寺のものが使われ、ランタンリルンの神様の壁画もみごとに復元されている。堂守が決められた日に灯明をあげるが銅の壺は税金として収められた灯明用のバターでいっぱいに満たされていた。貞兼さんもほっと胸をなでおろした様子だ。
◆3月2日に皆でこの5年間のこと、これからのことを話しあった。参加者は30〜40代6名、70代女性1名の計7名。この5年の間に3名と配偶者1名が亡くなり6名が廃業した。しかし家畜を村の同業者に譲ったことにより頭数が減ることはなかったことが救いだ。良質のチーズを作ること、工場への結束交渉、ハーブや軽食などをトレッカーに提供する施設(建設途中のセンターハウスや貯蔵庫)の活用など2年間の試行後、酪農組合の方針決定をする。これらの活動のためランタンプランは今年度50万ルピー(円安のため約55万円)を支援したそうだ。ここで亡くなった3名のゴタルーが紹介された。貞兼さんなりの哀悼だ。7名のゴタルーとお土産(お茶と砂糖とゾモT)の写真。テンバの叔母以外は皆、若く頼もしい。7名しかいない彼らがいなくなったらランタンの酪農文化は失われてしまう。何とかしてこの火だけは灯し続けてほしい。それにしてもゾモTはやはり派手な色が好まれるようだ。私たち日本人との好みの違いに思わず笑ってしまう!
◆貞兼さんは以前からランタンの仏教史を書いてくれと村人に頼まれていて、断片的なチベットの本を読んではまとめていた。その中で必要なところを翻訳し注釈をつけ、新しい資料が見つかれば改良していて「ランタン小文化史」といったものを作ってはどうかとテンバに相談していた。一方Facebookで美しい英語のコメントを書くランタンのギャルポ・ツェリンという青年を発見。彼は非常に優秀で7〜8歳で寺に預けられ、あと2〜3年の勉強でゲシェ(博士)という地位になれたが地震で両親が亡くなり弟が残されたので村に戻ってきた。
◆チベット語・サンスクリット語・英語が堪能なギャルポとテンバと一緒にこのプロジェクトを進めている。こうやって文化を残したいという青年と出会えたことが今回の帰郷での大きな収穫となっている。地元の言葉を自由に操り村人を引っ張っていく貞兼さんは人種や性別や年代を超えて「自分ごととして」理解し合うということの大切さを教えてくれる。「世界一美しい村」を再び甦らすために貞兼さんのランタン村とファミリーへのアクションはつづくのだろう。
◆最後に大きなネパール料理の写真が画面いっぱいに映された。「ランタンから降りたトゥリスリという町にあるドライバーが必ず立ち寄るネパール料理の人気食堂です。マスの丸揚げも有名です。もう下に降りると暑くって!」とランタン村を懐かしむようにつぶやいた。[田中明美]
■5月26日、新宿スポーツセンターでの地平線報告会。いつぶりだろう。5、6年ぶり? スタッフの皆さん(揃ってゾモTシャツ着用!)もそのままだし、前回の報告会以来の知人や遠く仙台から駆けつけてくれた友人にも出会えた。後ろの方まで席が埋まっていてこういう時期なのにと感謝の気持ちでいっぱいだった。
◆何よりランタン谷復興のためにずっとご支援いただいてきた方々に直接ご報告する機会をいただけたことは大変貴重なこと。改めてお礼を言います。最後に「もう一言」の機会をいただいたので、ランタンプランが一番力を注いできたゴタルー(放牧専業者)たちへの支援について、追記します。
◆今回の報告会の最初に述べたように、支援のあり方への反省がまずありました。専門家のご協力をいただきながらそれを十分に活かすことができなかったこと。例えばハザードマップの提示や酪農組合の立ち上げ。後者に関しては新しい乳製品の導入のために日本からわざわざ指導に来ていただいた。
◆ランタン谷滞在中は必要に応じてゴタルー会議を持ってきた。今回も下山前にランタン村の宿に集合。ゴタルーたちはまだ冬の放牧地にいて、早朝から村まで上がってきた。その数は19人から7人に減っていたけれど、泣きそうになるくらい嬉しい再会だった。会議の趣旨は、震災直後からコロナ禍の8年間を振り返り、私の前回の下山(2018年6月)から現在までの報告を聞くことであった。
◆翌日にゴタルー会議をひかえ、震災前まで私の右腕として働いてくれたニマ(43歳)に、「チチのこれまでのやり方は何が問題だったと思う?」と問うてみた。これに対して、彼は明瞭に答えた。「チチがやったことは、ゾモファンド以外はどれも失敗だった。これからは失敗を繰り返さないように慎重にすすめるべきです」と。ご馳走になっていたモーモー(餃子)も喉を通らず、心を鎮めてカトマンドゥのテンバに心の動揺を伝えた。彼は「上手くいったものもそうでないものもあったかもしれないが、それほど気にすることはないよ」と言う。気にしていることを「その通りだ!」とズバリ言われて、普通でいられるはずがないではないか。
◆私は翌日のゴタルー会議で自分たちが新しく導入した乳製品がいかに良質で商品価値を生むかを力説し、自分ができるものを作り続けるよう強く要望した。ニマも組合長のセンノルブも一緒になって、彼らを説得していた。ゴタルーがグループあるいは家内で作れる乳製品は、伝統的なバターやチュルビのほかにカチョカバロチーズやハードタイプチーズなどがある。組合長は軌道に乗せるまであと2年間は待ってくれと言った。[貞兼綾子 2023.06.11]
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